その子の影になったのは８年前の冬のこと。　
彼女がはじめて命に<触|ふ>れた、<厳|しず>かな朝の出来事だ。
　彼女の家は山の<中腹|ちゅうふく>にあった。
　まわりは何もない荒れ地。
　おとなりに住む<幼馴染|おさななじ>みなんて望むべくもなく、学校に通うのも、遊びに出かけるのも不便なコトこの上ない。
　けれど水も星も綺麗な、ちょっとの不満と大きな安らぎのある、思い出の家だった。
　もっとも、それは夏だけの話。
　山中の冬は寒すぎて、朝はいつも辛かった。
　お父さんは自動車で駅まで送ってくれるけれど、
　車の窓はびっしり<霜|しも>だらけで、出かける何十分か前にエンジンをかけないと走りだせない。
「　　、キーを回してきてくれるかい？」
　お父さんが食後のコーヒーを楽しんでいる時、外に出て車のエンジンをかけるのが彼女の日課だった。
　玄関を出て、白い息をはきながら庭を横ぎって、年代物のセダンのドアを開ける。
　いつも通りにキーを差し込んでぐるりと回して、
　ぶるるるる、とエンジンを振動させる。
　そんな、今まで何十回とくり返してきた、小さな彼女の誇らしげな仕事が終わったとき。
『■■■■■―――』
　<甲|カン>高い悲鳴が<響|ひび>く。
　彼女は人間の言葉でもないのに、痛いと泣き叫ぶような、小さな小さな<音|こえ>を聞いた。
　数分後。
お父さんが車のボンネットを開けると、そこにはひとつの命があった。
　ギチギチしたベルトとか、
　怪物みたいなエンジンが、
　びっちりと押しこまれたハコの中。
　母親であろう猫と、二匹の子猫の姿は、あまりにも<場違|ばちが>いだった。
　三匹の猫はエンジンルームの中で、寄りそうように丸まっていた。
　母親の猫は首から上がない。
　子猫のうち一匹は、<機械|ベルト>に巻きこまれた部分が多すぎて動きがない。きっと即死だったろう。
　残った子猫は顔の半分を真っ赤にして、雨に濡れたやせ犬みたいに、ヒューヒューと息をしていた。
　子猫はその<亡骸|なきがら>―――いや、半ば肉片となった親猫に寄りそいながら、おそらくはあと数分たらずの命で、<懸命|けんめい>に懸命に、母親の胸にすがっていた。
「かわいそうに―――」
　<悼|いた>むようなお父さんの声。
　昨夜の冷えこみは一段と厳しかった。
　お父さんが車で帰ってきた後、エンジンの暖気に誘われて猫たちはボンネットに忍びこんだのだ。
　彼らはエンジンルームで夜を明かし、
　翌朝、ベルトの回転に巻きこまれて目を覚ました。
　気密性の<乏|とぼ>しい80年代の車には、それなりにあった話らしい。
「―――いいんだ。　　が悪いんじゃないんだよ」
　お父さんの声が遠い。
　灰色にささくれだった子猫の毛並み。
　母親と兄弟の血と、半身をけずられた自らの血で、
　　　　―――ああ、丸い頭蓋骨が見えている―――
　まだらに染まった小さな命。
　子猫はもう目も見えないのか、<震|ふる>えながら、一心に死んだ母親の胸にくるまっている。
「　　……？　待ちなさい、　　―――！」
　彼女は子猫を抱き上げ、
　山奥に別居している祖父の元へ走った。
　後悔で動揺していたのか、
　悲しくて混乱していたのか、正直、今でも分からない。
　彼女はこみあげる涙をせいいっぱい我慢しながら、祖父の工房に飛びこんだ。
　祖父は何でもできる魔法使いだった。
　彼女自身「魔法」なんて見たコトもないし、おとぎ話の空想だと分かっていたけれど、そんな常識とは違う基準で、祖父はそういう生き物なんだと知っていた。
　だから。
　祖父ならきっと、助けてくれると思ったのだ。
『その子猫の運命を変えろと言う』
　洞窟に<棲|す>む魔法使いは、関心のない声で言った。
　助けたい、と彼女は<懇願|こんがん>する。
　魔法使いはおやすいご用だとも、
　それは世界を<換|か>える<大事|だいじ>だとも言わず、
　まるで機械みたいにあっさりと、彼女の身勝手な願いを叶えてやった。
『…………あ』
　気が付くと彼女の手には小さな<亡骸|なきがら>。
　冷えきった毛なみ。
　とうに命の温度は消えていた。
　流すまいと<律|りっ>していた涙が、瞳からこぼれている。
　胸には灰色の空みたいに果てのない、大きすぎる後悔の念。
『徒労だったな。結局、元に戻すとは』
　何が起こったのか、彼女には把握できない。
　この十分間の空白に何を経験して、
　誰と出会い、
　何を知ったのかも、無責任にも元通り。
　確かなコトは、死に行く命は戻らないという事と、
　　　　「あの―――そこにだれか、いるの？」
　その日。
　私という、彼女が生まれた<過|あやま>ちだけ。
　　　　　　………ああ。
　　　　　　何にせよ、
　　　　　　全てが<懐|なつ>かしく、待ち遠しい。
　それは<現実|イマ>から８年前のおとぎ話。
　どんな魔法を使っても取り戻せない、いちばん初めに、彼女たちの出会った日。
　<傲慢|ごうまん>で<貪欲|どんよく>で、壊すことしか能のない、
　私はきっと狼だ。
　かえりみなくてふり向かなくて、
　気づかないままむねをはり、<独|ひと>りになるならご愁傷さま。
　いずれあっさり、
　赤ずきんに<退治|ころ>されるのが定めでしょう―――
　それは、静かな朝だった。
　ベッドから<覗|のぞ>く空模様が絵の具を塗りたくったような灰色でも、
　温度計は六度前後と十一月にしては容赦のない<数値|きろく>をたたきだしていても、
　朝食<時|どき>はとっくに過ぎていて、情けないコトに空腹なんかで目を覚ましたとしても。
　こうして<緩慢|かんまん>に眠っていられるだけで、彼女にとって、今日の朝は幸福なものだった。
　時計はとうに朝の八時を回っている。
　平日なら絶望的な時間、どうあがいても遅刻確定な状態だが、今日は創立記念日につき休校だ。
　おかげで久しぶりに、のんびりと朝を過ごす事ができる。
　くり返すが、窓の外は<陰鬱|いんうつ>とした鋼色で、朝というより夕方を思わせる。
　お世辞にも気持ちいい朝とは言えない。
　が、つい三時間前まで夜通し起きていた彼女にとって、外の天気なんてどうでもいい事だった。
　いまは何より眠気がすべて。
　ベッドで<微睡|まどろ>めるなら気持ちのいい朝なわけで、外の事情なんて当局は一切関知いたしません―――と、窓の向こうをシャットアウト。
　カーテンを閉める。
　再び<瞼|まぶた>を閉じて、すみやかに眠りに戻ろうと努力する。
“……せめてあと二時間ぐらいは<凡庸|ぼんよう>な夢を見ていられますように。”
　眠気はじゅうぶん残っていて、すぐに幸せはやってきた。
　意識は沈むように落ちていく。
　しかし。
　彼女のささやかな願いは、容赦なく却下された。
「――――――」
　小さいクセにカン高く耳に残る。
　間違いなく電話の音だ。
　習慣のなせる業だろう。閉じたばかりの瞼は、彼女の意思とは正反対にぱちりと開く。
“こんな日にかぎって……”
　受話器は一階のロビーに設置されている。
　この部屋からでは廊下十メートル分と、階段一つ分離れた先だ。
　寝不足の彼女にとって、その距離は遥かと<彼方|かなた>の中間ぐらい遠かった。
　……電話の音は<辛抱|しんぼう>強く鳴り響いている。
　無視してしまえばいずれ止むにしても、それができるほど、彼女は自分に優しくはなかった。
「……<有珠|ありす>、でないの？」
　未練がましく同居人の活躍に期待してみたものの、すぐに<諦|あきら>めた。
　考えてみれば休日なのは自分の<学校|ところ>だけで、同居人は丘の上の学院のお嬢様だ。とっくに学校に行っている。
　電話の根気強さは並ではない。
　そのあまりのしつこさに、気持ち、ボリュームがランクアップして聞こえる。
「ああもう、せっかくの安眠を……！」
　仕方なくベッドから出て、軽く上着を羽織って、彼女は部屋を後にする。
「うわ、さむ―――」
　手を合わせて、かじかむ指を温める。
　この屋敷は暖房設備が<乏|とぼ>しい。
　なので、冬の気温は恐るべき難敵だ。
　<曇|くも>りに曇った朝なら尚更で、温度計を見なくても真冬なみの寒さと分かる。
　この屋敷はちょっとした山中にあり、周りはそれなりに深い森なので、街より冬の到来が早いのだ。
　長い廊下に、無機質なコール音が反響していく。
　館内の調度品はそれなりに手入れされているものの、生活臭は感じられない。
　豪華さより<淋|さび>しさが強く出ている。
　薄暗い朝の様子もあいまって幽霊屋敷に見えなくもない。
「……ま、幽霊屋敷そのものだけど。
　だいたいふたりで住むには広すぎるのよ、この家は」
　コール数はもう三十を超えていた。
　相手はよっぽど暇なのか、それとも、この家の事情が分かっているのか。
　彼女は後者だと直感した。
　見上げた窓は憂鬱な色。
　自重しない電話の音を捕まえるように歩を速める。
　たぶん、捕まえた瞬間に、幸せな朝は<泡|あわ>と消えると予感しながら。
　ともあれ、これが一連の事件の最初の話。
　浪漫が足りないのは、どうか大目に見てほしい。
　統計というか、通説というか。
　物事のはじまりは、大抵こんな風に平凡で、穏やかに回りだすものなのだから―――　　
　彼女が正門についた頃、雨脚は弱くなっていた。
　遠くの空には日射しが見え隠れしている。
　この分なら、雨は昼過ぎにあがっているかもしれない。
「……といっても、私には関係のない話だけど」
　空模様とは裏腹に、彼女の運勢はボロボロだ。
　徹夜明けの朝に起こされたうえ、冬の雨に見舞われた。
　この分では、用件とやらもロクな事じゃない―――
　そんな予感に頭痛を覚えながら、彼女は正門を抜けて校舎に向かう。
　途中、すれ違った生徒はひとりもいない。
　部活中の生徒も見あたらない。
　職員用の玄関の受付には“休憩中”の立て看板。
　学校は生徒に平等な休日を与えていた。
　もちろん、こんな時間に呼び出された彼女を除いて。
　そんな事実がますます感情を<逆撫|さかな>でする。
　彼女が職員室の扉を開けると、見慣れた教師が机に向かっていた。
　地味だがパリッとしたシャツと背広、
　穏やかではあるが油断ならない細眼鏡。
　似合わない煙草をふかしている、二十代中盤の優男。
　どうにも、まだ彼女に気付いていない様子だ。
「<山城|やましろ>先生」
　勢いよく扉を閉める。
　その音にさして驚いた様子もなく、山城と呼ばれた教師は顔を上げた。
「やあ、おはよう<蒼崎|あおざき>くん。用件は聞いているかな？」
「はい。一時間前に自宅で。事前に何の相談もなく」
　この高校の卒業生である<山城|かれ>は、生徒たちとそう歳が離れていない。
　そのせいか他の教師より生徒に<慕|した>われている。
　話題も<豊富|ほうふ>で口調も<穏和|おんわ>。
　教師というより頼れる先輩といった人物だが、あいにく、彼女はそう慕ってもいなかった。
　教師は<冷徹|れいてつ>であるべきである。
　生徒にとっては愛憎いり交じった険しい壁であり、間違っても<憩|いこ>いの場でニコニコ笑っているお兄さん……であってはならない、というのが彼女の持論だ。
　山城教諭は彼女が良しとする教師像とは正反対の人物で、自然、彼への口調は堅く、愛想のないものになる。
　……もっとも。愛想なんて微笑ましいもの、彼女には初めから装備されてはいないのだが。
「はあ。今日もご機嫌ななめみたいだね、君は」
「それは先生の気のせいです。
　今日だけ特別、という話ではありませんから」
　きっぱりと返答しつつも、彼女自身、自分がひどい顔をしているのは承知していた。
　寝起きの機嫌の悪さと寝不足の疲れがあいまって、<仇|かたき>を見るような目つきになっているだろう。
「そう。ならいいんだけどね、彼にはそう辛く当たらないでくれよ。僕らじゃ正直、どう扱っていいか分からないところもあるし」
「先生。その件ですけど、私、まだ詳しい話を聞かされていないのですが」
　刺すような彼女の視線と声に、山城教諭はああ、と応えて煙草の火をもみ消した。
「んー、電話じゃなんて聞いたの？」
「転入生の紹介をする、とだけです。
　理由も<脈絡|みゃくらく>も無い説明でした」
　簡潔な答えに、山城は感心して眉を上げた。
　彼女が怒っているのは見てとれたが、その理由が休日に呼び出された件ではなく、電話の内容が<要領|ようりょう>を得なかったからだとは。
　いやはや実に<厳格|げんかく>だ、と山城教諭は苦笑した。
「先生。これが笑い話なら、そろそろ帰っていいでしょうか？」
「いや、ごめんごめん、謝るよ。冗談じゃなくて真面目な話なんだ。ちょっと、君の手を借りたくてね」
「本当に、転入生の問題で？」
「うん、訳ありというか、難しいというか。
　彼……<草十郎|そうじゅうろう>くんというんだけど、ちょっと、色々とズレていてね。僕らが案内してあげるより、同世代の君の方が適任だと思ったんだ」
「…………」
　彼女は不審げに表情を<曇|くも>らせた。
　教師の業務を生徒に押しつけるのも<怠慢|たいまん>だが、それ以上にその転入生が『ズレている』とはどういう事だろう？
　素行に問題がある、扱いが難しい、というのなら想像しやすい。
しかし、ズレている、というのは何なのか。
『ズレてるなんて、そう使わない表現だけど……』
　彼女は不審げに思案するも、すぐに頭を切りかえた。
　あれこれ悩んでも仕方がない。
　なんだかこの会話自体がズレているようで居心地が悪いし、情報が少なすぎるし、そもそも、断るつもりなら今頃ベッドの上でうろんな貝の気分になっている。
「ひとつ、質問があります」
「なに？　あ、学年は君と同じ二年生だよ。性格は落ち着きがあって、人の話をよく聞くタイプ。裏を返せば覇気がないともとれるけど、それならそれで付き合いやすいだろ？
　蒼崎くんとはクラスは違うけど、きっと仲良くな―――」
「そういった事は本人から直接<訊|き>きますし、<量|はか>ります。
　そうではなく、なぜ私なんでしょうか」
　<刺々|とげとげ>しい<質|こ><問|え>は、同時に転入生の案内を承諾していた。
　不満ではあるが、とりあえず自分の感情は置いて、与えられた役目に取り組んでみる。
　<極|きわ>めて自己中心的な気質でありながら、<努|つと>めて公正でいようとするのが彼女の特長だ。
　やや<倒錯|とうさく>しているが、その芯の強さを山城などは頼もしく思ってしまう。
　……まあ。
　時折、その強さが予想の<範疇|はんちゅう>を超える事もあるが、それはそれ、天災と思って<諦|あきら>めるのが、ここ一年で山城教諭が学んだ彼女への対応策である。
「もう一度だけ訊きます、山城先生。
　それで、なぜ私なんでしょうか？」
　有無を言わせぬ<詰問|きつもん>に、山城教諭はやや押されながらも返答する。
「うん、それはね。
　別に、蒼崎くんが先生方に<敬遠|けいえん>されているのと同じぐらい信頼されていて、学校のためなら教師も生徒も一緒くたに斬って捨てる鉄の生徒会長、だからじゃないよ」
「……それ以外に、こんな呼びつけを受ける理由はないと思いますけど」
　信用ならない、と彼女は半眼で生徒会顧問を見据えた。
　十七才の少女にあるまじき迫力と、
　十七才の少女らしい愛らしさ。
　奇跡的なバランスで両立する眼差しを、山城教諭は見惚れるように、穏やかな笑顔で受けとめる。
「いや、責務だけでいいなら僕がやってるさ。この人選に関しちゃ教師や生徒会長といった役職も関係ないよ。
　なんていうか、こんな頼みを<損得|そんとく>抜きで聞いてくれるのは君だけだと思ってね。適任ですから、と強く推薦したわけ」
　要は、“なんだかんだ言って底抜けに人がいいでしょ君”と言われているようなものだ。
「―――山城先生」
「うわ怖っ。もう、<睨|にら>まない睨まない。言ったろ、僕にはともかく彼には笑顔でって。
　とまあ、納得してくれたなら、すぐに移動しよう。もうずいぶん待たせてしまっているからね。
　それと、雨の中ご苦労さま。帰りはもちろん車で送るよ」
　スマートに立ち上がる山城教諭。
　それにけっこうです、とだけ返して、彼女は職員室を後にした。
　待ち続けること一時間。
　いつのまにか、空模様は小雨になっていた。
　彼はぼんやりと、雨だれの音を聴いている。
　長方形の机が事務的に置かれただけの部屋。
　人影は一つ。彼の他には誰もいない。
　この部屋に通され、座って待っているように言われてから、もうずいぶんと時間が経っている。
　まっとうな学生なら不満や不安をクチにしてもいい頃だろうに、少年はそれこそ畑のカカシのように、じっと言いつけを守っていた。
　体の<芯|しん>にまで届く寒さ。
　十一月の終わり、冬を迎え始めた午前の気温である。
　室温は外より幾らかましな程度。
　ストーブをつけていいから、という教師の声を聞き逃したのか、このタイプのストーブはまだ見た事がなかったのか、暖房は入っていない。
　彼は冷たくなってきた指先に軽く息をあてながら、ぼんやりと周囲を観察する。
　この殺風景な部屋は会議室と言うらしい。
　在校生から見れば<仰々|ぎょうぎょう>しい会議室だが、彼から見れば飾り気のない、広いだけの部屋だった。
　生活の匂いがしないため、つい、乾ききった<岩屋|いわや>などを連想してしまう。
　彼はやる事もないので、こんな冷たい場所でどんな話し合いをするのだろう、と真剣に検討してみた。
「…………………………
、むう」
　どう考えても答えはでそうにないので、<雨音|あまおと>に意識を戻す。
　雨の空は、山のものと少しだけ似ている。
　いや、かろうじて原形を留めている。
　匂いも音も<硬|かた>くなっているが、根底は同じモノだ。
　こんな異界にあっても山と共通する物がある―――
　そんな<些細|ささい>な事がしんみりと嬉しい。
　雨に濡れた町は好きだ。
　よく晴れた晴天の方が心地よいのは当然だが、そういう気持ち良さとは別の視点で、彼は雨空を好いている。
　雨に<煙|けぶ>った町並みは少しだけ土の匂いが増して、未練がましくも故郷を<想|おも>ってしまう。
　そんな時だけ、都会にやってきた不安も少しは薄れていく気がするからだ。
「――――――」
　……と、すぐに<落胆|らくたん>の息がこぼれた。
　まったく情けない。
引っ越して二週間も経つのに、気を抜くと故郷を<偲|しの>ぶ未練がましさに肩を落とす。
　これではせっかくの新生活に申し訳がないではないか、と彼はひとり気合いを入れ直して、行儀良く待ち続けることにした。
　ぼんやりと熱心に、雨の音に意識を向ける。
　彼にとって、この程度の待ちぼうけは苦でもないらしい。
　痺れるような寒さも、一時間の放置も、深呼吸と一緒にあっさり飲み下す平常心。
　岩の上にも三年とか、耐え続けた<赤穂浪士|あこうろうし>とか。
　長所かどうかはさておいて、呆れるほどの辛抱強さ。
　それが現時点における、この少年の特長だった。
　一方、彼女はいたくご<立腹|りっぷく>だった。
　職員室から会議室に向かうまでの間、これから会う人物のプロフィールを聞いたからだ。
　なんでも、その人物は生まれてから今の今まで、電気も<通|かよ>っていない山奥で暮らしていたらしい。
　電気がないという事は、現在の文明社会の半分以上を知らない事になる。
『なんて絶望的な断絶、戦後どころか戦前の話じゃない。
　ロビンソンにも程がある……！』
　彼女のそんな<憤|いきどお>りもやむをえまい。
　なんでも、その山奥の村は長いこと集落として孤立していたらしい。
　<麓|ふもと>の村とですら月に一度の郵便で連絡をとるだけなんて、現代日本とは思えない。
　が、しかし。今や高速道路やＪＲ……旧国鉄……といった動脈静脈が張り巡らされた我が国ではあるが、そういった山村は無いと言い切れないのも事実である。
　いま確かなコトは、そんな状況で暮らしてきた人間が何を考えて生きているか想像できない、というコトだけだ。
「電気がないって……村に行き渡っていないだけで、公衆電話ぐらいはあったんですよね？」
「なかったそうだよ。こっちに暮らすようになって、まず驚いたのが電話だそうだし。
　電話って便利ですね、なんて真顔で言われてねぇ。そういえばそうだなあ、と再確認させられたぐらいだよ」
　あはは、と笑う教師を彼女は横目で睨む。
　何が嬉しいのか、山城教諭は田舎の純朴な少年にあてられて<和|なご>んでいるらしい。
「……<駐在|ちゅうざい>もいないって事か……うちも実家は山奥ですから、電気が通っていないのはあり得ないとは言いませんけど。
　―――そいつ、学校<も|・>知らないんですか？」
「うん。どんなものかは知っていたそうだけど、実際来るのは今日が初めてらしい。それで緊張していたのかな、あまり会話も<弾|はず>まなかった。
　うーん、ああいうのも野生児っていうのかな？　狼に育てられた狼少年、みたいな？　いや、探検隊の話だねぇ！」
「…………………」
「ちょっ、怖いなあ蒼崎くん。冗談、冗談だって。そう睨まないでくれ。
　大丈夫、話してみた感じ、おとなしい子だったから！
　なんていうか、言葉の通じない小動物みたいな感じ」
「山城先生。その<喩|たと>え、気休めになってませんから」
　つっけんどんに返しつつ、彼女は電気のない生活とやらをシミュレートしようとし、ただでさえ不機嫌な顔をいっそう刺々しく曇らせた。
　だって、それは彼女の知らない世界だ。
　教師陣が両手を上げて降参したのも頷ける。
　本当は彼女も降参して暖かなベッドに戻りたかったが、<一|いち><文|もん>にもならない自尊心が押しとどめていた。
　出来ると見込まれ、自分も出来ると判断して引き受けた以上、経緯や内容はどうあれ、そう簡単に放り出すワケにはいかないのだ。
　<雨音|あまおと>を背に、冷めきった廊下を歩いていく。
　会議室はもう目前。
　眉間に<皺|しわ>をよせたまま、長い髪を揺らして、彼女はまだ見ぬ異邦人へと向かっていく。
　優雅な足取りのまま、戦場に突撃するかの如く。
「……いや、蒼崎くん？
　君を信頼してる僕だけど、念のため確認しておくよ。なんていうか、優しくね。できれば笑顔とか作れないかな？」
「作り笑いは苦手です。一応、努力しているつもりですが」
「あ。そうなんだ、それは良かった。
　……いやあ、ほんと良かった。蒼崎くんにも苦手なものってあったんだねぇ……」
　山城教諭が肩を落とすのと、<件|くだん>の会議室に到着したのは同時だった。
　山城教諭は“優しく、優しくね”と目配せし、会議室の扉に手をかける。
　そんな扱いに、彼女のイライラは増すばかりだ。
『……分かってるわよ、愛想が悪いってのは。でも笑顔なんて意識して作るものじゃないんだし……
だいたい、そういうインスタントな人付き合いなら<鳶丸|とびまる>の方が向いてるっての』
　彼女は自分の愛想の無さにため息をつくが、考えてみると、寝不足のまま休日の学校に呼び出されては笑顔も何もあったものではない。
　くわえて、その元凶は高校生より小学生から始めた方がよさそうな人物なのだ。
　……その人物に責任はないにせよ、彼女にだって、学校側の仕事を押しつけられる責任も義理もないのである。
　せめて、なんというか。
　もうちょっと空気を読んで平日にやってきてくれたのなら、と愚痴の一つも言いたくなる。
『……いや。というか敵。何であろうと敵。
　悪いけど<情状酌量|じょうじょうしゃくりょう>以前に敵……！
　間が悪いのはお互い様っていうか、ほんと、なんでよりにもよってこんな忙しい時に―――』
　寝不足でキリキリ痛む頭が、彼女の攻撃性を一割増しにする。
　この扉の向こうにいる人物がどれだけ無害であれ、我が眠りを妨げたモノはみんな敵。
　そんな彼女のイライラが頂点に達しかけたタイミングで、山城教諭は会議室の扉を開けた。
　……ゆっくりと横に開いていく風景。
　<情緒|じょうちょ>なんてお構いなし。
　まっすぐな視線のまま、彼女は会議室に<突撃|しんこう>し―――
　その、一風変わった敵と対面した。
　カメラは再び一方に。
　時間は、少しだけ巻き戻る。
『何をしなくともいい』という指令は、
　ある種の人間にとってはかけがえのない贅沢であり、
　ある種の人間にとっては耐えがたい責め苦である。
　能動的な彼女にすれば<羨|うらや>ましい反面、怪しすぎて受け取れない高級品。
　受動的な彼にすれば親しめる反面、郷愁を起こす<苦|にが>い棘……の筈なのだが、目下、絶賛待たされっぱなしの顔にこれといった不満は見られない。
　彼は自然に、姿勢を正したまま灰色の空模様を眺めている。
　さらに待ち続けてはや一時間だが、まあ、先方さんにも都合があるのだろうし、何もお金を取られるワケでもなし。
　雨音さえあればいつまでも待ち続けられる、といった風。
『でも、そろそろ九時を過ぎるのか……
　うん、どうなんだろう』
　それでも漠然と、いちおう時計を気にしながら、ぼんやりと雨音を聴く。
　休日の校舎に<雑音|かいわ>はない。
　ポツポツと窓を叩く雨。
　しん……と沈みこむ空気の<軋|きし>み。
　それと、
　カツカツとまっすぐに、<力|ちから>強く響いてくる<靴|くつ>の音。
『……良かった、忘れられているかと思った』
　軽い足音と、それより重い大人の足音が聞こえる。
　彼がほっと安堵の息をもらした時、会議室の扉がスライドした。
「すまないね、ずいぶんとお待たせしちゃって」
　まず目に入ったのが、バツの悪そうな笑顔をした、眼鏡をかけた男性。
　たしか<山城和樹|やましろかずき>という先生で、ここに案内してくれたのも彼だった。
「って、あれ？　<里中|さとなか>先生いないんですか？
　……酷いなあ、話し相手になってあげてと言ったのに」
　山城氏はますます申し訳なさそうに頭をかく。
　その後ろから、
　不機嫌そうに口を閉ざしたまま。
　迷いのない眼差しで、長い黒髪の少女が現れた。
「――――――」
　呆然と息を<呑|の>む。
　窓を打つ雨音が<聴覚|せかい>から消失する。
　……この時。
　錯覚ではあれ、時間の経過を感じなくなる事は本当にあるのだと、彼ははじめて思い知った。
「………………」
　彼女はほんの少し、驚くように<瞬|またた>いた。
　理由は不明。
　先だって聞いていた通り、少年は純朴な田舎のイメージそのものだったのに、直感的に“納得いかない”と反発して。
「――――――」
　彼はほんの少し、驚くように目を開いた。
　理由は明白。
　……ただ、それを正しくカタチにできる言葉を知らなかったので、結局こちらも解答欄は空白のまま。
　この瞬間。
　少年はたしかに、何か運命じみたものに触れた気がした。
「紹介するよ。彼が転入生の<静希|しずき><草十郎|そうじゅうろう>くん。
　で、こっちの彼女が静希くんの案内役。
　うちの生徒会長で、休日を押して新しい仲間の案内役を買って出てくれた、<蒼崎|あおざき><青子|あおこ>くんだ」
　―――声も雨音も<仄|ほの>かに遠く。
　二人の出会いはこんな感じ。
　良きにしろ<悪|わる>きにしろ、バチッと火花が散るような、そんな、どうでもいい始まりだった。
　生徒たちの通説によると。
　蒼崎青子は、いつもご機嫌ななめである。
　これは九割がた偏見で、青子だって、そんな四六時中イライラできるほど暇ではない。
　彼女は単に言い訳をしたがらない性格なだけで、
　たえず微妙に、ときに露骨に、見えない何かに対して怒っているように見えるだけなのだ。
　なので九割がたは偏見の、噂に尾ひれのついた学園七脅威の一つにすぎない。
　ただし、残りの一割は真実だ。
　青子自身、自分が慢性的な頭痛持ちなんじゃないかと疑うほど、無害なものに反感を覚える事があったりする。
　今日はその一割の話。
　そういう時にかぎって彼女の怒りは純真な、
　年相応に子供らしいわがままだったりするのだが。
　会議室は薄暗い、雨の色に染まっていた。
　電気代節約のため、昼間は電灯をつけないのが学校のルールだ。
　そんな中に、<件|くだん>の人物は立っていた。
　第一印象は、野花を連想させる落ち着き様。
　すっと伸びた背筋のクセに、全体的に力が抜けていて、とにかくおとなしい。
　ひょろり、とはいかないまでも、ひっそり、ぐらいの<頼|たよ>りなさ。
　制服の上からでも分かる、標準よりやや細い体つき。
　あまり手入れをされていない黒髪と、とくに目を引く部分のない少年像が、そこにはあった。
　いや。その<凡庸|ぼんよう>さを好意的に解釈するなら、少年ではなく青年っぽいというべきだろう。
　落ち着いた雰囲気がどことなく大人びている。
　……そのあたりが青子の“理由なき反感”に繋がったのか。
　少年はあまりに自然で、違和感なく会議室の風景に溶けこんでいた。学校では彼の方が異分子なのに、自分たちの方が客人になったような錯覚。
「――――――」
　まるで、自分たちが持って生まれた正当性を<糾|ただ>されたような、正体不明の苛立ち。
　カチン、と警戒心にスイッチが入るのを青子は感じた。
『―――信じられない。
　私、いま<意|ワ><味|ケ>もなく怒ってない……？』
　分からない事は苛立たしい。自分の<感|コ><情|ト>なら尚更だ。
　完璧主義者である彼女にとって、それは痛くはないけど気がかりなトゲのようなもので、
「いやぁ、ははは。ほら蒼崎くん、挨拶してあげなくちゃ」
　山城の場を取り<繕|つくろ>う声にも、わりと本気でイラっとした。
「―――挨拶？」
　じろりと山城を横目で睨んでから、青子はまっすぐに少年を見据えた。
　いや、第三者的に見れば、正面から睨みつけた。
　この瞬間。
　災難なことに、彼女の感情の矛先はぴったりと、なんの罪もない初対面の少年に向けられたのである。
「いや、待たせたね静希くん」
　名前を呼ばれて少年……草十郎は我に返った。
　見惚れていた目をゆるめて、
　目眩を飲みこむように息を吸う。
　その仕草から緊張していると見たのか、山城教諭は穏やかに笑って、かたわらの少女に語りかけた。
「紹介するよ。彼が転入生の静希草十郎くん。
　で、こっちの彼女が静希くんの案内役。うちの生徒会長で、休日を押して新しい仲間の案内役を買って出てくれた、蒼崎青子くんだ」
　山城教諭に紹介され、少女は一歩前に出る。
　視線に容赦はない。
　ほとんど暴力に近い、<値|ね><踏|ぶ>みするような凝視。
　<一方|いっぽう>草十郎は、正面から堂々と見つめられる事に驚きつつ、なんとか平静を保っていた。
　これまでこういう挨拶には出会わなかったけれど、都会では珍しいものではないのだろう、と勘違いしての事である。
　そんなふたりのやり取りは、第三者視点からすると壮絶なものがあった。
　とにかく因縁をつけたがっている乱暴者と、
　それを何事だろう、と真剣に眺めている田舎者。
　当事者たちはともかく、周りにいる人間にとっては蛇の生殺しに近い。
　たとえば、青子の後ろにいる山城教諭とか。
　良かれと思って案内役に優等生を選んでみたものの、なぜかその優等生はご機嫌ななめ。今もピリピリと空気を<震|ふる>わせている。
　ここに至って、山城は自らの失敗を受け入れた。
　今さらの話ではあるが、
　この、万事をそつなく解決する女子生徒は、扱いどころを間違えると一転して学校を<震|ふる>わす嵐になる。
　オールマイティの絵柄が<悪魔|ジョーカー>みたいなもので、そんな時、現場に居合わせた教師はたいてい、<不祥事|ふしょうじ>の責任を取らされるのだ。
「あー、うん。いけてる、二人とも気は合うようだね！
　……それじゃ、僕はこのヘンでいいかな？」
　あはは、と白けた笑い声をあげながら、山城教諭はそろりそろりと扉に後じさった。
「僕は職員室にいるから、終わったら来るように。
　いいかい蒼崎くん、くれぐれも、くれぐれもだぜ？
　なんていうか、生徒会長としての度量の広さを、このさい僕に信じさせてほしいかな！」
　見つめあう……正確に言うと、一方は睨まれている…ふたりをそれきりにして、山城教諭は去っていった。
　残されたのは<木訥|ぼくとつ>さの化身みたいな少年と、
　ずーんと腕組みをしている少女だけ。
　しばしの沈黙。
　お互い初手に悩んでいる将棋指しのようだが、その実、思案しているのは自分だけである事に青子は気付いた。
　とりあえず、<苛々|イライラ>するのは置いておいて。
　そもそも彼に反感を覚える理由はないんだから、と大きくため息をついて、青子は草十郎に向き直った。
「まあいいわ。山城先生が<昼行灯|ひるあんどん>なのは今に始まった事じゃないし。
―――それで。あなた、名前は？」
　きつい口調は、自分から話しかけてこない少年を非難してのものだ。
が、少年は声に含まれた嫌味に気が付かなかった。
　そういう毒っ気とは一生<縁|えん>のない顔で、
「ああ、静希草十郎かな。君は蒼崎さんだったね」
　なぜか嬉しげに、噛みしめるように応答した。
「さんはいいわ、<柄|ガラ>じゃないから。
　こっちは静希君でいい？」
「いいって、なにが？」
「だから呼び方。<君|くん>付けでいいかって訊いてるの」
「――――――」
「……なによ。おかしなコト言った、私？」
「いや、すごく」
　少年は当たり前のように即答しながら、あれ、そうでもないのか、などとひとりこぼす。
「いや、いいんだ、ごく一般的なんだろう。
　静希君で頼む。君は蒼崎でいいんだよな？」
「ええ、よろしく」
　素っ気なく応えて<踵|きびす>を返す青子。
　気は乗らないが、任されたからにはきちんと仕事をこなすのが彼女のポリシーである。
「悪いけど、優しくしてあげる気はないから。
　時間も惜しいし、手早くいくわよ」
「それは助かる。やっぱり時間は大切だ」
　青子の<直球|いやみ>は、またも効果なくスルーされた。
「――――――」
　どんな行為にしろ、無視をされると余計意識してしまうのが人間である。
　さっきからことごとく攻撃が<空|から>ぶっている事にムッとしながらも、青子は<努|つと>めて事務的に廊下に出るよう<促|うなが>した。
　窓のない通路には外からの日差しも、人の気配もない。
　会議室が天然の岩屋なら、こちらは人工の監獄を思わせる。
　実に今の気分にあった廊下だわ、と青子はまたもため息ひとつ。
「まず訊いておくけど、山城先生から聞いた事は理解してる？」
「ああ、学校の仕組みについては分かった。
　この建物ぜんぶに<同|おな>い<年|どし>の人間がいるなんて、ちょっと想像できないけど」
「……そ、良かったわね」
　額を指で押さえる青子。
　この草十郎という少年は学校のなんたるかも知らなかった。
ただ漠然と、大勢の人々で学習する場所、としか聞いていなかったらしい。
　高校教師は様々な分野の知識や見識、<機構|きこう>と創造性を生徒に教授する。
　が、そもそも学校とは何か、と根本の理念を語る日がこようとは、夢にも思わなかっただろう。
　基本は大事というが、それにしても基本すぎる。
　……そんなんで高等学校の授業についてこられるのかと青子は疑問を抱いたが、山城教諭曰く、そこは何とかなっていたとのこと。
　一応、転入試験はギリギリでパスしたらしい。
『……ま、私には関係ないけど』
　内心で呟きながら廊下を歩く青子。
　なんであれ、この<時代錯誤|じだいさくご>な男子と付き合うのは今日だけなのだ、いや、今日だけにしたい、と自分に言い聞かせながら。
「蒼崎」
　そんな青子に、少年は平然と話しかけた。
「なに？」
「こっちもひとつ訊いていいかな」
「だから、なに？」
「俺の気のせいだと思うんだが、君はまるで、何かを睨んでいるように見える。
　やはり、今朝は悪いものでも？」
　食べたのかい？　と本気で心配する眼差し。
「――――――」
　ガン、と二度目のハンマーが青子の頭を叩いた。
　たしかに青子はさっきから草十郎を睨んでいる。
　というかもう本気で睨んでいる。
　むしろあらゆるものを睨んでいる。
　平時でさえ同居人から、
『青子の視線は普通の人には厳しいわ。
　もう少し、多くのことに寛大になるべきね』
　と<諭|さと>されるぐらいの視線が、明確に“これ以上負荷がかかったらキレる”と意思表示しまくっているのだ。それを気のせいと感じられるほど、この少年は鈍感なのだろうか？
『……私を馬鹿にしてる……って訳じゃなさそうよね、この場合』
「？」
　自分にそう言い聞かせてみたが、あまり確証は取れそうになかった。
　青子は今さらながら直感する。
　この間の抜けた転入生は、自分にとって未知の生き物と同義なのではないだろうか、と。
「……いいわ。言葉にしないと分からないようだから言うけど、まるで、じゃなくて、ずばりそうなの。
　貴方の気のせいじゃなくて、私は視線で遠回しに感情を表現してたの。いちいち声にだすのも、会話にするのも面倒だから」
　青子の言葉に、ポン、と両手を叩くインベーダー。
「なるほど。どうしてそうしたいのかは分からないが、たしかに、そっちの方がてっとり早い意思表現だ」
　素直に納得する草十郎。
　けれど、彼は青子がどんな感情を表現しているのかが分かっていない。
　文字は読めるけれど、その意味までは掴めていない。
　本来直結して考えるべき事が、ブロック単位で離れている感じ。
『……たしかにズレてるわ、こいつ……』
　青子は山城教諭の言葉を今更ながらに納得した。
　この少年のおかしさは、鈍感だとかそういった基準の話ではないらしい。
　……それでも。彼にとってここは異国の地のようなもの、多少の時差ボケは許容するのが文明人というものだろう。
「じゃ、とりあえず貴方の教室に行くから」
　気を取り直して青子は言う。
　それを草十郎は片手を上げて止めた。
「ああ、あとひとつ」
　あくまで泰然と言う草十郎に、青子は黙って先を<促|うなが>した。
　額を指で押さえたまま、漠然とした不安を感じたまま。
「これもちょっとした疑問なんだが、なんで君は怒ってるんだ？
　怒るのが商売とか、そういう家柄の人なのか？」
「―――――――――」
　長い沈黙。
　今となっては後の祭りだが、青子はしばし、今朝の電話を取った事を痛烈に後悔した。
　相手に悪気はない。
　これは天然、ただの天然、と心の中で繰り返し、青子は直情を抑えこんだ。
「別にあなたのせいじゃないから、気にする必要はないわ。
　ただ、この一瞬とお昼まで眠っていた場合を<秤|はかり>にかけたらあまりに利益の違いがあって、頭を抱えただけよ」
　回りくどい返事をして、今度こそ青子は歩きだした。
　静希草十郎という失礼なストレンジャーを、完全に視界から切り離して。
　何を基準にして普通というのか疑問だけれど、性格はいたって<普通|ノーマル>。素朴でいい人。イメージカラーはあえて白。性別は男子。容姿はぼんやりしている。
　そんな草十郎から見ると、蒼崎青子という人物はシャキシャキとよく動いて元気が良かった。
　何げない動作にも無駄がなく、ピッと動いて、ピタリときれいに止まる。
　物を指す時に上げる指とか、
　廊下や教室を横断する時の動作とか、
　時折、先行しすぎないように後ろを振り向いて同行人を確認するところとか、
　その一挙一動が実に印象的で、目を引かずにはいられない。
　青子はまず二年Ｃ組の教室を案内した。
　先ほどの会議室よりは人の匂いは感じられたが、やはり草十郎には何をする場所なのか見当がつかなかった。
　青子から短い説明を受けた後、何種類かある特別教室、体育館、食堂、更衣室、保健室と回っていく。
　草十郎が行く先々で説明を求めたせいか、二階の視聴覚室を出た頃にはずいぶんと時間が経っていた。
「……まずいな」
　深刻な顔で、草十郎は足を止めた。
「あと二十分経つと<一時|いちじ>だ」
「へ？　嘘でしょ、うちの校舎そんな広くないわよ？」
　たしか案内を始めたのが午前十時前だから、一時という事はかれこれ三時間は経つ事になる。
　たかだか校内案内でそんな筈はないのだが……
「……そうだったわね。行く先々で根ほり葉ほり訊かれちゃ、そりゃあ何時間でも経つわ。日が暮れていないのが不思議なくらいね」
　青子はじろりと草十郎を見すえる。
　こんな嫌味が通じる相手じゃない、と分かった上での小言である。
『………え？』
　が。
どんな心境の変化か、草十郎は申し訳なさそうに目を伏せていた。
『なんだ、コイツ―――ちゃんとしてる、じゃん』
　困っている草十郎は別人のようだ。
　これまでの、青子が何を言っても反応せずの無表情と違って、言い難い親近感が湧く。
　そして、なぜだかやっぱり、青子は理由もなくイライラしてしまうのだった。
「で、なにがまずいの？
　覚える事が多すぎてパンクした、なんて言わないでね」
「いや、それもあるけど。学校の事は別にして、一時になるとまずいんだ」
　つい、と心配そうに視線を逸らす草十郎。
　外の様子が気になるのだろうが、あいにく、この廊下に窓はない。
「……へえ。時間を気にするってコトは、用事があるのね。
　ふーん、そう。人の予定を引っ掻き回しておいて、自分だけ好きなようにやろうっていうんだ。
　なんだ。顔に似合わずいい人ね、君」
「？　いや、誉めても何もでないぞ」
「誰も誉めちゃいないわよ！」
　つい怒鳴ってしまった青子だった。
「で？」
「で？」
「それで。いったい、何の用なの」
　青子の言わんとする事が分かって、草十郎はああ、と落ち着いた顔で頷き、
「そこは秘密にしておきたい」
　深刻に、ふざけた返答を口にした。
『……馴れ始めたつもりだったけど、コイツのこういったテンポには失神しそうになるわ……』
　もちろん怒りで。
そんな気持ちをぐっと飲みこんで、青子は極上の笑顔を作る。
「静希くん？」
　ずいっと一歩前に出る青子。
「秘密だってば」
　なんだか殺気めいたものを感じて、ずいっと一歩後ずさる草十郎。
　ずいっ、ずいっ。
　磁石のように、どんなにさがっても青子は近寄ってくる。
　笑顔のまま、こめかみをちょっと震わせて。
「これ、最後の質問にしとくわね。
　―――貴方、私をからかって楽しい？」
　神に誓ってそんな気はないのだが、身の潔白を証明したところで青子の無理やりな笑顔は消えないだろう。
「……分かった、説明する」
　降参して手を上げる。
　青子も前進を止め、不似合いな笑みを消した。
「実は一時からアルバイトがあるんだ。
　でも、ここはそういうの禁止なんだろ？」
「そうだけど……あ、禁止されてるから秘密にしようと思ったの？　バカね、それなら許可さえ下りていれば問題ないわよ？」
「知ってる。試験の時に許可はもらってる」
「へえ」
　顔に似合わず手回しいいじゃない、と青子は顔を輝かせた。
　が。
「しかし、許可はひとつしかもらえなかった」
「？　ひとつって、貴方、掛け持ちでバイトしてるの？」
「……これでも二件減らしたんだ。
　生活費だけで大変なのに、学費まで稼がなくちゃいけない。なのに、働き先はひとつだけと言うのはあんまりだと思わないか？」
「……いや。あんまりなのは貴方の方だと思うけど」
　青子は呆れながらも、草十郎を少しだけ見直した。
　学費はおろか生活費まで自分でどうにかしているのは立派だと思う。
　そういう遊びのない事情に、蒼崎青子はわりと弱かった。さっきまでの怒りも薄れてしまう程度には。
　……調子を崩したのは、この世間知らずの少年から『アルバイト』なんて単語が出るとは思いもしなかっただけだ。
「……そういうことなら仕方ないわね。
　いいわ、行きなさいよ。事情は分かったから」
「蒼崎はいいのか？」
　何がいいのだか青子にはさっぱりだが、草十郎が気を遣っている事だけは分かる。
　……それも、青子にはなんとなく意外だった。
　もう少しこう、人の心にも鈍感な少年だと思ったのだ。
「別に。私もこのまま帰るから」
　ちなみに、職員室に寄っていく選択は<潔|いさぎよ>いぐらい無い。
　山城曰く、転入手続きやらは終わっているというし、後は<社交辞令|おやくそく>の挨拶だけだろう。
“先生、案内終わりました”
“それはお疲れさま。静希くんもお疲れさま。それで、校舎をまわった感想はどうかな？”
“ありがとうございます。なんというか、とても学校ですね！”
“ははは、そうかそうか。うん、明日から頑張りなさい！”
　そんなどうでもいい締めのイベントなぞ、彼女には何ら関係のない話である。
「山城先生の事は気にしないでいいわ。
　教え子に厄介な事を押しつけてふんぞり返っているぐらい職員室が好きなんだから、何時間でも待ってるでしょ。
　いえ、待ってるべきじゃない？」
「そうか。蒼崎がいいんなら、いいんだな」
「？」
　だから、何がいいんだろうか？
　草十郎の言わんとするところが、青子にはやっぱりさっぱり。
「それじゃ行くよ。今日はありがとう」
「今日だけよ、今日だけ」
　ほら、さっさと行った、とばかりに青子は片手をひらひらと払う。
　その仕草が気に入ったのか、草十郎は嬉しげに笑った。
　常時ぼんやりしているせいか、彼のそういった顔はきわだって柔らかく見える。
　つい笑みを返してしまうぐらいの<和|なご>み度だ。
　けれどやっぱり、
　そういったものに反応しないのが蒼崎青子だった。
「それじゃ、また」
「は？」
　旧知の友人みたいな言葉を残して、草十郎は廊下の先……
　ではなく、隣の教室に入っていった。
「ちょ―――」
　その背中が、まっすぐに窓に向かっていく。
　彼はおもむろに教室の窓を開けた。
　十一月の肌寒い風と、おぼろだった雨の音が鮮明になる。
　それが何を意味するのかを、蒼崎青子は瞬時に悟った。悟れてしまった。
「いや、待て待て待てーーーーっっっ！」
　今まさに、窓枠に片足を乗っける草十郎を、青子は必死の形相で止めた。
「なにするつもりよ、あんたはっ！」
「なにって、アルバイトに行くんだけど」
「その窓は人が出入りするところじゃないの！
　だいたい、ここ何階だと思ってるの!?」
　言われて、あ、と声をあげる草十郎。
「……死ぬところだった。二階から下りたら危なすぎる」
「危ないのはあんたの頭……」
　脱力しつつも<暴言|ぼうげん>をこぼすが、幸い、草十郎には聞こえていなかった。
「あのね、こっちじゃ窓から人は出入りしないの。
　さっき言っとくべきだったわ」
「知ってるよ、時間がないんであわててたんだ。
　ありがとう、これからは気をつける」
　よいしょ、と窓枠から片足を下ろして窓を閉める草十郎。
　見るからに下ろしたての制服は、今ので雨に濡れてしまっていた。
「……いいけど、私は別に。
　あなたが何処から外に出ようが関係ないもの。ただ、できれば私の前ではやらないでほしいだけよ。
　それより……貴方、本当に明日から学校に来るの？」
「来るよ。不安だけど、案内してもらったし」
　それじゃあ、と返して、少年は廊下を走っていった。
　今度こそ普通に、階段を下りて昇降口から出ていくのだろう。
「……はあ。大丈夫なのか、あんなんで」
　呆れながらも、走り去った彼の背中を回想する。
　もうあんな田舎者とは関わりたくないのに、妙なところで気に掛かる。
　心配からか、それとも癪に障るからなのか、いまいち納得のいく答えは出ない。
　そもそもどうして自分はさしたる理由もなく、あのどうでもいい転入生に怒りを覚えたのか。
　妙な一日、妙な転入生、妙な感情。
　こうして振り返ってみると、実は怒るべきじゃなく楽しむべきコトだったんじゃないか、と首をかしげる自分もいる。
「―――ま、いっか。
　どうせこれっきりなんだし」
　静かに響く雨の音。
　灰色の空は時間の<有様|ありよう>を麻痺させる。
　今はまだ午前中なのか、夕方なのかも判らない。
　校舎にはたぶん自分と、山城ぐらいしかいないだろう。
　電灯の消えた教室は薄暗く、ひとりになるとやけに不気味だった。
　つと―――青子は左手の<袖|そで>を上げた。
　飾り気のない小さな腕時計は、たしかに午後一時になろうとしている。
「……時間、あってる」
　言って、青子は窓ごしに地上を見下ろした。
　小雨の中、制服姿の男子が傘もささずに走っていく。見慣れている筈の光景が、彼女にはひどく印象深かった。
　青子は先の公言通り、職員室に寄らず帰路についた。
　山城の「帰りは車で送るよ」という提案には心揺さぶられるものがあったが、せめてもの報復として彼の休日にも共倒れしてもらうのはどうか、という案の方が何倍も魅力的だったからだ。
　足音を立てず昇降口に行き、まっ赤な傘を開く。
　朝の予報通り、正午を過ぎて雨は小降りになっていた。
　この分なら、あと一時間ほどで止むだろう。
　青子が帰宅するのと入れ替わりで、遠くの空に見えた日射しがやってくる事になる。
「――――ま、それも悪くないか」
　肩をすくめて観念する。
　雨は好きでも嫌いでもない青子だが、赤い傘を開いて歩く事には、ちょっとした愉しみがあるからだ。
　教師たちがそろって派手目を嫌う<三咲|みさき>高において、青子の赤い傘は珍しい色と言える。
　一時期、“蒼崎の傘は昔は白かった”なんて語りだしの怪談が<流|は><行|や>ったが、その話ではお化けのかわりに青子が活躍しているらしい。
　そんな曰くつきの傘を開いて、青子は<三咲町|みさきちょう>の駅に向かう。
　彼女の通う私立三咲高等学校は、その名の通り三咲町にある。
　昔から大部分が畑と森だった三咲町だが、ここ十年、高度成長期の勢いで急激に近代化が進んでいた。
　自然に満ちた三咲町を残すべきではないか、という声もあったが、
『残す事には賛成ですが、それでは<遺|のこ>すだけになってしまうでしょう』
　なんて市長の一声で少数派は鎮圧。長期計画で新しい街作りがはじまった。
　都市開発には十分すぎる金額が集められ、
　わりかし普通の町だった三咲町はわずか十年で三咲市を代表する町になったのである。
　……もっとも、近代的な面では隣町である<社木|やしろぎ>に一歩譲り、
　<上品|エレガント>さでもこれまた隣町の三咲丘に一歩譲る立ち位置だ。
「……それも当然よね。どういじくっても元々が山中の宿場町だし。山ごと切り崩すっていうんなら別だけど」
　都市化が進んでいるのは平坦な駅周辺だけで、丘や山は十年前のままだ。
　昔ながらの三咲町なんてものは、住民が守らなくても資金の枯渇が守ってくれたらしい。
　かくして、三咲町は都心の人間がやってきても、まあ、あまりの田舎っぷりに呆れられるコトだけはないという、実に半端な地方都市になりつつある。
　そんな三咲町の中にあって、三咲高は開発以前からあった私立高校である。
　今あるのは第二校舎で、五十年前に建てられた初代校舎はさらに上った山の中。
　遠い、坂道がきつい、
　それ以前に通学路が<獣道|けものみち>と化している、
　等々の理由で二十年前まで閉校していた三咲高校だったが、三咲市に本拠地を持つ某デパートグループからの寄付金をもとに新校舎を設立。
　かくて、森の校舎は旧校舎として忘れ去られる事になり、三咲高校は再び学舎として開かれた。
　しかし、実のところを言えば、三咲高校の生徒の多くは三咲町の住人ではない。
　この田舎町に住んでいた善良で素朴な人々は、私立高校より県立高校を望んでいたからである。
　何を隠そう、青子もそういった人種の一人だった。
　彼女には中学卒業とともに上京して、国立大学をめざしながらライブハウスを毎日はしごして回るという慎ましやかな野望があったのだ。
　そんな彼女の夢も姉の抜け駆けで台無しにされてしまい、何の因果かせっかくの創立記念日に真っ赤な傘をさして歩いている。
「……思い返して見ると。
　私の人生って、なんか災難続きっぽい……」
　十二月を前にした寒さの中、ひとりきりでそう呟く。
「でもま、いっか。退屈だけはしないワケだし」
　語尾をかすかに弾ませて学校を後にする。
　ゆるやかな坂道を下ってしまえば、そこは賑わいに満ちた人々の住まう街だ。
　三咲町の駅は真新しい。
　かつては廃工場にしか見えなかった<建物|えき>は、今では東と西に巨大デパートを持つ複合建築に造り替えられていた。
　このデパートが出来た時、青子も近代化万歳！　と友人たちとはしゃいだものだが、この建物もあと何年かすれば時代遅れになるのだろう。
　これといった買い物はないのでデパートを通り過ぎる。
　本当は喫茶店にでもよって体を休めたいところだが、ひとりだけで無駄遣いをするとまた同居人がヘソを曲げかねないので我慢して―――
「――――――」
　振り返って、目をしばたたく。
　一瞬。視界の隅に、赤い<服|ドレス>の<不審人物|ナニモノか>を見た気がした。
「――――――
、ふぅ」
　どうやらいつもの勘違い。
　背筋には第六感じみた悪寒があるけど、それも慣れたものだと受け流す。
　まったくもって何事もなかったように振る舞って、青子はいつも通りの帰路につく。
　ほどなくして背中の悪寒は消え、街の喧噪だけが耳に残った。
「…………はあ」
　大きくため息をひとつ。
　まったく。
　気のせいにしても、気持ちのいいものじゃない。
「……夏場の蚊だって、もう少し、こう」
　節度を<弁|わきま>えている……こともないか、と愚痴をこぼす。
「……波瀾万丈、商売繁盛、諸行無常、と。
　そうそう、忙しさにグチを言っても始まらないわ」
　うっとうしいけど夏場に蚊はいて当然だし。
　甘い果実に虫が寄ってくるのは、まあ、正しい価値観だろう、と納得する青子だった。
　油と熱のこもった厨房は、一時の休眠に入っている。
　本日も無事、昼の修羅場を乗り切った。
　あとは<夕食|よる>の混雑さえ乗り越えれば誰もがコックコートを脱いでしまえる。
　そんな、激戦を終えたばかりの<厨房|キッチン>で、ぽつんと立ちつくす<新参者|アルバイト>がひとり。
「ええっと、これ着るんですか？」
　新人らしく、不安そうな声で訊ねる。
「気持ちは分かる。俺もどうかと思うけど、店長の言うことだからもう笑顔で乗り越えてくれ。これも商店街の明日のため、なんだとよ。本気で申し訳ないんだが、雨も止んだし、なんとか行って来てくれないか？　無事帰ってきたら晩メシおごってやっから」
　まぶしいオレンジ色の制服を着こんだ先輩は、本気ですまないと手を合わせて、無理難題を押しつけた。
　十年前、三咲市は畑と森の町だった。
　<現|い><在|ま>は開発が進み、駅前にはビルディングが立ち並び、住宅地にも二階建て以上の建築が増え、かつての田園風景は駅から離れないと見られない。
　そんな中、都市部においても昔ながらの面影を残しているのがここ、三咲市のエアポケットと言われる<白犬塚|しろいぬづか>である。
　ひときわ高い丘に敷かれた長い坂道。
　人々の生活の中心である駅から離れた、昔ながらの住宅地。
　その昔、三咲では高い土地に住居を構えるのはよくない事とされ、一定以上の高みに住む人間はいなかった。
　町の中心にそびえる丘、この白犬塚もその例にならい、ここから先に民家は見られない。
　アスファルトの坂道は延々と続くものの、やがて森に閉ざされ、あとは山道のごとき道が続くだけ。
　坂道の途中にぽつんと置かれた自動販売機は、さながら町と丘の境界線のようだ。
　新しい遊び場の開発に余念がない子供たちでも、この先には何もないと知っている。
　いや、<正|ただ>しくは。
　この先には、あのお化け屋敷しかないと知っている。
　長い坂を、蒼崎青子は上っていく。
　眼下には三咲町の景観が広がっている。
　おもちゃの風景のように均整の取れた町並み。
　これで近くに海でもあれば絵になるが、残念ながら三咲市は山中の町である。
　空はいまだ曇天だが、晴れた夕暮れ時、ここの風景は素晴らしいものになる。
　それだけで坂道を上る苦労も報われるのだが、今日はその報酬の影すらなかった。
「……はあ。雨の日は自転車も使えないし。一日に二回ぐらいバスでも通ってくれないもんかな、ホント」
　この坂道を通学路にしてじき二年になる青子だが、辛いものは辛いらしい。
「あれ、鍵<閉|し>まったまま？
　……<有珠|ありす>、まだ帰ってきてないんだ」
　青子はやれやれと肩をすくめて、古びた鉄柵に手をかける。
　重苦しい鉄の門は静かに、この年若い少女を歓迎するように開いていった。
　―――丘の上にはお化け屋敷が建っている。
　それは三咲町に古くから伝わるむかし話。
　そして町の近代化に合わせるよう、ひっそりと<蘇|よみがえ>った最新のうわさ話。
　たとえば、もう何年も前に朽ち果てた廃屋なのに、夜になると明かりが灯ったりする。
　たとえば、丘の上に無数のカラスが集まっては消えていく。
　たとえば、霧が深い日は子供が迷いこんで神隠しにあう。
　たとえば、深夜、叫び声にしか聞こえない怪音が住宅地にまで響いてくる。……これは青子的に不名誉な噂なので改めたい。
　あと、たまに目を疑うような高級車が坂道を登っていく。
　噂話は日に日に種類を増していた。
　そんな感じで、朽ちたはずの丘の上の洋館は、数年前から息を吹き返していた。
　人々の寄りつかない丘のただ中。
　昼なお暗い森に隠された廃墟。
　おとぎ話に出てきそうな、時代に取り残された魔法の<残|ざん><滓|し>。
　それが、
　この<久遠寺|くおんじ>邸。
　三咲町の誰もが知っている、丘の上の魔女の家。
　ワケあって蒼崎青子が下宿している、正真正銘の幽霊屋敷なのだった。
　言うまでもなく、幽霊屋敷というのは俗称である。
　久遠寺邸はとある経緯でイギリスから運ばれてきた、由緒正しい洋館だ。
　寮にするほど広くはないけれど、家にするには広すぎる。
　普通の住宅が三つほど入りそうな本館と、ぐるりと囲む庭。
　庭の四方には鉄柵が高くそびえ、ご丁寧に<茨|いばら>めいた植物の<蔓|つる>まで絡み付いている。
　おまけに本館から離れた高台には別館まで完備している念の入れよう。
　これだけ徹底していれば尾ひれがつくのは致し方ない。
　町の住人からすれば、不自然に豪勢な館が丘の上に建っているだけで不気味だろうし。
　<誹謗|ひぼう><中傷|ちゅうしょう>、<誤解|ごかい><軋轢|あつれき>は有名税みたいなものだ。
　しかも住んでいるのは二人だけなのだから、その住人は吸血鬼扱いされても文句は言えまい。
「……まあ、私はともかく、有珠はそういうの、やりかねないし」
　玄関に手をかける。
　<真鍮|しんちゅう>の鍵が似合いそうな両開きの扉には、しかし、鍵穴などという不粋な物はない。
　青子は片手で扉を押し開き、幽霊屋敷と称される館の中へと入っていった。
　……ところで。
　吸血鬼云々はともかく、幽霊に関しては、状況次第で出ないコトもないという。
　外の天気同様、ロビーも灰色に曇っていた。
　設計者の趣向によるものか、このエントランスは電灯を可能なかぎり排除していた。
　天井は二階まで吹き抜け。
　明かりになるのは、その高い天井にある窓から差しこむ日光と月光だけだ。
　雨の日は夜明け前のように<仄|ほの>暗く、
　月のない夜は冷たい暗黒星のように、あらゆるものが途絶えている。
　<憩|いこ>いの場となる居間はこのロビーのすぐ真東だが、その前に自分の部屋で着替えなくては落ち着かない、と青子は階段に足をかけた。
　壁に<沿|そ>った階段はいったん二階のホールで終わっている。
　三階の屋根裏部屋まではホールの裏側にまわらなければならない。
　といっても、青子はこの二年間、屋根裏部屋を利用した事はないが。
　久遠寺邸は大まかに、東館と西館とに分かれている。
　青子に間借りが許されているのは館の東部分だけだが、それも二部屋で事足りる。
　開けたとたん絵本の世界に閉じこめられるドアやら、過去五年間物置になっている屋根裏部屋など使うまでもない。
　東館の長廊下の奥が青子の部屋だ。
　青子は下宿の際、そう広くない部屋を選んだ。遠慮しての事ではなく、単に掃除の手間を省いただけである。
　部屋には大きめのベッドと愛用のマホガニー製の机、洋服ダンスと上着が整列する収納ダンス、それに九段の本棚を二つほど。
　実家から運びこんだ荷物はそれだけ。
　蒼崎青子が十六年<培|つちか>ってきた彼女の証明は、いざとなればその程度に短縮できてしまったらしい。
　あとは隣の部屋に、これからの自分用の部屋を借りておしまい。
「―――そうだ。有珠にもらった見張り塔、壊れてないかチェックしないと」
　今朝方までの徹夜の成果を確かめる。
　壁一枚を隔てた書斎は、先ほどの蒼崎青子の生活とはまったく別の、まだ一年足らずの彼女の人生を示すものだ。
　それまでの彼女の為でなく、
　これからの彼女の証明になる、余人には立ち入れない独りの世界、の筈なのだが―――
「うわ……壊れてるどころか、跡形もなく消え去ってる……やっぱ自己流アレンジはまだ早かったか……いいわよ。笑いなさいよ、コマドリ」
　平気の平左でくつろいでいた<余人|コマドリ>が飛び去っていく。
　才能は人並み、努力は惜しまず、失敗は恐れずに。
　それは時に楽天的にさえ見える、青子の自由奔放さだった。
　制服から普段着に着替えて一階に戻る。
　階段をおりて東側の扉を開けると、地下室のように暗い廊下が続いていた。
　この廊下は外に面した窓がないだけに、電灯がなければ真っ暗だ。スイッチをいれて明かりをつけ、青子はすぐ近くの扉を開けた。
「電気のない生活か……想像したくないな」
　居間は彼女の趣向で現代ライクな造りに変更されている。
　<豪奢|ごうしゃ>な紋様の入った壁、
　<威厳|いげん>に満ちた大きなソファー、
　ペルシャ製の高級絨毯。
　城の一室めいた空間に、空気を読まず不釣り合いな30インチのテレビジョンが<鎮座|ちんざ>している。
　テレビはハダカの王様のように、精一杯の虚勢を張ってソファーたちを従えていた。
　洋館の持ち主は嫌がったが、このとってつけた感こそ庶民である青子には必要不可欠な<憩|いこ>いである。
　下宿を始めてすぐの頃、これで同居人と一戦争あったが、今ではお互い納得の文明機器になっている。
「……なんだ、人のことは言えないか。
　うちもあんがい、時代錯誤な家だった」
　なんとなく愉快な気持ちになって、青子はお茶にする事にした。
　居間と壁一つでつながっている台所でお湯を沸かし、ティーポットと鍋を用意して、万全の準備で紅茶を淹れる。
「はーあ、っと」
　ぼすん、とソファーに深々と沈みこむ。
　紅茶を一口、それから二口。
　時計の針に耳を<傾|かたむ>けながら、ああ、今日は午後からどうしよう、とぼんやり思って三口目。
　柔らかなソファーの感触に、どこまでも沈みこんでいきたい衝動にかられた頃。
『――――――』
　青子は目をパチパチとまたたいて、クッションから体を起こした。
　夢でも妄想でもない。
　いつのまにか、目の前にひとりの少女が座っている。
　さして驚かず、青子はティーカップに指をあてた。
　淹れたばかりの紅茶は完全に冷めきっている。
「寝てた？」
　テーブル向こうの少女に問いかける、青子の声。
「ええ」
　少女は視線をあげず、関心なさげに答えた。
　―――声をあげなければ、あるいは、美しい人形と見間違えるだろう。
　その少女はソファーに座り、古い本を読んでいる。
　細い手足と陽の光を知らぬ白い肌。
　愁いがちな趣きは、人間らしい意思を感じさせない。
　青子より濃い、混じりけのない黒髪。
　冷たい色をした瞳は、しずしずとページへ視線を落としている。
　修道女を思わせる黒衣は彼女の通う女学院の制服だ。
　その<翳|くら>さは少女によく似合っていたが、青子に言わせれば似合いすぎて良くないらしい。
　……さながら一枚の風景画。
　初めからそういう形で生まれてきたとさえ思える現実感の無さ。
　<俯|うつむ>く彼女の首の白さは、同性の青子でさえ見とれるほど美しい。
　この少女こそ、幽霊屋敷に住む二人のうちの一人。
　<久遠寺|くおんじ><有珠|アリス>という名前の、青子と同い年の同居人。
「私、どれくらい寝てた？」
「一時間と少し。……ここで眠ると風邪、ひくわよ」
　有珠は関心なく答えるが、いつもの事なので青子は気にしない。
　柱時計を見てみると、針は午後七時を回っていた。
　二時間ほど眠っていた事になる。
　思い返せば散々な一日だった。徹夜明けで疲れた体が寝入ってしまったのも、無理のない話だろう。
「起こしてくれても良かったのに。
　せっかくの紅茶が冷めちゃったじゃない」
「わたしが来た時は、もう冷めてたわ」
「でしょうね。言ってみただけよ」
　青子は冷めきった紅茶を一気に飲み下す。
　暖房の乏しい久遠寺邸では、その冷たさだけでも寝惚けた頭を目覚めさせるには十分だった。
「こうなるとフォートナム＆メイソンも何もないわね。
　おかえり、有珠。たまの贅沢もアンタ抜きじゃ<締|し>まらないってコトかしら。
　今日は厄日か<天誅殺|てんちゅうさつ>か―――ちょっと早いけどお参りってのも十分アリかもね」
　毒食わば皿まで的な玉砕精神で、と肩をすくめる青子。
「それで、何があったの？」
　同居生活も二年近く続けば、お互いの様子に気が付くらしい。
　青子は青子なりの、
　有珠は有珠なりの問いかけをする。
　顔もあげず問いかけてくる同居人に、青子はきっぱりと現状を報告した。
「まず謝らなくちゃいけない。
　昨日徹夜で完成させた例のアレ、意味がなくなっちゃったのよ。ちょっと目を離した隙に沸騰しすぎて壊れちゃったみたい。
そうならないよう、循環のコードを二、三本外したり<縫合|ほうごう>したりしたんだけど」
　いやー、まいったね、と他人ごとのように青子は言った。
「……どういう事？」
「<今|け><朝|さ>急用が入って、学校に呼び出しうけたの。
　そこで転入生の世話を押しつけられて、一日が無残にも消費されちゃって、帰ってきたら跡形もなく消えてました。
　怒る、有珠？」
「……別に。青子の器物破損にいちいち怒っていたら、一生分の口論をする事になるでしょう？
　代用品はあるから、また一から始めればいいわ。
　それより―――怒ってるのは貴方の方じゃないの？」
「……む」
　今日はいつになく<鋭|するど>い。
　こういう時、涼しい顔をしてホントは怒っているのが青子なのだ。
　それはともかく。
「ええ。この転入生っていうのがひどくズレててね。
　すごい山奥で暮らしてたらしくて、こっちの常識が通じないんだから。<山門異界|さんもんいかい>って言葉があるけど、あれってホントの事なのね、有珠」
　名前を呼ばれて有珠は顔を上げた。
　もともと有珠からの同情なんて期待していない青子は、さらに口調を速めて愚痴をこぼす。
「初対面から癪に障るヤツだったけど、教室を案内した時なんか失神しそうになったわ。
　そいつ、教室で教師と一対一で授業を受けるもんだと思ってたらしいの。……ええ、それはそれでまだ流せる。許容範囲よ、あの程度の冗談は」
「で、私が簡潔かつ丁寧に教室のなんたるかを教えた後で、そいつなんて言ったと思う？
『それで蒼崎。他の教室は何に使うんだ？』
　ですって！
　教室に他も何もないでしょう？」
「なんていうか、そいつは少しでも説明を怠るとそのままで納得しちゃうのよ。
　何も疑問に思わないというか、想像力が欠如してるっていうか、想像する事に慣れてないっていうか。
　まあ……一度言った事はちゃんと分かってるっぽいから、馬鹿ってワケじゃないんだけど……」
「貴方が人を批評するのは珍しいわね。
　……そういうダメな人、気にする<質|たち>だったの？」
「<微塵|みじん>たりとも気にしないわよ。けど、明日からどんな間違いをしでかすのかちょっと心配なだけ」
　そう。心配なのは、その間違いの後始末が高い確率で自分に回ってくるからに違いない。
　たぶん、そうだと思う。
　そうでもなければ、今日一日を潰してくれた転入生を気に病む理由が見当たらない。
「とにかく変なヤツなの。案外有珠と気が合うかも」
「……山門異界はいい言葉ね」
　けれど、その人物とは気が合う前に会う事もないでしょう、と視線だけで少女は語る。
　それに青子はでしょうね、とだけ答えた。
「ところで有珠、さっきからなに読んでるの？」
「霊的進化論の二次創作。スピリチュアル・ダイアリのまがい物」
「ああ、スウェーデンボリ。そんなの、いまさら読んでも仕方ないんじゃない？」
「真書なら退屈だけど、これは偽書だから。
　彼の欠点と長所を劇的に誉めあげている。よくできた冒険小説のようよ。立ちはだかる秘密組織の名前がカントとか、気が利いているわ。
　……筆跡は、あなたのお祖父さんのものだけど」
「……へえ、あの人そういう趣味まであったんだ。
　わりとユーモアがあったのね。惜しい人をなくしたわ」
　もうこの世にいない祖父を懐かしむように青子。
「あなたのお祖父さん、夏に便りをくれたけど」
「よしてよ、死んだものと考えたいのに」
　ふう、とため息をついて、青子はソファーに思いっきり寄り掛かった。
　クッションにガタがきているのか、背もたれと一緒に青子は床に寝そべる形になる。
「……話は戻るけど」
　寝そべっている青子に、有珠はちらりと視線を投げた。
　ソファーに埋もれた青子の体は、横臥したまま死体のように動かない。
　ソファーに寝そべった青子の心境は、少し乾いていた。
　有珠は無言で<青子|じぶん>を責めている。
　それを思うと今日一日の新鮮な出来事も、次第に<瑞々|みずみず>しさを失っていく。
　……有珠の無言の責めを無視すれば、話はここで終わってくれる。
　ふたりはこのまま席を立ち、今日のミスをうやむやにしたまま明日を迎えられるだろう。
　しかし。
蒼崎青子は、そういう真似ができない人間だ。
「いいわよ、なに？」
　青子は倒れこんだまま有珠に問う。
「今日できなかったのは、少し痛いわね」
「だから反省してるって。
　学校優先は一人前になってから、でしょ」
「なら、いいけど」
　無機質な有珠の声に、青子はぎり、と歯を噛んだ。
　彼女の言いたい事は分かっている。
　なにより青子自身がよく分かっている。
　学園生活の<外面|そとづら>と、今の生き方との折り合い。
　現代に隠れ住むというけれど、その隠れ方が半端だと有珠は言っている。
　つまり、彼女の沈黙が語るところは―――
『……覚悟を決めろって言いたいのよね、あんたは』
　今日の失敗はそれほど大きいものじゃない。
　この洋館と学園生活を秤にかけて、たまたま学園に重きをおいてミスをしただけの、小さな事件だ。
　ただ、今の青子の半端さを象徴する、分かりやすい心の甘さであっただけ。
『……有珠は関係ない。
　これは、私が私で決めなくちゃいけない事……』
　基礎はたった一年と半年。
　けれど予感は物心がついた時からあった。
“選んだのなら、いつか必ずその日は来る”、と。
　なら自分の良心も道徳も、いいかげん根負けしている頃だ。
　よし、と青子は勢いよく体を起こす。
　起きた先には、無言で視線を向ける有珠のか細い美貌だけがあった。
「オッケー、有珠。来週中に決着をつけよう。
　それでいいんでしょ？」
「ええ。青子がいいなら」
　それと似たような言葉をつい数時間前に聞いた気がして、ブンブンと頭を振る。
　なんだって帰ってきてまで、あんな田舎者を思い出さなくちゃいけないのか。
「じゃあ下準備はよろしくね。私まだ出来ないし」
「場所は例の公園でいい？」
「妥当な線ね。あ、でももう一件の方は？
　そっちの方が急務じゃない？」
「時と場合。森に変化があれば教えるわ」
　そんな短いやりとりが終わると、有珠は膝に置いた本へと顔を落とした。
　両者にとって最も重要な話は終わった。
　あとは普段通りの、それとなく気が合う同居人に戻るだけである。
　さて、とばかりに青子はテレビのリモコンを取って電源を入れた。有珠が読書しているので、自分はブラウン管に映る<出来事|バラエティー>に途中参加しようとし、
「あ」
　突然、有珠がそんな声を上げて、消した。
　見れば片手で口を押さえている。
　何かを話そうとして、それが意味の無い話だと気付くと彼女はすぐに口を閉ざしてしまう。
　時々その自制が間に合わなくて、今のような仕草をする事が<希|まれ>にある。
　たしか、前は『な』だったな、と思い返しながら、青子は可憐な同居人に視線を向けた。
「ん、なに？」
　テレビの音量を下げる青子。意志の強い目が、猫のようにいたずらっぽい光を放っていた。
「……どうという事はないんだけど」
「ないんだけど？」
　有珠は言おうか言うまいか迷っていて、恥ずかしそうにそっぽを向いている。
　こういった時の彼女の表情は温かみがあって、なんだか歯痒いぐらい好感が持てた。
　たぶん今の有珠を見れば彼女の父親も、その名前がぴったり似合っていたと思えるだろうに。
「……
今日、帰ってくる時おかしな物を見て、誰かに話そうと思っていたんだけど……」
　青子はうん、と頷いて先を促す。
「つまらない、本当に意味のないコトよ。
　けど、どう考えてもそんな事をする理由が分からない。
　……青子、人間ぐらいの大きな猫が、ひょこひょこ出前をする理由って、分かる？」
　一瞬、青子はまた、有珠の冗談になっていない冗談のたぐいだと思った。
　いや、普通は思う。
　けれど有珠は真剣に悩んでいる。
　有珠のユーモアセンスに零点をつけたのは青子だが、これは零点にしてはわりとロマンがあるので、やっぱり有珠は見たままの事を話しているらしい。
「んー……その話にはふたつぐらい信じがたい部分があるけど、ひとつずつ論破していい……？」
「いいの。わたしもカラクリぐらいは思いつくから。
　ただ、理由が分からないから聞いてるの。
　わざわざ精巧な猫のぬいぐるみを着て、出前の<店屋物|てんやもの>を届けに行く事って、そんなに簡単かしらね」
「難易度以前に、それをやる人間の常識性を疑うけどね、私は」
　青子の言葉に、有珠も少し頷く。
「まあ、世の中色々あるから。私達みたいのもいれば、外界から遮断された山奥で暮らしていた奴まで十人十色よ。
　私だったら、見かけたら声かけて理由を<訊|たず>ねただろうけど」
　その言葉に、有珠は少しだけ顔を背けた。
「……ふーん……暮れゆく住宅街にさまよう<出前猫|でまえねこ>かあ……背景が夕焼けだったらファンタジーだったでしょうに。
　……で、今日の夕飯どうする？
　せっかく話が出たし、私らも<店屋物|てんやもの>にしようか？」
　出前好きな青子は嬉々として言う。
　この館において夕食は当番制でもなんでもなく、気が向いたほうが二人分用意する、という実にアバウトな方式が採用されていた。
　下手をすると一週間夕飯なしが続くという展開もあるが、ふたりにとってはこれが一番居心地が良いのだ。
　調理の手間を惜しんでか、それとも単純に出前が好きなのか。
　今夜のような展開は珍しくもなく、結果、三咲町の食事処からこの館は要注意扱いされていた。
　決まって夜遅く……人気も絶えた夜八時過ぎ……に、こんな坂の上まで来いというのだから、彼らの憂鬱も当然である。
「時間は八時前、ぎりぎりセーフね。私<昏月|こんげつ>がいいな。あそこの月見そば、最近ご無沙汰だったし」
　ポーカーのカードのように並べられた店々のお品書きを取り出し、まだ見ぬ夕食にご満悦の生徒会長。
そんな、幸せそうな青子を一目も見ずに、有珠はさらりと返答する。
「悪いけど、わたし夕飯済んでるの」
　その言葉で青子の体は凍りついた。
　出前物は最低二品、つまり共同者がいなければ運ばれないのだ。
　たった一品の蕎麦で人を呼びつけるようなお姫さまに、世間は果てしなく冷たい。
　余談だが、実は坂の上対策として
『来年から三品以上の注文のみ出前アリとする』
　なんて魔のルールが可決されつつある事を、青子たちはまだ知らない。
「こ、この裏切り者…！
　ふん、だから帰ってくるのが遅かったのね!?
　帰宅部、学校までバス・徒歩込みで片道二十分のあんたが、なんで五時以降に帰ってくんのか考えるべきだったわ！」
　しかし悲しいかな、その時の青子は自分が眠った事にも気付かないほど寝惚けていたのだった。
「あーあ、ひどい女。そういう時は残されたひとりのためにお土産買ってくるのが暗黙の了解だったのに。
　私だって、この前の外食の時は有珠の分も買ってきたじゃない」
　どこまで本気なのか不明なのだけれど、青子はそれなりに怒っている。
　なにしろ朝は空腹で目が覚め、電話で呼び出されて以来、紅茶しか口にしていない。これでお<腹|なか>が鳴らないのは奇跡に近かった。
　まあ、それはそれで自分が悪いとして、ついでに別件として、さっきいじめられた反撃とばかりに青子は一気にまくし立てて、
「……この前ってアレの事？
　あなたが都心に出向いた時、夕食にお寿司を食べてきたのに、お土産はなぜかコンビニエンスストアのビニール袋だったって話？」
　<薮蛇|やぶへび>だった。
「な、なによ、買ってこないよりはマシでしょう」
「真実は時に<隠蔽|いんぺい>すべきね」
　有珠の視線は冷たい。
　たしかに、あの時もくもくとコンビニ弁当を食べる有珠の横で回るお寿司の話をしたのは失敗だった。
　だが新しい物好きの青子にとって、近頃オープンしだした『回転寿司屋』という驚異について考察する欲求は抑えられなかったのだ。
　正直なのも場合によっては罪になる。
「……分かった。分かりました。じゃあ、今回のは前のと帳消しって事でいいわね？」
　これといった否定の意を示さず、本に視線を戻す有珠。
　肯定の意も示さなかったのが少し怖い。
「仕方ない、今日は<厄日|やくび>だし。
　大人しく台所に立って料理の腕を<磨|みが>くとしましょう」
　誰に言うのでもなく立ち上がる青子。
「あ、聞き忘れてた。有珠、どこで夕食すませたの？」
　ぴたり、と本の<頁|ページ>をめくる手がとまる。
　ここまで青子の相手をしながら読書していたけど、それももう限界、と本は閉じられた。
　有珠は本を片手に立ち上がると、スタスタと居間を横断。
　扉に着いたところで青子へと振り向いた。
「聞きたい？」
「まあ、なんとなく……」
　迫力に押されて、遠慮がちに頷く青子。
　有珠は何でもない事のように、
「その猫が、あまったメニューをくれたのよ」
　簡潔に答えて、居間から立ち去っていった。
　都会の朝は遅いようで早い。
　もしかしたら朝なんて無いんじゃないかと思うぐらい、どこもかしこも目が覚めている。
「…………」
　まだ聞き慣れない、岩を<転|ころ>がすような<悲鳴|ひめい>で目を覚ました。
　怪音の正体は自動二輪車のエンジン音で、どうやらおとなりの<吉田|よしだ>さんが出勤したらしい。
　朝が<曖昧|あいまい>なこの街は、夜だって曖昧だ。
　機械仕掛けというのは眠らない事と同義なのだろう。
「信じられない……まだ陽も昇ってないのに……吉田さんはどこに行くのか……」
　のっそり床から身を起こす。
　これまでの習慣であたりを徘徊しそうになって、その必要はないと気が付き、流し場に向かう。
　コップに<二口|ふたくち>分の水を<汲|く>んで、ゆっくりと喉に通した。
　ちょっと前までは井戸水を汲んでいた草十郎にとって、この便利さは喜ばしい。
　喜ばしい、と思うことが正しい。
　文明とは複雑化と最適化を突き詰めるもので、
　生活に必要なものは手間を減らし、
　人生に必要なものはより複雑さを増していく、と教えてくれたのは<恒河|こうが>さんだったか。
　<手前|テメエ>はともかく前者の方から慣れるべきだ、とも彼は言った。
　草十郎の父の遠縁である恒河氏は、わりと、ほとんど他人に近い草十郎をここまで世話してくれた恩人である。
　アパートの契約や学校の手続きが問題なく済んだのは恒河氏の<尽力|じんりょく>あってのものだ。
　一方、住民票の<写|うつ>しやら移転届けやらは自分の手でやりやがれと叱られた。
　草十郎にとって手続き関連は困難なことこの上なかったが、これから都会で暮らしていくんだから、と前向きにこなしてみれば、こちらも呆気なく片が付いた。
『お役所仕事は厳しそうに見えてわりといい加減』
　草十郎が街での生活を始めてから、最初に覚えた教訓である。
　草十郎が田舎からやってきて二週間。
　不安だらけだったひとり暮らしも、やってみればなんとかなるものだ。
　言葉が通じるんだから当たり前と言えば当たり前だし、なにより恒河氏の言うとおり、生活面だけなら都会の<あり方|ルール>はがっしりと筋が通っている。
　硬い、驚くほど歩きやすい道を歩く。
　アルバイトの時間まで、時間つぶしに公園をジョギングする。
　草十郎にしてみれば、こんな運動すら大事な教訓になる。
　通り過ぎる人々はひとりひとりが新鮮で、
　挨拶をしてくれるおじいさんも、
　うつむいて歩く二十歳ぐらいのお兄さんも、
　ベンチに座って鳥に囲まれている女の子も、
　草十郎にとっては<得難|えがた>い風景だ。
　まだ街に慣れていない彼は、とにかくルールの把握に努めなくてはいけなかった。
　複雑だったり単純だったり、
　意味があったりなかったり。
　自然とだけ向き合っていればよかった山の暮らしと比べて、街の暮らしは選択肢が多すぎる。
　正直、今の草十郎には毒々しいとさえ言えた。
　いまのところは不安になるような出来事ばかり。
　ただ、その中にも心の底から感心できるルールだってある。
　色々と合点のいかない<損得勘定|ルール>で回る都会だが。
　とりあえず、お金さえあれば必要な物はあらかた貰えるのは、なるほど、都会の暮らしも悪くないと思う草十郎なのだった。
「いや、そうシンプルな話じゃねぇよ。
　金なんてものはあくまで記号で、本当に大事なのは別にあんだからさあ。
　しょせんは流動する肩たたき券と変わんねーっつーか、別に一万円札食っても<旨|うま>くねぇっつーか……あー、ともかく金で真心は買えねえじゃん？」
「えー」
「えーじゃねえよ！　ザケンなよー、オレは悲しいよー。
　ついこの間まで四千円っぽっちの日当に鹿みたいに首かしげていた正直者が、くっだらねえ皿洗いをしながら“ま、世の中金だよね”なんて、ぼそっと言わないでくれっつの」
「いや、貨幣制度は素晴らしいと思う。正直、物々交換の限界を感じた。
　それより<木乃美|きのみ>、ふざけてると<皿|それ>、落とすぞ」
「え？　って、うおぉぉおヤベえヤベえ、つぎ割ったら今度こそオレの頭が割られちまうからな！
　忠告サンキュー。それで、相談ごと？　なに、もしかして金？」
「そうなんだ。とりあえずお金は大事で、たくさんあるに越したことはないって痛感した。なんで、出来ればもうちょっと働きたい」
「うぇ、マジぃ？　マシーンみたいに皿洗いをこなしながら夢のないコト言わないでほしいなあ。
　世の中金じゃねえって言ったばかりじゃんか。やっぱラブじゃんか。ところで水冷たくないですかね？　冬場の皿洗いって割合わねえコトこの上ねえよな？」
「そりゃ冷たいけど、これぐらいは我慢しないと。
　山の水は冷たいっていうより痛かったし」
「氷水とおんなじにすんな野生児め。……しっかしアレだね、あきれた順応力、いや忍耐力？　つーの？
　レジ打ちすらできなかった新人がよぅ、たった四日でしみったれたメシ屋の<社畜|しゃちく>になっちまうなんて……やっぱ世の中金ってコトかねー。資本主義ってすげー」
「うるっせえぞバカバイト、文句あんなら辞めちまえ！
　うちにゃあ<穀潰|ごくつぶ>しにくれてやる小遣いはねえ！」
　間髪いれず、すっかーん、と飛ばされる罵声と<菜箸|さいばし>。
　未成年でも働かせてくれるアバウトな中華飯店の店長は、たとえ赤ん坊の頃から顔見知り……お隣さんの息子さん……であろうと鉄拳を振るう、たくましい人物だった。
　こういうのをスパルタと言うんだな、と草十郎は感心する。
「ほら怒られた。任された事はきちんとやらないと」
「けっ、優等生め。こっちは何かと反抗したい年頃だっつの。
　まあいいや。話は変わるんだけどよ。
　静希、夜に出歩くタイプ？　それかチャリンコで出ばる趣味？　いやまぁ、どっちかでいいんだけど」
「……？　バイトの帰りはほとんど夜になるけど、そういう話じゃないんだよな。夜の散歩も遠出も趣味じゃないけど、それが？」
「いや、なにさ。静希、引っ越してきたばかりだっていうからよ。オレらが言うのもなんだけど、<三咲町|うち>、ちょい治安が悪いっての？　ガラが悪いワケじゃねえんだけどな。
　年間十人ぐらい通り魔事件っての？　そういうの、起きてっから」
「……とおりまって、なんだ？」
「そっからかよ！
　……なんだ、ほら！　カバン強盗……でもないか。
<辻斬|つじぎ>りってのが近いのか。住宅街とか、まだ森が残ってる方によく出やがるんだよ、そういうおかしいのが。
　なんで、あんまり夜遅くは出歩くなよな。三咲丘の公園とか、有名な怪奇スポットだから。
　通り魔の犯人は口裂け女だったって話、知らねえか？」
「ごめん、まずその口裂け女ってのが分からない」
「怪談だよ。口が耳まで裂けてるってヤツ。
　今じゃさすがに時代遅れだけどよ」
「えーとなんだっけ、深夜の道にな、コート姿の女が待ち伏せていて『わたしきれい？』とか聞いてくるんだよ。
　で、キレイって言ってもイマイチって言っても家まで追っかけられて殺されるの。
女の情念はおっかねえっつうか、アメコミの怪人っぽいっつうか」
「……いや、それ本気で怖くないか？
　家まであがってくるのか、その女の人？」
「窓から入ってくるらしいぜ。
　ガサガサと、こう、ゴキブリみた―――
ぎゃっ！？」
「っのクソガキが、厨房でその四文字は禁止だってんだろ、殺すぞ！」
　そうして木乃美の後頭部に炸裂する、店長のフライパン／縦攻撃。
　なるほど、町は危険であふれている、と草十郎は再び感心した。
「殺す殺すってバカじゃねえの!?
　フツーそっちの方が禁止用語じゃねえの!?　ここレストランなんだしさ！　いや、あんまうまくねーけど！」
「木乃美、頭、大丈夫か？」
「え？　あ、ん、心配無用。オレ、なんでか頑丈さには定評があるから。特に頭部について。
　ともかく、そういうワケなんで夜の暗がりは気をつけるぞなもし。静希、見るからにカモそうな顔してるし」
「ありがとう。
　ところで、年間十人というのは多い方なのか？」
「知んねぇよ。少なくはないだろうけど、多い方でもないんじゃねえか？
　ま、<三|う><咲|ち>の通り魔事件が他に比べて厄介なのは、まだ犯人が見つかってないってコトだからネ！」
　はははは、と陽気に笑う。
　そうやって不吉な話を笑い話に切り替える木乃美の高度な意図は、もちろん草十郎には伝わっていない。
　親切な忠告も<糠|ぬか>に<釘|くぎ>。
　そっか、ここは笑うところなのか、とまたも真剣に感心する草十郎なのだった。
　その帰り道。
　前にも後ろにも人のいない、電灯だけが照らす暗い住宅地で、草十郎は唐突に、
「……？」
　何か、ありえない物音に振り返った。
「―――あいた！？」
　脳天に刺さる衝撃と、ぽとん、と足下に落ちる音。
　ついてない、と<眉|まゆ>を<曇|くも>らせる。
　電柱にぶつかって墜ちてきた小鳥に、歩いていた自分がぶつかってしまったらしい。
　ムクドリは路面で<毛繕|けづくろ>いをした後、あわただしく飛んでいった。
　鳥が墜ちてくるコトも、
　その後、慌てるように飛び去っていくコトも、
　彼の今までの生活、今までの常識にはなかった事だ。
　町の人間なら『墜ちてきた鳥に当たる』なんて不運、奇遇に、不吉なものを感じるのだろうが、草十郎はなるほど、とうなずいて帰路についた。
　―――なに。
　自分にとっては初めての経験だったが、都会ではよくある事に違いない。
「たっだいまー！　ねぇ、有珠帰ってるー？
　教会から帰る時、商店街でお土産もらっちゃったー！
　<伊|い><勢|せ><屋|や>の<煎餅|せんべい>、一緒に食べないー！？」
　夕日色に染まったロビーに<弾|はず>んだ声が響く。
　制服姿の青子が元気よく帰ってきたのは午後五時過ぎ。
　生徒会の雑務と、月に一度の教会との<折衝|せっしょう>を終えてからの帰宅だった。
「……おかえりなさい。
　その様子なら何事もなく終わったみたいね、青子」
　出迎えの声は二階から。
　活力に満ちた青子とは対照的な、静けさの化身じみた少女が下りてくる。
「難癖はつけられたけど、<滞|とどこお>りなく。
　うちの問題はうちの問題だから、今回も手はださないって方向でまとまったわ。……それでいいのよね、有珠？」
「……ええ。ネコの手なら借りたいけど、あの人たちの手は信用ならないし。いつも通り、後処理だけお願いしましょう」
「賛成。後ろからバッサリやられかねないしね。だいたい、私もアンタも背中を気にして没頭できる柄じゃないし」
「……わたしはできるけど。
　青子は単に、まだそれほどの余裕がないだけでしょう」
「む」
　かつん、かつん。
　階段を下りる足音も<淑|しと>やかに、久遠寺有珠はロビーに到達する。
　……その途中、天井の窓ガラスに目をやった事を青子は見逃さない。
「ガラス、<曇|くも>ってるわね」
「その事で話があるわ。今日の課題が終わったら、だけど。
　……青子、体の調子は？　疲れているなら休みを入れてもいいけど」
「え？　なによ、気味悪いなあ。気遣いされるコトなんてないってば。いつも通りの一日だったし、そんな疲れた顔してる、私？」
　そう。あえて言うなら、本日の学園生活、順風にして波高し。
　ざっと<俯瞰|ふかん>すればいつも通りの平和なスクールライフで、
　よくよく思い返すと微妙に頭の痛い出来事があったりして、
　つきつめると精神的にちょい疲れているけど、それを意識するとよけい疲れるので避けたい青子なのだった。
「……ストップ。なんで帰って来てまで、あんなののコトで疲れなくちゃいけないんだ、私。
　えっと、今日の課題って初歩の<暗示|ウィッシュ>でしょ？
　問題ないわ、すぐ始めましょ。今日はなんか、勢いでうまくいきそうな気もするし」
　おもに怒りとか、ストレス発散の方向で。
　青子はよし、と気合いをいれて二階に向かう。
「どうしたのよ。有珠の部屋でやるんじゃないの？」
「――――――」
　礼服の少女はそうだけど、とやや不満そうにうなずいて、
「それで、伊勢屋の煎餅って、今日の？」
　青子の手にある、今日できあがったばかりの和菓子を見つめるのだった。
　結局、日課である有珠の授業は、軽くお茶をした後に行われた。
　まだまだ見習いである青子にとって、久遠寺有珠は同居人であると同時に得難い教師である。
　彼女が青子の健康をいたわって休みを入れると判断したのなら、大人しく従うしかない。
　授業は二時間で終了し、ふたりはそれぞれ用意しておいた夕食を済ませ、一日の締めである夕食後のひとときを過ごそう、と<河岸|かし>を変えた。
　サンルームは居間のとなり、美しい庭園が見渡せる屋敷の東側にあった。
　豪華な居間に負けず劣らず、細かな気遣いと格調高い調度品で飾られた久遠寺邸自慢のサンルームは、しかし。
「来年の夏はジャングルね、この分だと」
　庭掃除という<意識|コマンド>が欠如した住人のせいで、色々と台無しだった。
「ねえ有珠、庭掃除専用のプロイとかいないの？」
　一足先にサンルームに入り、ティーポットから紅茶を淹れる青子。
「探せばいるかもしれないけど、少し手間ね」
　同居人の<戯|ざ>れ言を流しながら、有珠も自分用の椅子に座ろうとし、
　テーブルの上に置かれたチョコレイトの箱を見て、<可憐|かれん>な眉を曇らせた。
「な、なによ。言っとくけど、今日の失敗は半分有珠のせいよ？
　お煎餅で気が<緩|ゆる>んだのが敗因っていうか、そりゃ、<暗|ウィ><示|ッシュ>のつもりがガンドになっちゃったのは、我ながら攻撃的すぎると思うけど……」
「六個、減ってるわ」
「え？　なんだ、そっちのコトか」
　青子はどれどれ、とチョコレイトの箱をのぞき見る。
　世界中さがしても、この街の、この洋館にしかない高級洋菓子。
　銘柄は<６|シックス>ペンスの唄、と言うらしい。
「で、鏡の話をするんだっけ？
　アレ、いま洋館モードから三咲モードになってるんでしょ？」
「ええ。ここの管理はおざなりになるけど、三咲市だけに切り替えたわ。……それが昨日から曇りだしている。
　少しずつだけど、確実に包囲されてるわね」
「包囲って、数が増えたってコト？」
「捕捉していた一名はもちろん、他にもう二名ほど不審者を目撃済み。都市部に一、郊外の森に二ね」
「はあ。アンタの目撃談はアテになるからなあ。
　で、うるさいのはどっち？」
「……森の方。捕捉中だけど、こっちの目に気づいているみたい。なかなか誘いに乗ってこないわ」
「そっか。
じゃあ今夜、仕掛ける？」
“今夜、仕掛ける”
　それは彼女の人生を大きく、それこそまったく別のものに変化させる一大行事だ。
　大げさではなく、穴のあいたパラシュートで自由落下するぐらいの覚悟と冒険、適応資格アリナシを決めるダイス勝負。
　その恐れと迷いを、青子は紅茶と共にあっさり飲み下した。
　高校の創立記念日の夜、「もう決めた」と宣言して以来、彼女は心身共にキレイさっぱり切り替わっている。
　そんな同居人の強さを、有珠は伏し目がちに受け入れた。
「………………」
　同居人の心のあり方は、同じ目的を持つ者として心強い。
　いや、心強い、というより喜ばしい。
　なにしろ一年かけて、ようやく彼女が自分と同じステージに立ったのだから。
　奇しくも同じ<結末|うんめい>を持った隣人。
　けれど相容れない相手。
　所詮分かり合えない他人。
　いずれ、互いが受け継いだ全ての遺産をもって殺し合う関係だとしても、まず対等にならなければ意味がない。
　だから今は、彼女の成長を喜ぶのが正しいのだ。
「……折角だけど、今夜はわたしひとりで十分よ。
　そんな余裕があるのなら、貴女はもう少し暗示の練習をするべきね。公園は貴女の担当だから、その時は働いてもらうけど」
　有珠は青子を見ずに淡々と説明する。
　今夜の敵の規模。
　今後の予定。
　おそらく二日後あたりになるであろう、蒼崎青子の<新|・><し|・><い|・>誕生日について。
「はいはい、わかりました」
　紅茶を飲み干し、席を立つ青子。
「お言葉通り、暗示の練習でもやってるわ。
　えーと、一節目はたしか、“軽く、弱く。巧く、速く。チクタクチクタク　急げや急げ”よね？」
「……はあ。そこは“空<気のおも|かるく　よわく>り、<胸のふるえ|うまく　はやく>。ひ<かりは|いそげやい><遅|そげ>れる、か<げは先立|チクタクチクタク>つ”よ。
　気をつけなさい。それだと逆に落ち着かなくなるわ」
「そうだったそうだった。んじゃ、ひとつ失礼」
　チョコをひとつ<摘|つ>んで、ぽいっと口に<放|ほう>る。
「……………………」
　手を振ってサンルームを去る青子を、有珠は無言で見送る。
　少女はしばし固まったあと、同居人のつまみ食いを<咎|とが>めるように、カチリと乱暴にチョコレイトの箱を閉じた。
　―――オハヨウ　ゴザイマス。
　午前零時ヲ　確認　シマシタ。
　前回更新ヨリ　二十四時間　経過。
　<安全管理|バックアップ>、開始。<行|レ><動|コ><記|ー><録|ド>、送信。
　周囲ノ地形ヲ　<再確認|スキャン>　シマス。
　大気成分―――
　窒素、異常ナシ。
　酸素、異常ナシ。
　アルゴン、異常ナシ。
　二酸化炭素、異常ナシ。
　第五仮説要素―――異常／異常／異常／アリ。
　周囲ノ時空連続体ニ　齟齬ヲ　確認。
　第一種　危険物トノ　遭遇ト　断定。
　知覚領域ヲ　主観→客観ニ　変更。
　自律回路ヲ　予備電源　ニ　、
　計測回路ヲ　主電源　ニ　変更。
　<視覚|カメラ>ヲ　赤外線計測　カラ
　虚数線計測　ニ　変更。
　―――デハ。
　コレヨリ　戦闘行為ノ　記述ヲ　開始シマス。
　主ヨ。
ドウカ我ガ身ヲ　護リタマエ。
　三咲市には森が多い。
　都市開発は進んでいるが、郊外にはいまだ深い自然が息づいている。
　<物知|ものし>りな樹木が伐採され、
　温かな腐葉土が<拓|ひら>かれ、
　不思議そうに首をかしげる小鳥たちが消え去っても、真に力のある<緑|みどり>は生き続ける。
　文明の光が、彼らの<培|つちか>ってきた年月を<侵|おか>すほどの強さになるその時まで、神秘の領域として有り続ける。
　……この森もその一つ。
　手つかずのまま郊外に放置された三咲町と三咲丘の<境界|ボーダー>。
　今では住みかを追われた獣たちが細々と暮らす、地方都市ならどこにでもある、いたって<平均|ノーマル>な、帰らずの森である。
　　　
Hey diddle diddle,
　　　The cat and the fiddle,
　森には、既に冬が到来していた。
　<薄刃|カミソリ>のように肌を<削|そ>ぐ冷気。
　膝元までにじりよる氷の気配。
　露出した<頬|ほほ>はこわばり、吐息は白い雲になって消えていく。
　気温にして摂氏一度。
　寒波は森全体に、大地や木々、獣たちに染み渡る。
　　　　　　
The cow jump'd over the moon,
　　　　　　The little dog laugh'd
　昼の森は人々を立ち入らせず、
　冬の森は獣たちすら眠らせる。
　漂う<夜気|やき>は亡霊の息そのものだ。
　<月|つき><明|あ>かりを<呑|の>み、<一寸先|いっすんさき>の<崖|がけ>を隠し、迷いこんだ哀れな生贄を破滅させる。
　聞こえるのは<微|かす>かな風の音と、川のせせらぎ。
　ここは<生命|いのち>を感じさせない<無窮|むきゅう>の闇。
　獣はおろか、人の息など有るはずがない。
　だが、
　その中を行く、不釣り合いな黒衣があった。
　霧の海に迷いこんだ小舟のような、あまりにも小さく弱々しいシルエット。
　たよりなげな足音が響く。
　木々のヴェールを抜けるのは、紛れもなく、年若い人間の少女である。
　　　　
To see such craft,
　　　　And the dish ran away with the spoon.
　　　『来たぞ来たぞ』
　　　　　　　　　　　　　　『居るぞ居るぞ！』
　　『誰が誰が？』
　　　　　　　　　　　『誰と誰が！』
　『お腹は減ったの？』
　　　　　　　　　　　　　　　『お腹は鳴ったさ！』
　　『どっちが食べる？』
　　　　　　　　　　　　　　『どっちも食べる！』
　『キミは左手、』
　　　　　　　　　　　『オマエは右手！』
　　『歓迎しないと、』
　　　　　　　　　　　　　　　　『感激しないと！』
　　　　　『『なにしろようやく楽しいお客！』』
　　　　　　　『ついでにお<腹|なか>と<頸骨|けいこつ>も、』
　　　　　『せっかくだからよく噛まないと！』
「――――――」
　木々の影が不気味に笑う。
　幻聴か。錯覚か。あるいは<本|・><物|・>か。
　少女の歩みに合わせて、寄り添う影がパタパタはしゃぐ。
『さあさあ、さあさあ』
『もっと奥へ、もっと奥へ！』
『ところでダイスは細工済み？』
『お<胃|なか>の重いローデッド』
『はじっこ<囓|かじ>ったエッジワーク！』
『どうでもいいけど、<肝心|かんじん><要|かなめ>の六の目だけはださないように！』
「――――――」
　少女の眉が、かすかに歪む。
　聞こえる筈のない声、
　いる筈のない獣の気配に怯えるように？
　まさか。
　きつく結ばれた唇には、微塵の恐れもありはしない。
　少女の歩みは自らの意志によるもの。
　恐怖があるのなら、そもそも足は進ませない。
　木々の奥。
　夜気に隠れながら見つめてくる二体の人影に、少女はきちんと気づいている。
『見たぞ見たぞ』
『来るぞ来るぞ！』
『もう諦めろ』
『もう帰れない！』
　　　　　　『あんなに教えてあげたのに』
　　　　　『<余|よ><所|そ>に消えないオマエが悪い！』
　少女の歩みが止まる。
　<蠢|うごめ>いていた二人分の声も止まる。
　小川のせせらぎが、たき火の<爆|は>ぜ音のように聞こえる。
　そうして。
　<踝|くるぶし>ほどの小さな川の向こうに、街はおろか、この森にすら<在|あ>ってはならないモノが現れた。
「今晩は。話の分かる<主人|ひと>はいる？」
　少女は平然と語りかける。
　二人の口裂け男は<蝸牛|かぎゅう>のように、じりじりとにじり寄る。
「……そう。ただの<墓守|はかもり>、監視だけが仕事なのね。
　失敗したわ。これなら青子に任せれば良かった。
　ああ、けど―――」
　一方の口裂け男は立ったまま。
　もう一方の口裂け男は、我慢できないとばかりに、ぐらりと体を<傾|かたむ>かせる。
「青子にはまだ荷が重いわね。
　そんな姿だけど、貴方たちは一人前の魔術師のようだし」
　黒衣が動く。
　少女の右手には、夜なお深い<硝子|ガラス>の猫。
“…………？”
　こぼれたものは、小さな警戒と、脈絡のない<畏|おそ>れだった。
　二体の口裂け男はこの時、ようやく自らの<感情|いし>を表し、
「さようなら、お客様。
　きっと一瞬だろうから、お<別|わか>れだけ言っておくわ」
　その言葉に、彼等は明確に戦慄した。
　そもそも彼らには耳と口と脳がない。だから言葉なんて必要ない。
　彼らにとって有るものは“この瞬間”だけ。
　恐怖も、期待も、心のない彼等にとって起こりえない“<未|き><来|ぼう>”でしかない。
　なのに、彼らは予感したのだ。
　たった今、そしてこれから、身の毛のよだつ奇跡が、自分たちをメチャクチャにする―――
「さあ―――ごっこ遊びをしましょう、お人形さん」
　白い森に、鐘のような<夜|うた>が響く。
　森を凍らせていた寒波が、少女の声に吹き消されていく。
　そして、
　　　　　『いやいやずいぶん待たされた！』
　　　　　『さあ―――赤ずきんの登場だ！』
　<夜の饗宴|ディドルディドル>の幕が<開|あ>く。
　一方の口裂け男は混乱して少女へと襲いかかる。
　一方の口裂け男は恐怖から<森|うしろ>へと走り出す。
　水しぶきをあげ、少女に躍りかかる<奇形|きけい>の人影。
　少女は知っている。
　この口裂け男の両手はハサミで、心は子鬼。
　捕まえた子供を容赦なく、胴体からまっぷたつに切る悪魔だと。
「トゥィードル」
『お任せお任せ！』
『ようやく出番だ、あらよっと！』
　飛びだした子豚は<手鞠|てまり>のように。
　一メートルほどのぬいぐるみは、木々の合間を躍りながらすり抜けていく。
　そんな怪異を前にしても、口裂け男に迷いはない。
　男の両腕が上がる。長いコートの袖から現れたものは、人間の腕ではない。
　刃渡り五十センチを超える、凶悪な<出|デ><刃|バ><包丁|ソード>。
　今まで多くのエモノを切り裂いてきた両腕が、跳び<交|か>う子豚たちを正面から両断する。
“―――！？”
　口裂け男の手足が凍る。
　切られた子豚の体が割れる。
　がちん、と。
　頭から尾っぽまで断たれた子豚は、そのまま巨大なワニの口になって、口裂け男の腕に噛みついた。
　文字通り、肩口まで丸飲みである。
　それだけで男から全身の自由が消失した。
“―――、―――！”
　走る<怖気|おぞけ>。
　コレは子豚の使い魔ではない。
　子豚のカタチをした、<文房具|ホッチキス>の化け物である事を、口裂け男は瞬時に理解した。
『捕まえたのはダムでした！』
『捕まえたのはディーだってば！』
『ああでも残念、ご主人様は無口で無情で無関心！』
『けっきょく、どっちの手柄も同じこと！』
　　　　　
London Bridge is broken down,
　　　　　Broken down,broken down.
“―――、ギ”
　ありえない、と再三、口裂け男の気配が呟く。
　これはなんだ。
これはなんだ。
これはなんだ？
　喋る子豚。それはいい。
　肩口まで食いつかれた腕。それもいい。
　一瞬で森を<覆|おお>った、あまりにも濃密な魔力の波。
<忌々|いまいま>しいが、素晴らしい。
　しかし、それらは別段、驚くに値しない。
　稀少な使い魔、猟奇的な攻撃、他を圧する天賦の魔力。
　そういったモノは彼らにも覚えがあるのだ。
　何しろ彼らの雇い主が、その<類|たぐい>の異人である。
　しかし―――
『どうするどうする、いつまで放置？』
『手足一本、まばたきだって贅沢だ！』
『お支払いは面倒でも、できればポンドでお願いします！』
　コレは、なんだ。
　器物でもない。
　生物でもない。
　魔術回路によって動くクリーチャーですらない。
　噛まれた箇所は両腕だけだというのに、全身が動かない。
　金縛りや衰弱とはまるで違う。
　まるで自分が<本|・><に|・><書|・><か|・><れ|・><た|・><文|・><字|・>になってしまったような、もうどこにも行けない感覚。
　この口裂け男とて、その<奇形|きけい>が<示|しめ>す通り、幾たびの怪異を越えてきた。
　<幻惑|げんわく>、<魅了|みりょう>、<強制|きょうせい>。
　<氷結|ひょうけつ>、<屍蝋|しろう>、はては<魔眼|まがん>の最奥である石化まで。
　薬物から魔術、多くの<戒|いまし>めを経験した彼は叫ぶ。
　これは違う。違うものだ、と。
　いま彼を縛る戒めは、
　血液、筋肉、酸素、熱量とは別の法則。
　どのルールにも当てはまらない未知の束縛。
　……ああ、口にするのもおぞましいが。
　まるで、この世のすべてと<乖離|かいり>している。
　　　　　　
London Bridge is broken down,
　　　　　　Broken down,broken down.
　　　　　　London Bridge is broken down,
　　　　　　My fair lady.
“ギ―――”
　左右の肩口に食いこむ牙。
　彼はこのカタチとして生まれてから、はじめて怒りの<感情|いし>を覚えた。
　……基準は絶対でなければならない。
　いかな神秘、いかな怪奇にも法則はある。
　コレらはそんな、彼らの<矜持|きょうじ>を無視するものだ。
『さあ、三日で衰弱！』
　　　『六日で溺死！』
『半年たてば<惨|みじ>めな<骸骨|がいこつ>！』
『『でもでもご無礼、面倒だからいま殺そうか！』』
“シィィィィィィイイイイイ！！！！！！”
　吠えた。
　口のないものが、<憤怒|ふんぬ>の叫びを響かせる。
『うげ？』
『うげげ！？』
『なんて便利、自分の腕を<外|はず>せる<機構|きこう>！』
『おお、オマエこそ三国一のモノノフよー！』
　お喋りな子豚たちは小川に落ちた。
　憤怒の<声|おと>は、自ら両肩を破壊した炸裂音だ。
　両腕を失ってなお、口裂け男は少女へと走る。
「……役立たず。後でおしおきが必要ね」
　もはや切りきざむ腕はないが、彼には最大の悪意が残っている。
　<睨|にら>んだ者の心臓を<射|い><止|と>める魔眼。
　心筋を<梗塞|こうそく>させる事のみに特化した魔術回路。
　<単純|シンプル>ではあるが、だからこそ、この至近距離で放てば回避は不可能な死の<散弾|ショットガン>。
“―――？”
　だが。
　不幸な事に、彼には目しかなく。
　　　　
Build it up with wood and clay,
　　　　Wood and clay,Wood and clay,
　　　　Build it up with wood and clay,
　　　　My fair lady.
　少女の唄が違うものになっていた事に、最後まで気づかなかった。
　ソレにとって大地を震わす一撃は、虫を払った程度のものでしかない。
　隆々とわきたつ緑の血管。
　<乾|かわ>き、何百年という時を<食|は>み、電動の<回転刃|チェインソー>すら<弾|はじ>く<樫|かし>の皮。
　額には色とりどりの絵の具で落書きされた「emeth」の文字。……ところどころ間違った、お約束にすぎない綴りではあるが。
　その姿こそテムズトロル。
　あるいはフォーリンダウン。
　またの名をグレートブリッジ。
　<数多|あまた><異形|いぎょう>に賞賛される、四つの奇蹟の最初のいっぽ。
「テムズ、もう一体をお願い」
　少女の言葉に巨人が応える。
　地に根を張った緑の巨人は一歩も動かず、その左腕を天に<掲|かか>げ―――
“―――、―――”
　一方。
　交戦と同時に逃げ出した口裂け男は、夜の森をひた走っていた。
　相手を記録し、記述する事。
　それが、彼が己に課した<使命|オーダー>である。
　住み慣れた森を全力で逃げていく。
　有事の際は一体が敵に挑み、もう一体は撤退し、雇い主に報告するのが彼らの戦術だった。
　森を駆ける事。
　逃げる事だけに機能を特化させた口裂け男は、恐怖に縛られながらも、自身の勝ちを確信した。
　森で彼に追いつけるモノはいない。
　野生の狼ですら、離されないよう追尾するのがやっとだろう。
　カッカッ、と地面を蹴る鳥形の脚。
　制作者の<偏|かたよ>った趣味なのか、走行のみに特化した場合、彼の脚はこのように変形する。
　最高時速70キロ。
　二足歩行生物の限界を超えながら森を行く口裂け男。
　彼は数キロもの距離をとり、背後の安全を確認した。
　……追ってくるモノはいない。
　三日月型の口―――いや、目がほう、と安堵に<緩|ゆる>む。
　そうして。
“―――？”
　前方に体を向き直した時、彼は自らの死を見上げた。
　　　　　　
London Bridge is broken down,
　　　　　　Broken down,broken down―――
　彼方から聞こえる<暗黒童話|マザーグース>。
　地面から伸びた無数の<蔓|つる>。
　<橋|アーチ>を思わせる怪異は、さながら、巨大な腕に似て―――
　　　　　　
London Bridge is broken down,
　　　　　　My fair lady.
　最終報告。
　生還ハ　困難。
　解析ハ　困難。
　転送ハ　困難。
　状況ヲ　終了シマス。
　Ａａａａａ。主ヨ。ドウカ、コノ身ヲ、護リ―――
「……済んだようね。お疲れさま、戻ってテムズ。
　次はもっと、高価な場所ならいいのだけど」
　少女は踵を返す。
　この森に工房を構えた外敵は消し去った。
　彼らが善悪どちらのもので、どれだけの被害者を築き上げてきたか、少女には関心のない事だ。
　人間社会のしがらみに関心は持たない。
　それが純血の魔女、マインスターのあり方だ。
『ちょ、ボクたちは！？　ねえボクたちは！？』
『腕、この腕ぬけないんだけど！』
『噛んだままだとボクらも動けないっていうかさあ』
『ひどい、飛べないブタに用はないと！？』
『次、次はお役に立ちますきっと！　生まれてこの方、失敗続きのボクらだけど！』
『うん、壊れるまでに一度ぐらいは褒められたいね！』
「…………」
　少女はため息をついて小川に足を運ぶと、黒い手袋をとって、細い指を氷水に浸した。
「六の目はだすなって言うけど。
六の目しかでないようになってるわよね、貴方たち」
　憂鬱な呟きに、<応|こた>えの声はない。
　あれほど騒がしかった子豚は影も形もなく、少女の手のひらには黒い<賽子|ダイス>が二つだけ。
　少女は散らばった残骸に声をかけようとして、あ、と口元に手を当てた。
「……お別れは済ませていたわね。
　<銘|めい>ぐらいは、聞いておくべきだったかしら」
　白魚のような指が、名残惜しそうに唇をなぞる。
　少女は二度目のため息をついた後、訪れた時と同じように、ゆっくりと暗い森を後にした。
　カメラは少しだけさかのぼる。
　日付にすると１２月初めの、ちょっとした閑話休題。
　三時限目の授業が終わり、帰りの<ＨＲ|ホームルーム>を残すだけの土曜の昼前。
　２－Ｃ組の生徒である<静希|しずき><草十郎|そうじゅうろう>と<木|き><乃|の><美|み><芳助|ほうすけ>は、担任の山城和樹がいっこうに現れない為、帰りたいのに帰れない、という宙づり状態でベランダから校庭など眺めていた。
　他のクラスメイトたちは教室内で雑談中。
　ふたりの隣には、暇つぶしで付き合っている<Ａ|よ><組|そ>のクラスの<槻司|つきじ><鳶丸|とびまる>の姿があった。
　三人はやる気なさげにベランダの<欄干|らんかん>によりかかり、週末の予定などを話しあっている。
「木乃美はベアでアルバイトか？」
「バッカ、誰が日曜まで働くかってーの。
　明日はほら、Ｂ組の子たちと遊びに行く……予定だったんだけどなー。なんかうちから出られねぇー」
「む。それはつまり、またふられたのか」
「ごはっ、直撃!?　言いづらいコトをまっすぐ言うよね静希クンってば！」
「そりゃ毎日テメエのバカ面みてれば、ヒヨコだってふられるって言葉を覚えるだろうよ。自滅するのは勝手だけどな、くれぐれも草の字にヘンな遊び教えんなよ」
「あん、そりゃ<殿下|でんか>の方じゃねえの？
　気ぃつけろよ静希、<槻司|つきじ>はマジで腹黒いからよ。
　コイツの頭ん中は、ほら、アレ。ゴミ捨て場の貼り紙？　あんな感じだから。くっきり使えるモンと使えないモン分けてんだよ」
「ああ、それは知ってる。
　―――ところで唐突に思ったんだが、鳶丸の中じゃ木乃美はどういう扱いなんだ？」
「そうだなあ。粗大ゴミ回収は、金でも貰わねえとワリ合わなくなるんじゃねえか？　国が無料で回収するのはそろそろおしまいってトコ」
「はあ？　なに言ってんのオマエ？　使い古しの箪笥とか高く売れるじゃん！
　オレみたいな開封・即使用、みたいな男がこれからのトレンドなワケでしょ？　ほら、コンビニで売ってる使い捨てカメラとか大人気だし？　ようやく流行がオレの消費文明に追いついたと、」
「じゃあ木乃美はバイト、と。
鳶丸は？」
「来るからネ、ちゃんとオレの時代！」
「俺はちょい私用だ。親父の客が来てるんで接待しなきゃならん。街の案内をしてくれとさ」
「きけよー。人の話きけよー。
　あのよぅ、オレは妹の相手してやるだけなんだよぅ。隣のクソ中華飯店の手伝いなんかしねーよー」
「草の字は？　明日もバイトか？」
「いや、それが一日空いてる。今日はこれから遊園地でアルバイトだけど」
「うげぇ、それって魔のキッツィーランド？
　タフだねぇ静希。あそこのバイトは柔道部の連中でも音を上げるって話じゃんか」
「……なんと。まさか、ネコクロの荷物運びより辛い？」
「んー。いや、そこまではよく。
　しっかし山城のヤロウ遅ぇなあ。見ろ、となりのＢ組すらお帰りになられてるぞ」
「だな。仕方ねえ、面倒だが呼んでくるか。草の字を遅刻させるワケにゃいかねえし」
　大儀そうにベランダの手すりから体を起こす槻司鳶丸と、
　狙いすましたように、ピンポンパン、と鳴り響く校内放送。
『２年Ｃ組の静希草十郎くん。山城先生がお呼びです。至急、職員室まで来てください。繰り返します、２年Ｃ組の～』
　三人の間に気まずい沈黙。
　五秒ほどぼんやりしてから、草十郎はそれじゃあ、とふたりを残してベランダを後にした。
「面白いコトねぇなあ。誰か、校庭にミステリーサークルとか作ってくんねぇかなあ」
　肩の力を抜きまくり、完全脱力人間になりながらぼやく木乃美。
「他人の妄想力に期待すんなよ。刺激が欲しいならテメエでイベント起こせ。ほら、クラス分け発表の時よろしく、蒼崎につっかかればすぐだぜ」
「ひいい、蘇るトラウマ！　やだよー、会長の<大立|おおた>ちまわりは<面白|おもしろ>いのを通りこして<恐|おそ>ろしいよー。
善良な一男子生徒としちゃあ、美少女が転校してくるだけでいいんだよー。
　んー、まあ、フツーの子じゃつまんないから、ハリウッドのプロデューサーとか、イギリスの歌姫とかー」
「どんな<括|くく>りだそりゃ。そこは火星のお姫さまあたりにしとけよ」
『それと、２年Ｃ組の皆さんへ、山城先生から伝言です。
“山城先生は訳あってＨＲを欠席しますので、各自、勝手に下校しちゃってくださいね。それではでは”
　以上、放送室からお知らせしました』
「……どうよコレ。山城、新車買ってからフリーダムすぎねえ？　このままではあの真新しいセルビアに、オレのギザ<十|じゅう>がうなりかねん」
「鍵穴にガム程度にしとけ。教師の薄給はマジ同情に値するからな」
　ぼやきながらも教室に戻る悪友ふたり。
　職員室に呼び出された友人の心配は、これっぽっちもしていなかった。
「納得いきません。生徒のアルバイトは認められています。
　学校公認の職場であるなら、社会経験の一環として推奨する、と校則にもありますが」
「そうなんだけどねえ。彼の場合、やりすぎなのが問題なワケで。
仮に、もし認可していない、労働基準法に反してそうな所で働いてたら困るでしょ、<学校|うち>も彼も」
　<土曜日|ハンドン>の昼食を前に浮き足立つ職員室で、鬼の生徒会長となあなあ現国教師が危険な匂いをまき散らす。
　他の教師陣はくわばらくわばら、と会議室にそそくさ移動。
　山城教諭がおや？と気づいた時、職員室にいるのは彼と、生徒会長・蒼崎青子その人だけだった。
「……逃げたか。ひどいなあみんな、怖いのは僕に押しつけてばっかりだもんなあ」
「話の続きです、先生。
　仮に彼が指定以外のアルバイトをしているとしたら、それは彼の要求に学校側が応えていないからではありませんか？」
「下宿先の家賃を奨学金でまかなえとは言いませんが、時間の許すかぎり働きたい、という要望は考慮すべきです。
　指定外のアルバイトを疑うのなら、まず“働き先は一生徒につき一件だけ”という規則を改めてください」
　生徒会長の静かな語り口調に、これはどうあっても引いてくれないなあ、と山城教諭はうなだれる。
　事はもっと単純に済む筈だった。
『複数のアルバイトをしている』と噂をたてられた生徒を呼び出して事情を<訊|たず>ね、これが真実なら注意・指導し、世は全て事も無し、と昼食に向かう予定だったのだ。
　その話をたまたま職員室に来ていた生徒会長が聞きつけ、それはおかしい、と食いついてしまった。
　山城自身、生徒会長の意見はもっともだし、<件|くだん>の生徒の事情も理解している。
　個人的には応援してやりたいのだが、彼も悲しい新米教師。
　副教頭のご機嫌もうかがいたいし、薄給とはいえ職を失うのもよろしくない。
「……こればかりはね。副教頭先生直々の注意なんで、僕も助けてあげられないんだよ」
「それでしたら、落としどころがあればいいんですね？」
「うん？」
　生徒会長は鞄から一枚の書類を取り出した。
　今朝の職員会議でも取り上げられた、全教員の頭痛の種の一つである。
「蒼崎くん、それは」
「はい。<合田|あいだ>教会のボランティア参加の申告書です。
　今月も希望者ゼロですね。敬虔なクリスチャンである副教頭先生は、さぞお気を悪くしているかと。
　我が校の生徒には信心が足りん、と、今朝も<嘆|なげ>かれていたとか？」
「……そうだけど。どうして君が今朝の職員会議の内容を知っているか聞きたいよ、ホント」
　頭を掻く山城教諭だが、その目は楽しげに笑っている。
　生徒会長の狙いに合点がいったからだ。
「<魚心|うおごころ>あれば<水心|みずごころ>あり、ですか。
　教会への奉仕活動はボランティアだけど、きちんと謝礼がでる。あれもカタチの上では学校側が推奨する社会見学だからね。
　副教頭先生は参加者がでた事に喜び、加えて、」
「その参加希望者が既に他のアルバイトに就いていた場合、学校側の認可が二つになっちゃいますね。
　前例にしては、いい落としどころだと思いますが」
　まいった、と手をあげる山城教諭。
　問題を告発しながらも、きちんと解決策を提案してくる生徒はそういない。
　この女生徒が恐れられながらも頼られているのは、この姉御肌なところによるものだろう。
「よし、その方向で攻めてみよう。上手くいくよう祈ってくれよ」
「他力本願は嫌いです。<悪巧|わるだく>みに乗ってくれるのなら、きちんと活躍してください、山城先生」
　それでは失礼します、と礼をして職員室を去る生徒会長。
「あ、待った待った、君も残るんだ。
今から静希くんを呼ぶから、ちゃんと面倒見てもらわないと」
「――――――は？」
　少女のクールな瞳が、きゅっと細くなる。
　いま、心底理解できない台詞を聞いたんだけど、と山城教諭を睨みつける。
「いや、参加希望者は一人より二人の方がいいだろ。
　蒼崎くんがフォローしてくれるなら僕も安心だしね」
「あの、ちょっと、先生」
「あ、放送室？　２年Ｃ組の静希草十郎くん、至急職員室に来てください、で放送、お願いします」
「その、だから、先生」
「いやあ、これで万全だ！　まさか頭痛のタネが同時に消え去るなんて、今日はついてる！
　ああ、けど蒼崎くん、ずいぶん親身になってくれるんだね。なに、もしかしてああいうのがタイプ？　あ、放送室さん、ついでに生徒会長が心からお待ちしていますと付け足して―――」
「って、山城ォ―――！」
　翌日、気持ちのいい日曜日。
　草十郎は待ち合わせの時間より二時間早く目を覚ました。
　その後、気を落ち着けるためにジョギングがてらの散歩にでかけ、三十分で戻るつもりがあれこれ考えているうちに一時間近く経っている事に気づき、あわてて帰宅。
　何を着ていくものか考え抜いたあげく、結局、学校の制服で臨むことにした。
“午前十時、三咲中央公園の東入り口で待ち合わせ”
　昨日の職員室。
　風邪気味だったのか、蒼崎青子は頭痛を押し殺すような顔でそう言った。
「しかし、蒼崎の風邪は治っているのだろうか」
　草十郎はあさっての方向を見ながら、あさってを向いた心配ごとを呟く。
　ともあれ、そうして待つこと約五分。
　十時きっかりに生徒会長は登場した。
「おはよ。
　いつもの事だけど、時間だけはピッタリよね、貴方」
「――――――」
「ひどい顔ね。もしかして気分悪いの？」
「いや、体調はいいと思う」
　しんぱいごむよう、と軽く弁明する草十郎。
「だがしかし、蒼崎は制服だった」
「ええ。学校の行事だもの、当然でしょう？」
「――――――」
　がっくりと肩に重みを感じる草十郎。
　朝から<益体|やくたい>もなく浮き足立っていた二時間は、こうして容赦なく台無しにされた。
　休日の駅前を、制服姿の男女が歩く。
　はじめは丁寧に街の案内をしていた青子だが、今は必要最低限の説明だけにとどめている。
　草十郎が思いのほか町に詳しくなっていた事もあるが、
　やれここのゴハンがおいしいだの、
　急いでる時はこっちが近道だの、自転車を買うなら駅前デパートよりあっちの専門店のがいいだの、
　そんな会話をしている時、ハタと冷静に、今の状況が第三者的にどう見えるかに気付いたからだ。
「話は変わるけど。具体的にどんな労働内容なのか、そろそろ聞いていいかな」
　教会の奉仕作業に参加すれば、今後、アルバイトの<掛|か>け<持|も>ちを大目にみてあげられる―――
　そんな甘い誘いにコクコクと頷いた草十郎だが、例によって例の如く、どんな作業なのか考えてもいないようだ。
「……まあ、そんなコトだろうと覚悟はしてたけど。
　貴方、<合田|あいだ>教会は初めて？」
「教会なら二回目だ。珍しい建物なんで近寄ったら、中の人がタダでお菓子をくれたんだけど……」
　どういう仕組みなんだろう、と草十郎は真剣に考えこんでいる。
　うつむく仕草は哲学者のソレだが、しょせん、
“やっぱり二回目からはお金をとられるのだろうか？”
　程度の悩みである。
「……普通、そういうコトは子供にしかしないんだけどね、あの教会は」
　よっぽど迷える子羊に見えたんだろう、とため息をつく青子。
「で、どんな人にあったの？　神父、それともシスター？」
「それはそれは、綺麗な女の人だった」
「じゃあ<唯架|ゆいか>さんの方ね。今日会ったらお礼を……って、必要ないか。アンタの事だから、そのあたりはキチッとしてるだろうし」
「？」
「仕事の話なら簡単よ。学校でやってる事と変わらないから。
あの教会、規模のわりに人数が少ないのよ」
　早足で教会に向かう青子。
　なんだか敵地に向かう鬼将軍のようだ、と草十郎は不安げに眉を曇らせた。
　合田教会は古い歴史を持つ教会だ。
　駅から離れた、オフィス街と住宅地の<狭間|はざま>に建てられた白い聖域。
　青子の知るかぎり、たしか八年ほど前に今のカタチに改装された、こんな田舎町には十分すぎるほどの大教会である。
　ちなみに横にあるのは三咲市一の総合病院。
　青子からすれば、町で一番多くの命が失われる場所の隣にちゃっかり居を構える時点で信用ならない―――のだが、その所感を知るのは同居人である久遠寺有珠と、教会の神父だけに留まっている。
「蒼崎はこの教会に<縁|えん>があるのか？」
「私？　私はこれっぽっちも、もう過去に戻って<改竄|かいざん>したいぐらい微塵もないけど、うちの父と祖父は長い付き合い。
　ここの手伝いなんて、忌々しいコトに小学生の頃は毎日してたもんだけど―――」
　話せば話すほど、青子の表情は凶悪になっていく。
　忘れがたいトラウマと向き合い、胸ぐらを掴み、豪快に一本背負いをかまして脳天を地面にたたきつけたあと、無防備な胴体にローキックを食らわせる―――
　トラウマとやらが擬人化していれば、その程度の報復行為を軽く五セットはこなしそうな、それはそれは凄まじい気炎をあげるのだった。
「――――――」
　そんな青子の不機嫌っぷりに、草十郎が我が身の危険を感じだした頃。
　教会の上空にバサバサ集まりだしたカラスに惹かれたのか、
正面玄関から<修道女|シスター>服の女性が姿を見せた。
「失礼ですが、どちらのお客様でしょう。
　当教会は暴力団関係の方はご遠慮いただいておりますので、日を<改|あらた>める、<或|ある>いは生き方を<悔|く>い改めた後、社会的な罪を<償|つぐな>ってから門をくぐって頂きたいのですが―――」
「蒼崎青子です、シスター唯架」
「まあ―――青子さんでしたか。
　驚きました。昼間のうちに貴女が来るのは久しぶりです」
「そうですね。いつもは夜に呼ばれて、神父さまとだけお話をしていますから。唯架さんとは……
　まあ。意外ですね、一年近く<ま|・><と|・><も|・>にお話をしていません。
ま、この先だって一度もないでしょうけど」
「ええ。貴女もずいぶんと立派になられたようで、ガッカリです。なにより、今の気配は清らかな少女とは思えないほど<悪辣|あくらつ>でした」
　表向き、和気あいあいと挨拶を交わすふたり。
　そのピリピリした空気をまったく読めず、仲がいいなあ、と見守る草十郎。
「今月のボランティアは私とそこの彼です。
　親愛なる合田教会のためですから。十時から三時まで、一分の狂いもなく、きっかり働かせていただきますわ」
「まあ。世も末ですが歓迎しますね。
　神の家は万人に等しく開くもの。この際、貴女の内面は見なかった事にしておきましょう」
　上品に、しかし酷薄に微笑むシスター。
　表向きはどうあれ、労働力が手に入ったのは喜ばしい事らしい。
　シスターは<周|す><瀬|せ><唯架|ゆいか>と名乗り、自ら奉仕活動を希望した草十郎に礼を述べた。
　彼女の閉じた目に気づいていた草十郎だったが、青子の手前もあるし、なにより失礼な事かもしれない、と質問は遠慮した。
「静希さんと仰るのですね。
　声のイメージ通り、落ち着いたお名前です」
「はあ。それはどうも」
　名前を誉められてもいまいち実感の湧かない草十郎に、シスターはわずかに顔を曇らせる。
「失礼、名字で呼ばれるのはお嫌いのようですね。
　草十郎さん、でよろしいですか？」
「え、いや、どっちでも、いいですけど」
「ではそのように。……本当、難儀なことですね」
　口調こそ穏やかだが、シスターの言葉はどこか冷淡だ。
　視界を閉ざしている彼女だが、確かな足取りで青子たちを先導する。
「それで、奉仕の内容ですが」
「分かってます。クリスマス前だし、面倒な掃除を済ませておきたいんでしょう？
　問題ありません、そういうの得意ですから」
　青子ではなく、おもに連れの草十郎がであるが。
「……。では青子さんは<竈|かまど>の方で、<聖餅|せいへい>の作り置きを。
　静希さんは外に。
私どもでは手の届かない箇所の清掃をお願いします」
「ちょっと待って。台所に<律架|りつか>のヤツ、いないでしょうね？　こんな所であんなのに会うなんてゴメンだから」
「律架は留守です。ですので、どうぞ気兼ねなく」
　はいはい、と手を振って、青子は礼拝堂奥のドアに向かっていった。
　公言通り、この教会には慣れきっているようだ。
「静希さんはこちらに。
　まずは物置から、清掃道具を運んでいただきます」
　草十郎に託された仕事は、これといって特殊な技術を必要としない、いたって普通の窓拭きだった。
「窓を全部拭けばいいんですね？」
「水拭きとから拭き、その後にコートスプレーもお願いします。ハシゴの高さは足りますか？」
「あれ。ちょっと足りないっぽいですね」
「では届く範囲で結構ですので、よろしくお願いします」
　そんな簡潔なやりとりをして、シスターは教会に戻ってしまった。
　よほど草十郎を信頼しているのか、もともとドライな性格なのか。
　初対面で判断がつく筈もなし、そもそも草十郎にそんな詮索ができる筈もなし。
　ぽつんと独り放置されても腐ることなく、草十郎は窓拭きを開始した。
　今日も天候は思わしくない。
　雨が降る程ではないが太陽も見えないハンパな天気だ。
　高いハシゴに腰をかけて、高さにして五メートル近い窓をのどかに掃除する。
　草十郎は肉体労働が苦にならない人柄なので、これで空が真っ青であったら、それだけで素晴らしい休日になったかもしれない。
　三枚目、四枚目、と仕上げていくうちに気が<緩|ゆる>み、口笛など吹きつつ窓を拭く。
　五メートル近い高さは怖くはあるが、同時に絶景でもあった。
　ふと町の方に目を向ければ、引っ越してきてからずっと気になっていた、緑の丘が見てとれる。
「やっぱり、林の中に家があるような……」
　三咲町のはずれにある丘と森。
　眠らない町を見下ろす森は、ここから見ると異国の城塞のようだ。
「あれ？　なになに、ドロボウさんー？」
「？」
　―――と。
　物思いにふけりながらもセッセと腕を動かしていた草十郎の眼下で、トコトコと人の気配。
　視線を下げると、そこには一見して人の良さそうな、それでいてだらしなさそうな、女性の姿があった。
「ん、でもちょっと怪盗には似合わないのんびり屋さん風味。どっちかって言うと、あれかしら。暖炉から現れては微妙に要らないオモチャを押しつける<聖者|セイント>、みたいな。
　うわあ……わたし、あのヒゲ苦手なのよねぇ……だってどう見ても不法侵入者じゃない、あの人？」
　年齢は二十代後半、だろうか。
　この寒さで上着を羽織っておらず、バッグらしきものも持っていない。草十郎はまだ知りえないコトだが、大人の女性とバッグはワンセットの存在である。
　そのあたりを無視しているあたり、この女性の自由奔放さが<窺|うかが>える。
抜けている、とも言う。
「あ。わたし、ピーンと来たわ。
　キミ、ミサ高のバイトの子？　偉いわ、今時の高校生は業者さん顔負けなのね！」
　ハシゴの頂点に座った草十郎を見上げて、女性は感動しきっている。
「よーし、わたしも手伝っちゃおうかな！
　ハシゴはまだある？　他の<雑巾|ぞうきん>は？　あ、どうせだからホースで水をかけるのはどうかしら！　こうバアーっと、けるひゃー！とか叫びながら！　バチあたりだけど、それなら少しぐらいは楽しくなりそうじゃない？」
　心底から楽しそうに女性は笑った。
　光がこぼれそうな、自立して走りまわるサボテンみたいな笑顔だった。
はた迷惑という意味だった。
　そんな草十郎の連想通り、女性は草十郎の返事を待たず、まあまあ、と窓拭きに参加した。
「いえ、教会の前を通ったら、人影っぽいのが窓にへばりついてるのが見えちゃったの。昼間っから泥棒とか豪快だなあって、ちょっと興味ひかれちゃって。
　そしたら可愛い子が真面目に労働してたワケ。窓拭きの達人みたいに、ビっと格好よく。そんなの見せられたら手伝いたくなるのが人情じゃない？」
　草十郎のひとつ隣の窓を拭きながら、女性は陽気に話しかけてくる。
　そんな、考えようによっては怪しいコトこの上ない女性にうんうんと真面目に同意する草十郎。
　なんというか、彼の本能が理解したのだ。
　この女性は自分と同じように、いつもこういう地味な作業を押しつけられる同士なのだと―――！
「貴方は教会の人なんですか？」
「わたし？　いえ、ただの通りすがりよ。
　それより貴方ってのは他人行儀ねぇ。キミとは商店街で何度も会ってるのに」
「いや、会ってませんよ？」
「会ってますー。キミ、<魚達|うおたつ>さんでバイトしてる子でしょう？　今週だけでも何度か行ってるもん、わたし。
　わたしは―――ええっと、そうね、
<花澤|はなざわ>って言うんだけど、キミの名前は？」
　台詞の途中、ちらりと眼下の花壇を見ながら、きさくに笑いかける花澤さん。
　草十郎はいつも通り、自信なげに自己紹介を済ませた。
「草十郎さん……うん、いい名前ね、古風な感じで。
　名前に数字が入ってると、なんか日本人って感じがしない？　ここの神父さんとかシスターの名前、知ってる？　エイリとかユイカとか、なんか外国風なんだけど」
「エイリさんはともかく、唯架さんは綺麗な黒髪の女の人でしたよ？」
「あら、神父さんにはまだ会っていないのね。
　合田教会の美形神父と美人姉妹って言ったら有名なんだけど……あ、そうか！　さてはキミ、最近引っ越してきたんでしょう！　しかもひとり暮らしと見たわ！」
「そうですけど……
花澤さん、すごいですね？　さっきからあまりにも的確なあてずっぽうです」
「いえいえ、推理と言ってくれたまえ。
　キミぐらいの子がアルバイトに精を出すほど、この町の娯楽は魅力的じゃないもの。遊ぶお金ならバイト一件で<賄|まかな>えちゃうわ。キミは物欲のあるタイプじゃなさそうだし。
　となると、これはもう生活費のためと考えるのが健全でしょう？
　……んー、まあ、学生さんが生活費も学費も自分だけで賄う、なんてのは健全じゃないんだけど」
「いや、そうでもないですよ？
　働かざるもの食うべからずです」
「そっかぁ。草十郎さんは若いのに立派ねー。
　わたしも学生の頃はバイト三昧だったから、少しはキミのたいへんさも分かるわよー」
「なんと。花澤さんもひとり暮らしだったんですか？」
「ええ。親の反対をおしきって、よその国に留学しちゃったの。<留学先|あっち>にはトモダチもいたから下宿先には困らなかったけど、さすがに食費ぐらいは稼がないとねー。
　けどまあ、こう見えて肉体労働は苦にならないタイプだし。学院もバイトも楽しい思い出になってるわ」
「――――――」
　おお、とまたもコクコク頷く草十郎。
　<節操|せっそう>なく湧きたつ親近感を<抑|おさ>えられない。
「ふふふ。これも何かの縁だし、魚達さんではこれからお世話になりそうだし。頼りないだろうけど、相談事があったらぜひ言ってね。精神面で力になるわ」
「ありがとうございます。
　じゃあ早速ですけど、
ここは何をするところなんでしょう？
」
　ここ、と教会を指さす草十郎。
「え、えっと？」
　さすがの花澤さんも面食らっている。
　草十郎がビンテージものの田舎者である事なんぞ知らない花澤さんであるが、持ち前の機転の良さで、これは高度な皮肉なのだと勘違いしてしまったようだ。
「うーん、そうねー。
　心の安全を扱っている、というのはどうかしら。いえ、安全というよりは鎧？　ツギハギのバリケード？　とにかく本人はちっとも鍛えられないってコトは同じよね。
　ああ、あとはパンとワインも分けてくれるわね」
「無料でですか？」
「もちろん。富める者は勝手に置いていくって話。
　あとは―――そっか。これが一番大きいんだけど、収入に税金がかからない。心の安全は扱いが難しいけど、きちんと売り物にできればノーリスクハイリターンよ」
「……はあ。よく分からないですけど、ピンチの時はここに転がりこめばいいんですね？」
「んー、それはおすすめしないなあ。
　ご利用は月に一回、気休め程度にした方がいいと思う」
　きゅっきゅっ、と窓を<拭|ふ>く音が響く。
　趣味を同じくするふたりは<暢気|のんき>に口笛を吹きながら一枚、また一枚、と教会の窓を磨き上げていく。
「そうだ、もうひとつあります。
　ここから見えるあの森、なんですか？」
「森？　あの山の上にある森のコト？」
「ですけど、アレは山じゃなくて丘と言うべきです」
　田舎育ちの人間として、あの程度の高台を山というのはプライドが許さないらしい。
「そう？　あれはあれで、けっこう登るのに体力使うんだけど……まあ、<丘|そっち>の方がより<ら|・><し|・><い|・>わねぇ」
　女性の気さくな笑顔に自虐的な影がさす。
　もともと端整な顔つきをした美人だ。
　笑顔を崩すと一転して酷薄な、見るものを威圧する表情になる事に、今さらながら草十郎は気が付いた。
　もちろん、
「あれは丘です。それとほら、ここから<煙突|えんとつ>みたいなの見えますけど、アレはなんですか？」
　そんな事で草十郎があれこれ遠慮したり、怪しんだりする事はないのだった。
「あれは本物の煙突よ。
　あの森は全部私有地なんだけど、その中にでっかい洋館が建っているの。でも私有地だから地元の人間も入ったコトはないんじゃないかしら。
　通称、<久遠寺|くおんじ>のお化け屋敷ってね。近所の皆さんは気味悪がってるし、あんまり近寄らない方がいいんじゃない？　あんな小さな森なのに遭難したとか、野犬が出るとか、物騒な話には事欠かないから」
「野犬って、都会にも野犬？」
「たくさんいるわよー。この教会の裏手の空き地にだっているし。ここの神父さんは物好きだからパンとかあげちゃって、それでワンちゃんの巡回ルートになっちゃってるんでしょうけど」
「？」
「とにかく、君子危うきに近寄らず、よ。あの森には入らないのが街のルールなの。
　そもそも私有地だし、入ったらお巡りさんを呼ばれちゃって、そのまま交番でお説教ターイム！　なんて、あんまり楽しくないでしょう？」
　なるほど、とハシゴの上から遥か彼方の煙突を眺める。
　少しだけ、ほんの少しだけ故郷の森を連想させる丘なので気になっていたが、どうやら自分には何の関係もないようだと納得し、草十郎は窓拭きを再開した。
　花澤さんの協力のおかげで、窓拭きは滞りなく終了した。
　ふたりがかりで、地味だが手間のかかる仕事をやり遂げたのだ。
「はい、ごくろうさまでした。
　うん、あれだけ砂まみれだった窓が見違えたわね！
　どう、これから適当な<茶店|さてん>でお茶にしない？　草十郎さんの仕事っぷりに敬意を表して、わたしがおご
―――」
「はい？　何か言いました、花澤さ―――」
「いえ、ごめんなさい、急用を思い出しちゃった。
　花澤さんはここで失礼するのでした。チャオ～」
　ハシゴを片づけていた草十郎が振り向くと、女性は<脱兎|だっと>の如く表通りに走り去っていた。
　時刻はそろそろ三時。
　花澤さんが手伝いを申し出てから三時間以上経過している。
「うむ」
　彼女の急変をしたり顔で見送る草十郎。
　行くあてなく散歩をしていたように見えた花澤さんだが、これだけ時間を潰したのだ。
　手伝ってくれた時と同じように、適当な用事を思いだしてしまったのだろう。
「静希君、そっちにいるの？」
　と。教会の角からひょっこり顔を出す生徒会長。
「あ、声かけてゴメン。いいから作業に専念―――」
　自分の背丈より長いハシゴを片づけている草十郎を見て、青子は面食らったようだ。
　それも一瞬の事で、彼女は腕まくりをして草十郎に歩み寄った。
「？」
　とつぜん現れた青子より、草十郎にはそっちの方が驚きだったらしい。
　当惑する草十郎をよそに、青子はてきぱきと指示をだす。
「ハシゴ、横に倒していいわよ。
　下の方は私が持つから、貴方は上の方お願い」
　それがあまりに自然な行為だったので、ひとりで十分だと強がる前に、草十郎はハシゴを横に倒していた。
　アルバイトが終わり、シスターから気持ち程度の謝礼を受け取って、ふたりは教会を後にした。
　青子は駅前に用事があるとの事で、とりあえずそこまでは同じ道行きだ。
「でも、ほんとにアルバイト慣れしてるのね」
　じき夕暮れになる空の下。
　話しかけるというよりは感想をもらすように、青子はそんな台詞を口にした。
「そうか。蒼崎から見てそうなら、少しは嬉しいな」
　素直に微笑む草十郎。
　もっとも、給金をもらってから彼はずっとホクホク顔だったので、何に喜んでいるかは不明だった。
「あ、あのね。貴方は普段が問題ばっかりなんだから、あんまり調子に乗らないように。差し引きゼロっていうか、まだまだマイナスなんだから」
「む。学校の事は、言われると悲しくなる」
　草十郎はがっくりとうなだれた。
　アルバイトはこなせても、学校の授業ばかりはどうにもならない。試験はともかく、日々の授業は一朝一夕でついて行けるものではないからだ。
「蒼崎は成績悪いヤツは嫌いか？」
「……。まあ、頭というか巡りの悪い人との話は、疲れるでしょうね。でも貴方はそれ以前だし、そもそも私にはこれっぽっちも関係ないし。
　でっかいハンデをなんとかするのは先生たちの仕事で、それに応えるのは貴方の役目。アルバイトもいいけど、帰ったらきちんと予習、やっときなさいよ」
「それはもちろん。学校の人たちはみんないい人だ」
「そ。ならいいけど―――みんないい人？」
　今のやりとりで、なんでそんな台詞が返ってくるのか、と首をかしげる青子だった。
　おそらく、草十郎なりの感謝の表れなんだろう、と納得する。
「―――ところで。
参考までに訊くんだけど、貴方、他にどんなバイトしてるの？」
「どこって、商店街が多い。魚のお店とか、花の店とか。ああ、でも昨日は隣町まで遠出したな。遊園地のアルバイト」
　学校側が認可しているのは三咲町の商店街だけなので、予想通りの回答だった。
　最後に出た、およそ静希草十郎とは無関係の単語以外は。
「遊園地って、<社木|やしろぎ>の!?」
「そう。使わなくなった看板とかオブジェとか、解体して運び出したんだ。さすがに疲れたな、あれは」
「へえー……うん、それは体力勝負でしょうね」
　今度こそ本気で感心する青子。
　遊園地で使われる機械の運搬は、ちょっと、学生が片手間でやる仕事ではないからだ。
「でもいいなあ。私、キッツィーランドって一度も行った事ないの。三咲町に住んでるのに」
　青子は隣町の方角を仰ぎ見る。
　ここから見えるのは、かろうじて観覧車だけ。
　夕日に照らされた円形の鉄骨仕掛けは、<寂|さび>れた<墓標|ぼひょう>を思わせる。
「……そうか。それは、金銭的な理由で？」
「っ―――」
　途端、青子はおかしそうに口をおさえた。
　草十郎に失礼だと思ったものの、笑いのツボに入ってしまったらしい。
「ううん、そういうんじゃなくて。
　単純に、あれが開園してから立てこんでて、遊びにいく暇がなかっただけよ。お金で解決する問題だったら、それこそ今すぐに行ってるわ」
　ほら、と青子は教会のアルバイト代の入った封筒を見せた。
　その仕草は明るいものだったが、それでも“行く”と口にしない青子に、草十郎はむっと顔を曇らせる。
「それなら、今度行けばいいじゃないか」
「ありがと。けどそれは無理な話。
アンタの事だから気づいていないと思うけど、アレ、つぶれてるのよ。
廃園になってからもう二年以上は経つんじゃない？」
「―――なんと」
　どうりで客がいなかった、と草十郎は納得する。
　生徒会長は呆れながらも少しだけ楽しそうだ。
　いつもなら“そんな事まで教えないと分からないとは！”と呆れていた彼女だが、この夕暮れにかぎっては、なんだか微笑ましく見えたらしい。
　蒼崎青子と別れ、アパートに帰って学校の予習に埋没していると、あっという間にアルバイトの時間になった。
　山と都会の違いはそれこそ数えきれないが、もっとも大きな点は時間の用途だ。
　此処ではともかく、時の流れが早すぎる。
　ちっとも頭に入らなかった参考書を片づけて、草十郎は一日の締めとばかりに夜の町に出かけていった。
　日付変更線を越えて、夜はますます深く眠りについていく。
　<襟|えり>をたてて、冷えこんだ冬の空気から首筋を守りながら、草十郎は帰路につく。
　周囲には<食べ物|ひろいもの>目当ての犬もいないし、ちょっとした買い物で出歩いている人もいない。
　この近くに一店だけのコンビニエンスストアも夜の十一時に閉まってしまう以上、買い物目的で外出する住民はいないのだろう。
「―――ふう」
　脱力して、ひときわ深く呼吸をする。
　人気のない、人工物によって築かれた町並み。
　星明かりより眩しい、青い蛍光灯に照らされた暗がり。
　そういったものが、意識せずとも草十郎の不安をあおり立てる。
「……情けない。夜が怖いのは当たり前じゃないか」
　ぶるっとくる寒気に背を丸めながら、強がりを口にする。
“暗がりに近づくな”
“人気のないところには立ち入るな”
　何の因果か、それとも、それだけ情けない顔をしていたのか。
草十郎がこれまで知り合ってきた人たちは、決まってそんな忠告をした。
「そうは言ってもしょうがないし、だいたい」
　暗がりに近づくな、なんて言われても実感が湧かない。
　<都|こ><会|こ>には明かりのない場所はない。
　大通りは言うに及ばず、駅前の喧噪から離れた住宅地にだって電灯の明かりがある。
　怖いのは怖いが、怖さの質が山とは違う。
　おそらくは根本になるルールが違うのだ。
　因果応報の仕組みが一方にのみ優しく作られている。
　怖いと言えば、そのルールがまだよく分からない事の方が、田舎育ちの彼には怖い。
　山では、ルールを破った者は<そ|・><の|・><時|・><点|・>で報いを受ける。
　例えば<獣道|けものみち>。
彼らの縄張りと気付かずに入ってしまえば、当然、住人である動物に襲われて怪我を負う。
　このように、草十郎にとって過ちとはすぐさま返ってくるものだった。
　誰が誰を罰するというのではなく、ルールを破れば即、その間違いがカタチになって降りかかると。
　都会はそのあたりが少しだけ曖昧だと思う。
　だから、一体なにが正しかったのか、なにが間違っていたのか、致命的な<結末|おわり>になるまで分からない。
「……けど、基本的には変わらないんだよな、たぶん」
　単純に因果応報の効果が遅いだけ。
　さらに喩えるなら、彼の田舎には村の治安維持を任された人間はいなかった。
　都会は人間に優しいかわりに、ルールを破った人間を罰する何者かが<据|す>えられている。
　山では罪と罰は同義だったが、街ではその二つは切り離され、罪をおかした後に、罰を持ってくる他人がいるらしい。
　入ってはいけない場所。
　見てはいけない出来事。
　そういったルールを破った時、何者かが罰しに来るのが社会のルールなのだ。
　なので―――町で安全に暮らす方法というのは、余人の事情に立ち入らないこと。
　草十郎を気遣ってくれた人たちが口を揃えて“近づくな”と言っていたのは、“そうなったら誰も助けてあげられない”からなのだろう。
「……っと。いけない、また近道しそうになった」
　なので、いくら邪魔だからといって人の家の塀をよじのぼって、すぐ向こうのアパートを目指してはいけないのである。
　たまたま家の人が起きていたら警察に通報されて、誰にも助けてもらえなくなってしまう。
　そんな見当違いの都市観を持ったまま、今日も静希草十郎の一日は平穏に終わっていく。
　すぐには寝つけず、床についたまま窓越しの空を眺める。
　都会にきた彼が最初に戦慄した<風景|もの>。
　スイッチひとつでたいていの事は解決される便利さも、
　壁一枚隣りに顔しか知らない他人が住んでいる新鮮さも、
　この夜空を見上げた時に吹き飛んだ。
“……こんな空も、あるのか”
　意識せず、漠然とこぼれた言葉を覚えている。
　なんて暗い星。
　なんて狭い空。
　ここでは星の見える夜はない。
　自分はここで暮らしていけるのかどうか―――
　あの夜に抱いた不安は今も変わっていない。
「――――――」
　<瞼|まぶた>を閉じる。
　そんな女々しい悩みとは裏腹に、アルバイトと勉強で疲れた体はあっさり、ぐっすり安眠していった。
“都会は魔界だ。
　けど、慣れればわりと住みやすいとは思う”
　はあ、と力のないため息がこぼれる。
　静希草十郎は冬の校庭を見下ろしながら、柄にもなく物思いに<耽|ふけ>っていた。
　黒板の隅には１２月の日付。
　早いもので、草十郎が転入してからすでに十日。
　暦が１２月に移り、辛うじて残っていた秋の面影は見る影もない。
　校庭の木々はそのほとんどが裸になり、舞い散った落ち葉が地面を覆い隠している。
　古典の時間。
　教壇からは老教師による見解が淡々と流れてくる。
　ようやく馴れてきた教室と、まだまだ追いつけない授業の四時限目。
　基礎が出来てない草十郎にとって、日々の授業は真剣勝負だ。
　今は内容を正しく飲みこめなくともきっかり暗記し、後々に生かせるよう心がけている。
　なので雑念などもってのほか。
　よそ見をしている暇はない、と厳しく自分に言いつけているのだが、
「………………はあ」
　困ったコトに、今日はどうしても授業に集中できなかった。
　集中力の不足はどこからきたものか。
　都市の冬は山に比べれば格段に住みやすいし、毎日のアルバイトだってそう<過酷|ハード>ではない。
　肉体的な疲れは、まあ、人並みだろうから理由にはあげられない。
　では授業そのものが退屈だから、と言われるとそれも違う。
　草十郎はクラスメイトたちが言うほど授業をつまらないものだと感じていない。
　良いか悪いかで言えば、間違いなく良い部類に入る時間だ。
　なので精神的な面でも理由は見あたらない。
　ここまで集中力が散漫になるのはどうかと思う、と草十郎は我が身の情けなさに落ちこんでいる。
『……いけない。こんなんじゃ気が散る一方だ』
　自分を叱って黒板に目を向ける。
　カツカツと規則正しく、なのになぜか眠気を誘う<白墨|チョーク>の滑る音も、この純朴な転入生を<堕落|だらく>させるには至らない。
　けれどやっぱり、彼は授業に集中できなかった。
『…………むう』
　重いため息をついて草十郎なりに考える。
　あまり考えたくはないが、原因は、まあ。
　思い返すたびにどうかと思う、昨夜の出来事以外ありえなかった。
　授業の終わりを告げるチャイムと、礼をして廊下に向かう老教師。
　彼の退室を見届けて、三十人もの生徒は一斉に席を立った。
　11時半ごろから緩慢に進んでいた時計の針は、いまやピッタリと頂点を指し示している。
　ざあ、と<伝播|でんぱ>していく憩いの空気。
　堅苦しい授業からのひとときの解放、
　学園生活の華ともいえる<昼食|ランチタイム>の始まりだ。
　三咲高校の学食の味つけはよろしくない。
　私立校にあるまじき怠慢、という抗議もどこ吹く風で、
　今日も今日とて独特の味を提供している。
　値段もそれなり、味もいまいち、となれば、必然、学校ではお弁当派が大勢力となる。
　草十郎が転入した二年Ｃ組も例外ではない。
　男子は腕力にまかせて十個ほどの机をあわせ、長テーブルのような食卓を築く。
　一方、女子は洗練された手順で二、三個の机をこぢんまりとしたテーブルにかえ、いくつかのグループにわかれて談笑を始めていた。
　貴重な昼休みを一分一秒も無駄にしない。
　かたちは違えど、両陣営の信念は同じだった。
「――――――」
　その手際の良さに草十郎は呆気に取られている。
　転入してから十日経った今でもこのスピーディーさについていけず、いまだ自分の席に居座っていた。
「おーい、こっちこいよ静希！」
　呼びかけてくる声は、教室の窓側を占拠した一大食卓からだった。
　だらしなく椅子をななめに立て、いつスッ<転|ころ>んでもおかしくない状態で手招きしているのは<木|き><乃|の><美|み><芳助|ほうすけ>。
　口が悪くて根性も無い、とクラス中から<酷評|こくひょう>される人物だが、さっぱりした性格のおかげか敵は少ない。
　たまに、さっぱりしすぎるのもどうか、とみなの頭を悩ませてもいる。
「メシにしようぜメシぃ。
　オレさあ、昨日店の残り物もらいすぎたんだよ。春巻だよ春巻。それを見た親父がさあ、貰ったモンは残すなってうるさくてさあ。食いもん、春巻きしかねーんだわ」
　なので救いの手を差し向けてくれ、とまっとうな弁当を呼びこもうと企む木乃美だった。
　木乃美と草十郎は同じ店で働いており、転入前から顔見知りだった数少ないアルバイト仲間だ。
　また、草十郎に『腐れ縁』という言葉をはじめて実感させた男でもある。
「お、いいな、静希も来いよー！　今日は待ちに待った缶詰祭りをすっからさー！」
「……ついに決行するのかよ……誰か冷静になった方がいいんじゃないのか、実際……」
「バカ、すげえ楽しいってきっと！　そりゃパチもんくさいけどカニ缶とか食い放題なんだぜ!?　サバ缶じゃなくて！」
「まじ！？　やったー、オレも参加するー！
　コンビーフはひとり一個？　それとも早い者勝ち？」
「おまえな、ひとりで何個も食えるもんじゃねえぞアレ。うまいのは最初の一個だけだって」
「静希たちがくるならノルマはひとり七個に下がるのか……助かるなあ……」
「ところで木乃美の弁当の中身、なんか缶詰より硬そうじゃね？」
　いつもは互いの弁当の不出来さをネタにして騒ぐ彼らは、今日に限って団結していた。
　テーブルにはピラミッド型につまれた無数の缶詰。
　賞味期限を油性のサインペンで塗りつぶされたソレは、ある男子生徒の家の倉庫から発掘されたものらしい。
「よし野郎ども、各自マイ缶切りの用意はいいな？
　食べるも地獄、残すも地獄。我ら五時限目の授業はないものと恐れぬ修羅となり、鉄の悪魔どもを平らげん―――
　えー、食材は下町のなんでも商会、マーケット中山からの提供です！」
「ヒュー！　バカも休み休みyeah！」
　一団となって、缶切りを持った手を天高く掲げる男子生徒の群れ。
「ほら、静希も食べようぜー。缶切りならまだあるからさー」
「いや、君らの弁当の毒見はゴメンだって昨日言ったはずだ。
　それに、その缶詰半分以上、賞味期限切れてるだろう」
「なんだよー、つれねえなあー！」
　どっと沸くならず者たち。
　<犠牲者|なかま>を一人でも増やそうと思っているに違いない。
　彼らの賑やかさにほだされ、仕方ない、と席を立つ草十郎。
　それを、
「じゃ、わたしたちが釣り上げよっかなー！
　静希くん、あんなの放っておいて一緒にどう？」
　もう一方の勢力がつかまえた。
　呼び掛けたのはショートの髪がよく似合う女生徒だった。
　数日前、草十郎を陸上部に勧誘してくれた事もある。
「……いや。そっちも遠慮したいな、できれば」
　困り顔で返答する。
　彼女達のテーブルには草十郎があまり知らない果実<だ|・><け|・>が山のようにつまれていた。
「えー、なんでー？　パパイヤとか嫌い？
　マンゴーもあるし、ヤシの実だってあるし、内緒だけど夕張メロンもあるんだから！」
　拳を立てて力説する果実グループ。
「待て、なんだヤシの実って？　アレ食えるもんなの？」
「あ、マンゴー余ったら回してほしいなー」
「ばか、肉食え肉。そんなんだから貧弱な体してんだぞ、おまえら！」
　飛びかう声に、やっぱり草十郎はついていけない。
「……分かるのは、どっちも破滅的だってコトだけだ」
　言いつつ、草十郎はどちらも断りきれない。
　他人の好意を素直に受け取りすぎる彼は、時に優柔不断になる。
　人間、好意になれていないと、何を捨てるべきか咄嗟に判断できないのである。
　そんな迷える子羊の肩を叩く影がひとつ。
「ほっとけほっとけ。いちいちここのバカどもに付き合ってちゃ人生台無しだ。適当に流しとけばいいんだよ。
　オラ、おまえらもな、善良な羊を悪の園に引きずりこんでんじゃねえよ」
　場違いにドスのきいた声が、草十郎の背後から教室に響きわたる。
「副会長」
　草十郎が振り向くと、そこには彼より頭ひとつぶん背の高い男子生徒が立っていた。
　乱雑に、けれど見栄えよく撫で上げられた長髪。
　整った美形でありながら刺々しい目つきでクラスを<睥睨|へいげい>する暴力性。
　いつも眠そうな草十郎とは対照的な、一目で人を魅了する非の打ちどころのない美男子。
　誰もが<畏|おそ>れ、<敬|うやま>うであろう彼への反応は、しかし。
「なんだよ、副会長さまのお出ましかよー！」
「テメエらのバカ顔にはこりごりだって、学食に陣取ってたんじゃなかったのかよー！」
「へへへ、ここは見てのとおりボンクラどもが集う貧民街でございますよ、王子はほら、Ａ組のきれいどころとカフェでお茶でもしてればいいじゃない！」
「また静希呼びに来たのかよ。青子女史といい鳶丸殿下といい、静希、なんかヤバいコトしちゃったのか……？」
「えー。静希くんは校則違反しないじゃん。
　ちょっと、それ以外のルール破るだけで！」
「ってコトはやっぱり―――<槻司|つきじ>くん、蒼崎に振られてからそっちに走ったって本当だったのね!?」
「………………」
　この通り、親愛と友情に満ちた暴言だった。
　言われたい放題の男子に、草十郎はつい同情してしまう。
　もっとも、肝心の男子はまったくのノーリアクション。
　騒ぎ立てる彼らをつまらなげに<一瞥|いちべつ>すると、吐き捨てるように声をあげる。
「相変わらず無駄に元気があって結構じゃねえかテメエら。
　そんなに活力たぎってんなら冬期特別清掃班にだって参加出来るよなあ、
オイ？
　いまんところ自主的に申し出てるのは全校で一人しかいねえんだ。２－Ｃ全員が参加すりゃあ、俺も蒼崎も肩の荷がおりるってもんなんだがよ……！」
　その端整な顔立ちとはかけ離れた、ドスのきいた<胴間|どうま>声が教室に響く。
　彼の一喝で水を打ったように黙りこむ、ならず者部隊＆スイーツ愛好者たち。
　この男子生徒を畏怖しての事もあるが、何より『冬期特別清掃班』が恐ろしいからである。
　冬期特別清掃班。
　それは先々代の生徒会からお手上げ状態で放置していた旧校舎、および山みたいな裏庭の森を冬休みを挙げて清掃しよう、という趣旨の、学園行事の名を借りた拷問だ。
　おそらく、冬休みのうち三日は完全に潰される。
　もちろん成績に残るような見返りはない。
　ことはあくまで生徒会が立案しただけのボランティア。参加希望者が一人でもいたコトは奇跡に近い。
「あー……いや、僕ら、ちょっと体弱いんで……すみっちょで缶詰食べてますね？」
「わたしたちも貧血気味で……こうやって果物たべてないと死んじゃうっていうか……冬休みはもう予定いっぱいっていうか……」
　一名を除いて、そそくさと隅に移動する２年Ｃ組の皆さん。
「よし、昼食はやっぱり静かにやらねえとな。
　一年坊主の教室より二年の教室の方がやかましいなんて苦情、いいかげんにしやがれよアホウども？」
　うへーい、と弱々しく退散する有象無象たち。
　その中に溶け込むように流れていく草十郎だったが、
「おう、おまえはこっちだ草十郎。ちょい顔貸せ」
　強引に肩を引かれ、仲間入りを阻まれた。
「……っだよ、生徒会横暴ー。人んちのテーブルマナーまで指図してほしくねーよなー！」
　立ち去る背中を好機と見たのか、仲間うちでのみ聞こえるよう悪態をつく木乃美。
「ああ？　上等じゃねえか木乃美、いいぜ、おまえが記念すべき二人目だ。冬休み、首を洗って待ってやがれ」
　きっかり聞こえていたのか、副会長は親指をたてて、ぐるん、と<一回転|ノックアウト>の意を示す。
「はあ、なに言ってんですかアイツ？
　アレ自主的なイベントじゃん、いくら副会長ったって強制はできないですよねぇ!?」
　ひひひ、と笑う２年Ｃ組の誇る問題児。
「そりゃ昨日までの話だ。
　会長の提案が学校側に受理されてな、本日付けで生徒会役員は強制力のある推薦権をもらえたんだよ。
　とくに会長と副会長の推薦は絶対だ。拒否した場合、学校側はともかく、蒼崎がなにするか俺には止められねえからそのつもりでな？」
@o「げぇぇぇ!!!?　ちょ、それ事実上の死刑宣告じゃん!?　生徒^会まじ横暴ー！！！！」
　悪態から悲鳴に変わる木乃美の断末魔を後に、副会長と草十郎は２年Ｃ組を後にした。
「おまえも大変だな、草十郎」
「あんたもわりと暇なんだな、副会長」
　無人の生徒会室に入るなり所感を口にするふたり。
　三咲高校の生徒会室は二つあり、
　一つは生徒会用に作られた大部屋、
　もう一つは数学の準備室だった資料室とに分かれている。
　こちらは資料室の方で、壁にはファイルのつまった資料棚がびっしりと並び、ただでさえ狭苦しい部屋を余計に窮屈に見せていた。
　生徒会室というより、個人の隠れ家といった方が正しいだろう。
　草十郎が椅子に座ると、向かい合うように男子生徒も腰を下ろした。
　<槻司|つきじ><鳶丸|とびまる>。
　私立三咲高校の理事長の息子であり、生徒会副会長。
　学年は草十郎と同じく二年生で、約一週間前、転入生の世話を生徒会長に押しつけられてからの付き合いである。
「副会長はやめろって。クソッタレな話だが、俺はしょせん会長の犬だからな」
　やれやれと自嘲するも、不満があるワケでもなさそうだ。
　鳶丸はポケットからスナック菓子を取りだし、実にまずそうに口に入れた。
　一本１００キロカロリーほどのブロック形式の簡易食を、それこそ干し肉を引きちぎるように片づけていく。
「そうか。でも犬はよくないな、鳶丸」
　難しい顔つきで草十郎は椅子に座る。
「あん？　犬がどうしたって？」
「犬はよくないって言った。喩えが違う気がするし、なにより怖いぞ、アレ」
「？　なんだよ、山奥育ちのくせに犬が怖いのか？」
「そりゃたいていの生き物は怖いけど、犬は別格だ。
　徒党を組んだ野犬ほど始末に負えないものはない。
　<脚|あし>の速さも脅威だけど、なにより執念深すぎる。
　坂だろうと追いかけてくるし、最後の一匹になるまで引かないんだぞ」
　などと言いつつ、弁当の包みを開ける草十郎。
　若草色をした布には、綺麗な三角形をしたおにぎりが三つ包まれていた。
「……ショックだ」
「？　ショックってなにが？」
「いや、そんな、この世のものとは思えない握り飯を見たのは初めてだ。思わず絶句しちまった」
「……。それ、どっちなんだ？」
「誉めてるんだよ、馬鹿」
　草十郎を相手に侮辱とも称賛とも取れる言い回しはこういう結果を招く。婉曲な表現、遠回しな嫌味をかみ砕ける<機微|きび>がないためだ。
　ただ、今のように言葉の良し悪しをいちいち訊ねるのは<希|まれ>だった。
　鳶丸の推測だが、この少年は個人的に<譲|ゆず>れない事のみ白黒をハッキリさせる気質らしい。
「ところで。その固まった小麦粉みたいなの、美味しいのか？」
　興味津々とばかりに鳶丸の簡易食を見つめる草十郎。
「まずくはねえが美味くもねえよ。ま、試してみる分には止めねえが。
　人間、何事も手間暇惜しむようになっちゃおしまいだぜ。事が三大欲求ならなおさらだ」
　鳶丸はガリガリとブロック菓子を平らげ、残った一本を机に置き、当然という手つきでおにぎりを一つ手に取った。
　草十郎も当然とばかりに鳶丸の暴挙を見逃し、差し出されたブロック菓子を食べてみる。
「……なんだか、土を食べてるみたいだ」
「違いない。遊びを無くせば人生こんなもんだって見本だな」
　草十郎は苦い顔のまま、律儀に簡易食をかじっていく。
　未知への関心と、はじめた事はきっちり終わらせようとする律儀さである。
「いま無理に平らげる必要はねえぞ。そいつの利点は携帯食ってところだからな。素で味けないが、食えるうちは味が落ちないのがいいところだ。
　ま、そっちはともかく。どうだ、少しは慣れたか？」
「ああ。鳶丸や蒼崎が気を遣ってくれているからね」
　屈託のない笑顔に、鳶丸はつい顔をそらしてしまった。
　草十郎はたしかに普段からぼんやりしているが、反面、こうして見せる感情表現はまっすぐで嘘がない。
　鳶丸のように若く利己的な人間にとっては、ささやかな毒にもなる。
『……だから蒼崎はこねえんだよなあ……』
　内心呟いて、手にした握り飯を一口かじる鳶丸。
　冷めた白米でありながら、しっかり柔らかな食感である事に二度驚く鳶丸だった。
「……ん？　
いや待て、気を遣ってんのは俺だけじゃねえか。蒼崎なんておまえが転入した日に“彼、迷惑だから見張ってて”の一言だけだぞ!?」
「……なんでそこで君が怒るんだ？」
「いや、だからだな。おまえが学校に慣れるよう陰ながら見守ってんのは俺で、蒼崎は生徒会室で全校生徒の弱みを集めてるだけって話だ！
　面倒な苦労してんのは俺だけじゃねえかって―――」
　そこまで口にして、鳶丸は自分の言い分が馬鹿らしくなった。草十郎の言う通り、鳶丸が怒る筋合いでもない。
「……ま、いいさ。蒼崎に言いつけられなきゃこうなる事もなかったしな。
　知ってるか？
　あいつ、どうして俺にこんな役させたと思う？」
「副会長だからだろ」
　言われて、鳶丸はその綺麗な顔を曇らせる。
「あのなあ。どうして副会長が転入生ひとりにかかりっきりにならなくちゃいけねえんだよ。
　チッ、いいぜ、機会があったら蒼崎本人に聞いてみな。あいつの本性が分かるからよ」
　鳶丸は悪態をつきながらさらに握り飯をかじる。
　乾燥した米粒でありながら、なんという<瑞々|みずみず>しさ……言うなれば<握|にぎ>り飯ではなく<包|つつ>み飯。力任せに米を固めたのではなく、職人の業で優しく『おにぎり』というカタチに集結させたとしか思えない……
「そしてなによりこの塩加減、中の具からしみだした玄妙な醤油加減はどうだ―――
食欲をそそるどころか、脳を食欲だけにするような―――
おお―――」
「鳶丸、思ってる事が口に出てるみたいだけど」
「いや、それほどのショックだったってワケだ。
　なあ草の字。これ、具はなんだ？」
　予想外の味に思わず訊ねる。
　ちなみに、鳶丸はまだ外周だけで中心たる具に辿り着いていない。
「ああ、それはイナゴ」
「ありえねえ！」
　がは、と咳きこむ副会長。
　たしかに、山奥育ちの草十郎には海の幸より山の幸のイメージがあるような、でもイナゴはないような。
「クソ、食う前に言えよな！　信じられねえぐらい美味いと思っちまったじゃねえか！」
「ああ、今のは嘘だよ」
　瞬間、見つめ合うふたり。
「ほんとは鮭。いくらなんでも、イナゴはね」
「―――お、おう。そうだよな、いや、安心した。
　いくらなんでもイナゴはねえよな」
「ああ、こんな都会で身のしまったイナゴが手に入るもんか」
「………………」
　気になる台詞だったが、あえて鳶丸はスルーする。
「……ったく。どっちにしても冗談きついぜ。あやうくはき出すところだったじゃねえか。らしくねえぞ、草十郎」
「君が蒼崎の悪口を言うからだ」
　瞼を閉じ、不機嫌そうに握り飯を食べながら草十郎はそう言った。たしかに言った。
　不満そうにもぐもぐ口を動かす草十郎を、鳶丸は<唖然|あぜん>と見つめる。
「―――おい。今のはさすがに聞き捨てならねえぞ。俺が蒼崎の悪口を言ったから<意趣返|いしゅがえ>しをしたと、そういうコトか？」
「………………」
　もぐもぐもぐ。
　純朴な田舎少年の無言の抗議は、ますます真実味を増していく。
　間違いない、なんという悲劇、と副会長は落雷を受けたかのような頭痛にもだえた。
「なんてこった。おまえ、まさか蒼崎に惚れてんのか？
　そうなのか？　そうなんだな!?　おい、眠ってねえで起きろ！」
　椅子から立ち上がり、草十郎の両肩を激しくシェイクする鳶丸。
　仕方なく、むっとした顔で草十郎は目を開けた。
「そうか……おまえは一年前の惨劇を知らないんだな。
　知ってりゃ、そんなストレートな破滅願望を持つ事もなかったろうに」
「……君の言葉には誤解が含まれてるけど、それは後にする。それより、一年前の惨劇って？」
「―――む」
　鳶丸はハッと我に返り、どうしたものかと考えたあげく、どすんと椅子に座る。
「仕方ねえ。この手の噂をするのは好きじゃねえんだけどな」
　しかしそれも青少年の輝かしい未来のためだ、と鳶丸は自己肯定した。
「あれは蒼崎がまだ一年の頃の話だ。
　あの頃はみんな入学したばっかりで、蒼崎がどんな性格か誰も知らなかった。
　あいつ、外見は文句なしに美人だからな。
　そりゃあ男どもは狂喜乱舞したもんさ」
　そして、後に違った意味で狂喜乱舞する事になるとは、誰ひとり夢にも思わなかったのである。
「四月、五月はもう上を下への大騒ぎでよ。
　あの時ばかりは上級生も下級生もなかったな。
　野郎同士の牽制、共闘、はては決闘まで、まあよくも騒いだもんさ。蒼崎に近寄るだけでも大変だったんだぜ？」
「？　なんでそんなよく分からない事態になるんだ？」
「そりゃ蒼崎はひとりきり、命知らずな野郎はのべ百人ほどいたからだよ。
　ひとりひとり蒼崎とランチしても三ヶ月かかるだろ？
　だから、まずは男同士でつまんねえ暗闘があったのさ」
「…………」
「ま、いい。分からねえんならそこは飛ばそう。<所詮|しょせん>負け犬どもの話だしな、本筋にはなりえねえ」
「でな。そんなどうでもいい戦いを勝ち残ったヤツらは列なして一年の女に言い寄ったワケだ。
　蒼崎はアレでなんていうか、相手のなけなしの誠意？　じゃなくてアレか、勇気？　そういうの、無視できずに認めちまうヤツだからな。
　言い寄ってくる相手を可能なかぎり丁寧に断ってた」
「が、中にはそれで勘違いしちまう奴もいてよ。
　三年のある野郎がこれは脈アリと見て蒼崎に何度も言い寄ったんだよ。
　……たぶん、そいつ頭がおかしかったんだ。今にして思うと、そうとしか思えん」
　ちなみに、その三年生とやらが前期の生徒会長である事を、鳶丸は秘する事にした。
「学園ばかりか蒼崎の家まで押しかけたそうでな。
あまりにしつこいんで蒼崎も堪忍袋の緒が切れたんだろう。ちょっと、口にするのは<憚|はばか>られる方法でふったんだよ」
「結果、そいつは自分から他校に転入希望したばかりか三咲町からも逃げ出しちまって、蒼崎も一ヶ月ばかり自宅謹慎を食らった。
　世に言う血の公会堂事件だ。
　詳しく知りたけりゃ本人………はまずいな、新聞部にでもいけ。あそこの部長は命知らずだから、訊けば面白がって教えてくれる」
「……鳶丸。その、具体的な表現を故意に避けてないか？」
「仕方ねえだろ。理事長の息子だろうが何だろうが怖いものは怖ぇし、高校ぐらいは無事卒業しとかねえとな。
　うちの女子の制服みるたびに奇声をあげるトラウマなんて持ちたくねえよ」
「………………」
　むう、と納得いかなげに首をかしげる草十郎。
　鳶丸の言わんとするところが、彼にはさっぱり分からない。
「まあいい。
　それより、なんで蒼崎なんかがいいんだよ、草十郎」
　言われて、今度は逆の方向に、はて、と草十郎は首をかしげた。
「おい。おまえ、本当に蒼崎が好きなのか？
　たんに胸がドキドキいってるだけなら、それは恋じゃなくて恐怖だってオチもあるぜ。いくら草の字がぼんやりでも理由ってもんがあるだろ？」
　草十郎はさらに首をかしげる。
　鳶丸の言い分には<語弊|ごへい>があるが、とりあえず今はそれを抜きにするとして。
　草十郎自身、蒼崎青子に抱く感情には理解できないものが多すぎた。
「そうだな、おかしい。俺は、あまり彼女を知らないのにね」
　それもその筈、創立記念日の案内以来、学園内において草十郎と青子は一度も話していないのだ。
　草十郎が話し掛けようとすると青子は素早く立ち去ってしまう。
　この間の日曜日には縁あって労働を共にしたが、あれだって往復時間に軽く話した程度である。
「けど鳶丸、君は知らないだけなんだ。
　時々なんだが、誰かの視線を感じて振り返ってみると、いつ失敗するかを心配して見ている人がいる。
　鳶丸の言うとおり、ただ廊下で俺を見かけて、たんに監視していただけなのかも知れない。本当は俺の事なんて気にせず素通りしたいのかも知れない。
　けど、どんな種類であれ彼女の心配は本物だ」
「それに、ここが一番大事だと思うんだけど。
　実際の話、蒼崎のそういうところのおかげで、俺は助かっていたりするんだ」
　何の気負いもなく、真剣に彼は言った。
　それを聞いた鳶丸は軽い後悔と共に、ため息などをこぼしてしまう。
　今の台詞さえ聞かなければ適当な女生徒を紹介して、草十郎が平穏な高校生活を送れるよう段取っただろうに。
　本来、彼がそこまで男友達のために骨折るコトはない。
　利用できる相手なら損得のために騙しあい、助け合う。
　利用できない人間は、そも利用するべきではないと判断して距離を置くのが槻司鳶丸の信念だ。
　そんな彼をして、静希草十郎は益を得る相手ではないクセに、手を貸したくなる人種だった。
　彼は友情には<疎|うと>くなかったが、
　友人と呼べる人物にはそう恵まれていなかった。
　……なので、草十郎が本気で青子に惚れているのなら、友人として、それを改めさせる野暮はできなかった。
「……やれやれ。結局、惚れてる奴にゃあ理由なんていらねえんだな」
「そんな事はない。理由ならひとつある。
　彼女を<一目|ひとめ>みた時に、綺麗だなって思ったぞ」
「あ？」
　がくん、と肩を落とす鳶丸。
「なんだぁ!?　あんだけ恥ずかしい台詞いっといて、要は外見に惚れてますだあ？　結局見てくれかよ草十郎！」
「綺麗なものに見惚れるのは、いいことじゃないのか？
　自分を綺麗に見せる努力をしているんだから、外見から内面を判断するのは、そんなおかしな話じゃないと思う」
「む」
　詭弁のようではあるが、なんとなく正論のような気もする。
「……しょうがねえ、分かったよ。この話はもう止めよう。草の字が誰を<自分|テメエ>の女にするか、俺の知った事じゃねえし」
　さて。
　ここで、鳶丸はひとつ、大きな勘違いをしていた。
　静希草十郎は蒼崎青子に好意を持っているだけであって、別に、心の底から好きだとか、恋人として付き合いたいなんて願望は、むしろ一片も無かった、という点である。
　この勘違いが後に大きな禍根となるコトを、神ならざる彼らが気付くよしもない。
「だがよ、ひとつだけ忠告しておくぜ草十郎。
蒼崎はケンカをした相手だろうと別に嫌うワケじゃない。逆に言えば、親切にしたって別に好かれるワケでもない。
いい例が俺だ」
　過去の傷心を思いだしたのか、鳶丸は重いため息とともに語る。
「そうか、
詳しく」
「おう。昔な、あいつがあんまりに独善的だったんでつい手をあげかけちまった事がある。
　半年前の夏だ。一年もあいつと生徒会やってたもんだから、俺も女っつーより戦友って気になっててな。
　つい勢いで平手打ちをしようと右手をあげた。―――我ながら四番<打者|バッター>もかくやという腰のひねり。たしかな実感とともに、俺は勝利を確信したもんさ」
　ふっ、と遠い目をする彼は、その後の<顛末|てんまつ>を話そうとはしなかった。
「翌日になって、こりゃあ完全に敵扱いされたな、と覚悟して生徒会室にいってみりゃあ、蒼崎はいつも通りだった。
　で、以来あいつと俺は会長と副会長で納まってる」
　話を聞き終わり、ふーん、と感想を漏らす草十郎。
　そうして自信を持って、
「いまの話を総合すると、君はたんに<惚気|のろけ>たいのか？」
　真顔で、まったく分かってない感想を口にするのだった。
「んなワケあるかぁ！！！！　
いまの話のどこに甘ずっぱい要素があんだよ！？
　
俺としちゃあ、あいつを女として見なくなった決定的な事件だったんだがねぇ！？」
「なんだ、違うのか」
　もったいない、と不満そうに漏らす草十郎。
　……この男、単純のようで底が知れぬのかも、と鳶丸は考えを改めた。
「とにかくだ。俺が言いたいのは、蒼崎青子の“好き嫌いの基準”ってのは普通じゃないって事だ。
いいコトをすれば好かれる、気に入らないコトをすれば嫌われる、ってワケじゃねえんだよ、あのお姫さまは」
　参考にするよ、と答えて草十郎は時計を見る。
　長話がすぎたらしい。昼休みは残り少なくなっていた。
「もう君からの話はないか？」
「あ？　はじめからねえよ、そんなの」
「………………」
　なら何故この男は自分をここに連れこんだのだろう？　と首をかしげる草十郎だったが、今は他に本題がある。
「よし。じゃあもう少し付きあってくれ。
　鳶丸に訊きたいことがあったんだ」
「？」
　今までにない真剣な表情の草十郎に、思わず姿勢を正す鳶丸。
　食べかけのおにぎりもそのままに、ゴホン、と草十郎は咳払いをする。
「―――実は昨日、こんなコトがあって……」
　語りだしは厳かに。
　草十郎はできるだけ正確に、昨夜出会ったある出来事について話し始めた。
「静希君、いる？」
　昼休みも終わろうとしている十二時五十分。
　一向に活気の<衰|おとろ>えない二年Ｃ組の教室に顔を出し、
　……彼女にとってはごく普通の仕草で……
　蒼崎青子はそう告げた。
　青子にとってＣ組は<余所|よそ>のクラスだが、そんな事はおかまいなしで気軽に教室へと入っていく。
　一方。リラックスした彼女とは対照的に、今まで餌を前にした<雛鳥|ひなどり>の如く騒がしかった生徒達は白々しいほど静かに、行儀よく席につきはじめた。
『……どういう意味よ、それ……』
　内心で舌打ちしつつ、青子は教室を見回した。
　目当ての男子生徒の姿はない。
　目立たない奴だから、はじっこに隠れているかと思えばそうでもなさそうだ。
「有里君。出席番号12番の静希君は？」
　青子はあくまで事務的に問う。
「え、俺……？　えーと、静希ならさっき鳶丸<殿下|でんか>が連れていったよ」
　名前を呼ばれた男子生徒は、青子が自分の名前を知っている事に驚きつつ返答した。
　余談ではあるが、<槻司|つきじ><鳶丸|とびまる>が殿下と呼ばれるのは彼が理事長の息子だから……という訳でもなく、純粋に彼の振るまいが王子のようだからである。
　本人もそのアダ名は気に入っているらしい。
「鳶丸が……？　あいつ、静希君と仲いいの？」
　意外そうに訊く青子と、
　その台詞を意外そうに聞くクラス一同。
「良いも悪いも、槻司くんが男子と仲良く話してるのって今まで見たことなかったよ、あたし達。
　あ、木乃美くんはバカだから別だけど」
「そうだよなあ。はじめは殿下もあんまり話してなかったけど、三日もしたら楽しそうに口喧嘩してたもんなぁ」
「ま、静希相手につっぱっても仕方ないじゃん？　あいつ変だけどいい奴だし」
「そーよねー。いい人だもんねー草十郎くん！」
　調子を取り戻しつつあるのか、二年Ｃ組の面々はざわざわと会話をリレーしはじめる。
　それをしばらく聞いていた青子だったが、唐突にくるりと背を向け、
「それじゃ」と二年Ｃ組を後にした。
　とりあえず手短に、草十郎の話は済んだ。
　昼休みも残り数分と迫った生徒会室。
　話し終えて満足顔の草十郎と、
　聞き終わって難色顔の鳶丸が、机をはさんで向かいあっている。
「さ、感想を聞かせてくれ」
　話す事はすべて話した、と草十郎。
　鳶丸はというと、怒っているような、悩んでいるような、曖昧な表情で額に指を当てていた。
「……なあ、草の字。おまえ、人を馬鹿にできるほど器用な奴じゃねえよな」
「失礼な。器用な方だぞ、俺は」
　その返答に、つくづく不器用な性格だと確信する。
　となると結論は二つに一つだ。
　一つは、いま聞いた話は真実だという事。
　あるいは、彼が幻覚を見るほど疲れきっているという事。
　鳶丸としては後者であってほしいものだが……。
「……草十郎。率直に言って、俺はおまえが気に入っている。
　嘘のない人間なんてのは人間じゃねえ。
俺は人間嫌いだから、そんなおまえさんが気に入ってたりするんだが……
そんなヤツまでバカげたコトを言い出したら、俺は明日から何を頼りに昼メシを食えばいいんだ？」
「学食で食べればいいんじゃないか？」
　あっさりとした一言に、鳶丸はいっそう表情を暗くする。
「分かった、はっきり言おう。それは幻覚だ。
　幽霊の正体見たり<枯|か>れ<尾花|おばな>ってヤツだろうさ。それでも納得いかないってんなら、いい精神科を紹介してやる」
「それが君の感想か。よし、ならいいんだ」
　聞きようによっては侮辱としか取れない鳶丸の言葉を、草十郎は<泰然|たいぜん>と受けとめた。
「そりゃあ俺だって神隠しの<類|たぐい>だと思ったよ。
　けど、都会じゃもしかしてそれも有りなのかもしれないだろ。確かめたかったのはそこなんだ」
　良かった、とばかりに草十郎は残った最後の握り飯をぺろっと平らげ、包み布をたたむ。
「……おい。すると何か？
　おまえは都会の人間は口から火を吹いたり、腕が伸びたりするのが普通だと思ったのか？」
「……まあ、普通じゃないけど、特別でもないんじゃないかと思ったんだ。
　ここは山に無い物があふれている、何でもありの場所だ。だから、それぐらいやってのける人だって、もしかしているのかなと」
　真顔で返す草十郎を見て、鳶丸は自分と彼を<隔|へだ>てている文化レベルの違いを痛感した。
　電気も通わない山奥。
　夜は太古のままの夜で、人間は主役ではなくどうでもいい端役、自然を構築する一パーツに留まっているのなら、たしかに、この少年のような人間が出来るのだろう。
　赤子が無垢なまま成長したと言えば聞こえはいいが、要は人が少なすぎて文明が発達するまでもなかった、
　あるいは、余分な知識体系を必要としなかった素朴な世界だったのだ。
　都会の生活を“今までの生活では全てありえなかった事”と感じる彼だからこそ、逆説的に、“起こりえる事は全てありえる事”に取ってしまう。
「安心しろ。たしかにこっちには<性質|たち>の悪いヤツらばっかりだけどな、そんな魔法使いみたいなヤツはいねえよ」
「そうだと良いんだけど」
　どこか納得のいかない様子の草十郎。
　……確かに、今の話の中で納得のいかない点は鳶丸にもあった。
アリかナシかはともかくとして、いま聞かされた出来事は人道的によろしくない。
「まあ、事の真偽というか、どんな間違いでそう見えたかは置いておいてだ。
　結果だけ見ればうちの生徒が夜の公園で人を殺したって事になる。しかも双方控えめに表現しても普通じゃねえ」
　町にやってきて日の浅い草十郎は、同い年の少年少女は『みなこの学校の生徒である』と誤認していたのだが、幸か不幸か結論として間違いではなかった。
「一人は火炎放射器を持って、もう一人は……
まあ、なんだ。<長刀|なぎなた>でも持ち出したのか、刃物らしきものが何メートルも伸びたときた」
　鳶丸の呆れ声を聞きながら、なるほど、と小さく頷く草十郎。こうして<他人|ひと>の口から聞くと、相手を馬鹿にしてるとしか思えない内容だ。
「正気を疑うな。尋常じゃないぞ、その話」
「草十郎。おまえ、実は俺をからかってんだろう？」
「いや、まったく。
　けどまあ、都会にはそんな人間はいないんだろう？
　なら鳶丸の言う通り、夢でも見てたんだ。ここのところアルバイトと試験が重なって辛くて」
　今は冬休み直前。期末試験は一週間後に迫っている。草十郎にとっては何よりも手強い難敵だ。
「俺は基本ができてないから、人の倍程度の勉強じゃ追いつけない。ほら、勉強ばかりしているとノイローゼをするんだろう？」
「そりゃするんじゃなくてなるものだが、ま、なんにせよやり過ぎ飲み過ぎはよくねえわな。試験前ぐらいはバイト減らしたらどうだ？」
「減らしてはいるんだけどね。年末ってアルバイトを休む人も多くて、その代行も頼まれがちだし」
　草十郎はやれやれと肩をすくめる。
　その口ぶりから彼の忙しさは読み取れる。
　ノイローゼはともかく、睡眠不足で白昼夢を見るぐらいあるかもしれない。……実際、その場面にでくわしたのは深夜とのコトではあるが。
「なんだか大変そうだな、草十郎」
「ああ、実はかなりまいってる。都会の暮らしは深刻だ」
　困ったもんだと真顔で頷く草十郎。
　毛ほども疲れていないように見えるのが困りものだった。
「泣き言いわねえのは感心するけどな。
　おまえ、心労は顔に出ない<性質|タチ>か？」
「？　そりゃ、心労はどこも痛まないからね」
　答えて、草十郎はちらりと壁の時計を見る。
　そろそろ昼休みも終わろうとしていた。
「鳶丸、時間だ」
「お？　ああ、もうそんなに経ったか。気にせず先に行ってていいぜ。俺はまだ用があるからよ」
　生徒会役員は大変なんだとジェスチャーする鳶丸を、草十郎はマジマジと見つめる。
　価値の分からない美術品を見るような目で。
「授業をさぼれる身分っていうのは羨ましいな。
　そういうの、鳶丸が嫌いな手抜きじゃないのか？」
「そりゃ誤解も<甚|はなは>だしい！　俺の欠席は手抜きじゃねえ、特権ってヤツだと言ったろう!?」
　心外だ、とばかりに席を立って力説する副会長。
　それをふーん、と無感動に眺める転入生。
「おいおい、アレだけ説明したのにぜんっぜん分かってなかったのか!?
　しょうがねえ、まず座れ。いいか草の字。
　常人をうわまわる英気と幸運を兼ね備えながら、座する事なく精進してきた俺でも、ここを卒業しちまえば裸一貫になっちまうんだぞ？」
「ひでえ話だ。
　<自分|テメエ>の家柄を活用できんのはあと一年ちょいだけなんだぜ？　これの一体どこが羨ましいってんだ？
　ふつう一生続くはずの親の七光って<権利|ヤツ>が、俺の場合はたった三年間しかねえんだからな！」
「となりゃあ、有効なうちに使っておかなきゃもったいなくてオチオチ眠ってもいられねえ。
　ああイヤだイヤだ、何がイヤかってバカどもと<雁首|がんくび>ならべて金勘定するのがイヤだ！　ったく、嫉妬渦巻く大人の世界じゃ俺のオブラートみたいな心なんてぱっくり呑まれて溶けちまうコト請け合いだろうさ！」
「――――――」
　冗談にしか取れない熱弁は、草十郎の聞くかぎりどうも本気のようだった。
　そういう事を本気で言える人間性が羨ましい、などと思いつつ、草十郎はなるほど、と納得する。
　本人が言うのだから彼の主観的には正しいのだろうと。
　だが、
「あら、そんな権利なんて留年すればいくらでも引き延ばせるのに。なんなら協力してあげましょうか、この私でよろしければ」
　草十郎の骨のない相づちを蹴散らすように、生徒会室の扉が勢いよく開かれた。
　ほんわかした空気を一撃で打ち砕く<冷静|クール>な一言。
　槻司鳶丸にあったこの場の支配権は、<蝙蝠|こうもり>より<潔|いさぎよ>く彼女の手に飛び立ったのだった。
「……いや、いい。自分の夢は、自分の力だけで叶えようとつねづね思ってるんだ」
「そ。なら今みたいな恥ずかしいこと力説しないでね。
　廊下にまで聞こえてたわよ、副会長さん」
　さらりと言って、彼女……蒼崎青子が生徒会室に入ってくる。
　長い黒髪がわずかに乱れているのは、ここまで走ってきたせいか。
　青子の視線は座ったままの草十郎にではなく、熱弁していた副会長に向けられている。
「頑張れ、鳶丸」
　そろそろ教室に戻らないといけない、と草十郎は静かに立ち上がる。
「……わりと薄情なんだな、おまえって」
　青子を前にして呟く鳶丸。
「だって時間がない」
「だから、そういうのが薄情とだな……」
　言いかけて言葉を呑む鳶丸。
　今まで自分しか見ていなかった青子の視線が、草十郎をちらりと見たからだ。
「時間がないのは私も同じよ。貴方にはいつも振り回される」
　これは文句ではなく、素直な意見らしい。
「なんだ、用件は草十郎かよ」
「安心なさい、貴方にもあるから」
「……？」
　心なしか、青子の目に殺伐とした<翳|かげ>りがある。
　いつも不機嫌そうな青子の視線に見慣れている鳶丸だからこそ気づける、微妙な差異だ。
　……理由は不明だが、蒼崎青子はいつになくご機嫌ななめという事らしい。
「静希君。貴方、走るのと泳ぐの、どっちが好き？」
　唐突に青子が訊ねる。
　草十郎は少し顔を曇らせてから、どっちも、と答えた。
「だめよ、ひとつにして」
「……泳ぐほう、かな。けど、どうして？」
「貴方がまだどこの部にも所属してないから」
　実に無駄のない答えだった。
　無駄がなさすぎて、草十郎の意見をはさむ隙間もない。
「うちの校則、読んだわよね。生徒はただ一人の例外もなく部活動に参加しなくてはならない。
　正直どうかと思う校則だけど、決まりは決まりだから」
「そんな無茶な。悪いけど、そこまでの暇はないんだ」
「でしょうね」
　短い返答。
　青子に容赦がないのはいつもの事だが、鳶丸には、彼女が草十郎との会話を避けているようにも見える。
「――――――」
「――――――」
　無言で見つめあうふたり。
　第三者の鳶丸すら息がつまりそうな沈黙は、そうか、という草十郎の一言で破られた。
「蒼崎は分かってると思ってた。
ああ、いや違う、きっと分かっているんだな。
　うん。だから、そこが強いんだろうね」
　席を離れる草十郎。
　青子の横を通り過ぎ、あっさりと廊下に出る。
「それ、明日からでいいんだろ？」
「静希君がいいならね」
　できるだけ頑張るよ、と苦笑して、草十郎は生徒会室を後にした。
　そんな一連の出来事を観察しながら、鳶丸はつくづく草十郎に感心していた。
　今の青子の態度は、相手を怒らせる事を前提としたものだ。しかし草十郎は怒りだす様子もなく、掴みどころのない……言ってるコトは本当に掴みようがなかったが……返答をして去っていった。
　草十郎とて少なからず不満に思っただろう。
　それを表情にも仕草にも出さなかった事に、鳶丸は一流の芸を見た気がしたのである。
「いや、でも何が強いんだろうな会長？」
　鳶丸は首をかしげて青子を見る。
　青子は立ち尽くしたまま、じっと壁を睨んでいた。
「……蒼崎？」
　鳶丸の呼び掛けに、青子は応えない。
「おーい、かいちょー。蒼崎ぃー。……青子女史？
　……
おい、聞いてんのかよ蒼崎青子！」
「っさいわね！　あおあお呼ぶなっ！」
　怒鳴り声が生徒会室に響く。
　さきほどの鳶丸の熱弁以上に、廊下にまで通る美声だった。
「やかましい、うるせえのはテメエも同じだ！」
　よほど耳に響いたのか、それとも怒鳴られたら怒鳴り返す性分なのか、鳶丸も反射的に言い返す。
「そんなんだから男の一人もできねえんだよ、おまえは。
　ほら、目ぇ覚めたか？」
「別に、貴方の声は聞こえてた。わずらわしかったから無視してただけよ。黙らせるの面倒だし」
「テメエな。俺は蚊かなんかか、おい」
「コミュニケーションが成立しない点で言えば、あっちのがまだ上品よね」
「……ほう、その心は？」
「お互い、何を言ってるか分からない。意味のない会話なら、逢瀬みたいなものでしょう？」
「………………」
　その論からいくと、彼女にとって恋人同士とは意味のない会話をするものらしい。
「……問題は、おまえにとって意味のある会話ってのがどの程度の価値かってコトだが……まあいいか。
　いつになくきついじゃねえか、蒼崎」
「ちょっとね。いま愛嬌ふりまける状況じゃないのよ」
「不思議だ。この二年間で蒼崎の愛嬌なんてものは見たことがないんだが」
「鳶丸のいない時にふりまいてたの」
「そうかよ。やっぱりあの時のこと恨んでるんだろ、生徒会長さんはよ」
　鳶丸の言うあの時というのは一つしかない。
　今年の夏に起きた、生徒会室イン武道館事件の事である。
「え、随分と昔の話じゃないそれ？
　そんなどうでもいい事に容量を使っちゃもったいないわよ？　ただでさえ脳の覚醒部分が少ないのに」
　会話が走ってきたおかげか、青子から先ほどまでの<殺伐|さつばつ>さが薄れつつあった。鋭い視線も、時たまにしか見せない<涼|すず>しげなものになる。
　学校内で彼女のこういった顔を見られるのは、今のところ槻司鳶丸だけだろう。
「ご忠告どうも。俺だってあんな事は忘れてえよ。
　……ただ、さっき草の字が馬鹿な事いいやがるからつい思い出しちまったんだよ。くそ、考えてみりゃあ場所まで一緒じゃねえか！」
　などと悪態をつきながらも、まんざらでもなさげに過去を懐かしむ鳶丸。
　一方、青子は顔をしかめる。
「ちょっと待って。
　あの話、彼にしたの……？」
「おう、俺がテメエに
“なんで会長になんか立候補したのよ。アンタは副会長って顔でしょ、どう見ても”
　なんて挑発されて、生涯最高の突きをしたところまでな」
　何故か、ほう、と青子は息をついた。その先を知られなくて良かった、という風に。
　何故だかは鳶丸にも青子自身にも分からない。
「アレはたしかに、びっくりするぐらいいい突きだった。
　思わず体が反応しちゃったものね。
　ところで、私そんなコト言ったっけ？」
「言った。しかも俺が保健室に運ばれたのをこれ幸いと、強引に副会長にしやがった」
　以来、鳶丸は選挙戦で負けた相手に副会長として使われているのであった。
「いいけどな。俺に会長職は合わねえって分かったし。副会長の方が性に合ってやがる。会長なんてやってたら、あやうく親父みたいな野郎になってただろうしよ」
「プライド高い分、できるコトは全部やるからね鳶丸は。
　ま、会長職に専心するあまり、気が付いたら優等生になってたアンタも見たかったけど？」
「やめてくれ、ゾッとしねえ。
　ネコかぶるのはおまえだけで十分だ」
　しっしっ、と青子に手を振る鳶丸。
　男女にあるまじき戦いを繰り広げた者特有の、実にさっぱりした<罵|ののし>り合いだった。
「―――で。
なんでそんな話したのよ」
「は？」
「半年前の、ここの事件を、なんで彼に話したのよ」
「あ、そっちか。
　いや、あいつが馬鹿なこと口走ったからなんだが―――」
　その先は言えない。
　静希草十郎が蒼崎青子に惚れている、という事実は口に出来ない事だ。<漢|おとこ>としての暗黙の了解である。
　たとえ、それが彼の勘違いでもだ。
「それより、さっきのはないんじゃねえのか蒼崎。
　おまえ、草十郎に恨みでもあんの？」
「七日以上前の恨みを引きずるほど、私はお姫さまじゃないつもりだけど」
　ああ、おまえはお姫さまっていうより女王さまだな、と言いかけて止める鳶丸。
　彼もこの二年で、十分に蒼崎青子を学習しているのだった。
「恨みはないねえ。それにしちゃあ故意にケンカ売ってただろ。なんでだ？
　たしかに調子の狂うヤツだが、あいつほどいいヤツはいねえだろうに」
「――――――」
「おい待て。なんだその、足下の白アリを見るかのような態度は」
「別に。アンタまでその台詞を言うのかって、心底から見下げ果てただけよ」
「……まあいいか。いいヤツ、いいひと、結構じゃない？　ケンカを売る相手としちゃあ上等だわ。誰も憎んであげないなら、私ぐらいそうしないとね」
　うん、と気を取り直して気軽に言う青子。
「しないとねって、おまえ」
　鳶丸にはその結論がさっぱりである。
　蒼崎青子のこういう思考の飛び方に慣れてはいる鳶丸だが、理由もなく嫌われる草十郎があんまりと言えばあんまりで、脳裏にはあの人畜無害な顔が浮かんでしまい、つい、
「けど草十郎は蒼崎が好きなんだぜ。それでも嫌いなのか？」
　二分足らずで、言うべきではないという誓いを破っていた。
「あ―――いや、今のはな、蒼崎」
　しまった、と口を閉ざすがもう遅い。
　そして閉まったものは仕方がない。
こうなると青子の反応に一縷の望みをかける鳶丸だが―――
「そりゃそうでしょ、好き嫌いは誰にもあるし。
　けどこればかりはね。彼が私と仲良くしたいって言っても、私は嫌いなんだから仕方ない」
　ドライと言えばドライ。
　スマートと言えばスマートな青子の感想に、柄にもなく憤慨してしまうのだった。
「いや、そんなお友達感覚の話じゃなくてだな！
　そういう好き嫌いじゃなくて、草の字は本気でおまえに惚れてるって言ったんだよ！」
　真顔で怒鳴る鳶丸。
　それに、青子はぽかんとした顔を向けていた。
　まっさらなその顔は、何時間か前に財布を落とした、と気付いた放心に似ている。
　なんでこんな<現実|コト>になってるのか、と我を疑う一瞬の間。
　それは本当に一瞬で、
「で？」
　何でもないコトのように、平然と青子は聞き返した。
　それが、一体、私にどんな意味があるのかと。
「で？　ときたか。鬼でもなけりゃ悪魔だな、おまえって女は。よかろう、聞こえなかったのならもう一度言ってやる」
　こうなったら漢の約束もあったもんじゃない、と開き直る鳶丸。
「いいわよそんなの。つまらないもの」
　それをあっさりと、心底からの感想で彼女は切り捨てた。
「………………」
　とりあえず、学校中のいまだ健気に片思いをしている男子生徒のため、この悪鬼に相応しい呼称はないかと模索する鳶丸だった。
「なるほどね、それでさっきの話に結びつくワケだ。
　へぇー、柄にもなく友達思いじゃない殿下？
　ってコトは聞くも無惨、語るも無情っていう私の噂話、教えてあげたんでしょう？」
　ふふ、と妖しい笑みを浮かべる青子。
　鳶丸はこの相手に色恋ざたの話をした事を、どっかにいる神さまに懺悔した。
「鳶丸にしちゃあ正しい判断ね。誉めてあげるから、どんな話をしたのか聞きたいなー、私」
　笑顔のくせに殺気を放つのは止めてほしい。
「……代表作と、ここでの事件を二つばかり」
　遠慮がちな鳶丸の返答を聞いて、満足げに頷く青子。
「こういう時、噂話って便利よね。うるさいのを追っ払ってくれるから。でも、そんな話を考えなしで広めたら大変だから、これからは気をつけてね」
　それは、語尾にハートマークでもつきそうな、ゾッとするほど甘い笑顔だった。
　怒りにしろ喜びにしろ、感情がハイになると蒼崎は可愛らしい口調になる……
　そんな新事実を発見した鳶丸だが、だからといってこの場がどうにかなる訳でもない。
「ああ、俺も命は惜しいからな、口はもう滑らねえよ。
　……けどよ蒼崎。本気で草十郎が嫌いなのか？」
　もうこの話題は避けるべきだと分かっていても<果敢|かかん>に挑む鳶丸。
　男の友情というものは、時に真珠より美しい。
「まあ……好きじゃないから嫌い、っていうワケじゃないけど。私が彼の事を嫌う理由は自分でも分からない。
　だからダメなのね、きっと」
　鳶丸の顔を立てていくらか思考実験したのか、青子はしばし悩んでからそんな返答をする。
　即答ではなく熟考しての答えなら、鳶丸も文句を言う筋合いはない。
「そうか。ま、そういうコトならしょうがねえか。
　なにしろきれいさっぱり感情論だ。お互い理由もなく好きと嫌いじゃ手を貸す隙間もねえワケだし」
　これでこの話は終わりか、と草十郎に謝りながら天をあおぐ鳶丸。
　しかし。
　その降参を告げる一言が、蒼崎青子の興味を引いたらしい。
「……待って。今の、どういう意味？」
　上機嫌ぽかった口調が変わる。
　それに気付かず、軽い気持ちで鳶丸は答えた。
「いやアイツもさ、蒼崎に惚れた理由が分からない、なんて言いやがってよ。……ああ、違ったか、理由なんてない、なんて意味だったかな」
　鳶丸は“青子の外見に惹かれた”なんて草十郎の言葉を信じていないので、そこはあっさりと切り離す。
「理由はない、ですって……？」
「ああ。なんで、俺がいくらおまえの噂話をしても無駄だった。あまつさえなんて言ってたかな……そうそう、理由はどうあれ、蒼崎の心配は本物なんだ、とか、自分はそれで助かってるとか。俺なんかにゃ言えない台詞だったのは確かだね、どーにも。
　はっきりしてんのは他の野郎どもと違って、噂を聞いても手を引く素振りなんざ微塵もなかったって事だけ―――」
　そこまで調子よく語って、鳶丸は青子の変化に気が付いた。
　彼女は壁を睨んでいる。
　その、仇を見るような視線は無言のまま何分か続けられた。
「……なにそれ。さっきといいそれといい、どこかで聞いたような事ばっかり―――」
　ぎり、と歯を噛む音がする。
　反感ここに極まり、あまりの不機嫌さに目の前にいる鳶丸が視界に入っていないようだ。
　なんか、また絶望的に草十郎に迷惑かける事を言っちまったな、と鳶丸は天をあおいだ。
「……少し分かったわ。なんでアイツが気に喰わないのか」
　聞きたくない、どっかよそで喋ってくれないもんかなー、などと目を逸らす鳶丸を無視して、青子は<呪詛|じゅそ>のように言葉を紡ぐ。
「あいつ、私が嫌いな奴と言動が似てるのよ。
　誰彼かまわずいい人扱いされるところとか。妙にふわふわしてるところとか。いちいち私の癇に障るところとか」
　最後のはただの八つ当たりだよな、と所在なげに時計とか見てみる副会長。
　―――と。
　時計は、当然のように午後一時を回っていた。
「……分かった、もういい。この話をした俺が悪かった。
　で、俺に用ってのはなんだよ。言っとくけど、もう授業始まってるぜ？」
「へ？　授業って、なんで？　
いつ？」
「いや、さっき草の字が出てってから、蒼崎がぎらーんって壁睨んでた時にチャイムが鳴ったんだよ。いいのか生徒会長。五時限目ばっくれて」
「っ、いいわけないでしょ！
　なんで黙ってんのよアンタはーっ！」
　鳶丸のネクタイをひっぱりながら、半泣き状態で青子は怒鳴る。
対して、鳶丸は両手をギブアップの形で上げていた。勝者の余裕である。
「蚊のほうがエレガントなんて言いやがった仕返しだ。
　思い知るがいい、男の純情を踏みにじったり焼き殺したりするエリート悪魔め」
「あいかわらず細かく根に持つ男！
　言動には言動で返しなさいよね、卑怯者！」
　鳶丸の首にぐいぐいとネクタイが締まっていく。
　それすら勝者の愉悦、とチンピラ顔で笑う副会長。
「ふふふ、おまえの古典が<補習|はめつ>に向かっているのは周知の事実。そしてＡ組の五時限目は言うまでもない。<藤代|ふじしろ>のばあさん、蒼崎のこと嫌ってるしな」
　藤代というのは古参教師のひとりで、言うまでもなく、担当は古典である。
「さあ、こんな所で俺のネクタイを引っぱる余裕があるのなら、急いで自分の教室に立ち返るがいい。
　情けだ、別に止めはしねえよ」
「っっっクソ、あんたなんかに嵌められるなんて！
　えぇい、このまま死んでしまえ！」
　さらに締まるネクタイ。
　有言実行、容赦のない青子の窒息攻撃にひととき、神を見る鳶丸だった。
「―――ハ！？　いや、待て待て、ホントに死んじまうだろうがっ！　今ならまだ間に合う、十分過ぎたら遅刻から欠席扱いだぞ！？」
　とっさに時計を見る青子。
　時刻は午後一時七分。二階である第二生徒会室から、三階端のＡ組の教室まで走ればギリギリ間に合う距離だった。
「命<拾|ひろ>ったわね、鳶丸」
　ち、と言い捨てる青子。
　あながち嘘でもないのが鳶丸的に頭がいたい。
「あと放課後、ここにいて。
　頼みたい事があるのはホントなんだから」
　言うが早いか、青子は隼のように生徒会室から飛び出していった。
　ようやくひとりになって、
鳶丸は開けっぱなしの扉を閉め、鍵をかけて
椅子に座る。
「……ったく。ああしてる分には楽しいヤツなんだけどよ、蒼崎は」
　ギシリ、とパイプ椅子の背もたれを<軋|きし>ませてため息をつく。
　窓の外は気持ちのいい晴れ模様。
　が、冬の日射しはすぐに弱くなっていく。
　じき日の勢いも翳って、暖房の入っていない生徒会室は段々と冷えていくだろう。
　ストーブなんて気の利いた物は第一生徒会室に流れているので、この寒さには慣れろという他ないのだが。
「こんな天気が続けばいいんだがねぇ。
　天気予報じゃ、また雲行き怪しいって話だが」
　なんとなく暗示的な独白の後、鳶丸は草十郎の姿を思い浮べた。
　曇りと晴れ。そのどちらが彼らしいか考えてみたが、ついに答えは出なかった。
　その日の学校が終わると、草十郎は寄り道一つせずアルバイト先に直行した。
　学校側に申告してあるのは三咲町商店街にある中華飯店と鮮魚店だけで、他のアルバイトは秘密にしている。
　それも単に数が多いからではなく、それ以前に法律に違反していそうな働き先だったからだ。
　今日のアルバイト先はその最たるもので、<社木|やしろぎ>駅前にあるパチンコ店だ。
　学校の制服から店の黒いタキシードじみた制服に着替え、仕事はじめに店周りの掃除をする。
　三咲市の顔である<社木|やしろぎ>の駅前は幾多のショッピングビルが競い合うように乱立し、アーケード街もそれらに<倣|なら>うように騒がしい。
　人が多くなれば生み出される物も多くなる。
　浪漫として言えば笑顔であり、
　現実的に言えば流通であり、
　より現実的に言えばゴミである。
　クリーンな町作りを目指している社木だが、そのルールには逆らえない。
　それがこういった店なら尚更だ。
　商売柄<質|たち>の悪い人種を呼びこみやすいホールの前は、日に何度も清掃を心がけるべきである。
　冬の寒空の下、草十郎は煙草の吸い殻を集め、チラシを拾い、空き缶をゴミ箱へ。
　山での生活を彷彿とさせるものがあるらしく、草十郎は気軽に、淡々と掃除をこなした。
　ひととおり店周りを綺麗にし、晴れて暖房の効いた店内に戻る。
　まぶしく目に痛い騒音、
　充満するタバコの臭いに圧倒されながら店内を横断して事務所へ向かう。
「店長。外まわりの掃除、終わりました」
「はい、ごくろうさま。それで、いいかな。二階の四十番台のお客さんの様子、見てきてくれない？
　どうも懐にのんでそうなんだよね、あのお姉さん」
　元会社員の、人の良さそうな店長さんである。
　あきらかに学生である草十郎を採用したのはその苦学生ぶりに感動したから―――ではなく、
　店員がみんな怖い顔をしているので一人でも心安らげる店員がほしい、という理由らしい。
「いいんですか？　トイレの掃除、まだですけど」
「いいのいいの。なんかねぇ、カメラの死角にいるんでイマイチ確証とれないの。
　草ちゃん、いまのところ的中率百パーセントでしょ。様子見てきてくれないかなぁ」
　そういう事でしたら、と掃除用具を片付けて草十郎は二階フロアに向かった。
　店は典型的な二階建ての、大きい部類に入るパチンコ店である。
　基本的には地域密着型で、あまりあこぎな調整もせず、少しずつ町の皆さんから収入を得ることを良しとしている。
　が、店側はそのつもりでも、お客様は千差万別。
　気軽に遊びに来る者もいれば、これで食べている<職業博徒|プ　　ロ>、はては不正を働いて儲けようという輩もやってくる。
　中でも八十年代中期から流行しだしたある機械は、ゲーム台の電気系統に外部からアクセスしてプログラムを狂わせ、俗に言うスリーセブン等の大当たりをたやすく実現してしまう。
　当然店側としてもそういった人種の入場はお断りしたいのだが、確たる証拠もなしにお帰り願う訳にもいかない。
　客商売である以上、疑わしきは罰せず、がルールである。
　結果、現行犯としてとっ捕まえるのが店側の正義となる。
　そういった不心得者をゴト師と言うらしいが、草十郎にはそのへんの事情は一切分かっていない。
　彼が承知しているのは、彼らが店側にとって厄介な相手であり、かつ、不正を働いているルール違反者である、という事だけだ。
　二階に上がる。
　有線のラジオもゲーム台の音も、一階よりは控えめに流れている。
　一階の百台に対して二階のゲーム台の数は八十あまり。空席はちらほらとあるものの、夕方にしては客入りは良好だろう。
　店長の言う四十番台は店の中ごろの列だ。
　さりげなく列の入り口あたりの壁に寄りかかってみると、たしかに派手に<大当たり|フィーバー>しているお客さんがいた。
「………………」
　<一目|ひとめ>見た瞬間に違うな、と草十郎は直感した。
　何を以てプロと言うかは疑問だが、特別という意味なら彼女は本物だ。
　なんとなく、その幸運の強さが感じ取れる。
　周りの客達の関心を一身に浴びながら、彼女は黙々とハンドルを回している。
　歳は<草十郎|じぶん>より何歳か上。
　緑色の、体の線がはっきりと判る洋服を着ている。上着とスカートが一体になったような服だ。
　足は素肌ではなくストッキングをはいている。
　細い両足は艶やかに組まれ、パチンコをしているというよりは絵画のモデルのような優雅さだった。
　赤みのかかった黒髪は短く、涼しげにかけたメガネと赤い唇がやけに決まっていた。
　正直に言って、こんな場所でフィーバーを出していい美人ではない。
　彼女の足元には四つの大箱が重ねられていて、その勢いは留まるところを知らない。
　退屈そうに、細い陶器のような指が長い煙草を唇に運ぶ。
『……なんか……どっかで……』
　そう思った瞬間、メガネごしに視線が壁側―――草十郎を見た。
「………！」
　とたん、背中に走る悪寒。
　反射的にこぼれる悲鳴を必死に手で押さえつける。
『あの<女|ひと>、昨日の……！』
　確証のない直感に弾かれて、草十郎は<脱兎|だっと>の如く走り出した。
　この場から一刻も早く逃れようと、まず一階へ。
　そのまま外に駆け出そうとしたが、最低限の責任として店長に声をかける。
「店長、早退します。それと、二階の人は問題ないです」
　心の動揺をなんとか抑えこみながら告げ、学校の制服を紙袋につめて店を飛びだした。
　曇った天候のせいか、すでに夜の影が濃い社木の商店街を走り抜けて駅に向かう。
　長い階段を矢のように駆け上がり、定期を財布から素早く取り出して改札を通り過ぎる。
　改札には大勢の人々がそれぞれの事情で立ち止まったり、歩いたり、話し合ったりしていた。
　その中で無愛想な顔をしているのは自動改札の横にある駅員室の駅員ぐらいで、ここにはちょっとだけ騒がしい安心があふれていた。
　都市の日常、と言い換えてもいい。
　間違っても、昨夜の草十郎が見てしまった風景はどこにも見当たらない。
「――――――はあ」
　ようやく肺に空気を送る。
　つかの間の安心から、草十郎はぴたりと立ち止まった。
　おそるおそる背後を振り返る。
　当然のように、追いかけてくる危険人物など居るはずもない。
『……って、考えてみると……』
　なぜ唐突に走りだしたのか、その理由が脆弱すぎた。
　そもそも自分は、人相が分かるほど“<危険|あいて>の顔”を見ていなかったではないか、と呆れかえる。
　頬を叩いて気合いを入れ直し、草十郎は早足でプラットホームに下りていく。
　あいにく電車は十分待ちだったが、ここで取り乱しても仕方がないので大人しく椅子に座った。
「――――――」
　もういちど深呼吸。
　周りには自分と同じく、電車待ちの人々の姿がある。
　……追いかけてくる“誰か”なんて影も形もない。
　考えすぎだった、と、ようやく頭がクリアになる。
　ただ、がっくりと落ちた両肩が重いのが意外だった。
『……疲れてるのは分かってる。自分の体のコトだし』
　予想以上の強い疲労に、草十郎は嘆息した。
　山を下りてきてからの生活はたしかに過酷だったが、こうして座って振り返ってみると我慢できないほどではなかった。
　肉体的にはたぶんまだまだ大丈夫。
　<音|ね>をあげているのは心の問題だ。
　ここと山とでは何もかもが違う。
　それを認めて適応する事はひどく難しかった。
　馴染むのは簡単だ。人間はなんにだって慣れる生き物なので、放っておいても順応していく。
　なので。難しかったのは、たぶん認める方だろう。
「……そりゃあ。とにかく、難しいコトだらけだし」
　今まで口にしたことのない弱音を漏らす。
　正直、草十郎は町を出歩く事すらいまだに怖い。
　都会の人々には当たり前の事でも、彼にとっては未知の事ばかりなのだ。そんな事が連続するたびに驚いているのだから、まいらない筈がない。
『……そっか……疲れてるのは体じゃないのか……』
「だから、あんな幻を見る」
　呟いてみて、草十郎は小さく首を横に振った。
　有る物は有るのが、世の習わしだ。
　鳶丸にはああは言ったが、草十郎は<あ|・><の|・><出|・><来|・><事|・>が現実だと解っていた。
　ここは山に比べれば魔法の国だ。
　それなら、本物の魔法使いがこっそり暮らしててもおかしくはない。
　一度でもそう思ってしまったら、椅子に座った両足が小刻みに震えていた。どうも怖いらしい、と気付いたのはしばらくしてからだ。
　自然以外を怖いと思うのは、子供のころ山道でばったり野生の熊に出会った時以来である。
「いや、あれはこんなもんじゃなかったっけ。
　なりふりかまわず泣き叫んだもんな、あの時は」
　幼少期のトンデモなトラウマを思い出し、草十郎はつい<微|わ><笑|ら>ってしまった。
　たしかに二メートル以上の獣がのっそり現れ、ぐるるる、なんて唸った日には誰だって卒倒するだろう。
　山で生活していた草十郎からしてどのくらい迫力があったかと言うと、ほんの二日前に映画で見た大怪獣をぬいぐるみでは、と錯覚するぐらい野生の獣は怖かった。
　それを思い出せば、たしかに、これぐらいはなんとか我慢できる話かもしれない。
「……そうだよな。今の問題は、えーと……チラっと聞こえた最後の台詞か。『捕まえて始末する』っていうのは、どうなんだ？」
　額面通りにとるのなら、それこそ文字通りの意味、というヤツだ。
　あまりにも物騒な意味合いすぎて、真剣に考察することが難しい。何かの聞き間違い、あるいは言い間違いだったのだろう、と放り投げてしまいたくなる。
「都会のルール……誰かが、きっと罰しに来る、か……」
　自分で言っておきながら、やっぱり他人ごとのようで、夢だったと割り切りたい気分だ。
　草十郎は息をついて瞼を閉じる。
　視界の暗転と共に先ほどの光景をすべて棚上げ。
　とりあえず、今はきれいさっぱり昨夜の出来事を忘れる事にした。
　瞼を開けると、呼吸はすっかり落ち着いていた。
「それでさ。
　蒼崎を殴りつけようとして、結局どうなったんだ鳶丸？」
　なんとなく唐突に、そんな疑問が湧いたりする。
　今度聞いてみよう、と草十郎が椅子から立ち上がった時、長い光を引いて電車がやってきた。
　つまり、
昨日こんな事があった。
　“月の無い夜は、決して振り向いてはいけないよ―――”
　それは教訓だったのか、警告だったのか。
　ずいぶんと昔……私がまだ今の<自分|ありかた>を夢にも思っていなかった頃。
　突然、何の前触れもなく、泣きだしたくなるぐらいの不安でいっぱいになって、祖父の工房に逃げこんだ夜の話だ。
　祖父は別人のように優しく微笑み、私の頭に静かに手を乗せて、
　“―――<赤色|あかいろ>の死が、おまえの背中を見ているからね”
　そんな、気休めどころかより絶望的な言葉を残して、私を家につき返した。
　私はあの夜、たしかに背後に<潜|ひそ>む影を認めた。
　ずっと遠くから私を見ている何者か。
　それは少しずつ、年々距離を<縮|ちぢ>めていき―――
　小さな点ほどだった気配は、その息づかいさえ感じるほどすぐ後ろまで迫っていた。
　もちろん錯覚。
　振り向いた先には誰もいない。
　ただ―――きっかけになったあの夜。
　あの時の言いようのない不安は、間違いなく、約束された<恐怖|し>に起因するものだった。
“
……Hey diddle diddle,The cat and the fiddle,
　The cow jump'd over the moon,
　The little dog laugh'd……”
　……あれはいつの話だっただろう。
　遠い子供の頃の記憶の片隅。
　絵日記じみたかすかな思い出。
　……暗い夜には決まって祖父の言葉が耳に響く。
　どんなに風が強く吹いても、<傍|かたわ>らの少女の<鐘|うた>が聞き惚れるほどのものでも、不吉な言葉をかき消す事はできない。
「……ご到着ね」
　傍らの<少女|ありす>が言った。
　抑揚のない声は、完全に傍観者でいる事を示している。
　夜の公園には私と彼女だけ。
　今日は私にとって“今の自分”の誕生日。
　記念すべき<初陣|ういじん>にしては、少々不吉な夜と言わざるをえない。
　ぶあつい雲は黒い傘のように星明かりを<遮|さえぎ>っている。
　強い風は夜空を引き裂き、重い雲を運んでいく。
　公園の真ん中に立つ柱時計の針は、二本とも頭上の月を指すように頂点を向いている。
　あいにくと、今日は月のない夜だったけれど。
　冬の大気は、深夜になって狂暴さを増している。
　息を吸うだけで体の中が凍る気がする。
　骨に染みこむような冷気は、そのまま背骨を通じて脳に直接入りこんでくる。
　思考が寒さで麻痺しないよう、
　指先が寒気で化石にならないよう、
　私は、自分の<鼓動|リズム>と感情を炎にくべた。
「触覚を<譲|ゆず>るわ。……幸運ね。
　あの位置なら刻んでおいた<鬼火|ウィスプ>が灯る」
　有珠の言葉に頷きだけで応える。
　その時、一瞬だけ地面が見えた。
　……私の両足はかすかに震えている。
　寒いから震えているんだ、と判断したけれど自信はなかった。
　本当は寒さではなく恐怖で<痺|しび>れてしまっているのかも知れない。……ホッと息を吐く。感情が働いているのなら、私はじゅうぶんに人間らしい。
　そんな感傷にひたる間もなく、結界の感触が有珠から私に移ってきた。
　この公園一帯に敷かれた透明の<境|かべ>。
　地中深くまで根を張った認知外の絨毯。
　―――夜に<浸|ひび>く、久遠寺有珠の<童話詠唱|マザーグース>。
　それらの感覚と、私の体がひとつになる。
　ざわり、と右腕に鳥肌がたつ。
　誰かが私の腕に侵入したのだ。
　鳥肌は<蟻|あり>のように右腕を<這|は>い上がってくる。
　ゆっくりと、確実に、この心臓めがけて。
　払い<除|の>けたくなる衝動をおさえて、より決定的な位置、より確実な到来を待つ。
　月の無い夜。
　公園の小さな街灯だけでは、闇の<全容|すべて>は見渡せない。
　蟻の進行は止まった。
　私の右腕から離れて離れて<心臓|まなか>のとなり。
　視覚を動員することなく、闇に<潜|ひそ>む侵入者の姿が見える。
　ここから<右舷|うげん>後方三十歩ほどの茂みの<陰|かげ>、四つんばいに手足をついたソレは<手招|てまね>きするように右手をあげ―――
「―――そこ！」
　私の知覚と、敵の行動はほぼ同時だった。
　体が振り向く。
　敵の腕は槍のように伸びた。
　高速で後頭部に放たれた凶器が、私の髪をさらっていく。
　有珠から結界を<譲渡|じょうと>され、ここ一帯そのものとなった全能の知覚が、最小の回避を可能とする。
　礼儀知らずの蛮行に舞い上がる髪。
　頬をかする、小さいが鋭い痛み。
　―――死が、魂に触れた気がした。
「っ―――！」
　体内の血流を、異なる<循環|かいろ>に切り替える。
　秒速一メートルで体内を巡る血液が、架空の元素に変質する。
心臓はまったく別の<生|エ><成|ン><機|ジ><関|ン>に成りはてて、私の体を一つの回路として利用する。
　熱量として計測されない不可知の運動。
　私を今の私にならしめた、いまだ人の手の及ばぬ神秘。
　あらゆる奇跡、<寓話|ぐうわ>の動力となる生命の火。
　これを、私たちは魔力と呼ぶ。
「―――<接続|セット>」
　振り向いて敵を視界に収め、片手を振りかぶる。
　腕は意志の代行だ。
　私はまだ未熟だから、<発|こ><音|え>と<手足|どうさ>を使わないと魔術は働いてくれない。
　魔術式は予め公園に刻まれている。
　私がするコトは、その式に火をくべるだけ。
　体内で生成した魔力を、各自それぞれの方式で流しこめばいい。
　たいていの魔術師は転移方式だ。有線にしろ無線にしろ、式に魔力を<注|そそ>げばいい。
　“出す”“撃つ”“流す”と色々あるけど、私の場合はなんていうか、こう―――
自分の手足で<弾|はじ>く感じ……！
「―――燃えろ！」
　高速に高速で対抗する。
　数メートル伸ばした腕はそのまま、敵は炎に包まれた。
　夜の公園というコトもあってキャンプファイヤーを連想させる。ただ、炎の中で影絵のように<蠢|うごめ>くのは人間らしき姿だったけど。
　不自然に発した炎は、やっぱり不自然に消えた。
　物を焼く音も、焦げた臭いもあまりない。
「―――結界、返すわ。死体を確認するから」
　傍らの彼女に言って、もう動かない人影に足を向けた。
　殺した。
殺した。
殺した。
　相手が何者であれ、人の命に、手をかけた。
　その、現実味もなければ手応えもなかった事実を、<渇|かわ>ききった喉で嚥下する。
硬くて苦くてこれっぽっちも飲み込めないけど、嚥下しようと努めていた。
「――――――」
　私はいたって冷静だ。心拍数はレートを幾分オーバーしていて、呼吸も<千|ち><々|ぢ>に乱れているけど、頭はすっごく冷静の筈。
　気が付けば消し炭はもう目の前。
　反撃を想定しつつ、ゆっくり死骸を確認する。
　……よし、問題なし。公園の地面に倒れ臥したそれは、燃えつきて灰になっていた。
「………？」
　けれど何かおかしい。
　一見した感想、残骸のあり方に生命の匂いがしない。
　まさか、と人影の顔を見る。
　そこには目も鼻もなく、マネキンのような白い面だけがあった。
「ちくしょー、またやられた！」
　叫んでマネキンを蹴っとばす。
　灰は風に舞い、死体も風化していく。
いや、死体というのは正しくないか。これはただの人形で、結局、おびき寄せたつもりが、またハズレを引かされた。
　……本当の意味での初陣は、また先送りになったということだ。
「はあ……
いつになったら一人前にって……
あれ？」
　その時、ふと視界を見慣れた物がかすめた。
　むこうの滑り台の影のカタチがおかしい。なんというか、余分なモノでぷくっと太っている気がする。
　戦闘の余熱でのぼせていたのか。
　私は、その“余分な影”が何であるか、思い出すのに一秒もかかってしまった。
「―――誰ッ！？」
　自分で言うのもなんだけど、失敗だった。
　その見慣れた高校の制服を着た誰かは私の声でビクっと後じさって、そのまま、
ものすごい勢いで走り出した。
　まるで必死に逃げるみたい―――
　―――って、実際逃げてるんだアレ！
「追いかけて！　見られた！」
　急いで相棒に言うけれど、彼女は第三者の存在に気付いてもいなかった。
　かといって自分も動けない。情けない事に、今の戦闘でまだ足がすくんでやがる……！
「だめ、逃げられる！
　捕まえて始末しないと……！」
　上品に振る舞う余裕なんてない。
　この現場を誰かに見られる事は、私たちにとって生死に関わる問題なんだから―――！
「待て、この……！」
　足の<痺|しび>れを振り払って公園の外に出る。
　……なんて見事な逃げ足だろう。
　一部始終を目撃していた何者かは、跡形もなく住宅地の闇に消えていた。
「ああもう、結界にあいつの感触なんてなかったのに……！」
　などと、文句を言ってみても学生服の人影が戻ってくる筈もない。
　自分の情けなさを恨めしく思いながら、私は追跡を諦めた。
　一時的にしろ、公園は有珠の“森”になっている。
　ここでは一メートル以内にいようと人物像の特定、声の確認はあやふやになる。なにしろ童話の中の出来事だ。
　一連の出来事は見られたが、私や彼女の顔や素性は知られていない―――なら、他に打つ手はある。
「あの背中、男だった」
　公園に戻る。
　見慣れていて当然で、アレは間違いなくうちの高校の制服だ。
　手がかりとしてはそれで十分。うちの生徒なら洗いだす手段はいくらでもある。
「……にしても。どうしてこう問題ばっかり増えていくんだろう」
　などと愚痴りつつも、解決の優先順位ははっきりしていた。
　変な噂をばらまかれるより早く、さっきの目撃者の口を封じなくてはいけない。
　それも最優先で、迅速に、容赦なく。
　顔を上げると、離れていた有珠の姿が見えた。
　魔術師としてのあり方を目撃され、ピンチなのは彼女も同じなのに、
「……これは、困った事になったわね」
　人影の走り去った闇を見つめる姿は、冷静というより彫像か何かのように無反応。
　……本当、うんざりする。
　抑揚のないその声は、月の無い晩に、憎らしいほど似合っていた。
　唐突に言うと、私は魔法使いである。
　なんていうか、指先ひとつで奇跡を起こして、<辺鄙|へんぴ>な森に隠れ住んでいる童話のあれだ。
　イメージはちょっと違うけど、わりと的を射ているので採用したいと思う。
　ただ断っておくと、ホウキに乗って空は飛ばない。
　動物に変身したり小鳥と話したりもできない。
　夢があるようでないのが今風の魔術師なのである。
　非常識だけど現実的。
　万能なようでわりと<窮屈|きゅうくつ>。
　胸を張るには色々半端なものだけど、私の本当の職業は学生じゃなくて、そんな<浪漫|ロマン>あふれるものだった。
　けど、その事はもちろん秘密。
“魔術師はこれ、その<御業|みわざ>をすべて<隠匿|いんとく>すべし”
　協会の十箇条のトップに出ている事だし、私だってこんなワケわかんない<話|こと>を口外する気はさらさらない。
　これでも外じゃ優等生で通っているし、だいたい、知らしめたところで私が嬉しい事なんてまったくない。
　どっちかというと頭の痛いことばかりだ。
　なので、そんなつまんない事は極力、自重するにかぎる。
　もっとも、それはまだ私が立派な魔法使いになれていないからだ。
　生涯の秘密というのは、私自身が立派になって一人前になった時、たったひとりにだけ打ち明けられれば、それで幸せだと思う。
　うん。いちばん大きな秘密の告白が『実は魔法使いでした』なんていうのは、たいへん洒落ている。
　そのシーンを想像すると妙におかしくて、協会の規則なんかより晩年のために秘密を守りたくなるぐらい。
　以上の事を祖父に話すと、彼は私の頭を撫でてくれた。
　誉めてくれたのか<窘|たしな>めていたのかは分からないけど、あの人にしては優しい感触だったと思う。
　私が魔術―――祖父の後を継ぐ事になったのは、中学を卒業したその日だった。
　家に帰るなり祖父は
『姉は旅に出た。今日からおまえが蒼崎の後継ぎだ』
　なんて事を淡々と語ったのだ。
　蒼崎の家が魔術なんて古くさいものを伝えていた事は知っていたけど、正直、自分にそのおはちが回ってくるとは思ってもいなかった。
　魔術の継承は<一子相伝|いっしそうでん>とかなんとか。
　色々と決まり事の多そうな魔法使いの座とやらは姉貴の役割で、私はそういうトンデモとは無関係。いたってノーマルな生活設計、将来希望だったのだ。
　なので、姉貴には悪いけど自由気ままに人生を送らせてもらいましょう―――
　なんて気楽にやってきたところで、とんでもないカウンターが待っていたワケである。
　以来、私は今まで横目で見ていただけの世界に身を置くことになった。
　まさかまさかの高校デビュー。
　まあ、新生活のスタートとしては悪くない。
　……それから色々あって現在。
　この役柄には戸惑ったけど、それも気が付けばもう二年目に届こうとしている。
　その間にトラブルらしき物は一切なかったし……私たちの名誉のため、半年に<亘|わた>る同居人との殺し合いはカウントしない……
魔法使いとしての才能もそれなりに優れているみたいで、まだ壁にはぶつかってはいない。
　人間なんだから頭の痛い悩みは二つや三つあるけれど、今のところ将来に不安を感じる事はまったくなかった。
　私の生活は、このまま<順風満帆|じゅんぷうまんぱん>に行くと思っていたのだ。
　昨夜の、例の一件さえ起こらなければ。
「どう？」
　久遠寺邸に帰宅するなり、蒼崎青子は久遠寺有珠にそう<訊|たず>ねられた。
　切迫感も危機感もない声だが、<玻|は><璃|り>のような<黒瞳|こくどう>が事の重要性を告げている。
　色気のないコートを脱いでハンガーにかけ、青子はソファーに腰を下ろした。
　正面にはテーブルを挟んで有珠が座っている。
「そっちは？」
「良くないわね。<偵察|ていさつ>に行けるのは七個ぐらい。ここのところ使ってばかりで、作り置きをする余裕もなかったし」
　青子から視線を逸らすと、有珠はテーブルの上に置かれた箱に視線を戻す。
「あの夜、街を監視していたヤツはいないの？
　街の偵察は完璧なんでしょ、そいつら」
「それは昼間の話よ。夜間飛行は危険が多いわ」
　肝心なところで役に立たないのね、とため息をつく青子。
「……そういう貴女は？　朝はずいぶんと強気だったけど？」
「ん？　
あ、こっちは予定通りよ。
　明日までにはしぼりこめると思う。今朝、鳶丸にうちの生徒の自宅と行動時間を調べさせたから。
　あの時間に公園をうろつく奴は滅多にいないし、簡単に割り出せる」
「そう簡単にいくの？」
「いくわよ。<伊|ダ><達|テ>に生徒会に勤めてないわ。その程度のデータは揃えてある。
月一のバイト先はおろか親しい友人宅との移動時間、その優先順位まで調べ上げてるんだから。
　<他|ひ><人|と>には見せたくなかったリストだけど、そんな余裕ないでしょ？　だから、そういうのが向いてる副会長にやらせたの」
　余談ではあるが、その機密ファイルが作成されたのは青子が生徒会長になってからである。
　その存在だけが噂され、彼女が全校生徒に恐れられる一因になっている、いわく付きの一品だ。
「……そう。徹底しているわね、あい変わらず」
　やや呆れ気味に漏らす有珠。
　同居をはじめて二年近く。
　一度やると決めればとことんまで突っ走るのが蒼崎青子だと、有珠も十分身にしみている。
「ま、私もアレがこんな風に役立つとは思ってもみなかったけど。ほんと、備えあれば憂いなしとはこの事ね」
　とはいえ昨夜の出来事は異例中の異例だ。
　この状況は、本来起こりえるものではない。
「それより原因は分かったの？　結界の<結|むす>びに不手際があったなんてのは聞かないわよ」
　凛とした視線を一際強くする青子。
　結界の仕上げは有珠の役割だ。
　昨夜のトラブルの原因が結界にあるのなら、責任の所在は明らかにしなくてはならない。
　同居人であり相棒である青子と有珠だが、それはあくまで利害が一致しているからである。
　ふたりの関係は、それが家柄によるものだとしても、味方というより敵に近い。
　最終的な話、蒼崎青子と久遠寺有珠は<相容|あいい>れない。
　失点があれば叩く。
　隙があれば攻撃する。
　―――機会さえ。
　互いが信条的に納得のいく機会が訪れるのなら、当然のように殺し合う関係だ。
　そんな青子の視線を、有珠は正面から受けとめる。
　大の男でもたじろぐ視線を前にして、有珠の<表情|かお>は微塵も変わらない。
「……仮の話だけど。あの結界に落ち度があったのなら、今まで何度もこういう状況になっていたでしょうね」
　でしょうね、と青子は頷いた。立場上問いつめただけで、青子は有珠を信頼している。
「結界の在り方は完璧だったのね？」
「絶対とまでは、断言はできないけど」
　やはり抑揚のない声で答える有珠。
　結界とは、一つの閉じられた世界を意味する。
　閉じたい場所を、どのような手段であれ外界から<遮断|しゃだん>した状況を結界と呼ぶ。
　結界には様々な種類があり、
　実際にその区間を壁で隔離する物理的なものもあれば、
　区間内の様子を鏡や霧、森の囲み等で隠してしまう視覚的なものもある。
　ただし、それらの結界は『内部』を閉じるために『外部』に異常性を報せてしまっている。
　立ち入り禁止にはできても、その区間が立ち入り禁止となっている事実を隠蔽できない。
　いずれ、中の様子が見えずとも“立ち入り禁止”区域そのものに興味を持つ者がでてくるだろう。
　それでは本末転倒だ。
　真に優れた結界とは、外界に何ら異変を感じさせず、同時に、外から干渉されない<隔|へだ>たりでなくてはならない。
　昨夜、久遠寺有珠が公園に敷いた結界はその<類|たぐい>の、“理想的な”結界だった。
「……その場所に用があっても、今は無いように思わせれば誰もそこには立ち入らない。
　隠したい場所の周りに、一時的な意識の<改竄|かいざん>を<促|うなが>す結界を張る……手間はかかるんだけど、一時間程度の<人避|ひとよ>けには信頼性は高い結界よね。
　有珠の鏡を使った一級品だし、途中で破れる事もない。事実、入ってきたのはあの人形だけだとはっきり感じられた。
　これで完璧じゃなかったら何が完璧なのよ？」
「……わたしも分からない。森作りに落ち度はなかったわ。
　森は数日かけて栽培したものだし、今まで通り信頼できる結界よ。けど例外があったのなら、どこかで見落としがあったのね」
　そう言う有珠の瞳は、その見落とし自体なかった事を示している。
「……まいった。こうなると、一番いいのは<目撃者|あいつ>が人形使いだってパターンね。それならかろうじて納得できる。相手が魔術師なら、結界の侵入ぐらいできるでしょうし。
　問題は……侵入した時の違和感を、どうやって消したかって事だけど」
　そんな使い手が自分たちを狙っている、というのもぞっとしない話だ。
　有珠の結界を魔術で騙し通せるという事は、相手は久遠寺有珠を上回る魔術の腕を持つという事。
　―――とてもではないが、今の蒼崎青子にどうにかできる相手ではない。
「……その線はないわ。
　彼は部外者よ。<椋鳥|むくどり>はともかく、ロビンが後を<辿|たど>れなかったもの。魔力の気配はまったくなし。誰かの魔術で操られている犠牲者、というのもないわね」
　はかない希望は打ち砕かれた。
　なら、これで青子の質問は終わりだ。
　ここはもう、たんに運が無かったと諦めて昨夜の事を認めるしかない。
『……魔術師の秘密を見られて、おまけに目撃者を逃がした、か……。普通の高校生の悩みじゃないなぁ……』
　ばふ、とソファーに大きく背中を預ける。
　悲しいかな、見上げた空はブラウンの天井だ。
　風情も何もあったものじゃない、とますます青子はブルーになる。
「青子。覚悟を決めておいて」
　超然とした同居人の声。
　天井を見上げる青子の瞳に変化はない。ただ、ぼんやりと木造の景色を眺めている。
「……それとも。貴女にできないのなら、わたしが行ってあげてもいいけど」
　冷酷な彼女の言葉は、真実、冷酷な意味を持っていた。
　それをゆっくり、自分に許される精一杯の誠実さで青子は飲みこんだ。
　決して消化できない、熱した<鉛|なまり>を口にするように。
『……そうだ。覚悟なんて、もう決めたでしょう』
　自分に言い聞かせるが、それも誤魔化しだ。
　明らかに前回と今回は違う。
　やる事は同じだとしても、その対象の立場が違う。
　前回の覚悟は、いわば魔術師としての覚悟だった。
　敵が来るから倒す。
　戦いを挑まれたのならこれに応える。
　こちらもむこうも同じ魔術師で、形式上<非|ひ>はあちら側にある。たとえその決着が殺人以外の何物でもないとしても、お互い合意の行動だ。
　殺し、殺される<天秤|てんびん>の上での行為。
　彼らも彼女も、善悪の<秤|はかり>をそもそも用意していない。
　けれど今回は違う。
　相手は敵でもないし、魔術師でもない。こっちはそのつもりでも、相手にその気はないだろう。
　……だから、これはきっと善悪の話になる。
　無関係な殺戮を、果たして自分は負えるのか。
　魔術師なら当然の、よくある<手|こ><間|と>だと飲みこむのか。
　まさか、と鼻で笑う。
『魔術師だから』なんて理由で現実社会との折り合いを無くす超越性なぞ、はなから青子は持っていない。
　心に確信のないまま、
　分からないまま行動する事を、青子は嫌っている。
　彼女が走る時は、いつも自分に決断を下した後だ。
「うん。ま、やるしかないだろうね」
　さばさばした一言とともに、青子はソファーから背を離した。いいかげん天井は見飽きたらしい。
　青子はいつも通りの青子で、有珠もあえて言及はしない。
「じゃあ、これ」
　ご褒美、とばかりに有珠は<小瓶|こびん>を取り出した。
　手のひらに収まるほどの大きさ。
　少女の細い指先とは不釣り合いな、寸胴の、見栄えしない瓶である。
　瓶は曇っていて、中身はカラ。
　表面にはラベルのシールを強引に剥がした跡が見られた。
「なによ、それ」
　不吉なものを感じて、<胡散|うさん>臭そうに小瓶を睨む。
「収納の小瓶。ちょうどひとつ余ってたから、あげるわ」
「はい？」
「名前は忘れたけど、中国の小説に出てきたのと同じよ」
　素っ気ない言葉に、青子は驚異の理解力を示した。
「それって<蓮華洞|れんげどう>の<番人|きょうだい>の話？　じゃ、あの赤い<瓢箪|ひょうたん>と同じなわけ？
　言いたくないけど、そこらへんの風邪薬のラベルを無理やり剥がして、小瓶に見せかけてるそれが？」
　言われて、たしかにセンスも何もない、と小瓶をまじまじと見る有珠。
　が、別に自分が使うわけでもないと悟ったのか、あっさりと小瓶をテーブルに置いた。
「赤い瓢箪じゃなくて、<羊脂玉|ようしぎょく>の<浄瓶|じょうびん>の方」
「そういう問題じゃない。私は魔術師としての雰囲気を論じてるんだっ」
「些細な事を気にするのね。<正露丸|せいろがん>の瓶じゃないだけいいと思うけど」
「―――む」
　あまりにも説得力のある返答だった。
「ふたを開けて、相手の名前を<訊|たず>ねればいいから。
　ただし相手に抵抗する意志が残っている場合、小瓶は割れるから気をつけて」
　淡々と語る有珠と、眉をひそめる青子。
「ちょっと待った。抵抗する意志があるとダメって、眠っている時にやれってコト？」
「……それは試したコトがなかったわ。
　眠っているのに返事をする人っているの？」
「……たまにいるけど。
　まあ、確かに珍しいわね、そういう人」
　となると、あとは相手が思いっきり衰弱していて、前後不覚になっている、といった状況ぐらいか。
「あ、そうそう。薬や魔術がかかっていると、その<余分|おも>さでも割れるから気をつけて」
「つっかえない！
　それってほとんど役たたずって事じゃない！」
「それは青子しだいね」
　言って、有珠は視線を外す。
　もうこの話題はどうでもいい、と言うように。
「……はあ。有珠がこういう小道具好きなのは知ってたけどね……これも趣味なワケ？」
　あんまりこういう趣味は持ってほしくないな、と思いつつ青子は問う。
「たぶん。
　それで、どうするの？　持っていくのか、いかないのか」
　その質問には答えず、しばし迷ってから青子は小瓶を手に取ると、ポケットにしまいこんだ。
　まあ、何かの役には立つかもしれない。
　それから二時間ほど経った午後九時。
　ふたりは話し合いの場を居間からサンルームに移し、この洋館に不釣り合いな光景をくり広げていた。
「まあホントはね、鳶丸に任せる気はなかったんだけど」
　テーブルの上にでん、と土鍋が置かれている。
　くつくつと温かな湯気をたてる土鍋を<箸|はし>でつつきながら、青子は誰に語るでもなくぼやいている。
　今晩の夕食は、洋館にあるまじき和食だった。
　こういう日本的、かつ材料を買ってくるだけで済む鍋物はおもに青子の担当である。
　有珠は青子の対面で、やはり無言で鍋にフォークを入れていた。
「<山城|ヤマシロ>の奴が来るなり『静希くんはまだ部活に入っていないから、面倒みてあげてくれないかな』なんて言ってくるもんだからさ。全校生徒の行動範囲なんて見直す気力無くなっちゃったのよ」
　取った玉子はまだ乙女のように純白だったので鍋に返す。
　仕方なく火の通りの早いしらたきに手を出した。
「そりゃあ、あのバカがバイトで忙しいのは知ってるわよ。
　だから出来るだけ春先までのんびりしてて、あんなのでも親身になってくれそうな部の部長にあたってみたのに。
ありがとうのひとつも無いってのは、ちょっと癪にさわるわよね。
　ね、聞いてる有珠？」
　具を口に含んでいたのか、声を上げずに有珠は首を縦に振った。
　興味も意見もまったくないという<表情|かお>だが、話だけは聞いているようだ。
　それに満足して青子ははんぺんをかじった。
「それに私、いい人ー、なんて言われるヤツは信用できないのよ。あろう事か鳶丸までそんなこと口走る始末だし。
　あれはいい人なんじゃなくて、ただぼんやりしてるだけなんだっての。
　……大体、あそこまで言われて怒りもしないなんてどうかしてるわ」
　今日の生徒会室での一件を思い出す。
　草十郎は青子の一方的な言葉に、さして反論もせずそのまま去っていった。
　あの取り澄ました顔を思い出すだけで残ったはんぺんを噛まずに飲みこんでしまう青子なのだった。
『……ふん。なにが分かってるんだな、よ』
　草十郎の一言と、幼年期の終わりに贈られた言葉が重なる。
“―――青子ちゃんは分かっているんだね。
　それでも自分であり続けられるという事は、とても強い事なんだよ―――”
　たぶん、あの言葉は誉めてくれていたのだ。
　でも自分にとって残酷な評価だった。
　だって、それを告げるあの人の顔は、痛ましいものを見るような顔をしていたのだ。
『―――ま。あんな変態の言ってたコトなんて、いまさらどうでもいいけどさ』
　それでも、生涯最大の気の迷いであったワケだけど、憧れていた人物にあんな顔をされたのは幼心にショックだった。
「……ケンカ」
「え？」
　箸を浮かせたまま物思いに<耽|ふけ>っていた青子に、有珠は唐突にそう言い放った。
「ごめん、聞いてなかった。ケンカって、あの喧嘩？」
　こくり、と可憐な首が頷く。
「貴女の感想だけじゃ状況はよく掴めないけど。
　つまり、青子はその人に喧嘩を売りたかったのね」
　はむ、と最後のはんぺんに口をつける有珠。
　それはあんまりに予想外で、いやに的を射た意見のような。
「な……なんでそうなるのよ!?
　私はあんなのと一秒だって関わりたくないだけだってば！
だいたいそれどころじゃないし！　興味とかまったくないし！
会話もこれ以上ないってぐらい簡潔に切り上げたし！」
「なら、どうして今そんな話をするの？」
「え……それは……その、
アンタに今日の調査過程を報せてあげたのよ。それ以外何があるって言うの？」
　本当に、それ以外に何があるって言うんだろう？
　自ら墓穴を掘って中に入り、追い打ちとばかりに土を被っている事に青子が気付くのは数時間後、おやすみなさいとベッドに入ってからである。
「いいけど、わたしは別に。
　ただ……青子は、本当にその人が嫌いなの？」
　何か神聖な作業をするように、黙々とおでんを食べながら有珠は質問する。
　表情こそいつも通り無関心だが、内面では青子の態度を面白がっている節がある。
　そんな有珠の思惑にも青子は気付けなかった。
　いつもなら簡単に気が付くのだが、ちょっとした心の混乱がその余裕を奪っている。
「本当にって……そりゃそうよ。気にくわないって何度も言ってるじゃない」
「そ。具体的には？」
「はあ？　具体的にはって、そんなのに理由なんて……」
　そこまで口にして、ようやく青子はその矛盾に気が付いた。
『……む……ぬ？』
　そう、理由なんてこれっぽっちもない。
　一目見た時からあの田舎者とは相容れないな、と本能が告げただけだ。
　でも、それは一体どうしてだろう？
　そもそも理由のない感情、根拠のない決めつけなんてものは、彼女が一番嫌うところだ。
「う……き、嫌いな物は嫌いなんだから……ちゃんと、どっかに理由があるんだ、と思うけど……」
　口にすればするほど歯切れが悪くなる。
　……困ったことに、青子には静希草十郎を嫌がる理由が見当たらなかった。
　常識がないのは彼の今までの環境が悪いのであって、草十郎自身に非はない。
　いや、逆になんとか文明社会に順応しようとする姿勢には好感が持てる筈だ。
　ぼんやりした所も、行動が<緩慢|かんまん>という訳ではない。
　彼の仕草や言動がワンテンポ遅く見えるのは、彼が自分の言動に注意を払っているからであり、結果、緩やかに見えるだけなのだ。
　そうやって静希草十郎という人物をあくまで公平に環境と人格に分けて評価すれば、結果は分かりきっている。
　認めたくないが、みんなの言う通り、嫌味のない『いい人』像がそこにある。
『ちょっと本気かっての……人間的に悪いところ、ホントに微塵もないのかアレ………？』
　ダメな部分は山ほどあるのでとりあえずそこは保留。
　今まで忙しなく動いていたおでんをつつく箸は、ここで完全に停止した。
　なんか、ますますムカつく。
　理由のない反感に青子はぐるぐる頭を回す。
　それはまずい、自分的にそんなのは許容できない、と必死に静希草十郎を分析するのだが、ますます自分を追いつめるだけだった。
　そんな袋小路に<陥|おちい>った青子を、有珠はまじまじと眺める。
「……あきれた」
　小さな嘆息。
「らしくないわね、青子」
　その一言は、青子にとってまさにとどめだった。
　自分の理解不能ぶりに目眩がする。
　ご馳走さまと有珠が居間に立ち去った後、しばらく椅子から立てなかった程に。
　しかし。
　とどめを刺されたからといって、いつまでも伏せっている蒼崎青子ではなかった。
　早々に夕食の片付けを済ませ、はじめのお風呂を有珠に譲って居間を後にする。
　洋館では人のいない場所に電灯はつけない決まりなので、明かりがついているのは居間と彼女たちの部屋ぐらいだ。
　二階は暗闇に包まれている。
　長い、月明かりだけが頼りの廊下をスタスタと移動して、青子は二階東側の最奥にある自室に辿り着いた。
「―――結論として。
　やっぱり、<騙|だま>し<討|う>ちは気にくわない」
　廊下を歩きながら、いや、居間からずっと考えていたのか。
　部屋に入るなり、青子はきっぱりと断言した。
「やるにしても隠れるのはなし。正面から堂々と、向かいあって理由を言う」
　情けにかられての精一杯の譲歩、ではない。
　単に、彼女にとってそういうあり方が<当然|スタンダード>というだけだ。
「よし、そうと決まれば―――」
　自分の意志を確認して、隣室の書斎に向かう。
「えーと、木曜棚の冬至覧、緑の背表紙、と……」
　無数の本の中から迷わず一冊を抜き取る。
　蒼崎の家から運びこんだ入門書は、月曜から土曜と六つの<棚|カテゴリ>に振り分けられていた。
　青子は蔵書を項目、分類、用途に分けておおまかに記憶している。
　必要な知識、資料の検索には時間はとらない。
　書斎の主として最低限の務めである。
　……などと偉ぶっても、所詮はちっぽけな書斎の管理のみ。
　別館にある図書室は青子も有珠もお手上げの魔窟だ。
　もしこの書斎だけで用が足りないのなら、有珠に声をかけて別館に<赴|おもむ>くしかない。
「……できればそれは避けたいところだけど、っと」
　緑色の、分厚い装丁の本を机に置いて、椅子に座る。
　頑丈で硬質で温かみのない机。
　まだ年若い少女が愛用する物ではないが、青子はこの洗練されすぎて骨しかないような豪華さが好きだった。
　古びた本のページが、その机の上ではらりとめくられる。
『……有珠みたいな結界は私にはまだ無理だ。
人払いはその場所自体に頼らないといけないか……』
　たとえば山奥。
　たとえば林中。
　たとえば、生徒のいない深夜の校舎。
　場所自体に魔術をかけなくても、よっぽど運が悪くないかぎり誰もやってこない場所が望ましい。
『茨の壁だの魔力の霧だの、そういう回りくどいのもナンだしなあ……退路を断つ、っていうなら、もっとこう、見た目にも状況的にも派手な方が効果的だし』
　ぶつぶつと自分好みの、初歩的な術式はないものかとページをめくる青子。
　言うまでもなく、彼女が探しているのは昨夜の目撃者を始末する方法だ。
　魔術は万能ではあるが有限である。
　基本的に、<地上|ここ>にある物、<現実|ここ>で起きる事を、実現時間や必要経費を多少無視して発現させるだけのものだ。
　この<宇宙|せかい>で起きえない現象は、魔術では発現できない。
　要はショートカットを使いまくった等価交換だ。
　人の手で可能となる現象を、個人の力で実行する―――
　それが一般的な魔術のあり方である。
　単純な話、その気になれば巨大な湖をこの洋館に持ってくる事もできる。
　けれど、<こ|・><の|・><世|・><に|・><な|・><い|・><も|・><の|・>を持ってくるコトは、たとえ小指の先ほどであろうと許されない。
　例えば、青子単体で<戦闘機|Ｆ－１５>のアフターバーナー並みの熱量を放出できたとしても、それは魔術式によって蒼崎青子という回路が一時的に入力の変数になっただけだ。
　導き出されるイコールそのものは、現実に起こりえる数値となる。
　だが、そのイコールそのものが現実にないモノである場合、術式は成り立たない。
　魔力という架空要素は、発火の瞬間だけ秩序の網をくぐり抜ける嘘のようなもの。
　この世にないものをカタチにする事―――幻想が現実を侵す事を、この宇宙は容認しない。
『……とは言っても<架|エ><空|ー><要|テ><素|ル>は基本なんにでも<付属|で>きるんで、<大本|おおもと>がウソ、なんだっけ。
　魔力だけで構成されたものは幻想扱いされて急速に消えていくとか……典型的な結界、茨の壁とかはもともと茨を生やしておいて、魔力で一気に成長・強化してるものだし。
　魔力っていうのは結局、使い勝手のいいガソリン、兼、事象に火をつける火花ってワケで―――』
「―――なんて言いつつ。
　架空要素<云々|うんぬん>より、基本的な回路の接続と、魔力を加工して弾く事ぐらいしかできないのよね、私」
　あはは、と笑って<現|い><状|ま>の自分に作れる結界は何か、と検索する。
　目撃者の素性は不明だが、相手が同じ高校の生徒なら呼び出す口実はいくらでもある。
　問題は呼び出した後だろう。
『そうなると、問題は命中率よね……。一撃で決めないと逃げられちゃうだろうし』
　正直、有珠のサポートなしで上手くやれる自信はない。
　けれど相手が一般人なら自分だけで十分、と青子は助力を一切拒否したのだ。
　半人前ではあるが、青子にも魔術師としてのプライドがある。
　ページはリズムよくめくられていく。
　パラパラと小さな音をたてる中、青子の指がぴたりとあるページで止まった。
「見付けた」
　小さな微笑。
　それは記憶の片隅にあった、ただ壊すだけの単純な魔術式。
『……檻をね、作ればいいのよ。
　狩りをする時の常套手段じゃない。獲物を逃げられないようにするのは』
　ページに栞を挟んで、部屋に持ち帰ろうと立ち上がる。
　ふいに視線を感じた。
　夜を<透|とお>す窓に、冷めきった目の少女が映っている。
　それが今の自分の<表情|かお>である事を、青子は冷静に受けとめる。
　―――目撃者を消す計画を立て始めた。
　いや、計画なんて複雑なものではない。
　これはただの作業。
　事前に檻を作っておき、そこに獲物を誘うだけの話。
　まったくもって、何の言い逃れもできない暴力だ。
「さ、そろそろ有珠は上がったかな」
　青子は冷めた心に熱を戻すように、どうでもいい独り言を口にした。
　有珠にはじめの入浴を譲ってから二十分近く経つ。
　彼女のお風呂はカラスの行水よろしく、十分もあれば終わっている。
　有珠はお風呂の情緒を理解できないタイプで、風呂はあくまで体のメンテナンスをするものと捉えている。
　温泉宿のすばらしさも有珠にとっては“なんか面倒なところ”にすぎず、そのあたりには本気で同情する青子だった。
「よし、浴場はカラ、と……あれ？　居間に電気ついてる？」
　入浴を済ませた後、有珠が居間にいるのは珍しい。
　話し合いのない夜は、さっさと自室に戻るのが彼女のスタイルなのだが。
「有珠、いるの？」
「――――――」
　こくり、と頷く有珠。
　読書中でもなく、彼女は青子を待っていたようだ。
『……そういうコト。私も信用ないな、ほんと』
　はあ、と頭を掻く青子。
　信用されていないのか、心配されているのか。
　久遠寺有珠の表情は静かすぎて、いまいち真意が読み取れない。
「方針なら決まったけど。聞く？」
「……その顔を見れば聞かなくても分かるわ。
　迷いがなくなったのはいい事だけど。……悪い癖ね、青子」
　小さなため息。
　この黒衣の少女がこれみよがしに<落胆|らくたん>を表すのは珍しい。
「ええ。騙し討ちは趣味じゃないから。殺すにしても正々堂々、正面から理由を言った後にする。
　それならすっぱり後腐れもないし。文句ある？」
「文句はないわ。そういうの、好きか嫌いかはこの<際|さい>関係ないでしょうし。
　けど―――」
「確実性はどうかってコトでしょ。私、いまいち命中率悪いし。そのへんの問題は場所選びでフォローしようかなと。
　私は有珠のようにはいかないから、物理的に逃げられない場所にしようと思うんだけど……なにかアイデアない？」
　青子からの相談に、そうね、と一考する有珠。
　そっと唇にあてた指が、彼女好みの質問だったコトを示している。
「鏡はどう？　鏡の国なら永遠に閉じこめていられるけど」
「……アンタ、そういうところ常識ないわよね」
　というか悪趣味、と青子は顔をしかめる。
　同居人なりのクリティカルなアイデアだったのだろうが、とても参考にならない。
　青子は自分に用意できる結界を知りたいのであって、魔法スレスレの大結界など望んでいないし、用意もできないのだ。
「なら他をあたるのね。……でも、ここを使うのだけはやめてちょうだい」
「言われなくても分かってるって。
　あ―――けど、そうね。
　ミラーハウスはいいアイデアかも」
　ニヤリと微笑って、青子は壁に寄りかかっていた体を起こした。
「サンキュ、有珠。全体の流れはできあがったわ。
ほんと、こういうのってダメもとでも相談してみるものよね」
　ご機嫌な様子で立ち去る青子。
　どんな青写真ができたのか有珠には見当もつかないが、彼女なりに万全の策ができたらしい。
「……………………」
　鼻歌まじりに浴場に向かう同居人。
　ここ一年半の経験か。
　黒衣の少女は、蒼崎青子は有頂天になった時こそ信じられないトラブルに見舞われる事を知っていた。
「え？　……青子ひとりに<任|まか>せていいのか、ですって？」
　いつから居間にいたのか。
　コマドリ……のような鳥が、チチチ、と鳴き声をあげながら調度品の上を<闊歩|かっぽ>する。
「……そうね。彼女がひとりでやると言ったのだから、任せるのが正しい信頼関係なんでしょうけど―――」
　黒衣の少女の腕があがる。
　口づけを許すように差し出された指先に、チチチ、と鳴き声が舞い降りる。
「……嫌な話だけど。
信頼と信用は、また違う話よね」
　<言|こえ>なき鳥が、そのでっぷりとした胸を張って同意する。
　わりかし物騒な同居人の<囁|ささや>きを、もちろん、青子は知るよしもないのだった。
　翌日。空は相変わらずの曇り模様。
　一日の授業は何事もなく終わった。
　冬休み前の期末試験まであとわずか。
　今では厳しい規律に支配された<三咲高|ミサコー>であるが、もともとは生徒の自主性を第一とするおおらかな私立高校である。
　真面目な生徒は生徒会長の<庇|ひ><護|ご>の下とことん真面目に。
　気楽な生徒は、まあ個人の責任のかぎり、とことん自由に放課後を過ごしているのだった。
　そして、その自由な生徒の代表みたいな男が生徒会の副会長にいるあたり、この学校の懐の深さはちょっとおかしい。
「蒼崎、いるかー！」
　おもに密会用と噂される第二生徒会室の扉を、<槻司|つきじ><鳶丸|とびまる>は陽気にブチ開けた。
　これでも副会長さまであり、生徒会の<陰|かげ>の雑務係と哀れまれる人物である。
　狭苦しい室内には待ち人がひとり。
　生徒会長・蒼崎青子は姿勢良くパイプ椅子に座って、大声を上げた鳶丸をじろりと睨んでいる。
「あいかわらず寒いなこの部屋。
　なあ、今度ストーブ購入しようぜ」
　青子の無言の圧迫に負けないように、鳶丸は何気なく会話を切り出した。
「お疲れさま。ところでアンタ、何しに来たのか分かってる？」
「まあな。ただ、事務的に話すのって寒いじゃねえか。
　少しぐらい世間話でもしねえとつまらねえだろ？」
　鳶丸は扉を閉めて、青子の前の椅子に座った。
　その手には青い封筒を抱えている。
「こういう時は無駄口はたたかない方がいいわよ。
　なんとなくプロっぽいでしょ」
「なる―――いや、いやいやいや」
　青子の刺々しい返答にそうかも、と同意しかけて、鳶丸はイヤイヤと首を振った。
　いくらフリーダムな鳶丸でも、そんな諜報員めいた日常は<御免|ごめん><蒙|こうむ>る。
「それで、調べ終わったの？」
「ああ。ついさっき最後の聴取を済ませてきた。
　詳しい事はその封筒に入ってる。おまえから渡された例のファイルも、そん中」
　ぱさり、と机に置かれる青封筒。
「そう」
　青子は封筒を手にし、中の書類に目を通す。
　そこからは完全に彼女ひとりの世界で、鳶丸に対して気を配ってさえいない。
　歯に<衣|きぬ>着せずに言えば、パーフェクトなまでの無視っぷりである。
「………………なあ」
「なに？」
「ひとつ、聞きたいんだけどよ」
「だから、なに？」
　冷えきった沈黙。
　無感情に書類をチェックする青子と、
　そんな青子をどうでもよさげに、しかし正面から見据える鳶丸。
「蒼崎、そういうの作って楽しい？」
「楽しいワケないでしょ。こんなの、作ったところであんまり使う機会なんてないんだから」
「そうか。ならいい」
　納得いったのか、<憮然|ぶぜん>顔のまま鳶丸は席を立った。
「最後まで読めば分かるだろうが、あんまり確証は取れなかったぜ。
というより、一昨日あの辺りにいた生徒はいないって話になりそうだ。ま、断定はできないけどな」
　鳶丸はつれない態度でドアに向かう。
　俺はこの件には無関係です、と言わんばかりだ。
「―――っと、そうだ。
　そういえば一人だけ該当しなかった奴がいる。季節外れの転入生までは、蒼崎も調べきれなかったみてえじゃねぇか」
　わずかに顔をあげる青子。
　たしかに転入したばかりの生徒は彼女の調査範囲に含まれてはいない。
「そんなわけで草の字に関しては調べてないぜ。
　ま、アイツならいつだろうと遅くまでバイトだろうが……いや、人殺しを見た、なんてコト口走ってるようじゃ、家で悪い夢でも見てたのかもしれねえか」
　鳶丸は陽気にこぼして去っていった。
「―――、は？」
　同時に、青子は持っていた書類を机に落とした。
　別にそんなつもりはなかったのに、なぜか、指先から力が失われてしまったらしい。
「……そんな、まさかね」
　考えすぎだ、と自分に対して軽口を言ってみる。
　けれど突然生まれた不安は消えず、こういう時の自分の直感がたいてい合っている事を、蒼崎青子は知っていた。
「―――馬鹿らしい」
　だとしてもやる事は同じだ。
　仮に目撃者が鳶丸だった場合、青子は<躊躇|ためら>わず殺せるだろう。
　けれど、それが彼だったら？
　そんな『もしも』を連想した途端、どんな仮定より冷めきっていく自分を感じた。
　青子は額に手を当てて考えこむ。
　そうして唐突に、
「選択の話をしよう。おまえは常に二者択一を迫られる。
　善良な愚者と醜悪な賢者。すべてを救う手段はない。どちらかを選ぶこと。それだけが、おまえに許された自由となる」
　二年前。
　姉に代わって後継ぎになった日に祖父から贈られた言葉を呟いて、青子は小さく嘆息した。
「―――すごく、バカみたい」
　自分の勘の良さに<嗤|わら>ってしまう。
　本当。
そんな台詞、口にしなければよかったのにと。
　青子は戸締まりを済ませ、生徒会室を後にした。
　平然と、それこそ何もなかったようにすれ違う生徒たちと挨拶を交わせるあたり、自分らしいと呆れながら。
　学校にはまだ活気がある。
　部活動の生徒は言うに及ばず、用を済ませて下校していく生徒たちの話し声で校庭は騒がしい。
　今にも泣きだしそうな灰色の空だが、彼らにはさして気になる問題ではないようだ。
　そんな喧噪にまじって、青子は早足で校門に向かう。
　お<喋|しゃべ>りに花を咲かす生徒たちを通りすぎる。
　会話の内容は放課後の予定について。
いかに無駄なく充実した放課後を過ごすかを真剣に論じている。
　彼らが持つ、<遮二無二|しゃにむに>に遊ぼうという気は知れないけど、馬鹿にする気も、羨ましがる気持ちも青子にはない。
　ほんの二年前まで、そういった自由を心から愛していた自分がいたとしてもだ。
『……根は冷めてるのかな、私って』
　マフラーをきつめに締めてみたが、それで孤独を漂わせるにはまだ経験が少なかった。
　そもそも淋しいと思わない人間が孤独を装っても、それは孤独ではなく拒絶と言うのだ。
『……そうよね。孤独っていうのはああいうのを言うもんでしょうし』
　校門はいつもより騒がしい。
　原因は校門の陰で立往生をしている男子生徒たちだ。
　寄り添って密談をしている彼らは、校門の陰に隠れて、表通りに立っている一人の少女について、ざわざわと論じあっていた。
　少女は黒いケープに身を包んでいた。
　一見すると普段着だが、三咲町の人間なら、ケープ下の服がとある名門女子校の制服である事を知っている。
　もっとも、その女学院は三咲高校とは縁もゆかりもない、距離的にも精神的にも遠く離れた存在である。
　彼女達の大半は寮生活を強いられており、町中で見かける事は滅多にない。
　お嬢様学園と名こそ響いているが、実際にはそうお目にかかれない礼園女学院の制服だ。
　それだけで男どもが騒ぎ立てるには十分だが、くわえて、その少女は上等すぎた。
　可憐としか言いようのない立ち姿。
　身じろぎひとつせず待ち続ける様は、丁寧に描かれた絵画を思わせる。
　その姿を見て、一言で青子が『孤独』と断言したように。
『……まったく、うちの男子どもは。家に帰りもせず、陰でこそこそやってるのはそういうコト』
　呆れながら、青子はずかずかと校門を通過した。
　いつもなら坂道を下りていくところを、まっすぐアスファルトを横断し、道端に立ち続ける少女へと向かう。
「げぇー!?　あれなるは生徒会長さまー!?」
「くそ、追っ払う気なのかよぅ。居たいんならいつまでだって居させてあげればいいじゃんかー！」
「ってか怒られる？　怒られるのあの天使？」
「<他校|よそ>の生徒でも、校門前にいるぐらいなら……別に問題はないと思う……けど……」
「青子女史は容赦ねえからな。下手すると平手だぜ、平手」
「…………はあ」
　背中では言いたい放題だ。
　振り返って黙らせる気分でもなく、青子は少女の目前まで歩いて、やあ、とばかりに片手を上げた。
「どうしたの有珠？　こんなところに来たって、何も面白いコトはないって言ったのに」
「ちょ、ありえねーーーーーーー！！！！？」
　校門の陰から悲鳴らしきものがハモって聞こえたが、もちろん無視する青子だった。
「あの事を確かめに。―――
青子。
　あの人たち、邪魔なんだけど」
「分かってる、いま追っ払うから」
　細い有珠の声に対して、青子ははっきりと、これみよがしに声を大きくしている。
　無論、校門の陰に群がる<十把一絡|じっぱひとから>げに聞こえるように。
「げ、会長こっち来んぞ!?」
「おい、押すなよ、うしろのヤツどけって！　オレ校舎に逃げるから！」
「いや、でも……あの<娘|こ>、会長と知り合いなんでしょ？　うまく会長に紹介してもらう、とか……」
「あはは、さすが一年坊主。まだ戦場の現実ってもんを理解していねぇ。―――よし、死の<間際|まぎわ>までいい夢見ろよ」
　一ヶ所に集まりすぎたのか、混乱きわまって校門の陰でつまる男子生徒たち。
そんな彼らを、
「さーて。部活動があるワケでもなし、ただ家に帰るだけの帰宅部の皆さん？　こんなところで何を集まってるのか、教えてくれる？」
「ひぃぃいい！」
　どーん、と擬音を背負って<睥睨|へいげい>する生徒会長。
「なにしろ試験前だもの。
　<実|み>になる事なら私も教えてほしいけど、まさか<雁首|がんくび>並べて女学院のお嬢様を<眺|なが>めてただけ、なんて事はないわよね？
　声をかける勇気もなくて、眺めてただけ、なんて事は」
　はい、実はそうなんです、などと返答できる剛の者はいなかった。それだけの勇気があるならとっくに声をかけている。
「……いや、ボク教室にちょっと忘れ物が……」
「こんなオチならダメもとで玉砕しとくんだった……」
「天文部にいって双眼鏡借りるのどうだ？　屋上からお顔を<賜|たまわ>るとか」
「天文部にそんなのねえよ！　あるとしたら野鳥同好会じゃね？」
「あはははは。それ、先月会長が潰したじゃん。<鳥|とり><愛|め>でてる暇があるなら彼女作れって」
「あはは、は……彼女、作れです、か……すみませんっす、今日は裏口から帰るっす、ザキさん……」
「クソ、じゃあなー会長ー！　また明日ー！」
　愛らしい捨て台詞を残し、負け犬のようにハラハラと散っていく男子生徒たち。
「楽しそうね、青子」
「あ、わかる？」
　有珠の一言に、つい即答する青子。
　事実、三咲高校の生徒たちは嫌味のない人間ばかりで、彼らとのやりとりは愉快ではあるのだ。
「―――で。
　ここまで出向くって事は、何か分かったの？」
「結界に残っていた気配の識別は。あとはここで確かめればいいだけよ」
「そう。ん……？　有珠、いつからここに？」
「下校時刻から」
　……という事はかれこれ一時間は経つ。
　寒がりな彼女にとって、同じ場所に一時間も立つのは辛かっただろう。
「悪いわね、無理させて」
「……別に。好きでやってる事だから」
　言いながらも、彼女の黒い瞳は校門を通る生徒たちを見つめている。
　こうやって一時間ものあいだ、有珠は校門を監視していたのだろう。
「私を待ってたワケじゃないんでしょ？　今からでも付き合うわ」
　こくん、と頷く有珠。
　有珠が残っているのは、いまだ目撃者を発見できていないからだ。
　結界に残った気配に一致する生徒がいたのなら、有珠は青子を待たずに帰宅し、その生徒の素性を調べていただろう。
「私の方はダメだった」
　鳶丸に調べさせた結果について、青子は結果だけを告げた。有珠に言葉はない。
　会話はそれで打ち止めになり、あとは冷たい風に耐えるだけである。
　……無言の監視はあてもなく続く。
　校門に来た生徒たちは、生徒会長と礼園女学院の生徒という組み合わせに驚きつつ下校していく。
　退屈さと冬の寒さも手伝ってか、二十分もすぎると青子はため息をついていた。
「ね、有珠。帰り、<黎明|レイメイ>に寄ってかない？」
　ちらり、と有珠の顔を覗きこむ青子。
　黎明は青子お気に入りの喫茶店の名前である。
「……………………」
　状況を理解していない青子への非難か、それともわりと同意なのか、有珠は微かに視線を動かした。
　その視線の先には―――
「あれ、蒼崎も待ち合わせか？」
　意識の隙を<衝|つ>くような、突然の声。
　自然な、刺のない口調が誰であるかは言うまでもない。
「―――そ。やっぱ、そうなるワケか」
　有珠に背中を向けて、青子はキッと、やってきた生徒を見据える。
「それで、今日は何の用？」
　こんにちはも何もない。
　不機嫌な青子の視線は、その険悪さをより増して草十郎に向けられる。
　が、そんな青子の眼力も草十郎には通じなかったようだ。
「いや、これから駅前で水泳部の部長と待ち合わせなんだけど、その事でお礼を言っておきたくて」
「？」
　それは、意外と言えば意外な一言だった筈だ。
　部活とお礼。
　……ただ、その組み合わせなら、この人物は間の抜けた事を言ってくるだろうと、青子は思ってもいた。なんの根拠もなかったけれど。
「……ふうん。お礼って、お礼参りってこと？」
「？」
　これまた幸運な事に、学生におけるお礼参りの意味も、草十郎はまだ知らずにいたらしい。
「よく分からないけど、そんな大した事じゃないよ。
　ただ、水泳部は夏までそう忙しくないって話だったから」
　そういう部活を<薦|すす>めてくれたんだな、と草十郎は続けようとしたが、青子はつまらなそうな顔で遮った。
「当然でしょう。幽霊部員になりそうな生徒なんて、紹介できないから。忙しい貴方でも<勤|つと>まりそうな場所があったから、口に出しただけよ」
「なるほど、無駄がないね」
　感心する草十郎に、青子は文句を言う気も無くしてしまった。
　彼女にとって、彼に似合った部活を探して部長に話をつけること自体が無駄な事だったのだが。
「とにかく、お世話になったから。
　それで礼を言っときたくて」
　ありがとう、と今にも頭を下げそうな草十郎を、あわてて青子は止める。
「よしてよ。いま貴方にそんな事されても迷惑だから。
　……
それで、水泳部はどう？　やっていけそう？」
　鋭かった視線が、どこか気まずいものに変わる。
　青子の態度に違和感を覚える草十郎だったが、その理由までは分からない。
　なので、とりあえず分かるところから、と最新のニュースを青子に告げた。
「ああ、水泳部はクビになった」
「な、
なんでよーーー！？」
　予想外の返答に、思わず怒鳴る青子。
　……びっくり箱の化身にも程がある。
　あまりの展開に、青子の複雑にねじれていた心持ちが一瞬で真っ白になるぐらい。
「だだ、だって、今から待ち合わせだって……！」
「それは、これから<社木|やしろぎ>の温水プールに連れていってくれるからだよ」
　驚く青子に、うん、と告げる草十郎。
「……話が繋がらない。そこまで上手くいってるのに、どうして入部を拒否されるのよ、アンタは！」
「そりゃあ、俺が泳げないからだろ」
「――――――」
　なるほど、そうきたか、と眉間を指で押さえる青子。
「……静希君。昨日の私の質問は覚えてる？　走るのか泳ぐのか、どっちがいいかってヤツ。
　私の記憶は正しいけど、いちおう確認しておくわね。
　貴方、たしかに泳ぐ方だって言ったけど……？」
「ああ。昔から、泳げないのはなんとか克服したかったんだ。反対に、走る方は得意だけど」
　あっそ、と答えて青子は力尽きた。
「俺が一年なら一から鍛えてくれたらしいんだけど。
　あと三ヶ月で三年になる身分なのに、カナヅチの部員は雇えないそうだ。
　けど部長が親身になってくれて、これから泳ぎを教えてくれる事になったんだよ」
　どこか嬉しそうに言う草十郎の言葉は、青子にはあまり届いていない。
『はあ……つまり、欠陥品を売り付けたってワケか……こりゃ水泳部の部長に合わす顔がない……っと、
ちょっと待った』
「静希君。水泳部の部長って……」
　女子、と言いかけて止めた。
　口にした途端、自分が変なことを口走りそうで怖くなったからだ。
「……もういいわ。気持ちは分かったから、どこか遠くにいてくれない？　少し疲れてて、とてもじゃないけど貴方の相手はしていられないの」
「鳶丸もそんな事を言ってたな。蒼崎は昨日と今日、めずらしく疲れてるって。何かあったのか？」
「ちょっとね。でもいいの。解決したみたいだから。
　それより……静希君はどう見える？　私、そんなに疲れて見えるのかな」
　何故そんな事を訊ねたのか。
　青子にしては珍しい、
　理由のない、<惰性|だせい>で口から出た言葉だ。
　……あえて言うなら、これが最後だろうから、何かしらか普通の会話をしておこうと思ったのかもしれない。
　草十郎はしばし考えこんでから、そのぼんやりした雰囲気からかけ離れた笑顔を浮かべた。
「そうだな、疲れているというより生き生きしているように見える。仕方なく畑をたがやしていた狼が、久しぶりに狩りにでる事になって<気炎|きえん>をあげている感じだ」
　めでたいな、と。
　まるで我が事のように、彼は微笑んだ。
「――――――」
　知れず、青子は頬に手を当てた。
　彼の言う事が本当なら、今の自分はこの上なく味のあるニヤけ顔をしている事になる。
　当然、そんなヘマは犯していなかったが。
「とにかくありがとう。じゃあ、また明日」
　まだ手を上げるほどの気楽さはないのか、草十郎は真摯な声と<表情|かお>だけで挨拶をして去ろうとする。
「待って。こんな話があるの。聞いてから行って」
　そんな草十郎を青子は呼び止めた。
　温和になりかけていた自分を<戒|いまし>める、冷たい声で。
「うん？」
「意味のない<喩|たと>え話よ。
　……そうね。貴方が空腹で死にそうな時、目の前に、同じように空腹で死にそうな二匹の動物がいるとするわ。
　静希君に銃をあげる。それでどちらかの動物を撃って。
　右はライオンで左は子猫。選ぶのは貴方の自由だから」
　どことなく童話めいた質問。
　残酷さと教訓と、押しつけがましいところがとくに。
　この手の話は考えこむときりがない。
　が、彼はあっさりと返答した。
「いや、撃たないと思うよ。だって、自分の好きにしていいんだろう？　それにほら、空腹ならお互い様だ」
　おそらくは悩む間もなかっただろう。
　それは本当にどうかと思うぐらい、真っ白な解答だった。
「……長生きするわ、貴方」
「すごい台詞だな。そんなコトを言われたのは、たぶん君が初めてだ」
　笑顔には似つかわしくない台詞。
「――――――なによ、それ」
　……呼び止めるべきではなかったと後悔する。
　あのまま見送っていれば、こんな答えを聞くこともなかったのに、と。
　そして、静希草十郎はてくてくと坂道を下っていった。
　今日も今日とて、夜遅くまでアルバイトでもあるのだろう。
　残されたのは青子と、今まで背景と化していた有珠だけである。
「つくづく……こっちのペースを乱してくれるわね、あの人畜無害な田舎者は」
　ぐっと右手を強く握り締めて、青子は独白する。
　どこでもいいから体に力を入れておかないと、ここで意味不明の大声を上げかねなかった。
　……それが相手への罵倒なのか、自分への罵倒なのかは、口にしないと分からない。
「青子」
　後ろから有珠の細い声が聞こえる。彼女が何を言おうとしているかは、ちょっと前から分かっている。
　……今までどんな生徒にも無反応だった彼女が、草十郎の出現で表情を変えた時から。
「言わなくてもいい。あいつでしょ、目撃者は」
　それは冷めきった、
　知らない人間の事を口にする声だった。
　―――ライオンと猫。
　それぞれ長所短所のある、結局のところ、自分とは違う生き物を選べと彼女は言った。
　リスクでいうのならライオンの方が大きい。銃口を向けた瞬間、最後の反撃をする可能性もある。
　だから、ライオンを狙う方が勇気はいるけれど、同時に銃を持つという後ろめたさはなくなっている。
　なにしろ相手は強い生き物だ。人間側の勝手な言い訳であれ、銃を使うことへの罪悪感は薄れてくれる。
　では、猫はどうだろう。弱い生き物。
　言うまでもなくライオンを狙うより簡単だ。けれど、誰だって不快な気持ちになる。
　初めから対等でないとしても、その理不尽さはあまりにも度が過ぎている。
　青子にとって、草十郎はその“理不尽さ”に該当するものだった。
『……てっきり、私もそうだと思ってた……』
　生徒会室でもしもと危惧した時は、そうであっても仕方がない、と思いきった。
けれど去りぎわの草十郎の言葉で、その決心が揺らいでいる。
　この胸の不快さは、後ろめたさだけの<躊躇|とまど>いではない。
　静希草十郎は気に入らない人間であり、弱い相手であり、誰よりも御しやすい相手だ。
　なのになぜ、自分は躊躇いを覚えるのか。
　田舎から上京してきて身寄りもない転入生。
　他のまっとうな人間と違って、ここで消えたところで騒ぎだす人間も少ない。
　殺すなら、それこそ猫の首をひねるように仕留められる。
　……ほんと、いい事ずくめで頭にくる。
　なんて<幸運|ラッキー>。その尻をつま先で蹴り飛ばしてムチャクチャにしたいぐらい、正直、余計なお世話と苛々する―――
「……信じられない。私、嫌がってる。これは違う。
　―――こんなの、私じゃない」
　呟きは背後の有珠にも聞こえていたかも知れない。
　しかし、有珠は相棒の<癇癪|かんしゃく>など気にもせず、
「彼、首に布を巻いていたわね」
　などと、まったく関係のない感想を口にした。
　有珠の言葉に青子はハッと我に返る。
「くび……？」
「……ええ。水泳部のクビとかけていたのかしら」
　ほとんど独り言の、心底から考えている有珠だった。
「そういえば……あいつ、初めて会った時も首に布巻いてたっけ。<衿|えり>を行儀よく締めてるから目立たないけど」
　重要性のない、意味のない会話。
　何ら解決を生むものではなかったけれど、ぐらぐらと揺れていた青子の思考は、それできっかり落ち着いてくれた。
「……サンキュ、落ち着いたわ有珠。
　それと気合いも入った。
　善は急げ、あいつが言い触らす前に決着をつけよう」
　よし、とばかりに青子は校門に背を向ける。
　とりあえず、洋館に戻って戦闘準備をしなくてはならない。
「……いいけど、いつ、どこで彼を殺すの？」
　……小さい声だが公衆の面前で口にする言葉ではない。
　有珠のこういった物騒さをたしなめるのは青子の役割だが、物騒さで言えば今の彼女も大差はないらしい。
「今日の夜。場所はとっておきの夢の国よ」
　有珠を<咎|とが>めもせず、クスリと不敵な笑みを浮かべる青子。
　それは恋人と待ち合わせる時のような、不思議と<爽|さわ>やかな響きだった。
　雲のかかった夜空の下、草十郎はあいかわらずの徒歩でアパートに帰ってきた。
　カンカンカン、と<錆|さ>びた金属音を踏みながら階段を上っていく。
　アパートの塀に置かれた自転車をチラリと見て、
　自分も自転車があれば楽なのだろうか、でも余分な出費だし、あれば便利だけど無くて死ぬようなものじゃなし、もう少し我慢しよう、などと真剣に悩んでみる。
　ドアに到着して、リンゴのつまった紙袋を抱えたまま鍵を取り出す。
　　　　　“あれば便利だけど無くて―――”
　ん？と首をかしげる。
　<益体|やくたい>も無い自分の言葉にひっかかるものを感じた草十郎だったが、もらい物の<果物|リンゴ>をどうさばくかでいっぱいだったコトもあり、あっけなくスルーした。
　紙袋を流し場に置いて、部屋の電気をつける。
　時刻は午後十時過ぎ。
　試験前なのでいつもより一時間早い帰宅。
　とりあえずリンゴをひとつ食べてみるか、と台所を振り返ると、新聞受けに差しこまれた封筒に気が付いた。
　差出人の明記はなく、切手すら貼っていない。
　中には一枚の手紙が入っていて、用件と差出人の名前だけが書かれていた。
　内容はいたってシンプルで、
『話があるので今夜どこそこのここに来られたし、
　大事な用なので来るまでずっと待っている、
　言うまでもなく他言無用―――』
　という<旨|むね>が、簡潔、かつ凛々しい文字で<綴|つづ>られていた。
　差出人の名前は蒼崎青子とある。
　丁寧な事に、待ちあわせ場所の詳細な地図まで同封されていた。
　ふむ、と少しだけ首をかしげて、彼はアパートを後にした。
　……その後。
　主人のいなくなった部屋で残された封筒はひとりでに燃えだし、はじめから何も無かったかのように、跡形もなく消滅した。
　高度成長期もひとまずの落ち着きを見せ、安定期に入った８０年代後半。
　街の近代化は着々と進み、新時代を代表するＪＲの駅が落成しようとしていた頃。
　三咲町の隣町である<社木|やしろぎ>に、またひとつ、町の新しいシンボルが生まれようとしていた。
　その名はやしろぎブレッド＆キッツィーランド。
　三咲市最大の不良債権。
　<後|のち>にバブルのあだ花と言われる、一つの時代の残骸である。
“この町には<夢|ゆめ>とか<洒脱|しゃだつ>さが足りない”
　今をさかのぼること十年前。
　社木の名士であり、全国に多くの工場をかまえる<土桔|ときつ>製パン株式会社―――通称トッパンの経営者・<土桔|トキツ><由里彦|ユリヒコ>翁（当時五十六歳）はそんな使命感を合い言葉に、所有地であった社木郊外の土地を開放、三咲市を代表するレジャーランドの建築に着手した。
　こうして運命の１９８１年。
　完成までに三年の月日を費やし、夢とユーモアあふれる地域密着型遊園地・やしろぎブレッド＆キッツィーランドはその短い人生をスタートさせた。
　敷地面積三十五万㎡。
　<入り口|ゲート>をくぐった人々の目を奪う豪華絢爛なメリーゴーラウンド。
　のたうつ龍のように遊園地をぐるりと囲むコースター。
　当時の建築技術の限界に挑んだといわれる、無駄にギミック満載な観覧車。
“完璧だ。遊園地に必要なものはすべてつぎこんだ”
　自らの仕事っぷりに目を細める由里彦翁。
　その自信を裏付けるように、開園当時の盛況はこの世の春だったという。
　だが。
　だがしかし。
　夢と洒脱のバランスを、彼らは豪快に間違えていた。
　あまりにも不細工、かつパチもん臭いオリジナルマスコット・キッツィーちゃん。
　必要以上に園内をにぎわす焼きたてブレッドの売店。
　８０年初頭から流行しだした大迷路を極限まで難解にしたミラーメイズ。
“キッツィーランドにドリームはない。
　ただ悪夢のようなユーモアがあるだけだ”
　各種専門誌はこぞってキッツィーランドの欠点をあげつらい、客足は減少。
　また、不運な事に母親とはぐれた六歳児が園内の施設で遭難し、衰弱死寸前で救出される事件まで起きてしまった。
　開園から五年後の１９８６年。
　悪化の一途をたどる経営不振、
　キッツィーちゃんのブレイクに余生をかけていた由里彦翁の引退が重なり、キッツィーランドの運営は困難となった。
　こうして、地域の人々に惜しまれながらも三咲市唯一の遊園地は、その短い一生を終えたのだった。
　……また。
　余談ではあるが、キッツィーちゃんをデザインしたパリ在住（自称）のアーティスト、トッキー・ユーリッヒ氏も、閉園を<悼|いた>むようにその筆を折ったという。
　そして現在。
　深夜零時のキッツィーランドは、かつての栄華など微塵も見られない。
　オモチャ箱の片隅においやられた人形のように、ひとり寂しく、今も生き続ける町からの明かりに照らされている。
「なるほど」
　草十郎はぱたん、と来る途中で拾った『社木案内のしおり』を閉じた。
　いまいち実感の湧かない歴史だが、これも<必衰|ひっすい>というヤツだろう、と納得する。
　遊園地の正門は施錠されていなかった。
　以前アルバイトにきた時、<鉄柵|いりぐち>は錆びた鎖によって施錠されていたが、今は外され、鉄柵も少しだけ開いている。
「――――――」
　草十郎は手紙に描かれた地図にしたがって、ひょこっと園内に侵入する。
「……急ぎの用なんだろうけど。こんな夜中に、なんなんだいったい」
　らしくなく<愚|ぐ><痴|ち>を言う。
　世間知らずな彼にでも、この行為がよくない事だと分かっているからだろう。
　廃墟になったとはいえ、立ち入り禁止の遊園地に忍びこんでいる。
　不法侵入、窃盗、泥棒。
決して胸を張れる事ではなく、犯罪と言えば犯罪なのだが―――
「……すまない、お金は払えないんだ。
　タダで入って申しわけない」
　彼にとって後ろめたいのはその一点だけらしい。
　目のペンキがいい感じで<融解|とけだ>しているキッツィーちゃん像に、ぱんぱん、と手を合わせる。
　赤ペンキを<眼窩|がんか>から流すマスコットを通過して、草十郎は夜の遊園地へと歩き出した。
　色落ちた建物。
　錆び付いた機械の群。
　もう時を刻むことのない、作り物の住人たち。
　かつての栄華とのあまりの落差に、幽霊すらいたたまれず住み着かなくなったゴーストタウン。
　―――まるで<童話|ユメ>の化石だ。
　ここは<現実|人の手>によって造られながら、<現実|ひとびと>に置き去りにされた楽園の跡。
　経済が安定し、
　人々の生活水準は右肩あがりで、誰もが未来に不安を抱かなかった、狂騒の時代の遺物である。
「――――――」
　白い息を吐きながら、草十郎は廃遊園地を歩いていく。
　人気はないが、山中の闇に比べればそう怖くもない。
　郊外といっても様々で、キッツィーランドは遊園地にしては珍しく、住宅地の<傍|そば>に造られている。
　遊園地は林に囲まれているが、それも所詮は人工のもの。教室の窓を閉ざすカーテンとなんら変わりはない。
　キッツィーランドを囲む鉄柵を越え、二十メートルほど造林された木々を抜ければ、簡単に見慣れた町並みに帰ることができる。
　都会の人間にとって夜の遊園地は恐怖を喚起させるものだが、草十郎にとっては、この遊園地も駅前の喧噪も“怖さ”の深度は同じだった。
“結構きついかもね、あなたの役目”
　草十郎にそう告げて、青子は静かに、可能なかぎり音を殺して走り出した。
　二階のほぼ中心、渦の終点には草十郎だけが残っている。
“実を言うと、もう一つ用意しておいた仕掛けがあるの。
　自分でもやりすぎだって呆れたもんだけど、貴方が<遊園地|ここ>に来るのが遅かったから。ちょっと興に乗っちゃって”
“……？　仕掛けって、俺用の？”
　リスのように首をかしげる草十郎に、青子はそ、と気軽に答えて、伏せておいた最後の切り札を提示した。
“地下の<支柱|はしら>に着火型の、ちょっとした魔術式を刻んでおいたの。中心の柱に点火することで、連鎖的に他の柱に仕掛けた魔術も起動する。
　ジャミングを食らう前に作ったものだから、直接魔力をたたき込めば一気に、こう、いくわ”
“………………”
　具体的な表現を避ける青子に、一抹の不安を隠せない草十郎なのだった。
“……蒼崎。こう、じゃ分からない。できるだけ明確に、どこまで爆破する気だったのか白状してくれ。
　あと、もしかして俺、早まったか？”
“いや、その……単なる保険って言うか。
　追いかけっこの途中でアンタを見失ったら、いっそ建物ごと爆破しちゃおうかなー、って”
　なにごとも徹底しておくものねー、と照れ笑いをしながら頭を<掻|か>く青子。
“いくらなんでも徹底しすぎてる！”
　そんな青子の暴虐ぶりに、草十郎は状況を忘れて、心底からの感想で抗議した。
「……なによ。いいじゃない、そのおかげでなんとかなりそうなんだから」
　……などと。
　草十郎が聞いたら<協力|けいかく>を白紙に戻しかねない<愚|グ><痴|チ>をこぼしつつ、青子は通路をひた走る。
　作戦はシンプルだ。
　青子は右に曲がる抜け道を利用し、人形を避けて地下一階まで移動。
　地下中央の柱まで辿り着き、仕掛けておいた魔術式に直接魔力を注入し、脱出する。
　魔術式が起動し、崩壊がミラーハウス全体に広がるまで早くて一分、その後の倒壊まであと一分。
　……厳しいが、迷路を暗記している青子ならギリギリで脱出できるスケジュールだ。
　人形による入り口の<結界|かべ>は、柱の連鎖爆破で吹き飛ぶ程度だろうと青子は予想している。
　仮にもっと上等な結界だとしても、建物全体が歪んでしまえば消えざるを得ない。地下の魔術式さえ起動させれば草十郎の脱出路は確保できる。
　最後に、肝心の標的について。
　あのオートマタは遮蔽物だらけの<この場所|ミラーハウス>を苦手としている。アレは構造上、この地形での全速移動はできない。
　建物が崩壊しだした時に二階の中心付近にいれば、倒壊に巻きこまれてあえなくスクラップだ。
　なので問題は、青子が地下に行くまで、いかにして人形を二階に押しとどめておくか、という事だった。
“……アテにしたからね、静希君。
　せめて三分ぐらいは引き付けて―――”
　青子が地下に到達し、魔術式を起動させるまで人形を引き付けてくれるなら文句なし。
　もしくは、せめて一階の大広間に下りるまで囮になってくれれば、この作戦は上手くいく。
　草十郎が危険なのは百も承知だが、<青子|じぶん>からあれだけ逃げ回った草十郎の運と脚力は馬鹿にできない。
“……うん、ただ逃げるだけなら、もしかして―――
　トンデモない事をしてくれるかも、アイツ”
　などと。迷路の横道を走りながら、青子はつい、ここには居ない草十郎に期待をよせたのだった。
　―――一方。
　そんな青子の声が聞こえるはずもなく、草十郎は必死の追いかけっこに挑もうとしていた。
　彼は自分なりの方法で<心|む><臓|ね>の動悸を押さえつける。
　大事なのは落ち着く事だ。作戦自体はシンプルで、そう難しいものじゃない。
　青子の指示は短く、実に分かりやすかった。
“十メートルぐらいの距離を保って、できるだけゆっくり通路を三、四周する事。
　横道は鏡のつなぎ目で覚えて。ここなら左回りで六、三、七、二枚目にあるから、そこをぐるぐる回ってれば比較的安全よ”
　……要は円を描くマラソンである。
　人形からは伸びる腕だけが届いて、ぎりぎり追跡できるじれったい距離をキープしていれば、相手はしつこく追いかけてくる筈だ。
　単純作業だが、草十郎にとっては命懸けの囮役である。
　加えて、建物が揺れだしたら全力で出口まで走れ、という無茶な注文付き。
「……けっこうじゃなくて、かなりきついんじゃないかな、コレは」
　おびえおびえのぎこちない動作で、草十郎は曲がり角から顔を出す。
　……突き当たりの曲がり角からは例のオルゴールの音。
　まずはここで顔を合わせて、右側のショートカットを抜けて、ループ状の鬼ごっこを開始しなくてはいけない。
「…………！」
　来た、と身構える。
　引きつけて、引きつけて。
　いつ伸びてくるか分からない腕におびえながら、草十郎は青子の説明を思いかえ―――
「…………あれ？」
　ところで。
　一番はじめの横道は、何枚目だったっけ？
　三枚目か、六枚目か、九枚目か―――
「――――――」
　違う。
　なんか、全部違う気がする。
　さっきまでは完璧に思い返せたのに、緊張からか、草十郎の頭はぐるんぐるんに回りはじめ―――
　……と。
　草十郎は前方にあった追跡者の<物音|プレッシャー>が、唐突に離れていく事に気が付いた。
　それも予想外のスピードで、ガシャガシャと音をたてながら。
「……なに？」
　異様な人形のシルエットに、<唖然|あぜん>とする草十郎。
　あろうことか、美しい少女のカタチをした人形は唐突に、
　構造的にあり得ない変形をして、
　一階に下りていった“本命”へと踵を返した。
「あ―――いや、それは」
　まずいな、と呟いて、途方にくれる草十郎。
　失敗を悔やむ時間すらない。人形はもう影もカタチもなく、草十郎の前から走り去ってしまったのだ。
“役に立つから見逃してくれ”
　……などと言っておいて、コレでは立場も何もない。
「…………さて、自分はこれからどうしよう」
　ひとり、困ったように首をかしげる。
　草十郎は<傍|かたわ>らに青子がいるかのように、暗い通路に語りかけた。
　同時刻。
青子は一階の広間に辿り着いた時、正しく状況を受け入れた。
　耳を澄ませるまでもない。
　このアトラクションが<栄華|えいが>を誇っていた頃ですら、なかったであろう<騒音|にぎわい>。
　ハリネズミのお化けが鏡をけずりながら大挙して迫ってくるような、そんな、絶望に似たノイズが聞こえてくる。
「…………あのドジ。三分どころか十秒<保|も>たないって、どういうコトよ」
　時間を稼ぐ、どころの話じゃない。
　本当、ただ逃げるだけなのにトンデモない事をしてくれやがった、と悪態のひとつもつきたくなる。
「―――複数の足音―――ってコトは、二足から多脚に切り替えたのね」
　反響する何人もの足音。
　それだけで青子は、通路を走る、六足歩行の巨大な蜘蛛を予想した。
　敵の移動速度が今までとは比較にならないのは当然だ。
　反響定位による環境把握は暗闇でこそ生きる。
　鏡の迷路において、視力に頼る人間より、自動人形は何倍も精確に周囲を把握している。
　それでも青子に追いつけなかったのは、たんに二本足では小刻みな方向転換に耐えられなかったからだ。
　多脚という安定性を持てば、そのスピードは人間を遥かに凌駕する。
“どうする、どうする、どうする―――！”
　混乱する思考のまま、迅速に打開策を模索する。
　はっきりしているのは、ここが勝敗の分かれ目というコトだけ。
　このまま足を止めていれば十秒ほどで追いつかれる。
　入り口の<結界|かべ>は今の青子でも小指一本で解除できる<稚拙さ|レベル>だ。魔術と言わず、魔力を流すだけで中和できる。
　青子が全力で走り続けられるのは三分強。
　<我慢|スタミナ>比べはどう見ても人形に分がある。
　考えられる選択肢は三つ。
　一つ、出口は目の前、外に逃げる。
　二つ、二階より複雑な一階の迷路に身を隠す。
　三つ、地下に走って、袋のネズミとばかりに、あの人形に追いつめられる―――
「―――なんだ、考えるまでもない」
　決断はまたたきの内に。
　立ちつくしていた両足には確かな力。
　嵐はもう頭上に迫っている。
　意を決して、少女は眼下の暗闇に向かって走りだした。
　　何であれ、<終局|フィナーレ>は華やかに。
　　鏡の城に最後の見せ場が訪れる。
　入場者は二人プラス一体。
　魔法使いの少女は城の心臓部である地下に走り、
　自律するアンティークは少女を追いかけて魔のダンジョンへ。
　一分の<後|のち>、城には微弱な青い電荷が走り抜けた。
　地下一階、最深最奥のメインピラー。
　城を支えているワケではないけれど、象徴であった柱を、少女は渾身の魔力をこめた拳で打ち叩いた。
　この一撃で鏡の城は崩れ去る。
　そんなイメージの元に放った<正拳|ストレート>は、数秒の後、イメージを真実に変換する。
　城の四方の柱、地盤に刻まれた魔力を圧縮、解放させるだけの単純な発火魔術。
　仕掛けは電荷をスイッチにして、ほぼ同時に発動し―――
　<緩|ゆる>やかに、<速|すみ>やかに。
　二年もの歳月、かたくなに滅びを<拒|こば>んだ夢の城に、臨終の<槌|つち>が下ろされる。
　―――それは、喜びに似た音だった。
　とうに命を失い、訪れる者のいなくなった鏡の城が迎えた、最後にして最大のショウタイム。
　青子の魔力は電荷となって支柱に刻まれた魔術式を起動させ、連鎖的に、建物の息の根を止めていく。
「……ごくろうさま。
　でも、思ってたよりくたびれてたのね。これじゃ一分<保|も>つかどうか」
　地下一階の中央広場。
　呼吸を整えながら、青子は魔術刻印をフル回転させる。
　魔術式を組めないのを承知の上で、その両手に青い光をまとわせる。
　……乱れた呼吸は簡単には治まらない。
　地下一階の中心。
　中心の柱にたどり着くまで、彼女は追跡者に背中を見せることなく走りきったのだ。百メートル走十三秒の俊足は間違いなく自己記録を更新した。
　その先に待っているのが<こ|・><の|・><状|・><況|・>だと承知した上で、あえぐ心臓に鞭を打った。
「……入れば追ってくる。地下に行けば逃げられない。
　当然よね。最後まで逃げ回ろうなんて、虫のいい話だった」
　反省するわ、と青子は物言わぬ<人形|じぶん>に語りかける。
　城が完全に崩れるまで残り一分。
　ここに留まるかぎり、どちらも瓦礫の下敷きだ。
　あの人形にとってはそれでオッケー。
　もとより命のないモノ、標的である蒼崎青子を殺す事だけが彼女の<目的|ねがい>なのだから。
　……そう。
　要するに、敵だけが初めから必死だった。
　決意の甘さに<憤慨|ふんがい>する。
　もろとも死ぬ事さえいとわない相手に尻尾を巻くなんて、あまりに自分らしくなかったな、と。
　　 “<Vivo in somno. Solitarie putresco in inferis|私は眠りの中で生きている。ひとりきりで土の中で腐っていく。>.
@o<Hic dies meus obitus dies, et meus nativus dies. Te obeam.|今日は私の命日であり、誕生日だ。さあ、貴方に会いに行こう。>”
“……ふん。そもそも自爆覚悟じゃない、アレ。
　六足歩行とフィンの一撃は<使|・><い|・><す|・><ぎ|・>よ。もう呪詛による魔力補給じゃ間に合わない”
　……そう。永久機関と言っても、それは魔力の消費量を抑えてこその永久機関だ。
　あれだけの機巧を使えば燃料はすぐにカラになり、電力である呪詛を回す事もできなくなる。
　<人形|かのじょ>は与えられた機能を、目的の為に燃やし尽くす。
　それは知恵あるものでは届かない器物の誇り。
　走る為だけに生まれた獣の覚悟に、人が触れれば火傷する。
“……ホント、勿体ない。
　こういう無茶をするのは姉貴だけかと思ってたけど、いるところにはいるもんね”
　だが、共倒れになる気は毛頭無い。
　反省は済ませたし、敬意も払ったし。
　時間もないしいい加減、
「行くわよ。ここで、きっかり―――」
　たまったツケを、倍にして返してやる―――！
　溜めに溜めた力を、<右脚|みぎあし>に爆発させる。
　狙いは一点、正面からの直接打撃―――！
　迎え撃つは心臓を<鷲掴|わしづか>む呪いの一撃。
　燃え尽きる事を恐れない、最大出力の心臓破り。
“―――っ、フッ―――！”
　それを視認したのと同時に、青子は全力で床を蹴った。
　長い髪を尾のようになびかせて、少女の体は真横に<踊|おど>る。
「っ、き―――」
　無理やりな横移動で崩れる<体勢|からだ>を、腕の振りで転ばずに持ち直す。
「っ……！」
　散弾が肩をかすめる。
　呪詛をうけた左肩が白熱する。
　構わない。どんな不利な体勢になろうと、“フィンの一撃”の直撃だけは回避する―――！
「―――！」
“<弾いて|スナップ>……！”
　痛みとバランスの乱れから、立ち直るのに０．５秒。
　顔を上げた瞬間、目前に迫る凶器を、魔力を帯びた拳で殴り<弾|はじ>く。
「せー、のぉ……！」
　人形に意志があったのなら、間違いなく目を見張っただろう。
　驚嘆すべきは。
　その一連の動作をしながらも、足を止めない彼女の意志の強さだった。
“<砕いて|クラック>……！”
　コンマの世界で弾かれる凶器。
　少女の力では完全に弾ききれず、凶器はわずかに軌道を逸らし、長い髪をさらっていく。
@o“―――<Initio erraveramus. Dum vivimus dolores sunt|すべてが間違いだったのです。生まれなければ良かったのです。>.
<Nemo adiuvat. Nemo adiuvat. Nemo adiuvat.|誰か私を償って。償って。償って。償って。償って。償って。償って。償って。償って―――！>”
　詠唱は呪いとなって青子から気力を奪う。
「―――ハ」
　こぼれたのは余裕か怒りか。
　あまりにも脆弱な防衛機能を気迫で<嚥下|レジスト>し、
“蹴<り上げ|グライダー>る……！”
　魔力を帯びた渾身の右脚が、人形の<心|む><臓|ね>を打ち上げる！
　人形の軽さは青子の予想以上だった。
　いや、重さではなく力が無かった、と言うべきか。
　自動人形の重量はその内部構造―――動力源の大小によって決定される。
　自動<詠唱永久|オルゴールエンジン>機関を持つこのオートマタは、皮肉な事に、その優秀さがアダになったのだ。
“……<Venite, Venite, Venite, meum sepulchrum|いらっしゃい、いらっしゃい、私の墓穴に、> ^<veniteeeeeeee……|いらっしゃいいいいいい……>”
　途切れ途切れの呪詛。
　青子の蹴りと天井への衝突、とどめに落下の衝撃で、人形はほぼ停止していた。
　内部構造に歪みが生じ、動力源である<自動詠唱|オルゴール>のドラムが歪んでしまったのだ。
「恨むなら設計者を恨みなさい。
ダイナモの一つでも積んでいれば、もうちょっとは重たくなったでしょうに……
って、うわ!?」
　目の前に落ちてきた天井の衝撃で、青子は正しい意識を取り戻した。
“……ところでいま、どうやってぶっ倒したんだろう？”
　と首をかしげるほど無我夢中だったので失念していたが、ミラーハウスの倒壊はもう始まっている。
「って、こっちのがやばかった……！」
　勝利の余韻にひたっている場合でも、同情している余裕もない。
　このままだと数秒後には同じ運命。
　青子自身、生還できる未来をイメージできないほど、状況は壊滅的だ。
「急げ、ダッシュだ私……！」
　それでも最善を尽くそうと頬を叩く。
　わずか数秒間の交戦の報酬。
　興奮と緊張で乱れた呼吸もそのままに、青子は出口に向かって走りだした。
　秒単位で倒壊は激化していく。
　支柱を失った城は中心に折りたたまれるよう、自重によって潰れていく。
「この、邪魔……！」
　なので、地下からの脱出は困難を極めた。
　迷路を最短距離で突っ切った青子だが、途中、崩落した天井に潰されかけたのが一度。
立ちふさがる瓦礫で一秒だけ足を止めたのが二度、いやこれで三度目。
　階段に降り積もった瓦礫を、走りながらの魔弾によって粉砕する。
　既に、自動人形による<妨害電波|ジャミング>は途絶えている。
　先ほどの攻防で人形はその大部分の機能を破損したからだ。
「―――、っ―――！」
　息を飲むように走る。
　窮地における緊張から、脳は倍速で稼働する。
　崩れていく天井が緩やかに流れていく。
　まるで死の<間際|まぎわ>の走馬灯。
　今の彼女には一秒が五秒に相当する。
　研ぎ澄まされた神経が、体感時間を延長する。
　倒壊する地下から、崩落する一階へ。
　青子は瓦礫で埋もれかけた階段を這って上りきった。
　広間はまだ開けているコト自体が奇跡で、
　肝心の出口への通路は―――幸運な事に、まだ崩落していない……！
“よし、ついてる……！”
　入り口通路は地下に沈まない。
　地下迷路があるのは広間までで、入り口通路は下に崩れようがないからだ。崩れるのは天井だけで、足場は最後まで残るはず。
　なので、この運任せの脱出は広場まで辿り着けるかの勝負だ、と青子は自分に言い聞かせて突き進んできた。
　賭けは彼女の勝ちだ。幸運は青子に味方した。
　ここからは残りの体力を総動員して、脇目もふらず外を目指せば―――
「――――――」
　時間にして０．２秒だけ、青子は足を止めかける。
　心の甘さか、責任か。
　脳裏によぎったイメージを振り払って、彼女は通路に向かって走りだした。
“……言っとくけど時間合わせの余裕はないわよ。
　そんな上等な作戦じゃないし。お互い、できるコトをやったら最速で出口に向かいましょう”
　たった五分前の話だ。
　それに、彼は少しだけ不安そうに頷いた。
　あの顔は―――何に対してのものだったのか。
“っ、なに様だっての私、今は走ることだけ考えろ……！”
　この通路も、もう<保|も>たない。
　振り向けば迷路側から崩れている事だろう。
　そして、今は振り向く時間すら惜しい。
　建物の強度的にはきっとギリギリで、自分の運も絶対ギリギリ。
　ここまで無傷だった事がそもそも破格のヒロイン補正で、これ以上はどんなトラブルも背負えない。
　足首の<捻挫|ねんざ>、<目眩|めまい>、くしゃみ、その程度ですら死に繋がる。後ろから肩を叩かれるだけでゲームオーバーだ。
　―――なので。
「―――、あ」
　……彼女の瞳には、はっきりと。
　地下へ落ちる階段の瓦礫から、蒼<崎青|じぶん>子を道連れにしようとする“死”が見えた。
　<彼女|したい>は<奈落|ならく>から這い出てくる。
　まだ<稼働|いき>ている。
　まだ<呪詛|いし>がある。
　<青子|じぶん>と同じように階段を這ってきて、<青子|じぶん>と同じ目で、一人だけ助かろうとする<少女|あおこ>を見つめている。
　人形の腕が突き出される。
　青子が振り向かなくとも、鏡にその姿が映っている。
“Iis salvatio Iis salvatio Iis salvatio Iis salvatio”
　伸びる。伸びる。伸びる。
　今度こそ<躱|かわ>せない。躱しようがない。
　同じ顔をした人形が<詠|うた>っている。
　<招き入れる|@_Venite domum meam.>。
　<泥のような死を|@_Luto simile somnium>。
　<塵となって囁く|@_et pulveri simile cotidianum>。
　<心臓を抉り|@_Cor privo>出して、
　　　　　　　　
“「オ<マエニ、|Te iudico>死ヲ」”
「―――、な」
　瞬間、青子は我が目を疑った。
　最後にとんでもない光景を見せられた。
「しつこいぞ、おまえ」
　彼はむっとした顔で、広場にとどまって、伸びきった人形の腕を壊していた。
　怒っている顔が本当に似合わない。
　手にしている武器は消火器だった。
　きっと武器になるものを探して、いつまでも迷路の中に。
　……いや、それよりも。
　彼がまだ広間にいたのは、考えたくもないけど、まさかそういう理由なんだろうか？
「っ、静希君―――！」
　青子は決して止めまいと誓った足を止めて、無我夢中で手を伸ばす。
「そんなのほっといていいから、早く！」
　草十郎は消火器を捨てて走りだした。
　ドミノ倒しに倒壊していく通路の天井。
　土砂に阻まれながらも先行する背。
　崩れ落ちる通路を、全力で走るふたりの影。
　……断末魔があがる。
　轟音と粉塵をまきあげ、キッツィーランドのシンボルであった御伽の城は、こうして、最後の<見せ場|ショウ>を終えたのだった。
　生死を賭けたマラソンは終わった。
　苦楽とか命運とかを一瞬だけ共にしたふたりは、疲れきった体を芝生にあずけて、妙な連帯感に包まれていた。
　……耳鳴りはもう治まっている。
　あれだけ大きかった地響きも、このさびれた遊園地では<彩|いろ>を失う。
　崩落の残響が廃墟に<沁|し>みこんでいくのを聞き届けながら、青子はとなりの人影に語りかけた。
「………………ねえ、生きてる？」
「うん」
「ちぇっ」
　可愛らしい舌打ちだったが、その真意は物騒なコトこの上ない。
「……蒼崎。あいつ、どうなった？」
「見ての通りよ。今ごろバラバラ死体になってるんじゃない？」
「――――――」
　身もふたもない青子の返答に、それならいいけど、とため息をつく草十郎。なぜなら、
「でも、そんな心配より自分の心配をした方がいいと思うわよ、静希くん？」
　彼の災難は、目下継続中だったからだ。
「……蒼崎、子供の頃はいじめっ子だっただろ」
「<加虐|かぎゃく>趣味はないって自負してるけど。
　それで、今の自分の立場、分かってる？」
　体を起こしてニコリと微笑む青子。
　口調も表情も優しいのに、なんでぞわっと寒気がするんだろうな、と草十郎はうなだれてみた。
「……<面目|めんぼく>次第もございません」
「かしこまってもダメよ。あの提案には大前提があったわよね。これは取引だって。貴方が役に立つのなら見逃してあげるっていう」
「分かってる。だから面目ないって言ってるだろ」
　草十郎はこれみよがしに顔を背けた。
　ふん、と子供のようにふて腐れる。
「――――――」
　その拗ねっぷりに面食らう青子。
　……おそらく、ではあるが。
草十郎は青子にではなく、自分に対して怒っているのだ。
　青子に見逃してもらえない事より、役に立てなかった事が悔しかった、と。
「――――――はあ」
　つい、<本日|ほんじつ>何度目かのため息を青子はもらした。
　……目前の少年のお人好し加減と、その長所を認めてしまった自分の甘さに呆れてしまう。
「じゃあ覚悟は出来てるの？」
「……そんなのは出来ないけど、約束だからな。結局は、何もしていないし」
　確かに、青子が期待した事は、なにひとつ。
　けど、と青子は崩れ去ったミラーハウスを一瞥した。
　囮役を見事に失敗し、途方にくれた彼は何を選択したのか。
　……わざわざ武器になるような消火器を探して、
　崩れだした迷路の中で、ひとりで出るわけにはいかないと、あの広間で足を止めていた。
　それは<躊躇|ためら>うことなく出口を目指した彼女とは真逆の、あまりにも愚かな選択だ。
“……ま、それでよしとするか”
　甘いなあ、と呆れながらも満足する。
　だって救われたのは事実だし。
　あの状況で待ち続ける勇気は、たとえ一秒だけだとしても賞賛に値すると、彼女は内心微笑んだ。
“……役割は果たさなかったけど、アフターケアは合格だし。約束は、守らなくちゃね”
　ひとり頷いて、青子はすくっと立ち上がる。
「約束は、ま、いつか守ってもらうとして」
「？」
　少女は出来るだけ無感情を装って、まだ倒れこんでいる少年に手を差し伸べる。
「結果はどうあれ手助けしてもらったし。
特別サービスってコトで、今夜はもう手を出さないであげる」
「――――――」
　照れくさそうに顔を逸らす少女。
　その横顔はあの日のものとは違っていたけれど、紛れもなく、少年がこの町に来てはじめて見入った、鮮やかな少女の顔だった。
「――――――なによ」
　視線を感じたのか、口をとがらせてじろりと睨む青子。
「いや。突拍子もないけど、蒼崎は律儀だなって」
　差し出された手を握る。
　青子は草十郎の体重を感じながら、貴方にだけは言われたくはないわ、と手を引いた。
「ところで。今夜はって言うけど、明日からは？」
「さあ。ま、その時になったら考えるわ」
　自分でもなんだかなあ、と肩をすくめる青子。
　その仕草がおかしく、草十郎も笑ってしまう。
　共に死線をくぐり抜けた連帯感とか、つかの間<築|きず>かれた友情とか。
　それが今夜かぎりのものでも、ふたりを包む空気は<和|なご>やかで、優しいものだった。
　色々あったけれど、真冬の夜の悪夢はこれでおしまい。
　ふたりはそれぞれの窮地を乗り越え、鏡の国を後にする。
　……けれど、その前に。
「―――随分と身勝手ね。
　それは貴女ひとりで決めていい事だったかしら、青子？」
　それは美しい鳥のさえずりにも、
　無慈悲な機械の声にも似て。
「―――有珠」
　……震える声で、青子は少女の名を口にした。
　降り立つ黒衣。
　……夜はまだ終わらない。
　少女の名は久遠寺有珠。
　青子をして魔女と恐れさせる、
目撃者は例外なく逃がさない、夜の化身がやってきた。
「あれか」
　静まりかえった中央広場から、案内にしたがって西に。
　着いた先には曇天の夜を<背景|バック>に、<凹凸|おうとつ>の多い、<威容|いよう><異彩|いさい>な城がそびえていた。
　廃遊園地の中でも<一際|ひときわ>大きい建造物。
　コースターや観覧車が動のアトラクションなら、あれは静のアトラクション。
　キッツィーランドの三大シンボルの一つであり、ある意味、この楽園を閉鎖に導いた魔の建物だ。
　一般的に、遊園地の<迷路|メイズ>は大きく二種類に分類される。
　建物の広さで来訪者を迷わす<大迷路|ラビュリントス>と、
　交錯する光で来訪者を迷わすミラーハウスだ。
　大迷路はその広さ、つかの間の冒険性で、多くの来訪者たちを楽しませた。
　後年、刺激をより増していく他のアトラクションに押され衰退していく事になるが、それは一世を<風靡|ふうび>したものの宿命だろう。
　新しいものは、次の新しいものに駆逐されなければならないのだから。
　一方、ミラーハウスは古くから愛されてきた定番だ。
　学校の教室ほどの広さでも鏡の設置と光の演出で来訪者を楽しませ、迷わせる。
　コスト面に優れたミラーハウスは大迷路より遥かに長生きしたアトラクションだ。
　両者とも新世紀には姿を消す事になるとしても、遊園地を代表する遊び場であるのは間違いない。
　……が。
　だからといって、その二つを混ぜるのはよろしくない。
　それでは訪れた者を楽しませる迷路というより、踏み入れた者を帰さない魔境になってしまう。
　さもありなん。
　その魔境こそがここ、キッツィーミステリーツアー城なのであった。
　係員に助けを求めた入場者、実に５パーセント。
　西洋の城を模した建物は奥行き百メートルほどもあり、内部はさらに三層に分かれている。
　地上二階、地下一階の迷路はすべて鏡張りで、熟練者でも脱出に三十分を要するほど複雑かつ広大。
　一度足を踏み入れたが最後、むこう半日は鏡面恐怖症におちいる大迷路のなれの果てが、こうして草十郎の目の前に立ちふさがっているのだが―――
「真っ暗ってワケじゃないな……電気とか、ついてるんだろうか」
　そもそもミラーハウスを知らない草十郎の関心は、明かりの有無にのみ向けられている。
　もう一度、蒼崎青子からの手紙を確認する。
　手紙には『ミラーハウス一階ロビーで待っています』とある。
　待ち合わせ場所はたしかにこの中だ。
　電灯の有無はともかく、開けっ放しの入り口から見える内部はうっすらと明るい。
　なら間違いないだろう、と草十郎はミラーハウスの入り口に向かって歩きだした。
　……カツカツと煉瓦の道を踏みならす音。
　街の喧噪は遠く、
　時計の秒針は数年前から動かず、
　風の音すら無い冬の夜。
　そんな、第三者がいれば<固唾|かたず>を呑んで呼吸を止めそうな静寂のなか。
「……えーと」
　草十郎はミラーハウスの入り口で、ぴたりと唐突に立ち止まると、
「ところで蒼崎。そんなところで何してるんだ？」
　いま歩いてきた広場を振り返って、不思議そうに呼びかけるのだった。
「！？」
　勢い、身を隠していたゴミ箱ごと<突|つ>っ<伏|ぷ>す音。
　……しばしの静寂。
　一分ほどで廃遊園地はもとの静けさを取り戻した。
　ついでに、観念したように物陰から現れる少女がひとり。
「あお―――」
　見知った顔と、見慣れない私服姿に声が止まる。
　はらりと長髪を流して現れた蒼崎青子は、草十郎の知っている彼女とは違っていたからだ。
　凛とした背筋と手足が、意志の強さをいっそう際立たせている。
　まっすぐに相手を<射|い><貫|ぬ>く瞳。
　<澄|す>んだ瞳は<比|ひ><喩|ゆ>ではなく、錯覚でなければ、実際に<燐|うす>い光を帯びている。
　氷の無機質さと、少女としての力強さ。
　その不釣り合いな組み合わせが、危機感の欠如した草十郎をして、良からぬ空気を感じさせた。
　<喩|たと>えるなら、怪談でいう雪女が現実に現れたような。
「……蒼崎？」
　つい、と草十郎はあとずさる。
　小さな驚きと違和感。
　そして、それらを上回る嫌な予感に混乱しつつあるが、とにかく都会の礼儀として声をかけたのだが……
「……その顔を見るに、何かあったのかといちおう聞いておくん、だけど―――」
「――――――」
　挨拶もなく、青子は一歩前に進んだ。
　その姿、その雰囲気が草十郎の曖昧な記憶を揺さぶる。
　心中、交錯しまくっていた草十郎の不安は、そろそろ確信に変わりつつある。
　あの時は後ろ姿だけだったが、今にして思えば夜の公園で見た人影と目前の少女の姿はなんとなく……
　どころか、うり二つではないだろうか？　と<固唾|かたず>など呑む始末。
「何をしていたかって話なら、見ての通りよ。
　ここで獲物が通り過ぎるのを待ってたの。貴方が入ってから私も入って、逃げ道を無くすつもりだったから」
　なのにいきなりコレとはね、と腐りながら青子は言った。
“そうか。待ち合わせ場所はあってたんだな”
　良かった、と内心でホッとする草十郎。
　わりと余裕があるのか、それとも事ここに至ってやっぱり現状が把握できていないのか。
　そんな草十郎の<鈍|にぶ>い反応をあえて無視して青子は続けた。
「―――私はね、静希君。
　嫌いな人とか、憎い人とかは人並みにいるんだ。
　ただ、ちょっとヘンなのが敵になる奴の条件でね」
　凍った<双眸|そうぼう>に火のような感情がともる。
　彼女の足はさらに一歩前へ。
　草十郎はますます嫌な予感……殺気、というのだろうか？……を覚えてあとじさりする。
　ふたりの距離は、なんだかんだときっかり五メートルをキープしている。
「昔から、私は嫌いな相手でも敵と思った事はなかったの。
　でも逆に、好きな相手を敵だと思う事もあった。
　理由は単純―――」
　そして、彼女は右腕を目前に<掲|かか>げた。
　洋服ごしに光って見えるのは目の錯覚ではなく―――
「―――当たり前のことだけど。
　私は、私の感情を乱す奴が敵なのよ」
　掲げられた右腕が振るわれる。
　瞬間、
　何か、視認しづらい物騒なモノが、草十郎から二十センチばかり左にズレて放たれた。
「ちょっ……」
　青い光とも、火の玉ともとれる発火現象を目の当たりにして、草十郎はようやく現状を把握した。
「ちょっと待った、今のはたいへん見覚えがある！」
　そんな間の抜けた感想は聞き流し、
「ち、外したか」
　なんてコトを、青子は呟いた。
　青い光はミラーハウスの壁にこぶし大の穴をあけたばかりか、未だにゴウゴウと<燻|くすぶ>っていた。
　あれなら人間ひとりの<頭蓋|あたま>を<陥没|かんぼつ>させる事も、まるっと<黒|くろ><焦|こ>げにする事も可能だろう。
「……はあ。こんな射程で外すなんて、有珠に見られたら自殺ものね。
　でもこれで分かったでしょ？　二度目だものね、貴方にとっては」
「――――――」
　急速に腰が引ける草十郎。
　理解不能を通り越して思考停止まで一歩手前。
　瞳に<映|うつ>るのは頼れる生徒会長……だったもの……の姿と、二日前に目撃した夜の公園のフラッシュバックだけだ。
　彼には経験がなく、また、法治国家に住むほとんどの人々には経験がない事だが。
　指を引くだけで人間を殺せる凶器を向けられた時、知性は善悪はおろか夢と現実、過去と未来の判断を停止させる。
　それまでの生活が平穏であった分だけ、その停止はより強いものになるだろう。
　思考にあるのは「生きている今の自分」の姿だけ。
　白紙の上にぽつんと置かれた黒い点と変わらない。
　後も先もない、ただそれだけの状態。
　それが銃口を向けられた人間の、ごく平均的な思考である。
「あ、<命乞|いのちご>いは止めてね。意味ないから。
　でも恨み言ならご自由に。殺す側の義務として、一言一句聞いてあげる」
　意味がない、とは、一切聞かない、というコトらしい。
　もっとも、草十郎はショック状態で声をあげる行為そのものが思いつかない。
　確かな事は―――そう、理由はともかく、目の前の少女が自分を殺したがっている現実だけ。
『う、嘘つきにもほどがある……！
　鳶丸のバカ、何が“そんな生き物はいない”だ！
　実際いるじゃないか、こんなお化けみたいなのが……！』
　もし口に出していたら間髪入れず第二撃が飛んできたであろう感想を、草十郎はすんでのところで心にとどめた。
　友人への悪態で<麻痺|ショック>状態から<恐慌|パニック>状態に持ち直す。
　しかし、それは決して余裕からきたものではない。
“ある日突然、何者かに殺される”
　その、あまりにも<経緯|りゆう>のない非日常は、
『でも、そうだった……都会には<殺|・><人|・><事|・><件|・>がある。
　ルールを破れば殺されるのは当たり前だって、ちゃんと教えてもらってた……！』
　都会に慣れていない草十郎にとって、極めて現実的なものだったからだ。
　彼にとって同級生に殺される現実は、そう驚くべき事ではないらしい。
　人が人を殺す<事件|ケース>が起こりえる社会ならば、そういうコトもあるだろうと受け止められる。彼は青子の行為、凶行にいたる経緯に、なんら疑問を持っていない。
　なので、いま彼を混乱させているものは、青子が起こしている発火現象だけなのだった。
「――――――」
　草十郎の喉がごくりと唾を飲みこむ。
　その反応は、誰の目にも恐怖で<痺|しび>れている犠牲者に見える。
「そういう事よ。ようやく理解してくれたわね。
　多くは語らないけど、貴方にはここで死んでもらう。
　魔術は<隠匿|いんとく>するもの―――なんて言ってもそっちには関係のない事だし。単に運がなかったって思えばいいわ。大事なのは、私が、貴方を殺したってコトだけだから」
　さて、とばかりに青子は再度、右手を<掲|かか>げた。
　機械を思わせる駆動音。
　<袖|ふく>の下で青い光が回転している。
　それがさっきより長い―――つまり、きっと、いま背後の壁を燃やしているものよりずっと強い―――ことに気づいて、草十郎の混乱は加速していく。
“いや、なんだ、つまり、始末するとかしないとか、あの夜のお化けは蒼崎だったとか、都会はホントに込み入ってるとか、そういうコトじゃなくて―――”
　混線する思考。
　早鐘を打つ心臓。
　―――もう立ち尽くしている場合じゃない。
　目の前の少女が同じ人間であるかさえ怪しいが
　それはともかく、やっぱり、たとえ納得がいくといってもきちんと考えてみたら、
「まて、人殺しはいけないんだぞっ……！」
　この通り、いくら都会のルールだからって殺されるのはご<免|めん>こうむる……！
「分かってるわよ、そんな事はっ！」
「ちょっ、待―――！」
　あまりにも空気を読まない草十郎の意見は、的確に青子の<逆鱗|げきりん>に触れまくった。
「うわああああ――――――！！！？」
　連続で<撃|う>ち出される青い<魔弾|まだん>と、
　とっさに背後の闇―――ミラーハウスの入り口に駆けこむ草十郎。
「はっ―――なななんだ、今のなんだ―――！？」
　無我夢中で長い通路を走る。
　たった二メートルの全力疾走で息が上がっているのは初撃を上回る“見たこともない出来事”への驚きと、本気で、あと一秒でも飛びのくのが遅かったら死んでいた、という実感のせいだ。
　足を止める余裕はない。
　草十郎の後ろには容赦のない足音が迫っている。
「……けど助かった。ここならなんとか―――」
　なるかもしれない、と全力で走る。
　ミラーハウスは入り口からエントランスにあたるロビーまで、細長い通路が二十メートルほど続いている。
　このままロビーまで逃げこめば、あとはいくらでも隠れ場所はありそうだ。
『助かった……！』
　大きな空間にたどり着く。
　ここが一階ロビー。通路は三つ。
　地下に下りる階段と、
　一階迷路への入り口通路と、
　二階に上る階段。
　今はどれでもいい、と草十郎は直感的に一階の迷路へ逃げこもうと踏みこんで、
「痛……！？」
　がいーん、と透明の壁に頭からぶつかった。
「か、鏡……!?」
「ええ。面倒だけど、それならフェアでしょ？
　追いかける方にも逃げる方にも有利不利がある」
　どことなく楽しげな声が届く。
　いちいち振り向くまでもない。
　いま彼を<弾|はじ>いた鏡に、ゆっくりと歩いてくる蒼崎青子の姿が映っている。
「それと、一階の奥にある出口は封鎖しといたから。結界じゃなくて物理的に。
　やりすぎて封鎖っていうより瓦礫？　土砂崩れ？　どっちでもいっか。とにかく下手に出口に近づくと崩落に巻き込まれるから。生き埋めがイヤなら近寄らないことね」
「―――、―――！」
　近づいてくる足音に焦りながら、草十郎は手探りで壁に向かう。
　見えているのは二階への階段だ。
　青子の言っている<内|コ><容|ト>はさっぱりだが、一階はまずい、という事だけは確かだった。
「ま、私としてはそっちのが助かるけど。
　形式上、事故死の方が後始末とか楽だから」
「……！」
　背後には正体不明の生物。
　彼女は軽口と共に、これみよがしに右腕を持ち上げる。
　……それは服の上からでも分かる、少女の体には不釣り合いな、一種奇怪な<紋様|もんよう>だった。
　皮膚の下の血管。
　身体を巡る機能の一つが、人間以外のモノで回っているような。
「――――――」
　それを傷ましいとも、おぞましいとも感じたのか。
　一瞬だけ足を止める草十郎と、
　その視線を受け流す追跡者。
「ああ、これ？　普段は塗り薬で隠しているんだけど、今日は特別。
　魔術刻印って言ってね、魔術師の証みたいな物よ。
　ほら、光が回ってるでしょ？　これがさっきのスナップ……分かりやすくいうと弾丸のもと。
　今日は調子いいし、私、魔力を効率よく使うのだけは自信あるし―――うん、あと三十回ぐらいかな？　さっきみたいな掃射ができるのは」
　感情がハイになっているのか、彼女はやけにフレンドリーな口調だった。
「…………」
　もっとも、会話の内容は物騒なコトこの上ないのだが。
「……そもそも、何を言っているかよく分からないんだけど、蒼崎」
「分からない？　弾数はあと三十発って事。
　そこまで逃げ切ればあなたの勝ちよ。とりあえず、今日のところはね」
『……今日はって、明日もあるのかな……』
　眉をひそめて悩む草十郎。
　恐慌しながらも、やはり根っこのところで危機感のない態度に、青子も<微|かす>かに眉を寄せる。
　やっぱりこいつは理解できない、と。
「宣言はしたわ。自由時間はこれでおしまい。
　まだ<罵|ののし>り足りないだろうけど、ま、その手の時間はキリがないしね。このあたりで<諦|あきら>めて」
　どうも、この<弛緩|しかん>した会話劇は<意|い><図|と>的に用意されたものらしい。
　届かない命乞いではなく、殺人者を呪う<時間|けんり>。
　……青子流の公正さなのだが、締まらないコトに、今回はうまく機能しなかったようだ。
「とにかくそういう事だから。
　―――じゃ、狩りの時間といきましょうか」
　感情を<排|はい>した声と、冷酷に獲物を見据える瞳。
　それで今度こそ本当に、自分が殺されるという現実を、草十郎は実感した。
　……長らく入園者のいない夢の<廃墟|あと>に、<彼|ソ><女|レ>は力なく、亡霊のような静けさで足を踏み入れた。
　今夜は無風で、周囲は無人。
　それなのに響いてくる雑音に、<彼|ソ><女|レ>はにんまりと、手を合わせて微笑んだ。
　可愛らしく合わされた<手|カタチ>は、チューリップの蕾のようだ。
　<入|ゲ><り|ー><口|ト>横の係員室の<曇|くも>った鏡に、造花の仕草が映し出される。
　その横には、錆びに錆びた掲示板。
　　　　　『今日の入園者数：　　２人
　　　　　　今日の××××：　　　件』
　　　　　　今日の××××：　　　件』
　風蝕にさらされた掲示板には心ない落書きが一つ。
　今日の××××数は、死亡事故、という単語に書き換えられていた。
　もう使われるコトのない記録表。
　それが何であるかたっぷり十秒ほど考えて、<彼|ソ><女|レ>は新たな数字を付け足した。
　　　　　　『今日の入園者数：　　３人
　　　　　　　今日の死亡事故：　　１件』
　人差し指で数字を付け足して、彼女は花のように微笑む。
　……は、音に向かって歩きだす。
　ミラーハウスから狂詩曲じみた雑音が<響|ひび>きだしてから、はや十分。
　遊園地の入り口は、ずっと無人のままだった。
　結論から言えば。
　仮に、<草十郎|カレ>が世界で一番強運な男だとしても、逃げきれる筈はなかったのである。
　ただ、どこまでが計算通りで、
　どこまでが偶然だったのか。
　それは結末を用意していた青子にも分からない。
　彼女に言えるのは三つだけ。
　思っていたより時間がかかって、
　予想していたより<手応|てごた>えがあって、
　それと、ミラーハウスを選んだのは失敗だった、というコトぐらい。
　……そう、何が失敗かと言うと。
　ミラーハウスは狩り場として文句なしの地形だったけれど、鏡に映る自分と向き合うのは半人前の彼女にとって、少しだけ苛立たしいコトだった。
「うわあ！」
　青子の右腕が光った瞬間、草十郎は目の前の階段に逃げこんだ。
　背後には連続する青い<閃光|ストロボ>。
　無我夢中で階段を駆け上がる獲物を、狩人はあわてずに追っていく。
「―――注文通り。
　そうでなくっちゃ、お<膳立|ぜんだ>てした甲斐がない」
　走る草十郎とは対照的に、青子はやや早歩きで階段を上っていく。
　青子が走って追わないのは、獲物と一定の距離を保つためだ。
　命中率に自信のない彼女にとって、もっとも対処に困るのが玉砕覚悟の突進である。
　十メートル程度の距離があるのなら問題はない。
　獲物が接近するまで十発中四発は当てられる。
　しかし先ほどの位置関係は少々まずかった。
　あの距離、あの広さの空間で迂回されながら突進されたら、わずかではあるが、そのまま接近されて素手での争いになる可能性がある。
　現在、青子の最大の武器は右腕の魔弾だ。
　この利点を生かすのなら距離を詰めすぎてはいけない。
　近づく時があるとしたら、それは獲物の体力がなくなり、<諦|あきら>めたあと。
　足を射貫くか、背中を撃つか。
　あるいは、この迷路で心が折れるか。
　なんらかの傷を負って標的が走れなくなった時が、この狩りの幕引きとなる。
「っ―――！」
　一方、草十郎は悲鳴を<堪|こら>えながら迷路を走っていた。
　出口など目指しようもなく、まっすぐ走る事すら難しい。
「あいた！？」
　長く伸びている通路は、そう見えるだけで鏡の壁でふさがれている。
　あわてて右に曲がろうとして、
「あたた！？」
　草十郎は額をおさえながら残った左に腕を伸ばし、壁がない事を確認し、
「！」
　とっさに左の通路に飛びこんで、コンマの差で凶弾から身をかわす。
「はっ―――、は―――！」
　近づいてくる足音にせき立てられて、考える前にとにかく走る。
　今のは本当に紙一重だった。
　後ろ髪の焦げた臭いがする。
　きっと強運。
　あるいは悪運だ。
幸運の類があるなら、そもそもこんな事態になってはいない。
　ミラーハウスの二階は巨大な渦巻き状になっているらしい。
　外周からはじまって、とにかく左に左にと曲がっていく。
　いきつく先はどんづまり。逃げれば逃げるほど追いつめられる、<蝸牛|かたつむり>のカラに似た断頭台だ。
「…………、っ」
　<抑|おさ>えつけた悲鳴が、文句になって出てきそうだ。
　どのみち殺されるのに、こんなワケの分からない状況がまだ<数秒|すうびょう><数分|すうふん>、自分の頑張り次第で続くなんて―――！
　けれど走る。
　何度も鏡の壁にぶつかりながら走る。
　衝突のたび目に星が舞って、額から出血しても走る。
　激痛は数秒ごとに。
　がむしゃらに走れば走るほど手ひどく透明の壁にぶつかってしまう。
　体はもうその法則を覚え始めていて、これ以上は走りたくないと<訴|うった>える。
「はっ、は―――！」
　結果、たった六十メートル程度の全力疾走で息が上がっていた。
　そもそも<而|しか>るに、どう考えてもマトモじゃない。いくらなんでも突拍子がなさすぎる。
こんなのは<性質|たち>の悪い冗談で、振り返ればやりすぎてゴメンと謝る彼女がいるに決まっている。
頭は真っ白で、体は度重なる衝突で音を上げて、そうに違いないと足を止めそうになったところに、
　ぞくりと。
　首もとに<被|かぶ>さるような、死の手触りを感じ取った。
「――――――」
　大げさな話ではなく、草十郎はこの類の悪寒をイヤというほど知っていた。
　なにしろ町にやってきてからこっち、死にかけた事は一度や二度ではなかったのだ。
　道を行く自動車や通勤ラッシュで混雑する駅のホームは、ルールを知らない彼からすれば、いまの状況とそう大差のないものなのだから。
　彼はまだ命も恐怖も知らない、無邪気な幼子ではない。
　一つの人格としてかたちどられた知性が、ある日突然、まったく違う文化圏に放りこまれただけ。
　この町にとって当然のもの―――安全が約束されている公共の機構ですら、彼にとっては“未知”の脅威だった。
　……だから、既に慣れてはいたし。
　正直に告白すれば、不満に思う事だってあったのだ。
　まったく不要なもの。
　まったく価値を見いだせないものにあふれ、それらがすべて危険な役割を持った世界。
　コンビニエンスストアにある多くの日用雑貨すら、彼にとってはたいへん優れた“道具”である。
　文明はその水準を上げるほど、人間の持つ危機感を麻痺させる。
　裕福さ、便利さを進めていく街のあり方は、田舎で育った草十郎にとっては毒そのものだ。
　そして不幸な事に、彼には便利さを甘受するだけの余裕がなく。
　扱い方を間違えるだけで<容易|ようい>に、唐突に、誰もが意図しなかった事故が起きる都会の便利さに、ずっと、違和感を抱いていた。
　どうして。
　なんで自分は、こんなところにいるのだろう、と。
「―――、ああ」
　皮肉にすぎる。
　そんな、今まで気付かなかった本心に、
　命を狙われている状況で、<天啓|てんけい>のように思い知るなんて。
　……そう。唐突なのは今に始まった事ではない。
　死にそうな目に遭うのはそこまで特別な事ではない。
　本来<安全|あんぜん>というのは対価を支払って得るものなのだし。
　生きているのなら常に逆の目が待っている。
　例えば、夜の街灯のように。
　朝になれば当然、その明かりは消えるのだ。
　容赦なく撃ちだされる正体不明の凶器。
　二日前の夜、青い炎に包まれて消し<炭|ずみ>になった人影が脳裏に蘇る。
　釣られた<人参|にんじん>欲しさに走る馬みたいだ、と彼は思った。
　とにかくアゴをあげて迷路を走る。
　でも、いったい何のために？
「はっ―――、はっ―――」
　心臓の苦しさは本物なのに、まるで現実感がない。
　天窓から見える夜空は泥を流したような<群青|ぐんじょう>で、<草十郎|カレ>の知っている夜空には似ても似つかない。
「―――、は」
　唐突に気が<緩|ゆる>む。
　<捨|す>て<鉢|ばち>気味に草十郎は笑って、わりと大切なものが折れた気がした。
　だって、そもそも全てがどうでもいい。
　それでもなんとか足が進んだのは、合わせ鏡に彼女の姿が映るからだ。
　追いかけっこをするネコとネズミのように、草十郎は鏡の迷路を<遁走|とんそう>する。
　その、妙に現実感のない緊迫は、実質四分ほどで終了した。
　九回目の青い光が、草十郎の真横で発火する。
　光は壁に被弾するなり爆発して、その衝撃で草十郎を反対側の壁に叩きつける。
　文句なく、今までで一番「死」に近い一撃だった。
「痛っ……！」
　呻いて、床に倒れこむ。
　背中はひりひりと痛んでいる。
　出血はない。『痛い』程度で済んだのは幸運だろう。
　けれど、体は<頑|がん>として動かなかった。
　肉体的にも精神的にもまだ余裕はある。
　起き上がれない程の痛みでもない。
　ただ、倒れてふと見上げた天井には窓があって、暗い夜空が見えてしまった。
　胸に去来した<感|も><情|の>は未熟な、身勝手な嘆きだった。
　……ああ、なんて醜い。
　こんなものを、これから一生、見続けていく。
「――――――」
　乱れていた呼吸が、熱を失ったように治まった。
　簡単に言うなら、彼はそれで諦めてしまったのだ。
　追いかけてくる足音から逃げるという行為と、たぶん、もっと大きな、根本にある問題から。
“まあ……蒼崎に殺されるなら、いいかな”
　静希草十郎という人間にとって、決してあってはならない感想が漏れる。
　……余談ではあるが。
大げさな話ではなく、それは彼にとって、生涯ただ一度の過ちだった。
　ぼんやりと夜空を見上げながら、草十郎は近づいてくる足音を聞く。
「ギブアップ？」
　今までで一番近い声。
　これで幕引きと踏んだのか、彼女は倒れこんだ草十郎の目前まで歩み寄った。
　暗い鏡張りの通路では、その表情はうかがい知れない。
　草十郎は何を言うのでもなく、目前の殺人者を見上げている。
「……返事がないならそれでいいけど。
　調子狂うわ。普通、どうして殺そうとするのかぐらい、訊くものじゃない？」
　顔を陰に隠したまま青子は言う。
「――――――」
　きょとんと目を大きくする草十郎。
　言われて、それが自然な疑問なのだと気が付いた。
　なんとなく雰囲気で“秘密を知ったから殺す”と読み取れたが、どうして自分がこんな目にあうのか、理由を聞きたくなるのが人情である。
「……そっか。それは、そうなるな」
　ああ、という肯定。
　どこか寂しい願いと、諦めのまざった顔。
　彼はしばし考えたあと、
「でも言う必要はない。
聞きたくないんだ、そういうのは」
　大人びた、静かな声でそう答えた。
「――――――」
　鮮やかといえば、鮮やかすぎたその回答。
「―――そ。
　じゃ、殺すけど。死ぬの、恐くないの？」
「恐いに決まってる。なにより痛そうだ」
　口をとがらせて抗議する草十郎に、青子はむっ、と顔をくもらせる。
投げやりになっていても、自分の気持ちに素直な少年だった。
「そりゃ恐いでしょう。私だって恐いと思うし。
　でも悪いわね、我慢して。
　人でなしと<罵|ののし>ってくれて結構よ。今の私は本当にその通りだから。
……
そういった意味じゃアンタと同じ。普通の道徳がないのよ。だから、必要なら人も殺せる」
　淡々とした声に、ぴくりと草十郎の指が反応した。
　何もかも諦めていた彼の体が、今の言葉は聞き流せないと言うように。
「人殺しなんて、よくないぞ」
「分かってるって言ってるでしょ」
　青子の右腕が掲げられる。
　刻印の光が顔を照らす。
　言うまでもなく、彼女の顔はいつも通りだ。
　泣き顔でもなく笑顔でもない。
　感情を<排|はい>した、どこにでもいる一人の少女。
　……我慢して、なんてとんでもない。
　普段の青子を知る草十郎にとって、それは、どんな<表|か><情|お>より<辛|つら>く映った。
「……すまない。ちょっと、いいかな」
「なに？　ここまで<悲愴感|ひそうかん>を盛り上げておいて、やっぱり逃げるなんてのは却下よ」
「――――――」
　容赦のない青子の切り返しに、彼はつい頬を<緩|ゆる>ませた。
　ほっと息をつくように。さきほど見えた辛さは勘違いで、青子はやっぱり青子だった。
　それが嬉しくて草十郎は笑ったのだが、言うまでもなく、彼以外には真逆に見える笑いだった。
「……<遺言|ゆいごん>でも聞いてあげようと思った私が甘かった。
　っていうか、今の小馬鹿にした笑いがアンタの遺言ってコトでオッケー？」
「いや、そうじゃなくて。あそこにいる人は、蒼崎の友人なのか？」
　つい、と指で青子の背後を指す草十郎。
「はあ？」
　使い古された手だと青子は思った。
ここがステージならハリセンでダメ出しも辞さないところだ。
　……しかし草十郎にそんな雰囲気はないし、そもそもこの男には<流行|はやり>も古いもなかった、と思い直す。
「アンタ、なに言って―――」
　なんだかんだと律儀な性格が幸いしたのか。
　つい気になって、指差された背後に目を向ける青子。
　―――そこには、
　ぎい、と。
　この迷路には無い木製の<笑顔|きしみ>をあげる、不吉で不気味な“彼女”の姿が―――
「―――人、形……？」
　暗がりに<仄|ほの>浮かぶ<二|ヒ><足|ト><二|ガ><手|タ>の異形。
　その、物言わぬ<佇|たたず>まいと、遠目からでも分かる造りの美しさが、事の異常性を一瞬だけ漂白し―――
　伸びる。伸びる。伸びる。
　その、あまりの“未知”に青子の思考は停止した。
　避ける、という選択が浮かばない。人間は知性、知識がある故に、“初めて見る”ものに<鈍感|どんかん>で―――
「っ、ぁあぁあ――――――！！！！」
　青子の口から悲鳴がこぼれる。
　十メートル以上の距離を無視した魔の一撃。
　奥の通路に現れた“彼女”の腕は細く速く、どこまでも長く伸び、青子の背中を<撃|う>ち<捉|とら>えた。
「っ―――！」
　青子は壁に激突しつつも、苦悶の声を飲みくだす。
　一方、伸びきった腕は速やかに“彼女”へと戻っていく。
「蒼崎！」
　草十郎はすぐさま立ち上がっていた。
　手足をついて咳きこむ青子に駆け寄ると、力任せに立ち上がらせ―――
「――――――」
　その軽さに、少し戸惑う。
　草十郎にとって、蒼崎青子は普段から凛としていて、中身がぎゅっと詰まっているイメージだった。
　だからきっと、<触|ふ>れた時は自分なんかより確かな力強さがあると思ったのだ。
けれど実際は四十五キロ程度の、少女として当たり前の重さだった。
　……一方。
　どのような<機巧|カラクリ>か、“彼女”は伸びきった腕を収納していく。
　十メートル以上伸びた腕、何倍にも増設された<肘|ひじ>関節が、カシャンカシャンと元の<形状|おおきさ>に戻っていく。
「大丈夫か？」
「……やめてよ。分からないわ、なんでそんな顔できるの」
　呟きながら草十郎の手から離れる青子。
　途端、がくんと膝から倒れこんだが、彼女が膝をつくより早く、草十郎は肩を貸して立ちあがらせていた。
「無理するな。……で、あいつは知り合いか？」
　草十郎は十メートル向こう、不気味に<佇|たたず>む人影を見据えている。伸びきった腕は、あと少しで完全に収納されようとしていた。
「……そうね。似たような奴とは命を<鬩|せめ>ぎ合った仲よ」
　青子は答えながら、自身の背中に指をはわせた。
「っ……！」
　途端、火で<炙|あぶ>られるような痛みが走る。
“っ……でも、痛いっちゃあ痛いけど、打撲だけ……？
　あれだけ絶好の奇襲をしておいて？　それとも、この距離じゃ当たっても致命傷にならない？
　……なんて、あるワケないか。なにか別の意味があると見るべきね―――”
　背中の<損傷|ダメージ>を量りながら、乱れた呼吸を整える青子。
　痛みも呼吸もすぐに治まった。
　あくまで今のところではあるが、運動機能に支障はない。
　となると、深刻なダメージと言えるのは―――
「あ、蒼崎、アレ！」
「分かってるわ、黙ってて」
　<薄闇|うすやみ>に青い光がともる。
　青子の呼吸に連動して生成された魔力が、その右腕に集められる。
　魔力が燃料なら、術式は点火装置だ。
　青子にとって、これは二日前の夜の再現にすぎない。
　あの人形が腕を伸ばしてきた時、最速で術式を走らせ、生成した<魔|た><力|ま>を弾く。
　およそ十メートルの格闘戦。
　生死を分かつクロスカウンターだが、二秒の隙間があるのなら青子でも合わせられる。
“彼女”が動く。
　<俯|うつむ>いているので<表|か><情|お>は見えず、この距離、この暗さでは肉体年齢も判別できない。
　青子たちにとって、人形はいまだ正体のない亡霊と変わらない。
　キリキリと音をたてて左腕が持ち上がる。
　<緩慢|かんまん>な、関節が<錆|さ>びきったような動作。
　先ほど伸びた右腕は下げられている。
　くすりと、長い髪に隠れた口元が笑った気がした。
“―――<右手|さっき>と用途が違う、<左|アレ>が本命―――！”
「静希君、どいて……！！」
　青子が草十郎を突きとばしつつ右手をなぎ払うのと、
“彼女”の左腕が伸びるのは同時だった。
　タイミングは完璧。
　一秒の差で青子の<魔弾|スナップ>は人形の<凶|う><器|で>に直撃し、その軌道をズラしながら敵本体に炸裂する。
　―――肝心の、魔術式が駆動すればの話だが。
「ッ―――！？」
　撃ち出された腕を紙一重でかわす青子。
　魔術は発動しなかったが、相手の攻撃をかわせたのはここ一番の<勘|かん>の良さか。
“やられた、最初のはそういうコトか……！”
　こんちくしょう、と歯がみしつつ青子は思考を巡らせた。
　<走|せ>るべきか、<退|ひ>くべきか。
　残る腕は一本。人形の腕は巻き戻しに時間がかかる。
　言うまでもなく好機。やるのなら今だ。
　右腕だけならもう一度ギリギリでかわして、とにかく近づいてしまえば―――
　　“<Vivo in somno. Solitarie putresco in inferis|私は眠りの中で生きている。ひとりきりで土の中で腐っていく。>.
@o<Hic dies meus obitus dies, et meus nativus dies. Te obeam.|今日は私の命日であり、誕生日だ。さあ、貴方に会いに行こう。>”
　がさついた音が<木霊|こだま>する。
　<詩文|しぶん>めいた<囁|ささや>きは、魔術師なら視覚できるほどの魔力の<残|の><留|こ><思|り><念|び>だった。
　唄い文句こそラテン語だが、ところどころに<呪詛|ガンド>の韻が含まれている。
　本来なら憎い相手を<呪|のろ>う言葉。
　それを、
“<Mea anima immortalis. Autem mea futura necata sunt|私の命は不滅ですが、私の未来は殺されました。>.
　　　<Manes sum. Animam definire ambiguum est|私は亡霊です。生命の定義はあやふやです。>.
　　<Te odi, et te amo. Conveniamus in somnio ipso.|憎らしい、愛おしい貴方。どうか、夢で会いましょう。>”
　……それを、あの人形は自分自身に向けていた。
　呪いは呪いを生む。被害者は加害者を呪い返す事で、負の連鎖を回していく。
　……あの詠唱はそのサイクルを利用したものだ。
　ただしあくまで一人芝居。
　自家中毒にも似た異例の動力源。
　信じがたい事だが―――アレは呪い呪われる事で、一定の<動力|まりょく>を維持し続ける永久機関……！
「なにそれ、レベル高すぎじゃない……！？」
　青子は徹底抗戦の選択肢を切り捨てた。
　反撃はせず、最速で身をひるがえす。
「なにしてんの、アンタも来る！」
　急展開に置いてけぼりだった草十郎の手をとって、青子は全力で鏡の国の奥地へと走り出す。
　ふたりの背後には、なお続くひび割れた声。
“<Proximi mihi neglegentes fuerunt. Omnes nos peccante|隣人は私に無関心でした。私たちは誰もが罪深く、>s
<fuimus, et omnes nos eidem fuimus, omnes nos peccatore|同類でした。私たちは罪人です。>s
　　<sumus. Venite domum meam. Luto simile somnium|私の家にいらっしゃい。泥のような死を。>,
　　　　<et pulveri simile cotidianum. Cor privo.|塵となって囁く。この胸を去った心臓を抉り出して、>”
　　　　　　　　“「<オマエニ、死ヲ|Te iudico.>」”
　青子は背中の痛みに耐えながら、鏡張りの通路を走る。
　その手に引かれておまけ状態の草十郎も走る。
「蒼崎、傷は？」
「……べつに、背骨が<痺|しび>れてる程度よ。内臓は平気だし、出血もないみたい」
　ま、肝心の<神経|かいろ>はズタズタだけど、と内心呟く青子。
　草十郎と違い、青子は透明の壁にぶつからない。
　目がいいのではなく、ミラーハウスの構造を頭にたたきこんでいるからだ。
「……平気って、分かるのか？」
「そりゃ自分の体だもの。身体管理は基礎中の基礎よ」
　恐る恐る訊ねる草十郎と、つまらなそうに答える青子。
　左曲がりの回廊は段々と、その直線距離を短くしていた。
　先ほどまではまっすぐに三十メートル。
　今では十五メートルほどで曲がり角に突き当たる。
「あいつは、あの夜の……？」
「たぶんね。同じタイプだと思う。貴重な<自動人形|オートマタ>を惜し気もなく使い捨てるなんて、よっぽどお金持ちなんだろうけど」
「………………」
　む、と眉間に<皺|しわ>の草十郎。
　質問にきちんと答えてくれるのはありがたいが、聞けば聞くほど聴き慣れない単語が出てくるのは困りものだ。
「蒼崎、ストップ。もうずいぶん走ったぞ。
　あいつは曲がり<角|かど>一つぶん向こうだ。少し休もう」
　青子の傷を気遣って声をかける。
　しかし、彼女は不機嫌そうに首を振った。
「あの距離を狙ってくる相手に通路一つ分のリードは無意味よ。せめて二つ分に行くまで走るの」
　なるほど、と頷く草十郎。
　と、それはともかくとして、
「なんで俺を連れていってるんだ？」
「逃げられたくないからじゃない、馬鹿」
　実に簡潔な返答をしつつ、平和ぼけした獲物をむっと睨む青子だった。
　ふたりはさらに先の曲がり角へ。
　通路二つ分のリードをとって、ようやく足が止められる。
　青子は息を整えながら背中に手を当てた。
　先ほどは“ぜんぜん平気”と断言した青子だが、どうも強がりだったらしい。
　なぜなら、空気の読めない草十郎にも分かるぐらい空気が重い。
「………………」
　そんな青子の後ろで、さて、と腕を組む草十郎。
　鬼の居ぬ間になんとやらで、この隙に、彼は彼なりに現状把握などにトライしてみた。
　まず、自分は蒼崎青子に殺されかけた。
　あわやというところで助けが入ったが、割って入った人物は二日前の夜、青子によって燃やされた『怪奇腕が伸びる人間』だった。
　よく見えなかったが、とりあえず女性っぽかったので彼女と呼称する。
　その彼女の攻撃で青子は背中を負傷し、一旦逃走。
　その際、なぜか草十郎の手を取ったが、それはどさくさに紛れて<草十郎|エモノ>が逃げ出すのを阻止するため、とのコトだった。
　つまり―――
「蒼崎は、まだ<諦|あきら>めてないんだな？」
「あったりまえよ。あんなヤツ、仮に二体と半分始末してもアンタ用の余力は残せるわ」
　などとタンカをきる青子の表情は、<草十郎|しろうと>目にも厳しい。
　彼女の体のダメージは無視できるものではなく、状況は楽観できるものではない。
「――――――」
　だが、彼女の目に秘められた激情が、その一切を否定する。
“<魔術回路|なか>がところどころショートしてる……
　あの右腕は回路を混線させる<術式妨害|ジャミング>ってワケね―――”
　本来ならピンチに震え上がるところだが、青子の拳を震わせたのは怒りだけだ。
　術式妨害なんて初歩の初歩、かけだしの半人前にしか通じない。
　彼女の同居人レベルなら、あんなジャミングはそれこそ腕が触れた時点で弾き、接触しようとした相手の回路を逆に焼き切ってしまうだろう。
　このように、他の魔術師と回路を繋げよう、なんて行為は自分の心臓を差し出すに等しい。卓越した魔術師同士の術理戦において、何の役にもたたない<駄機能|だきのう>だ。
　なのに、あの敵にはそんな“余分な”機能が備えられていた。
　ここ数週間の、三咲の管理地を巡る戦いっぷりから出た、敵の結論。二日前、正式に魔術師として踏みだした彼女に対する評価がそれ。
　要するに―――
　あの<人形|てき>は、蒼崎青子を完っ全に舐めている。
「……ふん。敵ながら精確な判断だこと」
　怒りはそのままに、浮き足立つ激情を冷却する。
　十七歳の少女には似つかわしくない、達観した狩人の顔。
「なんか、俺の時より真剣だな」
「まあね。アンタの時は遊びが入ってたし」
「……む」
　喜んでいいのか悲しんでいいのか、草十郎には難しい返答だった。
「分からない事だらけで何を聞いていいか分からないんだけど、ひとつだけいいか？」
　青子は<応|こた>えず、目前の闇を見詰めている。
　沈黙は重く、まとわりつく闇は締めつける<真綿|まわた>のようだ。
　それでも、完全に自分を無いものと扱う青子に臆さず、草十郎は続けた。
「蒼崎は、あいつも殺すのか」
　<粛々|しゅくしゅく>と。
　その行為を、暗闇から引きずりだすように。
「――――――」
　返事はない。
　薄影の廊下に、ふたりの息遣いだけが響く。
　罪を問いかける草十郎と、それを無視し続ける魔法使いの少女。
……凍りつくような数秒の<後|のち>、
「―――そう。
　それが貴方のキーワードみたいね」
　抑揚のない声で、青子は呟いた。
　観念したようにも、軽蔑したようにも取れる、ため息をこぼしながら。
「キー……なに？」
「独り言よ。忘れて。
　それと。言っとくけど、あいつは人間じゃないわ。
　信じられないだろうけど自分の意志で動く人形なの。この前のも、今のヤツもね」
　ふーん、と素直に頷く草十郎。
　青子の話を信じないどころか、納得さえしている風だ。
「……なんか落ち着いてるわね、貴方」
「まさか。もう何がなんだか分からないから、あまり考えない事にしてるだけだ。
ただ、人形に関しては別に、どうという事はない」
「え？　もしかして、他でも自動人形を見た事あるとか！？」
「？　都会の人形ってああいうものじゃないのか？」
「な―――」
　ばたり、と倒れこみたい衝動をギリギリで<堪|こら>える青子。
　そうなのだった。
この、神がかった<呆|ほう>け者はそういう男なのだった。
　天然保護動物なみに隔離された山奥からの転入生で、常識はずれの常識の無さで、見るものすべてが奇想天外という異邦人。
　自動車という鉄の塊が動くなら、人形だって動くと思っても不思議はない。
　……なので、もしかしたら。
　彼にとってあの夜の出来事は“特別”なことではなく。
　都会ではよくある風景として、誰に言いふらすような事ではなかったのかもしれない。
「……まいった。いっぺん頭のなか覗いてみたいっていうか、ほんと、ここまでくると感心するわ。
　……調子が狂うのも当然だった。普通は私に襲われた時点でもっと違う反応をするはずなのに。
化け物とか、お化けとかさ。でも貴方にとっては『そういう事もある』で済まされてたワケなんだ。
　……なんか<莫|ば><迦|か>みたいね、私」
　張りつめた彼女の顔が、一瞬だけ元に戻る。
　そう。それならもっと違った方法で、誰も傷つかずに済む選択があったかも知れない。
　けれどもう遅い。
　基本、人生にやり直しはない。あってはならない。
　些細な勘違い、勝手な思いこみで状況は悪化しすぎた。
　ここまで関わった以上、彼女は草十郎を手にかけて秘密を守らなければならない。
　……本当はもうひとつぐらい、最善の選択肢があっただろうけど後の祭り。
　所詮、人間の関わり合いなんて相互誤解で回るもの。
　<意|い><図|と>の編み違いで転がっていく<織物|おりもの>だ。
　―――休憩はここまで。
　蒼崎青子と静希草十郎。
　ふたりが自己紹介を交わした日以来の、なんでもない会話はここで終わり。
　彼らの心情とは関係なく、曲がり角の向こうから耳障りな囁きが流れてくる。
@o“<Nemo meum funus meminit, qui doluit exstinctus est|私のお葬式はもう誰も覚えていません。悲しむ人も消え去りました。>.
　　<Initio erraveramus. Dum vivimus dolores sunt|はじまりから私たちは間違えていました。生きているのは苦しいです。>.
　　　　　　　　　<Nemo adiuvat.|誰か、私を救ってください。>”
　合わせ鏡に、曲がり<角|かど>向こうの敵が<映|うつ>る。
「……悠長に話してる場合じゃないわね。とにかく今は距離を―――
っ、！？」
　青子の鮮麗な青色とは違う、怨恨を思わせる赤い光。
“ガンド撃ち……！”
　伸びる腕より速い、一瞬の閃光。
　が、はっきりと敵の姿を視認した時点で、沈みかけていた青子の感情も一瞬で再熱していた。
「っ、さっきから邪魔なのよ……っ！」
　行き場のない、ありったけの怒りをぶつけて彼女の右腕が突き出される。
　展開された霧は魔術によるものではなく、魔力をぶちまけただけの障壁だ。
　飛来する一本の矢の威力をそぐために、バケツ三杯分のガソリンを燃やして壁を作るようなものである。
　これが人形の腕であったのなら魔力の壁はたやすく突破されただろうが、実像のない“呪い”だからこそ、魔力の壁に弾かれる。
　膨大な魔力の無駄遣いだが、今の青子にはそれしか<防|ふせ>ぐ手段がない。
「……う」
　が、それで守りきれるのは青子だけだった。
　口を押さえる草十郎。
　青子には影響を及ぼさないほど小さくなった呪いでも、魔術師ではない草十郎には十分な効果がある。
　それが理解できるのか、人形は青子ではなく、その背後にいる予定外の人間に視線を向けた。
「この、こいつは関係ないでしょう……！」
　カッとなってもう一度腕を振るう。
　わずか数秒、青い燐光は<呪い|ガンド>を防ぐ障壁となる。
　その隙。
　壁を張ったばかりの青子の顔を指さすように、人形の右腕が突き出され―――
「関係あるみたいだから、逃げるぞ」
　死のロケット弾が放たれる前に、草十郎はひょいっと青子を抱き抱えた。
「へ！？」
　どこにそんな力が残っていたのか、草十郎は人形に背を向けて走り出した。
　軽快なスプリンターか、岩肌を跳ぶ鹿のようだ。
　草十郎は曲がり角を二つ越え、
　なにか文句を言いたそうな青子を無視して、
　もうじき二階の中心、というところで足を止めて、青子から手を離した。
「……よし。ここまでくれば少しは休めるな」
　ふう、と肩で息をする草十郎。
　いくら軽いとは言え、人間ひとり抱えて走ったので息があがっている。
　その顔を、青子は理解不能とばかりに見あげている。
「……こんな体力あったのに、なんで……？」
　道理に合わない。
　自分を抱えて走れるだけの体力があったのなら、床に倒れたあの時、まだ立ち上がって逃げられたはずなのにと。
「ああ、あの時は諦めてたから」
　取り<繕|つくろ>いのない、さっぱりとした言葉。
　一刻、一命を争う状況だ。普段のぼんやりした雰囲気は、さすがに薄くなっている。
「……諦めてたって、どうして？」
「さあ。忘れた、そんな事は」
　言いたくない、と顔を背けるものの、律儀に草十郎は答える。
　その横顔は、青子にはなんだか痛かった。
「それより蒼崎、とうとつに気分が悪いんだが……。
　あの赤い光も、その……？」
「……ええ、魔術の類よ。ガンド撃ちって言ってね。北欧の呪詛の一つ。魔術回路のある私には効かないけど、抵抗のない貴方には効果てきめんみたいね」
「―――なんだ。蒼崎には効かないのか。
　じゃあ、危ないのはあの腕だけだな」
「………………」
　なぜかホッとする草十郎に、青子は奥歯を噛んで、突発的な<感|こ><情|え>を抑えこんだ。
　……こんなところで怒鳴っても仕方がないし。
　なにより、どうしていま自分が最高にイラっときたかなんて、言語化したらそれこそ何もかもどうでもよくなってしまいそうだ。
「―――そうね。注意するのは伸ばしてくる腕だけ。大した相手じゃないわ、やっぱり」
　嘘偽りのない感想だった。
　普段の蒼崎青子なら問題のない相手。
　ただ、目も当てられない油断から魔術回路に介入されて、自分がさらに大した相手じゃなくなっただけの話。
　今の青子には攻撃手段がない。
　こうなると相手の魔力切れを待つしかないのだが、相手は呪いの永久機関。
　この追いかけっこは、どちらかが息絶えるまで終わらない。
　……まるでさっきの自分たちのようだと青子は自嘲する。
　右腕をちらりと見る。
　魔力残量はまだ半分以上もあるのに、このていたらくとは。
　面白がって草十郎を追いかけ回した<罰|ツケ>が、こんな形で回ってきた。
“……呆れた。居るところには居るものね、神さまって”
　ひとり<愚|ぐ><痴|ち>って、青子は意識を切り替える。
　弾こそ撃てないがまだ燃料のある自分。
　尽きない動力で永久に追いかけてくる殺人機巧。
　なら、取るべき未来は明白すぎる。
　あとはいつもの自分に戻るだけだ。
「……蒼崎？」
「ごめん、考え事してた。
えっと、たしか……よし、あってる。静希君、そこに横道あるの、分かる？」
「は？」
　青子が指さした先はどう見ても通路の壁で、横道なんて見あたらない。
　そもそもこのフロアは左に曲がるだけの造りで、青子が示しているのは右側に抜ける道だ。
「二階は中心までいくと一階に下りる階段があるんだけど、それは私が壊したから使えないの。
　けどここの造りも意地が悪くてね。よく見れば右に曲がる通路もあるのよ。上級者だけに分かる抜け道ってヤツ。
　あとは注意して探せば、一階の階段までショートカットできる。悪いけどひとりで行って」
　青子は草十郎に背を向けて歩きだした。
　逃げ道である右に抜ける通路とは逆の、人形が追いかけてくる長い通路へと。
「あいつは無差別だから、ここで壊さないといけない。魔術師は魔術師同士で争うのはいいんだけど、みだりに一般人に手をだしちゃいけないって決まりがあるの。
　あいつの目的は私のワケだし、結果がどうあれスッキリするでしょ？」
　青子が勝てば人形は壊れる。
　青子が負けても目的完了という事で人形は停止する。
　どうあれ、ここで別れれば草十郎は無関係のまま生還できる。
　そういう事を青子は言っていた。
　事務的に、あくまで他人事のように。
「運が良ければ入り口までたどり着けるわ。
　それじゃ、また明日ね」
　強がりであるのは草十郎ですら感じ取れた。
　けれど止める間も、その必要もなく、彼女は曲がり角に消えていった。
「―――さて」
　本格的にまずい事になったな、と青子は心中で呟いた。
　今回の<人|て><形|き>は二日前の公園で倒したものとは<品|か><質|く>が違う。
　自動詠唱による永久機関だけでも稀少品なのに、腕を伸ばすという荒事にも耐え、両目は<呪詛|ガンド>を投影する水晶製ときた。
　日本円に換算すれば九桁に届きかねない超一級品である。
　ただし。それはあくまでアンティークとしての話。
　戦闘に<用|もち>いるのなら、もっと安価で、かつ戦いに適した使い魔を動員すべきだろうに。
　あれだけの高級品を殺人に用いるあたり、あの人形の持ち主は今までの“敵”とは一線を画した変態に違いない。
“<Vivo|ウィウォ> <in|イン> <somno|スォムノ>. <Solitarie|スォリタリエ> <putresco|プトゥレスコ> <in|イン> <inferis|インフェリス>.
@o<Hic|ヒク> <dies|ディエス> <meus|メウス> <obitus|オビトゥス> <dies|ディエス>, <et|エトゥ> <meus|メウス> <nativus|ナティウゥス> <dies|ディエス>. <Te|テ> <obeam|オベアム>.”
「―――来たわね」
　がさついたオルゴール。
　自らを呪う事で動力を得る<自動人形|オートマタ>が近づいてくる。
　通路の長さは約十メートル。青子は一つ奥の曲がり角で、人形が現れるのを待ちかまえる。
　……ここで決着をつけるのは静希草十郎を逃がす為ではない。断じてない。
　青子は的確に、今の自分ではあの人形からは逃げきれないと判断しただけだ。
　仮に逃走を選んだ場合、幾つかの幸運が働いてミラーハウスから出られたとしてもそこまで。
　障害物のない外に出ればあっさりと追いつかれ、背中から串刺しにされる。
　魔術が封じられている以上、追っ手から逃げきるのは不可能だ。
　なので、ここで撃退する選択をとる。
　状況は不利だが、それはあちらも同じこと。
　この細い通路では青子に逃げ場はないが、反面、あの人形も全速を出せずにいる。
　機械仕掛けの欠点だ。
　<小刻|こきざ>みな加速と減速は、あの時代のオートマタにとっても苦手とする機能だろう。
「―――<接続|セット>」
　断線だらけの魔術回路に魔力を流す。
　……血液の流れ、魔力の供給がまったく安定しない。
　これでは魔術式を組むのは難しい。
　魔力で右手を加工し、大雑把に硬度を上げる事しかできない。
青子の武器はトンカチ以上、バット未満の<細腕|ほそうで><鈍器|どんき>だ。近づく事が前提の時点で、この上なく頼りない。
　となると、あとは戦法だ。
　今はどんな武器を用意するかではなく、この武器でどう戦うかを選ばなくては。
　簡単に考えつくのは鏡の反射を利用して姿を隠し、死角から襲いかかる―――しかし、それは通じまい。
　なぜなら、あの人形にはもともと視覚がない。
　人形は視覚情報からではなく、周囲の地形状況から世界を視ている。
　暗闇に棲息するコウモリと同じ理屈だ。高音の波を発し、その反響によって周囲の地形を<測|はか>る反響定位法。
　あの詠唱は<音波|センサー>の役割も果たしている。人形にとって壁は透明の板にすぎず、物陰からの奇襲なぞお笑い草だろう。
“……近づけば近づくほど、より<明確|リアル>に察知される……ホントは遠距離からの狙撃が最適なんだけど……ガンドを撃ってくるなら、フィンの一撃ぐらい隠してるわよね……”
　ガンド撃ちは北欧に伝わる、単純にして汎用性の高い呪詛だ。最適化されたものは“指をさす”だけで相手の体調を悪化させる。
　<一工程|シングルアクション>の魔術なので効果はあくまで“<病|やまい>”に限定されるが、ガンド撃ちには最奥と言われる秘術がある。
　<曰|いわ>く“フィンの一撃”。
　病ではなく、受けた相手の心臓を停止させる死の呪い。
「…………っ」
　背中に受けた傷が神経を<昂|たか>ぶらせる。
　武器を失った小娘と、即死の奥の手を持つ自動人形。
　誰がどう見ても殺されるのは自分の方。
　彼女は、現状の蒼<崎青|じぶん>子に生き延びる手段は<乏|とぼ>しいと考え、
　そして―――
　その幻視に、ぞくりとした。
「――――――」
　青子は静かに、<努|つと>めて全霊で、いつもの錯覚を堪え忍ぶ。
　カチカチと鳴りそうな奥歯をきっと噛みしめる。
　ああ、でも、首筋にナニモノかの指が<這|は>っていく感触がある。背後にいる<幽霊|さっかく>が彼女を見て笑っている。
　それだけで逃げだす一歩手前なのに、五秒後の<脳内予測|シミュレート>では、十戦して二回も倒れる自分の姿。
　……二回。彼女の予測は時に現実よりも現実的だ。
　……十回やって、二回。イメージに留まらない、あまりに<真実|リアル>な自分の亡骸たちを幻視する。
「――――――、っ」
　人形の呪いを受けて倒れている自分。
　眼球は<河|フ><豚|グ>のようにこぼれかけ、<耳鼻口|みみはなくち>からだらしなく垂れる血小便。
二回、二回、二回。
一回だけでも耐えられないのに、二回も死ぬなんて、とても正気じゃいられない……！
「―――、―――でも」
　ねじ曲がろうとする心を<抑|おさ>える。
　青子は深呼吸をして、それがどうした、と鏡に映る自分を見つめ返した。
　―――半年前の、あの白い夜を思い出せ。
　この程度、ピンチでもなんでもない。
　半年前の久遠寺の洋館。
　深い霧に現れた<白薔薇|しろばら>の<猟犬|ワンダースナッチ>に、自分は十回中<百|・><回|・>は殺されたのではなかったか。
“<Me|メア>a <ani|アニマ>ma <immorta|イムモルタリス>lis. <Aute|アウテム>m <me|メア>a <futu|フトゥラ>ra <nec|ネカタ>ata <sunt|スントゥ>.
　<Man|マネス>es <su|スム>m. <Anim|アニマム>am <defin|デフィニレ>ire <ambigu|アンビグウム>um <est.|エストゥ>”
　青子の錯覚は、その<昏|くら>い呪詛によってかき消えた。
　距離にして約十メートル。
　対面の曲がり角に少女の人形が現れる。
　お互い、<輪郭|りんかく>もはっきりしない影の間合い。
　人形には前口上も初動もない。
　気配の起こりもなく撃ち出される<呪詛|ガンド>を、
　青子は予測通り、魔力の霧で<削|けず>り<防|ふせ>ぐ。
　わずか数秒の濃霧。
　その隙をついて、
“―――来い！”
　伸縮する槍が、青子の顔へ撃ちだされる！
「っ、ビンゴ―――！」
　横顔をかすめる凶器。
　死角からの攻撃を紙一重で<躱|かわ>せたのは、人形の攻撃パターンを既に経験していたからだ。
　術者が操っているのならともかく、自律している自動人形の機能は限られている。
　この距離ならこの攻撃、といったテンプレートを行うだけの殺戮機巧なら対応できると、青子は己の運に賭けたのだ。
“いける、このまま―――！”
　伸びきった腕が巻き戻る前に、人形へ突撃する。
　勝算の薄い賭けではあったが、ともかく<勝機|しょうき>はもぎ取った。
　勝利の天秤は青子に<傾|かたむ>いた。
　予測による十回中二回の死は、あの間合いでフィンの一撃を使われた場合と。
　このように。
　人形の攻撃パターンが、彼女の予想を大きく上まわった場合である。
　一瞬の質量移動。
あるいは<積載|せきさい>。
　青子が人形の腕という槍を<躱|かわ>した直後、
　正体不明の重量が、彼女の腹部に激突していた。
「ご、ぶっ……！」
　ロケットで撃ち出されたとしか思えない、肩口からの正面衝突。
　しかし、その推進力は何処から出たものなのか。
　自らを飛ばす機能なぞ、あの人形は持ち合わせていないというのに……！
“は―――、は―――！”
　激痛で<薄|うす>れかける意識を<留|とど>めながら、青子は即座に攻撃の正体を看破した。
“今の、<推進力|すいしんりょく>じゃなくて、<牽引力|けんいんりょく>……！”
　そう。人形の腕は本体に戻るのではなく、壁に突き刺さったまま、本体を<引|・><き|・><寄|・><せ|・><た|・>のだ……！
“そ、そんなのアリか―――！？”
　青子は驚きを飲み下しながら、必死に体勢を立て直す。
　腹部、<横隔膜|おうかくまく>を強打された。
衝撃で目も<眩|くら>んでいる。
だが人形は驚くほど軽い。
おかげで骨にも内臓にも深刻なダメージはないが、とにかく呼吸ができない。
気は動転しているけど根っこの部分ではまだ冷静だ、あと二秒もあれば持ち直す。いや違う、マトモになるまであと二秒もかかってしまう！
　いやいや落ち着け、もう落ち着いている、クラクラして位置関係が把握できないだけ、いい、今は呼吸も視力も後回しで、とにかく体を―――
“<知性は不必要でした|インテルレクトゥス・ノン・ネケススァリウス・エストゥ>。<敬虔さは重荷でした|ピウス・クウィエスカトゥ>。<ああ、私たち|オ・ノストゥラ><の本質は奪い合いで|エススェンティア・アブラタ・フイトゥ>、<理性は全て後付けでした|ラティオ・フィクサァ・タントゥム・エストゥ>。<苦しみのも|ドロリス・イニティウム><とは、脳髄でした|ケレブルム・フイトゥ>”
　頭上には<歪|ゆが>みをあげる駆動音。
“足、動け……！　でもどっち、どっちにいけば―――”
　死の手触りがする。
“<我々に救罪を|イィス・サルヴェティオ>。<我々に救罪を|イィス・サルヴェティオ>。<我々に救罪を|イィス・サルヴェティオ>。”
　手を伸ばせば届く距離、
　手を下ろされば殺される距離にお互いがいて、
“―――コイツの、右腕の死角に入れる……！”
　青子は<勘|カン>だけで人形の右側に転がりでた。
　人形の右腕は壁に刺さったままだ。
　必然、そちらからの攻撃はない。判断は正しく、一時的な<目眩|めまい>も消えた。
　“<Intellectus non necessarius est. Pius quiescat|正しさは脱ぎ捨てなさい。敬虔はお休みなさい。>.
　　　　　　<O nostra essentia ablata fuit|私たちは食み合う獣、その生はすべて装飾。>,
<　ratio fixa tantum est. Doloris initium cerebrum fuit|であれ知性のすべてをブチまけて―――>”
　転がる体を立て直し、今度はこちらの番と顔を上げる青子。
“え―――？”
　瞬間。
鏡の迷路の中で、彼女は、自分と同じ<像|すがた>を見た。
　　　　　　　
“「ワレ<ラ、死セリ|Iis salvatio>―――」”
　ひときわ鮮烈な光。
　壁に刻まれていく爪痕じみた裂傷。
　人形の切札だろう一撃を、青子は体内を走る<血液|まりょく>の濃度をあげる原始的な対魔術で、かろうじて致死手前で踏みとどまった。
「っ、こ、の…………！」
　自分そっくりの人形。
　心臓を止めるだけではあきたらず、物質さえ<損傷|しめつ>させる強力な呪詛。
　どちらも目を見張る異常さだが、<呆|ほう>けている暇はない。
　今度こそ反撃のチャンス。
　右腕を壁に突き刺したままの人形はバランスが悪い。
　その無防備な体を蹴り上げようとして、しかし、青子は膝から床に倒れこんだ。
　　 “<Vivo in somno. Solitarie putresco in inferis|私は眠りの中で生きている。ひとりきりで土の中で腐っていく。>.
@o<Hic dies meus obitus dies, et meus nativus dies. Te obeam.|今日は私の命日であり、誕生日だ。さあ、貴方に会いに行こう。>”
　急激な吐き気と貧血。
　嘘のように低下していく体温。
“しまっ……こいつ、呪いをばらまいてるんだった……！”
　気付いた時には遅かった。
　人形の周囲には呪詛が渦巻いている。
　人形の動力源である呪いの詩は、近寄る者に病をもたらす防衛機巧にもなっている。
　それをこんな間近で受け続けた。
　魔術回路を持つ青子といえど、草十郎のように体調を崩してしまう。
　<気怠|けだる>く、倒れこみそうな体に鞭を打って、青子は人形から跳び退いた。
「っ、負けるかぁ……！」
　気合いで呪詛の気怠さから逃れる。
「――――――、ぁ」
　だが。呪いによる貧血ではなく、自らの窮地にざあ、と青子の血圧が低下する。
　絶好の位置関係。
　跳び退いた青子の前には、左腕を矢のように差し出す、自分と同じ顔をした自動人形。
　……凶器は寸分違わず、青子の心臓へと撃ちだされた。
　ただ、そのちょっと前。
「危ない」
　なんて、まったく危機感のない声がしたかと思うと、青子の体はぐいっと横に引っ張られていた。
　伸びる腕はまたも<虚空|こくう>を<掠|かす>めていく。
　人形は急いで腕を巻き戻すが、彼はその隙にと青子の手を取って、一目散に走りだしていた。
　デタラメに通路を走り、人形から十分離れたところで、草十郎は足を止めてきりだした。
「その、考えてみると」
　助けたはずの相手はこの通り、目に見えてご立腹だ。
それでも彼は彼なりに考え抜いた、気の利いた<台詞|いいわけ>を口にする。
「明日は、どうも忙しいみたいなんだ」
“だから、用件は今日中に済ませてしまわないか？”
　なんて続きそうな、場違いな提案を。
「――――――」
　青子は黙っている。
　ついでにかなり怒ってもいた。
　この男の精神構造が理解できないから、ではない。
　せっかく逃がしてやったのに戻ってきた事でもない。
　相変わらずの<間|ま><抜|ぬ>けな台詞に苛ついたからでもない。
　……なんというか、あの一瞬。
　手を引かれた時、何も考えられなくなって<為|な>すがままになった事が、青子的に許せないらしい。
　なので、
「貴方、正気？」
　勢いで、つい、そんな言葉を口にしていた。
「それとも自殺願望でもあったワケ？　私も<人形|アイツ>も、アンタなんか殺す対象にすぎないのよ。
　少なくとも恩を売る相手じゃない。
　言っとくけど、私、助けられたぐらいで曲がる信念は持ち合わせていないから」
　だろうね、と頷く草十郎。
「蒼崎がそんな可愛らしいもんじゃないのは、この夜だけで骨身にしみてるよ」
「――――――」
　それはそれでちょっと不満な青子だった。
「けど君は勘違いをしてるから、少し正そう。
　あいつの狙いは蒼崎だけじゃない。君だけじゃなく、俺も殺す気だと思う」
　それは嘘だ、と。
　視線をいっそう鋭くして、青子は草十郎を睨んだ。
「話は最後まで聞く。……どうしてかって言うと、一階の入り口あるだろ？　あの細長い通路。
　なんでかあそこから先に進めないんだ。逃げたくても逃げだせなくて、仕方なく戻ってきた」
　青子はわずかに目を見張った。
　あり得ない、と驚いたのではなく、そこまでしていたか、という敵への称賛だ。
「それに、さっきので完全に敵扱いされた。あの人形、こっちをじろっと<睨|にら>んできたし。
　……いや、一瞬でよく見えなかったけど、生きた心地しなかったな。蒼崎も気をつけた方がいい。たぶん、よっぽど怖い顔をしているに違いないぞ、<彼|ア><女|レ>」
「―――それはご親切に、どうも」
「うん。なんで、これはもう他人事じゃないんだ。
　蒼崎と人形。結論として、どっちが勝っても俺は殺されてしまうんじゃないか？」
「……そうね。そこまでやってるなら、目撃者は消すでしょうね。私みたいに」
「だろう。でも、俺はあいつには殺されたくない」
「え？」
　きっぱりと彼は断言した。
　まるで励ますような草十郎の言葉に、顔を上げる青子。
　……そうして、ようやく気づいた。
　草十郎の顔色の悪さが、さっきより濃くなっている事に。
「ちょっと待って。大丈夫なの、貴方？」
「……まあ、醤油を<一升瓶|いっしょうびん>飲むよりは、ましではないかと」
　彼なりに場を<和|なご>ませようとした軽口だが、額に脂汗を浮かべられては余計に重い。
“……そうか、さっき人形に近付いたから……”
　青子ですら吐き気に襲われる呪いの圏内に入って、草十郎が平気である筈がない。
　……自分の洞察力の低さに唇を噛む。
　あんまりに彼がぼんやりしているから、そこに考えがいたらなかった。
「……下で隠れていようとか思わなかったの？
　その方がどう考えても安全でしょ？」
　ほんとうに分からない、と青子。
「それは蒼崎が言う台詞じゃないな。
　―――でもまあ、長話をしている時間もない。そろそろ追いついて来る頃だ」
　通路に視線を向ける草十郎。
　……鏡張りの闇からは、ざらついたオルゴールが聞こえだしていた。
「さっき一階にいて考えたんだ。君がやられても俺は殺される。なら、まずヤツをどうにかするべきだ」
「…………………。
　貴方、なにが言いたいの？」
　分かりきった事を、青子はあえて問いただした。
　草十郎の決意の程を試すように。
　その先を半端な気持ちで口にするのなら、やっぱり今ここで始末する、と見据えながら。
「提案。アイツをやっつけるのに協力したら、俺の事は見逃してくれる？」
「……助けられたぐらいじゃ信念は曲げないって言ったでしょう。
それに、貴方に何が出来るって言うの？」
「それは蒼崎が考えてくれ。得意だろ、そういうの」
　協力者を適材適所にふりわけるのは指揮者の役割だ。
　そもそもこの状況をまったく把握できず、また、自身と敵の差を理解できない人間に“何が出来るか”なんてコトを考えさせるのは間違っている、と草十郎は胸を張った。
「――――――」
　彼の言う通り、草十郎を知り、自動人形を知っているのは蒼崎青子だけ。
　なので、青子の指示を全力でこなす事が“いまの自分に出来る事”だと彼は言った。
　思考放棄に近いが、それでも、草十郎の提案は自分が無力である事を受け入れた末の、最大限の信頼に他ならない。
「……。じゃあ、私の指示に百パーセント従うってこと？」
「ああ。それに、これは恩とか義理の話じゃない。
　ひとりだと分が悪いからふたりでかかるだけだ。善意でも厚意でもない。取引って言わないか、こういうの？」
　信条的な物々交換だ、純朴な<瞳|め>が語っている。
「――――――まったく」
　……この少年にそんな知恵をつけたのは鳶丸の阿呆に違いない。
　決して口にはこぼさないが、青子は少しだけ笑いたくなった。
完全に一本とられたけど、なんというか、悔しくない敗北なんてものが、世の中にはあるらしい。
「労働と報酬ってワケね。それなら理にかなってる。
　うん、言いたくないけど―――」
　少し間をおいて、やれやれ、と肩で息をする。
　青子はふっきれたような、見ようによっては邪悪な笑みをうかべて、
「―――それ、けっこう私の好みよ」
　彼が向けたのと同程度の信頼を、まっすぐに投げ返した。
　それは、彼らにとって<郷愁|きょうしゅう>に似た旋律だった。
　かつてこの世界にありふれていたもの。
　物言わぬ彼らのすべてが、永遠に続くと信じて疑わなかったもの。
　始まりに一度、終わりに一度。
　夢の開園と、現実への帰還を告げる、陽気で、どこか寂しくなる不思議な<音楽|サイレン>。
　夜が<響|ひび>く。
　唄を<紡|つむ>ぐ。
　今は失われた彼らの楽園を掘り返す。
　うち捨てられた多くの<夢路|ゆめじ>が、
　見放されたかつての偶像が、
　青猫の鳴き声に呼応する。
　―――その鐘の名は“<夜の饗宴|ディドルディドル>”
　あらゆる寓話、
　あらゆる不思議を許容する、
　魔法以上に魔法に近い、久遠寺有珠の魔術である。
「……随分と身勝手ね。
　それは貴女ひとりで決めていい事だったかしら、青子？」
　少女は黒い<凶鳥|まがどり>のように時計台の上に降り立った。
　細い指は静かに、羽をつくろうように、<衣服|スカート>の乱れを直す。
「―――有珠」
　見上げる青子の声には<微|かす>かな緊張。
　……先ほどまでの穏やかな空気は、有珠の視線だけで霧散していた。
“あの娘、たしか……”
　草十郎は曖昧な記憶を辿る。
　遠くて顔ははっきりしないが、何度か町で見かけたかもしれない。
　それが何処だったかを思い出そうとするのだが、妙な緊張感が邪魔をして、どうにもはっきりしなかった。
「―――驚いた。ずいぶんと仲間思いになったのね有珠。
　今夜は私に任せるんじゃなかったっけ？」
　青子はわずかに身構え、半歩だけ前に出た。
　無意識に。
　第三者的に見れば、<傍|かたわ>らの人影をかばうように。
「――――――」
　有珠の沈黙はますます重くなっていく。
　地上を<睥睨|へいげい>する瞳は感情に<乏|とぼ>しい。
　でありながら、言いようのない不安と重圧でこの広場を支配しつつある。
“……鐘……？”
　耳を澄ますと、どこからか鐘の音が響いていた。
　寄せ返すさざ波のような<鐘|おと>は、信じがたい事に地面の下から聴こえてくる。
「なあ蒼崎、あの<娘|こ>」
「黙ってて」
「――――――」
　むう、と邪魔にならないよう引っこむ草十郎。
　知り合い？　という質問に、
　死にたい？　と返された感じ。
「……そうね。仲間思い、に当てはまるかは微妙だけど、良くない予感がしたから様子を見に来ただけ。
　別に、貴女の仕事を疑ったワケじゃないわ。」
「それはどうも。どうせならもう少し早く、その良くない予感とやらに気づいてほしかったけど。
　―――でもま、ごらんの通り自己解決したわ。
　夜も遅いし、さっさと帰っていいわよ有珠。私の仕事っぷりを疑うワケじゃないんでしょう？」
　両者の視線が交差する。
　有珠はやや不快げに、冷たさをこめて。
　青子は堂々と、文句があるなら言いやがれと挑発するように。
「……いえ、気が変わったわ。
　せっかくだし<二|・><人|・><で|・><帰|・><り|・><ま|・><し|・><ょ|・><う|・>。その方が貴女らしいわ。帰りしな、人形の話でも聞かせてちょうだい」
「は。らしいってなによ、らしいって。
　いいから帰れ帰れ、ぐうたら有珠。部屋に閉じこもって役に立たない<椋鳥|むくどり>でも作ってろっての」
「…………」
　可憐な唇が<落胆|らくたん>の息をこぼす。
　黒衣の少女は怒るというより呆れたように、
「……青子。口にしたくないけど、本気？」
　静かに。
　二年近くともに暮らした同居人を問いただした。
「――――――」
「……呆れた。二人で秘密を守ると言ったのに？
　まだ半端にそっち側なの？　それとも情でも移った？」
「別に。情っていうより私の気分よ。
　だいたい、方針なんてその場その場で変わるもんでしょ。気分なら尚更よ。
そっちこそ、一度した約束は絶対守
　るぅー、なんて、時代遅れなんじゃない？」
　睨みあうふたり。
　歩み寄る気なんて微塵もなし。
　悲しい事だが、彼女たちの在り方はあくまで協力関係であって、相互理解の域には達していない。
　なので、友情のカタチは微妙かつ特殊だった。互いの意見が衝突したら、どちらかが砕けるまで先には進まない。
　<青子|それ>は<青子|それ>、<有珠|これ>は<有珠|これ>、と綺麗さっぱり切り捨てられるのが、今のところ、彼女たちが良しとする友情である。
「……そうね。今の暴言は貴女らしいとは思うけど」
　少女はもう一度、今度はさっきより大きなため息をついて、
「言い争いは後にしましょう。
　そこの彼を<い|・><な|・><か|・><っ|・><た|・><事|・>にするのは、私だけで十分だし」
　つい、と。
　チェスの駒をさすような仕草で、細い指を動かした。
“うん？”
　それは、蒼崎青子に命を狙われ、まがりなりにも自動人形を目撃した草十郎をして、目を見張る“不思議”だった。
　……青子の暴挙、動く人形。
　それらは常識外とは言え、<現|そ><実|こ>にあるものから派生した出来事だ。彼にとっては驚きこそすれ、不思議に思う事はない。
　しかし。
　何もない空間、何の関連もない動作から突如あらわれたソレは、彼にとっては不思議以外の何物でもなかった。
　草十郎は手品に見惚れるよう、指一本動かせず少女の魔術に襲われる。
　それを横から<弾|はじ>こう……として、<勢|いきお>い、<跡形|あとかた>もなく粉砕する青い光。
「あ、やば」
　青子は脊髄反射で手をだしてしまい、しまった、と反省する。
「…………どういう事？　<言葉|やくそく>を曲げただけじゃなく、ルールまで破るつもり？」
　……ただでさえ冷えきっていた真冬の空気が、もう氷結レベルまで落ちこんでいく。
　有珠はクールそうに見えて、その実、青子以上に激情家なところがあった。
　その最たるものが、使い魔への扱いである。
　悪意のないミスで壊してしまった場合は一週間程度の無言の抗議で済むが、
　悪意をもって破壊したのなら、もうどんな言い訳があろうと報復するのが彼女の性格だった。
“あっちゃあ……いつかやるとは思ったけど、ついに<逆鱗|げきりん>に触れちゃったか……”
　あーあ、と。自分の馬鹿さ加減に呆れながらも、青子は<清々|すがすが>しさを感じていた。
　言い訳をする気はないし、後悔もしていない。
　ルールを破ったというのなら、それは有珠も同じである。
「青子」
「ま、なんていうか―――」
　逆にさっぱりしたぐらいだ。
　だって、こうなった以上はもう色々仕方がない。
　青子には自分のルールを破る気なんて毛頭なく、
　反省する事があるといったら、それは力加減を間違えた事だけで、
「<私|わたし>的に、今夜コイツに死なれるのは困るのよ。
　なんで、日を改めて殺しに来てくれない有珠？　いいでしょ、たった一日ぐらい」
　とっさに容疑者Ｓをかばったのは、彼女にとって当然の正義だった。
「それは私情？」
「悪い？　一宿一飯の恩義ってわりと大事にしてるの、私」
「わたしとの協定より？」
「ええ。時と場合によっては」
　この場にいる<草十郎|さんにんめ>の人権もなんのその。
　少女たちは互いに油をかけあっていく。
　感情の切り替え―――いや、感情に火をつけるのは、黒衣の少女の方が先だった。
「―――そう。よく分かったわ青子。
　わたしは彼をここで殺す。
　貴女は彼をここだけ生かす。
　……つまり。<わ|・><た|・><し|・><と|・><戦|・><う|・>、という事でいい？」
“……ふん。そんなの、いいワケないじゃない”
　なんて弱音をぐっと堪える。
　青子は有珠の魔術を知っている。
　あの小さな体にどれほどの神秘を秘めているか、痛いほど経験している。
　勝ち目はほとんど、ぜったい<皆無|かいむ>。
　そして一度でも口火をきれば、久遠寺有珠は容赦なしだ。
　同居人であろうと友人だろうと、
　彼女の最愛の肉親であろうと、
　魔女として戦う以上、あの少女は<冷徹|れいてつ><無|む><比|ひ>な怪物となる。
　青子はもう半歩、自らを<鼓|こ><舞|ぶ>するよう前進した。
　今さら後には退けない。<事|コ><態|ト>はもう、どうでもいい<目撃者|だいさんしゃ>を<巡|めぐ>っての言い争いではない。
　彼女たちの友情らしきものは、実力差はどうあれ、精神的に対等である事が成立の条件になっている。
　だからこそ―――『自分』を通すのであれば、妥協も誤魔化しも、する訳にはいかなかった。
「もちろん。アンタを殺す事になっても、そこのバカは生かしきるわ。それに―――」
　うなりをあげて式を走らせる魔術回路。
先の人形戦では眠っていた身体が、その真価を発揮させろと燃え上がり―――
「それに。どのみち最後には殺し合う仲でしょ、私たち……！」
　闘志を<以|もっ>て、強敵への恐怖を克服する―――！
　青子の魔弾は自身の体……魔術回路を銃身にして魔力を放つ、ごく単純な魔術式だ。
　風を起こす、水を分ける、<劣化|じかん>をかける、といった自然干渉ではない。
　魔力という架空の運動を実在へと加工し、熱量として撃ちだしている。
　なので、その破壊力は青子が扱える魔力量がイコールとなる。
　草十郎相手に使用した魔弾は<一工程|シングルアクション>、詠唱を必要としない最低限の魔術だった。
　現状、青子が主武器とする魔弾には三つの工程がある。
　これはその二つめ。
　魔術刻印を<起動|リード>させ、簡略化詠唱を用いた二工程の魔弾である。
　しかし。
　それなりに気合いを込めた青子の魔弾を、少女は<瞬|またた>き一つせず霧散させた。
「――――――」
　ち、と舌打ちする青子。
　不意打ちの速攻―――詠唱を簡略した魔術行使では、久遠寺有珠の守りは破れない。
「相変わらずお<堅|かた>いこと。その<殻|カラ>、一段と独りよがりになってるんじゃない？」
　青子は内心の焦りをおくびにも出さず挑発する。
　そのやせ我慢が気に入ったのか。
「売り言葉に買い言葉、というヤツね。
　こういう、勢いだけのきっかけは初めてだけど……」
「驚いたわ。こんな下らない理由でも、その気になるものなのね、人間って」
　くすりと。
　心の底から感心するように微笑んで、少女は左手の指を地上に向けた。
　<刺|zap>す。<刺|zap>す。<刺|zap>す。<刺|zap>す。
　広場の地面、レンガを破って突き出る無数の槍。
「静希君、後ろに跳んで！」
「？」
　青子は呼びかけながら、彼が反応するより早く手を取って後ろに跳んだ。
　地面から湧き立つ器物は意志を持つように、跳び退く青子たちを追いかける。
　槍の守りは放射状に広がり、青子と草十郎を時計台から離していく。
「―――え、これで終わり？」
　後ろに下がること十メートル弱。
　地面を砕いて現れる凶器たちの成長は、青子の予想より小規模に留まった。
　少女の立つ時計台を守るソレは、<磔|はりつけ>にされた魔女を責める<薪|たきぎ>のようで―――
“……普通、逆じゃない？　ここは私たちを逃がさないよう、槍で周りを囲むものでしょう……？”
　青子と草十郎の後ろには安全な道がある。
　その気になれば二人は遊園地の入り口まで走って、そのまま町へ逃げられる。
「いいの有珠？
　悪いけど、逃げられるなら逃げるわよ、私」
　町にまで出れば青子の勝ちだ。
　今夜だけ草十郎を見逃したい青子にとって、彼を街に逃がしてしまえば目的は大部分達成―――
「？」
　―――なのだが。
　有珠は眼下の標的に目もくれず、愛しい、大切なものを扱うように<小瓶|こびん>を取り出した。
「緑の……フラスコ？
　あれってたしか―――やばっ、とにかく<撃て|ファイヤ>―――！」
　防がれる魔弾。
　青子の顔には、もう一片の余裕もない。
　……そう。
　増長していたと言えば、青子はたしかに増長していた。
　この二年、学び続けた魔術に手応えもあった。
　同居人の性格、魔術もそれなりに把握していた。
　だから―――最善の立ち回りをすれば、久遠寺有珠に一杯くわせられると思い上がったのだ。
「あ―――」
　……魔法の<瓶|びん>の<蓋|ふた>が開く。
　頬を優しい風が<撫|な>でる。
　夜の饗宴が、新たな主役の登場に尻尾を巻いて逃げ出していく。
　―――どこからか。
　懐かしい、パレードの足音がやってくる。
「う、そ―――」
　それは。
　魔術師見習いである蒼崎青子ですら、体験した事のない奇跡だった。
　死んでいたモノが蘇る。
　生きていないモノが目を覚ます。
　霧に包まれた深い森。
　沼地にひそむ火を噴くトカゲ。
　午前零時をむかえてはしゃぎだすパペットたち。
　久遠寺有珠の細い指は、年老いた猫の背中を撫でるように優しく、遊園地全体を変貌させ―――
　　「いいわ―――
ごっこ遊びをしましょう、青子」
　……ありし日の夢の廃棄場は、一夜かぎりの王国に生まれ変わる。
　それは現実を侵食する不死身の魔物。
　<一度|ひとたび>解き放たれれば、決して獲物を逃がさない暗黒童話。
「逃げられるものなら逃げてみせて。
　どこまで行けるか分からないけど―――この夜を越える事ができたのなら、貴女の勝ちにしてあげる」
　……絶望的な戦いの開幕宣言。
　親愛と悲しみ、それと無邪気な愉悦をこめて、
　黒衣の魔女は友人へと<歌|わら>いかけた。
　けれど、希望はいつだって束の間のもの。
　彼らの希望は三百メートル分しか続かなかった。
　遊園地の果ては、何の比喩もなく“世界の果て”そのものだったのだから。
　波立つ、何十という地平線。
　それは<群雲|むらくも>のような、<緞帳|どんちょう>のような、
　あるいは呻きをもらす<唇|ひだ>のような、
　あまりにも奇怪で、あまりにも童話めいた、この世界の行き止まり。
　―――さながら。
　巨大な紙芝居の最後の一枚だと、彼女は思った。
「――――――」
　その光景を前にした時、青子は不覚にも、一切の思考を放棄した。
　……ああ、たいへんな事になったな、と。
　波立つ境界線を見て、ようやく、この<絶望島|スナーク>に膝を屈した。
　遊園地に終わりはあった。
　青子たちの知っている通り、遊園地と住宅街を<隔|へだ>てる鉄柵はこうして今も。
　鉄柵は二倍ぐらい高くなっていたり、なんだか装飾が頑丈になっていたりするけど、それも想定の範囲内。
　たとえ鉄柵がスナーク化していようと、壁の一枚や二枚なら撃ち抜く<気概|つもり>で彼女はここまでやって来たのだから。
　……けれど。
　目前に広がるモノは、もはや境界ですらなかった。
　この異界と外界を分かつ海。
　鉄柵は寄せ返す<波濤|はとう>の如く。
　一枚、二枚はたやすく破れる。
　十枚、二十枚までは何とか進める。
　残った自身の魔力と、遊園地に満ちた魔力と、魔術回路と刻印を焼き切れるまで総動員すれば、ただ一度きり、<十戒|じっかい>の真似事ぐらいはやってみせると強がれる。
「―――でも、それで終わり」
　この海を割った後、青子には立ち上がる体力さえ残らない。
　……その後の運命は明白だ。
　さんざん遊園地を壊してまわった青子を、住人たちは決して許しはしないだろう。<蜜|みつ>にたかる<蟻|あり>の如く、動けなくなった少女を八つ裂きにする。
「――――――」
　<落胆|らくたん>と疲れから、微かな後悔がこぼれる。
　遊園地から外に出る。
　その選択自体が間違いだったと認めて、青子は来た道を振り返った。
　<金色|こんじき>の満月の下、鉄骨はうねり、針金細工のように集まっている。
　遊園地そのものが巨大な“怪物”になるのも時間の問題だ。
　有珠のいる広場には大量の使い魔が集っており近寄れもしない。
　傍らに立つ少年の頭上には、かわらず表面をシャッフルし続ける<囁く卵|スクラッチ・ダンプティ>。
「―――蒼崎！」
「静希君……？」
　少年の声に、止まっていた思考が動き出す。
　……けれど、それも一瞬。
　魔術師である青子は現状を把握してしまう。
　その絶望が、彼女から抗う<選択|いし>を根こそぎ奪っていた。
「<正門|ゲート>に行こう。ここはどうしようもないけど、入り口ならもうちょっとマシだろう。
　フラットスナークだっけ？　コイツにもルールがあるって言ったじゃないか。
なら、これは役割の問題だ。はじめから鉄柵は通れない壁だけど、正門なら出入り口として機能しているかも知れない」
　草十郎はパニックに<陥|おちい>っていない。
　この状況でスナークの特性を読み取れるのは凄いな、と青子は素直に感心した。
　冷めきった、覚悟を決めた心持ちで。
「……そうね。たしかに門はあると思う。
　けど、たどり着くのは難しいわ。一番弱かった焼きたてパンですら、今はもうアレだもの。
　広場や入り口にはもっと上等なのがたむろしてるだろうし、門だって、あの観覧車以上の怪物かもしれない。たしか大きなキッツィーちゃんだったでしょ、正門って」
「……蒼崎は正門には行かないのか？」
「まあね。それよりこっちの方が現実的だし」
「？」
　青子は波立つ鉄柵を<一瞥|いちべつ>する。
　既に『生きて脱出する』という目標は達成できない。
　である以上、残ったもう一つの約束を優先しようと、彼女は心を切り替えていた。
「今からこの鉄柵を壊すから、貴方はそこから外に出て。
　それで、私の役割はおしまいよ」
「――――――」
　言葉は少なかったが、淡々とした声がすべてを物語っている。
　彼女は彼に、ひとりで逃げろと言ったのだ。
「……信じられない。
　こんなの、蒼崎だけじゃ壊せないだろう」
「私だけならね。でも、今はこの遊園地が味方してる。燃料がこれだけあるんだから、私は銃身になるだけでいいんだし。一発でかいのお見舞いしてやるわ。
　……ま、それでも一回が限度だから、穴をあけたら、アンタには全力で走り抜けてもらうしかないけど」
　この鉄柵の海に道を作る。
　それは彼女の持てる力を総動員しての、一度きりの大詠唱、大射程の極限魔弾。
「――――――」
　門外漢である草十郎には、それがどれほどの負担をかけるものか想像もできない。ただ漠然と、遊園地に取り残される青子の姿が思い浮かぶ。
　……残された彼女はどうなるのか。
　あの黒衣の少女は彼女を助けるのか。
　無慈悲な話だが、それはない。
　青子が草十郎を助けるために最善を尽くした以上、あの少女も手を<緩|ゆる>めはしないだろう。
　有珠が青子を見逃すとしたら、それは青子が自分の<命|いのち>惜しさに草十郎を殺した時だけだ。
　そして、
「二十メートルぐらい離れてて。
<詠唱|じゅんび>に手間どるけど、その卵の表面がゆで上がるまでには終わらせるから」
　言うまでもなく、彼女はその道を選ばない。
「待ってくれ。
　俺を逃がすっていうけど、それに意味はあるのか、蒼崎」
「……ないけど。外に出られたところで有珠から逃げきれるとは思えないし。
けど、これぐらいは最後の意地よ。守るって言ったんだから、できるところまでやらないと」
　その芯の強さを、彼は驚きながら再認識した。
　……つまりはそういうこと。
　彼女は草十郎のためではなく、自分の誇りのために戦っている。
「……うん、そうだったな。
　けど、それなら俺だけ逃がすのはらしくないぞ」
「な、なによ。いいから離れてて」
　なんとなく、ちょっとだけ後退する青子。
　つい一時間ほど前、この顔に一本とられた事を思い出したのだ。
「蒼崎。まだ意地を張れるんなら、他の事をやろう。
　このお化けみたいな鉄柵を壊せるなら、他に壊すべきものがあるはずだ」
「ないわよ。悪いけど、私は目に見えるものしか壊せないの。最後までカタチのない希望にすがるとか、考えるのも寒気がする。
いい？　今はフラットスナークなんかより、この壁を壊してアンタを<足抜|あしぬ>けさせるのが私の現実。私に負える最大限の責任って―――」
「逃げるのか」
　背中を向けようとした青子の手が掴まれる。
　その一言が少女の心を<沸騰|ふっとう>させた。
　本当に、心臓に火を放たれたようだ。
　本心を突かれた驚きと、自分自身への不甲斐なさが、凍っていた手足を蘇らせる。
「誰が―――！　逃げるのはそっちで、逃がしてあげるのはこっちだって言うのよ！　甘く見ないで、いざとなったら遊園地ごと爆破してみせるわ！」
「そうか。なら、ここで俺を逃がすのは無駄だな。
その気迫は本命のためにとっておこう。それまでは俺も手伝うから」
「はあ!?　手伝う!?　それこそ無駄な気遣いよ！
　あったまきた、いいから逃げろバカ！　だいたい、走りづめで息もたえだえなヤツなんか使えないわよ！」
「そりゃいいかげんヘトヘトだけど。
そういう蒼崎なんか、疲れ以上に傷の方が痛んでるだろ」
　青子本人ですら忘れかけていた背中の痛み。
　自動人形に強打された彼女の背中は、今では無視できないほどの痛みを<訴|うった>えていた。
　青子は単に、鉄の自制心で背中の傷を後回しにしていただけなのだ。
「ほら。魔術とか抜きにすれば、まだ俺の方がマシじゃないか。入り口までおぶっていくコトぐらいなら、なんとか」
「できないコトは口にしないで。
　……もう、いいから行って。慣れているもの、私は。でも貴方は違う。こういうの初めてでしょ？
　だから、いいの」
　こうして協力されるのも、
　結局はそのあと少年を殺さなければいけない事も、
　全部ひっくるめて彼女は言った。
　もういいの、と。
　けれど、草十郎は手を離さなかった。
　掴んだ手の力は一段と増している。
　<表情|かお>はいつものままだけど、もしかして怒っているのかな、と青子は眉を<曇|くも>らせた。
「たしかに、こういうのは初めてだ。
　けど、山じゃ危険な目ぐらいあってる。<鹿|シカ>に襲われた事だってあるんだぞ、俺は」
「――――――」
　少女は都会の人間で、シカ、なんて単語を出されてもいまいち実感は湧かなかったけれど、少年には確かな覚悟があると感じ取れた。
　……たしかに。
　振り返れば、彼は努めて冷静だった。
　普通ならパニック状態で会話する事さえ困難だろう。
　それをここまで、なんとか冷静でいようと努力できるのは、文明から離れた山奥で暮らしていたからなのか。
「だから信じてくれ。少しでいいから」
　飾り気のない本心。
　簡潔な気持ちを口にして、草十郎は手を離した。
　……少年の言葉に嘘はない。
　それが余計、少女には信じられなかった。
　だって、草十郎にはそこまでの事をする理由がない。
　今の青子にはあらゆる未来がない。
　それを白状して逃げろと言っているのに、どうしてこの少年は、こんな自分に協力すると言うのだろう―――
「分からない。どうしてそこまでするの。
　私に付き合えば貴方は死ぬのよ。
これが最後だから、ちゃんと考えてよね。……貴方はここで逃げるべきよ」
「それは分かるよ。でも行かない」
　即答しながら、青子はその理由をこそ求めている、と草十郎は気が付いた。
　普段の彼からすればまさに<喝采|かっさい>ものの察しの良さで、
「そうすると、蒼崎が死んでしまいそうだ」
　でた言葉は、いつも通りの理由の無さ。
「だから、どうしてそこまでするのよアンタはっ！」
　苛立ちから怒鳴り付ける。
　少年は少しだけ考えこんでから、
「―――そりゃあ、君が好きだからだろ」
　あっさりと。
　なんでそんなこと訊くんだ？　なんて顔で返答した。
　……一秒か、たぶん二秒ほど。
　あまりの不意打ちに、青子の時間は止まってしまった。
　切り札を隠していたのは有珠だけではなかったようだ。
　今の一言は、フラットスナークなんかより底が深い。
　青子にとってはただただ呆れるばかりの返答。
　けれど単純で頑強な、地上でいちばん強い理由。
「―――はあ」
　自分を殺そうとしている相手に無条件で協力出来るなんて、静希草十郎はやっぱり分からない。
　ただ少しだけ、青子はこの少年の<為人|ひととなり>が掴めた気がした。
　鳶丸たちの評価は、たぶん、間違ってはいないのだ。
口惜しいことに。
「莫迦ね。私は貴方のこと、嫌いなのに」
　なんだか負け惜しみのような呟きに、少年は知ってるよ、と苦笑した。
　意地の張り合いはここで終わり。
　火を放たれた心臓が、青子の体に熱い血液を走らせる。
　だってあんな顔をされたら、ふたりそろって生還する方法しか考えられない。
「……ま、私だって逃げっぱなしは性に合わないし。
　いいわよ、最後まで粘ってみる。それに静希君が付き合ってくれるなら、何かの役には立つでしょう」
　軽口を叩きながらも、青子の眼にはまだ迷いがあった。
　当然だ。戦うも何も、青子にはスナークの正体、その糸口すら掴めていない。
　自分がもう少し器用で、もう少しだけ修練を積んでいたのなら、あるいはスナークを探る手段もあっただろうに。
「……我ながら情けない。せめて、正体を暴く手がかりでもあればいいんだけど」
　知らず、不安をこぼす。
　こんな弱音、口にしても仕方がない。
　その問題は自分が解決するしかない、と青子は自らを<鼓|こ><舞|ぶ>しようとして、
「ん？　なんだ、正体さえ分かればいいのか？」
「へ？」
　なにそれどういうイミ？　なんて顔をする青子と、
「いや、だからおかしなモノはどれかってコトだろ？」
　言ってくれれば良かったのに、なんて顔をする草十郎。
「ちょっ―――分かるの、アンタ!?」
「たぶん。いや、けっこう前から気になっていたんだけど」
　草十郎は誰かに聞かれないよう、こっそりと青子に耳打ちをする。
「――――――あ」
　意外と言えば意外、
　当然と言えば当然の“間違い”を教えられて、青子はその“答え”が正しい事を直感した。
　敵の正体。フラットスナークの本体とは、つまり―――
　密談は十分で終わった。
　スナーク本体の考察と、その撃破方法を導きだして、ふたりは互いの役割に頷きあう。
「それじゃ、ここからは別行動ね。
　でもミラーハウスの時みたいなのは勘弁してよ。この作戦の<肝|きも>は貴方なんだから。開始一分でドジったら、ホントに打つ手なしだからね」
　ミラーハウスでの囮役失敗の件をチクチクとつつく青子だが、その声は明るい。
　草十郎の発見からこっち、彼女本来の力強さが戻っている。
　一方、草十郎も彼なりに真剣だ。
　青子の注意を真面目に受けとめている。
「……ならいいけど。いい、さっきと立場は反対よ。
　失敗したら死ぬのは私じゃなくてそっち。もうフォローに回れないから、できるだけ慎重にね」
「分かってる。いまさらながら、やっぱりさっき逃がしてもらえば良かったと思うぐらい、慎重だ」
　任せてくれ、と頷く草十郎。恨み言のような台詞だが、彼なりに決意を表しているらしい。
　ちぐはぐで分かりづらい草十郎の仕草に、青子はまったく、と降参するようなため息ひとつ。
「ほんと、大バカなんだか大物なんだか。
　―――でも任せた。期待してるわ、静希君」
　信じている、と返してやりたかったが、さすがにそれは気恥ずかしかったらしい。
　青子は草十郎に背を向けて走り出す。
　まあ、こういう風にペースを崩されるのも、たまにはいいかもしれない、なんて思いながら。
　―――休憩は終わりを告げた。
　未熟な役者に新たな脚本が手渡される。
　さて、結果はどうあれ。
　長かった魔法使いの夜は、最後の幕に入ったらしい。
「―――別行動？　あの二人が？」
　駒鳥からの報告に、少女は不吉な響きを感じとった。
　彼らはそれぞれ反対方向に移動したらしい。
　遊園地の住人たちは目撃者の少年を追いかけ、あと数分で捕まえ、処理するという。
「……どういう事？　追いかけているのは本当に彼？　青子が変装しているのではなく？」
　駒鳥は羽をすくめて主人の疑いを鳴きとばす。
　自分の目に間違いはない、広場方面に向かっているのは青子で、コースター方面に逃げているのはとっぽい小僧だと。
「青子が彼を見捨てた、ですって？
　……そんな簡単な事ならいいけど。
ダンプティは彼に張り付いているの？」
　駒鳥は自信満々に頷く。
　他の鳥はともかく、夜目の利く自分ならここからでもあのカモネギっぽい坊主を見て取れる。なにしろ相手は<高|・><い|・><と|・><こ|・><ろ|・><に|・><登|・><っ|・><て|・><い|・><る|・>し。
「ダンプティはなんて？
　……最後まで<吟|うた>わせろ、こんな<褒|ほ>め殺したい<間|ま><抜|ぬ>けはまたとない、ですって？」
　スクラッチダンプティは、捕捉した対象が目を離した途端に落下し、破裂する時限爆弾だ。
　対象がきちんと監視していれば落下しない、ある意味紳士的な“<童話の怪物|プロイキッシャー>”。だが乱戦時においてこれほどの嫌がらせもないだろう。
「……そうね。視線を切らないだけではダンプティからは逃げられない。表面の詩が完成すれば扉が開く。
　彼がどこまで逃げようと、あと少しでダンプティが仕舞ってくれるわ」
　何処に行こうと、この遊園地―――いや、スナークが破壊されない以上、少年は逃げられない。
　なら気になるのは青子の方だ。
　あの少年を守ると言い切った彼女は、いま何処に向かっているのか。
「……ここにいるかぎり、青子の動向は掴めない」
　羽を広げて存在をアピールする駒鳥を無視して、少女は遊園地を見渡した。
　フラットスナークはもうじき育ちきる。
　他の安価なプロイとは根本からして違う怪物。
　少女にとって代えのきかない、貴重な三体の使い魔のうち一体。
「……そうね。任せたわスナーク。
　青子が<諦|あきら>めない以上、貴方も手は抜かないで」
　少女は動かない。
　橋の巨人、毒爪トカゲと同じ<歴|か><史|ち>を持つ、<至高|しこう>のプロイ、フラットスナーク。
　その名と能力を、ここは信頼する事にした。
「でも忘れないで。これはゲームよ。
　勝敗がついたのなら、わたしのところに帰ってきて」
“―――――――――”
　主の言葉を、<漂|ただよ>う霧は聞き流す。
　……有珠もそこだけは読み違えていた。
フラットスナークはプロイの中でも<最悪|さいあく><低俗|ていぞく>な道化の王さま。
　敗者には死を。惨たらしい悲劇を。
財布も命も取りこぼす、素晴らしい破産じゃないと愉しめない。
“―――――――――”
　<邪|よこしま>な笑みのように霧が煙る。
　そう。負かした相手をどう扱うかなんて、それこそ王さまの特権で、スナークは自分の欲望を止められない。
　なので―――
　たとえ主人の言いつけであろうと、行儀の良いフェアプレーなんて、これっぽっちも、守る気はなかったのだ。
　地上四十メートルの高み。
　遊園地の中心へ向かって延びる<骨組み|レール>の上を、慎重に慎重に、足場を確認しながら登っていく人影が一つ。
「―――、―――」
　押さえつけているのは動悸と呼吸だ。
　今はそんな、わずかな動作すら前進の邪魔になる。
　顔面蒼白でより高い位置を目指しているのは、あろう事か静希草十郎である。
　遥か地上を見下ろせば、コースター乗り場には焼きたてパンたちの群れ。
　入り口で右往左往している彼らは刻一刻と数を増やしながら、レールを登っていく草十郎へ<諸手|もろて>を挙げての応援中。
　もとい、下りてこいとブーイングをあげている。
「……助かった。アレ、高いところは苦手なんだ」
　もちろん草十郎も苦手だが、彼らに包囲されないのなら、これはこれで少しだけマシである。
　追ってきているのは浮遊する卵だけ。
　草十郎は大きく息をついた後、やや前屈みになって、天に向かって延びるコースターを登っていく。
　これで地上四十八メートル。
　ビルで言うなら十六階の高さに相当する。
「っ、―――……！」
　強風が髪をさらう。
　人間は根本的に高所を恐れる生き物だ。
　ことに、このように落下のイメージを想起させる場所では、本人にその気がなくとも膝が震える。
　死を<警戒|けいかい>する本能が、安全な地上への<回帰|かいき>を<促|うなが>している。
　それも無理からぬ事。
　ジェットコースターのレールを人力で登ろうなどと、笑い話を通り越してファンタジーの領域なのだから。
　気圧や強風による妨害。
　本能からの中止勧告、痺れる手足、筋力の衰え、とりとめなく暴走する思考。
仮に命綱をしていようと、五メートルも登れば思考は恐怖で固まってしまう。
　加えて、この苦しみは倍々ゲームだ。
　一メートル進めば、それだけ肉体と精神にかかる負担はいや増していく。
「―――よし。頂上まであと少し―――」
　そんな精神の負担はともかく、体の調子を注意深く<測|はか>りながら草十郎は前進する。
　走りづめだった足は、気を抜いたとたん、膝から崩れかねない。
青子が“草十郎の方が危ない”と念を押したのも、疲労しきった体では危険すぎるからだろう。
「……待てよ。逆を言うと、疲れてなければなんとかなると思ってたんだよな、蒼崎は」
　ふわふわ浮遊する卵を眺めながら、草十郎は思い出し笑いをする。
　こんな無茶をする事になった<顛末|てんまつ>。
　ほんの十分前、ふたりはこんな会話を交わしていた。
「じゃあ次ね。正体が分かった以上、あとはどう壊すかを話しあいましょう」
　にんまりと笑う青子に、ぞぞっと背筋が寒くなる草十郎。
　……思えば、この時から青子は草十郎に無茶をさせる気満々だったのだ。
「どう壊すかって、それなら」
　この鉄柵を外まで壊せる魔術があるのなら考えるまでもないのでは、と手を挙げる草十郎。
　彼がこれまでフラットスナークの本体について意見しなかったのは、ひとえに『分かっていてもどうしようもない』と思っていたからだ。
　が、今は条件が違う。
　青子なら文字通り、不可能に手が届く。
「そうでもないわ。私の目算だと、あと五十メートル分、ギリギリで届かない」
　だめじゃないか、と目で<訴|うった>える草十郎。
　青子は自分の長髪に手をやると、魔力をこめた指で、<一房|ひとふさ>スパッと切った。
「足りない分は努力と根性ってね。
　貴方はできるだけ高いところまで逃げて。頃合いを見て合図をだすから、そうしたらこれを空に放ってくれる？　静希君の役目はそれだけでいいから」
　そう言う青子の視線は、とても“できるだけ”なんて言ってはいなかった。
　彼女はこれみよがしに、遊園地二大アトラクションの一つ、ジェットコースターを見つめている。
「…………。つまり、蒼崎とは別行動をとって、あの怪物たちに追われながら、高いところに逃げこめと？」
「そういうコト。ほら、あのうねうね動き出してるコースターのレールとか、よくない？」
　遊園地に悪魔は二匹いる。
　草十郎ですら「よくない」と即答したくなる笑顔だった。
「……疑いたくはないんだが。
　ホントはあの子とグルで、俺を遠回しに殺そうとしてるんじゃないか？」
「あら。私に殺されるのならいいんでしょう？」
「……人の失言を悪用するのは、よくないと思う」
　とても正気じゃない、とうなだれる草十郎。
　青子の言う通りにしていたらキッツィーちゃんに食べられる前に過労死しそうだ。
「私だって鬼じゃないわ。ほら、こっち向いて。
　おまじない、かけてあげる」
「？」
　軽い接触。
　息と息、肌と肌が触れ合う距離。
「―――、あ」
　おざき、と続く声が弱い。
　それは、一方にとってはごく当たり前の魔術で、
　一方にとっては頭が真っ白になるほどの、柔らかな不意打ちだった。
　　『―――空<気のおも|かるく、よわく>り、<胸のふる|うまく、はやく>え。
　　　　　　ひ<かりは先|チクタクチクタク>立つ、<かげは遅|いそげやいそげ>れる。』
　通常の声帯では発音できない、何か特殊な重みをもった声が草十郎の鼓膜に響く。
　……もし言葉に色が見えたのなら、きっと彼女の名前通りの色だっただろう。
　疲れきっていた体が、熱くなっていた血液が、緩やかに冷やされていく。
　　『<鳥は空に|と　　ぶ>、<魚は海に|お　よ　ぐ>、<貴方は彼方に|か け ぬ け る>。
　　　疑<問も不安も鞄|チクタクチクタク>の底に、旅路<の一歩は|きてきをならせ>曙に。
　　　輝<く星はするりと降|ほしはいつでもきたのそら>ちて、今は<貴方の心の内|どこまでも、いつまでも>に。』
　実際には五秒ほど。
　不意を突かれた彼にとってはもう少しだけ長く感じられた触れ合いは、こうして何の失敗もなく、<名残|なごり>惜しくも完了した。
「よし、暗示成功！　成功したはず！　ここまで手応えがあったの初めてだし！
　有珠の小言もたまには役に立つじゃない！」
　はしゃぐ青子と、とにかく現状が掴めない草十郎。
　今のは一体なんだったのかと訊くと、
「簡単な暗示よ。一時的に恐怖心を消しておいたから、高いところに登っても平気なはず。
　あの手の作業でいちばん足を引っ張るのは動揺でしょ？
　恐怖も何も感じなければ、地上何メートルだろうと平均台とそう変わらないってワケ」
「――――――」
　なるほど、と手を打つ純朴少年。
　青子の言っている事は<眉唾|まゆつば>だが、さっきの謎の行為はそういう事か、と納得する草十郎だった。
「……はあ。やっと、着いた」
　山なりのレールの頂点。
　草十郎は地上六十メートル近い高みに到着し、遊園地を俯瞰する。
　青子の姿はすぐに発見できた。
　この地点からそう離れていない広場で、なにやら怪しげな作業を行っている。
　青子の周囲は静かなものだ。
　ブレッドマンたちは草十郎を追いかけようとして、いまだコースター入り口で試行錯誤の真っ最中。
　距離にして、もう百メートル以上も離れている。
「……汗をかくはずだ。こんなに移動したのか」
　真冬の強風で額の汗はすぐに乾くが、シャツの下は汗で濡れている。
　一キロマラソン以上の運動量プラス、冷や汗分も含まれているに違いない。
「でも良かった。あとは合図を待つだけだ」
　心底から安心する。
　この方法で、青子が<遊園地|スナーク>を破壊できるから、ではない。
　彼はそんな事より、ミラーハウスでの借りを少しでも返せる気がして嬉しいのだ。
　青子のいた広場から青い魔弾が昇る。
「合図だ……！」
　草十郎はレールの上に立ち上がり、ポケットに仕舞った巾着袋を放り投げた。
　ここが不安定な足場である事を考えない、豪快なオーバースロー。
　巾着は放物線を描きながら青子のいる方角に向かっていき、ほどなくして空に<解|と>けた。
　巾着には彼女の髪と、重しの小石が入っていた。
“高いところから風に乗せてくれれば、後はなんとかするから”
　青子はそう言ったが、草十郎なりに工夫した結果である。
　<一房|ひとふさ>の髪は、持ち主である少女を見守るように<滞空|たいくう>する。
　草十郎に託された仕事は終わった。
　いまだ浮遊する卵は気になるが、これは彼にどうにかできる物ではない。
　草十郎はホッと息をついて、事の成り行きを見届けようと身を乗り出し、
「…………むむ？」
　視界の<隅|すみ>。
　青子のいる広場に近寄りつつある、なにか、見覚えのあるものを見かけた気がした。
「<刻印|ルート>、<接続|セット>―――
　直<流数|ディレクト>紋、一層、二層―――予備に三層。
　魔力提供、大源に固定。
　……<循環|じゅんかん>良し、<射角|しゃかく>良し、<術式|じゅつしき>安定、おおまか良し」
　レンガの<路|うえ>に<紋様|もんよう>が刻まれていく。
　かつてない大詠唱による、かつてない大射程の魔術行使。
　ほのかな緊張と高揚を胸に<留|とど>めながら、新米魔術師は指を鳴らす。
「―――決めた。<魔弾|ツアー><形式|プラン>、<収束|スター><投射|マイン>」
　術式の中心に膝をつき、夜空を見上げる青子。
　御伽の国と化した遊園地だったが、もう、その片鱗すら彼女の視界には<映|うつ>らない。
　青い目に映るのは、たったひとつの触れられぬもの。
「実は、ずっと気になっていた事が」
　つい数分ほど前の話。
　そう切りだして、草十郎はある事実を口にした。
　本当に単純な食い違い。
　一時間前までの現実と、たった今の幻想と、その最小にして最大の間違い探しを。
「雲があったから、勘違いしたんだろうけど―――」
　見えているのに見えないもの。
　現実では有りえなくて、ここに有るのもおかしいもの。
　あらゆる原型が変わっていく遊園地で、堂々と、正常なカタチを見せつけていた―――
「今夜は新月なんだ、蒼崎」
「思えば、はじめっからそのカタチだったものね、アンタは」
　月までの距離は三十八万キロメートル。
　本当に<そ|・><こ|・><ま|・><で|・><同|・><じ|・>であるなら、まさしく異名に恥じない怪物だ。
　だが、そうであるのなら姿を隠す必要はない。堂々と正体を明かせばいい。
　正体を隠すのは手の届く位置にいるからこそ。
　あの怪物の擬態は、同時に、人間の手で<到|・><達|・><可|・><能|・>である事を示している……！
「こっちの最大射程は、よくて六百ってところだけど……」
　こうなったら力尽きるまで。
　この遊園地中の魔力を総動員して、魔弾の手を伸ばしてみせる。
　夜空に青い花火が上がる。
　風に舞う自分の髪を見上げて、青子は虚空をつかむように右手を伸ばした。
　魔術師にとって自身の肉体は一線級の触媒だ。
　女性の魔術師であるなら、年月を積み重ねた髪は特に貴重かつ強力な燃料になる。
　扱いはそれこそ念じるだけでいい。
　彼女は力強く、開いた指を握りこみ、
「三層展開！　全術式、連結起動―――！」
　月と自らを<繋|つな>げる、明確な挑戦状をたたきつけた。
　霧が渦巻く。
　中空に現れた青い魔術式を見て、高みの怪物がその牙を<剥|む>きだしにする。
「見抜かれた、ですって……？」
　有珠がその変化に気付いた時、青子、スナークの両者は、ともに明確な敵意を向けあっていた。
「……そう。なら青子の勝ちよ。すぐに戻りなさい。
　たしかに雨雲を消したのはヒントのあげすぎだけど、それぐらいは大目に見て―――スナーク？」
　霧の集結は止まらない。
　夜空に浮かぶ月は、<不遜|ふそん>極まる魔法使いを許しはしない。
　夜の王たる自分を<敬|うやま>わぬばかりか、あんな、あからさまに挑戦状をたたき付けられては、怒りの<収|おさ>めようがない。
「スナーク！」
　あわてて報告に来る駒鳥を手で払いながら、少女は変貌していく黄金の月を凝視する。
　制止の声は届かない。
“童話の怪物”は誰はばかることなく、その強大な力を、ちっぽけな<青子|えもの>に振り下ろそうと―――
　うなりをあげる魔弾の炉心。
　回転する体内の魔術回路。
　架空の炎に神経を焼かれながら、青子は魔力を走らせる。
　地面に刻んだ術式は青子と<連結|リンク>している。
　術式を読みこみ実行するのは今まで通りだが、出力はその比ではない。
　同じ工程でもこれほどの火力なら術者にも害が及ぶ。
　あるいは、<砲身|しんけい>が焼き崩れるほどの。
「―――、でも、いける……！」
　怖いくらいに上昇する架空の熱量。
　底なしの感覚に身震いする青子だが、そうでなくてはこの戦法を選んだ意味がない。
　青子はもう移動できない。
　草十郎からスナークの正体を聞いた時、彼女は“移動する砲台”の優位性を捨てて、設置砲台になる道を選んだ。
　そうでなければ届かない。この位置、この角度で刻印を固定しなければ、スナーク<狩り|ハント>はできないのだ。
　同時に、それは“次の手段”がない事を示している。
　口火をきればこの場所で最後まで戦うしかない。
　それでいい、と青子は大きく息を吸い込んだ。
　準備は万全。ロケットの噴射に等しい魔力の渦を、直接、あの月にまで届かせる―――！
　中空に浮かぶ第三層は臨界に達した魔力を撃ち出す銃口であり、射角を調整する<照星|しょうせい>だ。
“霧……？”
　その照準越しに月が<歪|ゆが>む。
　魔力を充電する青子をあざ笑うように、黄金の月はその正体を現していく。
　さあ―――<宙|てん>を仰げ、異能なき<無|む><辜|こ>の血統。
　あれこそは魔天の一角、
　緑色の霧、<紺碧|こんぺき>の雲にかすむ神秘の<貌|すがた>。
　魔術世界において至宝と称され、
　一つの王国より稀少と値付けられた<至高の幻想|クラウン・ファンタズム>。
“あれが―――フラットスナーク……！！！！”
　<第一|はじまり>より<別|わか>たれた、この世でもっとも大きな虚構！
“っ……まだ早い―――まだ早い、けど―――！”
　これ以上の<猶|た><予|め>は許されない、と本能が叫んでいた。
　正体を暴かれようと敵は最高級の“童話の怪物”。
　この状況でも反撃の用意はある事を、剥き出しの敵意が示している……！
“こっちはもう動けない……逃げを捨てての大詠唱、先に撃たれたらそこで終わりだ……！”　
　故に、その前に撃ち落とす。
　魔力は八分、術式は正常稼働、あとは<引|ひ>き<金|がね>を引くだけだが―――
　本当にそれでいいのか、と冷静な自分が告げる。
　始めてしまえば後戻りはできない。
　この先はコンマの戦いだ。判断ミスを悔いる瞬間さえない。０．１秒の迷いが天秤をかたむける。
　痛みへの覚悟も、失着への開き直りはできているか？
　そもそも本当におまえは、そのちっぽけな魔弾で、月を落とす事ができるのか―――？
“いい―――とりあえず、当たった後で考える！”
　月を見据える<双眸|そうぼう>に決意をこめる。
　魔弾を放った瞬間、強大なフィードバックが全身を打ちのめす事を念頭にいれて、
「―――上等！
　出し惜しみはなし、めいっぱいブン回すわ……！」
　<宙|そら>を狙う狙撃手は気勢と共に、一撃必中、超長射程の魔弾を解き放つ……！
　地上からの魔弾を抱く第三層。
　青子の分身とも言える刻印が、月を射抜けと光を放つ。
　―――だが。
　光を砕く<巨|あ><峰|お>の<天蓋|てんがい>。
　瞬間火炎温度３０００度に匹敵する<架|エ><空|ー><要|テ><素|ル>が、真っ向から無に帰していく……！
「あ、づっ―――！！！！！」
　身に余る大魔術の反動に、全身の血が沸騰する。
　停止した心臓。
　激痛と衝撃で麻痺する<脳髄|のうずい>。
　末端から<壊|え><死|し>していく神経。
　それらすべてを、魔術刻印が強引に蘇生させる。
「は、ぁつ、ぁ―――！」
“氷―――！　氷で<防|ふせ>がれた！”
　真っ白に眩む視界のなか、青子はたしかに見た。
　<口内|こうない>の血を飲みこんで頭上を<睨|にら>む。
　そこには。
巨大な氷塊を盾にしてあざ笑う、いびつで邪悪な<髑髏|どくろ>の顔が……！
“撃つのが遅すぎた、それとも早すぎた……！？
　盾を作られる前に撃てばよかった！？
　それとも、正面からじゃ無謀すぎた……！？”
「っ、どっちでもいい！
　一層、二層、再起動―――！　急いで！」
　考える余分も、迷っている余裕もない。
　遊園地<中|じゅう>の魔力が集結する。
　一方は青子に。
　もう一方は君臨する月の顔に。
　今の氷は未完成だ、と青子は直感した。こちらがそうであったように、フラットスナークもまだ<極限|じょうげん>に達していない。
　そう、だからこそ―――
“まずい―――まずい、まずい、まずい！”
　術式の加速は青子自身を傷つける。
　繋がっている以上、術式に負荷をかけるほど<軋|きし>みは青子の体にのしかかる。それでも今は耐えるしかない。
　なぜなら―――
“―――あの氷、<私|・><の|・><マ|・><ッ|・><ク|・><ス|・><よ|・><り|・><も|・><っ|・><と|・><上|・><だ|・>！”
　今の一撃で互いの戦力が分かってしまった。
　魔力量こそ同じでも、<神秘|カタチ>を成す術式の強度が違う。
　青子が限界まで魔力を充電しても、ようやく<今|・><の|・><氷|・><塊|・>を打ち抜ける程度なのだ。
　<即|すなわ>ち、スナークが限界まで魔力を集めた場合、何をやっても圧し負ける……！
「なら、その前に―――！」
　次弾を装填する。
　空中の第三層に命令を届かせる。
　体への負担を無視して一層の術式を加速させる。
　右手の一層は周囲の魔力を吸収、蓄電する役割だ。
　遊園地を覆う濃霧。フラットスナーク自身がはき出した太古の<魔力|エーテル>が、術式に注ぎ込まれる。
　当然、術式と一体化している青子の身体は、許容量をはるかに超えた魔力に悲鳴をあげる。
　いや、歓喜にうち<震|ふる>える。
　魔術師にとって、魔力とは神秘に至る為の推進剤。
　体内時間の膨張。
　自我の融解。
　肉体からの解放。
　言ってしまえば臨死体験。
　そのギリギリの境界で、青子は現実を直視する。
“――――――”
　……その現実が、激痛に耐える意志を、折りにくる。
　誰であろうと差は歴然。
　蒼崎青子という砲身では、
　あの氷塊を<削|けず>る事さえできはしまい―――
“っ、<痛|そ><み|れ>が―――”
　術式をなお加速させる。
　髑髏が笑う。
氷塊は盾ではない。
アレは身を<弁|わきま>えない魔術師を押しつぶすもの。
遊園地全体を<陥没|かんぼつ>させる<氷塊|いちげき>で、青子だけでなく、コースターの上にいる彼さえも踏み砕こうと笑っている。
“どうした―――！！！！”
　臨界寸前の魔術回路。
指先はおろか眼球まで焼く電荷。
　それでも魔弾の引き金を<絞|しぼ>る。
　神経の伝達速度で魔術式を<強化|アレンジ>する。
　一撃では越えられない。
　側面から撃つ手段はない。
　なら、<試|や>るべき<手段|こたえ>は明白すぎる―――！
“<再接続|セレクタ>、<交流数紋|オルタネイト>……！”
　変革する第三層。
　直流から交流へ。本来なら軌道の変化を得意とする術式だが、今は単純に数が欲しい……！
「<接続|セット>、<八芒星|オクタグラム>―――！
　全界層、ブン回せ―――！」
　遊園地を照らす青い太陽。
　最大出力の光弾が、黄金の月を射止めに走る。
「こ、のぉ……！」
　引き金は<絞|しぼ>ったまま、際限なく取りこむ魔力を、休むことなく放ち続ける。
“っ―――、ぁ―――…………”
　臨界域から噴き出される青い炎。
　だが氷塊は融解さえしない。
　温度以前に、カタチ取られた魔力量が違いすぎる。
　体内の魔術回路の負荷が、鮮血となって荒れ狂う。
“っ……！！　これだけ、回して、るのに―――
　アイツの方が、ぜんぜん、上……！”
　この戦いは遊園地に満ちた魔力の奪い合いでもある。
　もとよりここはスナークの庭。
　空間の支配率はスナークが八割、青子は二割にすぎない。
「だ、め……止められ、ない……！」
“あ……”
　勝敗を告げるように、氷の城が落ちてくる。
「あ―――ああ、ああぁああ……！」
　青子にできるのはその結末を遅らせる程度。
　追いつめられるだけと分かっていながら、今は魔弾を撃ち続けるしかない。
　ああ、でも―――今ならまだ、他に手はある。
　この魔力をすべて防御に回せば、万が一―――いや、高い確率で、<青子|じぶん>だけは助かるのでは、と―――
“……っ、うるさい！
　ここの魔力を使い切れば、あの氷だって……！”
　破綻した希望にすがって青子は回路を回し続ける。
　魔力の<過剰摂取|オーバードウズ>で停止する時間。
　永遠に続く一秒の激痛。
　その中で、
“―――え？”
　何かが、ひたひたと、
　何かが、遊園地の物陰から、
　何かが、
何かが、
何かが、
“ちょっ―――”
　全身が総毛立つ。
　頭上の氷塊なんて問題じゃない。
　静止した時間の中で、ひたひたと、赤い死がやってくる。
“なんで、こんな、ところで…………！”
　恐怖で<回路|せいしん>が破裂しかける。
　<術式|こころ>の形成がほころびかける。
　ソレは彼女の背後にまでやってきて、
　ひたり、と。
　血まみれの手で、後ろから青子の両頬に手を当てて、
　　　　　　　　　
『こんにち　は』
“！！！！！”
　あらゆる感情、あらゆる自我が絶叫したがる。
　もういい。どうでもいい、なんでもいい！
　逃げられるのなら逃げてしまえ！
　隠しているのなら明かせばいい！
　使えるのなら、そんなもの、いっそ無慈悲に使えばいい！
　そうだ。
　彼女は起死回生の切り札を持っている。
　あんな氷塊、あんな玩具なんて物ともしない奇蹟を、ある日、ポンと冗談みたいに手渡された。
　　　　　　　　　　／それを、この赤い死が殺しに来る。
　使えば破滅。
　使わずとも氷に潰されて死滅。
　なら、どうしてためらう必要がある？
　別に使用制限なんてものはない。
　等価に何かが失われる事もない。
　ただ、彼女が彼女でなくなるだけ。
　たったそれだけ。
　人間なんて曖昧なものだ。
　脳の電流は一分ごとに何十回と断線して、何一つ、“いつまでも続いている<自|も><分|の>”なんてない。
　それは別段、<軽蔑|けいべつ>する事でもなく。
　それは格段、<禁忌|きんき>するものでもない。
“―――っ、さい”
　なのに、口から漏れた声は怒りだった。
　赤い影はかすかに首をかしげる。
　少女は声なき声で叫ぶ。
　魔法を使えば勝てる？　事情も知らないでよくも勝手な。
　だいたい、そもそも―――
“あんなの、どうやって使えってぇのよ―――！”
　彼女には、その魔法とやらの有効な利用法が、どうにも思い当たらない―――！
「―――って、バカか私……！」
　一瞬の錯覚から目を覚ます。
　折れようとしていた心が見せた幻。
　最低ラインの弱音が、逆に少女の<誇|ほこ>りに火をつけた。
『―――逃げるのか？』
　そうだ。自分は王手をかけられているが、それは相手も同じこと。なぜ負けているかは明白で、あとは対策を立てるだけ。それは十分に実行可能だ。
たしかに無茶な話だけど、試す前から諦めるのは許されない。
“……そうだ。
　放りだすのは、やれる事を全部やってから……！”
　もう感覚さえ無い指を握りしめる。
　思考に浮かんだ無理難題は、正気を疑う大博打だ。
　はじめの一歩をコンマでも間違えれば、その時点で青子の体は蒸発する。
　ああ、でも―――
　彼女は、逃げなかった少年を知っている。
　絶体絶命の窮地なのにギリギリまで耐え続けた、ちっぽけでも輝ける、強い勇気を知っている。
　そう。この敗北は自分だけの問題ではない。
　あの氷が落ちれば遊園地そのものが倒壊する。
　平気な顔で、命懸けの綱渡りをやり通した誰かさんの成果も無駄になる。
“―――ほんと。
　それじゃ、何のために意地を張ったか分からない……！”
　決意と自信は、それこそ<迸|はし>る電荷のように。
　このまま氷に押しつぶされるのなんて願い下げ。
　どうせ負けるのなら自滅がいい、と少女は笑った。
　負けず嫌いでご免あそばせ。こうなったらやられる前に、灰になるまで燃え尽きてやる―――！
「<接|チ><続|ェ><解|ン><除|ジ>―――<領|チ><域|ェ><拡|ン><大|ジ>、<再接続|チェンジ>―――！」
“ぐ、つぅ―――！”
　激流する体内魔力。
　分解寸前の魔術回路。
　魔術をカタチにした刻印は皮膚や肉のみならず、骨の<髄|ずい>、骨の<芯|しん>までその文字を刻んでいく。
「は―――いっっ、つぅ…………！」
　口元に<諧謔|かいぎゃく>の笑みが浮かぶ。
　あまりの激痛に理性、基準が逆転した。
　それも当然。
“なんだ、やればできるじゃない私……！”
　極限を<迎|むか>えてまだ耐えている自分の体を、誉めてやらないでどうするのか―――！
　髑髏の面が異常に気付く。
　空間の支配率が拮抗している事を、彼はようやく観測した。
　だがその慢心を笑えようか。
　千年を越える器物の王、フラットスナークに勝る“魔力使い”が、この末世の時代に現れるなど―――！
「ふ―――っ、うっ……！」
　呼吸を整える。
　この後に来るであろう激痛に身構える。
　<あ|・><の|・><氷|・><を|・><撃|・><ち|・><破|・><る|・>。
　使用できる魔力量は同じ。
　なのに力負けしているのは、つまり―――
“……出力装置に差があった。魔力の吸飲、砲身の規模で負けているのなら。
　単純な話、<術式|わたし>を<増築|でかく>するだけでいい―――！”
「―――<再接続|チェンジ>、<魔弾|ツアー><形式|プラン>―――」
　フィードバックは今までの比ではないだろう。
　彼女の選択は単純にして、蛮勇きわまりない。
　最大展開する二つの術式。
　一層は巨大な渦と化して霧という霧を飲みこみ、
　二層はかたっぱしから魔力を加工して<砲身|あおこ>に注ぎ込む。
「―――私の想定が甘かった。
　撃ち落とす、なんてハンパもいいとこ。
　この場合、跡形もなく<撃|・><ち|・><砕|・><く|・>、だっ……！」
　術者の確信に、太古の魔力が呼応する。
　のたうち回る<大蛇|オロチ>の紋様。
　反旗を<翻|ひるが>す声なき魔力。
　さあ―――いざ地を<省|かえり>みよ<貴|たけ>き遺産。
　あれなるは開拓の<最先端|トップランナー>。
　これより数多の神秘、あらゆる伝統を台無しにする、恐れ知らずの人類代表。
「貸し借りはここまでよ嘘つきブージャム。
　お望み通り、ノシをつけて返してあげる……！」
　消費／消滅の理を<担|にな>う、最新の魔法使い―――！
　常識外の光弾が氷の城を融解させる。
　砲身は焼ききれない。
　彼女の魔力の扱いは神懸かっている。
　最大十万キロ、赤道の二周半に相当する<血管|バイパス>は貪欲に魔力を受け入れ、倍の速度で魔弾を月へとたたき込む―――！
　否　否　否　否！
　月面に死相が浮かぶ。
　廃遊園地に響く、恐怖あるいは<憤怒|ふんぬ>の叫び。
　幻想に生きるソレにとって、現実はかくもおぞましく<眼|まなこ>を焦がす。
「―――ハ」
　その悪あがきに、彼女は勝利を確信した。
　あまりにも無駄な魔力の使い方だ。
　<傾|かたむ>きだしていた魔力の天秤は、完全に彼女のもとへなだれこみ―――
「<魔弾形|　ツアープラン>式―――」
「<大月蝕|ブラックライト>、<収斂投|　スターボウ>射―――！
　一気に、ブチ抜けぇーーーーーえ！！！！！」
　砕く。砕く。砕く。砕く。
　微塵と散る摩天楼。
　決して届かぬと謳われ、多くの挑戦者を飲んだ絶望の島。
　その、人智<未踏|みとう>を誇った先にあるモノこそ―――
　破滅を叫ぶ紺碧の霧。
　崩壊する絶氷の<天|ソ><蓋|ラ>。
　スナーク<狩り|ハント>の魔弾は月を越えて。
　断末魔は<潮騒|しおさい>のように、御伽の国に響き渡り―――
　―――勝敗は、ここに決した。
　濃霧は途絶え、砕かれた氷は地上に降ることなく霧散していく。
　魔弾は敗因を悔やませる間もなく、玉座ごと夜の王を撃ち砕いた。
　月の油。
　触れられぬもの、フラットスナーク。
　廃棄されたモノを蘇らせる一夜の夢は、自らの死をもって、悪夢に幕を下ろしたのだ。
「―――うわ。さすがに、無茶だわ」
　青子は倒れたまま夜空を見上げている。
　体はもう指一本だって動かない。
　なんとか体を起こそうと力を入れてみたが、どこもかしこも悲鳴をあげている。
　魔力はすっからかんで、魔術刻印も停止していた。
　体力の回復……もとい、身体機能の完全回復には丸一日を要するだろう。
　情けない話だが、今は呼吸だけで精一杯。
　反面、胸はかつてない達成感に満ちていた。
　なにしろ、あの“童話の怪物”のうち一体を真っ向から撃ち壊したのだ。
　自分に有利な状況が続いただけ、とも言えるが、手も足もでなかった半年前に比べれば格段の進歩である。
“……それはそれとして、有珠には<謝|あやま>っとかないと。
　プロイって、壊したらそれっきりだものね”
　そう。フラットスナークはもう二度と現れない。
　ロンドンの協会に売り出せば値の付かない超稀少品、
　魔術世界の財産とまで言われる秘術を、青子は跡形もなくブッ壊してしまったのだ。
　なんというか、その場のノリと勢いで。
“まあ、でも―――”
　お互い納得ずくの戦いだったから、有珠は文句ひとつ言わないだろう。
　内心では不満いっぱいと思われるが、あの少女はそういう、自らの品格を落とす真似はしないのだ。
「っ―――」
　安心から気が緩み、積み重なった疲労がなだれこむ。
　失神じみた眠気を青子は理性で押しとどめた。
　体の中は細かい傷だらけだが、奇跡的に外傷はない。このまま<十分|じゅっぷん>も休んでいれば立ち上がる事ぐらいはできそうだ。
　夜空には、いまだ炎上する黄金の月。
“正体は油だものね。そりゃあ、いつまでも燃え―――”
　<漠然|ばくぜん>と空を見ていた目が、<愕然|がくぜん>とした空白に切り替わる。
　彼女は指一本動かない状態で、
“……そっか。スナークを見つけたベイカーも、最後はいっしょに消えるんだっけ―――”
　あーあ、と。
　最後の反撃で燃え尽きる、十秒後の<自分|みらい>を受け入れた。
　―――一方、そのちょっと前。
　強風<荒|すさ>ぶ<鉄骨橋|コースター>の上で、難しい顔のまま、彼は地上に目をこらしていた。
「―――むむ？」
　こぼれた呟きはこの上なく頼りない。
　彼の視線の先。地上ではクリーチャーたちの目を盗んで地面に図形を刻んでいる青子の姿と―――
「……なんだアレ。いくらなんでも頑丈すぎないか？」
　そのずっと向こう。
　倒壊したミラーハウスの方角に、何か、見覚えのあるモノを見た気がした。
　草十郎の役割……地上六十メートルの高みから青子の髪を投げる、という仕事は終わっている。
　派手さこそないが、掛け値無しで命がけの難行だった。
　さらに付け加えるのなら、この後どうやって下りるのかを考えるだけで目眩がする。
　これ以上の厄介事なんて、とてもじゃないが頷けない。
「―――いや、でも、アレ―――」
　ぐらぐら揺れる橋の上で、わたわたと取り乱す。
　空には前触れなく現れた髑髏の面。
　地上にはぐるんぐるん回転している青い光と、その中心にいる蒼崎青子。
　……そしてもう一つ。
　この位置にいる草十郎にしか知り得ないヒト影が、月に挑む青子へと迫っていた。
　その影には下半身がない。
　上半身だけの体で、ずるずると青子に近づいている。
　距離的にはあと二百メートルほど。
　不運な事に、青子の背後から<這|・><っ|・><て|・><き|・><て|・>いるため、彼女はその影に気付けない。
「―――遠くて見えないけど、アレは―――」
　間違いない。
　この遊園地において、草十郎ではなく青子を狙うのは<あ|・><の|・><人|・><形|・>だけなのだから。
「いや、でも。ほら、あるいは、ひょっとして―――
　ただの偶然、ではないだろうか」
　幾重にも交錯し、混乱する思考。
　それも無理からぬ事だろう。
　膨張した月と<光弾|ビーム>を撃ちまくってる少女、という状況だけで、草十郎的には目を疑う状況なのだ。
「うわぁ……！」
　青子の容赦のない超距離魔弾は、嵐のようにコースターを揺さぶっていく。
　立っているだけで振り落とされ、転落死しかねない。
　とにかく、この状況は草十郎には難しすぎる。
　ここからコースターの入り口まで戻って青子に注意を<促|うなが>しに行くか？
　いや、間に合うハズもなし、駆け下りたところで入り口には大量の焼きたてパンがいる。
　そもそも青子は人形に気付いていて、近づいたとたん一撃で倒す可能性もある。その場合、自慢じゃないが足を引っ張る自信すらある草十郎だった。
「っ………………」
　何を選んでも役に立てそうにない状況。
　第一、危険なのは青子だけでなく、草十郎も窮地に立っている。
『行きは良い良い帰りは怖い』
　帰り道に鬼が待っているのは都会であろうと山奥であろうと同じこと。
　この道は特に顕著だ。行きはもちろん、帰り道も危険すぎる。
<他|ひ><人|と>の事を心配する余裕はどこにもない。
　地上六十メートルの死の淵にいる事を忘れるな、と草十郎は震える足に言い聞かせる。
“……大丈夫、それは分かっている。けど―――”
　キリキリと頭が痛む。
　無謀である事も、馬鹿げた事なのも分かっている。
山奥育ちの彼は、都会の誰よりも危険に関して敏感で、これからするコトを考えるだけで緊張で喉が嗄れきってしまう。
　が、そんな草十郎でもはっきりと言えることは、
「蒼崎のことだ、アレにぜったい気付いていない……！」
　<半|なか>ば泣くような声をあげて、草十郎は高さ六十メートルの鉄骨を駆け下りだした。
「はっ、はっ、はぁ、はっ―――！」
　死の道行きを加速する。
　加速するつもりはなくとも、下り坂である以上スピードは増していく。
「っ、この、はっ、よっと―――！」
　が、後悔はもう遅い。走りだしたのならもっと早く。
なにしろホントに時間がない、今から全力で下りても間に合わない、ああでもそれより、コースターの出口にはブレッドマンたちで混雑中、
となれば遅いも早いも結果は同じ、どのみち出口が塞がっている。急げ急げと必死になって、一歩ごとに落ちかける必要性とかまったくない……！
「っ、だから！？」
　それがどうしたと。
　ごちゃついた<煩悶|はんもん>を、彼は一太刀で切り払った。
　自分にできる事は足下に意識を集中して、一秒でも早く駆け下りるだけ。
“間違えるな。いま大事なのは、間に合うとか助けられるとか、そういう結果の話じゃなくて―――”
　ある衝動が、縮こまった手足を駆動させる。
　渇ききった喉を、冷め切った<理屈|こころ>を、草十郎は“思いつき”だけで心の端っこに蹴り飛ばす。
　根が単純な人間の面目躍如、とにかく難しいコトは終わってから考える―――！
　だが、障害は縮こまる自分だけではない。
「こんな時に―――！」
　レールに集中していなければ落ちる状況で、最悪の邪魔者が出現する。
「！」
　一見いままで通りの卵に違和感を覚える草十郎。
　何が変わっているのか。
　その変化に気付いた瞬間、
「って、よそ見してる場合じゃない……！」
　踏み<外|はず>しかけた足を本能で持ち直す。
　まだ落ちていない事が奇跡だった。
　コースターを駆け下りるのは自殺行為そのものだった。
　卵はぴったりと並走し、隙あらば体当たりでもしてきそうな<剣呑|けんのん>さ。
オマケにあまり直視したくないが、内部に作られた扉らしき飾りが、少しずつ開こうとしているのも気になりすぎる。
「ああもう、畜生！　なんだって、こんな―――！」
　あまりにもどん詰まりな状況に悪態をつく。
　それでも足は緩めない。
むしろ速度をより増して、彼は並走する卵を睨みつける。
「ハ―――ほんと、おかしい。
　こんな状況なのに、何で―――」
　自分は笑っているのだろう、と草十郎は不思議に思った。
　青子のおまじないとやらの効果……なのかどうか、草十郎には判別できない。
　彼女の指の感触は、まだ肌に残っている。
　向けられた信頼も期待も、しっかりと胸に<覚|おぼ>えている。
　……けれど、この衝動はそれらとは違うものだ。
　この高揚は、もっと深層にある問題。
　今の彼には分からない、いずれ向き合う事になる、埋められるべきがらんどう。
「よし―――距離は、今なら二メートル、弱……！」
　死のレールを走りながら、草十郎は正確に距離を<測|はか>る。
　何との？
　言うまでもない。この状況でたったひとつ、死の結末を飛び越える大一番との。
「はっ―――はっ、はっは、はっ！」
　乱れる呼吸に合わせて、“行くぞ、行くぞ”とハッパをかける。
　本当にありえない。
　自分は馬鹿げた事をしようとしている。
　でも<そ|・><う|・><し|・><な|・><け|・><れ|・><ば|・><間|・><に|・><合|・><わ|・><な|・><い|・>、と気付いたのだからしようがない！
「ほんと―――なんで、そこまでやるんだ！？」
　今さらな自問自答を、彼は鼻で笑った。
　一時的な混乱。極限状態における精神の高揚が、彼の心を裸にする。
　大事なものは何なのか。
　そんなもの、シンプルな彼には考えるまでもない。
　成功も報酬も、原始の心には美味しそうには映らない。
　彼は、ただ、
“よし―――”
　これはただ、そうありたいと望んだだけの話。
　周りから強制された義務ではなく。
　ただ純粋に、そういう風に生きたいと信じた、愚直な自己の欲望そのもので―――
“行こう！”
『！？』
　卵に発声機能があったのなら、そう驚いたに違いない。
　逃げるだけだった少年は、自分から大きく足を踏み外したのだ。
　足は内ではなく、外に向かって。
　レールの端で、勢いを殺さないようわずかに膝を曲げ、浮遊する卵を凝視し―――
“やれる―――距離的に問題はない！”
　夜を駆ける。
　わずか１．５秒の夜間飛行。
　地上三十メートルの、<紐|ひも>なし<縄|なわ>なしバンジージャンプ。
　その落下先は―――
　唯一の足場となる、空飛ぶ巨大な卵だった。
「う、ひゃああーーーー！」
　悲鳴のような、歓声のような声をあげながら、草十郎は必死に卵の表面にしがみつく。
　……ほんの少し前。
　恐怖心が無ければビルの上も平均台も変わらない、と血も涙もない魔女は言った。
　その魔女とて、この光景を見たら言葉を失っただろう。
　いくら恐怖心が無いと言っても、無茶と無謀は別の物だ。
　あまつさえ、<こ|・><の|・><後|・>の行為に至っては、後日本気で頭にきた程である。
「頼むぞ、卵！」
　卵にしがみついたまま、<卵|・><か|・><ら|・><視|・><線|・><を|・><切|・><る|・>。
　急速な落下感覚。
　草十郎は薄目で風景を確認しながら、残り一メートル付近で視線を戻し、卵を視界に<納|おさ>めながら飛びだした。
　―――いや、まことに信じがたい話ではあるが。
　彼にとってはデパートのエレベーターも、
　不思議動力で浮遊する卵も、
　そう大差のない「移動道具」に見えたのである……！
「よし、割れてない！
食べ物を粗末にするのはよくないと思う！」
　着地したのは小広場の近く。
　命を投げたショートカットは、これ以上ないカタチで実を結んだ。
　草十郎は着地しながら、止まる事なく走りだす。
　彼の脳裏にあるのは青子に迫る人形の姿だけ。
　なので、空から降ってくる月の光も、
　利用された怒りに燃えて自ら破裂し、破片をまき散らさんとする卵も視界に映らない。
「蒼崎―――！」
「なぬ―――？」
　目を疑う青子の表情が、最後の一足に力を入れる。
　<詩篇|のろい>が展開する。
　もはや逃がさぬと中身のない卵は<謳|うた>い―――
　カオスに散らかる卵の断片。
　ダンプティに刻まれた“女王アリスを讃える唄”は、急速に五感を奪っていく。
「っ―――それは、それとして―――」
　途切れていく感覚に<喝|かつ>を入れて、草十郎は横たわる青子に走り寄る。
　足は止まらない。
そもそも感覚がないので自らの意志で止める事さえできず、
「<人形|おまえ>、驚くほどしつこいぞ……！」
　<交差点|スクランブル>の<爆発|マーダー><事故|ケース>。
　三者三様の残骸が、閃光弾となって地上に咲く。
　……敗者たちがこぞって潰しあった最終幕。
　久遠寺有珠が見ていたら頭を抱えそうな結末から、ふたりは間一髪ではじき出された。
　この、世にも<希|まれ>なつぶし合いを冷静に把握できたのは、助けられた少女だけ。
　走り続けた少年は背後の結末にあまり関心もなく、
「はあ―――死ぬかと、思った」
　自分のしでかした奇跡より、抱きかかえた少女の無事を確かめて、安堵の息を漏らしていた。
　……かくして、夜明けを待たず月は落ちた。
　御伽の国の<装飾|テクスチャ>が溶けていく。
　道に響いていた華やかな<旋律|コード>も、
　来客を歓迎する<人形|パペット>たちの姿も、
　すべて幻となって、本来のカタチに戻っていく。
　<密|ひそ>やかに、<静|しず>やかに。
　もう二度と目覚める事のない、忘却の国に沈んでいく。
「――――――」
　一夜の夢の名残火。
　遊園地を照らす数多の<電飾|ライト>も、ひとつずつ消えていく。
　その光景をふたりは眺めていた。
　草十郎は地面に倒れこんで、必死に酸素を取りこんでいる。
　爆弾卵の<詩篇|のろい>で痛覚は麻痺し、積み重なった疲労は相当なものだろう。吹けば消えそうとはこの事だ。
　一方の青子も疲れきってはいたが、草十郎ほど息の乱れはない。
今は深呼吸を繰り返し、体力回復に努めている。
「……あのさ」
　青子は視線を遊園地に向けたまま、関心のない素振りで、草十郎に声をかけた。
　やや芝居がかった唐突さ。本当は面と向かって話しかけたいのを、意地で堪えているのが見え見えである。
「……貴方、なんかすごいコトしなかった？」
　……彼女が死を受け入れた、永遠とも言える一瞬。
　月の破片に貫かれる自分を、冷静に、自分でもどうかと思うほど客観的に見ていた時。
　力強く呼びかける声が、彼女を現実に引き戻した。
　……いかなる理由で、何を考えて、どんな無茶をして、彼は自分を助けたのか。
　倒れていた青子には、そのあたりの経緯がまったく分からない。確かなことは、最後の最後で、最高のフォローをしてもらったという事だけ。
　それが知りたくて声をかけたが、それ以上のことは言葉にできない。
　言葉にしたら負けな気がして、こんな風に、らしくない態度で声をかけたのだ。
　もちろん幸い、話しかけられた彼には、そんな彼女のいじらしさに気付く余裕も情緒も、ありはしなかったのだが。
「すごいって、
それは、
蒼崎の方、
だろ」
　草十郎は胸を弾ませながら答える。
　今は肺に酸素を送るのに手一杯で、青子に顔を向ける余裕もない。
「………………」
　そんな様子を、少女は横目で観察する。
　振り返れば、少年の役割はどれも同じだった。
　鏡の城でも童話の遊園地でも、彼は自分の無力さを<嗤|わら>わず、自分にできる事と向きあい続けた。
　相手を打ち負かしたのはいいものの、勢いあまって転びかけた愚か者とは大違いだ。
　…………だから今の無謀だって、彼にすればそう特別な事ではなく、
『―――提案。あいつをやっつけるのに協力したら、俺の事は見逃してくれる？』
　せめて、自分に出来る事からは目を背けない彼にとっての、<精一杯|できるかぎり>の勇気だった。
「――――――」
　観客から見ればただの脇役。
　目の覚めるような活躍だなんてとても言えない。
　けれど、転ばないよう手を引っ張られた少女にすれば話は別で、
“……まあね。
　認めたくないし、口になんて、もっとしたくないけど”
　少年の<奮起|ふんき>は脇役扱いされるものではなく。
　本当にすごい事をしたのはコイツだよ、なんて、まわりに言い聞かせたいほどの奮戦だったのだ。
「――――――はあ」
「蒼崎？」
“……ホント。人畜無害も、度を過ぎると侮れないわ”
　はあ、と青子は自分自身にため息をつく。
　けれど仕方がない。たったいま窮地から救ってくれた姿は、ほんのちょっとだけ格好良かったし、
「……ま。評価、甘めだけど」
　正直。こんなのにわざわざ手を下すなんて、<莫|ば><迦|か>らしいにも程がある。
　呼吸を整え、少女はすぅ、と体を起こした。
　……実のところまだ厳しいが、彼女にも魔術師としての誇りがある。
　なので、<宣言|せんげん>する時は<威厳|いげん>がなくてはいけないのだ。
「静希君。見逃すのは今日だけって話だったけど、アレ、なしでいいわ。
とりあえず、命は助けてあげるから」
　仕方なさげに差し出される右手。
　握手とも、座りこんだ草十郎を立ち上がらせる為のものとも取れる。
　一方。
　差し出された手を取らず、草十郎は自分の足で立ち上がった。
　この夜。
散々な目にあわされながらも、結局一度も見せなかった、心から意外そうな<表|か><情|お>をして。
「な、なによそのリアクションは」
　何か、とんでもなく恥ずかしい事をした気になって言い<淀|よど>む青子。
　そんな彼女を、草十郎はまじまじと見つめている。
「――――――」
　……問題は。
じろじろと見つめられれば不快になる筈なのに、嫌悪感がまったくないこと。
　むしろ容認しちゃってもいいかも知れない、などと、青子をして思わせるほど温かみのある視線で―――
「いや、そんなお友達感覚の話じゃなくてだな。そういう好き嫌いじゃなくて、草の字は本気でおまえに―――」
“……あ……”
　そこで。
　よせばいいのに、忘れていた台詞を思い出した。
“いかん、それは違う！”
　鳶丸の台詞を心の中で思いっきり否定して、青子は草十郎に向き直る。
「そ、それとこれは別だから！
　私はアンタの事とか、ホントどうでもいいんだから！」
　はい？　と首を傾げる草十郎。
「さっき嫌いだって言われたけど」
　唐突な青子の発言に疑問こそあれ文句はなく、彼は淡々と言葉を返す。
「う―――」
　……たしかに、面と向かって言った。
　けれどあれは言葉のアヤで、本気に取られると困ってしまうし、なによりそれより、今はそんな事を論じている場面ではなく、
「そ、そうじゃなくて！　あなたが私に<惚|ほ>れてても、期待しないでって言ってるの！」
　つまり彼女は、そういう事を論じたいらしい。
　柄にもない事を怒鳴って、青子は<微|かす>かに赤面する。
　なんでこんなコトを口にする羽目になったんだろう、と悩みながら。
　……それでも、とにかく言いたい事、言うべき事は言ったのだ。
　ここは礼儀として、相手の返答を待つだけである。
“あなたとは付き合えない”
　なんてハートブレイクな言葉を受けて、純朴な少年はこの世の終わりのように、がっくりと肩を落とし……
　てはいなかった。
　それどころか、なにやら真剣に考えこんでいる。
「俺が、蒼崎に、惚れてるって……？」
　呪文のように呟く草十郎。
　そうよ、と突っ返す青子。
　深く、返事を待つ青子がドギマギするぐらい深く考えこんだ末、少年は少女を見つめ返して、すっぱりと言った。
「―――なんで？」
　………冗談じゃ、
ない。
　彼は本気で言っている。
“と―――”
　つまり、好きではあるけど、好きなダケ。
　ぜんぶ副会長の早とちり。色恋沙汰とか男女の浪漫とか、はじめっからあたまになし。
“と、と、と―――”
　まだ悩んでいる草十郎の仕草が、よけい恥ずかしい。
　青子は顔どころか全身熱くなる衝動に襲われて、
「むう。もう一度聞くけど、なんで？」
「そりゃあ、こっちが聞きたいわよーーーー！！！！」
“鳶丸の、大馬鹿野郎ーーーーーーっ！！！！！”
　……このように。
もはや<釈明|しゃくめい>のしようもない、あるまじき暴挙に出たのだった。
　なんという現場封鎖、証拠隠滅。
　恥ずかしさで頬が溶けるかのようなパニックと、鳶丸への恨みが彼女を突発的な犯行に走らせた。
　飛ぶ鳥すら落とす正拳突き。もとい、やや弧を描いたのでストレートではなくフックと言うべきか。
「あ…………」
　会心の手応えに目を点にする青子。
　無防備だった彼と、激情に乗り出した自分。
　腰の入った一撃は、見事なまでに彼の意識を刈り取った。
「――――――」
　きゅう、と声をもらして倒れこむ草十郎。
　受けたばかりの詩篇の呪いと、今の一撃がトドメになったらしい。
　眠るように……と表現するにはやや苦しい、苦悶に歪んだ寝顔だが、これは気絶ではなく眠ったのだ、と青子は強引に解釈するコトにした。
「……ま、いっか。予定通りになったものね」
　うん、とノックダウンした草十郎を見て、青子は肩の力を抜いた。色々と邪魔が入ったけれど、とりあえずこれで一件落着だ。
　虚勢を張る相手もいなくなると、どっと疲れがやってくる。
「うわ……歩いて帰れるかな、私」
　つい弱音をこぼすほどの疲労だった。
　考えてみれば魔力を使いきったのも初めてだし、何の前準備もなしでこれだけの戦いをこなしたのも初めてだ。
　いや、そもそも―――
「私ひとりじゃ、どっちも相打ちだったっけ」
　呟いた声は、どこか誇らしげだった。
　本来なら<自戒|じかい>すべき事なのに、苦笑いしている自分にやれやれと肩をすくめる。
　それもこれも、いま傍らで眠っている誰かさんのおかげだろう。
「……ね、聞こえてないわよね？」
　夜風よりも小さい呼びかけに、反応はない。
　それに安心して、もっと小さい声で彼女は続ける。
「……その、ありがと。
十分に助けてもらったわ」
　もちろん返事はないし、期待もしていない。たんに言っておきたかっただけだ。
　少女はしばしうなされ眠る少年を眺めたあと、よし、と気持ちを入れ替えてポケットに手を伸ばした。
　同居人にもらった、手のひらに納まりそうなガラスの瓶を取り出して、ポン、と開封する。
「でも、それとこれとは別だから」
　冬の夜風よりクールな一言を残して、彼女は彼の名前を呼びかけた。
　返事もないのに、瓶はことり、と反応する。
　横になっている少年の姿がぐにゃりと歪んだかと思うと、瓶の重さが少しだけ増した気がした。
「うわ。どうなってんだろ、コレ」
　<曇|くも>ったガラスごしには、たしかに人影のような形が見える。
　久遠寺有珠の道具は、魔術師たちですら頭を悩ます神秘の具現だ。
　理屈やら辻褄を合わせようとする時点で、<魔術師|あおこ>には手の届かない魔術である。
　それに納得して瓶の蓋を閉めると、少年の姿は手品のようにかき消えた。
「……まったく。こんなの手品じゃなくて魔法だって」
　ひとり呟いて、青子は魔法の瓶を覗きこむ。
　瓶の重さはさして変わらないし、どんな仕組みかも青子には分からない。けれどたしかに、人間ひとりが閉じこめられている。
　その軽さは幻のようで、いまいち実感が湧かなかった。
　人の重さというより風の重さだ。
　夏の風を手探りで掻き集めて、この瓶に詰めこんだのなら、ちょうどこれぐらいの重さになるだろう。
　だから彼女にとって、草十郎はそんなイメージなのだ。
「……有珠の言う通り」
　そんな事を考えてしまった自分を振り返って、ぼんやりと彼女は呟く。
「ほんと、私らしくない」
　いつもの不機嫌さではなく、微笑むように苦笑する。
　世の中は広いのだし。ひとりぐらいは、ペースを乱す相手がいるのも、張り合いがあっていい。
　苦笑しながら、一回だけこつん、と小さな魔法の瓶を指で弾くと、彼女は静かに歩きだした。
　遠く、終演のベルが鳴る。
　世は全て事もなく、うたかたの夢も元通り。
　役者の去った遊園地は、静かに<装飾|あかり>を消していく。
　……こうして。とうに寿命を迎えていた遊園地は少年と少女の思い出の地になって、その役割を終えたのだった。
　かくして、遊園地は遠き日の輝きを取り戻した。
　夜を照らす無数の電飾。
　スピーカーから流れるレコードの音。
　くるくると回りだす大小のゴーラウンド。
　……言うまでもなく、すべてあり得ない光景だ。
　魔力を電流に変換して施設を動かす、というのも錬金術なら可能だろう。
　―――だが。
　仮に電気が供給されたとしても、壊れたものは蘇らない。
　少女が調合しているものは化学式ではなく、摂理を<融|と>かす魔女の鍋に他ならない。
“……まずいわね。有珠のプロイは何個か見てきたけど、今回のはケタが違う―――”
「――――<接続|セット>」
　不安を押し殺し、青子は右腕の刻印に火をいれる。
　魔術回路が魔術師の<基|エ><本|ン><性|ジ><能|ン>なら、
　刻印は魔術行使を補助する<演算装置|ソフトウェア>だ。
　魔術師として半人前の青子を助ける切り札。
　刻印化された術式なら魔力を通すだけで……その効能は劣化するにしても……再現できる、蒼崎の後継者の証である。
「―――行使二層、直流数紋」
　刻印の紋様を術式再現のカタチに切り替え、自身の魔力回路に繋ぐ。
　列車の<路線変更|レールチェンジ>じみた、何十という回路の<形成|パズル>。
　それをできるだけ迅速に、可能な限り丁寧に組みたてる。
　<無詠唱|そくせき>の魔術では久遠寺有珠に届かない。
　先の魔弾で有珠を守る防壁の強度は<測|はか>った。
　今度は先の五倍、二十トンの衝撃を叩きこむ。
　漂いだした濃霧の守りと、有珠が常に<纏|まと>っている障壁。
　両方合わせても十分に貫通する。
　なので、当たりどころが悪ければ胸骨が心臓に刺さってノックアウト。
　<最悪|さいあく>でも時計台からは撃ち落とせる、のだが―――
「あの、そろそろいいかな」
　殺し合いモードに入った緊張感を台無しにする男がひとり。
　さっきから難しい顔で青子と有珠を交互に観察していた草十郎は、
「それで、どういう話になったんだ？」
　駅まではどう行くんですか？
　みたいな質問を口にするのだった。
「――――――」
　怒鳴り返したいところだが、こう真剣に訊かれると怒るより呆れてしまう。
“……信じられない。慣れてきた、私……”
　青子はぐっとため息を飲みこんで、刻印の起動に意識を集中する。
「交渉は決裂。ちょっと怒らせすぎた。
　あの子から見れば、まあいい機会だし、遊園地ごと私を亡きものにしようってハラね」
「？？？」
　もっと簡単な言い回しプリーズ、と首をかしげる草十郎。
「私、わりとあの子に恨まれてるから。捕まったが最後、どんな風に殺されるか想像すらできないわ。
　……要するに、アンタも私も、あの子をどうにかしないと生きて帰れないってコトよ」
「そんな、とばっちりだ！」
「まあ―――そういう事になるかもね！」
　この期におよんで空気読めていない草十郎の叫びに、青子は渾身の右腕を放つ。
　狙いは草十郎ではない。
　ちょっと前までの青子なら草十郎へ掃射していた気配濃厚だが、今は時計台に立つ黒衣の少女が優先される―――！
「っ―――！！！？」
　あまりの驚きに状況把握が間に合わない。
　現状で考えられる最速／最高威力の魔弾を防がれた。
　それはいい。
　有珠が本気で防御に徹すればそれぐらいはするだろう。
　だが今のは何事か。
　何か得体の知れないものが飛んできて有珠を守った。
　馬？バッタ？いや、そもそもあんな生き物はこの世には存在しない。
　あんな風に―――雲霞のように群をなして、夜空を埋め尽くしたりはしない。
「な―――」
　あり得ないものが、あり得ないカタチで動き出す。
　少女は彼らに電源など与えていない。
　そも必要としていない。
　壊れ、<棄|す>てられた彼らは、もう人間の<法則|ルール>には従わない。
　それは、おとぎ話の侵略だった。
　<自動人形|オートマタ>なぞ優しいものだ。
　自律する人形は魔術の<業|わざ>によるものだが、それでも、人形としてのあり方を守っていた。
　だが―――動きだし、新たな命を得た<彼|・><ら|・>は、もう人形ですらない。
　器物が生物に、
　模型が畸形に変貌する。
　広がりつつあるのは視覚化できるほど濃密な魔力の霧と、
　入園者を歓迎する、千を超える<怪物|クリーチャー>たち……！
「っ、―――！！！！」
　背中を走る戦慄につき動かされ、青子は一工程の魔弾を掃射する。
　無我夢中の攻撃は無様に散った。
「あ―――」
　メリーゴーラウンドの騎士は空を飛び、
　<緑|みどり>トカゲは火を吹きながら集まりだす。
　焼きたてべーカリーは経営を再開し、オーブンからは人間大の焼きたてパンが小隊を組んで進軍する。
「―――蒼崎、後ろ！」
　青子と草十郎は包囲されつつあった。
　軋みをあげてゆっくりとまわる観覧車。
　涙に濡れたキッツィーを乗せて、ガラクタの車両がコースターを走っていく。
　あまりにも歪んだ幻想。
　赤く回りだした遊園地を背に、黒衣の少女は君臨する。
　ああ、これはない。
　これはないわ、と忘我しながら、青子はこの現象が何であるかに当たりをつけた。
「―――そうだ、これは」
　有珠に聞いたマインスターの使い魔たち。
　その中でも三本指に入る折り紙付きの使い魔が、これと似た出来事を起こすハズだ。
　名前は、たしか―――
「<童話の怪物|プロイキッシャー>、フラットスナーク……！」
「蒼崎、だから後ろ！」
「―――！」
　青い魔弾を受け、木っ端微塵に砕け散るクリーチャー。
　青子の魔弾の威力があがっている、というのもあるが、一体一体は自動人形ほど頑丈ではないようだ。
「静希君、こっち！」
　青子は時計台に背を向けて、草十郎の手をとって走りだす。
「ちょっ、蒼崎！？」
「ごめん、これ無理！
　逃げるわよ！」
「逃げるってどこに！？」
「どこって、とにかく行けるところまで……！」
　自分に言い聞かせるように叫んで、青子は気合いで道を<拓|ひら>く。
　放たれる魔弾は悲鳴そのものだ。
　立ちふさがる……というより、ただ集まっていただけのクリーチャーたちを吹き飛ばし、ふたりは包囲網を抜けだした。
　青い火花を散らす魔弾。
　波うつレンガの道を青子たちはひた走る。
　つり橋効果を遥かに超える戦場での信頼感。
　ふたりは全速力で、さしたる会話もアイコンタクトもなく、遊園地の出口を目指す。
　この異常は遊園地の中だけのこと。
　なら、外に出てしまえば助かるだろうと。
　が。
　戦力差、数にして二人対数百人。
　もとい、一人対数百体。
　草十郎はほとんど使い物にならないし、
　襲いかかってくるのは人というより<人形|パペット>である。
「さっきの大丈夫！？
　上からこう、でっかいハサミが落ちてきたけど！」
　立ちふさがる怪物を撃ち砕きながら青子が叫ぶ。
　振り向く余裕も、立ち止まっている暇もない。
「なんとか、ギリギリ！」
　青子を追う草十郎も、さすがに声がうわずっている。
　―――さかのぼること五分前。
　広場の包囲網からは呆気なく抜け出せた。
　住人たちの“目覚め”には個体差があって、大きなものほど動きだすには時間が必要らしい。
「ラッキー、朝に弱いタイプばっかとみた！」
　青子は軽口を言って、ひょっこり現れたザコをなぎ払う。
　そんな時。
「へ？」
　突如、ふたりの頭上にとんでもないモノが伸びてきた。
　ロブスター<専門店|レストラン>の屋根に鎮座していた、全長18メートルのザリガニ、そのハサミである。
「…………！」
　ほとんどギロチンのようなハサミだった。
　レストラン前を横切る青子たちを、凄まじいスピードでまっ二つにしようと迫る<赤い甲殻類|レッドキング>。
「静希君、ユーターン！　こっちはダメ！」
　ロブスター店を抜ければすぐに<正門|ゲート>だったが、ふたりは巨大ザリガニから逃れるように遠回りをする。
　そうして迂回した先に待ち受けていたのは、おびただしいまでの怪物の群だった。
「なんとか、ギリギリ！」
　あやうく首からすっぱり切られそうだったピンチを思いだしながら、草十郎は青子に叫び返す。
「って前！　うわ、なんだあれ、焼きたてか！？」
「そうみたいね、要するに下級兵士よ！」
　青子は駆け足を止めて魔術刻印をフル回転させる。
“距離七、六、五メートル……！
　あの程度ならスナップだけで事足りる……！”
　レンガの道を滑りながら右腕を一閃する。
　放たれる魔弾の雨。
　威力より弾数を優先した<一工程|スナップ>は、立ちふさがる怪物たちを小気味良くまき散らかす。
「―――蒼崎、そっちも！」
「了解……！」
　電飾のついた遊歩道に、青い火花が咲き乱れる。
　扇状に弾幕をはる青子の姿は、空から<俯瞰|ふかん>すれば美しいスターマインそのものだ。
　焼きたてパンの<遊び道具|レイカンファー>、ブレッドマンではそれこそ消し<炭|ずみ>にされるだけ。
“いける―――数でこそ押されてるけど、この状態が続くなら逃げきれる―――！”
「静希君、そっちは！？」
「いない、空いてる！　ここからなら入り口の東側に出られるはずだ！」
　並の魔術師なら息切れをする数の魔弾を放ちながら、新米魔術師は敵の囲みを突破する。
　……一方。
　そんな光景を、じっくりと観察する鳥が一羽。
　チ、チチチ、チ！
　高度を落として主人の視界に入るなり、かん高く鳴く青い鳥。
　その報告を、少女は無表情で聞いている。
「……かまわないわ、予想通りよ。
　撃つ事、壊す事しか能がなくても、青子の魔力の使い方は並じゃないから。急造の使い魔じゃ、まだ相手にはならないでしょう」
　チチチ、と羽をすくめる駒鳥。
　青子を<誉|ほ>める有珠を批難しているのか、
　有珠に誉められる青子に嫉妬しているのか。
　主人である有珠にも、いまいち読み取れない鳴き声である。
　蒼崎青子は半人前の魔術師だ。
　二年前まで魔術とは無関係に育ってきた少女で、生まれた時から魔女として育った有珠とは素質も経験も違いすぎる。
　本来なら相手にすらしない次元。
　魔術の腕を競うなら十回中十回、有珠に軍配があがるだろう。
　けれど、こと戦い、殺し合いなら話は別だ。
　久遠寺有珠は戦闘向きの魔術師ではなく、
　蒼崎青子は戦いに特化した壊し屋である。
　純粋な魔力勝負では青子の方が上だろう、と有珠は認めてさえいる。
　青子は魔力の使い方が抜群に上手い。
　魔術回路の規模は有珠より小さいが、回路の回転の速さ、その耐久構造、魔力の質、燃費の良さが並はずれている。
　それが蒼崎青子の特性だ。
　高度な魔術式は凡百に落ちるが、
　魔力を流動させるだけの単純な魔術式なら、わずか二年の実践で有珠を上回っている。
　……天才的なノリの良さと勘の良さ。
　彼女の魔術行使は強いのではなく、おそろしく“速い”のだ。
　蒼崎の家になんて生まれなければ、天才的な射撃手として名を<馳|は>せたに違いない。
「でも、残念ね」
　正面から撃ちあえば有珠に勝ち目はない。
　否、そもそも魔弾などという原始的な魔術を、久遠寺有珠は習得していない。
　彼女は典型的な人形師。
　戦闘はすべて、手足となる使い魔が行うことだ。
「……制限時間には気づいているわよね青子。
　魔力はいくらでも貸してあげるけど―――貴女の魔弾は、あと半刻で<値崩|ねくず>れするわ」
　チチチ、と<頷|うなず>くようにさえずって飛び立つ駒鳥。
　遊園地が少女の支配下に<陥|おちい>ってからじき十分。
　<緑|みどり>色の霧が何を生み出すものなのか。
　地上を走る青子たちも、そろそろ事の深刻さに気が付く頃だった。
「静希君、正門ってこっち！？」
「ああ、その店を曲がれば出口だ！」
　全力とは言わずとも、休まずに走り続けてはや十分。
　息を乱しながらふたりは曲がり角に飛びこんだ。
　遊園地と言っても所詮はキッツィーランド。
　高校生が全力で走れば二十分ほどで一周できる。
　そんな地域密着型のアミューズメントパークは、しかし。
「――――――」
「――――――」
　……このように。
　住人ばかりか、遊園地そのものを変化させていた。
「……蒼崎」
「……なによ」
「……言いたくないんだけど。この遊園地、広くなってないか？」
　そう。
出口を間違えたとか、地形が変わっているとか、そんな現実的な間違いではない。
　あらゆるものが、ねじ曲がっている。
　遊園地はそれ自体が生き物のように、いまもって、その規模を成長させていた。
「―――」
　気が付けば包囲網は一段と強固になっている。
　草十郎に背中をあずけながら、青子は懸命に泣き言を抑えこむ。
　草十郎は驚き、怖がるだけでいい。
　けれど青子はそうはいかない。
　この状況を招き、彼の手を取った責任がある。
　おいそれとパニックに<陥|おちい>るワケにはいかないのだ。
“……大丈夫、落ち着け私……
　遊園地の果てはある。遠いけど、鉄柵はちゃんと見える。
　フラットスナークだって制限無しってワケじゃない。外に逃げるって選択は正しいはず……。
　現状、外までは目算で一キロぐらいだけど―――”
　ここまで夢中で走りすぎた。
　青子も草十郎も息が上がっている。
　あと一キロ走るのなら、いったん休憩をいれないと途中で足が止まってしまう。
「……蒼崎。体、大丈夫か？」
「へ？」
　背中ごしに<囁|ささや>きかけられ、青子は現実に引き戻された。
「大丈夫だけど……ちょっと、一息いれたいわね」
「……賛成。ここから休みなしで外周まで走るのは、やめた方がいい」
「―――驚いた。静希君も外まで走ろう派とは」
　言って、くすりと笑ってしまった。
　背中の戦友はパニック状態どころか、きちんと現状と、その打開策を考えていた。
「ちょっとだけ建物に逃げこむのは？」
「………気は進まないけど、それしかないわね」
　焼きたてパンたちの包囲網。
　常人ならいざ知らず、青子ならこの囲みを破って建物に逃げこむのは<容易|ようい>だ。
　問題は―――
“……問題は、どんな店を選ぶかってコト―――”
　変貌する遊園地の特性を考慮する。
　何が危険で、何が安全なのか。
　大事なのは建物の強度や複雑さではなく―――
“そうだ、選ぶなら<あ|・><の|・><単|・><純|・><さ|・>で正しいはず……！”
「静希君、あっち！」
　怪物たちを蹴散らしてカウンターに飛びこむ青子と、その後に続く草十郎。
「カウンターに隠れてて！」
　青子は西部劇の銃撃戦のように、カウンターを盾にして怪物たちと対峙する。
「ビンゴ……！　ここならスナーク化しないんだ！」
　敵の様子を確認し、青子もカウンター内部に腰を下ろした。
「アイツらは……？」
「店の周りで<地団駄|じだんだ>踏んでるわ。理由があってね、アイツらはここには入ってこられないのよ」
「？？」
　不思議がる草十郎にまあまあと笑いかけて、青子は大きく胸を上下させた。
　安堵と、おそらくは疲労からきた大きな息継ぎ。
「とりあえずコーヒーブレイクね。ここは遊園地の中でも遊びのない場所だから、アイツらにとっては鬼門なのよ。
　レジスターも調理道具も最近のものだし、擬人化されたマスコットもないし。スナーク化するには、ちょい文明圏すぎるってコト」
「すなーく？」
「アイツらの名前よ。つけたのは私じゃなくて有珠……なのかしらね。あの子の性格的にちょっと想像できないけど、まあ、とにかくそういう名前」
　安全と分かって落ち着いたのか、草十郎は興味津々とばかりに耳を傾ける。
　なるほど、なんてしかつめらしく頷いているが、きっと分かってないだろうなー、と青子はつい笑ってしまった。
　普段ならイラっとくるところだが、今は彼の妙な真面目さがありがたく、あたたかい。
「それはともかく。調子良さそうだな、蒼崎」
　そんな青子の笑みを余裕と勘違いして、草十郎も顔をほころばす。
　誤解の連鎖だが、今はそれを<糾|ただ>すこともない。
「あれ、貴方から見ても分かる？
　私の魔弾の威力が上がっているの」
「そりゃあ、ミラーハウスでさんざん追いかけ回されたからな。あの時と同じ動作なのに物騒さが増していれば、イヤでも分かる」
「でもいいのか？　たしか、数にかぎりがあるとか言ってただろ。もうずいぶん撃っちまったけど。二十、三十じゃきかないぞ」
「―――アンタ、時々、アレよね」
「？」
　不覚にも、ちょっと見直す青子だった。
「なんでもない。
　私の魔弾の威力が上がっているのは、単純に魔力の濃度の問題。さっきから霧がかかってるでしょ？　あれ、全部魔力なのよ。<魔|タ><弾|マ>を撃つための燃料と思って」
　魔力とは大きく二種類あり、
　魔術師が肉体から生成する<小源|オド>と、
　大気に満ちている<大源|マナ>とがある。
　この遊園地はいま、マナに満ちあふれた御伽の国だ。
　一般人にとっては何の効果もないが、魔術師にとっては術式を使いたい放題の楽園と化している。
「じゃあ残り魔力とやらは気にしなくていいのか。
　注意すべきは怪我と体力だけ？」
「……まあ、個人的な責任においてはそのかぎりね」
　良かった、と息をつく草十郎。
　草十郎から見れば、青子は怪物たちをなぎ払う遊園地最強の暴れん坊だ。
　不安なのは魔力が尽きる事だったが、それがないのであればまさに百人力である。
「頼りにしてくれるのは嬉しいけど、ぬか喜びよ。
あんな雑魚たち、ただ動いているだけのガラクタなんだから。
　スナーク本体は当然として、有珠が<他|・><の|・><童|・><話|・><の|・><怪|・><物|・>を出してきたら私じゃどうにもならない」
「他の童話の怪物？　……遊園地をこんなふうに変えたヤツ以外に、まだいるのか？」
「そ。プロイキッシャーって名付けられた、<魔術師|わたしたち>でさえ目を背けたくなる反則。
不可能な夢物語をも再現する、時代に取り残されたデタラメよ」
「？？」
　自分の事は棚にあげて？　と言いたげな顔である。
「あのね、私たちはちゃんと現代によりそった魔術師よ。
　できない事もあるし、当たり前の事だけど、近代兵器には敵わない。二十世紀―――ま、色んな戦争の後押しで、兵器の進化は私たちを越えちゃったから」
「……けどあの子のは違う。どんなに人間の技術が進歩しようと関係ないって怪物なの。
　たとえば、あのブレッドマンいるでしょ？
　あいつには自動拳銃とかきかないわよ。たぶん、意味が分かっていないから」
　ひょい、とカウンターから外を指す青子。
「有珠の使い魔は全てが空想によってこねられた神秘なの。
　前提からしてあり得ない事だから、通常の物理法則と折り合いが悪い。空想と現実は両立しないっていう、ごく当たり前の理由でね」
「……なるほど。ブレッドマンってのは、あの動く焼きたてパンの事なんだな」
　青子の説明の大部分をスルーして、気になるコトだけ拾う草十郎だった。
「…………話を戻すけど。
　あいつらと近代兵器の相性は最悪。ロケット弾でも効果はないわ。意思の疎通、秩序の共有ができてないから」
「<童話の怪物|プロイキッシャー>にとって、彼らの世界には存在しないもの、意味が分からないモノは、触れるコトなく霧散する。
　彼らに<通|つう>じるのは同じ神秘を帯びた“魔力”だけっていうデタラメぶりよ。もう完全に<概念|がいねん>空間っていうか、概念宇宙っていうか―――」
「――――――」
「…………こほん。
　要するに、アイツらは伝承防御っていう特別なルールを持っていて、単純に強い力、強い魔術じゃ効果は薄いの。元になった童話にちなんだ欠点をつかないと倒せない。
　ギリシャ神話のアキレスあたり分かりやすい喩えなんだけど……知ってる？」
　草十郎はぶんぶんと首を振る。
「そ。無事帰れたら、鳶丸あたりに教えてもらって。
　定番だけどいい<教訓|はなし>よ、アレ」
　……かなりおいてけぼり感ただよう草十郎だが、彼は彼なりに現状把握に努めてみた。
“<童話の怪物|プロイキッシャー>”とやらは、青子やミラーハウスの自動人形ですら<裸足|はだし>で逃げだすモノだという。
　たしかに目の前の光景は誰かの悪夢の中に迷いこんだとしか思えない。
　だがしかし、と草十郎は思うのだ。
「やっぱり、蒼崎の方が怖くないか？」
「アンタ死ぬの？」
　ほら、と無言の抗議をする草十郎。
「……あのね。いま私たちを取り囲んでるのはオマケにすぎないの。
　有珠にとって、あのブレッドマンもロブスターもソーセージ屋のミンチマシーンも、全部が全部、私が撃ってる魔弾より価値がない。
　いい？　あの動くマスコットたちはね、<た|・><だ|・><の|・><オ|・><マ|・><ケ|・>なの。有珠が解放した“童話の怪物”の、一呼吸みたいなものなのよ」
「―――呼吸って、これが？」
「……私だって考えたくないわよ。
　でもそれが現状。たった一体の“童話の怪物”だけで私たちは手一杯。
そういう訳だから、有珠があと一体でも追加したら諦めて」
「追加って……これに制限はないのか？」
「あの子が出し惜しみしなければ、まだ何体かストックはあるでしょうけど……ま、成立する条件はあるわね。
　たとえば川がないと目を覚まさない怪物もいる。この遊園地、噴水はあるけど川はないでしょ？　元になった童話しばりなの、あの子の使い魔は」
「童話って、かけそばとか？」
「<遊園地|ここ>に川がないのは不幸中の幸いね。もしあったら、もっと直接制圧に向いた奴が出てきてた」
　草十郎の合いの手をサラッと無視する青子だった。
「―――話の続きだけど。
　有珠の魔術の基本はマザーグース……
って知らないか。イギリスの唄で、遊び心にとんだ、メルヘンチックな内容よ。
　ただ、そっち系のプロイキッシャーは怖くないの。
みんなそれなりに、なんとか魔術にも落としこめる範囲だから」
「……聞きたくないんだけど、そっち系じゃないのは？」
「マザーグースを下地にした、とある創作童話系。
　……<有珠|あの子>のお母さんが好きでね、<こ|・><っ|・><ち|・><系|・>のはドイツもコイツも尋常じゃない。<魔術師|わたしたち>から見ても勘弁してって言いたくなるわ」
「で、この遊園地を生き返らせたのは<こ|・><っ|・><ち|・><系|・>よ。
　たぶんフラットスナークってヤツだと思う。……私も聞き流していたから、詳しくは分からないけど」
「――――――」
　のど元まで出た不満を飲みこむ。
　こっち系とかそっち系とか曖昧な言い方はやめてほしい草十郎だったが、今の台詞には、他に追及すべき事があったからだ。
「待て蒼崎。あの子の話を聞き流したって、なんで」
「いやぁ、説明してもらったのは随分と前だし……あの頃は有珠の話、あんまり信じられなかったのよね。
　私が素人だと思って大げさに自分の魔術を語ってくれてるなあ、舐められてるなあ、とか。あはは」
　無論、舐めていたのは青子の方だった。
　有珠を守る怪物が「本物」だと青子が経験するのは、二人が出会ってからしばらくしての事だ。
　マインスターの魔女が魔術世界においてどれほど異端なのか、青子は身をもって経験する事になる。
「……その聞き流した内容は？」
「なんでも強力な結界を張るプロイだって。
有珠が受け継いだ<玩具|プロイ>は山ほどあるけど、その中でも<選|え>りすぐりの一つよ。
　<棄|す>てられたモノ、忘れられたモノを童話的に蘇らせるヤツで、今まで誰も破ったコトがないとか。
　それで、ついたあだ名が“<触|ふ>れられぬもの”」
「？　ふらっとすなーく、じゃないのか？」
「それもあだ名。とにかく正体が分からないヤツばっかりなんで、一つの個体に複数の名前がつけられるの。
　フラットスナークはその中でも、正体不明さはトップランクのデタラメぶりよ。
　―――貴方、ルイス・キャロルの『スナーク狩り』って本、知ってる？」
「いや。そもそもルイスキャロルというのは？」
「……そっからかあ……えーと、ドジスン教授は、そうね。特殊性癖を持った妄想紳士ってトコ？　ま、こっちは別にどうでもいいか。人によっては時間の無駄だろうし」
「いま重要なのは、彼が残した著作の方。
　『スナーク狩り』はね、スナークって呼ばれる正体不明の怪物を捕まえようと奔走する冒険家たちの話なの」
「キャロルらしい、皮肉ばっちり、支離滅裂、意味不明、結末不在のホントに困った本で、一行は島で苦しみつつ、最終的にはスナークを見つけるものの、見つけた<主人公|ベイカー>は唐突に姿を消して終わってしまう。
“よく分からないもの”探しに奔走する人間の風刺なんだけど―――この遊園地において、誰が<主人公|ベイカー>で、何が<怪物|スナーク>かは言うまでもないでしょ？」
　青子は語らないが、フラットスナークには他にも俗称がある。
　不可解の島、五次元平面。
　こちらは有珠が口にしたものではなく、かつてマインスターに破れた魔術師たちのうわごとだ。
　数学において、スナークとはグラフ理論で用いられる、矛盾した、決してあり得ないある平面グラフを指す。
　この世に『無い』と立証されながらも名を与えられた平面。逆説のみで構成された不遇の存在。
　その名を冠した“童話の怪物”は、誰にも正体を明かす事がないという。
　……そして、青子は語らない。
　フラットスナークは成長する“童話の怪物”だ。
　どこかに隠れている本体は、こうしている今も遊園地を完全な御伽の国に変えようと、<魔|い><力|き>を吐き続けている事を。
「……ま、<脅|おど>かしてもしょうがないし」
「なにか言ったか？」
「別に。簡単に言って、『童話世界の再生』がフラットスナークの力なの。
　この遊園地との相性は抜群でしょうね。なにしろ、元々が童話を元にした遊び場だから」
　……仮にオフィス街であったのなら、フラットスナークもここまでの脅威は持たなかっただろう。
　せいぜいビルの窓硝子に恐竜の影絵を映す程度の力だ。
「あ。だからここは安全だって―――
ん？」
　草十郎が“その異変”に気が付いたのは、背中にぴちょん、と<粘|ねば>つく液体が落ちたからだ。
「あ、あ―――」
　天井を見上げる。
<ソ|・><レ|・>と目が合う。
どうなっているのか考える前に、草十郎の腰は跳ね上がって―――
「蒼崎、外だ！」
　彼は<率先|そっせん>してカウンターから飛び出した。
「バカ、何して―――」
　自殺行為に等しい愚行を止めようと、つられて青子は腰を浮かす。
　瞬間、頭上に何が生まれているのかに気が付いた。
「！　って、ヤバ―――!?」
「あ、危なかったぁ……！」
　ばくん、と閉じられる巨大な口。
　呼びこみマスコットのいないバーガーショップは、その店ごと怪物に変貌していた。
「もうっ、なんで天井にピエロの絵なんて描いてんのよあの店！？
　普通、もっと違うところに労力さかない！？　そんなにピエロが好きなら入り口にでも飾っとけ！」
　罵倒しながら走る青子。
　……もう安全な場所はどこにもない。
　かろうじて残っていた文明圏すら、刻一刻と童話に侵食されていた。
　遊園地のスナーク化は最終段階を迎えていた。
　命を与えられたのはマスコットたちだけではない。
　バーガーショップのように、建物すら生き物に変貌しようとしている。
　遊園地を巡るコースターは<中華龍|チャイニーズドラゴン>よろしく、うねうねとのたうつ始末。
「――――――」
　呆然と、全長八十メートル近くまで膨張した観覧車を見上げる青子と草十郎。
　そんなふたりにチケットを配るように、大量のブレッドマンが襲いかかる。
「このっ、列整理は間に合ってるっての！」
　わらわらと大挙するオブジェ。
　包囲網は破っても破っても形成される。
　絶え間ない物量作戦。
さもありなん、資源の<枯渇|こかつ>で悩むおとぎ<噺|ばなし>は<滅多|めった>にない……！
「っ、なんかどうしようもないぞ！
　コイツら、増える一方だ！」
「スナーク本体を探して！
　童話の怪物には本体にあたる器物があるの！　それさえ壊せば遊園地から出られるはず！」
「本体ってどんな!?」
「さっき言ったでしょ、童話の怪物は現実に無いものだって！　今までいなかったおかしなヤツとか、現実じゃありえないモノ！　それが本体！」
「おかしなヤツって、たとえば!?」
「だから！
　命のある人形とか、空飛ぶゴーカートとか―――」
　魔弾を放つ青子の手が止まる。
　口にして、自分たちがどれほど<窮|きわ>まっているかを思い知ったのだ。
　遊園地は“童話の怪物”と思われるモノであふれている。
　変形し、自ら動き出したオブジェたちはみな“現実にないモノ”なのだ。
「……そっか。おかしくないヤツなんて、一つもないんだ」
“この中に紛れこんでる……？”
　青子は呟きながら、それはないな、と唇を噛んだ。
　フラットスナークは結界を張るタイプの<怪物|プロイ>だ。
　これだけ大量の使い魔を統率している以上、本体の防御力は低いか、もしくは<皆無|かいむ>と見るべきだろう。
　……加えて、“触れられぬもの”“正体不明”という物語を原型としているのなら、見抜かれたが最後、呆気なく崩壊するのが筋というもの。
“……逆に言えば、見つければ私たちの勝ち。
　そんな<脆|もろ>いヤツが雑魚に紛れこむ？　木の葉を隠すなら森の中って言うけど―――”
　この通り。
　流れ弾であっさり吹き飛ぶ可能性がある以上、青子たちの前には現れない。
　スナーク本体はもっと安全な場所で、この遊園地を育てている。
“……でもどこかに見えているはず。
　スナークは本の主題だもの。<常|つね>に<視界|ページ>のどこかにいないと、主人公の資格がない―――！”
　それはどこか。
　安易に考えるなら、あの観覧車がもっとも安全、かつ遊園地を象徴する“主題”だが―――
「あの子を捕まえるのは！？」
　突然の提案に目を見張る。
　青子が打開策を思案していたように、草十郎もまた、彼なりに頭を巡らせていたらしい。
　草十郎の提案はシンプルだ。
　スナークの本体が見つけられないのなら、その持ち主である有珠を倒せばいいのではないか。
　有珠は時計台から動いていない。
　ここからでも、月光に照らされる姿は目に入る。
「それは一番ダメ！
　有珠を殺してもフラットスナークは止まらないし、このトンデモが外にあふれだす事になる！
　だいたい、私じゃあの子を殺せないから！　よくて半殺しがいいところ！」
　主人の悪口にいきりたったブレッドマンが、こんがり無惨に焼け焦げになる。
　……じり、と背中をあわせて呼吸を整えるふたり。
　目の醒めるような打開策は出ず、いよいよもって八方ふさがりになった状況に消沈する。
　一方。<獲物|えもの>の活きの良さが分かるのか、オブジェたちは輪になって青子たちを観察していた。
　パン屋にひきずりこんで焼き殺すか、
　精肉店の挽肉機ですり潰すか。
　はたまた串刺しにしてゴーラウンドで引き回すか、
　トゲトゲだらけの<海賊船|ゆりかご>に乗せて航海に乗りだすか。
　二年間眠っていた分、歓迎意欲は盛りだくさんだ。
「……いちおう、聞いておきたいんだけど」
「なに。手短にね、いま考え事してるから」
「ああ。……あの連中がなにをしたいか、イヤっていうほど伝わってくるんだけど。それって、あの子の趣味なのかな」
「……その疑問はなかったわ。
連中の人間嫌いは遊園地の怨念と、フラットスナークの性格じゃない？　基本的にマトモなヤツいないから、有珠の使い魔って。
　ああ、でも―――」
　なんというか、有珠の性格の怖さも否定できない青子だった。
「それは結構。……それで、蒼崎の考えごとって？　止める方法、考えついたのか？」
「期待させて悪いけどお手上げ。ま、アンタが殺されれば止まるでしょうけど」
「それはイヤだ！　とりあえず逃げよう！」
「え、ちょっ、静希君！？」
　―――突然の<展|こ><開|と>に目を見張る。
　今まで青子に付いてくるだけだった草十郎は強引に青子の手を取って、焼きたてパンの群に突進―――囲みを<破|やぶ>ろうと力任せに特攻する。
「い、意味わかんなすぎ！
　なんで今の流れでそうなるのよアンタはーーーー！？」
　別人のようなアグレッシブさを発揮する草十郎を<罵|ののし>りながら、律儀にフォローする青子。
　草十郎の体当たりでは包囲網を突破できない。
　青子はすぐさま体勢をたてなおし、草十郎の正面に魔弾を掃射する。
「っ、はっ―――！」
　囲いを抜け、全力で走りだす。
　こうなっては当初の予定通り、遊園地の外を目指すしかない。
　……まあ、それはともかくとして。
「なんでよ!?　さっきはあんなに諦め良かったのに！」
　青子には草十郎の反応が、とにかくホントに理解不能。
「ミラーハウスの時と今は違うだろ！　いいから走れ！」
「違わないわよ！　アンタを殺そうとした私も、アンタを殺したい有珠も！　理由も結果も同じよ、私たち!?」
　何でこんなコトで怒鳴っているんだろう、と思いながらも青子は止まらない。
　きっと、無謀にもブレッドマンに突進した草十郎の馬鹿さ加減が頭にきているんだ、と自分自身に言い聞かせる。
「あのね、一緒に逃げてるぐらいで勘違いしないでくれる!?　言っとくけど私、明日になったらまたアンタを殺しに行くから！　死にたくないってんなら、ここで私からも逃げだしたら!?」
「それはまた今度の話だろ！　だいたい、蒼崎に殺されるのならいいけど、あの子に殺されるのはイヤだ！」
「だからなんで！？」
「だって顔も知らない！　話したコトさえない相手だ！」
「―――は？」
　沸き立っていた激情が、一瞬で鎮火する。
　あまりに簡潔かつどうでもいい理由に、青子の<直情|いかり>はあっさりと消えてしまった。
「顔も知らないって……」
　草十郎としては、よく知った相手なら殺されてもいいのだろうか？
　ますますもって理解できない、と顔をしかめながら、青子は草十郎の背中を追いかけるのだった。
　時計台の上で、少女は使い魔の成長を監視している。
　フラットスナーク。
　廃棄されたモノたちの救世主。
　朽ちゆく<運命|さだめ>のモノたちに一時の希望を与え、根こそぎ奪い去る、<性悪|しょうわる>で<低俗|ていぞく>な“童話の怪物”。
　自らの手駒ではあるが、スナークがその<悪癖|あくへき>を発揮しないよう、少女は目を光らせていた。
　いまやひとつの街ほどまでに広がった遊園地を一周した駒鳥が、少女に現状を報告する。
「……そう。外を目指しているの」
　青子は少年の安全を優先したのだろう。
　たとえ一日で無駄になる事でも、一度決めた事を曲げないのは実に彼女らしい。
「青子の事だから、時計台ごと私を焼き払いにくるかと思ったけど」
　チチチ、と<嘴|くちばし>を鳴らす青い鳥。
　主人の語る青子像を否定しているのか、
　青子ならやりかねないと同意しているのか。
　傍目にはどちらにも取れる合いの手である。
「退屈？」
　突然話しかけられ、ビクッと震える駒鳥。
　チチチ、と必死に羽を振る仕草は、“そんなコトないっス！”とあわてる<丁稚|でっち>のようだ。
「……珍しく気があったわね。
　いいわ。せっかくのゲームだし、もう少しだけ盛り上げましょう」
　無表情のまま少女は小さな器物を取り出した。
　カチカチと内から秒針の音をこぼす、鈍色の<装飾卵|イースターエッグ>。
　それがフラットスナークには及ばずとも、対個人戦においてトップランクに<性質|タチ>の悪い“<童話の怪物|プロイキッシャー>”である事を、駒鳥は知っている。
「行ってらっしゃい。<讃|たた>える時間は二十分に設定したわ。
　……いつも通り、控え目に壊れてきて」
　魔女の一息と共に、<祝|いわ>いの言葉がつまった卵が消える。
　不意に、遊園地に強い風が吹いた。
　　　『彼らを殺すのは、自分だけで十分なのに』と。
　それは、目に映っていながら見過ごしてしまう、巨大な何かの嘆息のようだった。
　遊園地と外を分ける境界線に向かって、青子たちは走り続ける。
　行く手を阻むオブジェの数は減ってきていた。
　<外|そ><界|と>に通じる東側の鉄柵まで、あと三百メートル弱。
　幸運な事に、鉄柵への道中にはこれといって巨大な建物はない。
　あの観覧車に立ち<塞|ふさ>がられたらそれこそ終わりだが、観覧車が動き出すまであと幾ばくかの<猶予|ゆうよ>があるようだ。
　現れるのは青子の簡易魔術で吹き飛ばせる程度のオブジェのみ。
“これなら、なんとか―――”
　鉄柵まで辿り着ける、と青子は呼吸を整える。
　遊園地に満ちている<魔力|マナ>を使用しているので、青子本人の魔力はほぼ満タン。
　<身体|からだ>の魔術回路は調子をあげる一方だし、一度ぐらいは全開で魔術行使をしてもいいぐらいだ。
「―――？」
　と。
そんな青子の視界上空に、なにやら系統の違うモノが浮遊していた。
　それは草十郎のななめ上空に張りつき、三メートルの高さを維持したまま移動している。
「静希君、ちょっと」
「ああ。さっきから付いてきてる」
　青子より先に気づいていたのか、草十郎はイヤそうに上空を盗み見ていた。
　なにしろ自分にぴったりとくっついて来ているのだ。気にならない方がおかしい。
　浮遊物は大きさにして直径一メートルほど。
　表面のタイルには<十|と><重|え><二|は><十|た><重|え>に廻る光の躍動。
「……卵、かな」
　草十郎は自信なさげに呟いた。
「卵……？　卵って言ったら―――割れる卵！」
　<衛星|たまご>はゴムのように魔弾を弾く。
　その特性―――干渉を当然のように無効化するのは、間違いなく“<童話の怪物|プロイキッシャー>”……！
「やっぱり外からのルールじゃ壊れないか……
　静希君、アレから絶対に目をそらさないで！
　いい、何があっても見続けること！　視界の<隅|すみ>に入れとくだけでいいから！」
「あ、ああ!?」
　草十郎に指示をだしながら、青子は走る速度を速める。
　……アレは文字通り、割れる卵だ。
　塀の上に乗った卵人間。
　何をしても、何を言っても決して落ちる事はないが、目を離した途端に落下して破片をまき散らす。
「曰く、王様の軍隊でも元に戻せない数の破片―――」
　それがマザーグースに唄われるハンプティ・ダンプティの一節だ。
　あの卵の標的が草十郎なら、草十郎が卵から視線をきった瞬間、落下して爆発する……！
「……まあ、爆発するかどうかは知らないけど」
　どうあれ、厄介なモノをまき散らすに違いない。
　卵という形状、錠門の装飾、刻まれた詩文も気になる。
　アレが卵ならいつかは<孵|かえ>る。
　ずっと見続けていても、時間がくれば“中身が出る”としたら、ますます余力を残している場合ではない。
「蒼崎、速すぎないか!?
　あんまり全力で走ると―――」
「後の事は考えないで！
　いいから静希君は卵だけに集中して―――」
　卵の出現にあわせて、ここぞとばかりに立ちふさがるブレッドマン。
「邪魔―――！」
　かつてない大軍で押し寄せる焼きたてパンを、
　青子はこれまで以上の火力でなぎ払うのだが―――
「っ、<堅|かた>焼きか、この―――！」
　<弾く|スナップ>が効かないというのなら、刻印を用いた魔弾を放つ。
　<術式|だんがん>を用いた<風圧甲弾|ドロウ>。
　先ほどまでのが機関銃の掃射なら、これは大砲の一撃だ。
　<魔力|スナップ>に耐えきった堅焼きパンたちは、<魔術|ドロウ>の<奔流|ほんりゅう>を受けて焼き千切れていった。
「うわ……」
　もちろん、破壊はブレッドマンだけに留まらない。
　レンガの道は舗装をふっ飛ばされ丸裸にされ、
　近くにあった売店は鉄骨だけを残した<骸骨|スケルトン>と化していた。
　ブレッドマンの壁より青子の破壊活動の方がいずれ行く手を阻むのでは、と草十郎でなくとも不安に思う惨状である。
「ちょっと。なんで距離とるのよ、そこ。<傍|そば>にいないと危ないじゃない。
　ほら、もっとこっち！
　言っとくけどアンタがアイツらに囲まれちゃったらアウトよ？　私、人質とか意味ないタイプだし。そもそも区別して撃つとか、そういうのできないし」
　なるほど、と頷く草十郎。
　人質は意味をなさない、という言葉の意味は分からずとも、彼女の言わんとするところは分かる。
「つまり、今はどこであろうと危険なのか」
「……アンタね」
　草十郎の相変わらずの天然っぷりにカチンときながらも、青子は少しだけ感心した。
　草十郎はいたって真面目だ。
　彼の視線は、今の乱戦の中でもしっかり頭上の卵に向けられている。
「その分なら安心か。
　物分かりは悪いけど、一度言われた事はきっちり守るあたり、貴方のいいところよね」
「そんなことより蒼崎。俺の気のせいならいいんだけど、さっきのパン、堅くなかったか？」
「……まあね。アイツら、少しずつ強くなってきてるわ。
　大量生産が軌道に乗ったんで、今度はクオリティアップをテーマにしたのかも」
「静希君でもお察しの通り、ここからは手強くなっていく一方よ。あのパンたちでさえ個体差がでてきたみたいだし。
　考えたくないけど、そのうちジャム塗ったりレタス乗っけたり、はては合体したりして」
　冗談を言いながらも青子の目は真剣だ。
　容赦なく悪化していく状況に、草十郎は今更ながら戦慄を覚えてしまう。
「じゃあ、そのうちミラーハウスの人形ぐらいに恐くなるのか、あいつら？」
「間違いなくね。そこまで<高価|レア>なパンになったら私も自分だけで手一杯になる。ところで静希君、ああいうのとケンカできる？」
　ぶんぶん、と草十郎は心底イヤそうな顔で首を振る。
「でしょ？　なら急ぎましょ。色々余裕ないんだから」
　青子は短く深呼吸をして、駆け足を再開する。
　視界<遥|はる>か、霧の向こうの鉄柵まであと三百メートルほど。
　……このまま何事もなければ無事にたどり着けるかもしれない。
　そんな都合のいい希望を抱きながら、草十郎は青子の後に続いていった。
　彼はまだ、深い眠りの中にいる―――
　それは一面の、燃えるような<茜|あかね>色だった。
　<忍|しの>びない雑念。
　絶え間のない<我執|がしゅう>。
　見るも悲哀、語るも<陰鬱|いんうつ>な<悲喜交々|ひきこもごも>。
　人と人の<交|まじ>わりから生じる<有為|うい><悪作|あくさ>。
　即ち、救いようのない共存の<声|おと>。
　これはその一切から、あまりにも遠い世界の<風景|はなし>。
　天上<楽土|らくど>と手を合わせる者もいれば、
　死後の<幽世|かくりよ>と目を伏せる者もいるだろう。
　あと十年、
　あるいは何十年後かにはあり方を変えていく、いまだ人の靴を知らぬ<紅葉|こうよう>の海。
　それが、彼にとって当たり前の風景だった。
　<山中|さんちゅう>において人間の<営|いとな>みは<慎|つつ>ましくささやかだ。
　彼の住まいである山にも、向かいのお山にも目立つほどの建物はない。
　衣食住に関する事柄は必要な分だけ、多くを奪うことなく積み重ねられている。
　見れば蛇のように身をくねらせる野道や、<頂|いただき>に続く石段なども造られているが、それも山中に踏み入らなければ気付かない程度だ。
　この山で暮らす者たちの方針だろう。
　人の手によるもので、山の景色を損なう物は一つもない。
　ふと、この<季節|しきさい>が一番好きだった事を思い出す。
　好きというより己の性に合っていた。
　冬に備えてやるべき事は山積みだったが、<暇|ひま>を見付けては<頂|いただき>近くにまで足を運んだ。
　深く呼吸をして、ぼんやりと斜陽の<兆|きざ>しを眺めていた時が、たぶん、毎日で二番目ぐらいに幸せだった。
　茜の山をいっそう赤く染める夕日。
　<黄昏|たそがれ>時に吹く風は冷たくも、安らげるものだった。
　山を下りてからまだ二ヶ月も<経|た>っていないのに、記憶が<薄|うす>れている事が少し<淋|さみ>しい。
　日々の記憶は薄れていくから、それに負けないように思い出は重ねていくしかないのだと、誰かが口にしていたっけ。
　思い出はかくも<霞|かす>んでいく。
　住む場所が変われば、新しい生活は始まっていく。
　その中で、長く親しんできた景色を引きずるのは<贅沢|ぜいたく>なのか、未練なのか。
　<現在|いま>の住み家は高いビルディングに囲まれた都会なのに、この記憶だけは鮮明であってほしいと思うのが後ろめたい。
　なにしろせっかくの新生活。
　新居より故郷を思うのはちょっと、男としてどうか、と彼は生真面目に反省して、
「そうか。これ、夢だ」
　そう、ガラにもなく<耽|ふけ>っていた感傷を止めてみた。
　我が事ながら、何の迷いもなく夢と<判|わか>ってしまうあたり夢がない、と思いながら。
　夢と断じた途端、紅葉に鋭角な影がそびえ立っていく。
　それはかつて知らず、今は<既|き><知|ち>となったコンクリートの建物たちだ。
　思い出はこうやって、今の暮らしに<融|と>かされていく。
　もとより人間の記憶、人間の印象は、どうあがこうと劣化していく。
　それは仕方のない事だ。
　何であれ、人間は過去より今に期待するものだし。
　いずれ過去の思い出でさえ、ビルディングに飲みこまれていくだろう。
　無情も薄情もない。
　かならず消えると予感しているのなら、今はただ、鮮明に思いだせる記憶を夢見ていればいい。
　山であろうと町であろうと、日々はもとより一瞬だ。
　たとえ一日後の今日でも、昨日と同じ風景はどこにもないのだから。
　…………などと。
　しんみりする暇を、彼女はまったく与えてくれなかった。
　<懐|なつ>かしく遠い記憶は、美しいが故に<儚|はかな>いらしい。
「……<見|み><上|あ>げ<入道|にゅうどう>じゃないんだぞ、蒼崎」
　軽い目眩から目を閉じる。
　<視界|いしき>を切ったことで山の風景は見えなくなり、かわりに聞き覚えのある声が響いてきた。
　彼のいる山の中腹はおろか、山全体を震わすような大声だ。
　それも当然で、さっき幻のように現れた蒼崎青子は山の向こうにでーんとそびえていたのだ。
　本当に疲れてるんだな、と彼は自分の状態を確認しつつ、彼女の声に気を<配|くば>った。
　目を開けているとまた目眩がしそうなので、目は閉じたままである。
　……おおよその雰囲気しか分からないが、彼女は誰かと口論しているようだった。
　激しくはないが攻撃的な口調。
　たぶん向かいの山にでも喧嘩を売っているのだろう。
　彼女なら十分にありえる、と彼はひとり頷いた。
　なにしろ月まで吹っ飛ばした暴れん坊だ。
　会話の内容はよく掴めない。
　彼はなんとなく、漠然と、自分の人権あたりが盛大に無視されている気がした。……いかに夢中の出来事とはいえ、<甚|はなは>だよろしくない。
　数分の後。
　大迫力の口論は、青子側の勝利で終わったらしい。
　そうして、強風のようだった声も聞こえなくなった。
　次はマトモな光景でありますように、と他力本願<気|ぎ><味|み>に目を開ける。
「――――――」
　わずかに息をのむ。
　先ほどまでの懐かしい記憶とは何もかも違う、けれど、そう嫌いでもない風景。
　確かめるまでもなく、そこはあの遊園地だった。
　彼にとって最も鮮明な<過去|いぜん>の記憶。
　蒼崎青子が爆破したミラーハウスが懐かしい。
　現実と寸分の狂いもない遊園地だが、今いるのは彼だけだ。
　誰に追いかけられる心配もないので、キッツィーちゃんの残骸に腰を下ろして、撃ち抜かれた筈の月を見上げた。
　白い、<玻璃|はり>を思わせる冬の月。
　その月を背に、彼を殺そうとした少女の姿が重なった。
　……魔術師が魔女だと言うのなら、あの瞬間の彼女は確かにそうだったのだろう。
“殺されてもいい”
　そんな、あまりにも馬鹿げた言葉が、ごく自然にこぼれたぐらいには。
「……いや、でも―――」
　あれは魔女やら魔術やらとは関係ない。
　<胸|こころ>の隙をついた響き。
　彼女があんな言葉さえ口にしなければ、彼もあんな言葉を返さなかった。
　……あのとき、蒼崎青子はどんな言葉を投げたのか。
　それを思い出そうとしているうちに、深かった彼の眠りは終わりを告げた。
　もしかすると、夢見より長かった回想の答えもないままに。
　……そうして。
　見知らぬ部屋のベッドで目を覚ました瞬間、草十郎は大きく息を呑んだ。
　アパートの安布団とは段違いのベッドの感触や、
　絨毯はおろか壁紙まで高価そうな部屋の雰囲気に……ではなく。
「―――、―――」
　眼を白黒させたまま、こぼれかけた息を呑みこむ。
　驚きの<原因|モト>はそれだ。
　草十郎がぱちりと目を覚ました<傍|かたわ>らに、あの、黒衣の少女が座っていた。
　物音ひとつない静寂だった。
　草十郎はベッドに横になったまま少女を見つめる。
　なんとなく<上半身|からだ>を起こしたい衝動にかられもしたが、真っ正面からまじまじと見るのは無遠慮かもしれない、と思いとどまった。
　少女は椅子に座っているようだ。
　黒い、飾り気のない服装。
　そのくせ質素な印象はなく、単色なのに言いようのない気品を感じる。
　高級な繊維で作られた、この少女の為の装飾―――
　そんな詩的な感想を、草十郎をして抱かせるほどの。
　少女は座ったままぴくりとも動かない。
「――――――」
　草十郎の呼吸は知らず止まっていた。
　呼吸を忘れて少女に見入ったのは、純粋な驚きからだ。
　ただ美しい。
　その、あまりにも単純で、あんまりにも理由のない表現を同じ<人間|いきもの>に用いたのは、初めてのことだった。
　純潔のまま成長した<水仙|すいせん>の花。
　あるいは、夢に描かれた理想の少女像。
　少女のソレは、鑑賞され、愛でられる為の美しさだ。
　蒼崎青子の華やかな、生命に満ちた輝きとは違う。
　なぜなら、生命あるかぎり人は老いて尽きる。
　そのような結末―――幸福な完結は、この少女には許される筈がない。
　それはこの<奇跡|カタチ>のまま生まれ、このカタチのまま滅び去るひとつの<寓話|ぐうわ>。
　生まれながらに人間としての生を奪われた、この世ならざる命のあり方。
　……<過|か><度|ど>に美しいものほど、結末は<無惨|むざん>なものになる。
　山奥育ちの草十郎にとって、それは教えられるまでもなく経験している事だった。
『……眠ってるみたいだ』
　草十郎は誘われるように、首を横に向ける。
　横顔を盗み見るのは無遠慮だと知りつつ、本能には逆らえなかった。
　そうして―――
「……え？」
　今度こそ本当に、一瞬、心臓が止まった。
　少女は眠ってなどいなかった。
　無表情に、横たわる怪我人を見つめていただけだったのだ。
「…………」
　草十郎はベッドに横になったまま、動かした首を戻す事もできず、かといって気のきいた台詞も浮かばず、少女と無言で見つめあう。
　……<華奢|きゃしゃ>な輪郭からか、自分よりいくぶん幼く見える。
　反面、落ち着いた表情が年上のようにも感じさせた。
　肩口までの髪はにごりのない黒。
　そんな髪に合わせたように、大きめの瞳も混ざり気のない黒一色。
「……………………」
　少女は感情のない瞳を草十郎に向けている。
　草十郎と見つめ合うカタチになっても目は逸らさない。
「…………………………」
　草十郎は声をかけようにもかけられない。
　蛇に睨まれた蛙、という程でもないけれど、いま少女に話しかけるのは<躊躇|ためら>われた。
　それに、
　いかに<暢気|のんき>な草十郎でも、この少女が青子と同じ種類の<爆|にん><弾|げん>である事は身に染みて知っていた。
　一方、少女は少女で<堅|かた>く口を閉ざしている。
　一心に、雑念なく、横になった異邦人を看病する……ような雰囲気。
　少女が何を考えているかは不明だが、草十郎にとっては辛い沈黙が続いていく。
　草十郎に分かるのは、少女はこの沈黙をまったく気にしていない、という事だけ。
　これでは何らかの罰ゲーム、<罰則|ペナルティ>と言えなくもない。
『……。これが蒼崎の仕込みなら手がこみすぎる……』
　などと思いつつも、草十郎は少女から目を離せなかった。
　自分が首を戻したり目を閉じた瞬間、少女が隠し持ったナイフで自分の胸を刺すのでは……
　なんて想像をかきたてられたからではない。
　たしかに重苦しい沈黙で、遊園地での事を思い返すと不安になるけれど―――
　それ以上に少女は魅力的だと、彼は思ったのだ。
　細い体と白い肌。
　人を寄せ付けない瞳の冷たさと、いまだ残った少女の面影の温かさ。
　その二つが混ざりあった姿は、魔的なものと言ってもいい。
『…………？』
　そこまで少女と向き合って、草十郎は彼女とは以前会っているような気がした。
　遊園地の一件よりもう少し前。
　どこでだったかは思い出せないけれど、たしかに以前見かけた気がする。
「その、いまさらだけど」
　凍りついた部屋に、白々しく響く自分の声。
　その場違いさに申し訳ない気持ちになりながら、草十郎は少女に語りかけた。
　いつまでも見つめ合っている訳にもいかない。
　……見つめ合っていると思っていたのは自分だけで、少女は睨み合っていたつもりかも知れないし。
「ここはどこで、君は誰だか分かるかな」
　少女は黒い瞳をかすかに細める。
　気分を害した……風ではなさそうだ。
「………………」
　質問の返事はない。
　やっぱり黙ってよう、と草十郎が思った矢先、少女は静かに片腕を上げた。
「これ、あなたのでしょう」
　冷たいが、唄のような声。
　少女の指には白い布が<絡|から>まっている。
　それが何であるかなど、草十郎には語るまでもない。
　自分の持ち物を忘れるほど寝ぼけてはいなかったらしい。
　無言の草十郎に、少女はふわりと布を落とした。
　草十郎は布を拾い上げ、くるくると自分の首に巻く。
「……青子は、それを知っているの？」
　ぶしつけな問いから、草十郎は目を逸らす。
　彼の頭に浮かんだのはまったく関係のない事だ。
　少女は蒼崎青子を『青子』と呼んだ。
　では、青子が喧嘩を売っていたのは向かいの山ではなく彼女だったのだろう、と。
「さあ、どうだろう」
　できるだけ真摯に、予断を<交|まじ>えず草十郎は返答する。
　知るべき事と、知らなくてもいい事。
　伝えるべき事と、伝わってはいけない事。
　少女の言う「それ」がどちらなのか、草十郎には考えられない。ただ、
「でも、その方がいいとは思うよ」
　ごく自然に、少女の問いに微笑んだ。
　そんな草十郎の対応に感じ入るものがあったのか、部屋を支配していた重圧は目に見えて薄れていった。
　もしかすると、緊張の度合いは草十郎より少女の方が上だったのかも知れない。
　……この場を支配していた少女の心の在り方が、部屋に投影されていたのなら。
　緊張は消えた。
　草十郎は体を起こそうとベッドに腕をたてる。
　こうして話し合える以上、寝たままなのは不便だと思ったらしい。
　が。起きようとした途端、体の異様なだるさに驚いてしまって、簡単には起き上がれなかった。
　もぞもぞと動いて、ようやく上半身を起こすのが精一杯だ。
「……あれ？　洋服のままだ」
　かかっていた毛布を<剥|は>ぐなり、不思議そうに首をかしげる。
「申し訳ない。こんないい布団なのに、これじゃ不釣り合いだ。……というより、勿体ない」
　どうせならベッドに似合う寝間着で寝たかった、などとぼやく草十郎を、少女は意外そうに見つめている。
　何か、少女にとって予想外の事をしてしまったらしい。
『なんでだ。何もしてないぞ、俺』
　<謂|い>われのない好奇心を向けられ、なんとなく拗ねながら草十郎は少女に体を向けた。
　まだベッドの上に横たわってはいるものの、幾分ましな姿勢になっている。
「それで、さっきの続きだけど」
　そう、ここが何処で少女が何者なのか、まずそれを教えてもらわないと始まらない。
　実際のところ、遊園地の事を思い出せば思い出すほど、そら恐ろしい想像しかできないのだが。
「――――――」
　そんな草十郎の決意が伝わったのか、少女も冷徹に、背中に回していた手を動かそうとした時。
「…………」
「…………」
　またも無言で見つめ合ってしまう。
　バタバタバタ。
　外から響いてくる足音は、何者かが走って来るものだ。
　それが誰のものか、少女はともかく草十郎にさえもありありと予測でき―――
「有珠っ、約束！」
　この通り。
　乱暴な<一喝|いっかつ>と共に入ってきたのは予想通り、蒼崎青子その人だった。
　彼女は制服姿で、長い髪をなびかせて登場した。
　乱れた呼吸と不機嫌そうにつり上がった瞳が、どことなく修羅めいている。
「有珠っ！」
　青子にそう呼ばれた少女―――有珠はわずかに眉を<顰|ひそ>めた。
　……はあ、とかため息をこぼしたのかもしれない。
「早かったわね、青子」
　激している青子とは正反対の落ち着いた声。
　どこか白々しいのは言うまでもない。
「そりゃあ、アンタの性格は知り抜いてるからね。
　こういう時の短絡思考はこの二年で経験済みよ。お行儀がいいようで、面倒になったらあっさり投げ捨てるのがアンタでしょ」
「いやね、人聞きの悪い」
　青子の指摘を軽く受け流す有珠。
　もう草十郎なんて目に入っていない、と言わんばかりの態度だった。
「はん。それで今日まで何度<煮|に>え湯を飲まされたコトか。
　青子に<譲|ゆず>るといったけど、よく考えると面倒だから私の方で処理しておいたわ―――なんて事<後承|いいわけ>諾、もう聞き飽きたっつーの。
　短気なのはそっちの自由だけど、それなら後の始末は相方に任せるのが最低限の筋ってもんじゃないの？」
「そうね。そうでなければ協闘している意味がないわ。
　……まあ。今後の方針を勝手に決めた人の台詞じゃないとは思うけど」
「それもきっちり片をつけたでしょう。
　いい、勝ったのは<私|・><た|・><ち|・>よ。逃げ切れば見逃してあげるって言ったのは誰？　言動には責任を持ちなさい有珠。
　それともなに。もしかして、一番気に食わないのはそのあたりの理由なワケ？」
　む、と考えこむ有珠。
　青子の詰問は、有珠自身気付いていなかったところを突いたらしい。
「とにかく。
　コイツの扱いは、ちゃんと目が覚めて、本人の意志でどうするか決めるまで保留ってコトで合意したでしょ。
　人の留守中に出し抜くのはやめてよね」
「……それ。青子、学校はどうしたの。
　まだ正午になったばかりなのに」
「有珠の<学|と><校|こ>が今日で<終業式|おわり>って思い出して、家庭の事情って事で早退したのよ。期末試験前だってのに、ほんと、なにやってんだか」
　誰かに同意を求めるのではなく、自分自身に言い聞かせるように青子は言う。
　そうして青子と有珠は見つめ合った。
　いや、正しくは睨み合っている。
　今まさにとっくみ合いの喧嘩が始まりそうな緊迫感だが、<第三者|そうじゅうろう>としてはなす術なく眺めているしかない。
　……もっとも。
　しばらく続くと思われた沈黙は、一分ほどであっさりと終わってしまった。
　この程度のぶつかり合いは日常茶飯事らしい。
「……わたしは居間に行っているから。
　彼に事情を説明してあげて」
　有珠は椅子から立ち上がり、扉へと歩きだす。
　その背中を見て草十郎は首を<傾|かし>げてしまった。
　有珠の手には何か、どう控えめに表現しても、
『……果物、ナイフ……？』
　としか言い表せない<得物|えもの>が握られていたからだ。
「有珠。あえて聞くけど、その手に持ってるの、なに？」
　横を通り過ぎる有珠に問いかける青子。
「短剣ね、どう見ても」
　有珠は無表情で返答し、スタスタと部屋から立ち去った。
「……………………」
　よし。今の会話に関しては深く考えないようにしよう、と自己防衛する草十郎なのだった。
　ともあれ、緊張感の大本であった黒衣の少女は立ち去った。
　部屋にはベッドに横になった草十郎と、制服姿の蒼崎青子がいる。
　草十郎からすれば、たまりにたまった疑問を解決するには絶好の機会だ。
「ワケの分からない事だらけだ、蒼崎」
「でしょうね。順序だてて説明してあげるから、ちょっと黙ってて」
「顔の麻痺も取れてるし、呼吸も再開、と……これならもう安心かな」
　青子はよし、と頷いて椅子に腰を下ろした。
「どう、調子は？」
「…………なんか、だるい」
　がっくりと肩を落として、草十郎は弱々しく返答する。
　答えながらも左手を何度か握りしめたが、指の動きは緩慢で、ぎこちない。体がまだ不調であるのは明白だ。
　一方、青子は目をしばたたいていた。
　驚き……というより、感心しているようだ。
　有珠といい青子といい、草十郎には彼女たちの表情を読み取るのは難しい。
「ま、体が重いのは当然よ。
まる二日経ってるし、寝てるだけでも体は弱ってるだろうし。
　でも、もう話せるくらい回復してるとは思わなかった。
　アンタって見かけより頑丈にできてるのね」
「？　……二日って？」
「あれからそれだけ経ってるの。学校には欠席届だしといたから、その点は安心して。
　ガンドの呪いもダンプティの<詩篇|のろい>も、私と有珠とで解呪しといたから」
　呪いと聞いて、草十郎はああ、と頷いた。
　そういえば、そんな事もあったなぁ、と。
「どうかした？　そんな遠い目しちゃって」
「ああ、忘れてた。それで二日も寝こんでたのか。恐いもんだな、呪われるって事は」
「……ほんと緊張感ないわねアンタ。蝋のように眠ってたのが嘘みたいよ。下手すると一生あのまま、石膏もどきだったかもしれないのに」
「……ちょっと待った。今、すごいコト言わなかったか？」
「言ったけど聞かぬが花よ。
　ま、経緯はどうあれ、後で有珠にお礼を言っときなさい。私じゃ解呪できなかったんだから」
「……ひどい花もあったもんだ。
　あ、けど、有珠っていうのはさっきの<娘|こ>か？
　遊園地で、その……俺たちを殺そうとした？」
　それにまあね、と答える青子。
「彼女、ずっとそこに座ってたけど。……ここは彼女の部屋なのか？」
　草十郎は改めて部屋を見渡す。
　自分が眠っていたベッド共々、彼の見聞にはない洋風の部屋。
「ううん、ここはただの客室。長いこと使ってなかったから埃だらけでしょ。
　それより有珠と何か話したの、あなた？」
「―――。
いや、あれを会話と言うのは、ちょっと」
　草十郎は口に手を当てて、さっき交わした言葉を思い返す。
　……彼の言う通り、アレを会話と言うのはおこがましい。
　なのに、思い返してみると何時間も話していた気がして、草十郎はかすかに苦笑してしまった。
「とはいえ、緊張は解けたと思うよ。
　蒼崎がやってくるのがもう少し遅かったら良かったのに」
　本心からの一言に、青子はムッと瞳を細める。
　草十郎が<青子|じぶん>を邪魔者扱いしていないのは分かるが、面と向かって言われるのは面白くない。
　さらに面白くないのは、彼のそんな言動に慣れはじめている自分がいる事だ。
「でも、だから、なのかもね。相変わらず首の皮一枚の人生送ってるわ、貴方って」
　それにはい？　と首を傾げる草十郎。
「だから、アンタはよっぽど有珠好みの対応をしたのよ。
　まだ生きてるって、そういうコト」
「？？？」
　青子の言いたい事はどうにも草十郎には掴めなかった。
　掴めなかったので、その事はあえて訊かない事にする。
「……ところで、ここは何処なんだ？
　あの<娘|こ>に訊いても教えてくれなかったけど、蒼崎なら教えてくれるだろ」
「ここは三咲町の幽霊屋敷よ。正確には<久遠寺|くおんじ>邸と言えばいいかしらね。
　さっきの娘……久遠寺有珠の持ち家で、私が住んでるところでもある。あの後、貴方をここまで持ってきたんだけど、<覚|おぼ>えてないでしょ？」
　持ってきた、という単語にいまいち違和感を覚える草十郎だった。
「久遠寺って言う名前は聞きおぼえがあるような……そうだ、よく商店街でおじさんたちが話してた。なんでもえらいお金持ちだとか、なんとか」
「それ、有珠の前ではご<法度|はっと>よ。
　穏便にここで暮らしたいならね」
「……？」
　本日何度目かになる首傾げだった。
　今、またも引っ掛かる単語が出てきた気がする。
「蒼崎。君、今なんて言った？」
「静希君。私ね、あからさまな嘘を言う人と、同じ事を何度も言わせる人と、察しの悪い人には容赦しないから。
　そのあたり覚えておいてね、ここで平穏に暮らしたいなら」
　極上の笑顔で、さわやかに不穏な宣言をする青子。
　もちろん、草十郎にとっては寝耳に水の話である。
「……気のせいならいいんだけど、君の言葉には、俺がここに住むような響きが感じられる」
　草十郎は正直に、心底から嫌そうな顔で青子を見る。
　彼なりの精一杯の<反政府運動|レジスタンス>だ。
　が、そんな貧弱な運動は効かない、とばかりに青子は冷酷な視線を返すのだった。
「貴方、自分の立場を分かってる？」
「えーと、」
　それが分かっていれば蒼崎が苦労しない、というのは分かるよ―――
　なんて感想を喉もとで止めて、草十郎は首を横に振った。
　空気を読めない彼でも、今は自重すべきだと感じ取ったらしい。
　そんなのんびりした態度こそが青子の癪に障る事を、彼もそろそろ気付くべきだ。
「……はあ。そうだった。アンタに回りくどいこと言っても無駄だったのよね。
いいわ、考える時間ぐらいあげたかったけど、時間もないし、はっきりと言ってあげる」
「いい、静希君？
　このたび、貴方は私たちの監視下に置かれることになりました。しばらくはここで一緒に暮らしてもらいます。
　もちろん、生殺与奪の権利はこちらにあるという条件で」
「なっ……！」
　あまりの<横暴|おうぼう>さに吹き出しかける草十郎。
　笑顔で言えば傍若無人が通ると思うのもやめてほしい。
「い、一緒に住むって蒼崎とか！？」
　あわてているのは青子と一つ屋根の下で暮らす事に淡い期待を持ってのこと―――
　では当然なく、
　純粋に、己が身を案じてだ。
　いかに彼がお人好しでも、一度殺されかけた事実はきちんと受けとめていたらしい。
「とんでもない！
　冬眠前の熊と、一緒に<暖|だん>を取るようなもんだ！」
　失礼な感想に、青子はそうね、と平然と答える。
「たまには的確な<比|ひ><喩|ゆ>をするじゃない。
　貴方の言う通り、下手なコトをしたり決まりを破ったりしたら今度こそ息の根止めるからね。
　それと、ここに住んでるのは私と有珠のふたりだけよ。
　あの子、私なんかより数倍常識ないから。気をつけないと死んじゃうぞ」
　青子は１００パーセント本気である。
　<嘘|うそ><偽|いつわ>りない発言こそ誠意と言わんばかりだ。
「いや、いやいやいや！」
　無論、そんなんで被害者である草十郎が納得できる筈もない。
「待ってくれ、俺にはちっとも蒼崎が分からない！
　監視するって言うけど、なんでそんな話になってるんだ？　考えられる範囲、悪いコトとかしてないし、そもそも俺を見張っても得なコトなんていっこもないし！　
蒼崎は色々まちがってる！」
「―――む。いや、それとも魔術師っていうのは、みんな蒼崎みたいなのか？」
　ぼうじゃくとかぶじんなのか？　と心底困った視線を向けてくる人畜無害。
　……青子からすれば頭痛のタネもいいところだ。
　素直すぎるのも考えもので、この通り、草十郎は青子が魔術師であることを異常だと思っていないのである。
「だ、か、らっ！　アンタが、そういう風に、誰はばかることなく私たちの事を言い触らさないかを見張ってんじゃない、この常識なしッ！」
　青子は勢いあまって椅子から立ち上がった。
　先ほどから我慢してきた青子の堪忍袋の緒はすっぱりさっぱり、気分よく断ち切れたらしい。
　そんな青子を見て、ぽん、と草十郎は両手を合わせる。
「そうか。蒼崎が俺を殺そうとしたのは、魔術師であることを隠さなくちゃいけないからだったっけ。
　うん、それなら分かる。監視するのは蒼崎の秘密のコトで、俺の命云々はオマケみたいなものか」
「…………。そりゃあ本質的に言えば、そうだけど。
　身もフタもないわね、その言い方」
「けど、それはあまり意味がないんじゃないか？
　学校もあるし、バイトだってあるんだ。一日中、この家から出ないワケにはいかないんだぞ」
「……………………」
　自分を客観視できる草十郎に感心したのも一瞬、あまりの返答に絶句する青子だった。
　ほんとーに、この男は自分の立場というものが分かっていない。
　ここまでの話の流れで、そんな自由があると思っているあたり大物ではあるが。
「……いや、落ち着け私。話が早くなってある意味助かるし」
　なんとか体裁を整える青子。
　実のところ、青子も監獄じみた拘束をする気はない。
　あらゆる自由を禁じ屋敷に閉じこめる、なんて方法では草十郎との約束に反してしまう。
　第一、そこまでするなら亡き者にしたほうが早い。
　青子にとって『生かす』という事は、静希草十郎という人間の生活を最低限尊重する事である。
「あ。……も、もしかして、この部屋から出ちゃいけないのか、俺！？」
　ピコーン、と音が鳴りかねない顔で、思いつきを口にする草十郎。
　悪い方向での想像にようやく行き着いてくれたらしい。
　そんな狼狽ぶりに、少しだけ<溜飲|りゅういん>をさげる青子だった。
「大丈夫よ。監禁生活なんて面倒なコトだけはしないから。
　貴方の自由はそれなりに考慮してあります。そのあたりのさじ加減は有珠の手腕に任せてあるから、貴方は心配しなくていいわ」
「………………」
　草十郎は無言で、それはよけいに心配なのでは、と顔を曇らせた。
「いい？　貴方の処遇は、この家に住むコトを前提にした監視で、それも解決策が見つかるまでの期間限定。
　何でもいいから目撃者を殺す、なんて事より、こっちの方がよっぽど穏便でしょ。
　……だいたい、これは私と貴方との約束なんだから、いちいち文句言わないでよね。ただでさえ有珠との冷戦が続いてて頭痛いんだから」
　ため息まじりに言いつつ、青子はベッドの上の草十郎をキッと睨みつける。
「けど勘違いはしないで。
　ここじゃアンタの地位は最下層のさらに下、番犬より下なんだから。アンタの生殺与奪はあの夜から私が握ってるんだから、アンタは私に所有されてるようなもんなの。
　さ、これで自分の立場、<判|わか>った？」
　<大|おお><威|い><張|ば>りでそう言われて、青子に気付かれないよう、草十郎は天を仰いだ。
　青子には申し訳ないが、ちっともぜんぜん判らない。
　個人的な感想と言えば、犬より簡単と言われて怒らないのは人間としても、お犬さまにも礼を欠くと思うのだが、自分と彼女の戦力差は兎と猪ほどもあるので反論もできない。
「……………………はあ」
　見上げた天井は、自分の安アパートとは違って豪奢な紋様があしらわれている。
　……自分の扱いはともかく、建物に関しては文句なしにグレードが上がっている。
　つまり、悪いことだけじゃないだろう、と。
　自分に言い聞かせるように、草十郎はうんうんと頷いた。
　それに―――
“とりあえず、命は助けてあげるから”
　あの時。
彼女は確かにそう言ったのだ。
「あまり納得したくないけど、自分の立場は分かったよ。
　うん、たしかにそんな約束だった。色々と言いたい事はあるけど、それは認めるしかない。
　だけど、君たちと一緒に住めっていうのは本気なのか？
　蒼崎は細かいコトは気にしないとしても、さっきの娘は嫌がりそうだし、俺だって少しは……」
　そこで、草十郎はぴたりと黙りこんだ。
　青子の目がひどく殺気を帯びて見えたからだ。
「あら、静希君はご不満？」
　無理に笑ってるとしか思えない彼女の口元に、草十郎は絶望を見た気がした。
　そういえば、さっき同じ事は何度も言わせるなと忠告された気がする。
　さらにさらに。
　実際問題として、どんなに実感が湧かないとしても、静希草十郎の命は蒼崎青子に握られている。
　怒らせるのは<賢|かしこ>くない、と他人事のように頷く草十郎なのだった。
「……いや、別に。だってそれ以外ないんだろう？」
　当然、と頷く青子と、
　降伏するようにがっくりと肩を落とす草十郎。
「……うん、蒼崎の言い分は分かった。
　ただ、いちおう聞いておきたいんだけど。俺の人権はどこにいってしまったんだろう？」
「莫迦ね、そんな形のない物なんて初めからあるワケないでしょ。つまんないこと言わないでよ」
　……うん、たしかに今のはつまらない事だった、と草十郎は噛みしめる。
　そもそも彼にしてみれば、いまの青子の答えは分かりきっていた事だ。
「……ああ、だと思った。
　そんな気はしてたんだ、目が覚める前から」
「？」
　草十郎の独白に青子は不審げな目を向けたが、すぐに気を取り直した。
　この男の発言をいちいち気にしていたら日が暮れてしまう、と骨身に染みているからだろう。
「とにかく納得いったみたいね。
　じゃあ次、いよいよ本題。居間に移動するわよ。
　説明しなくちゃいけない事が山ほどあるんだから。
　―――って、ひとりで立てる？」
「さっきから手を動かしてたから、血は巡ってる。
　歩くぐらいならいけそうだ」
「そ。なら問題ないわね」
　言うなり、彼女はくるりと草十郎に背を向けて歩きだした。
　その背中は、もう何度と見てきた颯爽とした後ろ姿だ。
　瞬間、落雷のように記憶が巻き戻される。
『……そうだった。蒼崎は、こういうヤツだった』
　知らず、頬がほころぶ。
　草十郎にとっては右も左も分からない状況だったけれど、それだけで彼は充分に落ち着けた。
　……今の青子は、ミラーハウスでの彼女とは違う。
　あんな、無理やりに思い詰めた彼女ではない。
　きびきびとした動作もためらいのない視線も、なんだかひどく懐かしい。
　それは初めて会った時と同じ、不機嫌そうで、そのくせ自信に満ちた彼女本来のあり方だった。
「ほら、急いだ急いだ。
　有珠がさっきから居間でお待ちかねよ」
　彼女はとっくに扉から出て、薄ら寒そうな廊下に立っている。
「はあ。寝たきりの辛さを知らないだろう、蒼崎は」
　ぼやきつつ、草十郎はなんとかベッドから起き上がった。
　横臥中だるかった体は、立ち上がって歩こうとすると逆に硬く痛む。
　一歩前に出るだけで骨に<痺|しび>れと痛みが響いた。
　それでもしれっとした顔で青子へと歩きだす。
　苦いもの、厳しいものは無意識に受け入れる草十郎だったが、今回にかぎっては意識的に受け流した。
　要するにやせ我慢だ。彼がこんなふうに、不自然に自分の気持ちを抑えこむのは珍しい。
「驚いた。アンタ、ほんとにタフね」
「ありがとう。けど、心は弱いんだ」
「そ。参考までに心に留めておくわ。出来るだけ優しく扱えるようにね」
　もちろん、青子の声には優しさなど微塵もない。
　がっくりとする草十郎をよそに、青子はスタスタと廊下を歩きはじめる。
「―――、と」
　その時、何かを思い立ったように彼女はピタリと足を止めて振り向いた。
　言い忘れていた事、それでいて何でもない事を告げるように、
「それじゃ行くわよ。付いてきて、草十郎」
　颯爽と振り向いて、彼女は自然にそう言った。
「――――――」
　その時に開かれた視界を、彼女は知らない。
　彼女が魔法使いだと言うのなら、この言葉こそ魔法だったことを、口にした当人だけが知らずじまい。
　彼は眩しいものを見たようにまばたきをした後、自然に頷いて、その背中を追いかけた。
　館の広さはかなりのものだった。
　三階建ての洋館は、部屋の数でも草十郎の住むアパートを上回っている。
　ただ、その広さは持てあまし気味だ。
　部屋数と住人の比率は合っていない。絨毯張りの廊下は、その豪華さとは裏腹に寒々しかった。
　草十郎が眠っていた客室は二階の東側にあった。
　一階に下りる階段はこの廊下の先、館の中央にあるらしい。
　窓から差しこむ冬の日射しが、廃墟じみた廊下をいっそう寂しく見せている。
　館の中央部は吹き抜けになっていて、そのまま一階の様子が見下ろせた。
　階段は壁に<沿|そ>って造られている。
　一階と二階を繋ぐ階段の他に、二階のホール裏には三階への階段もある。おそらく屋根裏に倉庫でもあるのだろう。
　きょろきょろと見渡している草十郎をよそに、青子は慣れた足取りで階段を下りていく。
　ロビーは一転して白色と木の空間だった。
　天井からの日射しが木の床を明るく照らす。
　壁は一面の白色。一点の汚れもなく、高い壁をより堅固に見せている。
　二階に続く階段と、
　長らく使われていない暖炉。
　ぞんざいに放置された電話機と、
　独りぼっちで時を刻む大時計。
　ここは洋館というより古城の様だ。
　あまりの異世界っぷりに呆然としている草十郎に、青子は冷たい視線を向ける。
「居間はこっちよ。ぼさっとしない」
　彼女は階段横の扉に手を掛けた。
　ロビーには四つの扉があって、玄関から見て東側の扉が居間に続いているらしい。
　反対側にある西の扉は館の左翼に。
　南側の扉は玄関。
　北側、暖炉の横にはさらにもう一つ。
　階段の下に隠れている扉は浴場に続いているのだが、今の草十郎には知るよしもない。
　一階の廊下には窓がないため、全体的に薄暗い。
　さながら、二階は放置された診療所で、ロビーは日本とは思えない西洋の城。
　そして一階廊下はホテルを思わせる窓なき迷路。
「…………」
　都会に来て日が浅い草十郎にも、この洋館がただならぬものである事は感じ取れる。
　手放しで喜べないのは、そのお化け屋敷としばらく付き合う事になりそうだからだ。
「そこが居間で、奥が厨房ね。簡単な料理ぐらいはできるようになってるから。
　居間のとなりにはサンルームがあるんだけど、ここが食卓の代わり……
って、そんなの後でいっか」
　言って、青子は暗い廊下の扉に手を掛ける。
　ドアノブを回す<間際|まぎわ>。
　青子は意味ありげな<視線|コンタクト>を草十郎に送ったが、すぐに消した。
　ドアノブは待ったなしで回される。
「お待たせ。承諾したわよ、あいつ」
　青子は居間に入りながら、中にいる有珠に語りかける。
　草十郎も少しだけ迷ってから、居間へと足を踏み入れた。
　廊下とは違い、居間は思いのほか現代的だった。
　絨毯の敷き詰められた床も、革のソファーも、30インチの大きなテレビも、草十郎がこれまで知り得た一般家庭の趣きに満ちている。
　その家庭的な居間のソファーに、家庭的な団らんとはかけ離れた少女が座っていた。
　青子は黒い少女の向かいのソファーに座る。
　草十郎に残された席は二つ。
　蒼崎青子のとなりか、
　久遠寺有珠のとなりか。
「…………」
　草十郎は二秒ほど悩んだ末、どっちも不吉な気がしたので壁ぎわで立つ道を選んだ。
　テーブルを挟んで青子と有珠は向き合っている。
　何も載せられていない真っ平らなテーブルが、どことなく寒い。
「当事者も認めた事だし、これで何の問題もないわね、有珠」
　青子の念押しに、有珠はこくんとうなずいた。
　……こうして壁ぎわから見ていると、目に見えない文句のぶつけ合いが手に取るようだ。
　彼女たちの間で、自分の扱いについて一波乱あったんだな、と今更ながら草十郎は感じ取った。
「……そうね。原因も究明しないといけないし」
　<昏|くら>い色をした目が草十郎を流し見る。
　視線と同じ<抑揚|よくよう>のない声。
　そのくせ、草十郎の同居を認めていない意志がありありと伝わってくる。
「けれど、貴方はそれでいいの？
　遊園地での事を忘れてはいないでしょう？」
　有珠の声には批難と、試しの色が混ざっている。
　自分も青子も一般人からすれば危険物だ。そんな得体の知れない人間の<傍|そば>にいられるのか、と。
「そりゃあ夢だと思いこみたいけど、ちゃんと覚えてるし。できるだけ無事に済ませるには、これが一番<無難|ぶなん>そうだ」
　なにより命の保証はされてるみたいだし、と。
　返答する草十郎に、有珠はそう、と無関心げに答えた。
　そうして無言のまま、コトリ、とテーブルに小物を置く。
　白い指が置いた物は、<硝子|ガラス>の<小瓶|こびん>だった。
　ガラスは透明というより薄い青色をしていて、その色あいだけでも高級品だと見て取れる。
　有珠はその瓶の<蓋|ふた>を、鶴か何かを思わせる仕草で抜いた。
『………………？』
　草十郎にとっては初めて見る小瓶だったが、妙にひっかかる物がある。
　しかし悲しいかな、何がネックなのか思い当たらない。
　青子が<傍観|ぼうかん>を決めこんでいるのも気にかかる。
　そんな、イヤな予感に気を張る草十郎に、有珠はもう一度視線を投げた。
　……少女の瞳は、やはり魔的な感じがする。
　そんなコトを思っていた草十郎に、有珠は表情のない顔で呼び掛けた。
「静希君」、と。
　{{{は―――い？}}}
　<囁|ささや>くような有珠の呼びかけに応えた瞬間。
　<彼|・>の周囲の風景は、かくのように一変していた。
　空気は色と形を持ったように<濁|にご>っている。
　重く肌に<纏|まと>わりつく密度の濃さ、不自由さは、さながら空気が文字になったようだ。
　{{{、―――、、―――！}}}
　息を吸う口から、<文字|いぶつ>が肺に入る錯覚に襲われる。
　咄嗟に口を<塞|ふさ>ぐ右手も、胸を押さえる左手も、きちんと見えるのによく見えない。
　山で出会った深い霧だって、ここまで意識を<拐|かどわ>かす事はなかったはずだ。
　―――喩えるなら、そう。
　まったく見当違いの比喩ではあるが、まるで生身のまま、<新|・><聞|・><紙|・><の|・><中|・><で|・>立っているような。
　味わった事のない方位感覚に、まず聴覚から慣れていく。
　呼吸は普段通りだが、ざらついた圧迫感がある。
　別に閉じこめられている訳ではないのに、この周りはひどく<狭|せま>い。
　突然の異変に驚くより先に、その狭さから逃れるために手を伸ばしたほどだ。
　けれど伸ばした手は<空|くう>を切るだけ。
　周囲に壁はなく、これだけ見晴らしのいい場所で「狭い」と感じること自体、常軌を逸している。
　深い霧の日は神隠しに遭う―――
　山でのそんな<口伝|くでん>を信じていた<彼|・>ではなかったが、これは本当に神隠しの領域では、と思いかけて、
　そこでようやく、
　彼はもっと別の、
　驚かなくてはいけないコトに気が付いた。
　そもそもの話、居間が別世界に一変した訳ではない。
　なぜなら霧ごしに見える景色は、間違いなく<彼|・>が先ほどまで居た居間の物だったし、
　その場にいた二人の少女―――蒼崎青子と久遠寺有珠の姿もきちんと見えている。
　ただ、その見え方に問題があっただけだ。
　地面は黒い、真っ平らな地平だった。
　そこから見上げるようにして二人の姿が見える。
　現実味のない、入道雲の様に大きな少女が、冷たい瞳を向けている。
　部屋の構造、そこにあった家具の位置関係を思い出し、<彼|・>は信じがたい素直さで、この事態を把握した。
　あの遊園地でのパレードを経験しておいて、なお信じられない、と頭を抱えそうだが。
　<此|・><処|・>は間違いなく、久遠寺有珠が取り出した小瓶の中であるらしい。
「<図|はか>らずも」
　青子は有珠の性根の悪さに呆れながら、テーブルに置かれた小瓶をチラ見する。
「二日前の夜と同じ状況になったわね。
　今回、<草十郎|ソイツ>は起きてるけど」
　淡々と青子は語った。
　有珠はというと、小瓶には視線も落とさず、目前の青子を見つめている。
「……意外ね。青子は怒ると思ってたのに」
「いや、私も似たようなコト考えてたから。
　少しは魔術ってもんを思い知らせておかないと困るでしょ。
有珠がやってくれるなら止めはしないし<怒|おこ>りもしないわ。
　……ま、こっちが予定していたものより何倍もメチャクチャだけど」
　言いつつ、青子は小瓶から視線を外さない。
　有珠の魔術に無関心を装っているものの、興味を隠しきれていない。
　小瓶の中の人影はようやく事態が飲みこめたのか、バタバタと手を伸ばしたり、全力で走ってみたり、色々と試行錯誤しているように見えた。
　小瓶の表面が<濁|にご>っているため、<外|そ><界|と>からでは<瓶|なか>の様子はぼんやりとしか分からない。
「……ところで、これって私にくれたヤツとは別物みたいだけど」
「アレより作りは細かいわ。
青子にあげたのは使い捨ての、隔離するだけの物よ。コレはお互いの声も聞こえるから」
「へえ。けど、そのわりには何の反応もないわね」
「青子には聞こえないだけよ」
　平然と言って、有珠は小瓶へ視線を落とした。
　同時に人影の動きが止まる。
　どうやら有珠だけが、小瓶の中の別世界と関わりが持てるようだ。
『……なんだ、術者にしか特典はないんだ』
　つまらなそうに<嘆息|たんそく>する青子。
　そんな青子をよそに、有珠は誰に話しかけるのでもなく口を開けた。
「どう？　これでも一番、無難だと思う……？」
　語りかける相手は、言うまでもなく小瓶の中の人影だ。
　先ほどの会話。
　この洋館に住む事が無難だと言った彼の言葉を、少女はこんなカタチで確認しているのだ。
『……いきなり小瓶に閉じこめて聞き返すあたり容赦ないというか……この子の洋館への執着も問題よね……』
　が、目撃者をミラーハウスに誘いこんで、正々堂々と殺し合いをしよう、と提案した自分が批難できる事でもない。
　青子は有珠が感情的になって手をあげないよう注意しつつ、あくまで傍観者として事の顛末を見定めている。
「――――――」
　少し間をおいて、有珠の表情が変化した。
　少女の問いかけに、人影は何らかの返答をしたらしい。
　小瓶の中の様子を探れない青子には彼がなんと返答したかは分からない。
　ただ、
　相方がああいう顔をしている時は、完膚無きまで、相手の言い分が正しかった時なのだった。
「……わたしが言える事でもないけど」
　少女は一瞬、青子を<一瞥|いちべつ>する。
　有珠はかすかにかぶりをふって小瓶に手を伸ばし、
「……本当。物好きね、静希君は」
　<憂鬱|ゆううつ>げなため息のように、彼の名前を口にした。
　<蓋|フタ>が抜かれた瞬間、居間の空気がわずかに揺れた。
　かと思うと、先ほどまで壁際に影だけ映していた少年が、<憮然|ぶぜん>とした顔で壁に寄りかかっていた。
　ちょうど自分の背後にいる草十郎へ、青子は片肘をついたまま振り向く。
「どう、気分は？」
「見ての通り、めちゃくちゃだ」
　草十郎は柄にもなく敵意をむき出しにしていた。
　<怯|おび>えや驚きではなく怒っているあたり、相変わらず謎なヤツ、と青子は思う。
「……夢で似たようなものを見てなかったら、今ごろ心臓が止まってたところだ。そこはついてたと思う。
　信じられないのは、なんでいちいち実践するかって事だ。魔術は恐いものなんだって言えば済むだろうに。
それと、ぶっそうな蒼崎の声、聞こえてたぞ」
「ぶっそうで悪うございました。
けど、言葉じゃなくてきちんと実感してもらいたかったのは本当よ。
　どう？　魔術ってもんを甘く見てたでしょ、草十郎？」
　不本意ながらも、むう、と納得する草十郎。
　彼の場合、『甘く見ていた』と言うより『分かっていなかった』と言う方が正しいのだが。
「けど、実感うんぬん言われても困る。
　これまでの蒼崎の無茶っぷりと、今の訳の分からなさはとても比べられない」
「ちょ、
そりゃそうよ、有珠と比べないでよね。
　有珠の魔術は私たちの中でもデタラメで、もう言葉にできないぐらい最悪なんだって言ったでしょ」
「……失礼ね。人命を<脅|おびや>かす、という点なら青子の方がよっぽど酷いと思うけど。
　それより貴女、本当に彼を殺す気はあったの？
　一体どんな追いつめ方をすれば、蒼崎ならたぶん安全、なんて言葉が返ってくるのかしらね」
「そ―――
そんなのあったに決まってるでしょ！
　コイツがなんて言ったか知らないけど、ぜったい意味違うから！
　<草十郎|コイツ>はね、そもそも何が危ないのか<火傷|ヤケド>するまで気付かない……
っていうか、火傷しても“よし、死ななきゃ安い”なんて本気で思っちゃう天然ボケなのっ！
　ね、そうでしょ草十郎！？」
「え？」
　とつぜん怒鳴られ、よく分からないクセに「うん、まあ」とうなずく天然なんとか。
　居間は騒がしいコトこの上ない。
「………………」
　そんなふたりを、有珠は<呆|あき>れたように見つめていた。
　ともあれ、草十郎は洋館での監視生活を承諾した。
　魔術を<生業|なりわい>とする者と屋根を同じくすること。
　それがどれだけ危険であるのか、身をもって体験させられた上で、
「うん、まあ、そういう事なら」
　とてもそうは見えないが、彼なりに真剣に考えた末で、はっきりと答えたのである。
「それじゃ、やっと本題に入れるわね。
　監視するとは言ったけど、どうやって草十郎を監視するのか。そもそも、貴方を監視する原因になった『魔術』とは何なのか。そのあたり、ざざっと説明させてもらうわ」
　新しい規則のレクチャーはきちんと聞くように教育されているのか、草十郎はいいぞ、と身構える。
　一方、有珠はまだ不満があるようで、かたくなに口を閉ざしていた。
「最初に言っておくと、アンタをここに住まわせる期限は決まってるから。
　要はその期限まで、誰にも私たちの事をしゃべらず、また、勝手に死ななければ晴れて自由の身ってこと。
　ね、そうよね有珠？」
「……そうね。わたしたちを怒らせなければ、そういう可能性もあるわね」
「よし、いきなり話が食い違ってる」
　<予|う><想|ん><通|う><り|ん>、とうなずく草十郎と、
「ちょっと黙ってて有珠。
あとアンタも黙ってろ」
　そんなふたりを睨みつける、気苦労の多い青子。
「……話を続けるけど。
　秘密保持のためにアンタを住まわせる場合、二次災害はどうしても避けられない。
　同じ家にいる以上、余計に秘密を見せる事になるからね。有珠はそれがイヤなんだろうけど」
　言われてみればその通りだ。
　監視対象を軟禁した場合、更なる内部事情の<露呈|ろてい>は避けられない。
「ちょっと待ってくれ。どうどう巡りじゃないか、それ？」
「大丈夫、問題ないわ。だって、最後にはここで暮らした記憶ごと、私たちの事を忘れてもらう事にしたから」
「―――忘れてもらう？」
「そ。公園での一件からまるごと全部、忘れてもらう。
　ルーンっていう魔術系統があるんだけどね、その中でサクッと記憶を忘れさせる物があるのよ。
　非人道的であるのは変わらないけど、ま、命を消すかわりに記憶を消すって事で妥協して」
「――――蒼崎、それは」
「悪いけど反論は却下。
　で、肝心の<忘却|ぼうきゃく>のルーンなんだけど。私も有珠も専門外だから、文献を探して修得するのに時間がかかる。
　つまり、それが監視の期限ってワケ。
　私たちが忘却のルーンを見つけるまで、命を担保に口を閉じていてもらうわ」
「有珠はそんなややこしい事はせずに、五感全部壊してしまおうなんて言ってるけど。
　―――静希君、<彫像生活|リビングスタチュー>とか嫌でしょ？」
「む」
　青子の言っている事は八割納得できる草十郎だったが、最後のリビングスタチュー、という単語はあまりにも意味不明だった。
　できるかぎり想像力を働かせるも、こう、キッツィーちゃんばりのクリーチャーしか想像できない。
「うん。それは、たしかにイヤだな」
　難しい顔で頷く草十郎に、青子もでしょう、と同意する。二人の<齟齬|そご>はとても深い。
「とにかく、遅くても一ヶ月で“忘却のルーン”は見つけだせるだろうし、一回きりの実行ならプラス二ヶ月ぐらいでなんとかなるわ。
　それまで<草十郎|アンタ>にはここで暮らしてもらうワケだけど……私たちについて無知なまま歩き回られると、命の保証はできないのよ」
「そっちもこっちの事情を知らないのは気持ち悪いだろうし。なんで、今から簡潔に、現代の魔法使いのなんたるかを教えてあげる。
　それで少しは私たちへの勘違いもなくなるだろうし」
　ま、この山奥育ちに現代も過去もないだろうけど、と青子は自分の台詞に苦笑いをこぼした。
「洋館のことは後にして、まずは<魔術師|わたしたち>の立場についてね。
　あ、でも一から百まで理解する必要はないから。
　どうせ門外漢なんだし、感じ入った事だけしっかり噛みしめておきなさい」
　教師めいた言葉に、草十郎は素直に頷いた。
　要するに、理解できない事は聞き返さなくていい、と青子は言ったのだ。
　その発言自体に納得のいかない草十郎だったが、聞き返すのはダメらしいので素直に従った。
　よろしい、と頷いて、青子は話をはじめる。
　長く、それは長くなる話を。
「まず魔術師、魔法使いの話からね。
　<魔|・><術|・>と<魔|・><法|・>の違いは草十郎には関わりのない話だからしないけど、それぞれ別種の物だと思ってくれればいいわ。
　で、魔術師の事だけど、これは絶対条件として隠された存在でなくてはならないの。
　<魔術師|どうぎょうしゃ>に知られるのは仕方ないとしても、貴方みたいに関わりのない人間に知られるのは罪にあたる。ほとんど死罪クラスのね」
「何故かって言うと、魔術ってのは隠されていないと力が薄れてしまうものだから。
　神秘の語源は閉ざす、というギリシャ語だけど、魔術は限られた密儀でなければ魔術でなくなってしまう。
　文明にとって、未知なるモノ、未開なる<場所|モノ>は<拓|ひら>かれていないからこそ恐怖に値するのと同じね」
「知られたら迫害されるから隠す、じゃないの。
　未知でなくなった魔術師……というより魔術ね。
　明かされた魔術は力を弱めてしまう。だから<隠匿|いんとく>するのよ。何より、<魔術師|わたしたち>の未来のために」
「……魔術の仕組みはよく分からないけど、とにかく自分だけの秘密でないと弱くなるって事か。
　じゃあ蒼崎も弱くなってるのか？　俺が見ちゃったから」
「いいえ、別に。
　……ここからはちょっと込みいった話でね。
　弱くなる、っていうのはあくまで全体、それも随分と未来の話。個人単位では関係のない話よ。
　汝、<隠匿|いんとく>すべし―――って不文律は、この大本の仕組みが<形骸|けいがい>化して、いつのまにか絶対のルールになっているだけなの」
「文明社会の法律と一緒よ。犯罪、不道徳を罰するのは人間的であろうとする意識の高さと、それとはまったく別の、全体の仕組みを守るための構造的な結論でしょ。
　犯罪が罰せられるのは、野放しにしたらせっかく築いた社会がうまく機能しなくなるから。
　で、<魔|わ><術|た><師|し>たちにとって犯罪にあたるのは神秘の一般化、低俗化であって、不道徳とか殺人とかは―――ま、それぞれの良心次第ってコトで、基本的に罪にもならない」
そんなろくでもない連中にルールを敷いたのが、魔術協会っていう集まり。組合みたいなものよ。
“魔術を不朽の神秘とせよ”……というのは、魔術を魔術として永続させるために敷いたルールにすぎないわ」
「けど、その原則は絶対でさ。
　これを破った者は、魔術世界には居られなくなる。
　いえ、実際問題として、<生|・><き|・><て|・><い|・><く|・><の|・><が|・><困|・><難|・><に|・><な|・><る|・>。
　私たちは私たちの……まあ、魔術師としての命？
　そういうのを守るために、目撃者であるアンタを消さなくちゃいけなかった」
「――――――」
「そこ、同情とかしなくていいから。私たちの事情を知ったぐらいで、遊園地のことを帳消しにしないでよ。
　私たちは私たちの判断でアンタを殺そうとしたんだから、誰彼のせいってワケじゃない。
　恨むなら、きちんと私を恨んでちょうだい」
「ま、それはともかく。
　過去、魔術師は職業として成りたったぐらい社会に認知されていたけど、その魔術自体は墓まで持っていく秘密だった。
それがどう<歪|ゆが>んだかは知らないけど、現代ではその職業すら秘密にしなくてはならなくなった。
　そこまでしないと、遠い未来、魔術すら消費するだけのものに解体されると協会は恐れたのよ」
「自然界の仕組みも、かつて天上の領域だった宇宙の運営すら、私たちは人智で解き明かせるほどになった。
　人の手にあまるもの。神秘という未知の領域にとって、魔術が最後の砦になると協会の設立者は信じたのかもしれない。
　それとも、魔術なんてもう意味がないって達観したのかもね」
「そんなわけで、魔術師はその正体を隠して各々の秘儀を伝えていった。他人に教えるワケにはいかないから、必然的にその伝承者は子孫になる。
　私も有珠も、そうやって何代か続いた連中の<末|すえ>なのよ。
　さっき言った魔術協会っていうのは、そんな細々と続いてる連中を束ねる一大組織。魔術師にとって司法の神ってところかしらね」
「協会も色んな派閥に分かれるんだけど、大抵の魔術師はロンドンの魔術協会に属している。
　汝隠匿すべしっていうのも協会の三大原則の一つよ。
　魔術師が一般人に秘密を漏らすと協会から罰が下される仕組みになっている。
　ま、そんな罰なんかなくても、自分と血族が伝えた魔術のために、目撃者は消さないといけないんだけど」
　まずはここまで、と青子は話を区切る。
　草十郎は草十郎なりに話をまとめているようだ。
「次いくけど、いい？」
「いいけど、その前に確認したい。
　魔術師が正体を隠すのは自分のためじゃなく魔術のためだったけど、最近では自分の正体を隠すことの方が重要になっている。
そして、その決まりを破ると協会というところからお<咎|とが>めがくる。
　……つまり、蒼崎たちもその協会に入っているのか？」
「いいえ、私たちはフリーよ。いちおう協会と繋がりはあるけどね。
単純に、協会は最大勢力ってだけ。連中は頼まれもしないのに魔術世界全体の秩序を守ってるの。
　だから私たちが何であれ、彼らとの関わりがないにしても、魔術師としての決まりを破ったら罰しにくるわ」
「……分かった。だいたい呑みこめた」
「よしよし。そうやって自分に必要な部分だけ手に入れなさい。
　じゃ、次は魔術について。……といっても、私自身、語れるほど学んでいないんだけどね」
「？」
「ごめん、こっちの話だから忘れて。
　―――さっきも言ったけど、現代において魔術は無意味な物になりつつある。
　ライターのない大昔なら火を起こせればそれは<神秘|まじゅつ>として成り立つわ。けど<現代|いま>は何かと便利でしょう？　貴方ならよく分かると思うけど」
　青子の問いかけに、草十郎はまあ、と浮かない顔で同意した。
　草十郎も、その便利さを痛いほど実感している。
　山では一日かける大仕事が、ここでは簡単に出来てしまう。
電気も水道もない世界で育った彼にしてみれば、都会の生活そのものが魔法だ。
　この便利さが常識なのだと順応するのに、どれだけ苦労したことか。
「あ。
でも、道具を使わずに火を起こせるのは神さまの仕事だと思うけど」
「そのために積み重ねた手間は、火炎放射器を手に入れるより面倒だとしても？」
　青子の言葉に、草十郎は答えられない。
　人間が神さまの真似事をする為にはどれだけの尽力があったのか、安易に答える事は彼女への侮辱だと思ったからだ。
「……。さっきのを見るかぎり、魔術ってのはなんでも出来ると思ったけど、それは誤解なのか」
　ちらり、とテーブルの上の小瓶に目をやる草十郎。
　内心、それはそれでホッとできる。
　あんな小瓶の中に閉じこめられていたなんて、今でも現実だと信じられない。
　―――しかし。
「あら、それこそ誤解よ。
　万能じゃなければ誰が魔術なんて学ぶと思ってるの？」
　胸を張って青子は言い返した。
「手間暇かかるけど、魔術に出来ない事はないわ。
　中には“出来ていないけど出来ているように見せる”みたいな、何らかのイカサマはあるけどね。
　この世界に生まれた以上、その許容範囲で出来ない事なんてないの。そこで魔法がでてくるんだけど、それはまた改めて」
「私が言いたかったのは、魔術は奇跡を起こしているのではなくて、その過程が奇跡だってこと。
　結果が奇跡になるのは魔法の方なの」
「偉大な魔術師っていうのは、個人の魔術だけで旅客機飛ばしたりする人のこと。
　対して、偉大な魔法使いっていうのは、<現|い><在|ま>不可能な事を可能にする人の事よ。
　……そういった意味じゃ、私たちは最後の魔法使いになるかも知れないけどね」
「脱線してるわよ、青子」
　触れてはいけない一線に踏みこんだのか。
　黙って聞いていた有珠が、<窘|たしな>めるように呟いた。
「……そこまで教える必要はないでしょう。
　静希君に教えるべき事は、わたしたちと暮らす上で危険になる事だけじゃなかった？」
「悪かったわ、ちょい口<滑|すべ>らせた。
　ともかく、魔術師っていうのは暇さえあれば魔術の実験をしてる連中で―――自分の家系が伝えてきた秘儀を守るためなら鬼でも悪魔にでもなる」
「必然、そのアジト……工房って言うんだけど、工房も魔術的な機構が積み重なって、要塞みたいになっちゃうのよ。
　秘儀を守るために、入ってきた相手を問答無用で叩きのめす仕掛けとか。
　この洋館も、そういった工房と同じなの。
　不用心に歩き回って、さっきみたいな事になったら私でも助けてあげられないから、暗闇には気をつけなさい。気が付いたら鏡の中にいる！とか本気であるから」
「――――――」
　その気をつけ方を具体的に教えてくれないものか、と心底思う草十郎だが、口にしたところでいい返事はなさそうだった。
「枝葉から入っちゃったけど、要は私たちのプライベートに関わるなってコト。
　いくら最後には記憶を消すっていっても、それを<見|・><ら|・><れ|・><た|・><段|・><階|・><で|・><消|・><す|・><し|・><か|・><な|・><い|・>ものもあるから」
「……なるほど。この<館|なか>にもルールがある事はよく分かった。他に注意すべきコトは―――」
　言いかけて、はてな、と草十郎は視線を泳がす。
　館の方が危ない、とか、魔術は隠すものだ、とか。
　その説明は彼がこうなった原因と矛盾する。
そもそも、そこまでして隠すものを、どうして草十郎は目の当たりにする事になったのか。
「すまない。話の腰を折るんだけど、いいかな。
　魔術師は協会という組織で結ばれてるんだろう？　なら、どうして蒼崎はあんな人形に襲われたんだ？
　あれの持ち主が魔術師なら、君たちは味方同士で争っている事になる。なにか、説明が不足していないか？」
「……それは最後にしようと思ってたのよ。
　普通はここまでの話だけで<眉唾|まゆつば>ものっていうか、笑い飛ばすっていうか。
　いくら経験済みだからって、魔術なんて<存在|モン>をあっさり受け入れるなんて出来ないって言うか―――」
　すっかり自分の話を信じこんでいる草十郎に対して、青子は困ったように頬をかく。
　向かい合った有珠も、表情にこそ出ていないが同意見のようだ。
「？　おかしいのか、それ？」
「おかしいわよ。
　そもそも、あんたは第一ステップから変だった。
　普通は驚いたり恐がったり無視したりするものなのに、どうして魔法使いだ、なんて言った私を信じたの？」
　思えば、それはミラーハウスで訊くべき問いだった。
　あの時、静希草十郎は見た事のない『魔術』という現象に驚いたのであって、それを使う青子自身に何の驚きも、不快感も表さなかったのだ。
　ふたりの少女―――いや、魔術師の疑惑の眼差しを一身に受けて、草十郎は困ってしまう。
　彼にしてみれば、そんな疑問すら疑問なのだ。
「なんでも何もない。蒼崎。山ではね、有る物は有るのが当たり前なんだよ。
　理由をつけられるだけの知識がなかったからにしても、実際に見た物を信じない、なんて事はないんだ。
　それに君も言ったろう。貴方にとっては魔法もライターも同じ物なんだろうって」
　いやまあ、今では違うけど、と付け足して草十郎は言葉をきった。
　素朴だった山での日々を語った、本心からの言葉。
　それは蒼崎青子だけでなく、久遠寺有珠まで<得心|とくしん>させる響きがあった。
　誰であれ持っているだろう、胸を張れる<矜持|きょうじ>。
　きっとこの少年にとって、今の言葉こそが揺るぎのない真実だったのだ。
「有るものは有る、か」
　ちょっとだけ感心する。
　この少年自体がどんなに異端でも、彼自身が周りの物をそんな風に受けとめているのなら、たしかに、いつだって自然に生きられるはずだ。
「そうね。草十郎はそうなのよね。
　簡単に信じてもらえるコトが信じられない、なんて、私たちの方がどうかしてたわ」
　……たとえば、初めて出逢った時のように。
　あの教室でも、この少年は全ての出来事を<是|よし>と受けとめていたんだと、少女は懐かしく苦笑した。
「じゃ、気を取り直してっと……
　草十郎の疑問だけどね。魔術師も色々あって、協会に属していない連中もいるの。
こういった連中は協会の目を盗んでやりたい放題で、利益目的で他の魔術師にケンカを売ってくる。あの人形の持ち主もその<類|たぐい>」
「そんな連中にとって、私たちは都合のいい、格好のカモなのよ。
私たちは協会と協定関係にあるだけで門下ってワケじゃないから。私たちが殺されたところで、協会は助けてくれないしね」
「？　でも、魔術師が魔術を使うのは禁じてるんだろ？」
「それが<公|おおやけ>にならないのなら、協会は目をつむるわ。
　むしろ、バレなければ魔術師同士の争いを<奨励|しょうれい>してるぐらいよ。技術も使わないと<錆|さ>びるってね。
　……まあ。私たちが襲われてるのはそれとは別の話で、たんに土地を持ってるからなんだけど」
「……土地って、この家？」
「まさか。この三咲市一帯の管理地の権利を持ってるのよ、私と有珠は」
「管理地って、つまり土地の利権―――！？」
　眩しい、と目を<背|そむ>ける草十郎。
　いま、彼が見ている青子には確実に<後光|ごこう>が差している。
　貸しアパート生活いまだ二週間の草十郎だが、都会において土地の権利がいかに偉大なものか、ほんと身をもって知っていたからだ。
「お……おお……」
　お金、持ちだ―――！
　などと、草十郎はよく分からない感動でワナワナ震えている。
「……悪いけど、そういうんじゃないから。
　私たちで土地って言ったら、魔術師としての霊地の所有権、支配権のコトを言うの。
　<蒼崎|うち>はマイナーだけど古くからこのあたりに根を下ろしてた魔術師で、三咲町もうちの管理下ってワケ」
「管理地って言うのはね、霊的な力が<歪|ゆが>んで、集まりやすい土地のコト。そういう土地は昔から貴重で、魔術の実践、実験には不可欠でもある。
　成功への絶対条件は優れた霊地、堅固な工房、多くの弟子たちってね。
　魔術師たちにとって、土地つき館つきの住み家を持つのは一つの野望なんだから」
「――――――」
　その野望を二つも叶えている青子たちは何様なんだろう、と思いつつ草十郎は先を<促|うなが>した。
「でも、その管理地は大部分が協会に仕切られてて、もう余っている土地はないの。
　はぐれ魔術師や土地のない魔術師は、協会に毎月寄付金を納めて土地を借りるしかない。ま、ていよく協会のお偉いさんたちに尽くす働きバチってところね」
「でも、ここの土地は何百年も前から蒼崎の物だから協会とは関係がないの。
　ここまで言えば分かるでしょ？
　そういったフリーの連中からすれば、私たちの管理地はこの上ないご馳走なんだって」
　……物騒なんだか所帯染みているのか微妙な話になってきたな、と内心うなずく草十郎。
「よく分かった。
　蒼崎たちは土地の奪い合いをしているんだな？」
「そういう事。
ただ三咲の管理地はマイナーのさらにマイナーだから、やってくる挑戦者も三流ばっかりよ。
　今回の敵だって、どっかの三流魔術師がここなら楽に奪えると思ってやってきたんだろうし。ま、それもアンタの乱入で休戦してるんだけど」
「……管理地の話はそれで十分よ、青子。
　静希君も、他に魔術師がいると分かってくれたようだし。
　危険があるとすれば、わたしたちの戦いに彼が巻きこまれる可能性だけど」
「それは大丈夫でしょ。
　だってコイツ、魔力の欠片もないじゃない。魔力感知にはひっかからないし、番犬以下の人間は戦力って言わないから、狙われる事もないだろうし。
　私たちはただ、忘却のルーンを見つけるまでコイツを逃がさなければいいだけでしょ」
「………………」
　有珠は無言で、相棒である少女を見つめる。
　有珠の言う“巻きこまれる”と、青子の言う“巻きこまれる”は、その深刻さ、過酷さが違っていた。
　青子はその浅い経験から、彼が直接的な戦いには巻きこまれないと断じている。
　清廉潔白で合理的。
無駄を嫌う彼女は、敵にも同じ効率を求めてしまう節がある。
　だが―――世の中には、そも事を終えるまで、自らの正否を量れぬ者もいる。
「…………先の事は誰にも分からないから。
　その時になって、後悔がなければいいけれど」
　陰鬱なため息をついて、有珠は席を立った。
「ちょっと。何のために<長話|ながばなし>したと思ってるのよ。
　いちばん重要なアンタの<同意|いけん>、聞いてないんですけど？」
「貴女が貴女の方針を守るというのなら、それでいいわ。
　わたしも好きにするだけよ」
　音もなく扉に向かう有珠。
　黒衣の少女は扉を開け、薄暗い廊下の前で立ち止まった。
　同時に、
　つい、と。
「！？」
　少女の足取りに合わせるよう、テーブルにあった小瓶が<宙|ちゅう>に浮き―――慈悲も<躊躇|ためら>いもなく、無惨に砕け散った。
「……あの時、こうしておけばよかった」
　さらりとした声に、顔面蒼白になる草十郎。
　有珠の声は静かすぎて、本気なのか冗談なのかまったく読み取れない。
「わたしも言い忘れていたけど」
　少女の横顔が、いっそう冷たく青子と草十郎を流し見る。
　洋館の主は、その表情よりなお冷たい声で、
「まだ、<認|みと>めていないから」
　あまりにも前途多難な伝言を残していった。
「……ったく、往生際が悪い」
　ソファーにもたれながら悪態をつく青子。
　不機嫌そうな顔は、普段よりイライラ度を増している。
「見逃すのと<洋館|ここ>に住まわせるのは別問題よって、じゃあそれ以外にどんな方法があるってのよ。
　……譲る気もなさそうだし。この分じゃ実力行使に出るかもね、あの<娘|こ>」
　ぶつぶつと呟く青子に、草十郎は不審げな視線を送る。
　今の決意表明―――小瓶を粉々にする―――はどういう^事なのか、と。
「草十郎には“記憶を無くしてもらう”ってコトで話はつけたけど、心の底から納得してないってコトでしょ。
　……有珠にしちゃあ珍しく他人を意識してたけど、やっぱりここに住まわせるとなると難しいみたい。
　寝てる分には良かったけど、起きてるアンタを見たらこう、<得|え>も言わぬ<嗜虐心|しぎゃくしん>を刺激されたとかさ」
「気をつけてね草十郎。
　あの娘、アンタを殺しにくるかもしれないから」
　などと忠告しつつ、青子自身、これ以上有珠を説得する気はなさそうだった。
「……なんか、状況はあの夜からあまり変わってないようだね、蒼崎」
　思わず呟いた一言に、青子はそう？　と軽く視線を返す。
「そう？　じゃないぞ。
　蒼崎の次はあの娘がやる気満々じゃないか。さっきみたいな目にあったら逃げることもできない。
　こういうの、生殺しって言うんじゃないか？」
「そうならないように努力するのね。
　ま、有珠の理由は遊園地の時ほど切迫したものじゃないから、そのうち<諦|あきら>めてくれるとは思うんだけど」
「蒼崎の時とは違う、有珠の理由……？」
「ええ。遊園地の時は秘密厳守のためだったけど、それは一応解決してる。アンタが底抜けに律儀なヤツだってのは、有珠だってもう分かってるし。
　なんで、秘密厳守云々であそこまで反対する理由はないの。あの娘は単にね、ここに住んでほしくないだけなのよ。それだけで、有珠はアンタを殺したがってる」
　きっぱりと言う青子の目は真剣そのものだ。
　そこには嘘も<誇張|こちょう>も影すらない。困った事に。
「たしかに、あの娘はそんな素振りだったけど。
　……変だね、それならもっと他の手段をとればいいのに」
　有珠に申し訳ないものを感じているのか、柄にもなく深刻に悩む草十郎。
　その言葉の意味を、青子は瞬時に読み取った。
「例えば、記憶を消す魔術が見つかるまで、さっきの小瓶の中に閉じこめておくとか？」
　青子の声に、先ほどまでの<気怠|けだる>さはない。
　草十郎は頷きだけで答えた。
　事実、彼女たちにとってそれが最も<安易|イージー>な方法である事は間違いない。
　だが、
「草十郎。私、約束は破らないの。覚えておいて」
　その安易さを、彼女は嫌った。
　静かな言葉にはかすかな怒りがある。
　その怒りが何に対して向けられているのか、草十郎には痛いほどよく分かった。
　胸の痛みは、彼女にそんな台詞を言わせてしまった後悔によるものだ。
「すまない。考えが足りなかった」
　草十郎の突然の謝罪に、青子はいつもの不機嫌そうな表情に戻る。
　青子本人、自分が怒った理由はおろか、怒っていた事すら気付いていない。
　そんな青子からすると、草十郎の謝罪はまさに寝耳に水だ。
「……アンタって、ほんと分かんないわね。
　なんでそこで謝るのよ」
　青子はまじまじと草十郎を見る。
「？　……あれ、そうだな。自分でもよく分からない。
　たぶん、そういう気分になったからだろう」
　よく分からない、などと言いつつ、草十郎は真剣に返答する。青子は呆れて言葉もない。
「ただ、蒼崎の言いたい事は分かった。
　約束を守るっていう事は、結果じゃなく、過程を守るって事なんだな」
　恥ずかしげもなくまっすぐに、草十郎は青子に笑いかけた。
　純粋な嬉しさに満ちた笑顔は、思わず笑みを返したくなるほどだ。
「あ、当たり前じゃない。オチだけ合っていればいいなんて、恥ずかしくてできないでしょ」
　照れたように顔を背けて、青子は小さく言い返す。
　不覚にも自分の本音を言い当てられ、少しだけくすぐったかったのだ。
　いつもなら不快なだけ。
　が、何故か今は嬉しくて、つい顔を背けてしまった。
　そんな自分が余計にみっともなく、青子は誤魔化すように言葉を続ける。
「貴方を見逃すって言うなら、気持ちの問題じゃなくて、ちゃんと状況もそうなるようにするのは当たり前なの。
　草十郎をここに住まわせる事があの約束を守る事になるんなら、厄介な有珠だって言い伏せるわよ。
　……<脅|おど>かすだけならまだしも、ずっと瓶づけなんてさせられるワケないでしょう」
「そっか。蒼崎があの娘を説得しない素振りなのは、もうできるだけの説得をした後だからなのか。
　あ。それで彼女とは冷戦中なんだ」
「……別にアンタのためじゃないわ。私は私のために約束を守ってるだけだし。
　お察しの通り、私のやるべき事はもう終わってるし？　あとは<草十郎|そっち>が努力する番だから、勝手にすれば？」
　言われて、はい？　と首をかしげる草十郎。
「あのね。いい？　同居案をなんとか認めさせる事が出来るのは私だけだから、二日間ぶっ通しで有珠を言い伏せもした。けどそれ以上は無理。
　私、ここから先はノータッチだから。
　しばらくは有珠から守ってあげるけど、その間にあの子にアンタを認めさせる事は、アンタにしか出来ないんだからね、草十郎」
「なんと！」
　そういう流れになるのか、と面食らう草十郎。
　久遠寺有珠。
　他人を寄せ付けない黒衣の少女。
　青子が現代に隠れ住む魔法使いなら、彼女は中世に実在した魔女さながらだ。
「……蒼崎。君、自分がどれだけ難しい事を言っているか分かってるか？」
「そうね。私もこの件に関してだけは同情するわ」
　青子はソファーから立ち上がる。
　とりあえず話はここまでらしい。
「私たちがどんな人間かはおおよそ<判|わか>ったでしょ。
　魔術に関してはこれ以上立ち入らない方がアンタのためだから、説明はここまでね。
　で、肝心の今後の方針だけど、三ヶ月間ここで暮らす。
　当初の目標……というより最初の試練は、なんとか有珠に同居人として認めてもらう事」
「試練って言った。いま、そういうたぐいのコトを言った」
「誤魔化してもいいコトないでしょ、この手のコトは。
　うまくいかなきゃ<粉々|こなごな>なワケだし？」
　血も涙もない発言をして、青子はドアへと歩きだす。
「あ、そうそう。
　草十郎の部屋だけど、三階に用意しといたから。二階のホールの裏側に階段があるから使って。ここは寮ってワケでもないし、時間は自由に使いなさい。
　ただし、西館にだけは入らないようにね。東館は私が借りてるから比較的安全だけど、それでも歩き回らない方が無難だわ。
ま、基本安全なのはアンタの部屋と<居間|ここ>だけよ」
「な―――<館|なか>の説明って、まさかそれだけ！？
　蒼崎はいろいろおかしい、魔術なんかよりもっと大事な説明があると思う！」
　じゃあね、とばかりに居間から出ていこうとする青子を、草十郎は決死の面持ちで呼び止める。
　そんな草十郎を、心底かったりー、と<憐|あわ>れむ青子。
「せめてほら、案内とか」
「面倒なんでパス。お上りさんを案内するなんて二回もやれば十分よ。
　起きたばっかりだし、とりあえず今日は部屋で休んだら？
　朝になったら学校まで案内してあげるから」
「もっとも、私もそう暇じゃなし、側についてあげられるのは期末試験が終わるまでってコトで。
　一週間以内に有珠と仲良くなるなり、弱みを握るなりしないと、ま、アレよね」
　じゃあねー、と去っていく最終鬼畜会長。
「――――――」
　挙げた手を、思わずニギニギしてしまう。
　ひとり残されて、本気で途方にくれる草十郎。
　そんな彼を励ますように、
　チチチ、と。
　軽快な羽音と共に、いずこともなく現れる青い<駒鳥|コマドリ>。
　でっぷりとした小鳥は無邪気そうな瞳を草十郎に向けている。
　俗説で言うところの幸福を運ぶ青い鳥は、まるで彼の先行きを応援するように羽ばたくと、
　情け容赦なく、居間の電気を消したのだった。
　草十郎を居間に残したまま、青子は自室に戻ってきた。
　ドアを閉めベッドに腰を下ろすと、どっと疲れが押し寄せてくる。
　草十郎には知るよしもないが、青子は青子で臨戦態勢だったのだ。
　いつ有珠が直情にかられてプロイを持ちだしても、即座に反応できるように。
　はあ、とため息をつく。
　それは有珠との暗闘による気疲れ―――ではなく。
「……ちょっと突っぱねすぎたか？」
　むう、と眉を<顰|ひそ>める。
　彼女の頭を重くしているのは、まったく別の問題だった。
「……でも甘くするのはアイツのためにならないし。
　基本、大人しくしてもらった方がいいワケだし……」
　安心されて我が家のように歩き回られるのも困る。
　彼にはおっかなびっくり、極力、自分の部屋に閉じこもってもらった方が安全なのだ。
「ま、蒼崎は味方だ、なんて勘違いされても困るしね。
　有珠同様、人でなし扱いされた方が楽だわ」
　よし、と自分の選択に納得する青子。
　彼女の方針はおおむね正しい。
　問題があるとすれば、
「すまない蒼崎。ひとつ聞きたい事があるんだが……」
　居間で別れてから十分弱。
　最速とも言える開き直りで青子の部屋を訪れた、静希草十郎の危機感の無さだった。
「実は、外に出たいんだ」
　それがこの男の言い分だった。
　青子には嫌味を返す気力もない。
「洋館の中は歩き回らないし、用を済ませたらきちんと戻ってくる。ただ、門限とかあったら聞いておこうと思って」
「でも、アルバイトには行くのよね」
　なんで分かる!?　と驚く草十郎。
　正直、驚きたいのは青子の方である。
「……まあいいわ。
　基本、午後十時まで。その時間には必ず屋敷にいること。
　その後は夜勤にでかけるなり、庭でバーベキューするなり、なんでも好きにしていい。
　それと、玄関に鍵はかかってないから」
「……気のせいじゃなければだけど。
　蒼崎、すごく怒ってないか？」
「アンタ相手に気を遣った自分に<呆|あき>れ果ててるだけよ。
　外に出るのはいいけど、その前にこの<錠剤|じょうざい>飲んで」
「？？」
　青子から差し出された紫色の錠剤を、半信半疑で草十郎は口に入れた。
　体に<良|い>い薬か何かだろう、と思いこんでいる風だ。
「それじゃ行ってくる。色々ありがとう、蒼崎」
「あっそ。今度は窓から出ていかないでよね」
　何が嬉しいのか、あはは、などと平和ぼけに笑って草十郎はホールへ向かっていった。
　その背中を、青子は<半|なか>ば冷たく、半ば不思議そうに観察する。
「ま、予定が半日早まっただけか。
あの薬を飲ませるの、明日の朝にしてあげようと思ったのに」
　やれやれと髪をかいて自室に戻る。
　彼の行動原理なんて考えるまでもない。
　おおかた、二日間寝こんでいた自分の体より、アルバイトを休んでいた事の方が気になっていたのだろう。
　一日の仕事を終え、草十郎は洋館に戻ってきた。
「よし。どこを探しても、二階のホールから上がれる階段はここだけだ」
　日付も替わろうとする零時前。
　くたびれた階段の先には、このような景色が広がっていた。
「――――――」
　たいていのコトには驚かない……もう驚きなれてしまった……草十郎をして、それは、言葉を失う光景だった。
　草十郎にあてがわれた部屋は、
　どこをどう見ても、
　何をとりつくろうとも、
　まがうことなき屋根裏部屋でした。
「………………」
　むう、と己の<処遇|しょぐう>に<一抹|いちまつ>の不安を覚える。
　ただでさえ気の重いことばかりなのに、こんなんでやっていけるのかな、とシーツの敷かれたベッドに倒れこもうとした時、
　ささやかすぎて役に立たない、ちぐはぐな気遣いがあった。
『寒かったら重ねて使うこと。これはサービスとする』
　メモにある文字は、几帳面な性格がにじみ出ている。
　布団は十分用意されていた。
　その上で、念のためにと置かれた毛布を大事そうに<端|はし>にどけて、草十郎は空を仰いだ。
　おぼろげではあるが、天窓には星が<瞬|またた>いている。
　山育ちである彼にすれば、不満はあれ十分な明かりといえる。
　居間との格差から面食らってしまったが、冷静になれば落胆するコトでもない。
　この部屋はこの部屋で彼の性格に合っているのだし。
　いまだ勝手の分からない建物だとしても、町の建物よりは安心できた。
　丘の上、森の中に建っているからだろう。
　ここは少しだけ彼の住んでいた山の空気に近いのだ。
「……あ。でも、家の中に霧が出るのはどうなんだろう？」
　先ほどの光景を思い返して首をかしげる。
　草十郎はここに来る途中、二階のホールで霧らしきものを見かけていた。
　白い霧は廊下の一部分にだけ漂っていて、<藪蚊|やぶか>の群を思わせた。
　じっと見ていると、おかしな風景が見えた気がして近寄ったのだが、
　これまたとつぜん、不自然なことに青い小鳥が目の前を横切ったのだ。館内で。
「―――鳥？」
　小鳥に気を取られて立ち止まる。
　もう一度霧を見ると、おかしな風景は消えていた。
「……この家、隙間でもあるのかな。
　明日、蒼崎に訊いてみるか」
　ベッドに腰掛けながら呟く。
　天窓から<覗|のぞ>く星の光は、ささやかではあるが気持ちを落ち着かせてくれた。
「うん、これなら―――」
　ほう、と息を吐いてベッドに体を預ける。
　とりあえず衣食住はあるのだし、ベッドは見た目より何倍も柔らかいし。
　心配事はあまりないな、と草十郎は速やかに眠りに落ちていった。
　以上が、彼の目覚めてから眠るまでの話。
　長い夜のあとの、短い夜はこうして終わった。
　……どうあれ。
　楽観的すぎるけれど、やっていけない事はなさそうだ。
　そんな、踏まれても踏まれても応えない<天然草|てんねんそう>の話から、時間は五時間ほどさかのぼる。
　魔術師の当事者ふたりと、おまけの少年の不毛な話し合いが終わった午後七時。
　居間に<同居人|あおこ>と<闖入者|そうじゅうろう>を残したまま、少女はひとりロビーを歩いていた。
　向かう先は館の西館。
　同居人である蒼崎青子でさえ滅多に足を踏み入れない、久遠寺有珠の居住区である。
　月明かりだけのロビー。
　寒々しい明かりの下、硬い足音が<木霊|こだま>している。
　洋風の屋敷では靴を脱ぐ習慣はない。
　有珠はブーツのままロビーを横断する。
　彼女が靴を脱ぐのは寝室で休む時だけだ。
「――――――」
　……ふと、有珠は子供の頃の出来事を思い出した。
　冷たい床の感覚を楽しみたくて、日射しの強い日は裸足でこのロビーを歩いた。
　それを父に優しく<咎|とが>められて以来、彼女は裸足で歩く事はなくなったのだが―――
「……そうだったわね。青子は結局、守らなかった」
　かすかなため息がもれる。
　日本に来てから得た新しい同居人は、有珠の言いつけには従わなかった。
“落ち着かないものはしょうがない”
　と、青子はスリッパに履き替える事がある。
　中学生まで一般家屋で暮らしていた青子にすれば自然なのだろうが、あのペタペタいう足音でロビーを移動される度に、有珠は彼女との共同生活を破棄したくなったものだ。
　それも今ではさして気にはならない。
　人間の順応性は時に優秀で、不義理だ。
　現実の<忙|いそが>しさの前には、昔からの思い入れなんて<脆|もろ>すぎる。
　階段の手すりには青い小鳥が止まっていた。
　小さな鳴き声に、少女は足を止めて視線を向ける。
「……今夜は放っておくわ。今は青子の問題よ」
　感情の乏しい声に、小鳥は首をかしげながら鳴いた。
　チチチ、と。
　いつもの<主人|アリス>からは考えつかない、懐の深さを<訝|いぶか>しむように。
「約束は約束よ。今夜ぐらいは大目に見ないと。
　……青子と彼は、それだけの活躍をしたのだし」
　小鳥に言い聞かせる声は、内容とは裏腹に不機嫌気味だ。
“勝負に勝てば見逃してあげる”
　その約束を守ってはいるものの、少女の胸には消しがたい戦意が灯っている。
「……でも、その後の処遇は別の話。
　条件付きのゲームに勝ったぐらいで、いつまでも得意げでいられるのは心外だわ」
　潔癖性からくる完全主義か。
　こう見えて久遠寺有珠は負けず嫌いらしい。
　魔術の優劣などどうでもいいが、ゲームに負けた事が今も不満で仕方がないのだ。
　シュタ、と翼をあげて同意する小鳥。
　有珠の嫌悪感を汲んで、<草十郎|がいてき>を打ちのめさんとやる気に満ちている。
　その<羽繕|はづくろ>いは、上官に<敬礼|けいれい>する仕草に見えなくもない。
　かくして、青い小鳥は主人に向き直る。
　チチチ、チチチ。
　軽快な鳴き声は、明日の朝一番で<草十郎|アイツ>をヤりましょう、と宣言するかのようだ。
「…………そうね。理由さえできたのなら、瓶なり本なりに入ってもらいましょう」
　だが、少女の声には張りがなかった。
　魔女らしい、容赦のない台詞だったが、よくよく考えてみれば<生温|なまぬる>いコトこの上ない。コマドリ的に。
「しばらくの話よ。けど、それも<一時|いっとき>だけ。わたしの我慢も長くは続かないし。
　……だいたい、青子も人にかまけていられる立場じゃないわ。五日もすれば思い知るでしょう。そうすれば―――」
　その時こそ、彼を<排斥|はいせき>するのは<容易|たやす>い。
　同居人が夢のない合理主義者である事を、有珠はよく分かっている。
　青子の置かれた状況は、いつまでもあんな余分を許しはしない。
　あの少年の保護に割り当てる<時間|よゆう>は、せいぜい三日から四日ほど。
　それを過ぎれば青子の方から“あとは有珠の判断に任せる”と折れるだろう。
「それまで待つか、あるいはわたしの我慢がきかなくなるか。
　どちらにしても結果は変わらないわ」
　久遠寺有珠はこれ以上の厄介事を許さない。
　目撃者の保護や、まして、この洋館に住まわせるなんてもってのほかで―――
「………………」
　<漏|も>れだした<濃霧|のうむ>に引かれるよう、有珠は視線を上げた。
　暖炉の上には一枚の鏡がある。
　本来なら絵画が飾られるだろう壁には、直径一メートルほどの鏡。
　鏡の表面はぼんやりと<曇|くも>り、ロビーの様子を<曖昧|あいまい>に映している。
「……スナークを<喪|な>くした影響でしょうね。
　鏡の機能、しばらくは制御できないみたい」
　主人の呟きに、小鳥は喜びの<鳴|こえ>をあげた。
　それなら自分たちが手を下すまでもなく、邪魔者は鏡に落ちて退場すると。
　……あるいは。
　この小鳥さえそんな鳴き声をあげなければ、有珠も同じ意見だっただろう。
「………………」
　少女はなんとなしに、先ほどの会話を思い出した。
“これでも一番、無難だと思う？”
　そう問うた少女に、小瓶の中の少年は肩をすくめながら答えた。
　自分にとっては町も<洋|こ><館|こ>も変わらない、と。
　なんでも、田舎から出てきたばかりの彼にすれば、あらゆるものが“見たこともないもの”なのだそうだ。
『自慢できるコトじゃないが、まだ書き物さえ満足にできないし、都会のルールは複雑すぎて、何が正しいのかさえ区別がつかない』
　……あれは恥ずかしさより、<憤|いきどお>りに満ちた声だった。
　彼が何に対して怒っているのか、有珠には読み取れない。
　ただ、
『だから、どこにいても危ない事に変わりはないんだ。
　極端な話、道を歩くだけでも、人と話すだけでも不安になる。俺は、どこでだろうと上手くやっていける保証はないんだよ。
　けど、ここにはそんなヤツに気を遣ってくれる人がいる。気遣ってくれる理由は物騒なものっぽいけど、それは本当に、贅沢なコトだと思うんだ』
　……少女の瞳がわずかに曇る。
　静かにこぼれたあの言葉は、無視できるものではなかった。
　だって、きちんと筋が通っている。
　彼にとって都会はどこであろうと危険なら、この洋館ですら“何も”変わらないのだ。
　本当に、この洋館を恐れるだけの理由がない。
　外との違いがあるとしたら、それは味方になってくれる誰かがいるかいないかという点だけ。
　その説でいけば、彼は何ひとつ嘘を言っていない。
　久遠寺有珠へのご機嫌とりでもなく、
　蒼崎青子に頼ろうとしたのでもなく。
　心から、『ここがいい』と告げたのだ。
「……いま、鏡に迷いこまれるのは迷惑ね。
　鏡の機能は侵入者の探索に専念させたいし、彼が迷いこみそうになったら止めてあげて」
　予想外の言葉に小鳥の羽が震える。
　少女は鏡から視線を逸らして歩きだした。
　抗議の<鳴|こえ>をあげる小鳥。
「貴方の仕事よロビン。それぐらいの役には立って」
　それに冷たい言葉を返して、少女は西館に消えていった。
　後に残されたのは月の明かりと、
　かつてない変化の予兆に激震する、青い小鳥だけだった。
　　　　　　むかし、うつくしい鳥を見た。
　はるかな青い空を、ぐるぐると、回るように飛んでいる。
　もう鳥たちの時代も終わって、
　とっくに人間の時代になっているのに。
　あの鳥は地上で増え続けるわたしたちのことも、
　より高さを増していくわたしたちの家にも、
　工場の煙突から<煤|すす>をまき散らすわたしたちの文明にも、
　まるで関心がないようだった。
　いつまでも、いつまでも。
　大空はもう誰のものでもないのに。
　鳥は<気高|けだか>く。
　古い野生の空のまま、力強く羽ばたいていた。
　……けれど、鉄の音は響いて。
　羽は撃たれて、シンメトリは失われ。
　地に落ちた姿はずるずると無惨に映り。
　ああ―――それでも彼は、最後まで鳥として羽ばたいて。
　わずかに風をきって、瞳を<北|ソラ>に向けたまま、乾いた地面に墜落した。
　……そんな光景を、今になって夢に見た。
　あんなにも心に残ったのに、どうしてか、よく覚えていない。
　あの鳥は―――どんなカタチをしていただろう？
「はい、今日の授業はここまで。
　試験範囲の総まとめなんかやっちゃいましたけど、これ、うちのクラスだけですから。よそのクラスには内密にお願いしますね。担任特権と思ってください。
　ほら、現国の平均点ぐらいは学年一番にしておくと、皆さんも鼻が高いと思いまして」
　ははは、と穏和な笑顔で語りかける山城教諭。
　２－Ｃの担任らしい、心温まる気遣いに教室中が和むのであった。
「せんせい、口元に本音出てるー。鼻を高くしたいのはあたしたちじゃないですよねー」
「鼻っていうか面子ですよねー。センセ、里中先生に嫌味言われてばっかりだしー」
「つーかハッキリ言えばいいんすよ、オマエらあたま悪すぎだってー。いやあまあ、うちのクラス見事なまでに体育会系ばっかりだけどさー！」
「いえいえ。テストの点数だけが学生生活ではありませんから、僕から言うべきコトは何も。
　先生方もそこまで目くじらたててるワケじゃないので、別にクラス全員が赤点でも僕の人生には何ら関わりはないんですけどねー。
　しかし一方ではひとり、厄介な御仁がおりまして」
「皆さんが選んだ全校生徒代表の方なんですが、これが恐ろしいのなんの。
“テストの点数が低いのは生徒ではなく教育する側が無能だからです。教育委員会への報告準備はいつでも出来ていますので”と日夜<脅|おど>してくるんですよ。
　それでも生徒たちが直らないようなら、その時は直接私が監督します、とか。生徒としてどうなんですかね、アレ」
「――――――」
　<和気藹々|わきあいあい>としていた空気が、一瞬にして氷点下まで落ちこんでいく。
　２－Ｃ組の生徒たちも、誰が本当の敵なのかなんとなく悟ったようだ。
「あー……そっか、山城センセ生徒会の顧問だったっけ……南無南無」
「さすがは応援団を立ち直らせた女傑。教師一人退職に追いこむなど造作もねぇ……」
「やっぱりなあ。会長、ぜったい歳サバ読んでるって。
　あの迫力、同年代と思えねーし！
　
ほら、うちの女子と比べると特に。こう、おっぱい的に」
「せんせー、木乃美だけでもＡ組に引き取ってもらえませんかー。そりゃ男子はみんなサルですけど、コイツだけレベルの違うサルですよ絶対！」
「あれ。でも女史、Ａ組だけどあんまり成績よくねえよな？　中の上ぐらいじゃなかったっけ？」
「そうだけど、別にいいんじゃない？　塾もいってないし、生徒会しきって、たまにバイトまでしてるんだから。あれで学年トップだったら逆に気持ち悪すぎ」
「だよなー。首位は副会長に任せとけばいいんだよー」
「はっはっは。まあまあ皆さん、うわさ話はそのあたりで。地獄耳という言葉もありますから。
　じゃ、それなりに復習をよろしく。あんまり点数が悪いと冬休みそのものがなくなりますからねぇ。
　あ、それと静希君、ちょっといいですか？」
　山城教諭は教材をまとめると、草十郎に手招きをしながら廊下に出て行った。
　休み時間だというのに、廊下に生徒の姿は見られない。
　生徒たちの騒ぎ声は聞こえるものの、廊下はひっそりと落ち着いている。
　窓のない廊下は閉塞感があるためだろう。
　生徒たちにとって休み時間の憩いの場は教室内か、そのベランダになっていた。
「なんですか、山城先生？」
「いえ、そう大した用事じゃないんですけどね。
　試験前にこんな話をするのもデリカシーがないんですが、気になったので。どうだろう、学校には慣れたかな？」
「――――――」
　担任の気遣いに驚きつつも、なんとなく嬉しくなる草十郎だった。
　さもありなん。
ここのところ不条理な人間に振り回されてばかりだったので、<些細|ささい>な<心配|こころくば>りでもぐっっと励まされるのだ。
「はい。学校の造りや決まりなら、自分なりに分かってきました。友達も増えましたし」
「そっか、それは良かった。うちのクラスは口の悪い面々だけど、その分気を遣わなくていいからね。静希君と相性がよくて助かったよ」
「――――――」
　おお、と草十郎は目を輝かせる。
　蒼崎青子に『憎むべき<昼行灯|ひるあんどん>、教師にあるまじきのれんに腕押し野郎』と酷評される山城教諭だが、彼は彼なりに気配りの人なのだった。
「アルバイトもほどほどにね。試験前だって言えばたいていのところは休ませてくれるから、あまり無理はしないように。
　また、試験で困ったコトがあったら周りに相談しなさい。ひとりで悩んでいても時間の無駄だよ。ほら、学校っていうのは話し相手にだけは困らないから」
　それじゃあ、と手を挙げて山城教諭は去っていった。
　純朴な少年は昼行灯な忠告をまっすぐに受けとめ、なるほど、と頷きながら教室に引き返す。
　そうして、
「ちょっ、女のコトで相談だあ！？」
　一分も待たず、山城教諭から受けたアドバイスを実行した。
「そうらしい。難問にぶち当たっているんだ。
深く考えてみて気付いたんだが、どうも、自分は発想が貧困らしい」
　いまじねーしょんがよわいのだ、と無念そうに目を伏せる草十郎。
「いや、豊かだと思ってたコトがビックリなんだけど……まあいい、こっちこい」
　木乃美は呆れながらも草十郎の肩をつかみ、教室の<端|はし>に移動した。
　真顔で「女の子は難しいと訊く」と切り出された時は吹きそうになった木乃美だが、考えてみると草十郎が自分から相談ごとにくるのは初めてだ。
　バイト先でもたいていのものは辛抱強くこなしてしまうこの男が悩んでいるのだ。
　これは、よっぽどのコトとかからねばなるまい。
「で。なんかやっちまったのか、ｙｏｕ」
「……。これから、やるのかもしれない」
「木乃美。たとえばの話、まっどべあにハリセンボンみたいな女の子が入ってきたとする。
その子は俺が嫌いで、まっどべあから出ていってほしいようなんだけど、俺はまっどべあを辞めるワケにはいかない」
　なによりお金のために、と草十郎は熱弁する。
　とりあえず頷くしかない木乃美だった。
「……つまり、その女を追い出したいと？」
「逆だ。なんとか認めてもらいたい。
　隠していたけど、俺はその女の子が嫌いというワケじゃなくて……」
　草十郎はむう、と眉間に<皺|しわ>を寄せる。
　この男らしからぬ歯切れの悪さに、木乃美はははあんと事情を察した。
　こと女性関係においてのみ、木乃美芳助の巡りの良さは三倍以上になるのである。
「―――ははあん。はっはっーん。
　なんだよ、ようはナンパかよ。むしろ仲良くなりたいってワケ？」
　木乃美の指摘に、む？　と思案する草十郎。
　彼本人、それがどういうコトなのかよく分からないまま、こくんと頷いた。
「けど、どうすればいいのか分からない。そもそもどうやって、同い年の女の子と仲良く話ができるんだ？」
「クラスの女どもとは話してんじゃん。あれでいいんだっつの、オレは羨ましいっつの。
　持ち前の天然系で押してけばいいべ。
　山育ちってのは稀少なアイデンティティだと思うぜ？　珍しいものは<活|い>かさないとさー」
「そうかな。珍しいというのは、あんまりいいコトじゃない気がする。
　だいたい、そもそも嫌われている場合はどうすればいいんだ？　クラスのみんなは親切だけど、相手はハリセンボンだ。いや、このさいハリネズミでもいい」
「そういう場合はめげなきゃいいんだよ。相手が折れるのを待つって寸法だな。トゲだけに」
　むむう、と草十郎の皺はますます深くなる。
「このたとえ話は、ダメだ」
　などと右往左往するものの、他にうまい喩えが見つからない模様。
「ばっか。女なんてのは機嫌を取ってればいいんだよ。
　まずは女の趣味とか、大事にしてるもんとか聞いて、そこをフォローすればいい。自分の都合より相手の都合だ。まずは<外堀|そとぼり>から攻めろってコトだな」
「外堀……外回りか」
「もち。その後は、ま、結局はこれが一番効果的なんだけどな。袖の下ってヤツ？　プレゼントで釣れ。
　そん時の<需要|じゅよう>と<供給|きょうきゅう>さえ合えば、嫌われてても受け取ってもらえる。受け取らせちまえば、あとはそれが義理になるってもんだ」
　いまのところオレはこれで連戦連敗さ！　と力強く語る友人に、何か間違った頼もしさを覚える草十郎だった。
「―――けど問題がある木乃美。
　たしかにごはんとか、そういうのをおごってもらうと嬉しい。けど」
「そんな<余裕|かね>はないってんだろ。分かってる分かってる。
　……ひひひ、仕方ないねぇ。そういう静希君のために、いっちょ割のいいバイトを紹介してやろうじゃねえのよ」
「？」
　教室の<端|はし>から、さらに<隅|すみ>へ。
　木乃美は人気のないロッカーの前まで草十郎を連れこんだ。
　それが他人には聞かせられない、悪質な勧誘の<類|たぐい>であるコトを草十郎が知るのは、これより何日か後の話である。
　その夜。
　洋館の夕食は、一面のパン尽くしだった。
　テーブルの中央にはカットされたソフトブレッドが積まれ、
　周りには色とりどりのジャムが置かれ、
　ボウルにはレタスを中心にしたサラダ、
　小皿には太さがマチマチなハムが並んでいた。
　一般家庭の夕食、その平均をまだ知らない草十郎ではあるが、これがおかしな<夕食|もの>であるコトは感じ取れる。
　率直に言って、手を抜いているコトこの上ない。
「あ。チョコのペースト切れたままじゃん。
　有珠、新しいの買っておいてって言わなかった？」
「……今日は一日、部屋に籠もっていたから。
　第一、チョコレイトを食べるのは貴女だけよ。自分のものは自分で調達をするべきね」
　が、彼女たち的に、この夕食は普通らしい。
　食事の準備は変則的な当番制で、今夜は久遠寺有珠のターンだった。
　有珠にとって食事当番とは、平時は手間暇を最小限に抑える作業であり、祝時のみ腕によりをかけて調理する……ものだった。
　無論、そんな有珠の哲学を草十郎が知るよしもない。
　草十郎から見ても簡素な食事。
　加えて、
　ふたりの間にはこれといった会話はない。
　食器の音、椅子ずれの音、時計の音だけが、サンルームに流れている。
　ちなみに草十郎はと言うと、夕食は済ませていたので居間からサンルームの様子を眺めているだけだった。
「草十郎、九時からアルバイトでしょ。行ってらっしゃい。私たちの事は気にしないでいいから」
「ああ。じゃあ行ってくる」
　青子の声に頷いて、コートを羽織る。
　草十郎がもう一度サンルームに目をやると、
　気のせいか、ばったりと有珠と視線が合った。
「？」
　今日一日、有珠は草十郎を無視し続けた。
　視界にさえ入れない、という徹底ぶりである。
　邪魔者として睨まれているのであれば合点がいくが、先ほどの視線に敵意はなかった。
「……居間の様子を見てた、のかな」
　きょろきょろと居間を見渡して、草十郎はロビーへと向かっていった。
　草十郎の退出を認めると、有珠は不自然だった視線を戻す。
「―――はあ、めんどくさ」
　青子からすれば露骨すぎて呆れてしまう。
　無関心を装っているのがバレバレなのだ。
「……なに。<献立|こんだて>に不満でもあるの、青子」
「もちろんあるけど、いつもの事だし慣れてるわよ。
　私が呆れてるのはアンタの意地の悪さの方。
　徹底的に無視してるクセに、相手の反応を<窺|うかが>ってるなんて女々しくない？　罠張って待ち受けるようなもんじゃない」
「彼の反応なんて探ってないわ。そもそも興味がないもの。それと、今のは差別発言ね。女々しいという表現は女性軽視にすぎるわ。
今の場合なら、貴女は矛盾している、と言ってちょうだい」
「うわ、自覚ありときた」
　同居人の指摘を聞き流して、有珠は夕食を再開する。
　青子は呆れ顔のまま、ソフトブレッドをちぎっては食べ、ちぎっては食べるのだった。
「じゃあここからは蒼崎青子としてじゃなく、共犯者としての質問ね。
　有珠的に、彼を見逃していいと思える判断材料はない？
　ありえないけど、実は彼も魔術師でした、なんてオチであったとしても、<洋|こ><館|こ>に住まわせるのは容認できない？」
「その理由なら認めるわ。彼を許すのではなく、そんな事に気付かなかったわたしたちへのペナルティとして。
　……そうね。今のは絶対にありえない話だけど、それと同じに、絶対の結論もまたないわ。
　彼がここに住む選択を呑む場合すらあるかもしれない。気の迷いは、わたしにだってあるのだし」
「ええそう、そういうコトよ。
　今は私との義理とかプライドで冷静をたもってるアンタだけど、アイツの努力次第で少しは、」
「それは諦めて。彼が何をしようと無駄だから。
　貴女も知っていると思うけど―――」
　そもそも、この少女は他人に気を許す事が出来ない。
　多くの器物、多くの童話を再現する代償として、魔女は人間を嫌うものなのだ。
「そんなのアンタ個人のトラウマでしょ。自分の意固地さを魔女の血統云々で棚上げするのはそれこそ女々しいわ。
　いいじゃない、嫌いなら嫌いでハッキリしてれば。
　私が気にくわないのはね、アンタのどっちつかずの態度よ有珠」
「どっちつかずの態度……？」
「そ。無視するなら徹底して無視してやれって言ってるの。
　ガチガチに守りをかためて、そのクセ城門だけ開けて、獲物が油断して入ってきたら串刺しにする気満々とか、相棒として見てられないわ。
　アイツにできるコトなんて閉ざされた門をあける事ぐらいだっていうのに、その機会さえ無くすのはどうなの？」
「……ごめんなさい青子。もう少し簡単に言って。
　その喩えは、ちょっと……」
　何を比喩しているのか分からない、と言いよどむ有珠。
　そんな相棒の無自覚さに、青子の苛立ちは一瞬だけ沸点を超えたようだ。
「だから興味ないとか言っておきながらコナかけるなってコト！　あんなにチラチラ盗み見たら、アイツ、ヘンに勘違いしちゃうかもしれないでしょ？
“有珠はああ見えて、本当は自分と仲直りしたがっているに違いない。じゃあさっそく部屋に押しかけてみよう”
とか！」
「―――そういうコトに、なるの？」
「なる。少なくとも、私だったらいいかげんイライラして“話があるなら校舎裏まで来い”って決着つけかねないレベル。この<毒婦|どくふ>」
「……そうだったのね。気をつけるわ。
　別に、彼と話をする気はないんだし。わたしも、彼を見ていたというより、彼の手足を見ていたのだし」
「？　手足って、なんで？」
「手足は手足よ。彼個人には思うところはないけど、あの夜の出来事はまだ記憶に新しいから。
それが少しだけ気になって、つい視線で追っていたのね」
「あの夜って、遊園地のこと？　なんかしたっけアイツ？」
「…………」
　有珠の表情が見るからに不機嫌になる。
　遊園地での敗北をいまだ引きずっているらしい。
「飛んだでしょう、彼。
　レールの上から、私のダンプティに向かって」
「ええ、そんなコト言ってたわね。勢いでつい、一メートルぐらいだから飛んじゃったー、とか」
　幸運な事に、青子はあの現場を見ていない。
　草十郎が死のジャンプをこなした理由のひとつが、<自分|あおこ>がかけた暗示によるもの、としか知らないのだ。
　一方、有珠はあの光景を時計台から目撃していた。
　本当にわずか一瞬だけだったが、
　崩れ去るスナークよりも
　地上で月を落とす青子よりも、
　目を奪ったその光景。
「でも、それがどうしたの？　卵の仇討ちってワケ？」
「ダンプティは壊れるのが仕事だから、仇討ちも何もないわ。
ただ……人間の体って、あんな風に動くんだなって」
　そう。
人付き合いの少ない有珠にとって、草十郎の跳躍は初めて見る衝撃だった。
　森の動物たちより何倍もバランスの悪い、二本の手足。
　あんな頼りのない足なのに、あんなに無力な両手だったのに、鳥のように虚空を駆った人のカタチ。
　それは都市で暮らす人間が、野生の<動物|ピューマ>の躍動を見る感動に近かった。
「……気にしないで。機会があるなら、もう一度見たいと思っただけ。
別に、彼に何を期待しているワケじゃないわ」
「……なるほど。有珠のプロイってだいたいが人型じゃないしね。たんに物珍しさで見ていただけか」
　はーあ、と両肩を落とす青子。
　有珠の思わせぶりな態度が、新しい玩具を欲しがる子供の好奇心と知って落胆したのだ。
　そんな同居人の態度に、有珠も異論を唱えなかった。
　彼女自身、自分の抱いた感動が何なのか、よく分かっていなかったからだ。
「夕食、明日は私が作るから。
　試験前だってのにこんなしょぼくれたもん食べさせられたら、一夜漬けする気合いも湧かないわよ」
「ご自由に。わたしも手が空いて助かるわ」
　洋館の夜は過ぎていく。
　幸か不幸か、異物混入による変化は、まだ表面化していないようだ。
　翌朝、空に白みがかかりだした午前六時半。
　冷えこんだ空気の中、なぜか草十郎は青子と一緒に登校していた。
“いい？　洋館にいる時は、極力一人にならない事。”
　青子はその忠告通り、こうして洋館を出るまでは草十郎の安全を確保している。
　……にしても、
「眠い。六時から登校とか、アンタも働き者ね」
「そうでもないよ。三十分<仕|し><出|だ>しを手伝うだけだし」
　期末試験を控えた状況とは思えない、<逞|たくま>しいまでの労働意欲である。
「それより蒼崎、無理してないか？
　別に、こっちに付き合う事ないんだぞ」
「ご心配なく、生徒会室で仮眠とるから。
　約束だし、門までは一緒に行くわよ」
　青子は思う。
　はたして、同居人がどんな罠を仕掛けているか。
　まさか森の中まで<禁忌|タブー>を仕掛けているとは思えないが、念のためだ。
　せめて行き道ぐらいは草十郎の味方になろう、と決めた青子である。
　罠があるのなら行き道で解除すればいい。
　一度解除……といっても青子には壊す程度しかできないのだが……してしまえば、しばらくは安全になるだろう。
「ま、帰り道に関しては、有珠もそこまで暇ではないと信じるしかないんだけど」
「？」
　夜に罠を仕掛けて、解除されたら休むことなく日中に仕掛けてまわる……なんてマメさを発揮されてはお手上げだ。
　その時はその時。
　久遠寺有珠にとって、静希草十郎はそこまでするほどの外敵だっただけの話だ。
　あの少女が頑なに守ってきた、魔女としての<矜持|プライド>を台無しにしてもいい程の。
「――――――」
　そもそも、その場合は青子がどれだけ尽力してもこの少年は守りきれない。日中のコトまで気を回すのは意味がなかった。
　自分にできるかぎりの事ならするが、自分の範疇を超えた事はあっさりと切り捨てるのが青子の人間性である。
　彼女にとっては、この方針が最大限の譲歩だった。
　久遠寺の敷地から出る。
　坂を下りて住宅地に出るまでふたり一緒だ。
　ふと、青子は傍らの少年を盗み見る。
「ところで、何か考えてる？」
　青子は気まぐれで問いただしたが、意外な事に草十郎は質問の意図を察していた。
“有珠をどう納得させるのか”
　その難問を、彼は彼なりに考えていたらしい。
　友人曰く。
　この手の難問には大きく三通りの対応法があるという。
　一つは外回り。
“こいつは時間がかかるが、もっとも自然だ。
　人間ってのは自分が好きなものを大切にされると、コロッと気を許しちまう。仲間意識ってヤツだな！”
　つまり、ターゲット本人ではなく、ターゲットが大事にしているものに気を遣え、というコトらしい。
　木乃美らしからぬ大人な意見ではあったが、残念なことに、草十郎は有珠の<嗜好|しこう>を知らなかった。
　洋館を大切にしているコトは感じ取っているが、ここで洋館の掃除などをしても逆効果な気がする。
　草十郎としては、大切すぎるものには簡単に触れて欲しくないのではないか、と思うのだ。
　二つめは内回り。
“でも、やっぱり本人を落とすのが一番早い。オレたちに魅力がないのなら、魅力のある外付け装備に頼るのだ。
　―――そう、プレゼントなンだよ静希クン！”
　即ち短期決戦。かつ、一撃必殺。
　高価な贈り物で相手の意識を変えろ、というコトらしい。
　素晴らしい作戦だ、と草十郎も思う。
　なによりシンプルなのがいい。わかりやすいのは彼にとってありがたい。
　しかし―――つまるところ、それも一つ目の作戦と同じ気がする。
　なにより、先立つものがないのが致命的だ。
“あとは……まあ、<見|ケン>ってヤツ？
　オレにはよくわかんねえけどさー、やりすぎると悪い印象を持たれるとか殿下がいってたなー。
　アタシ、いま落とされてる！　って意識させちゃダメなんだとよ。付き合った後で、アレ、アタシ落とされた？　と気づかせるのが上等なんだとか”
　言わんとするところはまったく分からないが、要は無理をするな、というコトらしい。
　まったく同感だ。
　気に入られる為に努力するのは正しい。
　けれど、それにも段階があるのでは、と草十郎は思うのだ。
　昔、山で見知らぬ狐のテリトリーに入ってしまったコトを思いだす。
　あの時は手持ちの食べ物などを置いてしまったが、それ以降、狐の気配はなくなってしまった。
　善意、懇意のカタチは人それぞれ。
　一方的な善意は時として重荷になる。
　なので、
「大丈夫、考えてるよ。とりあえず自分にできるコトとか、したいコトをしようと思う。
安心してくれ。蒼崎に忠告されたコトすら、きちんと守る方針だ」
「――――――」
　まかせろ、と胸を張る草十郎。
　まったく頼り甲斐のない返答に、ほんと大丈夫かコイツ、とつい親身になってしまう青子だった。
「学校にあるような<箒|ほうき>がほしい？」
「そうなんだ。できれば安く買えるところ」
「……静希の家、アパートよね。箒なんてモノ必要とは思えないけど」
「いや、ちょっと気になるところがあって掃除がしたいんだ。ゴミ袋もあると助かる」
「無駄な出費はできないって言ってたクセに。
　ま、どうでもいいけど。うちのでよければ使う？　貸してあげましょうか？」
「たぶん一日じゃ終わらないから自分で買うよ。
　もとから欲しかったものだし。あると便利だよ、箒」
　学校が終わってから、アルバイトの帰り道。
　時刻はバイト終了時間から二時間ほど早い午後四時。
　試験前日に学生を拘束するとは何事か、とお店の会計係に叱られたまっどべあ料理長は泣く泣く草十郎を送りだしてくれた。
　そして。
　この二時間のタイムラグこそが、草十郎の明暗を分けるのだ。多分。
　本来の予定では、草十郎は生徒会の作業を終えてから下校する青子と合流し、久遠寺邸に向かわなければならない。
　が、何を思ったか草十郎はバイト仲間の同期生に、この近くで竹箒を売っている店はないかと訊ねていた。
「田舎者の趣味って理解不能ね。<酔狂|すいきょう>すぎ。
　<三咲高|うち>の近くにまっずいラーメン屋あるでしょ。あそこの通りを終わりまで行けば沖田って<金物|かなもの>店がある。
一式揃えるなら西口のホームセンターより安くあがるわ。
　……どうでもいいけど、わたしの<自転車|チャリ>使う？　どうせ試験明けまで使わないし」
　思わぬ助け船に目を輝かせるが、久遠寺邸までの坂道を自転車で、しかも荷物を抱えて走るのは難しそうだ。
「いや、自転車には乗ってみたいけど、今回は遠慮するよ。じゃあまた明日、学校で」
　少女に礼を言って金物店に向かう。
　目的は安くて丈夫な竹箒と、大型のチリ取り。
　できれば台車や添え木用の棒もほしい、といざ考えだすと色々なものが欲しい草十郎だった。
　<午睡|ごすい>から目を覚ますと、少女は作業を再開した。
　久遠寺邸には別館があり、その内部は図書室になっている。
　少女の母から受け継いだ書物を収蔵したそこは、同居人である蒼崎青子も立ち入る事を<躊躇|ちゅうちょ>する領域だ。
　久遠寺邸が時代に取り残された魔女の館なら、
　この図書室は時代に忘れ去られた<御伽|おとぎ>の部屋。
　童話を操る幼い魔女からすれば、必然、相性の良い聖域と言える。
　少女は記憶を頼りに本棚を巡っていく。
　……と。
　なんとなしに顔を上げた時、おかしな風景を見てしまった。
「…………」
　優美な眉が不満げに寄せられる。
　その後の予定は、なにひとつ守れなかった。
　少女は日が暮れるまで眉のカタチを変えず、じっと、窓の外のおかしな景色を眺めていたからだ。
　―――とまあ。
　丘の上の洋館で寝泊りするようになっても、草十郎の日常に、とりわけ大きな変化は訪れなかった。
　起床、
アルバイト、
朝食、
登校。
　慣れない授業、
数少ない憩いの休み時間、
放課後。
　下校、
アルバイト、
仮眠、
起床、
試験勉強。
　ささやかな少年のささやかな日常は、本人の努力とは正反対に、<為|な>す<術|すべ>なく流れていく。
　状況は一向に変わらない。
　館内では頻繁に青子が隣にいたり、
　眠る前に有珠の用意した薬を飲まされたりするのも同じ。
　前者は草十郎の安全を考慮した青子のフォローであり、
　後者は、理屈は分からないが、やっぱり彼の安全のためだという。
　そして。今朝も今朝とて何の変化もない状況に頭を悩ませつつ、草十郎は朝の紅茶を淹れていた。
「…………ああ、そう言えば」
　有珠との関係に変化はないが、大きな変化はここにある。草十郎の朝の一服は、煎茶から紅茶に変わっていた。
　台所には様々な紅茶の葉があるが、ビギナーである草十郎には無用の長物だ。
　彼の用意する紅茶は当然ティーバッグで、自分用に一杯<淹|い>れて<食卓|サンルーム>に移動する。
　テーブルには先客が二名。
　青子と有珠は無言で朝食を<摂|と>っている。
　久遠寺邸において、朝食は完全個人主義だ。
　ふたりの朝食は<婉曲|えんきょく>に言えば質素な―――真実を言うと用意に二秒もかからない、堅そうな石窯パン一つきりである。
　青子たちは<時折|ときおり>言葉を交わすと、最後に紅茶を一口だけ<啜|すす>って席を立つ。
　有珠はもう高校が冬休みに入っているのでそのまま自室へ戻り、
青子はこれから学校なので鞄を片手に玄関へ。
　草十郎も食器を片づけた後、青子の後を追って洋館を後にする。
　ふたりは長い坂を下りて学校へ。
　三日間はこんな風に、実に簡潔に過ぎてしまった。
「ところで、あれから動きはあった？」
　授業も終えた夕刻時。
　青子の問いに、有珠は掴んだバターロールもそのままに、首を横に振るだけで『いいえ』と答えた。
「そう。なら、<敵側|あっち>も次の手を考えているんでしょうね。
　魔術師本体の居場所は見当ついてる？」
　返答はまったく同じ。
　落胆した風もなく、青子はバターロールを一口噛んでからサラダにフォークを突き刺した。
「そ。私も試験が終わったら手伝うから、それまで悪いけどひとりでやってて。今日からあのバカを一夜漬けにしなくちゃいけないんで、余裕ないの」
　それには思うところがあるのか、有珠はわずかに顔を曇らせた。
「？　問題ないでしょ、有珠はもう休みに入ってるんだから。一日ぜんぶ使えるじゃない」
「………………」
　たしかに有珠は冬休み中で、一日のすべてを魔術師としての生活に<費|つい>やしている。
　ただ、ここ数日はある理由で図書室に籠もりきりだった。
　青子の言う“挑戦者への対策”に徹していたワケでもない。
「有珠？　聞いてる？」
「……分かってる。今夜から、そっちもやるから」
　ため息まじりに返答して席を立つ。
　……何が気になって、何が言いたかったのか。
　ほんの二時間前、彼女が何をしていたのか。
　それらの出来事を飲みこんで、有珠は食卓から去っていった。
　その、二時間前の話―――
　眠りに落ちて見る夢は、
　たいてい、幼い頃の記憶だった。
　イングランドの北西部。
　深い霧に覆われたオークの森。
　二十世紀にあっても人を寄せ付けない、鳥と獣たちの王国。
　その一角に、彼女の生まれ育った家があった。
　何代と続いてきた古い生き物。
　偉大な、あるいは愚かな先祖の言いつけ通り、かたくなに純潔を守り続けた、原初の魔女の<末裔|まつえい>たち。
　先代たちがどれほどの年月を重ねてきたのか、少女は正確に把握していない。
　少女の母までは確かに伝わっていたが、少女には<口伝|くでん>でしか教えられなかった。
　だから、彼女たちがその土地に根を下ろしてどれほどの年月が経っていたのか、知るものはもう誰もいない。
　伝統はすっかり<剥|は>がれ落ちて、
　角をいただいた白馬も、
　虹色にはばたく鳥も、
　少女が生まれた時には影も形も見あたらなかった。
　代わりにあるものと言えば、少女の家には不釣り合いな、近代的な家具の数々だった。
　それらは森の空気にも少女の肌にも合わなかったが、決して不快なものではなかったと憶えている。
　時代遅れの母と、
　時代遅れの自分に贈られた記念品。
　それらに愛情を抱いたのは、
　一週間に一度、<近くの都市|マンチェスター>からやってくる男性からの贈り物である事を、子供心に分かっていたからだろう。
　……それも、今では失われた。
　きらきら光る運転手付きの<高級車|キャデラック>も、
　お城のような<花園|ガーデン>も、
　たくさんの大人たちも、
　<霧|きり>のように消えてしまった。
　あるいは、霧の中に消えてしまった。
　幸せに満ちた母の笑顔も、
　はにかむような父の笑顔もない。
　そんなもの、初めから森が<赦|ゆる>しはしなかったのだ。
　……今はただ、疑問だけが残っている。
　洋館には不釣り合いだった数々の異物。
　何ひとつ自分が望んだわけではない高級品。
　ただ<厭|いや>らしいだけの贈り物。
　それを、あんなにも<愛|いと>おしく<触|ふ>れていたのは、一体どんな気の迷いだったのか―――
「――――――」
　閉じられた<目蓋|まぶた>がかすかに動く。
　日が<翳|かげ>りだす前の午後。
　少女は自分の耳ではなく、館が聞き届けた音に反応して、うっすらと意識を起こした。
　辛そうに目蓋を押さえる少女を気遣ってか、鳴き声をあげる青い小鳥。
　少女はぼんやりとした目で、
「……不思議ね。ずっと昔の、鳥の夢を見たわ」
　薄れていく夢の<内容|きおく>に<縋|すが>るように、独り言を口にした。
　鳥と聞いて、我が事のようにはしゃぐ駒鳥。
「……安心して。ほとんど覚えていないけど、貴方じゃない事だけは確かだから。
　それよりこの音、なに？」
　<肩|はね>を落としてがっかりする駒鳥に、少女は冷たい目のまま追及する。
　……彼女が目を覚ました原因。
　館の裏庭の方から響く、<耳障|みみざわ>りな雑音について。
　裏庭からの雑音がなんなのか熟知していた駒鳥は、胸を張って主人に報告する。
　聞いて。少女の眠気は、今度こそ霧散した。
「…………そう。<目障|めざわ>りなだけでなく、<耳障|みみざわ>りにまでさせてくれるのね、彼」
　つまらなげに漏らした言葉は、魔女としての責務とはまた違う、いわれのない個人的な<感情|いらだち>を含んでいた。
　長らく使われていなかったポンプが、ギッコギッコと音を立てる。
　久遠寺邸の裏庭。
　じき日没を迎える森には<痩身|そうしん>の人影があった。
　人影はきょろきょろと森を見渡しながら、草むらに埋もれたビニール袋や不法投棄された自転車を片付けたり、まれに、折れかかった木の枝などを補強したり、ひと思いに伐採などしていたりする。
「む、これはひどい」
　おそらく洋館に住んでいる人物、どちらかの手によるものだろう。
　館の物置に放置されたゴミ袋が野犬によってここまで運ばれ、無惨に食い散らかされていた。
　彼は持参した竹箒を片手に、黙々とゴミを片づける。
「………………」
　有珠は散歩中という<体|てい>で、その人影に出くわした。
　<一月|ひとつき>に一度あるかないかの森の散歩が今である理由は、あえて語るまでもない。
「静希君」
「こんにちは。今から外出？」
　気軽に挨拶など返される。
　有珠は努めて視線を冷たくして、森の様子を観察した。
「出かけないわ。
そういう貴方は何を？　青子と一緒に帰ってくるものと思っていたけど、青子は？」
「蒼崎ならまだ学校。こっちはバイトが早めに終わったんで、ここで暇を潰している。
夕方になったら正門で蒼崎と合流して、洋館に戻るよ」
「……そう。でも、貴方が先に帰ってきている事を、青子には伝えてあるの？」
「あ」
　しまった、と草十郎は不安げに言葉を切った。
“いい？　洋館の正門前、五時だからね！”
　その約束は当然守る気満々だった。
　が、今にして思うと、それは“五時まで洋館に入るな”というコトだったのかもしれない。
「……申し訳ない。蒼崎には黙っていてくれると助かる」
「別に。青子との会話で、貴方の話題があがる事はないから気にしないで。
　……それより何をしているの？　貴方と青子、今日から期末試験でしょう？　勉強、しなくていいの？」
「うん？　勉強ならちゃんとするよ。
　寝る前にきちんと、二時間」
　どうも、彼にはまだ“試験前は念入りに復習をする”知恵がないようだ。
　その考えはこの数時間後に<改|あらた>められる事になるが、今はまだ先の話だ。
「それより森の荒れ具合が気になって。
　この丘、どのくらいほったらかしだったんだ？」
「…………」
　有珠は答えない。
　彼女がこの土地に住みはじめて三年ほど経つが、口にする必要はない。
　沈黙する有珠が気にならないのか、草十郎はひょいひょいとマイペースにゴミを拾っていく。
　少女から見ると<厚|あつ>かましいコトこの上ない。
「―――貴方」
　今すぐ消えて、と続きかねない声。
「あいたっ」
　それを、間の抜けた声が押し止めた。
「いたた……なんか硬いの蹴ったぞ、今」
　草十郎の足下には、錆びた金属の固まりが埋もれていた。
「鉄の……なんだろう、このギサギザ。危ないけど、これ閉じるのか？」
　不思議そうに足下の危険物を観察する。
　それが野生の獣の<脚|あし>を捕らえる<道具|ワナ>である事を、彼は知らないらしい。
「……<虎挟|とらばさ>みね。昔、この山には野犬が多くいたというから、その頃のものでしょう。
　街の人たちが忘れていったのよ、きっと」
「野犬……これ、犬を捕まえる道具なのか？」
「ええ。踏みつけると、その口みたいなのがバネで閉じると聞いたわ。
実際に稼働するところは見た事がないけれど」
「そうなのか。でもこんな見え見えの仕掛け、引っかかる動物がいるのかな」
　素朴な疑問に、たしかに、と有珠は頷いた。
　虎挟みなんてものを見たのは子供の時以来だが、彼女も前から妙に思っていたのだ。
　有珠は獣たちの<賢|かしこ>さを知っている。
　なのにどうして、彼らはこんなあからさまな罠に食いつかれて、人間の手にかかってきたのか？
「…………食べ物とか、置くのかも」
　つい、思いつきが声にでる。
「食べ物ほしさに、こんな、見るからに痛そうなものに近づくかな」
「それはそうだけど、時と場合によるでしょう。
　動物だって、死にそうなぐらいお腹が減っていたら、誘惑には勝てないわ。
　罠にかかっても傷つくのは片足だけでしょうし。危ないと分かっていても、飢えて死ぬよりはいいと食べてしまうのではないかしら」
　……そう。
　たとえその後、猟師の手による死が待っていようと、目前の飢餓には耐えられない。
　それが子供を養う親だったら尚更だ。
　親犬は子供のために片足を犠牲にして、餌を手に入れた代償として狩られてしまう。
　はじめから危険と分かった上での挑戦……なのかもしれない。
　動物たちは生き残る為なら片足ぐらいと決断して、結果的に殺されてしまうだけの話。
「人間と変わらないわ。
　片手を失うことで死なずに済むのなら、それぐらいの取捨選択はすると思う」
　自分を納得させるように少女は断言する。
　それを、
「どうだろう。人間と動物は、ちょっと違うんじゃないかな」
　再度、自信なげな声が押し止めた。
「……違うって、なにが？」
「片足を犠牲にして助かろうってところ、かな。
　動物には無駄がない。あれこれ考える知恵もない。
　だから俺たちみたいに、<無|・><く|・><な|・><っ|・><た|・><ら|・><別|・><の|・><物|・><で|・><補|・><う|・>、なんて選択が、そもそもないんだ」
「動物にとって、片足を無くすコトは命を無くすコトと変わらない。
無駄がないという在り方は、何も失えない在り方なんだと思う。動物はみんな、少しでも自分の<価値|からだ>が欠けたら、もう生きていけない事を知っている」
「……だから、この罠を見て、それでも進もうとした時、彼らには“足ぐらいなくなっても”なんて思いはないんじゃないかな。
　はじめから助かる気はない。片足を失うと認めた時点で、彼らは自分の命そのものを差しだしている」
　予想外の意見だったが、なるほど、と少女は受け入れた。
　この少年は都会生まれではなく、まだ自然と共存している山村で育った人間だ。
　文明で武装し、弱いもの、老いたものを助けてくれる社会に生まれたものではない。
　これまでの彼の在り方は、創意工夫に満ちた便利な日々ではなく、自然との共存による生活だったのだろう。
　そんな草十郎にとって、傷とは傷のまま、永遠に残るものだったに違いない。
　そうでなければ、自然に生きる動物の在り方を口にできない。
　……彼の言うことはもっともだ。
　足を負傷して走れなくなった馬は、もう「馬」として機能せず、人々からも「馬」として見られないように。
　野生の獣は、その手足を走らせる機能を<損|そこ>なった時点で、<生命|いのち>より先に己の<意義|かち>を<喪|うしな>うのだ―――
「でもコレ、一度でも獲物を捕まえたコトがあるのかな」
「さあ。仕掛けたのはわたしじゃないから」
　親しげに話しかけられ、有珠は気を引き締めて返答した。
　つい話し込んでしまったが、有珠にとってみれば虎挟みよりこの少年の方が何倍も邪魔なのだ。
「それより。森の手入れをしているようだけど、何のつもり？　わたしへのご機嫌<伺|うかが>い？」
　少女の瞳に敵意がともる。
　自分に媚びへつらった時点で、有珠は草十郎を自分流に処置しようと決めていた。
　不義理もいい。絶交もいい。裏切りもいい。
　けれど、心にもない言葉で話しかけられる事だけは許せない。
　それは少女にとって、何よりも重い侮辱だった。
「うん？　森の手入れをすると、なんでそっちの機嫌が良くなるんだ？
　こんなに荒れ放題なんだから、ふたりともこの森はあんまり好きじゃないんだろ。森がきれいになって気分が良くなるのは、俺だけだと思うけど」
　が。有珠の敵意も、この少年にはまったく伝わらなかったようだ。
「……待って。たしかに森には手を入れていないけれど、嫌いな訳じゃない。愛情はそれなりにあるわ」
「それはヘンだ。なら、どうして放っておく」
「愛情はあっても愛着はないだけよ。
……でも反省したわ。これからは森の手入れも日課にいれる。
　けど、貴方だっておかしいでしょう？
　この森のどこに、貴方が気に入るものがあるの？」
「おかしくはない。
森はたいてい好きだし、この丘、ちょっと故郷の山に似ているし。
　ほら。好きだった子にそっくりな子が困ってたら、なんとかしてあげようと思わないか？」
“なんというか、人間として”
　などと締めくくる草十郎。
　その余計な一言は、有珠の心をかき乱すには十分だった。
「……納得いかない。それだけで大切に扱うの？
　本当はわたしへの当てつけなんでしょう？
　だいたい、こんな森が好きなんておかしいわ。オークの木も根付かない、どこにでもある普通の森なのに」
「？　別にそれでいいじゃないか。
　森は普通にあるだけでいいんだ。なにもおかしくない。きれいなものをきれいと思うのは、いい事だと思うんだが」
「……明確な理由もないのに？　この世のすべての森が好きだっていうの？
　貴方とこの森には何の因果関係もないわ。
　文脈として、貴方がこの森を好きになる理由がない。
　理由がないなら、それはわたしへの―――」
「？　好きってコトに理由は必要なのか？」
「え―――」
　不思議なものを見るように少年は言った。
　それは、愛情に理由はいらない、という意味ではなく。
　理由のない<感|も><情|の>はすべて嘘なのかと、問い返すような言葉だった。
　……カッと沸き立っていた胸が冷めていく。
　少女は声を荒らげた自分を恥じて、一歩、少年から身を引いた。
「――――――」
「………………」
　気まずい沈黙。
　有珠は何か、自分なりの<矜持|きょうじ>を示そうと言葉を探していた。
　やりこめられたままでは立場が逆だ。
　何しろここは自分の森、彼女の世界。
　こんな、ただの人間に言い負かされたままでは魔女の<沽券|こけん>に関わると唇を噛んでいる。
「ところで。これは残しておく？」
　一方。そんな彼女の戦意もどこ吹く風で、草十郎は虎挟みに手を伸ばす。
「……必要ないわ。わたしのものではないと言ったでしょう」
「そっか。なら回収しよう。もう錆びて動かないけど、犬の歯みたいで物騒だ。残しておくと夢に見そうだし」
　よいしょ、と重い鉄の塊を持ち上げる草十郎。
　少年はそのまま木の陰まで歩いていくと、おかしなモノに虎挟みを放りこんだ。
「……静希君。そのリヤカー、どこにあったの？」
「どこって、町のお店だよ。
　もしかしたらと思って買ってきて正解だった。ここのところ、どうしてか悪い予感だけはあたるんだ」
　嬉しそうにリヤカーを移動させる、謎のボランティアマスター。
　その笑顔を見て、この少年につっかかるのがどれだけ時間の無駄なのか、有珠はようやく悟った。
「………そう。話しかけたわたしが、どうかしていたわ」
　少年に背を向けて、洋館に足を向ける。
　……まったく、青子の言うとおりだ。
　余計な時間を使ったと反省しながら、有珠は徹底的に、あの少年は無視しようと<自|みずか>らに言い聞かせた。
　私立という事もあって、三咲高校の冬休みは早い。
　十二月の<半|なか>ばには終業式を<迎|むか>え、校舎と生徒たちはつかの間、二学期までの疲れを癒す事になる。
　無論。
　彼らにとっては恒例の関門、幸せな長期休日の前に立ちはだかる<期末試験|みっかかん>を無事に乗り越えられたら、の話であるが。
　深夜放送を受信するラジオ。
　<台所|した>まで下りる手間をはぶく、紅茶用の魔法瓶。
　冬の寒さから足を守る電気毛布と、夜食のカニパン。
　このように。
　青子の部屋は<一分|いちぶ>の<隙|すき>もない、一夜漬け強制空間になっていた。
「期末試験一日目、ご苦労さま。
　それで、生まれ変わる覚悟はできた？」
「――――――」
　こくこく、と頷く草十郎。
　アルバイトから戻ってきた彼を待っていたのは、魔術師ではなく、鬼の生徒会長としての蒼崎青子だった。
　時をさかのぼること半日前。
　期末試験一日目を終え、かねてからの計画を実行しようと洋館に向かう草十郎の前に、
「今夜、私の部屋で監禁ね。
　あ、夕方からのアルバイトは当然キャンセル。ちょっと本気で、あの点数はあり得ないから」
　青い炎に包まれた笑顔が現れたのである。
　その手にはしわくちゃに握りしめられた静希草十郎のテスト用紙。
　おそらく職員室で山城教諭から
『ま、転校してきたばかりだし、しょうがないよね』
　と見せられたものを、<勢|いきお>い<奪|うば>い取ってきたに違いない。
　かくして、今日まで屋根裏部屋で寝泊りしていた草十郎は、この日にかぎって青子の部屋に通された。
　色々疑問視する点はあるものの、青子とて年頃の女学生である。
同年代の男子を自分の部屋に立ち入らせることに抵抗はある。
　が、それ以上に草十郎の答案用紙はあり得なかったのだ。
　なので、今日の不機嫌度は五割増し。彼女のこめかみから怒りマークがとれないのも無理からぬ事である。
「先に自分の復習、済ませる。
　アンタはそのテーブル使ってて」
　青子はテーブルに背を向け、愛用の机に向かった。
　一方、草十郎の前には安物のガラステーブルが一つ。
「……なんか色々と慣れないな。
　なあ蒼崎、この青いのなんだ？」
　落ち着かないのか、草十郎は部屋の隅にたてかけられたギターを眺める。
「なんか薄いし青いしとんがってるし、きっと蒼崎の事だし。
……もしかしなくても、武器か？」
「楽器よそれ。エレキはともかく、アコギは音楽室で似たようなのあったでしょう。あとこれ以上<青青|あおあお>言ったら、そのとんがってるので殴るからね」
　やっぱり武器じゃないか、という感想を<堪|こら>えて、草十郎もクッションに腰を下ろす。
「――――――」
「ちょっとは落ち着きなさいよ。いつもは耳の遠い大型犬みたいに鈍感なクセに。何か気になるものでもあるの？」
「………………」
　この場合、鈍感なのは青子の方なのだが、
　草十郎もなぜ自分が落ち着かないのか分かっていないので、鈍感なのはお互い様である。
「あ、もしかして内装？　この部屋の家具のグレードが居間とは違うから不思議がってるのね。
　ここ、ベッド以外は私の家から持ちこんだ物なの。引っ越してから二年経つけど、まだ屋敷には馴染んでないでしょ？」
　そわそわと落ち着かない草十郎の心情を曲解、納得いったのか、青子は自分の勉強を始めてしまう。
　早送りのようにめくられていくノートと教科書。
　そこに余人の立ち入る隙間はない。
　青子の背中から立ち上るオーラに圧倒され、草十郎も気を引き締めてテーブルに向かった。
　完全に無視されていながら平然と自分の作業に入れるあたり、草十郎も只者ではない。
　それから二時間。
　十一時近くなって、ようやく青子の<集中力|スピード>が減速していった。
　それを<頃合|ころあ>いと見て、草十郎は凛と伸びた青子の背中に話しかけた。
「蒼崎、ちょっといいかな」
「ん、なに？」
　遠慮がちな声に、青子は振り向かずに応えた。
　減速しているといっても、青子のノートをめくる動作は止まらない。
「この三日間、蒼崎たちの夕食事情を見てきたけど。
　君たちの食事はいつもああなのか？」
「そうだけど、おかしい？」
「む……そう言われると困るな。
　ただ、学校じゃみんな楽しそうだった。誰かと食事を摂るって事は、ああいう風になるコトだって思ってた。だから、もしかすると」
「もしかしないわよ。別にアンタのせいで有珠と話さないワケじゃないわ。私たちはいつもああだから」
　平然と語る青子の背中は、そんな事実をどうも思っていないようだった。
「張りつめた食卓だな。
　蒼崎と有珠は、仲がいいと思ってたのに」
　青子は否定も肯定もしない。
　ただ、草十郎の残念そうな呟きが、少しだけ意外だった。
「ま、張りつめた食卓っていうのは合ってるわね。
　有珠が何回アンタの飲み物にメスカリンを入れてたかなんてもう覚えてないし、昨日なんか堂々とサラダの中にナナカマドなんか混ざってるし。
　……ほんと、あの娘なに考えてるんだろう」
　思い出すように苦笑しながら、青子は教科書をめくっていく。
「メスカリン……？」
「サボテンからとれる<植物塩基|アルカロイド>よ。有珠が使う以上、ただの幻覚剤じゃないでしょうけどね。……っと、私はこんなもんでいっか」
　そう言う彼女の手元で、ぱたん、と四冊目の教科書が閉じられた。
　今まで微動だにしなかった背中がくるりと反転する。
「さ、今度はアンタを仕込まなくちゃね。
　今日の四科目の答案、実に草十郎らしい出来栄えで卒倒しそうになったわ、私」
　口調は楽しそうに、けれど視線は不機嫌そうに、青子はあぐらをかく草十郎を見つめる。
「現国、地理、数学、電子工学。
　あの調子であと二日続けたら、冬休みが消えるのは当然でしょうね。そうなると困るのは私なのよ、実際」
「いや、俺も困るぞ。休みなのに学校に行くのは、なんか気が乗らない」
　冷静に誤りを訂正する草十郎。
「そりゃあ私の台詞だ！　アンタが学校に行くってコトは、必然、こっちまでとばっちりがくるっての！」
　思い出したくもない、山城教諭のニヤニヤ顔を想像してしまう青子だった。
「それ以前に、私の目が黒いうちはオール赤なんて<生徒|ヤツ>は許さない。
　本来なら性根から叩き直すところだけど……」
「ま、アンタは色々事情があるから、とりあえず点数だけで勘弁してあげる。
　私もテストは一夜漬けで片付ける方だから、アンタ一人仕込むのに、そう時間はかからないだろうし」
　青子の宣言に、草十郎は露骨に表情を曇らせる。
　そんなお節介はいらない、とでも言いたげな顔である。
「アンタね。苦労するのは私と貴方、どっちだと思う？」
　間違いなく自分だな、と運命的に悟りながらも草十郎は静かにうなだれた。
　どのみち断ったところで断りきれるはずがないし、青子の言う通り、苦労の度合いは彼女の方が大きいだろう。
「……この度は、ご迷惑をおかけします」
　観念と感謝の意をこめて、ぺこりと一礼する草十郎。
「よろしい。
安心なさい、私だって鬼じゃないから。
　別に平均点狙うってワケでもなし、予定通りこなしていけば三時には眠れるわよ」
　殊勝な教え子の態度に、青子は満足そうに頷いた。
　ほんとうに色々問題のある草十郎だが、この素直さがあれば大抵のコトはなんとか出来てしまうだろう、と。
「……って、なにホトケ心だしてるんだ私。
　いい、静希君？　このあと頼られちゃたまんないから<釘|くぎ>さしておくけど、私がマンツーマンで誰かを仕込むなんてコト、滅多にないから。
　これはあくまで、異例中の異例だって覚えておいてね」
　自分に言い聞かせるような青子の宣言に、えー、と顔を曇らせる草十郎。
　その顔の上に“拾ってください”なんて単語を連想してしまい、自らの甘さにうなだれる青子だった。
　そう言えば、初めて出会った日は雨だったっけ、などと思いながら。
　……時間は、砂が落ちるようにすぎていく。
「―――結局」
　窓から差しこむ朝の光に目を細めて、青子は何杯目かの紅茶を飲み干した。
「一晩かかったね、蒼崎」
　不思議だ、とばかりに青子の独白を拾う草十郎。
　青子にはいつもの覇気がない。
　徹夜明けプラス、一晩じゅう草十郎を怒鳴りつけた疲労のためだ。
　一方、草十郎は昨夜とまったく同じ顔色である。
「……ええ。甘く見てたわ、アンタの事を」
「だから、誉めても何も出ないって」
「ある意味、誉めるに値するかもね……」
　呆れる青子だが、半分は本気で感心していた。
　この山奥育ちには下積みがなさすぎる。
　控えめに言うと、かろうじて中学生レベルの学力だ。
　なので、理解、修得を目的にした試験勉強は諦めるしかない。
　基本は点数稼ぎの暗記だけ。
　明日になれば忘れるハリボテの一夜漬けでいい、と青子は教官役を買ってでたのだ。
　……誤算だったのは、思いの外、この生徒が優秀だった事だろう。
　四教科の試験範囲を終えるのに一晩かかってしまったが、それでもここまで熱心に、覚えたことを無駄にしないよう真剣に取り組むとは思わなかった。
「でもねぇ。真面目なのはいいコトだけど、アンタ、暗記するのに時間かかりすぎ」
「そこは大目に見てほしい。今まで、頭より体で覚えるコトのが多かったんだ」
「…………」
　青子は仕方なさげにため息をつく。
　たしかに、山奥での生活で重要なのは知識ではなく経験則なのだろう、と。
「……まあいいわ。これで山城からアンタの成績について相談される事もないでしょうし。
　紅茶、もう一杯<淹|い>れてくれる？」
　疲れきって背中を伸ばす青子に、はいはいと応えて立ち上がる草十郎。
　ティーバッグの紅茶は大量に買いこんでいたらしく、まだ十分に余っている。
「まったく。無駄遣いだな、蒼崎は」
　青子に聞こえないよう呟く。
　一晩<厳|きび>しく教えられた反撃か、青子のだらしのない点が見られて嬉しいらしい。
　……その買いすぎたティーバッグは失敗ではなく、<今|・><夜|・>の補給物資になる事を、この時点では想像もできない草十郎だった。
　そんな平和ぼけしまくった草十郎を、青子は弛緩した面持ちで眺めている。
「……悪くないけど。せめて、リーフティーで淹れられるように仕込まなくちゃダメかな……」
　独り言じみた青子の所感が聞こえたのか、草十郎はひょいと青子を振り返る。
「やっぱり味は違うのか？」
「違う違う、もうぜーんぜん。
　……ま、正直私はどうでもいいんだけど、有珠はね、かなりお茶にはうるさいよ。
　―――そうだ。草十郎、有珠と上手くいってる？」
　まだ教科書やらテキストやらが散乱しているテーブルに体を寝かせて、楽しそうに青子は言う。
　そんな彼女に、草十郎は恨みがましい視線を送った。
「彼女と会えるのは食事の時だけで、食事といったらアレだろう。どうやって仲良くなれって言うんだ」
「そう？　私はじゅうぶん脈アリだと思ったけど。
　<草|そ><十|っ><郎|ち>は有珠を恐がってないし、有珠は<草|そ><十|っ><郎|ち>を追い出す理由を見つけようと躍起になってるし。
　いい条件よ、これって」
「……ぜんぜん分からないな。
　あの娘とこっちの関係は、遊園地前の蒼崎と俺の関係と同じじゃないか。いったいドコがいい条件なんだ？」
「とりあえず反目しあってはいないでしょ？
　一方通行の関係だけど、それはそれ、有珠にしちゃあ上出来っていうか。理由を探している時点で可能性アリってね。
　あの娘は反感に応える事がクセになっちゃってるから、大抵、相手を自滅させちゃうのよ」
「？？」
　抽象的な青子の言に、草十郎はますます首を傾げる。
「知ってしまえば単純な話なんだけどね、あの娘の場合。
　ただ―――」
　知ったところで、そのスタンスを実践できるかは別の話。
「難しいよ、蒼崎は」
　言いつつ、草十郎はふたり分のティーカップを持ってテーブルに戻る。
青子はカップを受け取ると、疲れを打ち消すようにと口に運んだ。
「でも、たしかに君の言う通りだ。
　俺はまだ、あの<娘|こ>の顔しか知らない。久遠寺有珠という名前すら<定|さだ>かじゃないのは、問題があるね」
　青子に<倣|なら>ってカップに口をつける。
草十郎のカップに注がれたのは紅茶ではなく、ただのお湯だ。
「ふーん。あの娘のこと、教えてほしい？」
　真横に座った草十郎を<覗|のぞ>きこむ青子。
　まっとうな人間なら見惚れかねない青子の仕草に、
「いや。そういう事は、本人に訊いてあげるべきだと思う」
　彼は真摯に、居もしない少女に語りかけるよう、きっぱりと返答した。
「……そうね。
ほんと、アンタって有珠好みの対応をするわ。
　ね。前から気になってたけど、客室で有珠に何を言ったの？　いくら私との約束とはいえ、あの娘が部外者を半日も放置するなんてあり得ないのよ？」
　あの時―――
　客室で目が覚めて、有珠と交わした二、三の言葉を草十郎は思い出した。
　あの会話が特別なものであったとは思えないが、だからといって、気軽に話すことはできない。
　あれは、その―――
「ね、どんな台詞であの娘の気を変えたの？」
　教えなさい、と詰め寄ってくる青子。
「―――」
　草十郎はむう、と難しそうに眉をひそめる。
　有珠にとってどうであったかは不明だが、彼にとって、あれは<侵|おか>しがたいものだった。
　ある一点。なにを、誰に対して気遣ったか。
「ほら、白状しなさいってば。
　隠しごとなんて似合わないわよ？」
　意地の悪い笑顔が、ずいっとにじり寄る。
「………………」
　どうにも黙秘ではやり過ごせそうにない。
　草十郎もいずれ知ることになるが、蒼崎青子はこれでゴシップ好きの困った一面があったりするのだ。
「―――まあ。あの<娘|こ>と何を話したかは言わないけど。
　今の蒼崎に比べれば、花も浪漫もなかったのだけは確かかな。
さっきまでは蒼崎が鬼みたいだったから、いいもんだなって気が付かなかった」
　横から覗きこんでいる青子に、草十郎は真顔で視線を返す。
　慌てて飛びのく青子。
　言われてみれば、さっきまで体が触れ合うぐらい近寄っていた気がする。
「し、仕方ないでしょ、この方が効率良かったんだから。
　アンタ、横にいないとすぐ間違えるし」
　悪態を吐きつつ青子は立ち上がった。
「そうだね。なんか昔みたいで、久しぶりに集中できた。
　これが異例中の異例っていうのが、本当に残念だ」
「……余裕あるじゃない。その分じゃ今日のテストだけじゃなく、有珠との話し合いも上手くいきそうね、草十郎？」
「ああ、それはもちろん」
　爽やかな返答に、青子はつい絶句する。
　嫌味のつもりだったのに、まさか笑顔で返されるとは思ってもいなかったのだ。
「方針変更だ。まずは近くで話しかけてみるよ。
　嫌なことは、いずれ終わるって分かったから」
　そう言って立ち上がる草十郎の姿を、青子は絶句したまま見つめた。
　……頼りがいがある姿というか、きちんと芯の通った振る舞いというか。不覚にも、少しだけ尊敬してしまった程だ。
「とりあえず今日はひとりで帰って、有珠と話してみる。
　蒼崎は放課後、生徒会だろう？」
　草十郎の言う通り、青子には冬休み直前の最後の会議が待ち受けていた。
　本来なら会議の終わりまで待つか、学校からそのままアルバイトに行くのが草十郎の日課である。
　それも、ひとえに洋館で草十郎と有珠が二人きりにならないよう、青子なりの配慮なのだが―――
「……待った。まさかアンタ、ひとりで有珠とやりあうつもりなの？」
「別にやりあうつもりはないぞ。<試|し><合|あ>っても勝てないだろ、有珠には」
　驚く青子に、平然と草十郎は返答する。
「でも、蒼崎がいたら話が複雑になるのは目に見えてるんだ。そんなワケで、今日はゆっくり鳶丸の相手でもしててくれ」
「…………本気？」
　試すような青子の問いに、草十郎は気軽に頷いた。
　事の深刻さを理解している青子と、
　その深刻さは<要|い>らないと語る草十郎。
　窓から差しこむ朝の光が、立ったまま話し合うふたりを光と影とに<別|わ>けている。
　どちらが光に照らされているのか、
　どちらが影に佇んでいるかは、語るまでもない。
　短かな、ほんの数秒ほどの沈黙。
　青子は草十郎を真顔で見つめて、
「そ。なら止めはしないわ」
　青子はそう口にした。
　先ほどまでの沈黙の意図も、わずかな葛藤も感じさせない、彼女らしい<冷徹|ドライ>さ。
「……なんか怒ってないか、蒼崎？」
「別に。それで、何か考えはあるの？　下手な考えは通じないわよ、あの娘には」
　む、と眉をよせて考えこむ草十郎。
　たしかに会話だけで有珠と親しくなるのは難しい。というか、不可能な気さえする。
“言葉で落ちないヤツは物で釣れ”
　彼の数少ない相談相手（勘違い含む）である木乃美芳助はそんな助言をしてくれた。
　ちなみに木乃美の助言は対青子用のものだったが、その時の草十郎の感想は、
“蒼崎を物で釣ると、後が恐そうだ”である。
「……む。だいたい、有珠の趣味も分からないじゃないか。
　考えてみると、今の自分と彼女はまるで接点がない」
　困ったな、と腕を組む草十郎。
「いつもの事だけど、何も考えてなかったワケね」
「うん。でもまあ、あれこれ考えなくてもいいと思う。
　有珠にはあれこれ説明するとか、分かってもらおうとか、そういうんじゃなくて、なんていうか―――」
　言葉にできない印象を、なんとか言葉にしようと悩む。
　思考時間は短かった。
　草十郎はああ、と小さく頷いて、
「要は、俺が彼女を好きかどうかって事じゃないか？」
　あっさりと、言いづらい感想を口にした。
　確かに、それは全ての前提だ。
　認められるために話すのではなく、
　見返りを求めての求愛でもない。
　まずその人が好きだから、触れ合ってみようと思う。
　それは打算のない、清潔な心のあり方だ。
　けれど、それが人間として幸福かどうかは、また別の話。
　計算と妥協、我欲と食い合い。
　道徳が非人間と<糾|うた>うものこそが正しい人間性と信じる者には、その清潔さは目に痛い。
　……いや、正しくは。
そう信じざるを得なくなってしまった者にとっては。
「………………」
　草十郎の言葉に何も返さず、青子は音もなく歩きだした。
　長い髪を揺らして、草十郎の前を通り過ぎる。
「蒼崎？」
　どこか冷たい素振りの彼女を、草十郎は呼び止める。
　青子はもう部屋のドアを開けていた。
「下でシャワー浴びてくるから。
　貴方は自分の部屋に戻ってて」
　<抑揚|よくよう>のない台詞。
　それに戸惑いながらも草十郎は頷いた。
「いいけど……やっぱり怒ってないか、蒼崎？」
　言われて、青子の顔に表情が戻る。
　それはいつもの、もう見慣れた不機嫌そうな顔ではなかった。
「……そうね。アンタ流に言えば、たぶん私は怒ってる。
　何に対してのものかは、あんまり言いたくないけど」
「…………」
　その原因が自分である事すら草十郎には分からない。
　そんな草十郎を見て、彼女はほんの一瞬だけ、今まで草十郎が見たことのない表情を見せた。
「じゃあね。これが最後になるかも知れないから、お別れぐらいは言っておくわ。
　貴方は有珠を甘く見すぎてる。
　……でも、それが同時にアンタの強みなのよね。私たちには、毒にしかならないけれど」
　バタン、と音をたてて閉められるドア。
　壁ごしに歩み去っていく足音が聞こえてくる。
　暖房のない廊下は冷蔵庫なみの寒さのはずだが、青子は慣れているようだった。
「―――って、なんで私から出ていくんだっ。
　順番が逆！　普通、先に出てくのは<男子|そっち>じゃない」
　しっしっ、と青子にうながされ、部屋からほっぽり出される草十郎。
　バタン、と閉じられる木製の扉。
　思っていたほど廊下は冷えこんでいなかった。
　―――まあ、冷蔵庫よりはマシな程度には。
　二日目の期末試験が終わって、草十郎はひとり洋館への帰路についた。
　坂道は上に行くほど傾斜を増していき、森も深さを増していく。
　それが二十分以上も続くのだから、地域住人たちにとって久遠寺邸のある丘は山以外の何物でもない。
　一方、草十郎にすれば歩くだけで踏破できる森を山と呼ぶには抵抗がある。
　舗装された道があり、
　日射しで方角を確かめられる程度の森であり、
　急な斜面も、<茂|しげ>みに<潜|ひそ>む動物の姿もない。
　ここでは遭難の恐れはおろか、迷う事を心配する必要もないのだから。
「……情けない。まだ未練ばっかりだ」
　知らず知らずのうち回想していた自分を、草十郎は静かに罵倒した。
　町に引っ越してきてからの数週間は、山と町を比較してばかりだった。
　その時はこんな風に自分を叱る事もなかったが、
　ここ数日―――蒼崎青子と知り合ってからは、それが後ろ向きだという事にようやく気が付いたのだ。
　理由、理念はどうあれ立ち止まらない少女。
　その姿を目で追ううちに、自分も自然と早足になっていたらしい。
　その青子が住む洋館は、活き活きとした彼女には不釣り合いな<趣|おもむき>だ。
　三咲町の中でも<一際|ひときわ>異彩な建物。
　幽霊屋敷と呼ばれる洋館。
　実際住んでいるのは幽霊ではなく魔法使いなのだけど、どっちもどっちなので、世論というのはわりと正しいのかもしれない。
「……そう言えば。幽霊と魔法使いっていうのは、どっちが常識はずれなんだろう？」
　都会の生活に慣れていない自分を棚に上げて、草十郎ははて、と首をひねる。
　ともあれ、どちらにしてもやるべき事は変わらない。
　期末試験は明日で終わりだ。
　青子が責任持って草十郎を保護する、といったリミットまであとわずか。
　可能であるなら今日のうちに、草十郎は洋館の主に同居人として認められなくてはいけない。
　館をぐるりと囲む木々の隙間、自然の並木道を通って、草十郎は玄関まで歩いていく。
「――――――よし」
　玄関の前で一度だけ深呼吸をし、草十郎は館内へと入っていった。
　目指すは有珠がいるであろう居間である。
　しかし。
　そんな草十郎を迎えたのは、予想外の光景だった。
　少し歩いて、玄関から館のホールであるロビーに辿り着く。
　そのロビーにひとつ、大きな違和感がある。
　中世の城を思わせる洋館のロビー。
　人工の明かりは一切なく、冬の肌寒い日射しが、さあ、と天窓から影を落としている。
　緑薫る、木製のタイル。
　四角い大樹によりそう黒衣。
　少女は文字通り、洋館に体を預けている。
　母親の子守歌か、穏やかな揺りかごか。
　洋館は少女の眠りを守るように、空気のざわめきさえ飲みこんでいた。
　館の影で眠る少女。
　余人の目から隠された有珠の姿は、このロビーで最も鮮明に、見る者を魅了する。
「――――――」
　草十郎は当惑から、つい天井をあおいでしまった。
　……だって、不意打ちにも程がある。
　少女は暖炉の傍で、その細い体を預けて眠っている。
　いかに美しい絵画のようでも、この状況は心臓に悪い。
　……命を感じさせない眠り。
　あまりにも静かで、取り除くもののないカタチ。
　この寒空の下、冷たい柱にしなだれているのに、彼女は幸福に包まれていた。
　死という名の永眠を、見る者に思わせてしまうほどの。
「……寒くないのかな、この子は」
　ぼんやりと有珠を眺めながら、ぽつりと呟く。
　毛布でも持ってくる……なんて気の利いた案を、彼は微塵も考えなかった。
　代わりに思いついた事は、なぜか、ふたり分のお茶を淹れる事だった。
　静かにドアを開けて居間に移動する。
　テーブルの上には三粒の錠剤。
　毎日帰ってきたら飲むように、と青子から言われている薬である。
　わずかに甘い錠剤を飲みこんで台所に足を運び、数ある紅茶の箱からひとつを選んで、ふたり分の紅茶を淹れる。
　そうしてロビーに戻ってみても、少女は眠ったままだった。
　物音に少しだけ気を配って床に腰を下ろす。
　ズボン越しに伝わってくる床の<感触|つめたさ>にビックリする。
　暖炉の<傍|そば>なら温かいのでは、と考えもしたが、青子曰く、あの暖炉は無用の長物とかなんとか。
　青子も有珠も手入れの仕方を知らないらしい。
　草十郎は盆に載せたティーカップを有珠と自分の前に置くと、おもむろに鞄から古典の教科書を取り出した。
「……蒼崎、怒ってたからな」
　今朝の青子の顔を思い出して、つい独白する。
　彼女が怒っていた理由も、あの一瞬の顔もまったく意味不明のままだ。
　それはそれとして、明日にそなえて復習をしなくてはいけない事だけはハッキリしていた。
　青子のおかげで今日のテストは幾分ましになったけれど、明日の科目はさらに難敵だ。
　今朝から怒っている彼女が今夜も手伝ってくれるとは思えない。
「そのくせ点数悪いと怒るし。別に、蒼崎が怒る筋合いじゃないと思う」
　文句を言いつつ教科書を開く。
　有珠の目が覚めるまで、そうやって待つつもりらしい。
　ホールにはページをめくる音だけが響いていく。
　時計の針も、森のざわめきも届かない<午睡|ごすい>。
　……数時間が経って、草十郎は静かに立ち上がった。
　ロビーに差しこむ日射しは、白から赤に変わりつつある。
「そろそろバイトの時間か」
　固まった背筋を伸ばして、草十郎はちらりと有珠を見た。
　眠りは変わらず穏やかだ。
「………………」
　む、と草十郎は真剣に眉をよせる。
　このまま寝かせておいていいのか、有珠の日常を知らない彼には悩みどころだ。
「……いや。蒼崎も帰ってくるだろうし、いらぬ世話かな」
　いかなる思考が生み出した結論か、草十郎はひとり頷いて洋館を後にした。
　今日のバイト先は三咲町商店街にある、中華飯店まっどべあである。
　その制服は、輝かんばかりの色彩センスで作られていた。
　オレンジ一色のエプロンにはデフォルメされた白熊が一頭、その強靱な爪で中華鍋を<爆砕|ばくさい>している。
　三咲町周辺では他の追随を許さないほど独創的な、山岳地帯の標識と見まがうデザインだ。
　ここは中華飯店まっどべあ。
　地域密着型の、名前とロゴ以外はどこにでもある大衆食堂。
　近年増えはじめているファミリーレストランに押されはじめているものの、食事処として日々絶賛営業中の老舗である。
　近隣住民との触れ合いを大切にする彼らは、サービスの一環として出張配達も行っていた。
　人呼んで『<Ｑ|クイック>　<Ｋ|キラー>　<Ｓ|サービス>　・森のクマさん』。
　現在、草十郎のおもな仕事はその出前役である。
　自転車で宅配が可能な三咲丘周辺は彼の受け持ちで、出前先が遠くなると先輩方の愛車・万能50ccキングサーモン号の出番となるがどうでもいい。
「<社木|やしろぎ>のダチから聞いたんだけどな」
　出前待機中の配達人は、暇さえあればウェイターと洗い物を一身に引き受ける。
　今日はまだ夕飯時になっていないので、宅配専門の彼らは厨房で仲良く皿洗いをしていた。
「聞いてるか、静希」
「聞いてるよ、木乃美」
　学生バイトである彼らは大きな流し台に両手をつっこんだまま、熱心に仕事をしている……フリをしながら話しこんでいる。
「和食のケニヤだけじゃねえんだってよ。三咲町の<大帝都|だいていと>にもメシアンにもその手の注文があったらしいぜ。
　そんなに肉がほしいなら<下市|したいち>に行けばいいのにな。なんだって、生肉だの大物の鮭まるごとだのを出前させやがるのか。
　どうよ。こう、露骨にやばそうな話じゃねえ？　ワニとかアザラシでも飼ってるんじゃねえかな、そいつ」
「他に比べてみると、たしかに珍しい話だと思う。ところで木乃美、ワニってなんだ？」
「ワニはワニだろー。だっせぇ、実物見たコトないのかよー。まあオレもねえけどな。
　んー、今度がくがく動物ランドのアフリカ特集ビデオを貸してやるから、見とけよ」
　木乃美も慣れたもので、草十郎への対応が板に付いてきている。
　そんなとりとめのない会話をしていると、出前の注文を告げる電話が鳴った。マネージャーが素早く受話器を取り、注文と住所を確認する。
　受話器が置かれると、厨房に集まっている宅配者たちはみんなそっぽを向いた。
　この寒空の中、風をきって出前に行くのは誰だって嫌なものだ。
「静希くん。ちょっと遠いけど、配達お願い」
　そんな根性無しのアルバイターたちに失望する様子もなく、マネージャーは草十郎へ声をかけた。
「はいこれ、届けるもののリスト。異例だからあまり他のバイトには他言しないようにね」
　マネージャーの手には注文と住所を書き留めたメモ用紙が一枚。
　それを受け取って、草十郎は静かに顔をしかめた。
「マネージャー」
「なんだい？」
　言いたい事は分かっている、とばかりにマネージャーは草十郎を見つめ返す。
「君の疑問はもっともだ。しかし、まあ、長いことこの商売をやっていると、時にはこんな馬鹿な話が転がってくる事もある。そうおかしなコトじゃない。
　じゃ、冷蔵庫から品物持ってくるから」
　ごく自然に厨房を後にする黒服のマネージャーの姿を、なるほど、と感心して草十郎は眺めた。
　どんな所でも、おかしな話はあるものらしい。
「遅いっ！」
　午後十時過ぎ。
　アルバイトを終え、ちょっとした寄り道をしてきた草十郎を迎えたのは、ごらんの通り、<怒|いか>れる蒼崎青子だった。
　目に見えて不機嫌そうな彼女を見て、草十郎はホッと胸をなで下ろす。
　青子がなぜ怒っているのか不明だが、今朝の分かりづらい怒りとは別種のものだったからだ。
「遅いって、まだ十時になったばかりだろう。
　どうしたんだ、蒼崎」
　両手に抱えたダンボールを床に下ろしながら、草十郎は暖炉のあたりに視線を向ける。
　ひとり眠っていた少女の姿はない。
「違うわ。もう十時になった、の間違いでしょ。
　アンタってほんと、自分がどんな状態にあるか分かってないのね」
「？」
「いいから、居間に来て」
　首を傾げる草十郎をよそに、青子はスタスタと居間へと歩いて行く。
　ダンボール箱を抱え直し、草十郎もいそいそと後に続く。
　草十郎はコートを脱いで、コートハンガーに掛けながら居間に入った。
　有珠は自室に引きこもっているようだ。
　テーブルの上にはお馴染みの錠剤が置かれている。
「……説明しなかった私も悪いけど、貴方も帰ってくる時間は守ってよね。こっちはそのつもりで作ってるんだから」
　はい、とテーブル上の錠剤と、水の入ったコップを差しだす青子。
「？　薬なら出かける前に飲んだけど。
　体の調子だって悪くないし、そんなにあわてるコトか？」
「は？　なんだって私たちがアンタの健康気にかけなくちゃいけないのよ」
「勘違いしてるようだけど、アンタが帰ってくる度に飲んでるのって、平たく言えば毒よ？
　速効性じゃないから効き目は半日すると出てくるんだけど、その前に新しい<錠剤|どくやく>を飲んでおかないと、古い毒が体に回ってばったり逝くって寸法ね。
　有珠のヤツ、これぐらいしないと信用できないって言い張ったのよ」
「ほら、分かったらさっさと飲む。
　……ま、私もこれ、面倒だと思うし。
　近いうちもっと形のある方法を考えてみるから、それまでこの方法で我慢して」
「……言ってる事は支離滅裂だが、とにかく今までよくない物を飲んでたんだな？」
　青子から錠剤を受け取って、草十郎は一口で飲みこんだ。
　毒物だと聞いて<怯|ひる>んだ素振りもない。
　どうも、青子たちの横暴を非難する気はないらしい。
「まったく。毒をもって毒を制するなんて、また古風な真似するな、蒼崎も有珠も」
　笑いのツボに入ったらしく、草十郎は頬を<緩|ゆる>ませる。
　一方、青子的には、どうしてそこで笑うのかまったくもって理解不能なのだった。
「今日帰りが遅れたのは、アパートまで荷物を取りにいっていたからなんだ。そういうコトなら、電話のひとつでもすればよかった」
「……荷物って、まさかそれじゃないでしょうね」
　持ってきたダンボール箱を指差され、草十郎はもちろん、と頷く。
「住んでいないのに家賃を払うのは馬鹿らしいから、今日で引き上げてきた。いちおう、いつでも戻れるように話はつけてあるから、三ヶ月ぐらいは大丈夫だよ」
「家賃……？
　あ、そっか。そうよね、
私ってばなんでそんな事を忘れてたんだろう。有珠が聞いたら喜ぶわ、そりゃ」
　華のような笑顔、とはこのコトか。
　一点の曇りもない、ズバリ、新しい<悪巧|わるだく>みを思いついた子供のような笑顔である。
　不吉なコトこの上ない、と来るべき脅威に震える草十郎だった。
「けど随分少ないのね、荷物。ダンボール一箱分しかないの？」
「そうかな、十分多いだろ。それより有珠は自室か？」
「ちょっと前に戻ったわ。珍しく食後もここに残ってたんだけど、待ちきれなかったみたいね」
　青子は不敵な笑顔のまま、意味ありげな視線を草十郎に投げかける。
「待ちきれなかったって、何を」
「そりゃあ、有珠が眠ってるのをいいことに在庫のないフォションとブルーキャリコを勝手に使ってくれた、どこかの誰かさんにお仕置きするためなんじゃない？」
「フォション……って、あのお茶の葉？」
「そう。私もびっくりしたけどね。有珠がどっかで寝入るのはよくある事だけど、紅茶を用意して眠るなんてのは初めてだったから。
　どんな心境の変化か知りたくて起こしたら、有珠の方が驚いてたわ。一体、誰の仕業なんだって」
　ぽん、と手を叩く草十郎。
　お茶の用意はしたけれど、<後|あと><片付|かたづ>けをした記憶はまったくない。
　まずいな、という顔をする草十郎と、そんな彼を見て楽しむ青子。
「そうか……それじゃあ、有珠は怒っていただろう」
「当然。駒鳥がとばっちりでドリブルされてたしね」
「ああ、俺でも怒る。片付けをきちんとしないなんて、だらしないにもほどがある」
　なんたる失態、と草十郎は激しく自分を責めた。
「論点違うっ！　あのね、寝顔をまぢかで見られたから怒ってるのよ有珠は！」
「え…………そうかな。有珠は、そういうのは気にしないと思うんだけど」
「アンタはそうかもしれないけど、私たちは気にするの！」
　ぎりり、とガラスを裂く擬音のような目で睨む青子。
　私たち、という響きに言いようのない迫力を感じる草十郎だった。
「それは蒼崎たち限定の話か？」
「世間一般での常識よ。自分が気にしないからって他人もそうだと思ってると、いつか火傷するからね」
「む。でもそれだったら、ロビーで寝ている有珠にだって問題ないか？　見かけたら放っておけないだろう、あんなの」
「……その心意気は立派だけど、そこはそれ、この館の持ち主は彼女だから。
　この洋館内で貴方が出会ったあらゆる<不義|ふぎ><不始末|ふしまつ>、<失敗|しっぱい><失|しっ><態|たい>の責任は草十郎に押しつけられるの。
　この意味、分かる？」
　あんまりな青子の言葉に、草十郎はむむ、と考えこんで、
「―――つまり、ここは有珠の自治領なんだな？」
「はい、よくできました。正確には私と有珠のだけどね。
　領主は何をやっても許されるってコトよ」
　笑顔で言って、青子はソファーに腰を下ろした。
　草十郎は青子の向かいのソファーの後ろに立ったまま、今の会話を振り返っていた。
　有珠の自治領、青子の自治領と言うが、そもそも彼女の家族、実家はどうなっているのか。
「蒼崎。君、ご両親はどうしてるんだ？」
　草十郎はつい、思いついた疑問を口にする。
「生きてるわよ。三咲町から下りに四駅いった<陶川|とうかわ>ってところの地主。師は祖父だけど、今は隠居して両親と一緒の土地に住んでるわ」
「……む。そう聞くと、なんだか普通の家庭だな」
　魔法使いの一族というから、草十郎はもっと破天荒なものを想像していたらしい。
「両親はね。父さんにはあんまり魔術回路は作られなかったみたいだから。その分、私には二世代分の潜在能力があるって祖父は言ってるけど、どうだか。
　草十郎の期待してるような一族は、どっちかって言うと有珠のほうよ。私と違って英国出身だからね、彼女」
　そこまで口にして、いけない、と青子は会話を止めた。
　有珠の事は本人から訊く―――目の前の少年はそう言った。その方針を、こんなところで台無しにする訳にはいかない。
「ま、詳しくは本人から訊きなさい。有珠の紅茶好きもそこからきてるんだし。
　……そう言えば、なんで今日にかぎってリーフティーなんか淹れたの？　ティーバッグを使ったほうがまだマシだったでしょうに」
「蒼崎が、そっちの方がいいって言ったじゃないか。
　有珠は紅茶にうるさいって」
　むう、と自らの失言に青子は言いよどむ。
　大雑把に見えて細かい事を覚えているヤツめ、と。
「……ま、いいわ。それより明日の放課後だけど、またひとりで帰ってくれない？
　年明けの行事があるんだけど、その場しのぎで言った<餅|もち>つき大会が通っちゃってさ。明日も忙しいのよ、私」
　了解、と頷く草十郎。
　青子に言われずともそのつもりだったらしい。
「それはいいけど、体は大丈夫か蒼崎？　昨日から寝てないだろう」
「夕方に三時間ちょい仮眠をとったから調子はいいわ。
　そう言うアンタこそ体は<保|も>つんでしょうね？　もう少ししたら昨日の続き、始めるわよ」
　昨日の続き、とはマンツーマンによる一夜漬けだ。
　あれから一睡もしていない草十郎にとって、厳しい荒行なのは言うまでもないが―――
　それ以上に、嬉しくてつい頬が緩んでしまう。
　転校当時、物陰からはらはらと自分の行動を監視していた彼女の、分かりづらい心遣いが思い出される。
「いいよ。どのみち苦労するのは蒼崎の方だし。
　異例中の異例は、有り難く受け取っておくとしよう」
　晴れ晴れとした顔で返され、青子は小さく呆れながら、
「……ほんと。くだらない事だけは、しつこく覚えてるんだから」
　その笑顔から視線を逸らすように、やれやれと肩をすくめるのだった。
　翌日。
　期末試験、その最終日は滞りなく終了した。
　多くの学生たちにとって十二月最大の難問は、晴れて過去の歴史と消え去った。
　だが。
　草十郎にとって最大の難問は、この後にこそ控えている。
　明日の終業式に向けて浮き足立つクラスメイトたちと町中で別れを告げ、白犬塚の森の中へ。
　昨日通りの帰宅風景、
　昨日の焼き直しのような気分で、草十郎は坂道を登っていく。
　草十郎とて確固たる決意に燃えている。
　今日が最終期限であるし、なにより草十郎自身、あの少女の<話|こえ>を聞きたがっていた。
　多少邪険に扱われても、とことん無視されても、果ては“怒らせると鏡の国に放りこまれるわよ”とニヤけ顔で笑う青子の忠告を実現させる事になったとしても、挨拶ぐらいはしたいのである。
　―――しかし。
　草十郎を待ち受けていたものは、半分以上、なんとなく予感していた通りの光景だった。
「…………よく寝る子だな、ほんと」
　目眩を覚えるほどの既視感。
　見た目だけなら昨日と何ら変わらない風景に迎えられて、草十郎は素直な感想を漏らした。
　少女は今日も暖炉の<傍|そば>で眠っている。
　正座から横にしなだれ落ちた両足は、絵本で見る少女の座り方に似ていた。
　昨日よりは<幾分|いくぶん>居心地のいい座り方だろう。
　たまに奇跡的な察しの良さを発揮する彼は、それで事の<絡|から><繰|くり>が読めてしまった。
『……学校で、鳶丸はひとり何をしているんだろう……』
　ちらりと入ってきた玄関へ視線を投げて、よし、と気合いを入れて腕まくりをする。
　何もかも昨日の通りなら、自分もそれに合わせてみようと思ったのか。
　草十郎は鞄を置いて台所に向かった。
　もちろん昨日と同じ、不出来な紅茶を淹れるために。
　フォションは怒られたので、今日は反省してジャクソンのフルーツハーブを手に取る。
　……悲しいかな、これが今の草十郎の限界だった。
　お茶の葉の種類で怒られたのではなく、それを使いこなせなかった事が問題だったと気付いていない。
　ポットに紅茶を淹れてロビーに戻る。
　白い息をこぼして草十郎は暖炉の前にあぐらをかいた。
　自分で淹れたフルーツミックスを口にし、鞄から教科書を取りだす。
　期末試験は終わったけれど、一日目の科目はいくつか補習を宣言されたので、やっぱりこうなる運命なのだ。
　ロビーは外より<幾分|いくぶん>暖かいが、快適にはほど遠い。何らかの暖が恋しくなる寒さだ。
　冬の寒気を色濃く残すホールで、草十郎は電子工学のテキストに没頭した。
　選択する生徒が少ないという理由で勧められた科目だが、高校から基礎が始まる分、他の科目より少しだけ面白い。
『けど、蒼崎の言う通り』
　味の分からない紅茶を空にして、カップに二杯目を注ぐ。
　陶磁器のポットは保温性に勝れているので、紅茶はまだ温かい。
『文字で物事を覚えるのは、苦手みたいだ』
　ぼんやりと思いながら、草十郎は文字の羅列を読み進める。
　ロビーに電灯はなく、天窓からの日射しだけが頼りだ。
　斜に差しこむ光はロビーに明暗を作り、壁際の暖炉はじき影に沈もうとしている。
　見ようによっては、灰に<浸|ひた>された廃墟の風景。
　あるいは、くすんだ童話の中に忘れられた、色あせた挿し絵の世界。
　白い城壁の部屋で、時間は人知れず、太陽の目を盗むようにこつこつと流れていった。
「――――――」
　そうして、ゆるやかに時間が過ぎたあと。
　ぱたんと教科書を閉じた音が、くすんだ風景を現実に引き戻した。
　草十郎は腕を伸ばして肩の凝りをほぐすと、いそいそと後片づけをはじめる。
　本を鞄にしまい、
　有珠のカップはそのまま床に残し、
　自分の使ったカップをトレイに載せて立ち上がって、
「バイトの時間だ」
　あっさりと。
　そういう事なら仕方ない、と納得するように口にして、眠るロビーを後にした。
　―――その直前。
　背後からの物音を聞いて、草十郎は足を止めた。
　鞄を<脇|わき>に挟んだままトレイ片手に振り返る。
　有珠用のカップに注がれた紅茶に波ひとつ立てず、
「や」
　気軽な口振りで、草十郎はそう語りかけた。
　暖炉の横で座ったままの、黒い瞳の眠り姫に。
　有珠は彫像のようだった寝顔と変わらない静かさで草十郎を見ている。
　それを見て、草十郎は今更ながら有珠と青子の違いに気が付いた。
　青子は、その思考経路は謎としても、実に分かりやすい意思表示をしてくれる。
　トレードマークである不機嫌そうな顔は、何に不機嫌なのかはさておくとして、常に意思を反映している。
　対して、有珠はそもそも感情が読めない。
　怒っているのか悲しんでいるのかさえ表れない。
「何の、つもり―――？」
　沈みこむような問いかけ。
　敵意なのか疑問なのかすら、草十郎には判別がつかない。
　もし前者なら、有珠を相手にあの夜の再現になるかもしれない。
　粉々に散った小瓶が草十郎の脳裏をよぎる。
　返答次第では無事では済まないと承知して、
　しばし迷ったあと、草十郎は覚悟を決めた。
　と、言うより―――
「そうだな。一口じゃ説明できないから、座るよ」
　何が正しい選択か考えもつかなかったので、単純に、自分のしたい事をする事にした。
「………………」
　返事はない。
　黒衣の少女は嫌がっているようにも見えたが、草十郎はあえて無視した。
　もう一度床に座ってトレイを置くと、ふたりの視線はぴったりと合った。
　底の見えない有珠の瞳は、依然として余人を寄せつけない。
　が。肝心の草十郎は、そんな重圧をまったく感じてはいないようだった。
「それで、なに……？」
「ああ。遅くなったけど、こうして話がしたかったんだ、有珠と」
　一口じゃ説明できないらしいのに、草十郎はあっさりと一口で説明した。
「わたしと……？　青子とではなく？」
「ん？　そうだね、蒼崎とはもっと話したいところだけど、それよりは三人で話してみたい」
　草十郎の意図が読めず、戸惑う有珠。
　そんな有珠の困惑に気付かず、草十郎はしかつめらしく話を続ける。
「蒼崎は普段から有珠とは会話がないって言うんだ。それが俺のせいなら困るし、俺のせいじゃないならもっと困る。
　せっかく同じ場所に居るのに会話がないなんて、もったいないと思うんだ」
　噛みしめるような、やけに情感の籠もった声。
　有珠には少年の意図はこれっぽっちも掴めない。
　けれど、彼が自分に対して強く、何かを願っているのは感じ取れる。
　……それが。
　恐れに起因するものでない事が、彼女には意外だった。
「貴方は、わたしが恐くないの……？」
「ああ。だってそう言えるほど、俺は君をよく知らない」
　見開いた瞳は<玻|は><璃|り>細工のように。
　少女にとって、少年の予想外さはもう驚きの域だった。
　あまりにも素直な、脊髄反射のような答え。
　そんな無遠慮極まりない言葉が、なぜか不快と感じない。
　ふたりの会話はそこで途絶えた。
　いや、もとより会話は成立していない。
　不思議と居心地のいい沈黙を嫌うように、少女は気を引き締める。
　少年はそんな少女の視線を、怯えることなく受けとめる。
「…………話」
「ん？」
「わたしと話をしたいと言ったでしょう。
　なら、好きにしてみたら……？」
　できるものならしてみろ、という少女の誘い。
　草十郎には彼女に話しかける話題も、親密さもない。
　意地の悪い少女の挑発は、しかし。
「じゃあ、あの鳥の話を。ほら、そこにいる青い鳥。
　たまに見かけるんだけど、君の飼い鳥か？
　それともほら、なんて言ったかな。プロイ、だっけ。あの鳥も有珠の使い魔？」
「っ―――」
　一瞬、少女の瞳に人間らしい色が灯る。
　あの厄介者、と睨みつけるような視線だった。
「……アレもプロイだけど、わたしとは何の関係もない<駄鳥|だちょう>。ずいぶん古くから<在|い>るだけで、わたしもよく知らないわ」
「？　じゃあ勝手に住んでるのか、この家に？」
「勝手になんて、わたしが許す筈がないでしょう。
　……ロビンは本当に役に立たないけど、あんなのでも母から譲り受けたものだから。失敗続きでも、特別に住まわせてあげてるの」
「そっか、安心した。ここに住むの、役に立たなきゃダメってワケでもないんだね」
「っ―――」
　無防備な笑顔を向けられて、少女は顔を<逸|そ>らして黙りこんでしまった。
　あとの時間は、草十郎が喋るだけの一方通行だ。
　日々のアルバイトのこと。学校のこと。遊園地でのこと。町のこと。家賃のこと。
　そんな益体のない話をすること二十分。
　さすがにこれ以上は延ばせない、と少年は会話を切った。
「ごめん。アルバイトがあるから、もう行くよ」
　……この通り。
　せっかくの機会をあっさり諦めるあたり、本当に何も考えていなかったらしい。
　草十郎はトレイを厨房に戻し、鞄をロビーに置いて玄関に向かう。
　有珠は彼のそんな淡泊さを知らなかった。
　なので、意表をつかれて見届けそうになって、つい、
「―――待って」
　必要もないのに、その背中を呼び止めていた。
「ん、なに？」
「…………その。
　今日は、ポットがあったけど」
「あ、うん。昨日の反省点だったから。結局、使ったのは自分だけだけど」
「そう。……そのポットはコーヒーとの兼用だから、ハーブティーには合わないわ」
　む、と目を見張る草十郎。
　言われてみれば、紅茶のポットとカップは何種類もあった。どうも各紅茶には専用のティーセットが定められているらしい。
「……なかなかに奥深い。
　あれかな、慣れない事はするもんじゃないってコトか」
　やれやれと嘆息する。
「……どうして、わたしを起こさなかったの？」
　草十郎の言葉なんて聞いていないのか、それとも、それが本当に訊ねたかった事なのか。
　有珠は彼の言葉を<遮|さえぎ>って問いただした。
　草十郎はむ、と自問するように黙りこむ。
　言われて見れば、昨日も今日も“有珠を起こす”という発想に、まったく思い至らなかったからだ。
「……言って。
起こす気も、起きることも期待していなかったのは、なぜ？」
　その視線には殺意すら含まれている。
　深い瞳にはどんな嘘も通用しない。
　夕暮れのロビーは一転して、生死を分かつ法廷になっていた。
　嘘も、つまらない答えも許さない。
　何を口にしようと心臓を貫かれそうな雰囲気の中、草十郎が抱いた感情は恐れより痛みだった。
　久遠寺有珠の声は冷たく、また、回答を拒絶している。
　少年は漠然と、地面に落ちながら<独|ひと>り立ちしたひな鳥を連想した。
　一縷の希望を待ちながら、その希望の<在処|ありか>を憎む、取り残されたモノの喘ぎ。
「言わなきゃいけないか？」
　有珠はこくりと頷く。
「じゃあ言うけど、別に深い考えがあったワケじゃない。
　単に、寝た子を起こすのはよくないだろ」
「……冗談は聞いてないわ」
「冗談じゃないよ。眠っているのならそのままでいいと思ったんだ。話はしたいけど、それはまた、目が覚めた次の機会にするべきだって」
「……ずいぶんと悠長なのね。青子が貴方を守るのは今日までだって聞いているけど。
　わたしに取り入る機会はこれが最後なのに。
　それとも―――あれだけ忠告されておいて、まだ何も分かっていないの？」
　何も分かっていない。
　約束はした、事情も分かった、同じ人間として話し合えた。だから―――もう殺される事はないはずだ、と。
　そんな良識、常識からの判断なら、少女はこの場で魔女としての鉄槌を振り下ろす。
　くだらない勘違いは、どちらにとっても害にしかならないからだ。
「そりゃ何も分からないよ。魔術とか魔法とか、たった数日で分かるもんか。
　はっきりしているのは、有珠も蒼崎も言った事はきっちり守るってコトだけだ」
「なら、どうして」
　眠っている自分を起こして、命を<乞|こ>わなかったのかと視線で問う。
　有珠は知っている。
　この少年が自分を起こさず立ち去ろうとした時に見せた表情を。
“そういう事なら仕方がない―――”
　あの顔は、一体どういう意味だったのか。
「どうしてって、そう言われても困る。
　……そうだな。機会が訪れなかったのなら、それはそういう事だと思ったのかもしれない。
　君の寝顔はそれぐらい、なんていうか判断に困った。蒼崎とは違う意味で、簡単には関われないと思ったんだ」
　うまく言葉にできないながらも、草十郎はあの時の気持ちを口にする。
　誰かを必要としているクセに誰も望んでいない、眠りの森の少女の姿を。
「……そう。でも、静希君は関わろうとしているのね。
　その機会は、訪れなかったのに」
「機会はやってきたよ。なんで、こっちも今日ぐらいは自分の勝手にして、無茶をしたくなったんだ」
「静希君の言う通りなら、わたしは貴方を拒絶するしかないのに？」
「まあ、そこが難しいところなんだけど」
　草十郎はちらりと玄関に視線を向ける。
　今は何の意味もない行為だが、そうせずにはいられなかったのだ。
「たぶん、そこを解決したがってるのは俺だけじゃないと思うよ」
　自問めいた答えは少女に対して向けられたものでもある。
　それが大きな間違いだという事を、有珠は分かっている。
　全て彼の勘違い。
　死に瀕した子猫に手を伸ばそうとする程度の、清らかで浅ましい、小さな善性。
　それが、有珠には<茨|いばら>のようにいとわしかった。
　……久しぶりに、胸に痛いと感じたのだ。
「……けど、わたしは貴方の同居を認めてはいないわ」
　そんな心を隠すように、うつむき加減に有珠は言った。
　立っている草十郎からでは、今の有珠が、あの時の青子と同じ顔をしている事には気づけない。
「だろうな。それはきっと、今は解決できない問題だ。
　でもそのうち、何かの気まぐれであっさり終わるものかもしれない。だからその時まで、有珠はずっと、俺を嫌っていていいんだと思う」
「―――――――――」
　息を飲む気配は、それこそ声のように。
　その時まで、嫌ってもいいと。
　そんな言葉を、少女は今まで、いや、一度だけ、強く願った事があって―――
「だいたいだぞ。有珠だけじゃなく、蒼崎も同居を認めてない節があるじゃないか。
　だから、認めてもらう、なんて意気ごみ自体が間違いなんだ。どうあっても俺は蒼崎や君たちとは違うんだし。
　となると、あとは我慢してもらうしかない。
難しい話だけど、一緒にいても邪魔にならないぐらいなら、その可能性はあがらないか？」
　たしかにその通りなのだけど、それが出来るのなら苦労はしない―――と、そこまで思って、有珠はなるほど、と頷いてしまった。
　彼が企んだ訳ではないのだろうが。
　こうして会話が成立している時点で、自分は術中に<嵌|はま>ってしまったのだ。
「例えば、貴方が<隣|となり>にいても眠っていられるぐらいに？」
「そうだね、例えばの話」
　笑顔で返して草十郎はロビーを後にする。
　その後ろ姿を有珠はもう止めなかった。
　玄関から外に出た少年は、心機一転してアルバイト先に足を向ける。
　ただ、その前に。
「じっさい、覗き見は趣味が悪いと思う」
　誰かに告げるように、そんな文句を呟いた。
　草十郎が洋館を後にしてから二分ほど経った後、足音を忍ばせて、長い髪の人影がロビーに入ってきた。
　今まで外から様子を<窺|うかが>っていた、蒼崎青子その人である。
「……帰ってたの？」
　むっとした目付きで、有珠は青子に語りかけた。
　どれほど外に居たのか、青子の体は寒さで震えている。
　手袋は悪、と公言している青子は、よほどの寒さでなければ手袋はつけない。それが災いして、長い指が哀れなほど赤くなっていた。
「ちょっと前にね。それでどうだったの有珠？　ずいぶんと話してたみたいだけど」
　吐息で両手を温めながら、青子はどこか楽しそうに問いただす。
「………………」
　その意地の悪い顔で、有珠は事の<絡繰|からくり>を読み取った。
「……貴女がここまで過保護とは思わなかったわ。
　意地？　それとも義務？」
「どっちかっていうと成り行きね。
　で、どうだったのよ結果は。気にくわなかったら実力行使に出るって言ってたじゃない」
「………………」
　上機嫌な青子を前に、有珠はますます面持ちを暗くしていく。
　話は昨日の夕食までさかのぼる。
　ロビーでの一件で草十郎への不信感、および関心がメーターを振り切ったのか、有珠は“明日も彼をひとりで帰して”と青子に強要した。
　今日の眠りは薬による擬似的なもので、意図的に昨日の状況を再現したものである。
　状況はうまくいったが結果は彼女の予想から外れ、また、お節介な同居人が壁越しに手に汗握っていた、というのも面白くない。
　さらに付け足すのなら、そんなどうでもいい事に腹を立てている自分にも呆れてしまう有珠だった。
　床に置かれたティーカップを見つめる有珠。
　その白い指が冷えたカップの<縁|ふち>をなぞっていく。
「……青子の言う通り、害にはならない人ね。
　あくまで、今のところの話だけど」
　青子に内心の苛立ちを見せないよう、有珠は冷淡な感想を述べた。
　その時点で、もう結論は出ているようなものだが。
「あら、それだけ？　有珠にしては長く話してたのに」
　白状しろ、とばかりに青子はしつこく繰り返す。
　有珠はそんな同居人を冷徹に見据えると、
「青子。貴女、隠していたわね」
　敵意すらこめて、彼女の不義を糾弾した。
　ロビーの空気が凍る。
　ふたりの少女は相手の出方を探るように見つめ合った。
「…………流石ね。よくそこに気が付いたもんだわ。でも、こればかりは譲れないのよ」
　じり、と腰を落として有珠を睨む青子。
「なにも全て奪うとは言っていないわ。……そうね。貴女にも三割ぐらいは回すつもり」
　戦闘態勢に入った青子に動じず、有珠は視線だけで青子を牽制する。
「ふん。十が三に化けちゃあ、ちょっと黙ってらんないわね」
「高望みは命取りよ、青子」
　凛とした姿勢のままで有珠は動かない。
　そうして無言のまま、両者は長いこと見つめ合った。
　ぎり、と悔しげに歯を鳴らす青子。
　このままでは外敵との対決を前にして、仲間割れという形で幕は下りかねない。
　……加えて。
　どう考えても、分が悪いのは自分だった。
「…………けち」
　青子はちっ、と舌打ちして敗北を認める。
「悔しいけど有珠が六、私が四で手を打つわ」
　無念げに妥協する青子と、満足げにうなずく有珠。
「そうね。<家主|やぬし>はわたしだけど、彼を招いたのは青子だから。そのかわり、<家賃|やちん>の取り立ては貴女の役割ね」
「……いいけど。あーあ、情けない。こんな事なら錬金術でもかじっておくんだった。そうすれば、こんな思いをしなくてもすんだのに」
「そうでもないわ。彼ら、バブルが弾けて大変だって話よ」
　妙に実感のこもった有珠の言葉に、青子ははいはいと空返事をする。
　ふたりは草十郎を住まわせた後の、彼が支払う家賃の取り分を真剣に議論していたのだ。
　魔術師にあるまじき口論である。
　無理やり同居を強制しておいて家賃を取るあたり、詐欺を通り越してもはや暴力と言っていいレベル。
「でも、そんな台詞が出るって事は有珠もようやく認めたってコトね」
　よしよし、と満足する青子。
「……認めてはいないけど、公園での夜、彼を結界で捕捉しなかった責任があるから。
　彼と約束をした青子だけを責められないでしょう」
「……約束、か」
　遊園地の夜を思い出すように、青子は天井を見上げた。
　たかだか一週間ほど前の出来事なのに、あれから随分と草十郎との縁が強くなった気がする。
　それとも、初めて会ったあの時から縁は強いものだったのだろうか。
　未来視ではない青子には、とうてい預かり知らぬコトではあるが。
「ま、縁とか運とかはともかく。
　変だけどいい奴よね、あいつ」
　有珠に同意を求めるワケでもなく呟く青子。
　それを有珠は不機嫌そうに眺める。
　なにか、今の台詞が気に入らなかったのかも知れない。
「青子、あの傷を知ってる？」
「傷……？」
　思わず口にでた声を、有珠は細い指で押し止めた。
　感情的に出てしまった質問。
　人に話す事ではないと分かっていたのに訊かずには―――知らさずにはいられなかった、自分しか知らない秘密。
「？？」
　有珠の問いに首を傾げる青子。
「―――そう」
　なぜか胸を撫でおろす。
　青子に感じた突発的な反感も、それで晴れてくれたようだ。
「―――<倖|しあわ>せな人」
　そうして。
　誰がどう倖せなのか口にせず、有珠は冷めきった紅茶を口にした。
　とたん、その可憐な顔が苦々しい<貌|かお>を作る。
「……まずい」
　無情にも床に放置されるカップ。
　少女の黒衣がおごそかに揺れる。
　未熟な紅茶を一口だけ飲んだ有珠は、口直しとばかりに居間へと歩いていってしまった。
　それを見送った後、ためらいながらも青子は残されたティーカップを手に取った。
　よせばいいのに、有珠の酷評を受けた草十郎のお茶を飲む気になったのだ。
　くいと一口に試した後、青子も静かにカップを戻す。
「……だからティーバッグにしろって言ったのに、あの莫迦」
　有珠と同じ、苦いような困ったような顔をして、青子はそう呟いた。
　夜中、洋館を歩いていると不思議なコトに遭遇する。
　館内にただよう霧や、
　増えたり減ったりするドア。
　絨毯の手入れをする子豚っぽい影を見たかと思えば、このように、
　サンルームに向かってはかき消える、鳥たちの羽音を聞いたりもする。
「なにごと……！？」
　たいていの事は見ざる聞かざるな草十郎も、今の羽音は聞き過ごせなかった。
　一羽や二羽の話ではないのだ。
　十羽単位の鳥がサンルームに突撃したとすれば、窓ガラスとて無事では済むまい。
　いてもたってもいられず、草十郎はちり取りと<箒|ほうき>を手にして走りだした。
　生来の小姑根性か、せいいっぱいの自己防衛か。
　今日の授業でたまたま、
「皆さんも部屋の整頓は心がけてくださいね。人間の自制心って環境に流されるらしいですから。
ほら、それまで犯罪の少ない街だったのに、一つボロボロの家が出来ただけで近隣住人がみーんな自堕落になるというアレ。
　環境への無関心さがすさんだ精神を作り上げるとか眉唾ですけど、正直なところ、ブームだからって盗んだバイクで走り回ったり、学校の廊下の窓ガラスとか割ってまわっちゃダメですよ。先生の仕事が増えますから」
　時に、校内暴力がある種の若者にとってステータスになっていた時代の話である。
「窓が割れると、心が荒れる」
　草十郎はなるほど、と今日聞いた話を<反芻|はんすう>する。
　割れ窓理論を聞いていた彼にとって、洋館内のモラル低下は放っておけない。
　……同居人は<既|すで>にして十分なほど凶暴だが、これ以上<横暴|おうぼう>さが増しては、なにより本人の為にならない。また学校でよからぬ噂が流れてしまう。
　我らが生徒会長の名誉を守る為。
　ひいては実害から自分の身を守る為、草十郎はサンルームの掃除に向かったのだが―――
「む？」
　この通り、サンルームには鳥の姿はおろか、鳴き声さえ有りはしなかった。
「あら」
「――――――」
　中庭を<臨|のぞ>むテーブルには、午後のお茶を<愉|たの>しむ蒼崎青子と久遠寺有珠の姿のみ。
　草十郎ソナー探知で十八羽は居たであろう鳥の気配はどこにもない。
「いまここに鳥がこなかった！？」
「有珠、見た？」
「さあ。もう見えないのなら、いないという事でしょう」
「だって。いないよ、鳥」
　草十郎ですら感じ取れる、<清々|すがすが>しいまでの嘘である。
「そんなバカな」
　さっきの羽音は聞き間違いではない。
　こと野生動物の生態については<一家言|いっかげん>あるのか、草十郎は急ぎ足で窓まで移動し、ますます眉を<曇|くも>らせた。
　窓ガラスには鳥の跡はおろか、羽の一枚すら落ちていない。
「あ。夕食、<鶏|とり>鍋？」
　鳥を探す草十郎を見て、なぜその発想にいきつくのか。
「あいにく、今日のバイトは魚屋さんだ。<鰯|いわし>でよければ土産にするけど」
「鰯……鰯か……私、あのパイ嫌いなのよね……。
　いえ、むしろ鰯のパイとか食べたコトないのよね……」
　青子の<独|ひと>り芸は、この時代ではあまりに高度すぎたようだ。
　草十郎は窓ガラスから離れ、とぼとぼサンルームを後にし、
　今まで幾度とあった、有珠からのよく分からない視線を感じた。
「なんだい、<有|アリ>―――」
　何か聞きたい事でもあるのだろうか、と声をかけ、
「あいたっ」
　そんな草十郎の頭部に、青い流星が直撃した。
　流星の正体は言うまでもない。
　洋館に出没する謎の駒鳥である。
　チチチチチチ、と甲高く駒鳥は<訴|うった>える。
　……実のところ。
　草十郎に激突するコレこそが洋館の七不思議、その最たるものだった。
　アルバイトに向かう途中、多くの人々とすれ違う。
　まだ都会慣れしていない草十郎にとって、駅前通りの人の流れは圧巻だ。
　誰一人として、同じ服装や歩き方の人間がいない。
　ここまで人が多ければ似たような外見の人間がいそうなものだが、ただの一人も<被|かぶ>っていない。
　多種多様な街の<賑|にぎ>わいに、子供のように感心してしまう。
「―――いや」
　草十郎は目を閉じて反省した。
　こんな事で感心しているようじゃまだまだ田舎者だ、とため息をつく。
「ちょっと。青信号で突っ立ってられるの、邪魔なんだけど。なにガラにもなく<黄昏|たそが>れてるんだか」
　と。ややセンチになっていた背中に、聞き覚えのある、刺々しい声がかけられた。
「なんだ、まっどべあに行く途中だったんだ。
　……ふーん。わたしはコンビニのバイト。こっちは五時からだけど、静希は？」
「同じく五時から。<久|く><万|ま><梨|り>はどこか寄るところでも？」
「本屋に寄った帰り。読みたかった本がなくなってたから、仕方なく出歩いてたところよ」
「なるほど。時間を持て余しているところも同じだね」
　声をかけてきたのはバイト先の知り合いでもあり、同期生でもある<久万梨|くまり><金鹿|こじか>だった。
　声をかけてきた、というよりは因縁をつけてきた、という表現の方が正しいのだが。
　久万梨は草十郎にとってはじめての先輩でもある。
　最初のアルバイト先で知り合い、
　レジ打ちを間違え続けた事からコンビニは向いてないから辞めろと本気で軽蔑され、なぜか最後に、
“こっちの方が貴方に向いてる”と<中華飯店|まっどべあ>を紹介してくれた人物だ。
「なにその無理矢理な顔。なんか元気ない。いつも以上にイラっとくるわ。
　静希のいいところなんて、いつもピシッとしている背筋ぐらいなのに、みっともなく丸まってるし。
　もしかして悩みとかあるの？　……まっどべあに質の悪い先輩でもいるとか。それなら話ぐらいは聞いてあげるから、言ってみたら？」
　態度こそ厳しいものの、久万梨の目は真剣である。
　都会育ちの久万梨にとって、静希草十郎という人間はそのすべてが癪に障るらしい。
　が、それはそれとして、彼女は草十郎を対等の知人として捉えている。
　バイト先を紹介してくれたのも、そういう彼女の生真面目さ故だった。
「いや、別に悩みとかそういうんじゃなくて。不思議なコトがあったというか、珍しいものを見たというか……」
　どう説明するべきか考えながら、草十郎は用件だけを口にした。
　まっどべあには何の問題もない。
　商店街の<魚達|ウオタツ>と同じぐらい好い職場だ。
　そういった仕事の話とはまったく関係なく、
　最近、青い鳥によくつっつかれるのだと。
「鳥につっつかれる？　なにそれ、小さい悩み。
　……でもまあ、青い鳥っていうのは確かに珍しいわね」
「いや、珍しいのは外見の話じゃなくて……」
　うまく説明できず言いよどむ。
　あの青い鳥の、でっぷりとした外見や鳴き声を、人語でどう表現したものだろうか？
「……ふーん。綺麗な青色といったらマウンテンブルーバードだけど、日本にはいないわよね。
　青いツバメだったらいるかもしれないけど」
「いや、ツバメじゃなくて、丸っこいんだ。図鑑で調べたんだけど、どうもコマドリっぽい。けど」
「うん、青色のコマドリは存在しない。
　……静希は縁日の青ひよこって知ってる？　知らないわよね。いい、そう面白い話じゃないから忘れて。
　それより、そのコマドリって一羽だけなの？」
「ああ、一羽だけだ。つがいは見あたらない」
「ふーん。突然変異だとしたらちょっと可哀想ね。
　……生まれた時から最後の一羽だなんて、孤独にもほどがあるわ。
　どんな鳥かは知らないけど、次に見かけたら優しくしてあげたら？　自販機で十円を拾う、ぐらいの幸運は運んでくれるかもよ」
　久万梨の言い分は優しさあふれるものだが、あの駒鳥につっつかれる草十郎としては、何とも頷きがたいものだった。
　そもそも孤独なんて、あの駒鳥にもっとも似合わない表現ではないだろうか？
「いいじゃない、小鳥一羽ぐらい。
　そりゃ都会で鳥につつかれるのは珍しいけど、いい方の珍事よ、それ。これがゴミ袋をあさるカラスの大軍だったら困りものでしょうけど」
「あ。そういえば、他にも気になる事が」
　久万梨の言葉から、草十郎は久遠寺邸・とり集団失踪事件を思い出した。
　あの鳥たちも不思議と言えば不思議すぎる。
「実は今、あそこに見える丘に住んでるんだけど。
　でるんだ、大量のムクドリが頻繁に。そのクセ、街に出ると見かけない」
「当たり前でしょ。町じゃ鳥なんて見かけないし、あそこは山だから動物は多いんじゃない？
　それより貴方、あの山に引っ越したの？　前のアパートは引き払ったって聞いてたけど。……学校まで通うの、大変じゃない。なんだってあんな<辺鄙|へんぴ>なところに」
「ちょっとした成り行きだよ。それに通うのは大変じゃない。大変なのは中の話なんだ」
「？」
　街に出るまで徒歩三十分。
　近場のコンビニエンスストアまで四十分はかかる立地条件だが、草十郎にとって交通の不便さはそう問題ではない。
　問題は住んでいる建物の人外魔境っぷりである。
「すまない、それは久万梨に話すことじゃなかった。
　それより今の話だ。町には鳥が少ないと言ったけど、どうして？」
「……たんに、環境に適応できなかったのよ。
　なに、鳥の話には随分と食いつくわね。静希、動物好き？」
「どちらかというと好きな方だけど」
「そ。わたしは嫌い。そんなわたしに鳥の話とかしてほしい？」
　久万梨の言葉は矛盾に満ちている。
　動物嫌いという彼女が、なぜ先ほど“鳥には優しく”と口にしたのか。
「そうだな。嫌いなだけで苦手でないのなら、知ってる範囲で聞かせてほしい」
「痛いトコつくじゃない。
　いいわ、バイトまでの時間つぶしにしてあげる。
　さっきの続き。環境に適応できるかできないかってところからね」
「今でこそこんなだけど、三咲はここまで大きな町じゃなかったんだって。
　昔はその半分が森だったから、彼らはもともと森に適した生活をしていたのよ」
　久万梨は鳥たちを「彼ら」と呼んだ。
　好きか嫌いかはともかく、鳥たちに敬意を払っている証だろう。
「でも近代化した街じゃ自然のサイクルも成り立たない。人間ってのは、まず環境を自分たちの都合に変えるから。
　<藪蚊|やぶか>が多いって事で小さな川の流れを変えたり、町中コンクリートで塗り固めちゃえば鳥的にはお手上げよ。
　虫も森も少ないんじゃもう山に逃げるしかない。彼らは故郷を追われて、この森から山に移った。
　人間にとって都合のいい町は、鳥たちが生きるコロニーにはなり得ないから」
「……そんな事ぐらいで減るものか？
　その、姿を見なくなるぐらいに？」
「そこまで極端じゃない……とは思う。現に貴方だってムクドリを見てるでしょう？
　比較の問題よ。町には人間が多いから、鳥の姿はよけい稀少に感じるだけ。たまに見かけるだけで、珍しいと思えるぐらいにね」
「ああ、たしかに。じゃあ鳥は町から居なくなっただけで、あの山に移り住んで―――」
　目立たないだけで、きちんと今も生き続けている。
　時代と共に、その在り方、カタチは変わっても、まったくの無に帰する事はない。
　そう安心して気を取り直す草十郎を、久万梨は冷めた顔で否定した。
「あの山に天敵がいなければね。
　人間の手による<乱獲|らんかく>か、移った先にいる生態系との衝突か。どちらにせよ、居場所を失った彼らの寿命は短いと思う。一世紀持てばいい方かもしれない。
　……リョコウバトの例もあるし。気が付いた時には取り返しつかないのが動物と人間の関係よ」
「リョコウバト……？」
「そ、リョコウバト。体長は四十センチほどもある、大型のきれいな鳥。
　オスの翼は深い青色で、胸は鮮やかな<臙脂|えんじ>色。オレンジ色の目は嘘みたいに愛らしくて、その羽は時速百キロで長い距離を旅するの」
　久万梨の声は、少しだけ優しい。
　彼女は図鑑でしか観ることのない鳥の姿を、ひとり夢想しているようだった。
「北アメリカにいた<鳩|ハト>でね、春は南から北へ、冬は冬越えのために北から南に移動するの。
　今から百年以上も前の話よ。
　彼らはかつて地上でもっとも繁殖した高等動物だった。
　なにしろその数は五十億。当時の総人口より多かったっていうんだから、圧巻よね」
「なんと。人間より数の多い動物がいたっていうのか？」
「うん。でも彼らは絶滅したわ。他ならぬ人間の手によって。
　１６世紀にヨーロッパからアメリカ大陸にやってきた探検家たちは、空を覆いつくすほどの鳥の群を見た。
　それがリョコウバトを<記|しる>した、一番古くて確かな記録」
「……まあ、わたしも本で知った知識だけど。
　太陽を隠して、そのおびただしい数で森を覆って、雪のように糞を落としていく光景なんて、今じゃもう夢物語でしょうね。
　でも当時の人にとっては悪夢だった。
　リョコウバト一羽一羽は美しいフォルムをしていても、それだけの数が集まれば、それはもう暴力なんだから」
「彼らはその時点では、森を破壊し、人間を脅かす悪魔のような存在だった。
　営巣地は十キロメートルにまでおよんで、一コロニーにつき五万羽近い鳥の鳴き声が響いたのよ。
　一瞬にして風景を変えるほどの鳥の群れと、世界を覆うほどの鳴き声。冒険家たちが<竦|すく>んだのもうなずけるわね」
「一つの住み処に五万羽―――」
　草十郎は指折り数えながら絶句した。
　駅前の人の流れだけで手一杯な彼では、想像が追いつかないらしい。
「でも、そんな数の鳥を、人間の手でどうやって？」
「ええ。当時、誰もがそう思ったんでしょうね。
　でも話は簡単だったの。人間にとってリョコウバトは脅威でもあったけど、同時に安価な<実|みの>りでもあったから」
「渡り鳥の胸肉は美味しいでしょ。よく鍛えられてるから。
　そんな食材が、空に向かって鉄砲を撃つだけでバタバタと落ちてきたとしたら、貴方はどうする？
　ま―――身もフタもないコトを言えば、リョコウバトって鳥は、簡単にお金にできる生き物だった」
「かくして、狩りは延々と続けられた。
　落ちた鳥は羽をむしられて、塩漬けのタルにおしこまれて、次々と出荷された」
「それはもう狩りですらなかった。ただの消費。人間側は労働の実感も、作業の手間すら感じなくなっていた。
　その頃、リョコウバトは一羽一セントで手に入れる事が出来たんだって。ここでいうならたった一円。
　―――ほんと、信じられる？
　その国最小の通貨一枚で売買される命が、この地球にはあったなんて」
　久万梨はあくまで他人事のように語る。
　……なのに、声にかすかな翳りがあるのは、鳥たちへの謝罪か、同種への嫌悪からか。
　どちらにせよ人間らしい、身勝手な<諧謔|かいぎゃく>だ。
　一方。そんな人間らしさを、草十郎はまだ理解できないでいる。
「けど、それはまだまだ序の口で、本番は１９世紀に入ってからだった。
　人間のリョコウバト狩りはますます熱狂していった。
　学校で習ったでしょ。ゴールドラッシュ、南北戦争を経て、アメリカ合衆国は急激に成長していく。
　西欧からの移民は増え続け、１８７０年には４０００万もの人口に達していたわ。そんな移民たちの胃袋と財布を満たす材料として、リョコウバトは最高の獲物だった」
「で、もっと最悪な事に、人間は工夫する生き物だった。
　彼らはより速く、より多く、より簡単にリョコウバトを乱獲する手段を競い合った。
　目を潰したハトを囮にして集団を誘いこんで、一日で一万羽以上捕らえたヤツさえいた。それでも彼らは乱獲に疑問すら持たなかった。
　―――繁殖と狩猟のバランスは、誰が見ても明らかに狂っていたのに」
　淡々と、努めて冷静でいるように淡々と、久万梨は語る。
　一方、草十郎はただ感心するばかりだった。
　山育ちである草十郎からすれば気持ちのいい話ではないのに、今は、「どうしてそうなったのか」という疑問の方が強いらしい。
「それ、一方的すぎないか？　リョコウバトだって数が減ってくれば、人間には近寄らないんじゃ」
「そこが彼らの不幸だったのよ。
　リョコウバトは繁殖力が非常に弱くて、自衛手段を持たない鳥だった。大群で暮らすこと。それだけが、彼らの身を守る手段だったの」
「彼らが五十億の王国を築けたのは、それまで天敵がいなかったからなんでしょうね。先住民であるインディアンも彼らを乱獲する事はなかったと言うし。
　けど入植者たちは自然のサイクルにはてんで<疎|うと>かった。
　何より、あの<夥|おびただ>しい数の鳥が絶滅するなんて夢にも思わなかった。
　リョコウバトにしたら青天の霹靂よ。まさか何世紀も遅れて、海の向こうから天敵がやってくるなんて」
「そうして１８９６年。人間はようやく、熱狂を覚ますほどの現実に直面したわ。
　たったの２５万羽。
　それが確認されたリョコウバトの総数。何もかも手遅れよ。急いで保護法が作られたけど、人間の習慣はそう簡単には変わらないわ」
「あるいは、狩人たちはこう思ったのかもしれない。
　<ま|・><だ|・><２|・><５|・><万|・><羽|・><も|・><い|・><る|・><じ|・><ゃ|・><な|・><い|・><か|・>、千羽や二千羽ぐらいなら独り占めしても構わないだろう、って」
「そうしてハンターたちは当時最新の技術―――電報でリョコウバトたちの所在を報せあって、実に２０万羽のリョコウバトを仕留め、４万羽を傷つけた。
　生き延びたのは５０００羽だけ。この時点で、彼らは野生で生きられる種ではなくなったのよ」
　草十郎は顔をしかめている。
“野生で生きられる種ではない。”
　その言葉の意味を、彼は言われるまでもなく知っているからだ。
　野生動物は単体で生き続けるものではない。
　全体の数と、それを支える餌場を一定数維持できなければ、存続する事ができない。
　<大|・><群|・><で|・><あ|・><る|・><事|・>がリョコウバトのシステムであったのなら、もうその時点で、彼らは袋小路に入っていた。
「それで、リョコウバトはどうなったんだ？」
「最後に保護されたリョコウバトはたったの三羽。
　シンシナティの動物園ではオス二羽、メス一羽のリョコウバトが飼育されたけど、一年でオスたちは死んじゃったわ。
　残されたのはメス一羽だけ。
　その時点で、彼女は地上でもっとも孤独な生き物になった」
「名前はマーサ。
　北アメリカを旅する鳥たちの最後の一羽でありながら、ただの一度も空を飛ぶ事ができなかった<籠|かご>の鳥。
　結局、２９年で彼女はその命を終えたわ。
　１９１４年９月１日午後１時。
　一つの種が終わる時間がここまで正確に残っている例は、今のところこれだけよ」
　……五十億の死にまつわる話は終わった。
　文明に飲みこまれた鳥の末路。
　失われた鳥たちへの哀歌のような久万梨の話は、しかし、草十郎にはあまり伝わらなかったようだ。
「意外。できるだけ詩的に語ったつもりだけど、ウケ、悪いみたい。
山育ちの貴方には<憤慨|ふんがい>ものの話だと思ったのに」
「え―――いや、すごい話だったけど。
　その、整理がつかなくて。当時の人たちは自分たちの手で減らしておいたのに、なんで最後は保護したのかって」
　その呟きを聞いて、久万梨はきょとんと眉を上げた。
　おそらく、草十郎はこう言いたかったのだ。
“奪うために減らしたのに、なぜ最後の一羽を守ろうとしたのか”と。
　久万梨が思い違いをしたのも無理はない。
　都会育ちの彼女には、草十郎の疑問の危うさは理解できない。
　この少年にはまだ、
　人間の身勝手な行為への怒りも、
　<住処|すみか>から移動しなかった鳥たちへの同情もない。
　そのどちらかに肩入れする<独善|じぶん>を、ここまで育てずに暮らしてきた。
「……あいかわらず、よく分かんないヤツ。
　ま、わたしが言いたかったのは、どんなに強く美しく見えても、居場所から追われた生き物ははかないってコト。
　静希くん。
　貴方が見た鳥は、その最後の一羽かもしれないわよ？」
　……<益体|やくたい>のない立ち話は終わった。
　アルバイトの時間が近づき、草十郎は一足先にバイト先へ向かっていった。
「……らしくない。なに熱く語ってたんだろ、わたし」
　草十郎と別れた後も、久万梨は公園に留まっていた。
　マーサ。最後の一羽。
　そのフレーズは青い鳥にあてられたものではなく―――
「やめやめ。珍しいから特別視するとか、バカみたいだし」
　我が事のように愚痴りながら頭をかく。
　久万梨からすれば草十郎は赤の他人で、同じクラスの仲間でもない。
　リョコウバトの話に熱が入ったのは、嫌いなコトの話ほど熱心に調べてしまう彼女の悪癖の結果である。
　カタチのいい眉をひそめる。
　まっどべあで働く以上、ヘンな悩みを抱えて欲しくないので話し相手になったが、あるいは、あの少年に妙な磁力があるのだろうか？
　話せば話すほど深みに<嵌|はま>っている気がする。
「まあ、見てて頼りないってのが一番だろうけど……話してみるとしっかりしすぎてるのよね、彼」
　久万梨はそうぼやきながら、別れ際の会話を思い出した。
“で、少しは町に慣れた？”
　そう訊いた久万梨に、草十郎は頼りなげに首を振った。
“全然。何にせよ、覚えなくちゃいけない事が多すぎて”
　日々新しい出会いがあって、それを飲みこむだけで手一杯。
　あの純朴な少年は弱々しく見えるものの、町のすべてを受け入れようと全力で立っているのだ。
　しかし―――日々新しい出会いがある、というのは大仰すぎるのではないか。
　出会ったものを一つも取り落とさないよう努力するのは、彼が素直すぎるからだ。
“どうだろう。素直って言うのはちょっと違うと思うよ。
　単に、それが良いことか悪いことか、まだ分かってないだけかもしれないし”
　彼はばつが悪そうに返す。
“そうね。でも、もしかしたら、そもそも―――”
　そこまで言いかけて、久万梨はまた今度、と手を振って別れる事にした。
　思い返すとますますため息がでてきた。
　コンビニエンスストアのアルバイトまであと五分ほど。
　久万梨は頬を叩いて先ほどの会話を飲み下す。
　他人のコトで気を病む余裕も、考察にふける義理もない。
　彼女は彼女で、大学進学の費用を貯める野望がある。
　<日夜|にちや>両親の反対と戦う久万梨金鹿にとって、同級生の悩みなど二の次だ。
「……でも、もしかしたら、そもそも、か」
　我ながらなんて思わせぶりで、実のない言い回しかと苦笑いする。
「ほんと、はっきり言ってやればよかった。
　貴方は単に、<人の善悪|そういうの>に関わる気が、これっぽっちもないんじゃないのかって」
　だからアイツ嫌いなのよ、と。
　悪態にもとれるため息をこぼして、彼女は公園を後にした。
　草十郎がアルバイトを終え、土産の<鰯|いわし>を片手に居間に入ると、ソファーには有珠の姿があった。
「や。こんばんは、有珠」
「………………」
　さすがの草十郎も、まだ「ただいま」と言えるだけの親しみはないらしい。
　草十郎はそのまま台所に移動し、バケツに水を溜めて魚を保存しようとして、
背後からイヤそうな視線を感じ、しずしずと冷蔵庫を開けた。
『台所にバケツはダメなんだな……』
　仕方ない、とお手軽に魚を冷蔵庫にしまって、草十郎は居間の様子を窺った。
「有珠、蒼崎は？」
「さあ。自分の部屋にいるか、出かけているんでしょう」
　にべもなく返される。
　そうかと頷いて、草十郎はやや散らかった台所を片づけはじめた。
　特に話題もないし、無理に話をする必要性も感じなかったからだろう。
　水回りを片づけ、まな板を洗い、包丁を拭き、食器を調理時に出しやすい位置に整理整頓する。
　そんな、いずれ凄腕のハウスキーパーになる事を約束された、よどみのない作業っぷりを、
　じっと観察する黒い目が、二つ。
　草十郎がその視線に気が付くのは時間の問題だ。
　身をかがめて、台所の収納に<寸胴|ずんどう>をしまう。
　そのまま立ち上がれば、居間にいる有珠と視線がばったり合って、
『メェーーーデーーーっすよーーーー！
　小僧、今すぐロビーに顔を貸すっスーー！』
「あいたっ」
　その直前。
立ち上がろうとした草十郎の後頭部に、青い衝撃が突き刺さった。
　確かめるまでもない。
　洋館内せましと飛び回る、青い駒鳥だった。
「……洋館に戻ってくるなり、駒鳥に呼び出される」
　ぼそっと呟く。
　草十郎なりに、誰かにグチを言いたい気分だったのだろう。
『小僧、ちょっとそこに座るッス』
　チチチと駒鳥はさえずる。
　……さて。
　実のところ、<頻繁|ひんぱん>に激突してくるコレこそが洋館の七不思議、その最たるものだった。
　なぜなら、
『なめてるっすね？　ジブン駒鳥だってなめてるッスね？　ところで鳥鍋ってどういうコトっすか、それ美味しいんっスか、今度みまってほしいッス！』
　この通り。
　駒鳥が何を伝えたいのか、草十郎にはなんとなく分かってしまうのだ。
　山育ちの草十郎にとって、これこそが悪夢だった。
　しゃべる動物なんて聞いた事もない。
　そりゃあ、ごく<希|まれ>に、十年以上も山で暮らしていれば鳥の気持ちが分かるような時はある。もちろん錯覚だが、ちょっとだけ友情を感じる時もあった。
　だがこれはない。
　都会人より動物に馴れている分、草十郎は野<生動|かれら>物に対しては徹底的なリアリストなのである。
「しかし、現実だ」
　頭を抱えて無視したいところだが、久万梨に聞いた話が脳裏をよぎる。
　鳥には優しく。
　それが珍しいものなら、珍しいものなりに孤独を抱えているのだとか、なんとか。
『座れって言ってるのにシカトっすか。
　あ、でもイスないッスねココ。じゃあ立ってるッス。小坊主だけに、廊下に立ってるのがお似合いッス。
　あれ、いまウマイこと言ったっスかねジブン！？』
　羽ばたいているのも疲れたのか、駒鳥は受話器の横に着陸する。
　草十郎に打つ手はない。
　基本、この鳥の鳴き声を聞くだけが対抗手段なのだった。
『ジブン長いッス。プロイ<歴|れき>長いッスよ。
マイ女神の頃からアリスさんに仕えてるっス。なんで青いかとかどうでもいいっス。
特技はズバリ探偵役と被害者役。でも探偵であるジブンが真っ先にコロコロするんで、誰がジブンを殺したか、結局誰も分からないッス』
「プロイ？　待ってくれ、それには聞き覚えがある。プロイってなんなんだ？」
『？？？　なんなんだと言われても困るッス。
　エロイ、とかヤクイ、とかの最上級じゃないっスか？』
　ふむふむと話し合う久遠寺邸最弱のコンビ。
　かくして、
　鳥と人間は分かり合えたらしい。
　いちいち悩むのも疲れたのか、無視するのも体力がいると気が付いたのか。
　観念した草十郎が合いの手を入れはじめたところ、二人はすっかりうち解けていた。
　草十郎は珍しい話し相手として、
　駒鳥は<排斥|はいせき>すべきライバルとして、ではあるが。
『いいんスよ、細けぇ事は。そんなコトよりマイ天使・アリスさんの話をするッス』
「なんと。有珠って天使なのか？」
　ところで天使ってなんだ、と続けないあたり、草十郎にも学習の跡が見られる。
『ヒユっす。ジブンにとって天使のような存在ってコトっす。下界の喧噪とか、ジブンの言葉をガン無視するところとかマジ天使。
　アリスさんは神聖<不可侵|ふかしん>にして冷酷非道。マイ女神であったところの<母君|ははぎみ>とはちょっと、毛色が違うッス。
　ショージキ<女神|ははぎみ>、ちょっと育てかた間違ったッスね』
「そうか。そりゃあ有珠にもお母さんはいるんだよな。
　この家にはいないようだけど」
『イエス、悲しいコトにみまかられたっス。あの頃は全英の鳥が泣いたッス。アリスさんに負けないぐらい美しかったッス。あ、後でアルバムとか見るッスか？　６ペンスで手を打つッスよ』
「いや。そういうのは、本人の許しがないと」
　いけないんじゃないかな？　と首をかしげる草十郎。
　やや弱気なのは、以前と比べて有珠への興味が高まっているせいだ。
　人畜無害な顔をして、彼も健康な青年男子であるらしい。
『イエス、それはそうッスね。
　おまえ、シャバ僧のわりにいいコト言うッス。人の<過去話|カコバナ>とかみだりにしちゃいけないッス。
　―――ところでアリスさんの子供時代の話とかしていいっスか？　ジブン、シャバ僧の知らないアリスさんを<赤裸々|せきらら>にアピールして、精神的上位に立ちたいッス』
「あ、いや、だからそういう話は」
『安心しろっス、アリスさんには黙っておいてやるっスから。
まずはアレすね、ジブンとアリスさんが初めて出会った時のメモリーを聞くっスよ。アリスさんああ見えて友達一人しかいなかったッスから、もっぱらジブンが話し相手っつーか。
　ほら、壁相手にカコンカコーンってピンポン玉打ち返すゲーム。あんな感じっス。アリスさんのメモリーはおよそ十四年分。じゃあ一年目から行くッスよ』
「あ、いや、だから」
『行くッスよー！
　もう誰もジブンを止められないッスー！』
「――――――っ」
　この鳥は、まずい。
　<鳥頭|とりあたま>にも程がある。
　加えて、このまま話を聞いていたら取り返しのつかないコトになる、と察する草十郎だった。
「すまない。そろそろいいかな」
　草十郎は手をあげて、じゃあ、と三階の屋根裏部屋への逃走を試みた。
『ちょっ、待つッスーーー！　ここからがいいところなのにナンデ去るっスか。スカーレットオハラっすか。激動の主人公気取りっスか！
　そのあたりジブン、なんか納得いかないッス。まだうちに入ったばかりの新参ものが、なんでアリスさんの視線をひとりじめしてるっスか？　許せないスけど、その秘訣を教えてほしいっス。<切実|せつじつ>に。ジブン、本気だしたら凄いッスよ』
「なに？」
　もう半分ほど登っていた階段から、草十郎はトコトコと舞い戻る。
「君。いまのはどういう？」
『だからアリスさん、スキあらばオマエを見てるッス。
　思い出したッスよ、そもそもジブン、熱視線でサーチされてるからってつけあがるなと釘刺しにきたんス。
　だいたい草の字は何度もジブンに助けられてるッス。
　アリスさんの命令がなかったら、今ごろ草の字、鏡の中でおだぶつっス。コレなんスかね。人間の感情とかわかんないっスけど、魚へんに里とか描くっスかね？』
「助けられてるって、俺が？」
『まあ、殺そうとしてるのもアリスさんっスけどね！
　アリスさんはこう言ったっス。彼が鏡の中に迷いこみそうになったら助けてあげて、危険なモノには近寄らないように誘導もしてあげて、ええ、でも思い上がらないコトねシズキクン、別にアンタのコトが心配なワケ
じゃぶきゃっ！？』
　一瞬の早技だった。
　突如ロビーにやってきた有珠は、一瞬の<躊躇|ちゅうちょ>もなく受話器台の駒鳥を片手で粉砕した。
　もとい、片手で押さえつけた。
　青い鳥はぶにゃ、と潰されたカラーボールのように変形しながら、
『ちょっ、アリスさん暗いッスー！
　そして痛い、体中の血液がくちばしからこう、右方向に流れていく感覚とかー！』
　たくましい鳴き声をあげている。
「…………
コレの言うことは、気にしないで」
　駒鳥を回収し、居間に去っていく有珠。
　その後ろ姿は駒鳥とは正反対の、暗い<翳|かげ>りを帯びている。
「…………」
　草十郎は困った顔のまま腕を組んで、
「こうして、ますます疑問は増えていくのだった」
　ひとり、天窓から<覗|のぞ>く夜空に呟いた。
　三咲高校の冬休みは十二月の中旬から始まる。
　全国に名を馳せる運動部もなく、熱心な進学校でもない学校の静けさは清潔感すらある。
　<人気|ひとけ>の<絶|た>えた新築の建物は、冬の湖に舞い下りた白鳥を思わせる。
　近代化の進んだ校舎は、その血液である生徒を<欠|か>いても在り方を損なわず、粛々と<佇|たたず>んでいる。
　だが、生徒の多くはその前身を知らない。
　今の姿とは比べようのない、木造の小さな<学舎|まなびや>。
　その旧校舎は取り壊される事もなく、今でも<鎮|しず>かに眠っている。
　裏山に<延々|えんえん>と続く森のただ中に、ひっそりとその身を隠すように。
　枯葉を<掃|は>く竹ぼうきの音が響く。
　裏山に枯れ落ちた葉は、砂浜に打ち寄せる波のようだ。掃いても掃いてもきりがない。
　なにしろ二年間以上放置された魔境である。
　仮に校内あげての清掃を始めたところで、一日二日でどうにかなるものではない。
　<況|いわ>んや、
「あー、ほんとだりぃー、存在価値がみいだせねぇー。
　バッカじゃねえの、冬休みは短いってのに、なんでこんな事やらせんだよ生徒会は」
　その参加者がこのような<不心得|ふこころえ><者|もの>では、裏山の美化など望むべくもないのだった。
「っていうかジャージでやらせんなよ、ジャンパーぐらい着させろよなー。
なにこれ、もしかして体育の補習？　寒中マラソン？　オレ体育だけはサボったコトねぇんスけどねー！」
　なげやりに竹ぼうきをブンブンと振り回し、<罵詈|ばり><雑言|ぞうごん>をまき散らす<木乃美|きのみ><芳助|ほうすけ>。
　それを横目にしながら、草十郎は無言でざっざっと竹ぼうきを動かしていた。
「おい、なに真面目にやってんだよ。こんなの適当でいいんだって。だいたい四十人しかいねえのに、こんな山みたいな庭の掃除なんか終わるかってんだ」
「終わらない事なんてない。少しうるさいぞ、木乃美は」
　振り向きもせず<窘|たしな>める草十郎に、木乃美はますます詰まらなそうに竹ぼうきを振り回した。
　朝の裏山は寒い。
　曇った空には太陽の影もなく、灰色の光が裏庭を照らしていた。真冬の見本みたいな寒さは、軍手ごしにも手をかじかませる。
　こんな日は部屋でぬくんでいるべきなのに、何の因果か、彼らは裏山の掃除なんてやっていた。
　冬期特別清掃班。
　それは、いいかげん荒れ放題の裏山をどうにかしようと集結した有志たちによる、決死隊の呼称である。
　一般生徒は彼らを美化という名の神に信心を捧げた、鋼のお掃除部隊と思うだろう。
　しかし、その実態は期末試験の補習の一貫として用意された、ただの罰ゲーム部隊だった。
　今年度の生徒会が力技で実行した、一年計画の犠牲者である。
　そろそろ雪が降ってもおかしくないこの季節に、誰が好き好んで枯葉拾いなぞやるものか。
　結局集まった四十人のうち一人を除いて、有志でもなんでもなかったりする。
「げ。おい見ろよ<静希|しずき>。<赤羽|あかばね>たち、向こうで焼き芋とかレトロなマネしてやがる！
　んが、二番煎じはいかにもあたま悪いしな。そうだ、オレたちはイカでも焼かねぇ？」
　もとより掃除をする気のない木乃美はしきりに草十郎を懐柔しようとしていた。
　清掃班はグループに分けられており、草十郎と木乃美は体育館裏の担当だ。
　リーダーは草十郎で、一般兵士は木乃美である。
「ああ。こことあっちの垣根をきれいにしたら、焼き芋だろうと焼きイカだろうとネコ鍋だろうと好きにしよう。その頃にはちょうどお昼だ」
　草十郎は慣れた手つきで、かき集めた枯葉をビニールのゴミ袋に詰めていく。
　うっすらと霧が立ち籠める朝七時から集まって、すでに二時間。
　誰もが<音|ね>を上げてだらけ始めている中、草十郎は開始時と同じペースで黙々と働いていた。
　掃除用に着替えたジャージはえらく寒いのに、泣き言一つないのは運動量の多さ故だろう。
「なー、やめようぜ。みろ、そこの池……スケートリンク……？　いや、やっぱ池……？
　とにかく、そこの池らしきモノだってカチカチに凍ってるぐらいなんだぜ？
　こんな雪原じゃ人体はフツー動かねえよ、機械伯爵でもなきゃだよ、そろそろ人間狩りがはじまるよー」
「なんで、いいかげん休憩しねえ？
　せっかく枯葉集めたんだから、燃やして暖まんないとさー。どうせ監視役は殿下しかいないんだしさー。な、焼きイカやろうぜ、焼きイカー」
　イカに思い入れがあるのか、木乃美はしつこく主張する。
　相棒の泣き言を黙って受けとめていた草十郎だが、それもそろそろ限界らしかった。
「木乃美、頼むから……」
　その時、草十郎は相棒の背後に死神の姿を認めた。
　手に持っている物が竹ぼうきではなくクマデなのがまたらしい。
「いいぜ。おまえがイカなんてモンを用意してるほどの大人物だってんなら、<謹|つつし>んでイカ焼きぐらい許可してやるよ。なんなら醤油はこっちで用意してやろう」
　背中からの声に、木乃美はびくり、と背筋を伸ばし、
「ひゃあ！　その物言い、槻司<某|なにがし>―――！」
　時代劇めいた台詞を吐いて、振り向きざまに竹ぼうきを振るう。
　それを鳶丸はクマデでがっしりと受けとめた。
「ああ？　テメエ、やる気十分じゃねえか。あふれる労働意欲を抑えきれないってワケか？　なんなら<特別|シベリア>コースにでも行っちまうか？」
「はん。女ども集めて焼却炉に陣どってる野郎の言葉なんざ聞かねえよ。真冬に南国気分とかマジ寒いわ」
　竹ぼうきとクマデを交差させて、ふたりは不敵な笑みを浮かべている。
　これでも学園内限定で仲のいいコンビだった。
「鳶丸。いちおう、彼は戦力なんだから邪魔しないでくれ」
　チ、と心底忌々しそうに舌打ちし、矛を納める両者。
　なんというか、ゴミ袋片手に、俗世のコトなど関心ありません、と掃除をする草十郎の<言|げん>には逆らえない。
「それで、何しに来たんだ鳶丸。
　君はあったかい焼却炉の前で、永遠に火の管理をすると豪語していたんじゃなかったっけ？」
　もとい。
　この男も、多少は俗世に関心があったらしい。
「なんてこった……善良な生徒ですら、俺をそんな目で見るのか……」
　悲しそうに鳶丸は言う。
　が、集められた落ち葉を燃やして<暖|だん>を取りながら、女子の清掃班を手伝いと称してはべらせている以上、かける情けは落ち葉一枚分もないのである。
「いいから用件を言えよ。殿下と違ってオレらはヒマじゃねえんだ」
「ああそうかよ。草十郎、そろそろ小休止だ。
　向こうで<暖|あたた>まろうや」
「お、なんだブレイクかよ！　話せるじゃん、殿下！」
「あ？　テメエは除外に決まってんだろ。特権は功労者にのみ与えられるモンだ。
　焼却炉の前に来たけりゃ、それ相応の貢ぎ物を持ってきやがれ。具体的に言うと、リヤカー一台分のゴミ袋な」
「ひっでぇ、生徒会横暴ー！」
　木乃美の抗議は当然のように届かない。
　清掃班の指揮役として<抜擢|ばってき>された鳶丸には、こんなんでも絶対的な権力があった。
　彼がちょっと記録に手を加えれば、木乃美は明日も明後日も清掃班に参加する事になる。
「さ、行くぞ。誰の趣味かしらねえが、なぜかしるこの缶が山ほどあってな。中華まんの一つでもあった方が気が利くってもんなんだがねぇ。アレか、遭難用のチョコレートみたいなもんか？
　……ったく、アイツの考えはいまだに分かんねぇなあ」
　それはそれで気が利いているのでは、と感心する草十郎。
「ん？　なんだよ、行かねえのか草十郎？」
「ああ、自分はここに残るよ。<暖|だん>なら木乃美の言うように葉を燃やせばいい。そこに池もある。火の始末なら安心だ」
　木乃美に気をつかっての返答である。
　鳶丸は眉をひそめ、木乃美はプルプル震えている。
「おお……ぉおおお……！
　オ、オレはいま友情ってもんを実感している！　すげえな、真心ってほんとにあったんだ！
　クソ、待ってろ静希！　いま赤羽たちからイモ奪ってくる！」
　根は照れ屋なのか、木乃美はとなりの班の集まりへ走っていった。
「……ま、予想はしてたけどな。ほらよ」
　やれやれと頭をかきながら、鳶丸はジャージのポケットからホット缶を取りだした。
　左右のポケットと、ズボンの後ろ、合わせて三本。
「さっさと焚火の用意をしようぜ。
　俺もこっちで休む事にするわ」
「付き合いがいいのはお互いさまだな」
　草十郎は手早く焚火の用意を済ませる。
　落ち葉を集め、きちんと<燻|くすぶ>るよう、あっさりと燃やしてみせた。
「…………慣れてるな」
「マッチがあるから、楽なんだ」
　草十郎は火をつけた落ち葉の前にしゃがみこんで、かじかんだ両手をかざした。
　寒そうな素振りは見られなかったが、草十郎は草十郎なりに寒かったらしい。
　ぱちぱちと煙る落ち葉の山を、懐かしむように草十郎は眺めている。
　……その姿に、鳶丸は一抹の不安を感じた。
　望郷や追想。住む場所を奪われ追われた、異邦人のような暗い<翳|かげ>りを、その姿に見たからだ。
「元気ねえな、草十郎」
「……まあね。少し、疲れてる」
「悩みごとなら相談にのるぜ。気が向いたら話してくれ」
　お汁粉缶を開けて、人差し指に残ったリングプルを持て余しながら鳶丸は続ける。
　草十郎は焚火に意識を向けたままだ。
「そういえばな。おまえが学校休んでる時、蒼崎に殴られたぜ。なんでも俺は大ぼら吹きだそうだ」
「すごいな、大抜擢じゃないか」
　草十郎の返答は、時々このように脈絡がない。
　おそらく文化圏の違いだろう、と鳶丸は気にしない事にした。
「なあ、蒼崎とはどうなってんだ？　テスト前は駅まで一緒に帰ってただろ。うまくいってんのか、あれから？」
　そんなハズはあるまい、と誰よりも分かっているクセに問いただす。そんな鳶丸に、
「ああ、今は一緒に住んでるよ」
　草十郎はあっさりと真実を告げるのだった。
「ほー。そうか、一緒ときたか」
　あまりに自然な返答にハハハ、と鳶丸は相づちを打ち、
「あん、一緒に住んでるだぁーー！？」
「どうした鳶丸。火でも飛んだか？」
「飛んでねえし、それより怖ぇ。おい、今の聞き捨てならねえ<戯言|たわごと>はホントの話か？」
　戯言とは何事だ、と草十郎は無言で抗議。
「っ―――その余裕、マジか……女に興味なさそうな顔してて、やる事やってんじゃねえかテメエ」
　物理的に先を越された訳でもないのに、なぜか精神的に先を越された気がする鳶丸だった。
　そんな彼に、草十郎は珍しく怒りの視線を向ける。
「こっちこそ聞き捨てならない。
　なんだ、その女に興味はないってのは」
　本気で怒っているらしく言葉も冷たい。
　草十郎のかつてない不機嫌さに、鳶丸も平静さを取り戻す。
「いや、悪い。そんな雰囲気あったんだよ、おまえさんは。それは謝る。
けどよ、蒼崎と一緒に住んでるってどういうことだ？　いくらなんでも<一足|いっそく>飛びすぎだろ」
「別に、君が期待しているような事はない。彼女が住んでいるところの部屋を借りる事になっただけだ。
　屋根の裏にある部屋なんだけど、板張で山小屋を思い出すんで気に入ってる」
　それは屋根裏部屋というのだが、あえて鳶丸はスルーした。
「屋敷って、あの久遠寺の屋敷か……？
　それこそまさかだぜ。草十郎。おまえ、いったいどんな手品を使いやがった？」
「？　鳶丸こそ、あの家を知ってるのか？」
「そりゃあな。これでも槻司家期待の跡取り候補だぜ、俺は。久遠寺グループのご令嬢が住んでる屋敷ぐらいは知ってるさ。礼園女学院の二年生だろ、たしか」
「久遠寺……なに？」
　ますます首をかしげる草十郎に、鳶丸はやれやれと説明を続けた。もちろん、草十郎が分かるレベルに落としこんで。
「久遠寺グループ……つーか財団だな。
　平たく言えば一族全部がお金持ちで、仲良く会社を経営してる連中だと思えばいい。複合企業とまではいかないが、輸出業じゃあかなりのもんだ」
「ホームグラウンドは国外で、先代の会長の英国びいきがたたって一時期は沈みかけてたんだが、五年くらい前かね。本拠地をこっちに移してからはご存じの通りだ。
　会長が息子に移ってからはきちんと持ち直して、今や町の名士だろ。ここでも久遠寺の名前はそこかしこで目に入る。この学校の建て直し予算の半分は連中からだしな」
　極めて簡単に言ったのだが、それでも草十郎には早すぎたようだ。
　仕方なく鳶丸は話をきる。
「あれだ、想像もできない金持ちってコト。
　草の字が働いてる喫茶店だって、久遠寺が向こうから持ってきたブランドだぜ？　今じゃ全国チェーンになっちまったがな」
「つまりすごく偉いんだね。……おかしいな、ならなんであんなに倹約してるんだろう……」
　ぶつぶつと呟く草十郎。
　そんな草十郎に、鳶丸は羨ましいような、心底から同情しているような、複雑な顔を向ける。
「しっかし、うまい事やったな草十郎。
　それで、本当のところはどうなんだ？　男と女が同じ屋根の下にいれば、やる事はひとつだろう？」
「あんがい古いな、鳶丸も」
「ぬかせ。そのあたりを誤魔化してたら男なんざやってらんねえ」
「そりゃごもっとも。実を言うと、正直な話―――」
　今のところまったく色気のない雑居ではあるが、同じ家で生活している以上、不意打ち気味のニアミスはある。
　あるのではあるが、しかし―――
「驚くぐらい、そういうコトにはなってない。
　あの屋敷、すごく広いし」
　青子たちも草十郎も私用で忙しいため、そんな浮き足だった状況にはなっていなかった。
「そもそもだな。もし鳶丸だったら、下宿先が同じって理由だけで、蒼崎に言い寄る気になるかい？」
「……いや。ならねえな、そりゃあ」
　数々の彼女の戦歴を思い出しているのか、感慨深くうなずく鳶丸。
「いや、健全だな」
「ああ、健全だろ」
　虚脱感のある鳶丸の呟きに、のんびりと焚火にあたりながら短く同意する草十郎。
　もっとも。
　健全であるかは別にして、あの洋館に寝泊りし、青子と有珠相手に平静を保てているのは、間違いなく草十郎の<人柄|さいのう>だろう。
「でも、それとは別の話で蒼崎には頭があがらないんだ。
　彼女には、もう返せない借りがあってさ」
　ぼんやりとしていた彼の瞳が、少しだけ真剣になって焚火を見詰める。
　それが額面通りの意味でない事は、鳶丸にも感じ取れた。
「もう返せない借りだあ？」
　繰り返す鳶丸に、草十郎は無言でうなずく。
　―――と。
　深刻な沈黙を破るように、森の奥から妙な叫び声が届いてきた。
「……なんか聞こえたな？」
「ああ、木乃美だ」
　答えるより早く草十郎は立ち上がる。
　そのまま凍った池まで走り、竹ぼうきで氷を叩き割り、
バケツに水を汲んで焚火にぶちまける。十秒足らずの早技だった。
　草十郎は絶叫が聞こえた森の奥へと走り出す。
　何事かとあわてながら鳶丸も後を追う。
「鳶丸、この先に何かあるのか？」
「たしか旧校舎が残ってるはずだ」
「他には？　野犬の住みかとか、そういうイヤな話は？」
「はあ？　いや、いるとしても鹿か兎じゃねえか？」
「なら怖がるコトもないか。急ごう、鳶丸」
　山育ちで慣れているのか、草十郎は腐葉土の上でも軽々と走っていく。
　鳶丸も足には自信がある方だが、森の中では草十郎には付いていけない。
　そうして、いつしか草十郎はひとりきりで走っていた。
　木々の葉で閉ざされた獣道を、時には両手で力強く払い除けながら、時には柳のように擦り抜けながら。
　この程度の緑の深さなら慣れたものらしい。
　数分後、草十郎はその広場に辿り着いた。
　木々の壁はここで終わっている。
　山の中腹に<拓|ひら>かれた人工の広場。
　遠くに見える木造の建物が旧校舎だろう。
　小学校ほどの、小さいが趣のある建物が、人知れず冬の荒れ野に埋没していた。
「木乃美」
　その旧校舎のグラウンドに、木乃美はひとりで立ちつくしていた。
「お？　なんで静希まで追いかけてきたん？」
　不思議そうに首をかしげる木乃美に、草十郎はむっと顔をしかめる。
「そっちこそどうしたんだ。へんな声あげて」
「声ぇ？　いや、そりゃガキ相手に怒鳴ったけどよ。
　ほら、あのガキだよ。イモ持ってるだろ……ってああ、中に逃げこみやがった！」
　旧校舎を指差しながら<憤慨|ふんがい>する木乃美。
　確かに、百メートルほど離れた旧校舎の入り口に、人影らしきものが立っている。
「ったく、こんな上まで来やがって。いつから子供の遊び場になってんだ、ここ」
　まあどうでもいいけど、と木乃美は肩をすくめる。
　ここの森は深くはあるが、遭難するほどの場所でもない。
　草十郎は森の中をつっきってきたが、外にはコンクリートで舗装された道があるのだ。
　木乃美はそちらを使って登ってきたようだ。
「んー……子供………？」
　目を細めて草十郎は呟く。
「ああ。金髪なんでさっきはちょっと驚いたけどな。外国人の子供って、なんか怖いだろ？」
　地方都市において、まだ外国人の姿は珍しい。
　テレビならいざしらず、生で外国の子供を見た事がない草十郎にはよけい不思議な感覚だった。
「それで、木乃美はなんでここまで？」
「いや、赤羽たちがよ、ガキに食料奪われたって言うからここまで追いかけてきたんだ。
そういう事だから、ふたりがかりであのお子さまとっちめようぜ」
「怖いことを考えるな、木乃美は」
　賛同しかねる、と草十郎。
　<多勢|たぜい>に<無勢|ぶぜい>は義に反する、といわんばかりである。
「いいから帰ろう。あの子、こっちを睨んでるじゃないか。
　それに、鳶丸にこんなところ見られたら冬休み中ずっと山の掃除で終わる事になるぞ？」
　ぽん、と木乃美の肩に手を置いて、草十郎はもと来た道を戻りはじめた。
　木乃美は口惜しげに旧校舎に視線を投げて、草十郎に付いていく。
　そんなふたりを出迎えるように、息を切らした鳶丸が登ってきた。
「は、速いな、草十郎」
　鳶丸の息は乱れている。
　草十郎に遅れること三分弱だが、十分に健脚だ。
「それでどうした。木乃美、無事か？」
「？　無事も何も、殿下こそどったん？」
　鳶丸に心配されるコトなど初めてなのか、目をしばたたく木乃美。
「なんだそりゃ。テメェ、あれだけの大声をあげておいてしらばっくれる気か？　上で何かあったんだろうが」
「すまない、こっちの早とちりだった。
　鳶丸は知らないだろうけど、木乃美は時々、バイト先でも奇声をあげる癖があるんだ」
　堂々と言う草十郎の横で、木乃美は不満げに顔をしかめる。彼的に、そんな噂は初耳だった。
「……怪しいな。また良からぬ事でも企んでるんじゃねえか、そこの？」
「無いよ。戻って掃除の続きをするぞ、鳶丸」
　ぽんぽんと鳶丸の肩を叩いて草十郎は歩きだす。
　そんな草十郎に、鳶丸は不審げな眼差しを向けた。
　なんとなく、草十郎が木乃美の悪事を<庇|かば>っているように思えたからだ。
「まさか、旧校舎に火なんてつけてないだろうな？」
「誰もしないよ、そんな事は」
　さっさと掃除に戻りたいらしく、草十郎は背後の鳶丸を振り向きもせず歩いていく。
　鳶丸と木乃美は首をかしげながらも、めずらしく強引な草十郎に従った。
　これといった快事も不祥事もなく、本日の特別清掃班の活動は終了した。
　ただいまの時刻、午後三時。
　別れ際、草十郎は木乃美たちから遊びに誘われたが、夕方からアルバイトが入っている、と丁寧に断った。
　夕方からのバイトまであと二時間ほど。
　遊ぶほどの時間はないが、さりとて、暇つぶしには持て余す長さと言える。
　公園で体を休める、という考えも浮かんだが、町中でも冬の寒さはそれなりに堪えるので却下。
　ちなみに、例の錠剤は朝のうちに青子から手渡されていた。
　青子の読みはまったく正しい。今から洋館に戻ってもすぐとんぼ返りになるだけである。
　骨折り損のなんとやらで、アルバイトを終えるまで洋館に戻る必要はまったくない。
　―――まったくないのだが、草十郎はすんなり帰途についていた。
　山奥育ちにとって、二時間程度の散歩は苦でもなんでもないのである。
　この三咲町は三咲市の中でも閑静な住宅地に入る。
　その中でひときわ異質なのがここ白犬塚だ。
　森に向かうひとつきりの坂道。
　住宅地の奥にそびえる山影は、物言わずとも人々の営みを威圧している。
　近代化の進む現代においても、自然への<崇拝|すうはい>は住民たちの心に根付いている。
　あの洋館も、何らかの<社|やしろ>であれば幽霊屋敷などではなく、霊験あらたかな観光名所になっていたかもしれない。
「……というより、今さら気付いたけど……」
　白犬塚周辺の家は、どれもたいへん立派である。
　人々の住む坂の下から、森の中にある洋館の屋根を見上げ、なるほど、と草十郎は納得した。
　鳶丸の言う通り、あの洋館を所有する久遠寺家はこの町一番のお金持ちなのだ、と。
「……そのわりに家賃を取るところを見ると、やっぱり嫌われていると見るべきか」
　ふむ、とそんな事を考えつつ、草十郎は洋館への坂道を歩きはじめた。
　土の感触のないアスファルトの道が少し<淋|さみ>しい。
　舗装された道を十分ほど歩いて、森の鉄柵にたどり着く。
　この先は久遠寺の私有地だ。
　関係者以外立ち入り禁止、といった不粋な看板はない。
　ただ、訪れた者の精神を圧迫する、いかつい鉄柵が<人避|ひとよ>けの結界となっている。
　そんな鉄柵を、草十郎は気軽に押し開ける。
　期末試験が終わってからまだ二日しか経っていないのに、ひとりでこの森に入る事に慣れきった風である。
　森から洋館までの林道は、やはり蛇のように曲がりくねっている。
　林道を使うと洋館の敷地まで約十五分。
　なだらかな坂道を無視して森を一直線に歩いてもいいのだが、その場合、疲労は何倍にもなる。火急の用でもないかぎり、林道を使うのが常識的だ。
　ロビーに入ると、居間から話し声が聞こえてきた。
　青子と有珠のものであるのは間違いなく、とりあえず草十郎は居間へと向かう。
　期末試験が終わった日から、青子と有珠の生活スタイルは日常から非日常へと切り替わっていた。
　青子が有珠の部屋……館の西館、左翼一帯……に行ったきり戻ってこなかったり、
　有珠が青子の部屋に入ったきり出てこなかったりと、
　絶対立ち入り禁止とされる屋敷裏手に回る廊下の先に向かったりと、草十郎の知らないところで絶賛活動中だ。
　もっとも、草十郎はそれに関わる気もないし、青子たちも関わらせる気もないので、今のところ問題はない。
　久遠寺邸はとりあえず平穏である。
「ただいま」
　草十郎は静かに居間の扉を開けた。
　お互い関わらないようにしているといっても、挨拶はきちんとする。それが彼の方針である。
　ふたりは向かい合うかたちでソファーに座っていた。
　テーブルの上には豪華な装飾をした、大きな鏡が置かれている。
　青子の服装は動きやすさを重視したもので、下はスカートではなくジーンズを穿いていた。
　そんな青子とは対照的に、有珠はいつもの黒衣のままだ。
　学校はとっくに休みに入っているというが、<頑|かたく>なにあの黒衣を通している。
　青子曰く、「単に面倒だからでしょ」とのコト。
　少しは違う服装を見たいな、と思う草十郎である。
　何か口論していたようで、居間の雰囲気はどこか張り詰めていた。
　草十郎の挨拶にも反応しない。
　ただ有珠がちらり、と草十郎に視線を向けただけだった。
「じゃあ<陶川|とうかわ>の<支点|してん>は？　あそこの柱は白色だし、そう簡単には奪われないでしょう？」
「……ええ。今のところ陶川は侵食されていないけど、ひとつ隣りの<鈴穂|すずほ>の支点が消された以上、楽観はできないわ。
　残りの割り出しは今までより早くなる」
「そっか。一個釣れれば、あとは芋づる式だもんね。
　……反省したわ。甘く見てたのはこっちの方だった。ここからは、一週間単位の攻防になるわね」
　テーブルを挟んでの会話は続く。
　青子は帰ってきた草十郎を見ようともしない。
　それとも話に集中するため、気を配る必要性を感じていないだけか。
「……でも解せないな。
　あの夜に人形をだしてくるタイミングといい、隠し方だけは一級品なうちの支点を短期間で特定する事といい、コイツ、まず間違いなく市内に<隠れ家|アジト>を敷いてるわよね。
　なのになんで結界に異常がないんだろう。三咲市一帯の索敵網は、もう百年近く破られた事がないのに」
　爪をかむ青子に、有珠は小さくうなずいた。
　彼女も青子と同じ疑問を持っているらしい。
「……母もここの結界には触れなかった。
　三咲の結界をかいくぐるには貴女のお<祖父|じい>さんか、それ以上の技量を持つ魔術師でないと難しい。
けど、それほどの魔術師なら逆に<魔力|けはい>は隠しきれない。
　……なにか特殊な<隠行法|おんぎょうほう>かもしれないわね。ここ数年、新しい<妖精環|サークル>の話は聞かないけど」
「なに、シャーウッドの森？　<皐|メ><月|イ><の|キ><王|ン><様|グ>なら以前、有珠の霧が粉砕したじゃない。アレ以上の隠行があるっていうの？」
「例えばの話よ。今回の相手はこちら以上の技量を持っているか、こちらの知らない技術を持っているか。
　どちらにせよ評価を改めるべきね。わたしたち、気づかないうちに追い詰められているのかも」
　ふたりはそれきり黙りこむ。
　草十郎はしばし迷ってから、もう一度声をかけてみる事にした。
「やあ、ただいま」
　遠慮がちなその一言に、青子はようやく草十郎に視線を向けた。
「いいからお風呂に入ってきたら？　汚れてるわよ、草十郎」
　それだけ言って、青子は鏡に視線を戻す。
　有珠はもう一度だけちらりと草十郎に視線を向けたあと、テーブルの上の鏡に見入った。
　とりあえず挨拶を済ませて満足したのか、草十郎はぱたんと扉を閉め、居間を<後|あと>にした。
　青子の言う通り、服の端々はわずかに汚れていた。
「……そうだな。もったいないけど、確かに」
　別に汗をかいた訳でもないが、この寒さの中での湯浴みはちょっと楽しそうだ、と草十郎は自室に戻る。
　ロビーから二階へ、さらに階段を上がって屋根裏の部屋に入る。
　ここは他の部屋と違い余計な装飾がない。
　暮らすにはいささか不便だが、草十郎にとっては落ち着ける場所でもある。
　洋館はどこもかしこも豪華すぎて気を遣うのだろう。
　経緯はどうあれ寝泊りする部屋に関してなら、草十郎はたいへん満足していた。
　屋根裏には電気は通っていない。
　明かりは小さな天窓だけだ。
　が、そもそも電灯に馴染めない草十郎にとって、それはどうでもいい事だ。
　冬の暗い日射しだけをたよりに着替えとタオルを用意して、ロビーへとって返す。
　これだけ大きな建物なのに、館には浴場が一つしかない。
　その浴場もあまり広くないので、館の設計者は風呂を重要視しなかったのだろう。あるいは、湯浴みに馴染みがなかったのか。
　草十郎はロビーまで下り、階段の裏側に回りこむ。
　浴場へ続く扉をノックする。当然ながら返事はない。二人はいまも居間で会議中である。
　それを確認して、軽い足取りで草十郎は中へと入っていった。
　彼らしい話ではあるが。
　山から下りて出来た唯一の趣味が湯浴みであるという事を、草十郎本人はまだ自覚していなかった。
　草十郎が去った後も、少女たちの協議は続いていた。
　議題は言うまでもなく、先月から三咲市に現れた外部の魔術師について。
　<目撃者|そうじゅうろう>の一件で中断されていた、彼女たち本来の責務……管理地を奪いに来た略奪者への対応、その排除である。
「……今までは囮にばっかり食いついてたから甘く見てたけど……それも計算尽くだったのかしらね。
こっちが油断してる隙に、本命を一つ奪われた。
　この<魔|あ><術|い><師|て>との戦いは、これからが本番ってコトか」
　事態は深刻化している。
　敵魔術師は二日前までの散漫的な小競り合いから、巧みな攻勢に転じてきていた。
　青子たちには、大きく分けて二つの結界の守りがある。
　一つは三咲市一帯に張られた、魔力・魔術の働きを測定する大結界。
　これは外部からの来訪者を把握、監視する為のもので、管理地のオーナーである蒼崎の先祖が敷いた、消しようのない機能だ。
　もう一つは土地の霊脈を生かし、その力を管理するもの。
　大地に刻まれた五つの支点によって、そのサークルの内部を守る典型的な方陣である。
　人為的に<大|マ><源|ナ>の流れに手を加え、その力の終点が久遠寺邸に集まる―――ありていにいえば、三咲市における魔力を独占する為の結界だ。
　支点は久遠寺邸を中心にして、全部で五点。
　これを全て退去させられた場合、青子たちの『管理地の持ち主』という事実は、文字通り、ただの肩書きになり下がる。
　土地のバックアップを失った管理人は、外部から現れた略奪者と同じ条件になり―――個人の力量だけで、敵を撃退しなければならなくなるのだ。
　有珠はともかく、まだ未熟な青子が管理地を死守できているのは、この二つに頼るところが大きい。
　とくに蒼崎に伝わる<索敵網|だいけっかい>は彼女の生命線ですらある。
　が、今回の敵はこの大結界の目をかいくぐり、好き勝手<町|まち>を<跋扈|ばっこ>していた。
　結果、彼女たちはこうして受けに回っている。
「……どちらにせよ時間の問題ね。
　支点がすべて潰されたら、いよいよ<洋|こ><館|こ>での籠城になるけど……
いいの、青子？」
「？　別にいいんじゃないの？　有珠の言う通り、残りの支点を消されるのは時間の問題なんだし。
　そりゃ<魔術師|てき>の<隠れ家|アジト>を発見できれば御の字だけど、それは絶対必要ってワケでもないでしょ。支点を消されても私にはあんまり関係ないし」
「なにより、館の守りはアンタがいるかぎり万全だしね。
　あっちの方からやって来てくれるなら、それこそ飛んで火にいる、よ。
　他に心配事なんてないでしょ？」
「……そうね。敵が一人だけなら、その時は鏡の範囲を<洋館|ここ>に集中させて、戦場にすればいい。わたしたちにとって、その方が有利だったわ」
　有珠はその白い指で、テーブルに置かれた鏡に触れる。
　途端、水のように波立つ鏡面。
　蒼崎の結界とは別の、三咲市の守り神。
　正しくは三咲市ではなく、久遠寺有珠だけを守る“童話の怪物”。濃霧を生み、訪れる者をゲーム盤の世界に<誘|いざな>う招待状。
　持ち主である少女は鏡とだけ呼び、
　少女の友人に<午睡|ごすい>の鏡と名付けられた、
　久遠寺有珠の扱う魔術である。
　波打つ鏡面には、一つの城と多くの森、平原と川が浮かび上がっている。
　その様子を無言で眺めていた青子だったが、
　突然、よし、とばかりにソファーから立ち上がった。
「そうと決まれば、<後|あと>は行動あるのみね。
　出かけるわよ有珠。とにかく現場を見ない事には始まらない」
　決意に満ちた青子の声に、有珠は気だるげに吐息をもらして、鏡面をさらりと<撫|な>でる。
　……とぷ、と水の騒ぐ音。
　鏡は有珠の<一|ひと><撫|な>でで濃霧に包まれ、テーブルに沈み消えた。
「順番に回るのなら、帰るのは朝になるわね」
「まあまあ、そう億劫がらないで。
　ところで有珠、火の五芒星の退去ってこうだっけ」
　青子は中空に指を滑らせる。
　上から始まって右下へ、右下から左上、左上から……と星型の軌跡が描かれる。
「……そろそろ壊すこと以外も覚えないと駄目よ、青子」
　ため息をつきながら、有珠もソファーから腰をあげる。
　ふたりは<上着掛け|コートハンガー>からそれぞれのコートを手に取り、居間を後にする。
「失礼ね、私だって日々成長してるわよ。
この<間|あいだ>のお<呪|まじな>いだってちゃんと成功したんだから」
「……お呪い？」
「簡単な暗示の呪文。
　ほら、有珠が教えてくれた、空<気のおも|かるく、よわく>り、胸<のふる|うまく、はやく>え。ひ<かりは先|チクタクチクタク>立つ、か<げは遅れ|いそげやいそげ>る。ってヤツ」
「………………それ、本当？」
「ホントもホント。後で草十郎に聞いてみなさい」
「…………………………」
　有珠は納得のいかない面持ちで、喉まで出かけた言葉を飲みこんだ。
　特に話題にする事でもない、とギリギリで疑問を止められたのだろう。
「……けど。留守中、その彼はどうするの？」
「大丈夫でしょ。有珠の西館と開かずの間に入らなきゃ即死するような事は……」
　青子は答えながらロビーに通じる扉を開ける。
　直後。
　突然の疑問に声をあげる有珠のように、青子の喉は凍りついた。
「……………、ですって？」
　それが誰なのか、青子は咄嗟に思いつけなかった。
　不意打ち気味の<当惑|とうわく>に<眩|くら>みながら、午後の<斜光|さしび>を眺めている事しかできない。
　びっくり箱に驚いた時のような、
　寝起きの時のような空白。
　そんな沈黙がどれだけ続いたのか、正確に知り得たのは、当の人影だけだろう。
「……アンタ、こんなところで何してるのよ、いったい」
　どれほどか経って、ようやく青子は口を開いた。
「何って、着替えてるんだけど」
　青子の質問に、その人影は平然と答えた。
　なぜ脱衣場ではなくロビーで着替えているのか、その経緯を説明しないまま。
「………………」
　そんな草十郎に一声……率直に言うと怒鳴り……あげなくてはいけないのに、青子は言葉を止めてしまう。
　今まで浴場にいたであろう彼は、ちょうどシャツを着ようとしているところだった。
　上半身<裸|はだか>で、首には布が巻かれている。
　髪は濡れているものの、肌に上気したところは見られない。おそらく水で体を洗ったのだろう。
　この寒空によく、と呆れるところだが、そんな<所感|しょかん>は些細な事だ。
　<沈黙|おどろき>は、純粋に彼の体に起因する。
　今まで線の細い人畜無害っぷりだったのに、<装飾|ようふく>を取ればこの通り、弱々しいイメージなど見られない。
　何事も体が資本な山育ちなら、むしろ鍛え方が足りないのかもしれないが、青子にとっては予想外の体つきだった。
　それと、おまけに、
「……それ、傷跡なの？」
　青子は恐る恐る口にする。
　草十郎はうん？　と視線を落とした。
　彼の腕にはうっすらと火傷の跡らしきものがある。
　青子の魔術刻印のような秩序のある紋様ではなく、不幸な事故を思わせる<斑|まだら>模様。
「ああ、これか。ずいぶん前に野犬の群れに襲われて、噛みつかれたんだ。命があっただけでも幸運だから、傷跡ぐらいはご愛敬だ」
　……ずいぶん前、とは子供の頃の出来事らしい。
　<一命|いちめい>は取り留めたものの、彼の住んでいた山奥では満足な治療もできなかったのだろう。
　その傷跡は消えていない。
　何年も前に受けてあの状態なら、もう一<生涯|しょうがい>変わらないだろう。
　……半面、肌に残る野性の<傷|あ><痕|と>は、無駄のない体に相応しかった。直視した彼女が、たとえ一瞬だけだろうと、感じ入った程度には。
「……たしかにあまり気持ちのいいものじゃないな。
　自分の部屋で着替えるべきだった」
　無言で固まった青子を見て、草十郎はシャツを着ながら、少しだけ恥じ入るように弁明した。
　ふたりからは何の返答もない。
　草十郎は自分の部屋に戻ろうと階段に向かう。
「ちょ、ちょっと待って、草十郎」
「？」
　足を止めて振り返る草十郎。
「え―――あ、うん、なんていうか―――」
　自分でも呼び止めた意図が分からず、青子は気まずそうに視線を逸らす。
「？？　……なんか蒼崎らしくない。
　さっきからヘンだけど、熱でもあるんじゃないのか？
　あれから満足に寝てないだろ、ふたりとも」
　あれから、とは期末試験からの話である。
　草十郎から見ると、青子の働きぶりは“おかしい”“ヘンな人”レベルの扱いになっているらしい。
「ね、熱なんてないったらっ！
　そうじゃなくて―――ど、どうしてこんなところで着替えてたのよ、アンタはっ！」
　目に見えてとりつくろう青子。
　一方―――
　なぜか、そんな青子以上に言いよどむ草十郎。
「それは、その。
　……言いづらいんだが、下着の管理は、きちんとした方がいいと思う。どっちだかは知らないけど」
　草十郎の台詞に、今まで青子の後ろで黙っていた有珠がぴくりと反応した。
　我関せずを貫くつもりだった彼女も、今の台詞は無視できなかったらしい。
「言っておくけど、それは青子だから」
　あまりにも素早い正当性の主張だった。
「……洗濯の当番は、たしかに私だったけど」
　その後に何か続きそうな、険悪極まりない青子の切り返しである。
「とにかく、もうすぐアルバイトだから着替えてくる」
　そんなふたりの言い合いに破滅の前兆を感じ取り、素早く戦場から離脱する草十郎。
　かくて、人騒がせな人影は早足で去っていった。
「……………有珠」
「……………とりあえず、片づけてくるわ」
　一見して冷静なまま、有珠は脱衣場に消えていった。
　数分後。
　気を取り直し、魔術師として外出しようとする直前、思いだしたように青子は相方の少女に訊ねた。
「そうだ有珠。傷ってアレの事？」
「……アレは傷跡じゃないわ。
　だって、あんなにも誇らしいもの」
　たしかに、と青子は思う。
　あの傷跡に感じ入ったのは、彼本人が過去の出来事として受け入れ、何の後悔も持っていなかったからだ。
　それを有珠のように誇らしい、とは思えなかった青子だが、一瞬だけよぎった印象に間違いはなかったらしい。
　それと、もう一つ。
「でも一つだけはっきりしたわ。
　それじゃあ、不覚にも見惚れてたのは私ひとりじゃなかったってコトよね、有珠？」
　<悪戯|いたずら>の共犯の事実を求めるように、青子は楽しげに問いかける。
　一部始終、我関せずと無視していた少女に向かって。
　有珠は答えず、ただ視線を逸らしただけだった。
　それで満足いったのか、青子はくすりと<微笑|わら>って玄関へ歩きだす。
「じゃ、行こうか。まずはあの公園からでいいでしょ？
　今回の件は、あそこから全てが始まったわけだし」
　三咲町の公園。
　奇しくもそこは、敵の人形とも、草十郎とも関わりが始まった因縁の土地である。
　翌日、早朝。
　まだ多くの人々が眠りについている午前五時。
　去年あたりから二十四時間営業のコンビニエンスストアがぽつぽつと現れてはいるが、三咲町は古き良き八十年代前期の色が濃い。
　商店街で一番の早起きと言われる豆腐屋ですら、店開きは六時からだ。
　八十年代後半。
　バブル末期と言えど、地方都市の人々の生活はいまだ不夜城にはほど遠い。
　住宅地は静まりかえり、道を行く会社員の姿もなく、自動車の音すらしない。
　太陽は地平線に半身を残している。
　町が目覚めるには、あと半刻ばかりの眠りが必要だった。
　そんな中、久遠寺邸に足を踏み入れる影がひとつ。
　冬休みという事で深夜割り当てのアルバイトに精を出し、たったいま帰ってきた草十郎である。
　それぞれ自室で眠っているであろう青子と有珠を起こさないように、草十郎は静かに居間へ移動する。
　話は変わるが、久遠寺邸には幾つかのルールがある。
　その一つがノーモア日本茶。
　この、まったく新しい法案が可決されたのは三日前。
　ある夕食後、台所でのほほんとほうじ茶を飲んでいた草十郎を見て、久遠寺有珠が「あ」と発音した事に由来する。
「あ」
「あ？」
　思えば、突然の出来事だった。
　背後からの声は有珠の一言であり、
　彼女は頭痛を堪えるような仕草をした後、青子を呼びつけて、以後、この洋館における番茶・梅昆布茶の錬成を禁止させた。
　青子の交渉で、夏場の麦茶だけはＯＫ、と<言|げん>をとれたのは奇跡と言えるだろう。
“だいたい、イギリスさんだって初めはグリーンティーが主流だったじゃない”
　といった青子の反撃が、痛いところをついた結果である。
　ちなみに、「あ」は「ありえない」の「あ」ではないか、と蒼崎青子は睨んでいる。
「そこまで嫌がらなくてもなあ……お茶はなんだって美味しいのに」
　ひとり呟きながら、温かい緑茶を飲む草十郎。
　紅茶用のカップにほうじ茶を注いだ事が有珠のわななきの最たる理由であった事を、彼は知らない。
　また彼の名誉のために付け加えると、使ったティーカップは有珠が草十郎に使ってもよい、と許可したものである。
　ともあれ、今は彼だけの幸福空間だ。
　内緒で持ちこんだ日本茶セット一式を使って、草十郎は労働後の<一時|ひととき>にひたりきる。
　特別、本を読むワケでも、テレビをつけるワケでもなく、窓越しの庭……というより密林……を、<慈|いつく>しみの目で眺める。
　アレはなんとかしたいなー、などと思いつつ、まったりし続ける草十郎だった。
　彼がぼんやりすること、約半刻。
　疲れがじゅうぶんにとれた頃、ホールから物音が聞こえてきた。
　それが青子と有珠の話し声と知って、草十郎は神速で湯呑みや急須、お茶の葉をキッチンに隠す。
　台所には使われていない棚が山ほどあるので<隠蔽|いんぺい>自体は簡単だ。むしろ、青子たちの食事事情を如実に語る台所の在り方に困る草十郎である。
「あら。早いのね、草十郎」
　青子は白いダウンジャケットを脱ぎながら声をかけた。
　彼女の横では、有珠が無言で黒いコートを脱いでいる。
「いや、いま帰ってきたんだ。<天城浜|あまぎはま>の食品工場に深夜のパートで入ることになって、その帰り」
　台所から顔をだしながら、さも今からお湯を沸かしますよー、というジェスチャーをする草十郎。
　それに有珠は<微|かす>かに首を傾げた。
　……別に、草十郎のジェスチャーが彼女の笑いのツボに入った訳ではない。
「天城浜から……？」
　有珠はちらりと居間の時計を見て、いっそう表情を曇らせる。
「どうしたの、有珠？」
　いち早くソファーに腰を下ろした青子が、立ったままの有珠に問いかけた。
「別に」
　素っ気なく答えて、有珠もソファーに腰を下ろす。
「草十郎ー。砂糖は一杯だけだからねー」
　青子はごく当然とばかりに、台所に声を投げた。
　返事はないが、あっちはそれで了解しているらしい。
　有珠には<与|あずか>り知れない、二晩にわたる一夜漬けの成果だった。
「有珠は？」
「……わたしは、ミルクだけでいいけど」
　仕方なく答える有珠に、
「了解、ミルクティーだね」
　と、なぜか律儀に返ってくる声があった。
「ま、いいけど。いちいちつっこんでたらキリがないし。
　それより珍しいじゃない。有珠がティーバッグのお茶飲むなんて」
「……今日は疲れたから、たまには」
　人の厚意を受け取ろう、と思ったらしい。
「ふーん。ま、いいか。それより草十郎ー。
　アンタ、さっきおかしなこと言わなかった？」
「？　別に言ってないぞ、そんな事」
「そう？　ならいいんだけど」
　居間と台所、実に四メートルもの距離で会話をするふたり。
　それに、ぽつりと有珠は付け足した。
「……静希君がおかしな事を言わない日はないと思うわ、わたし」
　あんまりな有珠の声は、幸運なことに、台所にいる草十郎には聞こえなかった。
「そりゃあそうだけど、いま、ちょっと変だったでしょ？
　……いや、何が引っかかったのかまでは分からないんだけどさ」
「そうね。会話自体は普通だったけれど、内容を考えてみると、どこかおかしいわね」
　要領のつかめない会話に、ますます不機嫌さをます青子。
　そこへ、三人分のティーカップをトレイに載せて草十郎が現れた。
「なにを話してるんだ。
　単に、新しいアルバイトを始めただけだろ」
　音をたてず、黒テーブルにカップを置く草十郎。
　ウェイターのアルバイトもやっているらしく、その折り目正しさは有珠をして文句のつけどころがない。
「…………」
　お礼までは口にしないが、かすかに<顎|あご>を引いて感謝の意を示す有珠。
　一方、
「天城浜だっけ？　あそこってスタジアムがある所でしょ。ツアーの会場になるから時々行くけど」
　全校生徒の見本になるべき生徒会長は、あろう事かロックバンドの話に夢中だった。
　青子は密かなバンド好きで、中学の頃は暇さえあれば遠出して小さなライブハウスに入り浸っていたらしい。
　もちろん、草十郎にはよく分からない世界である。
「それよりまた新しいバイトはじめたんだ。そんなに働いてどうする気なのよ、草十郎は」
「……ああ、よく聞いてくれたね。
　本人の名誉のために名前は伏せるけど、誰かさんと誰かさんが俺の少ない収入を無慈悲に奪っていくから、働く先を増やしたんだ」
　静希草十郎、せいいっぱいの抵抗だった。
　そんな草十郎の独白をまったく聞いていないように、青子はティーカップを口に運ぶ。
「それは大変ね」
　ことり、と静かにカップを置く有珠。
　……彼女にいたっては、本気で分かっていない節もある。
　そんな有珠と草十郎を見て、青子はくっくっと笑いを堪えていた。
「……はあ。言った自分が未熟だった」
　がっくりと肩を落とし紅茶を一口飲んでみる。
　やっぱり、彼にはいまいち不鮮明な味わいだ。
「ま、アルバイトが多いって分かってくれるだけでいいか。
　そういったワケだから、冬休み中は夜も留守にする。例の薬はアルバイト先で飲むしかないんだけど―――」
「ああ、それなら心配いらないわ。もうあれは止めたから。
　いちいち作るのも面倒だし、もっと静希クンに似合うのを見付けてきたの」
　ニマア、と性悪<極|きわ>まりない笑み。
　青子はジャケットのポケットに手をいれて、愛らしい紙袋を取り出した。
　直径二十センチもない円形の何かを、プレゼント用の袋で包んでいる。
「はい、これは入居祝い。これからはそれを付けておくのよ、草十郎」
　紙袋を開ける草十郎。
　出てきたのは白色のベルトだった。
　ズボンの腰に付けるものではない。
　嘘偽りなく、極めて端的に説明すると、首輪以外の何物でもないのだった。
「青子……」
　さすがにどうかと思ったのか、有珠は顔を曇らせる。
　友人の人の悪さに呆れたのか、草十郎への同情かは不明である。
「どう、気に入った？」
　一方、青子は明らかに正気ではない。
　もとい、本気ではない。
　これは冗談半分の<悪戯|いたずら>で、嫌がる草十郎の反応を期待しているだけなのは見え見えだ。
　―――が。
　贈られた本人である草十郎は、わりかし真剣に首輪を見つめているのだった。
「うん。意味は掴みかねるけど、こういうものを人から貰うのは、これが初めてだ」
　……幸せな思い出にひたるような呟き。
　それを横で見ながら、何か間違っていると有珠は目を細める。
「けど、これは何に使うんだ？」
「簡単よ。<緊箍児|きんこじ>と同じで、飼い犬が主人に逆らうと首を絞めるの。あっちは頭につけてたけど、それよりは首のがマシでしょう？」
　む、とようやく青子の意地悪さに気が付く草十郎。
　その緊箍児とやらは一体どんな経緯で、どんな悪党が使用するに至ったのか、ぜひ聞かせてほしいところである。
「……つまり、秘密をばらしたり逆らったりしたら首が絞まる、と。
　―――やっぱり熱でもあるんじゃないのか、蒼崎は」
「あら、首輪はいや？　せっかく草十郎に似合いそうな物を見付けたのに」
　からかいの入った微笑み。
　しかし。青子本人、半ば冗談のつもりで用意したソレを、
「……それもそうか。毎日毒を飲むよりはましだし、このベルト自体、いいものだし。
　うん、気に入った。ありがとう蒼崎」
　お世辞ではなく、彼は本気でそう言った。
　さすがに青子も意表をつかれたのか、ほんと？　と小声で聞き返す。
「人の厚意はどんなものだって嬉しいよ。
　それに、それが蒼崎なら尚更だ」
　言って、草十郎は<首輪|ベルト>を首に巻いた。
　首に巻いた布を覆うように。
「こんな感じかな。きついけど、そのうち慣れるだろ」
　言いつつ、居心地が悪そうにベルトをずらす。
　その仕草はどことなく倒錯的で、言い出した青子本人も赤面してしまった。
　昨日見た傷跡が、鮮明に思い出されたせいかもしれない。
「よし。留め方はこれでいいのか」
「――――――」
　確認のために近寄る草十郎に、うっ、と罪悪感から後退する青子。
「？　黙ってちゃ分からないのに。
　いいよ、有珠に聞くから」
　青子から有珠に視線を移す草十郎。
　有珠はしみじみと首輪をした草十郎を見つめて、
「―――ロックね。青子、趣味に走りすぎよ」
　同居人へのとどめを口にした。
「や、
やかましい、そんなんじゃないっ！
　もういい、とにかくそういう事よ！　これからはその首輪が薬の代わりよ、せいぜい秘密を守ることね！」
　なぜか語尾を強調して、青子はドスドスと廊下に向かう。
「それと、これからお昼まで仮眠をとるけど、くだらないコトで起こしたら殺すから！」
　壁よ砕けよとばかりに扉を閉め、青子は居間を後にした。
　そんな青子を、草十郎は不思議そうに見送っている。
「……なんで蒼崎は、いつもいきなり怒るんだろう」
　有珠が目前にいる事を忘れて、つい呟く草十郎。
「静希君には悪意が通じないからでしょう。
　気にする必要はないわ」
「悪意って、今のが？」
　聞き返されて、有珠はハッと顔を上げた。
　その目は、今の自分の行為に驚いたものだ。
「……なんでもないから、気にしないで」
　簡潔に答えて、いつもの無表情に戻る有珠。
　青子の気持ちなど、いちいち説明するまでもない。
　青子は草十郎の困る顔が見たくて首輪を買ってきたのに、その悪戯心が素直に喜ばれ、自らの良心に背中をくすぐられただけなのだ。
　草十郎は青子に怒られたと勘違いしているが、今のは青子の自爆にすぎない。
　その微笑ましい行き違いを、有珠は草十郎に語らない。
　面倒だからではなく―――そもそも『意味のない会話をする』思考そのものがない。
　久遠寺有珠はそういう風に育てられている。
「……静希君は、これからどうするの？」
　唐突に、有珠はそんな事を問いただした。
　草十郎はしばし考えこんで、
「夕方までゆっくりするよ。ここのところ忙しすぎた。
　せっかくだからテレビも見ていたいし、お昼には蒼崎を起こさないといけないだろ？」
「……そう。なら静かにしていて」
　有珠は小さくため息をついて立ち上がった。
　静かにしていて。
　その言葉が何を示していたのか、草十郎は数分後に実感する事になる。
　窓からの日射しが明るい。
　そろそろテレビのお茶の間番組にエンジンがかかってくる午前九時。
　草十郎はソファーに座って、外の様子を眺めていた。
　隣室のサンルームから見える中庭の荒廃ぶりは、とても一言では表せない。
　あるがままの自然は<尊|とうと>いが、人の手によって整頓された自然にも理解のある草十郎である。
“……アレは、近いうちになんとかせねばなるまい”
　などと、こぢんまりとした野望に燃えながら、教科書のページをまた一枚めくる。
　テーブルには数学のテキストと青子印のノート。
　一見して休日も予習を怠らない優等生……ではあるが、その実、これは妥協の結果である。
　草十郎が第一目的とした朝のテレビ観賞は、ある理由から断念されてしまったからだ。
　理由は言うまでもない。
　こうして、今も草十郎の正面で読書に没頭する、久遠寺有珠に気を遣っての事だ。
　てっきり自室に引きこもると思われていた彼女は、古びた本を持ち出して読書を始めてしまった。
　静かにしていて、とはこういう事で、もはや無遠慮にテレビをつける事は難しい。
“……とりあえず、しばらくテレビは控えよう”
　そんな結論に達し、それじゃあ、と草十郎は赤点の補習課題に手を出したのだ。
　なぜか居間で。
ここに留まる理由もなかったが、自室に戻る理由も、同じぐらいなかったらしい。
　かくて、彼は有珠がいるにも拘わらず、<暢気|のんき>に<教科書|テキスト>に蛍光ペンなどを引いていたりする。
　草十郎にしてみれば屋根裏の自室も、有珠のいる居間もそう変わりはない。
　波乱の予兆さえなければ人食い虎とでも同居する―――
　それが静希草十郎の、最大にして最悪の長所だった。
　気が付けば、時計の針が十一時を指していた。
　二時間近くかけても、数学の課題は半分も終わらない。
　この程度で音をあげる自分の根性の無さに、草十郎は消沈する。
『……それにくらべて、蒼崎は頑張ってる』
　ぽん、とノートの上を転がっていくシャープペン。
　試験が終わってからこっち、青子たちが何やら活動している事は知っている。
　それで彼女がほとんど眠っていない事も、
　試験中、自分を無視していればもっと楽になっていたであろう事も、分かっていた。
　今日の仮眠だって、青子にとっては何日かぶりのまともな睡眠だろう。
　疲労はとうにピークの筈だ。なのに、そんな素振りも見せないで青子はきびきびと歩いている。
　弱音を吐かない、のではなく。
　弱音そのものが浮かんでいない、前向きで強い<信念|こころ>。
　彼女が時に理不尽として映るのは、そのまっすぐさ故だろう。
　それを言うなら目前の有珠だって同じかもしれない。
　目的に向かってひた走る彼女たちを見ていると、漠然と自分の中途半端さを考えてしまう。
　今までは新生活に慣れようと必死だったけれど、もし慣れてしまったのなら、その後はどうする気なのか、と。
　それを思うと、草十郎の心は暗い影に<覆|おお>われる。
　自分は彼女たちのような、明確な目的はもう見つからない気がするからだ。
　……山から下りた時から。
　彼の糸は断ち切れて、二度と戻ることはない。
　糸の切れた<凧|たこ>は<惰性|だせい>で流れていくだけだ。
　その先には何もないと分かっていても、地に足がついていないのでどうにもならない。
　いずれ空にまぎれて、地上から見えなくなる。
『……そうだな。便利な物はあふれているけど、本当に望むものは―――』
　町を歩くだけで山ほどある筈なのに、どうしても見つけ出せない。
　もう何度も繰り返した自問。
　自分に言い聞かせたところで気持ちは晴れるどころか、暗くなっていく一方だった。
　それとも、あるいは。
　己の半端さを嘆くほどには、いつか、希望らしきものが見つかると<縋|すが>っているのだろうか……？
「―――――はあ」
　自分の弱音に呆れて、草十郎はノートを閉じた。
　ふと視線をあげると、ブラウン管に自分の顔が映っている。
　昨日まではなかった首の飾りは、まだ居心地が悪そうに巻かれていた。
「――――――」
　なるほど。他人の強さを見て自分の弱さを嘆く馬鹿者には、首輪の一つも着けていなくては危なっかしい。
『まったくだ。悩むのはいっちょ前になってから』
　弱音を振り払って、背中を伸ばす。
　<鈍|にぶ>った体に活を入れて、草十郎は立ち上がった。
「よし。何か作るけど、有珠は？」
　ついでに。
今までやりたい放題していた草十郎だが、きちんと有珠を気にかけていたらしい。
　名前を呼ばれて、有珠はハッとあたりを見渡した。
　草十郎とは逆に、完全に草十郎を失念していたようだ。
「わ、わたし……？」
「ああ。有珠、朝から紅茶しか飲んでないだろ。どうせ作るなら、いっぱい作った方がお得なんだ」
　有珠の返事も待たず、草十郎はエプロンをしながら台所へと歩いていく。
　それを有珠は手だけで呼び止めるが、草十郎はもう台所に移動していた。
　……わざわざ台所まで足を運び、自分の分はいらない、というのも<躊躇|ためら>われる。
　というか、空腹なのは事実なのだ。
　草十郎の提案は、今の彼女の健康状態から見れば合理的である。
　有珠は空腹で、草十郎は昼食を作る。
　一緒に作るのなら、別々に昼食を用意する時間を短縮できる。
　感情論を除けば、有珠にはまったく反論の余地がない。
「――――――」
　喉まで出た声を飲みこんで、有珠は草十郎を黙認する事にした。
『……変な人』
　わずかに間をおいて、誰に聞かせるでもなく、控えめに呟きながら。
　とは言いつつも実のところ。
　今朝からこっち、久遠寺有珠はたいへん立腹していた。
　三咲市の支点をチェックして回り、始発の電車で陶川から帰ってくる時から、彼女はずっと、今日は居間で日が暮れるまで読書、文字がゲシュタルトるまで読書、と決めていたのである。
　そんな鉄の意志は、居間に余人がいたところで<覆|くつがえ>されるものではない。
　ましてや自分は館の主人なのだから、草十郎の為に自室に引きこもるなんてもっての外だ。
　……しかし。
そうは言いつつも、理由なく草十郎を追い出すのもなんだか間違っている。
　現状において、草十郎はたしかに“静かに”している。
　彼に問題はない。それでもひとりでいたいなら、有珠の方が自室に戻るべきなのである。
“……静かにして、じゃなくて、ひとりにさせて、と言うべきだった―――”
　そんなジレンマに陥りながら、少しだけ意地になって有珠は居間に残ったのだ。
　どうせ、草十郎の方が音をあげて屋根裏部屋に逃げこむだろうと予想して。
　結果、予想は大きく外れる事になった。
　彼は居間から退散しなかったし、
　不思議なことに、少女も草十郎の<存在|こと>が気にならなくなったからだ。
　彼は有珠を意識する事なく、また、無視しているわけでもなかった。
　お互い無言でいたのに、それで気まずいという事もない。
　ひとりでいるような解放感があるのに、誰かが<傍|そば>にいるという安心感がある。
　……言葉にすると、静希草十郎という人間はそんな感じだった。
　だからこそ、すぐ傍に他人がいたのに眠り続ける、なんて事が出来たのかも知れない。
　そんな有珠の内面も知らず、草十郎は台所で何やら調理を続けている。
　居間からは見えないけれど、有珠には気楽に調理している後ろ姿が容易に想像できた。
「……変な人ね、ほんとうに」
　二度目の所感を漏らして、有珠は読書を再開した。
　居間から差しこむ光はじき正午である事を示している。
　冬の曇った天気にしては、その日射しはどこか温かそうだった。
　ちょうど正午にさしかかろうとした時、草十郎は二人分の食器を持って居間へ戻ってきた。
　大きなクリーム色のお皿には、なんとも言えない色合いの料理が盛られている。
「これ、は―――」
　期待など、してはいなかった。
　期待などしてはいなかったので、粗末なものがきたらそれを理由に断ろう―――
　なんて<覚悟|かくご><装填|そうてん>済みの有珠をして、それは、絶句させるに足る魔料理だった。
「これ、は、なに？」
　おそるおそる口にする有珠。
「ん？　なにって、焼きうどんになんか掛けてみた」
　青子がいたら鉄拳制裁ものの発言である。
　草十郎はなに恥じらう事なく、どん、どん、とテーブルに大皿を置いていく。
　ごうごうと立ち上る、<恐山|おそれざん>の憤怒のごとき湯気。
　どろどろとドロドロする、エトナ火山の<溶岩|マグマ>のごときなんか。
　その下に身を潜める、ごんぶとな無数の<触手|うどん>たち。
　……もはや語るまでもない。
　これは質より量を重視する、一人暮らしの男子学生にのみ伝わる味わい。
　必要なものはレシピとやる気と材料だけ。
　喩えるなら、大量の焼きうどんに、大量のあんかけを組み合わせた芸術的なまでの芸術性のなさ。
　そう、これこそは紛うことなき<男|おとこ>料理。
　またの名をまかないとも言う。
「……………………」
　一時間も何をやっていたかと思えば、せっせとあんかけを作っていたらしい。
　焼きうどんだけで十分なのに、もう<一手間|ひとてま>加えたのは草十郎なりに真心だろう。
　草十郎は小さくおじぎをしてから箸を手にとった。
　有珠にはフォークが用意されている。
「……………………」
　フォークを手にとって、有珠はあんかけに半分埋まっている麺をつついてみる。
　毒見にしか見えない有珠の様子を気にした風もなく、草十郎は行儀よく食べはじめていた。
「……………………」
　有珠的には挑戦と映ったのか、むっと眉をひそめながら、大雑把すぎる料理を口に運ぶ。
　……形容し辛い味ではあるが、食べられないほど不味くはない。あえて批評するのなら、わりとクセになる味、というところだった。
「ひとつ、聞きたいんだけど」
　焼きうどんを食べるのを中断して、草十郎は有珠に語りかけた。
「実際の話。魔術師の話はともかくとして、蒼崎はまだ誰にも手をだしてないんじゃないか？」
　唐突な問いに、有珠は静かに顔を上げた。
　今まで男料理の観察にうつむいていた有珠の視線が、まっすぐに草十郎と向き合う。
「……おかしな事を訊くのね、静希君は」
「有珠には悪いけど、これは蒼崎本人には訊きようのない事だから。言いたくなければ答えないでくれ」
　有珠からの返答はない。
　それを残念に思う事もなく、草十郎は食事を再開した。
　つるつると麺を食べていく草十郎を、有珠は何の感情もなく眺めている。
　少女は何度か<逡巡|しゅんじゅん>した後、
「……静希君の言う通り、青子はまだ人を殺した事はないわ。
その行為自体は、何回かこなしてはいるけれど」
　途切れがちに有珠は言う。
　それに、草十郎はまた困ったように顔をしかめた。
　彼は会話の内容にではなく、有珠に対してすまなそうに顔を曇らせている。
　言いたくなければ、答えなくてよかったのに、と。
　そんな草十郎の顔に動じず、有珠は淡々と続けていく。
「静希君が見た公園での出来事が、青子にとって初めての殺人行為よ。あいにく相手は人形だったけど」
　静かに頷く草十郎。
　その仕草に、有珠は不審そうに目を細めた。
「まるで、はじめから分かっていた素振りね」
「そうじゃな……いや、そうなのかな。
　たまにその手の台詞を言うけど、何か違う気がしたんだ。……だからたぶん、蒼崎はまだ人殺しというのを体験していないんじゃないかって。
　でもまあ、そんな事よりもっと確かなのは」
「静希君が、いま生きているという事ね」
　ご名答、とばかりに草十郎は苦笑した。
　……そう。
　あの夜、もし彼女がそういった<手応|てごた>えを知っていたのなら、あんな回りくどい事にはならなかった。
　草十郎は青子の顔を見る事なく殺されていただろう。
　幸か不幸か、あれだけの非情さと行動力を持っていながら、蒼崎青子はいまだ<そ|・><の|・><感|・><覚|・>を知らないのだ。
　ホッと肩を下ろす草十郎。
　今まで苦々しかった表情も、いつも通りのぼんやりとしたものに戻る。
　そこへ、
「―――でも、そんな事は関係ないわ。
　あの子はそのあたりが異常だから。行為は理性に、経験は知識でたやすく補ってしまう。
　……そうね。青子はその気になれば、迷う事なく<他人|ひと>の命に手をだせる。静希君ふうに言うのなら、だけど」
　それだけ言って、有珠はまたフォークで麺をコネコネする。
　……もしかして楽しくてやっているのだろうか、などと思いながら、草十郎は有珠の言葉を<反芻|はんすう>していた。
　道徳を犯す自分を容認できる理性と、
　実経験から得られる確信を超える知性。
　そんな理屈だけの絵空事を実現できるように、青子は育てられてきたのだろうか。
　それなら、確かに―――彼女たちが自分と違うのは、納得のいく事ではあるが。
「……すまない。こんなことを訊いたのは、蒼崎には内緒にしておいてくれないか？」
　反省するような、思い詰めた顔。
　有珠の表情に変化はないが、彼女も初めからそのつもりだったようだ。
「ありがとう。なんだか、有珠には内緒話ばかりたまっていくね」
　草十郎は食事を再開する。
　まだ有珠は一口しか食べていないのに、彼はそれでたいらげてしまっていた。
「そういえば蒼崎にも訊いたんだけど、有珠と蒼崎はいつもああなのか？」
「――――――」
　先ほどまでの会話など何処へやら、草十郎はまったく違う話をはじめた。
　どこかドライな青子と有珠の関係。
　青子はそれが普通だと語っていたが、有珠からならまた別の見解があるかもしれない。
「……会話が少ない事を言っているのなら、そうなるわ。
　けど、別に不便じゃないから」
　簡潔に答えて、有珠はフォークで麺をくるくると巻いている。
　巻いてはいるけど、食べるそぶりはまったくなかった。
「不便じゃないって……そういうの、仲がいいって言わないんじゃないか？」
「……？　わたしと青子の仲が良くないと、静希君は困るの？」
　不思議そうに言う有珠に、草十郎は言葉を呑んでしまった。
　実はかなり困るのだけど、そんな風に素直に聞かれると答えにも困る。
「……いや、なんかこっちの考え方が悪かったみたいだ。
　もうその話題には触れない事にしたから忘れてくれ。
　それより、有珠」
　今までのどんな時よりも真剣な、<射|い><貫|ぬ>くような視線で草十郎は有珠を見る。
　彼には似合わない、強い視線を前にして有珠は少し体を引いてしまう。
　かすかな緊張が有珠の頬を紅潮させる。
　他人にここまで強く見つめられる事なんて、青子以外なかったからだ。
　有珠の緊張を知ってか知らずか、草十郎はしばらく黙ってから、ゆっくりと、偽りのない気持ちを口にした。
「それ、食べないなら欲しいんだけど」
「……………………」
　どこか気まずい沈黙が流れる。
「悪いけど。これ、わたしのだから」
　作ったのは静希君だけど、とにかくそういうコトだから、と有珠は切り捨てる。
　多少、自分でもよく分からない怒気をこめて。
「そうだね。少し意地汚かった」
　すとん、とソファーに戻る草十郎。
　その仕草があまりにも哀れだったからか。
「……その、材料はもう残ってないの？」
　つい口にして、あわてて有珠は口を<塞|ふさ>いだ。
　そんな事を訊くなんて、まったく彼女らしくない。
「残ってないよ。蒼崎の分も作っちゃったから」
　まだ未練があるのか、有珠のお皿を見ながら草十郎は答える。
　その言葉も有珠的に無視できなかったのか、よせばいいのに、彼女は再度声をかけてしまった。
「……青子なら、眠っているけど」
「いや、もうすぐ起こすから。起きた後で作らされるより、一緒に作っておいた方が楽だしね。
　……と、もうすぐ一時か。ちょうどいい、行って起こしてくるよ」
「青子は、起こしたら殺すって言ってたけど」
　なんでそんな事をするのか疑問、と有珠は首を傾げる。
　まったくだ、と同意しながらも草十郎は歩きだす。
「でもさ。いま起こしておかないと、やっぱり後で殺される運命にあると思うんだ」
　悪態なのに、親愛に満ちた言葉。
　同情に値する言葉を残して、草十郎は青子の部屋へと向かっていった。
　それを無言で見送ってから、有珠はあんかけ焼きうどんを一口食べてみる。
　ちらりと廊下への扉に目をやって、誰も来そうにない事を確認すると、さらに一口。
　そんな事を何回も繰り返すうちにクリーム色のお皿は空になって、二階から青子の怒鳴り声が聞こえた気がした。
　それに少しだけ同情して、厳かな仕草で、有珠は自分と草十郎の食器を片付けはじめた。
　そんな気はなかったけれど、これぐらいはしてあげないといけない、と思ったらしい。
　……不覚にも。
　はじめて食べた彼の手料理は、紅茶の不出来な淹れ方を忘れさせるほどには、まあ、悪くはない味だったのだから。
「失礼します。２－Ｄの<久万梨|くまり>です。
　体育館倉庫の鍵、職員室に返してきました」
　<久万梨|くまり><金鹿|こじか>が第二生徒会室に入ると、室内にいるのは蒼崎青子だけだった。
「おつかれ。
　もうちょっとでバイト終わるから、そこ座ってて」
　青子は長テーブルに陣取って、大量の教科書に囲まれながら、スラスラとリズムよくボールペンを走らせていた。
　机上にあるのは学校指定のノートではなく、こじゃれたレポート用紙である。
「なにしてんの蒼崎。課題？　それとも補習？
　どっちにしても真面目なこと。冬休み、始まったばかりなのに。そりゃあ、こんなところで特別清掃なんかに付き合わされているけどさ」
「んー、これは別件。知り合いの大学生から流してもらった代筆のバイト。
何年も前に提出されたレポートを丸写しにして、卒論クリアしようって話」
「チッ、写本ならぬ写レポートかよ。結構な量だなオイ。
　それ、どこの大学生？　まさか<渠裸|みぞら>大じゃないでしょうね」
　不快さを隠しもせず、久万梨は青子の傍らにあるレポートをめくっていく。
　やや茶色に変色したレポート用紙は、少なく見積もっても十年は前の物だ。
「そのまさかよ。知り合いの大学生なんてミゾラ以外にいるかっていうの。
　安心なさい、クマの兄貴たちからの仕事じゃないから。そもそもアンタの兄貴軍団、今年も<留年|のこ>る気満々なんでしょ？」
「クマ言わないで。軍団もやめろ」
　久万梨の声は刺々しい。
　いつも不機嫌な青子が言える事ではないが、この女生徒も青子に負けず劣らずの愛想の無さである。
　平時は素っ気ない口調の久万梨は、本音がむき出しになると乱暴な口調になる。
　どうも父親<譲|ゆず>りの癖らしい。本人はその癖を改善しようと努めているが、小学生までの習慣は中々抜けない。
「けどこれ、どうなのよ。丸写しにしても古すぎて通らないんじゃない？」
「そこはそれ、腐っても鯛というか。
“技術的に古い部分はピックアップしてあるから、<教科書|テキスト>参考にして数字だけ変えておいて”だってさ」
「なにそれ、ホントにバカじゃないの？　そこまで分かってるなら自分でやればいいのに。で、いつからやってるの」
「今日の朝から。半日の稼ぎにしちゃあ悪くないわよ。
　レポート一冊分で一万円」
「ケッ、生徒会長が内職かよ。
　どうりで槻司に監督を任せたワケだ」
「はい。他言は無用でお願いします」
　爽やかな笑顔で返されて毒気を抜かれたのか、久万梨はぶすっとした顔のままパイプ椅子に腰を掛けた。
　生徒会室にはボールペンの音だけ。
　ふと見上げた空は青く高く、裏庭にはジャージ姿で野球をしている男子たちの姿があった。
　特別清掃も終わり、なし崩し的に遊び始めたらしい。
「この寒いのによくもまあ。
　―――って、アレ二年の男どもだ」
　十分な人数が集まらなかったのか、彼らは五人一チームで試合をしている。
　凡打、三振の多いグダグダな試合内容だが、当人たちはたいへん盛り上がっているようだ。
　聞こえてくる喚声は口汚いものばかりだが、罵声をあびせながらもみな笑っているあたり、ホントに男子はバカばっかりだ。
「あれ。<芳助|ほうすけ>と<静希|しずき>が一緒なのは分かるけど、<槻司|つきじ>も一緒じゃん。蒼崎、あいつら仲いいの？」
「はあ？　なんで<Ｃ|よ><組|そ>のクラスの集まりに顔だしてんのよ<鳶|ア><丸|イツ>。……まあ、裏山の清掃が終わってるなら文句はないけど」
「あ、投げた。槻司、ピッチャーできるんだ」
「基本、<鳶丸|アイツ>はなんでもできるからねー。
　本人さぼり症でめったに動かないけど、本気だせば何だってこなすのよ。唯一足りない才能があるとしたら、子供らしさってヤツでしょうね」
「ふーん。詳しいじゃない。
　……蒼崎、槻司と付き合ってるってホント？」
「アイツと付き合うぐらいならアンタと付き合うわ。
　顔の良い男は好きじゃないし。やっぱり男はシュワちゃんぐらいじゃないと」
「シュワ……誰それ？」
「グレートの方のコナンの主役やった人」
「へえ、アゴ割れてないとダメなんだ。蒼崎って面食いかと思ってたけど、ごっつい系が趣味なの？」
「……別にそういうワケじゃないけど。
　教訓よ、教訓。なよっとしたヤツとか、やけに口がうまいヤツとか、気軽な男はほんと信用ならないっていうか」
　青子はレポート用紙を、
　久万梨は校庭を眺めながら、とりとめのない会話をする。
　ふたりが知り合ったのは高校生になってからだが、根本的なところで気が合うらしく、今ではこうして<駄弁|だべ>りあう仲になっていた。
「蒼崎、冬休みはどうする？　予定、ある？」
「うーん、一回ぐらいは遊びに行きたいんだけど、ちょい忙しくて。年明けに時間つくるから、それまで待って。
　あ、Ｂ組の山瀬さんたち誘う？　たしか去年も冬休みに上京してたでしょ、彼女ら」
「あー、ありゃわたしたちと系統が違う。生粋のお嬢さまだからねぇ。蒼崎の趣味知ったらドン引きされるから、やめといた方がいい」
「あ、打たれた。
あ、<柵|さく>越えた。
あれってホームランってヤツだ。やるじゃん静希。槻司から一本とるなんて、運動神経<抜群|ばつぐん>ね」
「そりゃ山育ちだし、それぐらい取り柄がないと。
　来年の身体測定、鳶丸とトップ争うんじゃない？　山じゃ二時間歩きっぱなしとかザラだったそうだし。水泳部じゃなく陸上部に紹介すればよかった」
「ふーん。詳しいのね。もしかして付き合ってるのあっちとか。あ、いや、さすがにないかー」
　よどみのなかったボールペンの音が止まる。
　青子はごく自然な仕草で席を立ち、
小休止といわんばかりにお茶を淹れて、
何事もなかったように作業に戻った。
「冬休みの予定だけど。久万梨、何かリクエストある？」
「別に。見たい映画がたまってるだけ。<三咲|こっち>じゃ上映しない映画をハシゴしたい。蒼崎は？」
「私は新しい冬物とＣＤ買えればいいかな。デヴィッドボウイの。あ、その前にまずはＣＤプレーヤーか。そろそろ三万円きるはずなのよ、アレ」
「はあ。新しいもの好きよね、アンタ。ＣＤなんて高いだけで、騒がれてるのは今だけだってば。
　だいたい、音楽なんてレンタルしてカセットテープに落とせば５００円で済むじゃない。ベータデッキみたいにそのうち<廃|すた>れるって」
「そう？　私、ＣＤは定番になると思うけどな。過去になるのはカセットテープの方よ、きっと」
「それはない。絶対ない。賭けてもいい。だって、ＣＤって録音できないんでしょ？　そんなのにカセットテープが負けるはずない」
「クマは保守派だからなー。政権交代は何にだってあるでしょうに。
でもまあ、その賭け乗った。生徒会の歴史に書いておくからね。十年……いえ、五年後を楽しみにしていましょう」
「五年後か。いいね、ちょうど大学の終わりだ。蒼崎、東京の大学に行くんでしょ？　どこ志望してるのか教えてよ」
「実はまだ決めてないのよ。上京したいのは山々なんだけど」
「ありゃ意外。アンタのことだから、むこう三年分ぐらいスケジュール組んでると思ったのに」
　あはは、と青子は苦笑いで誤魔化す。
　生き方の方針は決まっているものの、将来の展望はいまいち考えていない青子だった。
　やると決めた事はやる性格のため、いちいちスケジュールを紙に起こす習慣がないせいもある。
「クマ、終わったら駅前のラーメン屋付き合ってよ。
　体力つかったから、なんかお腹減ってきた」
「……そこは、頭つかったから甘いもの食べたくなった、にしといた方が女らしいと思うけどね。
　いいよ。うちでいいならサービスしとくけど、よってく？」
「もっちろん！　持つべきものは女の友情！」
　冬休みを間近に控えた生徒会室。
　ふたりは他愛のない会話で放課後を消費していく。
　夜は魔術師として歩く青子も、昼間はいたってノーマルな学生だ。友人と話すときは年相応の無邪気さを隠しもしない。
　たとえ敵との戦いが本格化していようと、二足のわらじを履くと決めた以上、どちらも楽しむのが青子である。
「ところで蒼崎。さっきの賭け金はどうする？」
「そうね。私も鬼じゃないし、その時の貯金一割で手を打つわ。根こそぎ奪うのは勘弁してあげる」
　もっとも。
　この通り、根本的な意地の悪さは変わらないのだが。
「なんかゾワッときたな、今」
　くしゅん、と気の抜けたクシャミをして、被害者Ａはそう呟いた。
「なんだよ、風邪でもひいたかー静希？
　よし、んじゃこんなとこで野球やっててもしょうがねえし！　町にくりだすとしましょうか！」
　五人野球、四試合目。
　内野ゴロはキャッチされた時点でアウト、ホームランには余ったお汁粉缶をプレゼント、という特殊ルールを聞きつけて野次馬が集まりだし、リーグ戦が始まってから既に一時間。
　自分たちの試合がまだ先であるコトに痺れを切らした木乃美芳助は、早くも飽きはじめていた。
「おまえホント猿だったんだな。先立つものがねえから野球やろうぜって言いだしたのはテメエだろうが」
「えー。それはそれ、これはこれっしょ。
　だってＡ組の奴らとか集まってきたしさあ、オレ、あいつら嫌いだしさあ。なんかノリが合わないっていうか」
「安心しろ、<Ａ組|あっち>もテメエとは合わねえとよ。
　いい機会じゃねえか、気にくわないんなら試合で片づけてやれよ。こっちも本気でやってやるから」
　鳶丸は壁に向かってピッチングなどしながら木乃美をたしなめる。
　先ほどホームランを打たれてご立腹なのか、普段より当たりがきつい。
　ちなみに、彼もＡ組の生徒であり、集まってきたＡ組男子のキャプテンに収まっている。
「ちょっと待った、そりゃ誤解だぜ殿下。
　オレたち木乃美けっこう好きよ？
　バカなところとか、平気で女連中の品評会ひらくところとか、合コン企画するところとか。真似できねーよ、ホント」
　うんうん、と力強くうなずくＡ組男子一同。
「ざけんな、テメエらいつも美味しいところだけ持っていきやがって！
“カラオケ会ひらいてよー”“女の子と遊びたいよー”、
　なんて甘えてきやがって、なんで気が付いたらオレ一人だけで会計してたの？　一緒にテニス部のぞきに行ったのにどうしてオレだけ悪者なの？　もしかして利用されてるだけってそろそろ気が付いていいの？」
「やべ、まだ気付いてなかった！　本物だ！」
「ごめん、木乃美のおかげで僕にも彼女ができました！　彼女の口癖は“木乃美クンよりマシよ
”です！」
「があー！　テメエら本気でむかつく！
　青くせぇ学生生活おくってんじゃねえ！」
　木乃美はバットを振り回してＡ組男子を追い回し、Ａ組男子たちは陽気に逃げ回りながら木乃美に感謝する。
　基本、<罵|ののし>りあいなのに<和気|わき><藹々|あいあい>としているのは、木乃美芳助の人徳のなせる業だ。
「ははは。木乃美は人気者だなあ」
「ああ、バカなのが救いだな。あれで下手に<利口|りこう>だったら犯罪者になってるところだ。
　いや、その前に今度こそ蒼崎にしめられるか。あいつ、小ずるいチンピラには容赦ねえからな」
「そうなのか。―――ん？　今度こそ？」
　む、と考えこむ草十郎。
　今の言いぶりだと、木乃美に蒼崎青子に関して、なにやら前科があるようだ。
「木乃美は蒼崎に、その、ケソウ、してた事があるのか？」
「あん、ケソウ？　ああ、懸想か。
　あのバカにそんな風情があるかって。ちょいとな、蒼崎と木乃美には条件反射じみた事件があったんだよ。
　ありゃあ入学式の事だ。そうだよな、木乃美！」
　鳶丸に怒鳴られ、木乃美は足を止めて振り返る。
「おう、入学式な！　すげー<身体|からだ>してる女子がいたからさあ、つい声をかけたんだよな！」
“かーのじょ、どの<組|クラス>ぅ？”って。
　いや、でもまさか、手が出るとは思わなかった。
　オレ的には一センチ前で<寸止|すんど>めしようとしたんだけど、目測をあやまった。オレの視覚情報より、蒼崎の肉体のサイズがやや<勝|まさ>っていたというコトさね」
　はっはっは、と遠い目で空を見上げる木乃美芳助。
　草十郎は草十郎で、今の言葉だけで入学式に何が起きたのか、正確に把握したらしい。
「―――バカな。
なぜ命がある、木乃美」
「だろー？　オレのアゴ、垂直に跳ね上がったんだぜ!?
　平手とか拳とかそういうレベルじゃねえの、下からギャーンだぜギャーン！　周りにいたギャラリーいわく、“プールで縦に沈めたビート板が浮上するように蒼崎の靴が閃いた”らしい。
　…………あの、今だから言いますけど、オレ、あの後の記憶がすっぽりないのです」
「――――――」
　Ａ組男子を追い回すのも疲れたのか、木乃美はアゴをさすりながら戻ってきた。
「そんなコトより遊びにいこうぜー。
　殿下、金持ってるだろー。おごってくれよー」
「……ったく。まあ、映画なら考えない事もない。
　ちょうど見たい映画あんだよ。映画の内容より、見終わった後に文句言い合う方が楽しい部類のＢ級でな。
　犠牲者が必要なんで、この際テメエでもいいぞ」
「やだー、映画とかつまんねえよ！　大の男がさあ、二時間も同じところ座ってられねえって！
　そんなんだったらゲーセンか、コンビニの駐車場で駄菓子食ってる方が楽しいって！」
「……おまえ、それ今の状況と何が違うんだ？」
「いいんだよ、外で<駄弁|だべ>ってれば楽しいんだって！
　あ、それともバンドでもやるか。いまＵＫロックが熱い。バイト先の先輩にパンクロックなら誰でもできるときいた」
「ああそうかよ。ファッションにならねえようにな」
　冬休みの裏庭。
　のんびりとした労働後のひとときを、木乃美と鳶丸はどうでもいい話題で消費していく。
「じゃあナンパ。駅前でナンパしようぜ！　殿下がいれば年上のお姉さんも釣れるし。
そうだ。お金がないなら、レディたちにおごってもらえばいいんじゃない？」
「その歳でヒモか。テメエの人生設計、明るすぎて頭痛がするぜ」
「うん、オレ将来の展望だけはできてるからね！
　なあ静希、おまえからも言ってやれよー。ナンパに行こうって、女の子たちと楽しく騒ごうって！
　殿下は立ってるだけでいいし、静希だって年上のお姉さんから見たら弟属性っていうの？
　うまくいけば、こう―――オレの時みたいに、一時間後にはひと冬の、アヴァン、チュゥゥゥル」
　木乃美の両手が、彼の腕からは独立した一つの触手生命のように活動する。わきわきと。
　かつて体験した黄金時間の残像が、彼の脳髄を侵しているらしい。
　それはともかく、
「木乃美。その時、なんて言ったんだ？」
「へ？　ああ、そん時の決め台詞ね。
“お姉さんキレイっすね、オレ、そこのビルのオーナーの息子なんすけどちょっと遊んでいきません？”って。
　嘘だってバレたら逃げられたけどな！」
「そうじゃなくて、入学式」
「ああそっちか。
　えーと、蒼崎の首から下の部分に向かって、
“うはっ、おまえ胸でかくねー？
”」
　だったかなぁあははは！　などと言いながら、<蛮勇|バカ>・木乃美芳助は頭を<欠|か>いている。
もとい、<掻|か>いている。
　かつての思い出に鼓舞されたのか、木乃美はひたすら陽気だ。
　一方、草十郎は苦虫をかみつぶしたかのような、重い沈黙に包まれている。
「うん？　どうした静希？
　あ、やっぱりナンパとか興味ないか？」
「あったりめえだ。テメエみたいな色ボケと草十郎を一緒にするな」
「いや。興味はある。
　可愛い女の子は可愛いと思うし、たまに薄着なところに出くわすと目のやり場に困るだろ。ああいう時、自分が男だって事を実感するよな」
　せいてん　の　へきれき　だった。
　部屋に飾ってあった愛らしいテディベアが、口をあけたら中の人がフィリップ・マーロゥぐらいの衝撃だった。
「―――は！？
　そ、そりゃそうだよな！　すまん、見くびっていた。つまり静希も、オレたちの同士ってコトでいいんだな？」
「同士？」
「そうだ。たとえばこう―――夏場の女子のうなじにひかる汗とか、テニス部の女子の肩からワキにかけての清涼感とか、ぶっちゃけ水泳部の競泳水着の後ろ姿だよ！」
「？？」
　はてな？　と目をしばたたかせる草十郎。
　木乃美の説明がいまいち実感できていない。
「いや、だから普段は同い年のガキにしか見えない女どもでも、たまに見せる無防備な仕草とか、ぐっとくるよな？」
「うん。無防備なのは、ちょっと考えてほしい」
　無防備な誰かにか、
　それとも、それに気を取られてしまう自分に対してか、草十郎は居づらそうに顔を曇らせた。
「いいんだって、それでいいんだって！　なぜなら、高校生男子の六割は性欲で出来ていますからね！
　よし、そうと決まればさっそくナンパに行こうぜ！　面子が変われば<釣果|ちょうか>も変わるってもんだ！」
　何が嬉しいのか、木乃美は草十郎の肩を抱いて、共に駅前方面へと歩きだす。
「ちょっと待て。あまりのコトに絶句しちまったが、テメエは根本的に間違ってる。
　草十郎。そもそもナンパって言葉がなんなのか、知ってるか？」
「？？」
【軟派】
　①軟弱な意見の党派。「―議員」
　②文芸上エロチシズムを主とするもの。「江戸―」
　③社会面や文学における艶物の担当。「―記者」
　④軟弱な風潮に同調する人々。
　⑤転じて、女性などを誘惑すること。硬派
「…………
二番か？」
　論外である。
　いずれ死語になる言葉ではあるが、８０年代の高校生にとってナンパとは十中八九、五番に該当する。
「ほら見ろ。テメエとは興味の度合いが違うんだよ。
　<女|おんな>引っかけに行くなら一人で行け。ああ、あと三咲の駅前はやめとけよ、うちの評判が悪くなるから。ナンパなら隣町でやりやがれ」
　鳶丸はシッシッと手を振って悪い虫を追い払う。
　ちぇっ、と舌打ちして木乃美は草十郎から肩を離した。
「くそ面白くねぇ。あいよ、大人しく野球やってますよ。
　いつのまにかオレたちの番が回ってきたみたいだし？」
　悪態をつきながら木乃美はマウンドに向かう。
　それを草十郎は名残惜しそうに見送っている。
「おい。まさか、本気でナンパに行きたかったのか？」
「？　いや、ナンパはよく分からないけど、町には用があったんだ。ちょっと欲しいものがあって……
　そうだ鳶丸。生徒会室にあるあの白いヤツ、どこにいけば買えるか知ってるか？」
「？」
　草十郎は両手をいっぱいに広げて、奇妙なジェスチャーをした。
　一時間後、駅前デパート。
　草十郎が欲しがっていたものが何であるか知った後でも、鳶丸は首をかしげていた。
「―――しかし、なんだってこんなものを？」
　有珠の用意した夕飯があまりにも素晴らしかったからなのか。
　久遠寺邸の夜は珍しく、三者三様に上機嫌なくつろぎ空間と化していた。
「七回？　有珠の実家じゃ一日に七回も食事を<摂|と>るのか？
　……いったい、どうやって？」
　三つ目のソファー……屋敷の地下室から実力でゲットした記念品……に座りながら、草十郎はサンルームの有珠に話しかける。
「食事を摂っているわけじゃないわ。ティータイムは一日七回行うのが理想というだけ。
　寝起きのアーリー、朝食のブレックファースト、午前のイレブンジズ、午後のミィディティーブレイク、午後の社交界アフタヌーン、夜会のハイティー、ディナー後のアフターディナー。
　この中で食事に該当するのはハイティーだけよ。田舎での話だけれど」
　有珠はサンルームでひとり、紅茶を<愉|たの>しんでいる。
　口にしているのはロイヤルブレンドティー。
　ダージリン、セイロン、アッサムの<茶葉|オレンジペコー>を<配合|ブレンド>した逸品だ。
　お茶請けには砂糖をまぶした苺を完備。
　もう完全に自分だけの世界を形成している。
「つまり、一日中お茶を飲んでいるのか？」
「そうね。そう暮らせるのなら、理想的ね」
　草十郎のボケ倒しも通用しない。
　有珠は細い指でじかに苺を摘んで、口づけるように舌に運んだ。
　その満足げな横顔に見惚れそうになって、草十郎はぶんぶんと頭を振る。
　昼間の話が尾を引いているのか、同居人たちが垣間見せる“異性らしさ”に、やや過敏になっているようだ。
「でもその口ぶりだと、有珠は七回できてないんだ」
「三回が限度よ。相方が未熟だから、やらなくちゃいけない事が増えてしまって」
「相方」
　草十郎は真横に視線を移す。
　そこには、
「なによ、一日三回も開いてれば上出来じゃない。
　うちの生徒会なんて黙ってお茶飲んでるだけよ？　いちいち鍋からお湯沸かして、ポット使って、たっぷり蒸らすなんて、三時のおやつと夕食後だけで十分でしょう。
　有珠は手間をかけすぎ。私、贅沢は好きだけど、贅沢に慣れるのはご免だから」
　有珠に反論しつつも、これまた上機嫌な青子がいる。
「贅沢なのは青子たちの方よ。日本の水道水はこんなにも美味しいのに。どうして貴方たちは、この<軟水|おうごん>の価値に気付かないのかしら？」
「一日七回もお茶会開く国民性じゃないからでしょ。
　気をつけなさいね草十郎。美味しい紅茶を淹れようとしてペットボトルの水なんて買ってきたら、有珠に一時間近くお説教されるから。知識も心構えもなってない、って」
　水が美味しければ紅茶も美味しくなるはずだ。
　久遠寺邸に引っ越してすぐの頃、青子はそう考えてペットボトルの自然水を買ってきた。
　これでどうよ、と自信満々の青子だったが、結果は同居人とのはじめての“人間らしい”口論だった。
　魔術以外のコトであんなに<罵|ののし>りあい、終わった時は二人とも疲れきって、
『……蒼崎さん。夕食を作る気力、残ってる？』
『……パス。主義に反するけど、<店屋物|てんやもの>を頼んでみよう』
　これまたはじめて、蕎麦屋に電話で注文する経験をした。
　以来、二人の<自堕落|じだらく>っぷりは加速の<一途|いっと>を辿ったのである。
「いやー、あの後は悔しくってお茶について調べまくったもんだわ。有珠に質問したり競い合ってたら、いつのまにか私も紅茶党の仲間入りよ。
　私、姉貴の影響で中学までコーヒー党だったのに」
「……そこには感謝しているわ。
　青子が連れ出してくれなかったら、コープランドのアンティークカップに出会えなかったもの」
「あはは。気が付いたら骨董品回りしてたものね、去年の私たち」
　居間とサンルーム。
　離れてはいるものの二人は楽しげに会話をしている。
　せっかく仲が良いんだから、居間で向き合って話をすればいいのに、と草十郎は首をかしげる。
　離れているからこそ思い出話には興が乗ることを、彼はまだ知らないのだ。
「ふうん。有珠は外に出ない子だったんだ」
「ええ、この子ったらほーんと屋内派で、外に出るのは学校だけだったんだから。
　今日だってずっと洋館にいたんでしょう、有珠？」
「―――違うわ。外に用がないだけよ。
　今日はプロイの補充に忙しかっただけだし」
「それだ。プロイの補充ってコトは、遊園地の時みたいなのはここで生まれてるのか？」
　遊園地で酷い目にあって以来、草十郎はプロイと聞くと過敏に反応する。あの時は逃げるのに手一杯だったが、時間が経つにつれ、
“あの不思議なものはなんだったのか？”
　と気になって仕方がなかったらしい。
「なに、知りたい草十郎？」
「教えてくれるなら知りたいけど……いや、よく考えると聞かない方がいいような、やっぱり知りたいような―――」
「よし、そういう事なら話してあげましょう！
　ちょっとした触りだけなら怒らないわよね、有珠？」
　勢いよく脚を組み替える青子。
「……別に。
　わたしと貴女の違いを話すぐらいなら、いいけど」
「よし決まった！
　……ってなによアンタ、妙な顔して。自分から言っておいて尻尾まくの？」
「―――いや、そうではなく」
　青子に正面から見つめられて、草十郎はつい視線を泳がす。
　現状、青子との接点は食後のひとときだけなので<接触事故|ニアミス>はないのだが、たまに、こういう無防備な仕草を目にしてしまい、対応に困る草十郎だった。
「いいんだ、続けてくれ。興味はある」
「よし。じゃあ<駒鳥|コマドリ>呼ばないとね。
　それでは特別授業、なぜなにプロイキッシャー、はじまりはじまり～」
　青子はパチンと指を鳴らす。
　テレビのスイッチを入れる真似ごとらしい。
　……<一時|いっとき>の番外編。
　久遠寺有珠監修、久遠寺有珠出演による、ある魔術系統のレクチャーはこうして始まった。
　が。
　せっかくの特番は三十分ほどで打ち切りと相成った。
　聞き手である草十郎をおいてけぼりにした、あまりにマニアックな内容だったからである。
「……分かってはいたけど。
　静希君の覚えの悪さは、三千世界に響き渡るわね」
　死ねばいいのに、と言葉にならないため息をつく有珠。
「可哀想な有珠。さすがに今回は同情するわ。
　ソイツにとっちゃ私の魔術も有珠の魔術も“すごく便利”でくくられちゃうものだなんて。他の魔術師が聞いたら失神ものの屈辱よ」
　青子も本格的に呆れている。
　もっとも、彼女の場合は反省も混じっていた。
　考えてみればこの結果は見えていたからだ。
「そんな事はない。ちゃんと区別はつく。
　蒼崎は壊すだけで、有珠はいろんなものを作って、それで壊すんだろ。有珠の方がやや生産的だ」
「怖いわ青子。わたし、どうしてか胸が苦しい。こういうコトって本当にあるのね。
　まるで、お気に入りのカップを割ってしまった時、通りかかったキリンに“でもトロルよりマシですよ”と<慰|なぐさ>められた気分だわ」
「どういう意味よそれ」
　むっと対面に座った相方を睨む青子。
　トロルとは童話で言うところの、少々おつむの足りない暴れん坊の巨人の名だ。
「……ふん。今の草十郎の指摘、けっこうあってると思うけど。
私、有珠のプロイが生活の役に立つトコ見たことないし。駒鳥も双子も最後はドジって終わりじゃない」
「それは結果論よ。役立とうという初志は尊重するべきだわ。……だいたい。<駒鳥|アレ>や<双子|ソレ>が最後にぜんぶ台無しにするのは、わたしの責任じゃないのだし」
　両者は互いのダメだしに余念がない。
　こと魔術の技量に関して、両者とも譲れない一線があるようだ。
　どちらがより厄介な壊し屋なのかを押しつける、<底辺|ていへん>の争いにしても。
「いや、でも有珠の使い魔は役に立ってるぞ。
　前に森で落ち葉を集めているブタを見かけた。あれは有珠の使い魔なのに、なんで蒼崎に言ってやらないんだ。
　……まあ、いいことをしたのに黙っているのは美徳だって、山城先生は言ってたけど」
「――――――」
　有珠にしてみれば慣らし運転、ただの準備運動で“お喋り双子”を森に派遣したのだが、草十郎から見れば立派な善行だったらしい。
　有珠の勝ち、と納得する草十郎に、青子はますます面白くない。
「ハン。掃除をしているから生産的とか、ずいぶん小さな判断ですこと。もっとこう、大きな視点で評価できないのかしらね、このお掃除マシーンは」
「大きな視点―――
たとえば、お金<儲|もう>けとか？」
「！？」
「ご」
　あまりに直球な質問に、少女たちは平静を装いつつ顔を見合わせる。
　時に、愚者の思いつきは会議を新たなステージに押し上げるのだった。
「……呆れた。我ながらその発想はなかったわ。
　盲点すぎたっていうか、基本、魔術って損失しか産まないものだから」
　青子の意見に、うんうん、と頷く有珠。
「それで、たとえば？
　貴方から見て、私の魔術はどんな金策ができると思う？」
「蒼崎なら……そうだな、マグロを捕まえるのはどうだろう」
「――――――」
　しばし沈黙。
　青子は静かに足を組み直して、
「なんでマグロ？」
　わりと真剣に聞き返した。
「いや。<朝市|あさいち>でたいへん高価だと聞いた。
　でも捕まえるのは難しいって。あんな巨大なものが、水の中では車より速く泳ぐと」
「そりゃ地球が誇る大型肉食魚だからね。お寿司屋さんでも最強だし。平均時速60キロ、マックススピードは時速180キロに迫ると聞くわ」
「部長いわく、蒼崎は泳ぎがうまいって。泳いで捕まえられないか？」
「もう魔術関係ないわねそれ。
　仮に魔弾で迎撃できたとしても、保存できないわ。私、回転を速めるのが専門で止めるのはちょっと。有珠は？」
「魚は苦手」
　たまに妙に気を引くのがいるから、と小さく付け足す有珠だった。
　そう、じゃあ無理ね、と青子は両肩を落とす。
「ところでケンカ売ってる、静希君？」
「す、すまない。実は、ちょっとからかっ、てみた」
　首輪の圧迫は五秒ほどで止まった。
　微妙にシャレにならない<締め時間|チョークスリーパー>だ。
「とまあ、蒼崎には乱暴なことしか期待できないとして、有珠はどうなんだ？　
何も言わないということは、魔術でお金儲けは気に入らない？」
「……そうね。好き嫌いはともかく、お金があるのはいいことだわ。協会の目をくぐりぬける事ができるなら、青子には頑張ってほしい」
「危ない目に<遭|あ>うのは私だけかッ！？
　有珠のプロイにはなんかないの？　<土|つち>食べたら<金|きん>に変換するようなカバとか!?
　ほら、中世の貴族はお抱えの錬金術師で、日夜<金|きん>を作り出す研究をしてたっていうじゃない!?」
「<錬金術師|アレ>はただの金食い虫。
　……まあ、騙した貴族たちの貯蓄を食いつぶして新しい技術を生み出したから、無意味ではなかったけど。
　このマイセンも、元々は<金|きん>を作ると豪語した錬金術師が苦し紛れに産んだ磁器なワケだし」
　有珠は手元のティーカップの縁を指でなぞる。
「……はあ。錬金術師ほどアテにならない奴はいないってワケか。今じゃプラハの錬金術師は証券魔術師、エジプトの方は兵器作ってるって話だしね……」
「ええ。ちょっと期待してしまったけど、もともとわたしたちは現実社会と折り合いが悪いのよ。神秘に特化しすぎているから」
「ロンドンの名門になると、家訓と事業は別物と割り切っていて、金融専門の弟子をとっているわ。
　……噂だけど、ある財閥の総帥は社員全員の血を吸って、情報を共有するネットワークを作っているとか。
　なんでも吸血鬼になった理由が“精神的に繋がった、決して内部闘争しない商会を作りたいから”だったとか」
「―――極まってるなあ。要は、そこまで徹底しないと魔術でお金儲けは難しいってコトかぁ。
　あ、有珠のプロイで遊園地をやるのはどう？」
　ポン、と手を叩く草十郎。
「それはいい。襲われるのはもうこりごりだけど、あの遊園地なら連日連夜大盛況だ」
「わたしのプロイを見せ物にする気？」
「でも大ウケよ、絶対。ロボットって言い張ればみんな騙されるし」
「却下よ青子。この話、もう一度したら絶交だから」
「う、本気で怒らせたか。だってさ草十郎、遊園地はあきらめましょ。今度こそ友情を失っちゃうし」
　冷たく拒絶する有珠と、やれやれと引き下がる青子。
　雑談をしつつも、少女たちは互いの距離感、踏みこんではいけない線を心得ていた。
　草十郎はそんなふたりを不思議そうに見つめている。
「ちょっといいかな。いま、猛烈に気になったんだが」
「なに？」
「いや。蒼崎も有珠も、遊園地で本気で殺し合っただろ。
　それなのに、まだ友達だったのか？」
　失礼と言えば失礼、
　当然と言えば当然の疑問に、青子たちは顔を見合わせる。
　ふたりは二秒ほど見つめ合ったあと、
「んー、ギリギリあり？」
「まあ、ギリギリ」
「ありなんだ！」
　あまりに軽く、
　また鉄より堅い、驚愕の友情なのだった。
　おもいのほか長く続いたお茶会は、草十郎の退席でお開きとなった。
　草十郎としても名残惜しいが、アルバイトは休めない。
「二時間も話してたなんて珍しいわね。
　有珠もいつになく<饒舌|じょうぜつ>だったし」
「成り行きよ。静希君があれこれ青子に質問して、貴女がそれをわたしにも向けてきただけ。
　……本当。わたしたちが一日なにをしているのかなんて、聞いても仕方がないのに」
「いや、それがそうでもない。たいへん役に立ちました」
「はい？」
　驚く青子をよそに、草十郎は廊下から何やら運んでくる。
　生徒会室にあるタイプの、大型のホワイトボード。
　真新しいボードには油性ペンで、以下の内容が書かれていた。
　～これからの役割分担表～
　　　　・館内清掃（一階東館にかぎる）
　　　　・朝食当番
　　　　・夕食当番
　　　　・風呂当番
「な―――なんか色々と詮索してくると思ったら、そういう裏があったワケ……!?」
「うん。歪みを正したかったら、まずどこがおかしいのか知らないといけないからね。
　今夜の話じゃ、ふたりとも一日に一時間ぐらいは使える時間があるみたいだし。三人で一つの台所を使っているんだから、ローテーションを組んだ方がいいだろ。協力できるところは協力しないと」
　たいしつかいぜんだ、と胸を張る草十郎。
「待って。わたしは貴方を住まわせているだけで、協力なんてする気はないって言ったでしょう」
「うん、言ったね。
　でも“夕食を用意するならわたしの分もお願い”と言いたいのなら、<相互扶助|そうごふじょ>は当然の義務だと思うんだ。
　あと、三人で食費を集めれば、その分美味しいものが食べられるよ」
「こ」
　今まで何度か“わたしの分もお願い”をやってしまった有珠にとって、草十郎の言葉はまさに神の鉄槌。
　神罰に等しい、汝の罪を悔い改めよ系の攻撃だった。
「で、でもホワイトボードを用意するコトはないんじゃない？　当番なんて、今まで口約束で決めてきたんだし……」
　うんうん、と頷く有珠。
　口約束ほどアテに出来ないものはない。
　ふたりとも口にはしないものの、イザとなったらさぼる気満々の顔である。
「ダメだ。正しい生活を送るには、正しい役割を把握しないと。こういう風に書いておけば、後になっても忘れないだろ？」
「うっ―――」
　底の見えない笑顔にたじろぐ青子。
　親切心で言っているのか、今から“サボらせないぞ”と<釘|くぎ>をさしているのか、まったく読めない。
「……なんてこと。証明文を書かせて、責任の所在を明らかにしようだなんて……」
　有珠は有珠で、これから日常になるっぽい当番制に<戦慄|せんりつ>していた。
「決まりだな。誰がどこを担当するかは、また明日話しあおう。今のふたりがたいへんなのは分かってるから、しばらくの間はこっちが多目に受け持つよ」
　それじゃ、と草十郎は去っていった。
　残されたふたりはやるせなく、新品のホワイトボードを見つめている。
「……こういうのを、飼い犬に手を噛まれる、というのかしら。わりと<小癪|こしゃく>な性格をしていたのね、彼」
「知ってた。私、アイツがそういうヤツって知ってたわ」
　<罠|わな>にかかったと気付いても後の祭り。
　そもそも今日の青子の朝食も、草十郎が調理したサラダを分けて貰ったものである。
　今から“じゃあこれから助け合いはなし”と言うには、助け合いの味をしめてしまった。
　そもそも当番制は青子の合理性に合っている。
　ただ、できれば作業の割合を、たまにでいいから誤魔化したかっただけなのだ。
「……青子。貴女、なにを考えているか丸わかりよ」
「そうでしょうとも。
　間違いなく同じコトを考えてたからね、私たち」
　ため息まじりの返答をして、青子はホワイトボードを手に取った。全員共通の持ち物として、台所の壁に立てかける気らしい。
　有珠はじっとホワイトボードを見ながら、
「……せめて、新しい項目が増えなければいいけど」
　なんて、世にも不吉な言葉を口にした。
　いかに多忙と言え、人間として暮らしている以上、ある程度の余分は生まれてくる。
　たとえば食事の前後。
　調理の手間と食後の<一服|ひととき>は無くす方が難しい。
　頭脳労働者の場合、特に顕著である。
　食後、体は消化にエネルギーを使うため、肝心の頭にまで血が回らない。なので、
「ナイキはあれでしょ、ニケーのもじりでしょ？
　アテナの持ってる、盾じゃなくて小さな勝利の女神の方。陸上競技に勝つってイメージじゃない？」
『さすがブランド品とか大好きな青子さん、どうでもいい知識だけはそれなりッスね！』
　洋館における頭脳労働者は、だらけきった姿勢でソファーに体を<預|あず>けているのだった。
　青子の話し相手はテーブルの上にいる駒鳥だ。
　青い鳥はパタパタと羽を鳴らしながら、食後の団らんの真似事なぞ<勤|いそ>しんでいる。
　有珠はサンルームで読書中。
　外部からやってきた敵魔術師への対策は、あと三十分ほど休んでからの話となる。
『んじゃアディダスは？
　もしかしてアディオスのもじりっスか？』
「あれは普通に名前じゃなかったっけ？
　ほら、グリム童話みたいに、作った兄弟の名前がそのままブランド名になっちゃったのよ」
「ブラザーグリムは童話を作った訳じゃないわ。
　埋もれていた口伝を<蒐集|しゅうしゅう>して、物語に仕立て直して、丁寧に<編纂|へんさん>した人たちよ。職人というより学者の<類|たぐい>ね。
　……まあ、多少は詐欺師めいたところもあるけれど」
「へー。じゃあアンデルセンは？　人魚姫とか親指姫とか超メジャーだけど。ああ、あとみにくいアヒルの子」
『ジブン、裸の王様とかたまんないッス。シンパシー感じるッスよ、あの<透けてる|クリスタル>キングに』
「アンデルセンは学者というより作家でしょうね。
　彼の創作意欲は裕福層や大衆、平凡な幸福を得ている人々、はては女性像への<憤|いきどお>りから生まれたものだと言われているし。知的好奇心から筆をとったのではなく、感情を訴えるために筆をとった人」
「……あまり、こういう説明はしたくないのだけれど。
　それぞれ分けて説明するなら、マザーグースは歌、ブラザーグリムは物語。アンデルセンは寓話ね」
『みつばちマッチはアニメっすね。
　ところで青子さん、アシックスの由来はなんスか』
「え？　うーん、これは私も小学校の頃、友達に聞いたものなんで真偽は分からないんだけど。
　アシックスって、もともと三つの会社が合併して出来た会社なのよ。で、三社の社長があつまると足が六本になるじゃない？　だから<足|アシ>、シックス　あくまで俗説だけどね」
「っ―――――――」
　サンルームでは本を床に落とし、きゅっと唇を噛んでいる有珠の姿。
　彼女は努めて冷静に、何事もなかったように呼吸を整えている。
　少なくとも、本人はそう演じきれていると信じている。
「……あの子の笑いのツボも分かんないわね……」
『それはどうっスかね。あんまりにもつまんなかったから怒ってるのかもしれないっス。
だってアリスさん、怒り心頭しても笑顔になるんスよ。ジブンたまに見るッス。アリスさんの日記を盗み見てると、後ろでそういう顔してるッス。
それ以上見ると死ぬわよって。でもカンベンしてほしいッス、見ちゃうものは見ちゃうっスよー！　ジブンから素行調査をとったら、もう帰巣本能しか残らない気もするッス』
　ぱたぱたと異論をはさむ駒鳥。
　青子はため息をつきながら、有珠も厄介な使い魔を押しつけられたもんね、と同情した。
「ただいま。お、今日はふたりともいるんだな」
　そんな中、草十郎が顔を見せた。
　アルバイトから帰ってきたところらしい。
「おかえりー。お疲れさまー」
「……………」
　駒鳥の話し相手で<緩|ゆる>みきった青子の出迎えと、サンルームからのかすかな反応。
「夕食は済ませてきたから要らないよ。
　じゃ、夜のバイトにそなえてちょっと寝てくる」
　草十郎はサンルームの有珠にも手を振って立ち去った。
　廊下に消える直前、不審な物音を立てながら。
「おーい、なんか落ちたわよー」
　青子はソファーから顔だけ出して草十郎を呼び止めた。
「ああ、ポケットに入れっぱなしだった」
　草十郎は慌てた風もなく、ごく自然に戻ってきて、床に落ちた何か―――封筒のようなもの―――に手を伸ばす。
　人間の<性|さが>だろう。
　興味はなくとも動くものは<野次馬|やじうま>根性で追ってしまう。
　青子はどれどれ、と草十郎の手を目で追って―――
「さ―――！」
“札束、だっ！”
　などと、はしたない心の叫びを抑えつつ、青子はソファーから跳ね上がった。
「？　どうした蒼崎？」
「え、どうしたって、その……」
　<汚|けが>れのない純朴な目で見つめられては、さすがの青子も言い返せない。
　相乗効果的に、お金を見て飛び上がった自分のがめつさに頭を抱えたくなるほどだ。
「な、なんでもないっ！
　そうよね、フツーにアルバイトの給料日よね。……にしても、けっこうもらってんのね、アンタ」
　納得する青子に妙な間で笑顔を返して、草十郎は自室へ戻っていった。
「？」
　微妙に引っかかるものを感じながら、青子もソファーに腰を下ろす。
　―――以上が事の発端。
　のちにカーモネーギー事件と駒鳥が名付けた、ありふれた<騒動|いちにち>の始まりだった。
　翌日、昨日の一件とほぼ同じ時間。
　青子が息抜きをかねて紅茶を淹れに来ると、居間では草十郎と駒鳥が何やら議論を交わしていた。
「その人が言うには、人と会うたびに小さな親切を尽くしてあげるべきだ、と。そうして一日が終わったら、その親切が何をもたらしたか、よくかみしめなさいって。
　たった一回の言葉だけの親切でも、相手にとっては大きな意味があるんだそうだ。それが思いも寄らない幸福を運んでくる」
『うはっ、だからジブンにビーフジャーキーくれたっスか！
　でもそれ、親切じゃなくてソデノシタって言う伝統芸能じゃないっスかね？　アンダーハート見え見えッス』
　草十郎の真剣さは、雑談というより相談・勧誘の<類|たぐい>に見える。
「……まあ、アイツが妙なのはいつものコトか……」
　青子は居間の様子をスルーしてサンルームに入る。
　……と、椅子には草十郎のコートがかけられていた。
「ちょっと草十郎、コート置きっぱなしじゃない。
　居間のコート掛けか、自分の部屋に持っていって―――」
　いいかけて、言葉を飲む。
　草十郎のコートのポケットから、昨日と同じような封筒が顔を覗かせていた。
　それも昨日よりいくぶん厚く、あまりにも無造作に。
「ふ、ふーん」
　昨日のような、大金に目を輝かす愚は犯せない。
　青子とて学園の模範生たる生徒会長の自覚はあるのだ。
「さ、さーて、紅茶紅茶っと」
　無関心を装いつつ、居間の会話に聞き耳を立てる。
　青子の呼びかけが聞こえなかったのか、草十郎は駒鳥との雑談に夢中だった。
「都会の孤独は万人に平等だ。
　一見して身勝手な、暴力じみたお仕着せの善意も、長い目で見ればその人のためになる」
『なるほどー。親切の押しつけには<一銭|いっせん>もかからないッスからね！　ジャンジャン人助けするッスよ』
「うん。タダより高いものはないって言うけどね」
『ハハハどっちっスかこのシャバ僧！』
「………………」
　自分の用事……紅茶を淹れに来た……も忘れて、青子は居間からの声に耳をすませる。
　これはもう、無視できる<怪|あや>しさではない。
「こうも言うんだ。幸福になりたければ、はじめは恨まれてもいいと。
　やれ金を返せだの詐欺師だのと言われても、いずれその人のためになると分かっていれば心を鬼にできる。
人に尽くしている喜びが、後ろめたさとか帳消しにするらしい」
『それ知ってるッス。でも、微妙に違うような』
　不本意ではあるが、青子は駒鳥に同意する。
　今のは有名な事業家の言葉で、正しくは
“幸せになりたければ、誰が恩を返した、誰が恩を返さないなどと考えるのはやめて、人に貢献できる喜びを大切にしよう”
　だったはずだ。
「あるいはこうとも。
　貯金のある人は、その富を温存するよりも、会社がより豊かになるために使うべきだと」
『それも知ってるッス。でも、もう完全に違うような』
　<甚|はなは>だ不本意ではあるが、またも青子は同意する。
　今のはより有名な実業家の言葉で、正しくは
“富める者は、その富を社会の改善のために使うべきである”
　だったはず。
「信じられるのはお金だけなのかもしれない。
　だって奥さんも子供も、ずっと一緒にいてくれるわけじゃない。不幸な事故で先立たれるコトだってある。
　でもお金は別だった。お金で幸福は買えないけど、幸福はお金になる。いまは人の親切と、温かい布団があればそれでいいと、その人は言った」
「なんか……無性にらしくないコト言ってるわね、アイツ」
　<一抹|いちまつ>の不安を覚えるものの、草十郎の発言を気にしていては日が暮れる。
　第一、今の青子には<他人|ひと>に神経をさく余裕はない。
　敵魔術師との戦いは目下、水面下で進行中なのだ。
「どっちにしろ私には関係ないか」
　やれやれと肩をすくめて、青子は居間から意識を逸らした。
　こんな騒ぎも明日になれば忘れるだろう、と楽観して。
「ただいまー」
　今日も今日とて笑顔で帰ってくる勤労少年。
　何であれ労働は美しい。
　なので、ソファーでくつろぐ青子の返答も自然、微笑ましいものになる。
「はい、おつかれさま。
　休んでていいわよ。今日は昼からずっとバイトだったんでしょ。
夕飯ならこれから作ってあ―――
なにぃ？」
　が。その笑顔も、唐突に凍りついた。
「ん？　どうした蒼崎、木乃美の冗談を聞いた時みたいな顔して」
「どうしたじゃない、いいかげん黙っていられなくなった！
　いいから、そのポケットの<物|もん>だしなさい！」
「む」
　なぜ<叱|しか>られるのか納得いかないまま、草十郎はポケットの中の物を取り出した。
　テーブルに置かれる、お馴染みの茶封筒。
　しかし、それは普通の封筒と言うにはぶ厚すぎた。
　<眩|まぶ>しく、<荘厳|そうごん>で、人を惑わす魔力がありすぎた。
　なんていうか、それはまさしく札束だった。
「―――まあ。これはどうしたの、静希君」
　あどけない有珠の声。
　心なしか目が輝いているように見えるが、間違いなく錯覚ではない。
「バイト代だよ」
「そう。それはいいコトだわ。明日はご馳走ね」
　札束を前にしても淡々としたふたりである。
　一方、この<館|いえ>唯一の常識人はと言うと、
「んなワケないでしょう！？　ちょっと草十郎、そこに正座！　どういうコトか説明なさい！」
　この通り、コトの重大さを当事者より理解していた。
「？　説明って、なにをだ？」
「決まってるでしょ、この札束の正体よ！
　アンタいま何やってんの！？　どう考えてもまっとうな職種とは思えないんですけど！？」
「まっとうだぞ。
　この新しいバイトは、少なくとも法には触れていないと聞いた。ちゃんとやれば危ない目にも遭わない。
　コンビニエンスストアより割がいいし、俺でも簡単にできると言う」
　クラッと。
　青子は失意を通り越した苛立ちのあまり、目眩を起こしかけた。
“少なくとも法には触れていない”
　泥酔した酔っぱらいが“酔っていない”と言い張るのと何が違おう。
「正気に戻れ！　日ごとお金が倍々に増えていくバイトなんてあるワケないでしょう？
　いいから仕事の内容を言いなさい、内容を！　アンタ、どう考えても騙されてるから！」
　む、と草十郎は口を閉ざす。
　青子の剣幕を前にして一歩も引かない構えだ。
「だめだ。いくら蒼崎でも教えられない。あんまり<他人|ひと>に話すことでもない。
　でも安心してくれ。分類的には、ちょっとした人助けと言えるだろう。あと紹介してくれた人とは一度しか会ってないし、支払いは常に現金だ」
「この田舎バカ、その文脈からして怪しすぎるんだっていうのーーー！」
　ああもう、と地団駄を踏む青子。
『新しいバイト』『割がいい、誰でもできる』『だが内容公開は断る』なんて禁句を連発されて、冷静でいられるはずがない。
　が、
　草十郎はかたくなに口を閉ざしている。
　付き合いは短いが、青子はこの少年の性格をそれなりに思い知っている。
　義理堅いというか、自分の中でこれと決めた事はちょっとやそっとでは<覆|くつがえ>らないのだ。
　こういう時の草十郎はとんでもなく口が堅い。
「……くぅ、厄介な……」
　無理やり<喋|しゃべ>らせるのは困難か、と青子は引き下がる。
　そんな彼女の内心をまったく分かっていないらしく、草十郎は不思議そうに、
「なんで蒼崎は怒ってるんだ？」
　うん、こいつは役に立たない、と諦める青子。
「そんなうまい話はないからよ。有珠もそう思うでしょう？」
「そうね。青子の言いたいコトは分からないけど、静希君はもっとやるべきだと思う」
　そして有珠は、はじめから役に立たない。
「…………はあ」
　青子はソファーに腰を落とす。
「蒼崎」
「いいわよ、もう。よく分かんない理由で話す気ないんでしょ、草十郎は。
　考えてみればアンタなんてただの同居人なワケだし、私があれこれ文句いう筋合いはなかったわ」
　しっしっ、と手を振って草十郎を追っ払う。
　それっきり不機嫌に押し黙る青子だが、もちろん、このまま済ませる気はない。
　有珠の見解はともかく、草十郎を放っておく事はできないからだ。
「……アイツはどう見ても騙されてるし……最終的にとばっちりくらうのは私だし……」
　ここは心を鬼にして、今すぐにでも新しいバイトとやらを辞めさせるべきである。
　それが友人としての思いやりであり、
　生徒会長としての義務だろう。
「…………」
　しかし。
　しかしだ、と青子は自分に言い聞かせる。
　道徳も良心も大切だが、正直なところ、仕送りだけで生きている学生として、あのお金は捨てがたい……！
「……そうね。最終的に辞めさせるのは絶対にしても、これまで稼いだお金を捨てるのは勿体ないし……
仕方ない、ここは<搦|から>め手でいくか」
　などと画策しながら、ソファーにずぶずぶと沈む悪の生徒会長。
　いちいち覚悟を決めずともデフォルトで心が<守銭奴|お　に>なのが彼女の長所であり、短所である。
　翌日、正午。
　青子は同居人たちが出かけたのを<見計|みはか>らって、ロビーの電話を手に取った。
「もしもし、鳶丸？　草十郎がこんなコトになってるんだけど、アンタ、心当たりない？」
　始発電車の音が遠い。
　町が目を覚ますか覚まさないか、どちらつかずの時間帯。
　<槻司|つきじ><鳶丸|とびまる>は日が<昇|のぼ>ったばかりの繁華街をそぞろ歩きながら、早朝の雑多にして清浄な空気に感心していた。
「本当、町ってのは人間がいないだけでキレイなもんだ」
　鳶丸にとっては通例化しているぼやきである。
　派手派手しく<飾|かざ>られた<町角|まちかど>は、人間の欲望の具現だ。
　見せ物小屋と何ら変わりのない連なりだが、この時間帯だけはまったく違うものになる。
　人のいない大通り。
　静まりかえった朝の町は、祭りの後のような寂しさに染まっている。
　ふと目に入った<酒場|バー>の入り口には、けだるそうに昨夜の後始末をする黒服。
　あるいは、飲食店の裏口ではあくびをかみ殺しながら今日の仕込みをはじめる<料理人|コックコート>。
　鳥は無防備に道を歩き、
　自動車のエンジン音も途絶えている。
　この独特の清涼感は都市の朝にしかないものだ。
　生活と娯楽の狭間。
　忙しい<人間社会|ダイヤル>の中で、この時間だけは昔ながらのスピードで回っている。
「―――チッ。そうか」
　口元に<寂|さみ>しさを感じてコートのポケットをあさったが、中にあるのはレシートばかりだ。
　鳶丸はマフラーを巻き直して、冷えきった風をやり過ごした。
　鳶丸は繁華街を適当にぶらついて、朝の魔力がきれる頃に中央公園に流れていく。
　散策に目的はない。
　健康のための散歩でもジョギングでもない。
　これは単に、夜通し遊んだ後の<自堕落|じだらく>な朝帰りだ。
「馬鹿らしい。なにやってんだか」
　自動販売機で買った缶コーヒーを飲みながら、臆面もなく自虐する。
　夜通し遊ぶのは嫌いではないが、まだ酒も飲めないのでは退屈極まりない。
　それでも家に居るよりはマシだろう、とここ数日は朝帰りだが、いい加減、それも飽きてきたところだった。
「……ま、年末に親戚筋が集まるのは仕方がねえし」
　言い訳がましい呟きに、いっそう苦笑いを強めてしまう。
　彼がこうして時間を潰しているのは、ある意味、帰る場所がないからだ。
　槻司家では祖父の方針で、毎年元旦に親戚会議が行われる。
　必然、数日前からちりぢりになっていた<兄姉|きょうだい>、親族筋が槻司の家に宿泊する事になる。
　そんな場で<鳶丸|じぶん>がいては火種になる。
　降りかかる火の粉を払うのはやぶさかではないが、争いごとは極力避けるため、鳶丸は家に帰らない選択をした。
　家にいては何であろうと攻撃される。
　ケンカを売られては買ってしまうのが彼の性分だ。
　その都度に相手を打ち負かしていては憎しみはつのるばかりだし、父にも面倒が及ぶ。
　そしてなにより、兄姉たちのように血眼になって相続争いをするのは、この上なく面倒で、どうでもいい話だった。
　槻司鳶丸は三咲市でも有数の地主、槻司家の五男として生まれた。
　今では大地主として君臨する槻司家だが、その大部分は戦後に財を成したもので、それ以前は小さな、没落を前にした華族にすぎなかった。
　その槻司家を立て直したのが婿養子として迎えられた槻司<喜実國|きみくに>―――現槻司家の家長にして、鳶丸の祖父にあたる人物だ。
　戦時中に力を失い、やせ細った槻司家を救ったのは、この男、喜実國の豪腕によるものである。
　<檀家|だんけ><総代|そうだい>、神職として地域を取り仕切っていた槻司家は喜実國の資産を、
　喜実國は三咲市に根を下ろすために槻司家の人脈を必要とした。
　利益目的で結びついた両者だが、槻司家の誤算は、一時だけと甘んじて迎え入れた喜実國の経営手腕が並々ならぬものだった事だろう。
　婿養子として下に置くはずだった喜実國は三咲の産業を発展させ、それを基盤として町の外に多くの会社を興していった。
　彼は三咲市の内を支配しながら、その周りを槻司の親族たちとは関わりのない、自分だけの勢力で制圧した。
　内側より先に外堀を。
　言ってしまえば経済的な兵糧攻めである。
　喜実國は経済の力で槻司家の“由緒正しい血筋”を押さえつけたのだ。
　十年を待たずして、槻司家では喜実國に対抗できる者は一人としていなくなった。
　婿養子として招かれた商人は、名実ともに槻司家の<家督|かとく>を手にしたのである。
　一方、喜実國は多くの子供を儲けていた。
　槻司の血を絶やさないこと。それが家督を継ぐ条件でもあったからだ。
　彼の三人の息子とひとり娘は槻司家縁の親戚と結婚し、喜実國によって弱体化した槻司家の<絆|きずな>をなんとか持ち直そうとした。
　その長男にあたる槻司<一義|ひとよし>の、五人目の子供が鳶丸である。
　　……だが、彼の母親は槻司家には存在しない。
　父、一義が<戯|たわむ>れに関係し生まれた<妾|めかけ>の子。
　それが槻司鳶丸の、槻司家における身分だった。
　鳶丸は父と愛人との間に生まれた子供である。
　長男である一義の子という事で最低限の威厳は守られたが、立場の弱い鳶丸が親戚、兄姉たちにどんな迫害を受けたかは想像に難くない。
　そんな幼年期の環境が、鳶丸の人となりをいち早く成長させた。
　独特の理解の早さ、自分の役回りを演じる客観性は、槻司家で生きる上で自然に<磨|みが>かれたものだろう。
　しかし、その<如才|じょさい>のなさが鳶丸により大きな問題を運んでしまった。
　槻司喜実國。
　困った事にこの大人物は今<以|もっ>て現役であり、多くの息子たちより―――鳶丸の父親である一義より、どこの女の子供とも知れない<鳶|ま><丸|ご>を気に入ってしまったのだ。
　もともと庶民の出であった喜実國は、血縁による相続を良しとしない節がある。
　加えて、この人物はいまだ息子たちに、自身の財産をこれっぽっちも譲り渡していなかった。
“この世でもっとも忌まわしいのは槻司の血だ。
　儂は貴様らなぞ作りたくもなかったわ”
　親族一同が集まるたびに出るその言葉は、嘘偽りのない本音だった。
　恒例の親戚会議のおり、喜実國はたまたま話し相手になった鳶丸を気に入り、以後、仕事の合間に帰ってきては孫と囲碁などに興じる間柄になっていた。
　その喜実國がいつ鳶丸を後継者にと言いだすか、親戚一同は気が気でない。
　喜実國の息子たちにとって鳶丸は『居る価値のない』ものから、『居てもらっては困るもの』に格上げされたワケである。
　その危機感がもはや恐怖、嫌悪の域にまで達しているのは他でもない、本来なら無条件で喜実國の跡を継ぐはずだった長男であり、鳶丸の父親である、槻司一義その人だった。
　こうして、鳶丸は実の父親にまで疎まれる立場になった。
　現在、鳶丸は父である一義と同じ家には住んでいない。
　一義は喜実國の手前、<鳶丸|むすこ>とは良好な親子関係だとアピールしているが、それも喜実國が床に臥せるか、喜実國が本格的に鳶丸を跡継ぎにすると言いだすまでだ。
　その後は戦争である。
　どちらにせよろくな話にはならないだろう。
「……<祖|じ><父|い>さんも空気読めねぇからなあ、ホント」
　呆れながらバリバリと頭を掻く。
　といっても、鳶丸はさして苦には思っていなかった。
　表向きは仲の良い親子関係。
　裏では怨念うずまく相続争い。
　そんなもの、別に喜実國と出会う前と変わらない。
　今まで唯一の<擁護者|ようごしゃ>だった父親が最大の敵にまわっただけだ。
　家族と良質な関係を結ばなかった鳶丸にとって、いまさら敵がひとり増えたところで何をかいわんや、という境地である。
　鳶丸がこうして朝帰りを繰り返すのは、親戚一同との顔合わせを避けるためだ。
　今ではあちらが鳶丸の顔色を<窺|うかが>っている。
　見下していた親戚たちも、
　<戯|たわむ>れに暴力をふるってきた兄姉たちも、今では表だっての攻撃はしてこない。
　せいぜい嫌味を言う程度だ。
　鳶丸は基本、平和主義者である。
　面倒ごとは避けて通るのが信条だ。
　なので、今までの意趣返しをする気も、喜実國の期待に応えるつもりもない。
　<一義|ちち>の不安は杞憂であり、親戚たちは勝手に踊っているだけであり、鳶丸は放蕩息子の域から出るつもりは毛頭無い。
　しかし。その一方で、歳の近い兄弟たちは、父親たちとは違う憎しみを帯びていた。
　今まで迫害してきた負い目、あるいは立場の逆転からくる反動だろう。
『きっと、いつかやり返される』
　そう怯える彼らには、もう、鳶丸を無視する事はできないらしい。
「……そのクセ根回しはうまくねえときた。
　蒼崎ぐらいの大胆さでつっこんでくるんなら、まだスリルがあるってもんだがな」
　鳶丸にとって、家庭の問題はただ面倒なだけで、あれこれ悩むものではない。
　もう人間の悪意には慣れている。
　いきすぎた<兄姉|きょうだい>の暴力で死にかけた事も、
　明確な意志のもと、殺されかけた事もある。
　特権階級、選民思想にこりかたまった長兄の顕示欲から、他人の命を扱う現場を見せつけられた事もある。
　……まったく面倒くさい。
　どれも人生観を変える衝撃だったが、心の底はいつも冷めていた。
　そんなものか、と。
　そんなことのためにこの連中は躍起になっているのかと、鳶丸は白けてしまったのだ。
「……ま、そのあたりは人それぞれか。
　親父殿には同情するけどな。あの<祖|じ><父|い>さんの息子なんて並の根性じゃつとまらねえ」
　後継者問題なぞ鳶丸にはどうでもいい。
　彼にはまだ、明確な将来への展望はない。
　あるとしたら、二十歳になった時に彼らが信じる価値観をキレイサッパリ捨てて、あっさり自由になる事ぐらいだ。
　それまでは何事も人生経験。
　くだらない夜遊びも今のうちにちゃっかり楽しんでおこう、と自虐気味に朝の遊歩道をそぞろ歩くのだった。
「お？」
　遊歩道から広場に出ると、ベンチには先客の姿があった。
　広場にたむろしていた、<鴉|からす>に似た黒鳥が舞い散っていく。
　ベンチに座っているのは黒い服の少女と、
　杖を手にうなだれている、身なりのいい老人だ。
「――――――」
　知らぬ顔でもなし、出くわしたからには挨拶をしなくてはなるまい、と鳶丸はベンチへと足を向けた。
　少女と老人は、傍から見れば祖父と孫のようだった。
　パッと見は孫の相手をしている心優しい老人。
　しかし、その実態は、
「アリス、ボクは今でも思うんだ。いったい何がいけなかったのかって。
　考えられるサービスはすべて実現させた。従業員への感謝も、来園者への笑顔も忘れたコトはない。
　なのに時代はボクを選ばなかった。それどころか、ボクの内なる芸術性を否定した」
「無念だ、死ぬがいい腐った魚のようなマスコミどもめ！
　何が悪夢のクリーチャーか、あんな、夢にまで見そうなマスコットが他にあるだろうか？　いやあるまい。
なのに連中ときたら、ネズミを二足歩行させれば満足ときた！
　そもそも犬をペットにする<齧歯|げっし>類とか、冷静に考えたら怖いぞ。動物が動物をペットにするなんて、モラルが低いにも程がある。あそこはやはり、人間をペットにするべきじゃないんだろうか？」
　しかして、その実態は。
　かくも厄介な老人にからまれている、悲劇の少女の図なのだった。
老人は激した後、
「いや、これは失礼。<由里彦|ゆりひこ>よ、紳士たれ」
　と自らに言い聞かせて、力なくうなだれる。
「答えてくれアリス。いったい、ボクのキッツィーちゃんは何がいけなかったんだ？」
「角よ。角をつけるべきだったのよ」
　うなだれる老人の顔を覗きこみながら、黒衣の少女は真剣に返答する。
「いや、角はいけない。子供たちが怪我をしてしまうからね。ボクは、傷をつけるなら体ではなく心にしたい」
　<含蓄|がんちく>のある言葉ね、と更に真剣に頷く少女。
「…………さて」
　あの組み合わせには関わりたくない鳶丸だが、もう完全に射程圏内だ。
　このまま無視して通り過ぎれば、少女はともかく老人の方がうるさく文句を言ってくるだろう。
「こんちは。こんな朝っぱらからジクジク後悔中かい、<土桔|ときつ>の爺さん。いつまでも引きずってると死に損なうぜ。さっさと<往生|おうじょう>して、息子たちを安心させてやんな」
「おや、どこの悪ガキかと思えば<夜鷹|よたか>の子供か。
　おはようトビー。君も、あいかわらず早起きだね」
「俺は朝帰りですよ。お二人みたいに健康的じゃあない。
　そら、久遠寺のお嬢さんもおはようさん」
　鳶丸の挨拶を聞いて、少女は静かに顔を上げる。
　ベンチに座っていたのは丘の上の魔女、久遠寺有珠その人だ。
「ん？　こうしてまともに挨拶するのは二年前のパーティー以来か？　なんにせよ珍しいな。アンタがお付きなしで町に下りて来てるなんてよ」
「……そうでもないわ。この時間の公園は鳥を入れ替えるのにちょうどいいから。ひとりで、散歩によく使うの」
「ほう、そりゃ驚いた。箱入り娘じゃなかったのか、アンタ」
「ええ。その証拠に、貴方がひどい顔で歩いているのを何度か見かけたわ。
……遊び歩くのは結構だけど、青子に迷惑かけないよう気をつけなさい」
「ご忠告どうも。肝に<銘|めい>じておくよ」
　気軽に挨拶を交わしたものの、鳶丸は久遠寺有珠とそこまでの面識はない。父親たちに交友があるだけだ。
　と言っても、
　あくまで三咲市限定の有力者である槻司と、
　日本全国に広がる久遠寺では規模も歴史も違う。
　本来なら久遠寺有珠は槻司鳶丸をしても身分違いの相手である。
　その有珠とこうして話せるのも、蒼崎青子という共通の友人がいるおかげだろう。
「バカな。トビー、君はアリスと友人関係だったのか。
　は!?　も、ももも、ももももしかして、二人はステディな関係だとか言うまいな？
　やめたまえ。言ったら大事になるぞトビー。ボクは心臓麻痺で急死しかねない。犯人は君であり、凶器はアリスだ。
　無論、死因はこう書いてくれ。
　そう、聞くも無情な、恋の、<病|やまい>と―――」
「久遠寺のお嬢さんはどうしてこんなダメ老人と？
　俺と同じ、親父関係の付き合いか？」
「この人とはペンフレンド。
　分不相応にいいアンティークを持っているから、青子と二人で少しずつとりあげているの」
　ほぼ初対面でありながら、鳶丸と有珠は抜群のコンビネーションで老人をスルーする。
「はは、まいったな、アリスは照れ隠しもチャーミングだ。
　ところで、ボクのことはユーリッヒと呼んでくれていいんだよ」
　そっと有珠の手を握る土桔老人。
　有珠は人形のような仕草で、
「トッキィー。わたし、いい絵付けのティーカップを探しているの。1900年代の、ラム工房のものとか、どうかしら」
「あるとも。もちろんあるとも。今度、あのおっかないお友達と遊びにくる時までに用意しておこう」
　このように、老人の下心を華麗に誘導するのだった。
「老いらくの恋って柄かよ。よくもまあ<身代|しんだい>潰さなかったもんだ、トッパンは」
　そう。
　この老人こそ<社木|やしろぎ>の名士であり、全国に多くの工場をかまえる土桔製パン株式会社の<元|もと>総帥にして、<現|げん>相談役の<土桔|ときつ><由|ゆ><里彦|りひこ>翁その人なのである。
「老人とはなんだ。芸術家にとっての老いとは感性の凍結であり、しかるに我が心の火は絶えていない。
ボクはまだ暑苦しいくらいに若いんだ。<蕾|つぼみ>のような少女と恋を語らう楽しみは残っているさ。
　ははは、この歳になるともう世間体とかどうでもよくてね。女の子と話すことだけが人生の意味になるんだぞう」
「若いのか爺さんなのか、どっちなんだよ」
「おっと失言失言、最後の方のは聞き流してくれ。
　ボクが言いたいのは、女の子と穏やかな時間を過ごすのは最高ってコトさ。
トビー。そういうの、君も好きだろ？」
「一緒にしないでください、あいにく俺は年上好みですよ。
　おまけに言うなら、二回り以上も年下の女に欲情する趣味もねえワケで」
「うん、それはそうだろう。君がやったら犯罪だ。
　トビーは十七歳。その二回り下が何歳になるとか、口にだしたらいけないよ」
　うむ、と頷く土桔老人。
　鳶丸の無礼な発言もまったく気にしていない。
　これはこれで大人物なんだよなあ、とつい感心してしまう鳶丸だった。
「ともかく挨拶はしましたから。邪魔者はこれで消えますよ。あとは仲良し同士、気兼ねなくどうぞ」
「なんだトビー。これも縁だ、ゆっくりしていけばいい。
　なんなら、今からボクの別荘に来るかね？　ヘリコ呼ぶよ？楽しいぞ？」
「いや、お気持ちは嬉しいんですけどね。知る人が見ればとんでもなくブルジョワな面子でしょ、コレ。今は避けたい気分なんですよ、そういうの」
　鳶丸の言い回しで事情を察したのか、それは残念だ、と土桔老人は引き下がった。
　引退したとはいえ、こんなんでもトッパンを全国規模にまで発展させた偉人である。
　鳶丸の複雑な家庭環境を瞬時に察したのだろう。
「ミックによろしく。そろそろ引退して子供たちと仲直りするよう、ボクが言っていたと伝えてくれ」
「はいはい、<糠|ぬか>に釘だろうけど伝えておきますよ。
　じゃあな久遠寺さん。また朝に出会うことがあったら、その時は改めて挨拶させてくれ」
　同意とも拒絶ともつかない無言の返答。
　それにやれやれと肩をすくめて、鳶丸は広場を後にした。
　公園を出て気ままに歩いていると、いつのまにか再開発地区にやってきていた。
　これは建設途中の電波塔で、この開発には槻司家も噛んでいるが、大部分の資金は外資企業からのものだった。
“この電波塔は十年先を見越しての物です。
　いずれ携帯通信は目まぐるしい進歩をとげるでしょう。
　まずはそのモデルケースとして、私どもの技術をミサキ市に普及させたいのです―――”
　外資企業から派遣された男は、そんなうたい文句で父、一義と握手を交わしていた。
“いずれは娘もミサキ市に住まわせようと思っています。
　その時は貴方の息子さんとも、ぜひ交友を深めて―――”
　白人特有の、穏やかな威圧感を持つ優男だった。
　自分の娘を鳶丸にあてがおうとするあたり、槻司家の相続問題も調査済みなのだろう。
「親父も舐められてるって気付けよな。親父より先に俺に色目使いやがってクソヤンキーが。
　そもそも金髪女の相手なんざ願い下げだぜ。向こうで海兵相手に<尻|ケツ>振ってろってんだ」
　そう愚痴をこぼすと鳶丸は足を止めた。
　本気の悪態が口から出るようではおしまいである。
　じゅうぶんに歩いたし、日も完全に昇ってしまった。
　これ以上の放浪は何ら得るものがない。
「―――戻るか」
　建設途中の電波塔に背を向けて、鳶丸は家路につく。
　一時間後。
「坊ちゃん、お電話です」
　槻司の本邸に帰った鳶丸は、家政婦から受話器を受け取った。
『もしもし、鳶丸？　草十郎がこんなコトになってるんだけど、アンタ、心当たりない？』
　風雲急を告げる、蒼崎青子からの電話である。
「とまあ、こういう<事情|ワケ>なのよ」
「すげえな。安心できる要素がひとつもねえ」
“草十郎がおかしな<仕事|バイト>に<嵌|はま>っている模様。
　急遽相談に乗られたし。中央公園で待つ”
　そんな電話を受け、公園にとんぼ返りしてからはや十分。
　ある意味、いつかは起こるだろう、と危惧していた状況を聞かされ、槻司鳶丸は軽い<偏頭痛|へんずつう>に襲われた。
　ちなみに、ベンチに少女と老人の姿はない。
「そんなコト言われるまでもなく分かってるわよ。
　私だって人のアルバイトにケチつけたくないけど、どう考えても普通じゃないでしょ？
　アンタ、アイツから何か聞いてない？」
「悪いな、期待には応えられん。草十郎はバイトに関しちゃ秘密主義だ。任されているからには他言はできない、とかなんとかな」
「……そうなのよね。アイツ、他人の事情に関しちゃ缶詰みたいに義理堅いから。ガキガキにされないかぎり口割らないのよ」
「ほう、それはそれは。蒼崎にそこまで言わせるとはね。草十郎も信頼されたもんだ」
「どういう意味よそれ」
「他意はねえ、言葉通りに受け取ってくれ。
　おまえ、基本的に何にだって怒るだろ。そんな女が学校外で世話をやくなんて、よっぽど気に入ったのかと思ってな」
「違うわよ。アイツが問題を起こしたら<生徒会|わたしたち>にまで飛び火するじゃない。
　こんなの、誰がどう見ても、ただのリスク回避でしょう」
「なるほど、公務として見過ごせないってワケか」
「そうよ。悪い？」
「いやぁ、悪かねえさ。むしろ尊敬するよ。
　ほんと、鉄の生徒会長だぜ。休日だっていうのに学校の評判を守るため<だ|・><け|・>に働けるとは」
「だけ、ってところを妙に強調するじゃない。
　……まあ、事実その通りだけど」
　青子は何か文句でも？　と睨みを利かせた。
　すでに草十郎と青子の雑居を知っている鳶丸からすると、その虚勢はたいへん微笑ましい。
「べっつにぃー。しかしま、そういうコトなら副会長として付き合わなくっちゃな。
　会長は学校のために草十郎を調査する。
俺はそのサポートをしつつ、友人として草十郎を気に掛けるってコトで」
「――――――」
　鳶丸の発言は<注文|オーダー>通りなのだが、なんとなく納得のいかない青子だった。
「んじゃ、そうと決まればさっそく始めますか。
　蒼崎のコトだから草十郎の<勤|つと>め先ぐらい突き止めてんだろ？住所どこだよ」
「それが……尾行したんだけど、うまくまかれちゃって。
　駅前から二丁目方面に曲がっていったのまでは確実なんだけど」
　さすが副会長、慣れたものである。
『尾行したのかよ』なんて<批難|ツッコミ>は当然スルー。
「二丁目か……あのあたりだとパチンコとゲームセンターぐらいしか思い当たらねえな。一日に何万も稼げる店なんざねえぞ？」
「そうなのよ。というか、知ってたら私が試したい気分だわ。
　鳶丸。念のために訊くけど、三咲町にある“お金の稼げる遊び場”ってパチンコだけよね？」
「ああ。親父の話じゃ風営法にひっかかる<賭|と><場|ば>はねえとさ。
　三咲町の顔役は話の分かるおっさんで、クリーンな<極道|ごくどう>を目指してるらしい。パチンコ経営だけで満足してるって話だ」
「うん、それは知ってる。一応確認しただけ」
「でも、そうなるとますます謎ね。
　ギャンブル以外でお金を倍々にしていく仕事なんて、ちょっと思い当たらないんだけど」
「ああ、体でも売ってるとしか思えない羽振りの良さだ。一晩いくら、みたいな」
「―――へ？」
　間の抜けた声がもれる。
　理解するのに数瞬を必要としたのか、青子はぽかんと口を開けた。
「ちょっ、か、体って、あ、アンタ！」
「ほら、絵画のモデルとか。バイト代は高いときくぜ」
「あ―――うん、割はいいって言うわね。美大生ってお金持ちだし。そうよね、それぐらいなら別に」
「まあ、ヌードなのは当然だが」
「結局はだかじゃない！」
　決定的な情報を欠くため、話せば話すほど核心から遠ざかっていくようだ。
　アルバイトの種類も、
　アルバイトの現場も分からないのでは話にならない。
「明日、もう一度草十郎を尾行するしかないわね。二人がかりなら見失うコトもないだろうし」
「そうだな。他に手がかりもねえし、明日にするか。
“草十郎の羽振りがいい”だけじゃどうしようも―――
あん？　羽振りがいい？」
　む、と眉を寄せて思案する鳶丸。
　考えれば考えるほどイヤな予感が満ちていくのか、その<表|か><情|お>は苦虫をかみ潰したように険しくなっていく。
「どうしたの鳶丸。何か思い出した？」
「……あー、ちょっとな。そういえば、最近妙に羽振りのいいバカがひとりいたなって。
　そいつ、三日ぐらい前から金にあかして合コンし放題って話なんだが……頭の痛いコトに、草十郎と同じクラスのバカなんだよ、これが」
　数秒、沈黙。
　青子はなるほど、と心底<合点|がてん>がいったように頷いて、
「―――アイツね」
　さっそく捕まえに行きましょう、と公園を後にした。
「ちゃりーす！
　およびとあらば補習だろうと即サボり、遊びのお誘いだけは断らない<木|き><乃|の><美|み>クンでーす！」
　容疑者Ａはたやすく捕獲できた。
　ターゲットが赤点の補習で学校にいる事は、生徒会であるふたりには既知の事実だったからだ。
　鳶丸が女生徒に「ちょっといい話があるから出てきてくれ」と伝言を伝えてから約十分。
　木乃美<芳助|ほうすけ>は神速の早足で正門前にやってきた。
「おう。補習中呼び出して悪かったな」
「別に悪くないぜー？　補習を口実にバイトをさぼってみたものの、やっぱり補習もかったるかったんで、出席だけとって保健室で寝てただけだし」
「んで、ちょうど暇してたところに殿下からコールだろ。
　豪遊できると飛んできたワケさ！」
　バチィ！とサムズアップでやる気をアピール。
「そうか。てっきり外で遊び歩いてるかと思ったが、助かったぜ。おまえ、連日ゲームセンターに入り浸りだって聞いてたからよ」
「あー、あれね。ちょうど昨日ですっからかんよ。ゲーセンでおごりまくるのは気持ちいいけど、後に残るのは空しさばかりだよなあ。
　他校のヤンキーどもと仲良くなっても嬉しくねえっつうか、女っ気カイムというか。なんで女の子はゲーセンいやがるかねぇ」
「ま、それも過去の話だけどな。しょせんポッと湧いたあぶく銭、使っちまった金の話をしてもしょうがねえ。
　オレたちは明るく今の話をしよう。そうだろう、リッチな鳶丸クン。そのありあまる財力で、今日はボクを何処に連れて行ってくれるんだい？」
「ああ。その前に、こちらの<御仁|ごじん>がおまえに話があるってよ」
「へ？」
「こんにちは木乃美君。
　その、あぶく銭の話を聞かせてもらえるかしら」
　木乃美の表情が停止する。
　危険に敏感な彼は、この時点で自らの終わりを察したらしい。
「アノー。ボク、勉強シタインデ、戻ッテイイデショウカ？」
「もちろん。洗いざらい質問に答え終わったら戻っていいわよ。こっちも時間が惜しいから、スムーズな自白を期待するわ」
「それで、あぶく銭って何の話？
　貴方の月々のバイト料は二万円前後よね。その金額で三日近くも王様の真似事は難しいと思うのだけど」
　犯罪にでも手を染めた？　と続きそうな<質問|こえ>である。
「な、なんだよ、会長には関係ないだろー！
　そもそも自白って何デスカ。いきなり犯人扱いとか、いくらなんでも横暴じゃねえの？　つーか何の事件、これ？」
「まだ事件かどうかは何とも。最近お金の回りがいい生徒がいると聞いて、調べはじめたばかりだから。
　毎日何万円ももらえる仕事なんて学生には目の毒だし、そういったアルバイトは学校側に報告されてないしね。
　生徒会として、危ない仕事だったら注意してあげないと」
　青子は微笑みをキープしたまま、じりじりと木乃美に近づいていく。
　木乃美にしてみれば、入学からこっち、青子にこれほど愛想良く話しかけられた事はなく、なんというか、もうそれだけで自らの死期を悟らざるを得ない状況だった。
「へ、へえ、それは初耳だなあ。最近金回りがいい生徒ねえ。
　あ、オレのは違うよ。今まで貯めた貯金をなんとなく使っただけ。クリスマス前だから、こう派手に<浄財|じょうざい>しとこうかなって。<厄|やく>落とし的に？」
「普通、クリスマス前は貯金するもんだけどな」
「ダメよ槻司君、デリカシーが足りないわ。
　残酷な事実は口にしたくはないけど、木乃美君にはイヴを過ごす相手がいないって事でしょう。学友として、そこを追及したら可哀想よ」
「い、いるわい本命ぐらい！　真剣に同情する方がデリカシーに欠けると思うよオレは！」
「あら。じゃあ、イヴ用の資金はとってあるの？」
「あったりめえさ。臨時収入と貯金は別。
　オレ、通帳オヤジに握られてるからさー、予定外の入金とかすぐバレて怒られるんだよ。どこで悪さしてきやがったって。部屋も妹がチェックするしさー、隠し場所とかないんだよー。天井裏に隠したエロ本すら見付けられるんだぜ、万札入った封筒とか見つかった日にゃ警察につれていかれる。だからソッコー使うしかなくってさー」
　何が恥ずかしいのか、ははは、と照れ隠しに笑う木乃美。
　基本おしゃべりで感情だだもれな性格を、本人だけは気付いていない悲劇だった。
「へえ、臨時収入？　さっきと話、違うみたい」
「―――あ。いや、それはほら、バイト先のボーナスみたいな。五千円ぐらい上乗せしてもらったの！　ほんのちょっと、ちょっとだけだって！　事件性とかないって！」
「万札入った封筒について詳しく」
「うおお、話せば話すほど食い違っていくぜ！　なんだこれ孔明のワナか？
　ちょっ、会長近い、オーラすごい、なんか寒い！　しかもローファーじゃなくてブーツですか!?　この間合い、封じられたオレの記憶が蘇りそうなんですけどー！」
　じりじりと後退する木乃美と、
「木乃美君？　時間がないって言ったの、もう一度アピールするべきかしら？」
“直接、体に。”
　そう、ぼそっと付け足すハイキックの鬼。
「わかった、話す！　話すってばもー！
　臨時収入ってのはホントだよ！　新しいバイトがあってさ、そこに静希を紹介したら先輩にボーナスもらったんだよ！」
「―――なんですって？」
　仮に、木乃美が草十郎と同じバイトをしているのなら情報を引きずりだそう。
　そう考えていた青子にとって、木乃美の返答は期待通りであり、ちょっとばかり想像を超えていた。
　悪い予感に目眩を覚える。
「紹介したらボーナスをもらえるって、それ―――」
　悪徳商法と名高い、ネズミ講のうたい文句そのものだ。
「いや、それがさー。
　静希が稼ぎを増やしたいっていうんで、ちょい怪しいバイトを紹介したんだよね」
　事は期末試験前にさかのぼる。
　とある理由から先立つものがない、と相談してきたクラスメイトに、木乃美は先輩経由で回ってきたアルバイトを紹介した。
　先方が求めた人材が「心優しい、素直な青年」だったため、木乃美は泣く泣く出馬をあきらめ、代わりに条件の合う友人を送り出した―――という訳である。
「信じられない。そんな怪しい話にクラスメイトを放り出しておいて、まだ友人顔するとか。
　木乃美君、普段なに考えて生きてるの？」
「えー。トモダチでも紹介するでしょ、こういうの。
　むしろ本当の友情ってこういうものよ？　静希も助かってオレも<潤|うるお>うんだからさー。無償の友情とかもうはやんないですよ？」
「そりゃそうだけど、そういうのはちゃんと<責任|ケツ>持つ覚悟がある時だけ口にするものじゃないの？」
「なにそれメンドくさーい。会長、男同士の友情に幻想持ちすぎだってば。基本、オレたちみんなバカよ？」
「貴方を見てると本気でそう思えてくるから不思議ね。
　鳶丸。アンタ、よくこんなのと<連|つる>んでるわね」
「はいはいそこまで。説教するならまた後でな蒼崎。
　そいつ素で<最低|バカ>だから、本気で更生させたかったら一日使うぞ」
「いや、足りますよ。ちゃんと一日で更生できますボク。
　ただ、寝ると忘れちゃうだけで」
「――――――」
「ほらな。まあ、<手前|テメエ>がバカだって自覚している分、気付いてない奴よりは付き合いやすい。
この若さで情けは人のためならず、を<実践|じっせん>してる野郎はそうはいねえし」
「……納得。たしかに、アンタと気が合いそうな性格ね」
「え？　いやまいったなぁ！
　なんだよ二人とも、いくらオレでも照れるじゃんか。いま、オレのこと褒めてなかった？」
「褒めてねえ」
「褒めてないわよ」
「うん、ですよね」
　木乃美を先頭に、青子たちは問題のアルバイト先へと到着した。
　駅前の新繁華街から奥に移動し、気持ち、いかがわしい空気ただよう二丁目。
　青子が草十郎を見失った場所とぴったり符合する。
「このあたりね。木乃美君、そのバイト先ってどこ？」
「えーと、あのへん」
　木乃美が指さしたのは四階建てのオフィスビルだ。
　入り口は一階の端にあり、パッと見はマンションに見える。
　一階の通路はビルの裏側まで続いている。
　階段はその通路のはじめ、入り口から入ってすぐ正面に造られていた。
「ちょっと、そこの路地裏に入りましょう」
　ササッと人目につかない路地裏に移動する青子。
　風俗店の多い界隈で学生三人は目立つからだ。
「で、中はどうなってんの？
　事務所って言ってたけど、どんな仕事？」
「？　オレに訊いてんの？　やだなあ、オレが知ってるのはここまでだぜ？　オレだって先輩に言われただけで、中のコトなんて知らないし。草十郎をここまで連れてきたら、先輩が紹介料くれただけだし」
　最有力容疑者はここにきて無知をさらけ出した。
　共犯者、もしくは主犯と思われた木乃美芳助は、その実、はた迷惑なだけの通行人Ａにすぎなかったのである。
「……まいった。ここまで無責任だといっそ<清々|すがすが>しい。
　ところで木乃美君、西部劇とか見たコトある？
　役にたたない情報提供者の末路とか、ご存じかしら？」
「い、いやあ、オレ映画って苦手なんだよ。
　でも『セーラー服と機関銃』なら見た。主演目当てで」
「そ、残念ね。『夕陽のガンマン』ぐらいは見とけば良かったのに。ま、どうあれ情報提供者は悲惨な死をとげるんだけど」
「ちょっ、やる気満々だぜこの女！　殿下、こんな<凶獣|きょうじゅう>ほったらかしにしちゃまずいって、首輪とかつけないとさあ！」
「……って槻司？　なんだよしけた顔しちゃって。
　あのビルがなにか知ってんの？」
「……まずいな。
　知ってるも何も、ありゃあ最近やってきた詐欺まがいのセールス屋だ。英会話セットの販売と何ら変わらねえ」
　やはりそうか、と憂鬱になる青子と、
　英会話セット？　と首をかしげる木乃美。
「それ、確かなの鳶丸？」
「ああ。親父の秘書さんから聞いた話だ、間違いない。
　表向きは新興宗教なんだが、やってるコトは<羽毛布団|うもうぶとん>の販売だとさ。じいさまばあさま相手に質の低い羽毛布団を高額で売りつけているらしい」
「あの事務所も貸事務所だ。一ヶ月もこの街で稼いだらあっさりドロンするつもりだろう。
　……間違いなく草十郎は騙されてるな。最高のカモだろ、詐欺師にとっちゃ」
　ガックリと肩を落とす鳶丸。
　一方、青子はもう完全に戦闘状態に移行していた。
「よし潰す。そのあと木乃美は学校の旗のところに<吊|つる>す」
「え、<直|じか>？　今の台詞だと<縄|なわ>じゃなくて首？　<脊髄|せきずい>にぐっさり？　殺人？」
「あ、いや待て蒼崎。それだと辻褄が合わん。
　草十郎は大金を持ってたんだよな？　それじゃカモとは呼べねえぞ」
「……そう言えばそうだった。木乃美君の発言に気を取られすぎて、あの大金のコトを忘れてた。
　あれ、ってコトは、まさか―――」
「ああ。騙されている側だったら金は減っていく。
　……だが増えてるなら話は別だ。考えたくねえが、草十郎のヤツはセールス側に回ってるんじゃないか？」
「……信じられない。草十郎が、詐欺グループの一員になっている、ですって―――？」
「はあ？　まっさかあ。静希に騙されるようなヤツはいねーよぉ。だいたい嘘つけないじゃんアイツ。羽毛布団を売りさばくとか、ぜったい無理だって」
「だから、草十郎自身それが悪質なサギだと気づいてないんじゃないか？　アイツはアイツで、心からいいものだと思って売ってるんだよ。真心の固まりで」
「おお！　なるほど、そりゃ納得だ！　あの純真さがお年寄りに大人気ってワケだな！　やるじゃん静希、今度あったらオレもお<裾|すそ>分けしてもら、
あいたぁ!?」
「……木乃美君の更生は今後の課題として。
　どうしよう鳶丸？　もう少し様子を見た方がいいと思う？仮に静希君が関わってたら、彼にも詐欺罪が適用される？　まだ未成年だけど」
「あくまで従業員だから実刑はかからねえとは思うが、敵さんはアレで食ってる連中だからな。草十郎が雇われた時の、契約書の内容次第だ」
「そう。そうよね。下手したら草十郎自身、もう入会してるかもしれない」
　気が付けば、青子の顔つきは冷徹なものに変わっていた。
　生徒会役員として一年以上付き合ってきた鳶丸だ。
　こういう時の彼女が何を考えているか、言われずとも分かっている。
「入会していたら脱会は難しいな。アイツ本人にその気がなくとも、<判子|はんこ>の力は絶大だ。
　……それで蒼崎、どこまでやる気だ？」
「営業停止は最低ライン。信仰は自由だっていうなら、よその土地でやってもらうまでよ」
「だろうなあ、そんな顔してるぜおまえさん。
　で、草十郎はどうする？　とりあえず辞めさせるか？」
「当然。けど、もう彼だけの問題じゃないわ。そもそもうちの生徒を雇おうとした時点で私たちの問題よ。
　静希君とは関係なしで、あの事務所<潰|つぶ>すから」
「……いいけどな。厄介だぞあの手の連中は。サラ金と同じで法律上は何の問題もねえ。
警察じゃせいぜい厳重注意レベル、下手に商売の邪魔をすれば<損害|そんがい><賠償|ばいしょう>と言いだしかねん。急いては事をなんとやらだ」
「分かってる。まずは会社の概要と社長の素性、構成員の数を調べながら被害者の洗い出し、
を―――」
　静かに、しかし大胆に密談していた青子の口が止まる。
「どうした蒼崎―――って、
げ」
　物陰からオフィスビルを覗いていた鳶丸もその変化に気付いたようだ。
　青子の視線は通りの雑踏に向けられている。
　見慣れたコート姿の少年がいかがわしい二丁目を歩いている。
　少年はわずかな迷いもなくオフィスビルまでやってくると、トコトコと足音をたてて入り口に消えていった。
　物陰に隠れている青子たちの気苦労もどこ吹く風。
　少年……静希草十郎は軽い足取りで、自分が騙されている事にも気付かず、今日も一日、まじめに働きに来たらしい。
「あ、あ、あの―――」
　青子は肩を震わせながら、<懸命|けんめい>に怒りを<堪|こら>えている。
「待て、落ち着け蒼崎。
　気持ちは分かるが、あいつに悪気はだな」
「ああもう、なんか無性にあったまきたー！」
　がばり、と俯いていた顔をあげ、拳を握る。
　そこにあるのはいつもの冷淡な彼女ではなく、
　正義と<義憤|ぎふん>と個人的な感情で燃え上がる、鉄の生徒会長の姿だった。
「鳶丸、応援団の<美濃|みの>先輩に連絡とって、いますぐ強面の団員二十人ほど集めてきて！
　ケンカになるかもしれないから、それなりの装備こみでって！」
　言いつつ、青子は表通りに飛びだした。
　その姿は<敵陣突入|カチコミ>にいく番長そのものである。
「美濃って応援団の団長のか!?
　しかも二十人って、おまえいったい何する気だ!?」
「決まってるでしょ、殴り込みよ！
　まずは法律面での制裁から、なんて考えが甘かった！
　学生だまして私腹を肥やすような悪党には物理的な制裁で十分よ！　そもそもスケールが小さいっての！　
なによ『ほんものの光』って、こんなしけた町で羽毛布団とか売ってんなー！」
「待て落ち着け、さっきまでの平和的な<対処法|プラン>はどこにいった!?　悪党を暴力で押さえつけていいのは警察だけだ！　いいから戻りやがれ！」
「ちょっ！
」
「なによ！　その警察が使えないから私たちが出張るんじゃない！　文句あるなら代案だせ！」
「文句はねえ、まず落ち着けって話だ！
　そもそも代案なんざ立てるまでもねえ。おまえさん、さっきはどんな手を考えてたか口にしてみろ。まずは法律面での制裁を、とか言ってただろう」
「そんなのアンタだって分かってるでしょ。
　あの会社の調査と並行して、詐欺の被害にあった人たちを探して、私たちが間に入って連盟を作る。
　ご老人ばかりを標的にしてるのは、お爺さんたちは世間の事情に<疎|うと>いとみくびってるからだろうし。
　なんで、お爺さんたちだけじゃ分からない問題を私たちでフォローしてあげれば、被害者の会ぐらいは作れるわ」
「よし、その調子だ。
たしかにひとりひとりでかけ合っても連中にとっちゃ痛くもかゆくもねえ。横の繋がりを作るのは大事だからな。
　それで？　契約をなかった事にして、とられた金を取り戻すか？」
「……それは無理でしょうね。
　契約書は絶対よ。あったまくるけど、書かれた事はくつがえらない。今から出来るのはこれ以上の被害を抑えるコトだけ。ローンの解約、入会の破棄、それと―――」
「それと？」
「可能なかぎり、金銭を回収する。
　羽毛布団ならクーリングオフが適用されるはず。全ての返品は無理でも、やるにこしたことはないわ」
「上出来だ。それで行こうぜ蒼崎。
　何もおまえさんが悪役になる必要はねえ。せっかくの法治国家だ、平和的に解決しよう」
「それはそうだけど……こんなの部外者だから言えることよ。詐欺にあった人たちからすれば、<奪|と>られたものは奪られたままなんだし……」
「それを気に病むのは、それこそおまえの仕事じゃねえ。
　まずは<久|く><万|ま><梨|り>に連絡しよう。あいつ、商店街の娘だからな。被害者の調査に向いているだろ」
「<金鹿|こじか>に？
　……あんまり<荒事|あらごと>に巻きこみたくないけど、仕方ないか。
ＯＫ、私の方から連絡する。鳶丸は<美|み><濃|の>先輩への電話、お願い」
「あ？　こっちの話なら応援団、必要ねえだろ？」
「必要だってば。脅し要員だけじゃなく、お爺さん<間|かん>の連携に走ってもらわなくっちゃ。
　先輩たち、いかつい顔して優しいでしょ？　クーリングオフは書面に起こす事が大前提。書類に弱いお爺さんたちの代わりに、先輩たちに代筆してもらうのよ」
「なるほど、そりゃあいい！　数の暴力だな、連中も二十人からの返品は夢にも思ってねえだろうさ！」
　うんうんと頷きあう青子と鳶丸。
　端で見ている木乃美は完全に置いてけぼりだ。
「なー。クーリングオフってなんだよー？
　オレ、聞いたことねぇんだけど」
「買った商品を返品して、購入時の金額を返して貰うコトよ。日本じゃ十年ぐらい前から正式に採用されてるけど、木乃美君、聞いたことない？」
「いやまったく。ただの返品と違うの？」
「同じだけど、こっちは国が後ろ盾になってくれるわ。ほんものの光が法を盾にするなら、こっちも法で突き破るだけよ。
　お爺さんたちには馴染みのない話だろうから、そこは私たちが代わりにやるってワケ」
　実際のところ、クーリングオフの選定商品には細かい指定があり、ほんものの光が扱っている商品がその規定内かは現状<定|さだ>かではない。
　もし規定外であるならクーリングオフ制度による金銭回収はできず、青子は別の手段を講じる必要がある。
　……もっとも。
　三十分後、実際に売られた羽毛布団を調べた時点で、その不安材料は霧散することになるのだが。
　方針さえ決めてしまえば青子に迷いはない。
　オフィスビルを見渡せる喫茶店を司令室に、
　生徒会の人材を手足にし、
　一日かぎりの電撃作戦がはじまった。
「そうと決まれば迅速にね。
　二人とも連絡係よろしく。サクッと、今日中に決着をつけましょ」
　一日で終わらせる気かよ、と呆れる副会長と、
　なんでオレまで数に入ってんの？　と嫌がる事件の発端を使いに出して、青子はクーリングオフ以外の手はないかと資料を読み<耽|ふけ>っている。
　鳶丸にはタンカを切ったものの、青子自身、クーリングオフ作戦は難しいと理解していたからだ。
　クーリングオフを成立させるには様々な条件がある。
　その中で最大のネックになるのが購買してからの経過時間だ。
　消耗品なら八日以内の返却でなければならない。
　被害者が三十人いるとしても、該当するのは一人か二人だろう。
　となると、クーリングオフ以外での、消費者の保護を扱った抜け道を探すしかない。
「……なになに……安価なものを不当な金額で売りつけた場合、暴利行為として公序良俗違反で契約が無効となる場合がある……ただし公序良俗を根拠とする……って、なによこれ、ほとんど売る側の勝ちじゃない。
　疑わしきは罰せずが法廷の基本だし。水掛け論じゃこっちが不利だ」
　だが状況は<厳|きび>しい。
　相手が<百戦錬磨|ひゃくせんれんま>の詐欺集団なら、素人の知識では太刀打ちできまい。
　最終的には同じ土俵での戦い―――詐欺には詐欺でまるめこむ事になる。
「……だまし取られた金額分だけ、美味しい話でだましとるって<寸法|はなし>か……」
　その場合であっても情報は必要だ。
　青子は期末の一夜漬けもかくやという集中力で、かき集めた資料を頭に叩きこんでいく。
「お待たせ。とりあえず追加候補十人分の住所と、布団の現物、持ってきたわよ」
「サンキュー。さっすが久万梨、本気だせば仕事の速いこと速いこと」
　生徒会書記・久万梨金鹿から被害者のリストを受け取って、すぐさま鳶丸の小型無線機に連絡をいれる。
　小<型無線|ポケベル>機は“連絡求む”程度の短いメッセージしか送信できないが、連絡手段を公衆電話に頼っている昨今では強力な通信装置だ。
　青子は折り返しで喫茶店に連絡を入れてきた鳶丸に新しい被害者たちを伝え、鳶丸たちの現状も報告してもらう。
「被害者の会はできたのね？　仕切りは青山クンにやらせて。一応、相手への牽制として名刺も作ってくれると助かる。
　事務局はほら、文化祭の時に作ったニセ団体あるじゃない。あそこの電話番号にしておいて。電話番は山城センセに頼みこむわ」
　被害者友の会は現状で十人強。
　返品、脱会を望む人々の力になるのが会の趣旨である。
　そもそも騙されていた事すら分かっていなかった人もおり、きちんと説明すれば二十人はたやすく超えるとの事だった。
　礼儀正しい学生服の好漢が説得にあたっているのも大きい。
　おじいさんおばあさんは基本、孫に対して<寛大|かんだい>なものである。
「にしてもよくここまで調べたもんだわ。規定の二十人なんてあっという間だったわね」
「アンタの言う条件が分かりやすかったから。
　六十歳過ぎのご老人で、ひとり暮らしで、町内会に入っていない人を探せば良かったんだし。やってる事はほんものの光の販売員と一緒。
　でも、こんなんでなんとかなる話じゃないと思うけど。
　結局のところ、抗議するのが関の山じゃ―――
蒼崎？
　ちょっと、なに薄気味悪い顔で笑ってるのよ」
　友人に指摘され、青子は俯いていた顔をあげる。
「いやあ、面白いもん見付けちゃって。
　成果の乏しい戦いになると思ってたけど、風向きが変わったわ。ほら、見てクマ。この羽毛布団のマーク」
「？」
　青子は羽毛布団に縫いつけられた商品タグを久万梨に見せつけた。
　タグにはお馴染みのＪＩＳのマーク。
　工業製品の品質を表すもので、ＪＩＳのマークがある商品は国が定めた工業標準化法に基づいている、のだが……
「あれ？　じぇい……える……えす？」
「そ。こうなると契約書が逆に武器になる。百戦錬磨かと思ったけど、実際は兎しか相手にしない素人ってコト。
　……ええ、うまく話をもっていけば全額返済も夢じゃないわ。勝利の勝ちどきは、さぞ気持ちのいいものになるでしょうねぇ」
　にやりと笑って青子は席を立った。
　鳶丸へのポケベルは鳴らさず、赤電話を鼻歌まじりにダイヤルする。
　受話器からはお馴染みのコールの音がリピート中。
「蒼崎？　槻司に連絡入れるんじゃないの？　作戦が変わったって」
「それは後。いま大事なのは交渉役を誰にするかよ。私や鳶丸じゃさすがに貫禄不足だしね。
　こっちが有利になったとしても、まだ状況は五分だし。
　会話次第じゃひっくり返されるだろうから、被害者の会の代表は、それはもう、性根のひん曲がった悪魔でないと」
「それアンタの事だと思うんだけど。違うの？」
「いえいえ、こういうのは社会的立場のある大人じゃないと務まりません。
　安心して久万梨、ぴったりのヤツを知ってるから」
「ま、詐欺師には詐欺師ってね。
　この町には人を言い負かすのだけが仕事のヤツっていちゃったりするのよ。今日もやることなくて暇してるだろうし、たまには働いてもらわないと。
　彼女にかかっちゃサラ金だろうが教祖だろうが一時間で精神崩壊、<裸足|はだし>で山に逃げこむわ」
　これ以上ない嫌味を言いながら、青子は受話器に耳を当てる。
　ちなみに、受話器から漏れていたコール音はとっくに消えていた。
『―――もしもし。まさかとは思いますが、今の話は私の事でしょうか、青子さん？』
　受話器から<流暢|りゅうちょう>な女性の声が響く。
　青子は白々しく挨拶しながら、獲物が挑発にのってくれたとほくそ笑んだ。
「つねづね思っていましたが。
　貴女には年長者への敬意が足りていないようですね、青子さん」
「「へ？」」
　役割を終えて集結していた鳶丸たちが目を見張る。
　青子の呼び出しでやってきた人物は、この場にはあまりにも不釣り合いで、予想外だったからだ。
「はあい、<唯架|ゆいか>さん。わざわざ来てもらって助かるわ。
　事情は電話で説明したけど、もう少し詳しく説明する？」
「結構です。ほんものの光の事は、先ほど<律架|りつか>から報告を受けましたから。貴女に教授していただく事柄は一つもありません」
「ありゃまご機嫌ななめ。良かった、そのテンションのままカチコミお願いね。一般人のひとりやふたり、唯架さんが本性をだせば睨むだけで<卒倒|そっとう>させられるでしょ？」
「うえ、そうなの!?　このお姉さん、合田教会のシスターさんだよね!?　オレ、ひそかに<憧|あこが>れてたんですけど！
　あ、いや、そんな場合じゃねえ、どうも木乃美芳助ッス！　蒼崎サンとはあんまり仲良くありません！」
　咄嗟に青子とシスターの仲が悪いと察し、さりげなくポイントアップを図る木乃美。
　そんなやんちゃな青少年に、シスターは天使のような微笑みを投げるのだった。
「これはご丁寧に。合田教会で僧職を勤める、<周|す><瀬|せ><唯架|ゆいか>です。はじめまして、芳助さん」
「ひゃー！　すげえ、ホントにシスターだよシスター！
　会長とんでもない隠し球つれてきたな！
　……あれ？　でも、唯架さんに何してもらうの？　いや、オレはいてくれるだけで嬉しいけど」
「……まあ、だいたい想像できるが。
　はじめまして、シスター唯架。三咲高校生徒会副会長、槻司鳶丸です」
　一方、事の成り行きが読めたのか、鳶丸は元気がない。
　ＪＬＳマークが違法であること。
　羽毛布団が<偽物|バッタ>ものである事が判った時点で、青子は被害者たちの支払金の全額回収と、ほんものの光を町から追い出す算段を立てた。
　その結論が、目の前のシスターだと察したからだ。
「……てっきり証拠にものをいわせて、訴えられたくなければ示談ですませろ、全額返して出て行けー、って話かと思ったが。
……恐ろしい女だぜ。追い出すだけじゃなく、<素寒貧|すかんぴん>にして放りだそうってハラか」
「は？　なんでそうなるの？　なに、美人なだけじゃなく、シスターさんってそんな権利持ってるの？」
「シスターさんが、じゃなくて唯架さんの人間力と言うべきね。はい、これ被害者の会からの連名書。一応、うちの応援団の先輩たちも待機してるけど、何人か連れていく？」
「……そうですね。<逆上|ぎゃくじょう>して手を上げられては後片づけが面倒ですので、抑止力として五人ほど。
　あとは青子さんが同行してくれるのでしたら、私としては不満はありません」
「え？　どゆこと？　もしかしてシスターさんが話つけにいくの？　会長のがよくね？」
「いいのいいの。唯架さんはこう見えて荒事の専門家なんだから。ねー、唯架さん？」
「貴女ほどではありませんが。
　……いいでしょう、今回は利益が一致します。あの事務所の方々が違法を働いているのは事実ですから。
　罪には罰を。善良な人々を、とくに私たちの同胞を苦しめた手合いには、相応の痛みが必要です」
「さっすが泣く子も黙る鬼のシスター。
　期待してるわ。昔っから、商売<敵|がたき>を潰すのは得意だものね、貴女たち」
「言われるまでもありません。
　一つの土地に、二つの教えがあっては迷惑です」
　ふたりは反目の火花を散らしながらも、肩を並べてオフィスビルへと入っていった。
　五人のむくつけき応援団員ものっしのっしと後に続く。
　残されたのは肩をすくめる鳶丸と、事情をいっさい把握できない木乃美だけ。
「……わっかんねー。
　蒼崎、あの美人さんに何やらせる気なんだよ？」
「そりゃおまえ、口にはできない残虐行為だろ。相手の弱みをにぎったらとことん叩きのめすのが蒼崎だからな。
　違法販売をネタにして、契約解除をさせた後に告訴するって流れ。訴えるのはシスターの役目だな。
立場上、学生である蒼崎よりシスターのほうがお題目が立つ。
　……なによりあの教会、たまにイヤな噂を聞くしなあ。連中、貯めた財産根こそぎ奪られるだけで済めばいいが」
　さて、と一息ついてから、鳶丸もオフィスビルへと足を向けた。
「え、殿下も事務所に行くの？　怖くない？」
「いかねえよ、おっかねえ。俺のはちょっとした野暮用だ。
　テメエも補習に戻れよ。今日の礼は、また改めてくれてやるから」
「ばっか、補習なんてもう終わってるじゃんか。気が付けばもうすぐ夕方だぜ、夕方。楽しかったからいいけどな！」
「違いない。あっというまの半日だった」
　それじゃあ、と手を振って、鳶丸はオフィスビルの入り口に消えていった。
「？」
　それを疑問に思いながらも、
　オフィスビルの三階から響いた、どうみても窓ガラスの割れる音を聴いて、木乃美も現場を後にした。
　君子危うきに近寄らず、である。
　何事もなく話し合いは終了した。
　事務所の内部はモーゼの十戒よろしく、シスターの一蹴りによって真ん中の机の列がきれいさっぱり吹っ飛んでいるだけで、ひとりの流血もない、実に平和的な解決だった。
　そんなわけで、およそ半刻ほどで事務所の制圧を終えた蒼崎青子は、きょろきょろとあたりを見渡している。
　シスターの、鶴を思わせる手の一振りで宙に舞ったまま窓ガラスにつきささった大型デスク。
　悪魔でも見たかのように部屋の隅でガクガクと震える販売員たち。
　五人の応援団員をひきつれ、事務所の利権証明書等を押さえていくシスター。
「あれ？」
　しかし、青子の探しものは影も形も見あたらない。
　首をかしげながら、部屋の隅の販売員に声をかける。
「ちょっと。三時間ぐらい前、ここに人畜無害そうなのこなかった？　ビルから出てきてないから、まだ中にいると思うんだけど」
　販売員たちはブンブンと首をふる。
　事務所には純朴そうな学生の姿など何処にもない。
　どういう事？　とさらに首をかしげるも、
「でもまあ」
　イイコトしたからいっか、と満足する生徒会長なのだった。
　鳶丸はオフィスビルに足を踏み入れると、そのまま通路を直進した。
　入って正面にある上層への階段には視線を投げただけで、いくつかの<貸部屋|テナント>を通り過ぎ、ビルの裏手に出る非常口まで歩いていく。
　鳶丸はここ二丁目の地理に明るい。
　彼の記憶によると、このビルの裏手には開発の手がかかっていない、昔ながらの平屋が並んでいる。
　時代の波に取り残されたトタンの貸し屋。
　近代的な二階建てアパートの影に飲まれてはいるが、まだ十分に<活|い>きている一角だ。
　裏口から出ると、正面には下水を処理するための川があった。
　川とフェンスの向こうには平屋住宅が並んでいる。
　ビルのすぐ横には向こう岸に渡る橋がある。
　この界隈の人間しか知り得ない、ちょっとした近道のようだ。
「……なるほど、大したショートカットだ。地図なんてアテになんねえな」
　鳶丸が橋に向かって足を進めると、平屋から見慣れた少年が出てくるところだった。
　コートに着られている姿は、間違いなく静希草十郎である。
「明日もまた来ておくれね」
　平屋の主人であろう、年老いた老婆に見送られて、草十郎は橋を渡る。
「あれ、副会長？」
「よ。奇遇だな色男」
　必然、二人は橋の上で顔を合わせた。
　草十郎の顔は心なしか元気がない。
　その様子を見て鳶丸は納得した。
　この男の新しいバイトとやらは、詐欺の片棒を担ぐより、何倍も気難しい話だったのだと。
　なんとなしにふたりは帰り道を同じにし、歩道橋の上で立ち止まった。
「あのあたりに親戚でもいんのか？」
「いや、いない。人づてに紹介されて、おばあさんの話し相手をしていただけだ」
　青子に問いつめられても話さなかった事を、草十郎はあっさり口にした。
「そんなに気軽に話していいのか？　守秘義務とかありそうだが」
「いや、秘密にしなくちゃいけない話でもないんだ。
　ただ話しちゃいけない気がしただけで。
　鳶丸には出てくるところを見られたし、正直、誰かに言いたい気持ちはあった。弱音みたいなものだから、副会長が聞いてくれるならちょうどいい」
　歩道橋の<欄干|らんかん>に寄りかかりながら、鳶丸は先を<促|うなが>した。
　草十郎の話は、フタを開けてみれば平凡なものだった。
　彼の新しいアルバイトは、あの平屋住宅の、とある家のホームヘルパーだった。
　ただ少し風向きが違うのは、その家の老婆は夫に先立たれ、息子も都会に出たまま便りをよこさなくなった事だ。
「はじめは、ただのお手伝いだったんだけどね」
　困ったような、悔いるような笑顔で彼は言った。
　あるいは、不当な行為への嫌悪か。
　自虐的にすら見える苦笑いは、暗い<翳|かげ>りを帯びている。
「…………」
　鳶丸はかすかに驚いて、すぐに自分の頬を叩いた。
　この少年が、その手の感情を見せるとは夢にも思っていなかった―――そんな身勝手な思いこみを恥じ入って、自分自身を罰したのだ。
「珍しくうかない顔だが。あれか、出ていった息子さんとやらに文句があるのか？　<介護|かいご>が必要なお<袋|ふくろ>さんを放って、好きかってに暮らしていることに？」
「……どうだろう。確かにおかしな話だとは思う。
　けど、俺はその息子さんを責める気にはなれない。だって、それは」
　言いかけて口を<噤|つぐ>む。
　おそらく、その息子は母を嫌ったのではなく、この町を嫌ったのだ。
　単に、ここより好きな場所があったら、この町から出ていっただけの話。
　草十郎はそれを<苦々|にがにが>しげに、声にせず飲みこんだ。
「お手伝いの料金は初めに全部もらってたんだ。
　今月だけという話なのに、十万円は高すぎると思う」
　本気で、こんなにお金はいらないのに、と呟く。
　そんな少年に老婆は感謝をした。
　草十郎の頼りないところも微笑ましかったのだろう。
　老婆はすぐに心を許し、数日を待たずして草十郎を孫と同一視するようになったらしい。
「……ああ。それは素直に嬉しいんだけど、問題は」
　問題は、明日も来ておくれ、と。
　わたしを忘れないでおくれと、別れ際に草十郎に大金を手渡した事だ。
「ああ？　それだけで大金もらってたのか？」
「うん。お孫さんの代わりをしてほしい、と言われた。
貴方は信じられるから、これで孫のようにふるまってくれって」
「……なんだそりゃ。少しも信じてねえよそれ。金で動く孫がいるか。そりゃあヘルパーと変わらねえ」
「いや。おばあさんはヘルパーさんにはお金は払わないと言った。信頼できないから。あのおばあさんが信じられるのはお金だけなんだ」
　長くひとりきりで暮らしてきたからか、それとも生来の偏屈さからひとりになったのか。
　老婆は「人間の善意」をまるっきり信じられないようになっていた。
　彼女にとって、家族の絆は絵空事にすぎない。
　長年そういったものに見捨てられてきた彼女にとって、確かなものは手元に残った貯金だけ。
　……だから、逆に。
　偏屈に、<無駄遣|むだづか>いせず、最後の心の拠り所として貯めに貯めた<金|ソレ>だけが、彼女にとって、人をつなぎ止める絆になっていたのだろう。
「……バカらしい。
　それって結局、金で雇った他人じゃねえか。孫の代わりとは言えねえな」
「それはおばあさんが誰よりも分かってるよ。
　でも、偽者だと分かっていても、それぐらいしか信じられるモノはなかったんだ。
　おばあさんにとって、家によりつかなくなったお孫さんはいま一番欲しいものだから、その代償として、彼女が一番信用できるものを真心として渡してくれたんだ」
「――――――」
　買収ではない。
　老婆は心の底から草十郎を信頼したから、一番確かなもので感謝の気持ちを表した。
　……それが、<傍目|はため>には<醜|みにく>い行為だと気づく事もできずに。
「……また厄介な事情に首つっこんだもんだ。
　まあ、あんまり深く思い詰めるな。
　いい話じゃねえか。命より金が大事だった婆さんが、今になって思い出の方に転んだワケだ。まっとうな話だよ」
「そうかな。そうだといいけど」
　うなずく草十郎の顔には、まだ重苦しい翳りが残っている。
「なんだよ煮えきらねえな。どうせおまえさんの事だ、もらった金は一銭も使ってねえんだろ？
　んな事してりゃいずれ年金も底をつく。そうなった時にまるまる返すつもりだから蒼崎にも黙ってたんじゃないのか？」
「？　なんで鳶丸がそんなコト知ってるんだ？」
「あー、いや、なんとなく。そんな気がした」
　今日一日、草十郎の為に<奔走|ほんそう>した事は黙っておくが吉だ。
　後々、なんで喋ったのか、と鉄の生徒会長に<祟|たた>られるのが目に見えている。
「そっか。でもこの話の一番難しいところはね、鳶丸。
　その人には、お孫さんはいなかったんだ」
「あ―――？」
　ぼんやりと口をあけて、ああ、と鳶丸は息を吐いた。
　そういう事か、と。
　夫に先立たれ、息子は町を出て、孫は寄りつきもしない。
　なんて恵まれた、スタンダードな一生だろう。
　世の中には、そんな“もしも”を信じる事でしか、立ちゆかない人生もある。
　底はない。悲惨な人生の下には、より悲惨な底が待っているだけの話。
「時々、油断すると思うんだ。この町について。
　みんな幸福そうに見えるのに、裏を覗くとそうでもないのはなんでだろうって。なんか、町全体に騙されてるみたいだ」
「…………」
　鳶丸は<欄干|らんかん>によりかかって、賑わう町並みを見下ろしている。
　草十郎の悩みは、つまるところ環境への戸惑いだ。
　年老いるまで独りだった老婆の人生も、
　親戚一同に敵視されている鳶丸の生い立ちも、
　所詮は個人の事情でしかない。
　少年の相手は、この得体の知れない町そのものらしい。
　近代化して豊かになった分、豊かになれなかった人間の悲惨さは増している。
　それは富の差であれ、心の差であれ同じ事だ。
　大きくなった町は弱者に<厳|きび>しい。
　すべてが相互扶助でなりたっていた田舎育ちの少年にとっては、その在り方は耐え難い“なぜ”なのだろう。
「草十郎。おまえ、この町は好きか？」
「……まだ分からない。そういう鳶丸は？」
「ま、似たようなもんだ。好き嫌いも半々で、たまに何もかもどうでもよくなる時はある。
　だがまあ、おまえさんとは真逆だな。
　俺はこの町のおかげで<手前|テメエ>の悩みなんざ無視できる。ここに比べりゃマシだってな。空虚であろうと、この忙しさ、節操のなさは捨てたもんじゃねえってな」
「ここに比べたらマシ？」
「……あー、違うな。マシというよりはアリって感じか。
　バイトしてればたまに思うだろ？　町ってのは隙間を作らないように回ってるんだ。欠席にしろ空席にしろ、空きが出来たらすぐに埋められるように出来ている」
「当たり前のようで、コイツはよく出来た共同体なんだよ。
　昨日までは誰でもなかった他人が、明日には必要な隣人になってるかもしれない。
　昨日まではなかった町角に、新しい建物ができている事もある」
「まるで毎日が切った<縫|ぬ>ったの大手術だ。それでもうまく回ってる事に、真剣に感心する。
　本当に、何かのはずみで思うんだよ。
俺はテメエだけで生きてるんじゃなくて、どうでもいい誰かのどうでもいい頑張りのおかげで、こうしてクダまけてるんだってな。
　持ちつ持たれつだ。そういう巡り合わせを成立させているだけでも、どんなバランスなんだって呆れるわけだ」
「――――――」
　山が生き物であるように、町もまた生き物だ。
　鳶丸はその生き物のカタチをいまいち気に入っていないらしい。
　ただそれでも、
「そうか。敬意を払ってるんだな、鳶丸は」
「……まあ。照れくさいが、そういうこった」
　町に生まれた人間として、顔も知らない人間が、顔も知らないクセに助け合っている事実に、感謝している。
「つーか、おまえさんは贅沢すぎる！
　はじめから好きなところに住めるヤツなんていねえだろ。生まれる場所は選べねえしな。単純な話、自分が住むって決めたところを好きになるしかねえってことだ！」
「っ！」
　鳶丸の手が草十郎の背中を叩く。
　丸まりかけた背を叩かれて、草十郎は目を点にして跳ね起きた。
「……でも鳶丸。そこに住むって決めても、好きになれなかったらどうするんだ？」
「どうしても好きになれないヤツは違う土地に行けばいい。イヤなら逃げてもいいんだよ。放浪するのも人生だぜ」
「――――――」
　鳶丸の発言は目から鱗だったのか、草十郎は感心して息を呑んでいる。
　イヤなら逃げていい、という言葉にではなく、
　そう言い切れる槻司鳶丸に、強い<感銘|かんめい>を受けたのだ。
　この町に生まれながら、この町をあっさり捨てられると言った彼の自由さに。
「鳶丸から、逃げるなんて言葉がでるとは思わなかった」
「逃げる先があるなら逃げてもいいだろって話。
　……そりゃ勝ちとか成功とか、そういう言葉に固執するのも悪くはねえさ。富と名声はいいもんだしな。
　だが、俺にはどうも、勝ち続けるっていうのは固まるってコトに見える。息苦しくてしょうがない。蒼崎みたいにがんじがらめになっても突き進むパワーもねえしな。身上は軽い方がいいだろうよ」
「？　人生は軽い方がいいのか？」
「いや、軽いとか手堅いとか、そういうんじゃなくて、オレはもっと、こう、<浪漫|ろまん>あふれるっつーか……」
　言いかけて、それも違うな、と鳶丸は眉をひそめる。
　欲しいものは単純なものだ。
「そうだな。俺はきっと、笑える人生が送りたいんだ」
　こういうものだろ、と。
　鳶丸は自分が良しとするものが、いま目の前で悩む友人の指針になればいいと願って口にした。
「………………漫才師か？」
「――――――」
　ガックリと肩を落とす。
　落としたものの、
「いや、そんなもんか、実際」
　よくよく考えると的はずれでもない、と納得する鳶丸だった。
　人間、望めば望むほど果てがない。
　最高の人生なんてものは誰であろうと迎えられない。
　なら、いまわの際で「俺の人生は愉快だった」とニヤつけるなら、最後の最後で勝ち組だろうと。
「……ったく、蒼崎の影響かねえ。考えなしの<博徒|ばくと>かっていうの。あいつ、ボニー＆クライドとか大好きなんだろうなあ」
　やれやれと鳶丸は頭を掻いた。
　一年前までは厭世的だった自分が、よくもまあここまで偉そうに語れるものだと。
「ともかくだ。他人の事情にいちいち落ちこんでるようじゃ日が暮れるぜ。
　いや、実際もう暮れかけてるけどな。とんだ道草だ」
「そうか。引き留めてすまなかった。鳶丸は他に用事が？」
「……俺も大人しく家に帰るとするか。
　そっちも日が落ちる前に帰れよ。何をしていたか聞かれたら、隠さず事情は説明しとけ。その話、おまえが思ってるほどひでえ話じゃねえから」
「む」
　鳶丸の言葉に、眉を八の字にして黙りこむ草十郎。
　彼の中では、あの老婆にしてしまった行為の折り合いが付いていない。
　そもそも草十郎があの家を訪れなければ、彼女が自分の人生に絶望する事はなかったはずだ。
　そう悔いているからこそ、草十郎は誰かに話したかったのだ。
「おまえ、残酷なことをしたと思ってんだろ。
　婆さんの人生に、今からじゃ取り戻せないモノを見せつけた、とかな」
「――――――」
　核心をつかれて黙りこむ。
　その後悔を、鳶丸ははっきりと切り捨てた。
「そりゃ違う。思い上がりだぜ草十郎」
「いいか。その婆さんも、自分は人生に失敗した、なんて思ってんなら、今の自分に出来ることをさせればいい。
　幸い、金は腐るほどあるんだろ？
　なら、思いっきり人助けをさせてみろ。金で救える不幸なんざ山ほどあるだろ。
　んで、婆さんがどんなもんだと胸を張れたんなら、そりゃ間違いなくいい仕事だ。少なくとも俺は気持ちがいい」
「……む。それは、おばあさんの苦しみを解決していない」
「解決できねえ問題は放っておけ。
　その婆さんには今、他に解決できる問題があるんだからそれでいいじゃねえか。んで、
『悪いけどお金はこれから世のため人のため自分のために使うから返しておくれ』となったらば婆さんの勝ち。
　偽者の孫なんざより、よっぽどいい生き甲斐に目覚めたわけだな」
「しかし、
『これで満足したから残りはやっぱり貰っておくれ』
　と言えばおまえさんの勝ち。
　婆さんにとってはやっぱり孫の方がいいって事で、そん時は大手を振って大金もって帰りやがれ」
「―――なるほど」
　鮮やかな大岡裁きに、ポン、と手を打つ草十郎。
「すまない。ありがとう鳶丸」
　苦笑いは既にない。
　今の一言で、彼は老婆の選択が前者になるよう、努力しようと決めたのだ。
「――――――」
　鳶丸に言わせれば、その迷いのなさこそ、よっぽど自由に眩しく見える。
「気にするな、礼を言うならお互いさまだ。
　じゃあな草十郎。休み明けに、また学校で」
　愛想のない捨て台詞だったが、そんな鳶丸の態度も気にせず、草十郎は満面の笑みで手を挙げて走っていった。
　それに心底から困った笑みを浮かべて、鳶丸も歩道橋を後にする。
　時刻は午後四時半。
　真冬の町並みはほどなくして、夜の<帳|とばり>を降ろしていった。
「ただいま。今夜はまた、一段と冷えるね」
　草十郎が戻ると、居間には青子と有珠の姿があった。
　ふたりともまだ夕食前らしい。
　青子はむすっとした顔で、
　有珠はどことなく落ち着かない様子でソファーに座っている。
「あれ。もしかして、こっちの帰りを待っていたのか？」
　かすかに肯定する有珠と、
　あからさまに否定する青子。
「蒼崎。俺の気のせいならいいんだけど、なんだか昨夜以上にどうかしてないか？」
　多少は空気が読めるようになった草十郎だが、言葉遣いはまだまだお粗末である。
　どうかしてるかっ！
　……と切り返したい青子ではあるが、ぐっと堪える。
　彼女は別に、草十郎が気にしているほど怒ってはいないからだ。
　が。
「どうかしてるの、青子？」
「してないわよ！　してるのは草十郎の方だっていうの！」
　有珠からの波状攻撃によって、むなしくも決壊してしまった。
　ほら、どうかしてるじゃないか、と草十郎は無言で指摘する。
「静希君がどうかしたの？　彼、今夜は比較的まともだけど」
　その言葉もどうかと思う草十郎だった。
「ああもう、分かったわよ。そっちから切りだすまで黙っていようと思ったけど、私の方から訊いてあげる。
　草十郎。アンタ、ほんものの光って名前に聞き覚えはない？」
「いやまったく。はじめて聞いた」
「でしょうね。名簿にアンタの名前はなかったもの。なんだってあんな勘違いしちゃったんだろ。
　骨折り損……とまではいかないけど、また良くない評判たてちゃった」
　青子は大げさにため息をついて、ソファーにぐったりとよりかかる。
　そんな青子の弱体化を好機と見たのか。
　サンルームから<颯爽|さっそう>とテーブルに飛来する青い星が一つ。
『ハハハ、見てたっス、ジブン見てたっス！　ご近所じゃもう尾ひれつきまくりッス！　蒼崎さんトコの娘さんがまた指一本で店潰したとかマジパネェ、指先一つでダウンとかどこまで都市伝説作る気っスかwwwwww』
　チチチ、と青子の健闘をたたえる駒鳥。
　それを指先一つで弾き飛ばして、青子はのっそりと体を起こした。
「……今日はお金、持ってないわね。例のアルバイトはもう終わったの？」
「いや、まだ続いているよ。あのお金は預かりものだから、朝のうちに口座を作って預けておいた」
「預かりもの？」
「そう、預かりもの。きっと全額<返|かえ>すことになる」
　そうして、草十郎はコートを脱ぎながらホームヘルパーのアルバイトを説明した。
　あくまで簡素に。事の発端と、さきほど友人と一緒にだした結論だけを口にする。
　はじめは突拍子のない内容に面食らった青子だったが、終わる頃には、
「はいはい、やっぱりね。安心したっていうか、ガッカリしたっていうか。そうよね、どう頑張っても悪事を働ける人間じゃないわよね、貴方」
　などと、いつもの憎まれ口に戻っていた。
　一方。
　ホッと一息ついた青子の対面で、ひっそり青ざめる少女がひとり。
「待って。という事は、それは静希君のお金ではないの？」
「ああ。<他人様|ひとさま>のお金だよ」
「有珠？
　なんかとんでもない顔してるけど、どうかした？」
「……それが。どうかはしてないけど、出前はしたわ」
「はい？」
　そっと、壊れ物を扱うように蕎麦屋と喫茶店のメニューを差しだす有珠。
　それだけで事態を飲みこんでしまったのか、ざあ、と青子から血の気が引いていく。
　さらにそそっと、有珠から一枚のメモが差し出される。
　走り書きとおぼしきメモには、三人分にしては余りある量の注文が―――
「な―――ままま、まさかもう注文を!?」
「……だって。そろそろ、ご馳走のタイミングかと思って」
　うなだれる有珠の視線は、どことなく草十郎を非難していた。
「え？　俺？　なんで？」
「そりゃ、アンタがいらない期待を持たせたからでしょ。有珠、あんなに喜んでたじゃない。明日はご馳走ねって」
　ポン、と本日二度目の手打ち音が響く。
　そう言えば昨日の夜、有珠はそんな事を言っていた。
「ええ。あの夜、静希君は同意してくれたわ」
　なので自分は悪くない、と有珠は主張する。
「いや、それは」
「そうね。有珠のミスなのは確かだけど、悪いのはアンタもよ。大金を持ち歩くってのはそれだけで危険なんだから。
　いい教訓になったんじゃない？　観念して、二人で勘定を折半しなさいよ」
「いや、それはできない。あのお金は預けてきたし、そもそも五百円しか持ち合わせがない」
「……そう。合わせても足りないわね。……試した事はないけど、出前にキャンセルはきくのかしら……」
　絶望に包まれる久遠寺邸。
　それを他人事のように眺めつつ、やれやれと青子はため息をついた。
　……甘やかすのはよくないが、これも星の巡り合わせなのだろう、と。
「―――ま、そうなるか。
　いいわよ、私が出してあげる。今日は臨時収入があったから、パァーッと派手に使いましょう」
　思いがけぬ青子の提案に、ふたりは何事かと顔を上げる。
「つまり、蒼崎のおごり？」
「そんな……信じられない。いいの青子……？」
「呼んじゃったものは今さら止められないでしょ。
　さっき電話したんなら、今ごろはもう坂を登ってきてるだろうし。
　……まあ、そもそも。このお金も草十郎が発端だしね。人助けをしたら、被害者の会からお礼をもらっちゃったのよ」
「だから気にしないで。なんか居心地悪かったし、浄財と思って商店街に還元する。……本音いうと、ちょっともったいないけどね」
　おお、と<喝采|かっさい>をあげる同居人たち。
　その喜びようを見ながら、青子はぼすん、とソファーに沈みこんだ。
「……あーあ。悪銭身に付かずって言うけど、ホントその通り。臨時収入は泡と消えた、か」
　……かくして。
　降って湧いた大金にまつわる、ちょっとした事件はこうして幕を下ろしたのである。
　テーブルには再度飛来する青い星。
『……ああ。まったく、イヤな<事|ヤ><件|マ>だったぜ……』
　駒鳥はチチチと鳴き声をあげながら、煙草を吹かすジェスチャーなどに興じている。
『まあ、それはそれとして。
　青子さんの空回りっぷりを忘れないよう、これをカーモネーギー事件として記録しとくッスね！』
　つぶらな瞳で、今日最大の功労者に笑いかける青い鳥。
　それを指先一つでバウンドさせた頃、玄関からのノックがあった。
　有珠が頼んだメニューはお気に入りの洋食店のオムライスと、喫茶店からのケーキセット。
「まあ、それなら―――」
　労働の報酬にしては悪くない、と現代の魔女はこっそり気を取り直すのだった。
　師匠も走る十二月。
　一年の総決算。
　やり残しを溜めに溜めた<不始末|ふしまつ>故か、<師走|しわす>の月日は<瞬|またた>く間に過ぎ去っていく。
　時に十二月某日。
　何をやっているんだか互いに不明であるが、青子も有珠も草十郎も、忙しげな毎日を過ごしていた。
「なに、コレ」
　殺意を押し殺した、険悪<極|きわ>まりない声が響く。
　サンルームは中庭を一望できるため、天気の良い日など食堂として使われる。
　歴史のある洋館に相応しい、家具も内装も一級品で纏められた空間である。
　中国風の様式美を混ぜ合わせたチッペンデール式と、スマートながら英国の歴史を受け継ぐジョージアン式との融合は、庶民である青子ですら“ここでの非貴族的行為は自粛しよう”と誓わせる程だ。
　正直なところ<無|む><駄|だ><遣|づか>い以外の何物でもないと呆れもしているが、自分の財布が痛んだ訳でもないのでいいぞもっとやれ、という心境でもある。
　そんな高級感あふれるサンルームのテーブルに、目を疑う異物が三つ、鎮座していた。
　この部屋で見ると、得体の知れない宇宙食に見えなくもない。
「草十郎。これ、なんか新しい冗談？」
　ふるふると<片手|かたて><拳|こぶし>を震わせながら、青子は今日の食事当番に問いかける。
　時刻は午後九時。
　夕食を用意したシェフはうん、と素直に頷いた。
「コレはうちの会社の新製品。
　パチモンくさいが中身はほんとにパチモンだ、と木乃美が言ってた。でも俺は本物よりいいと思う。
　そんなコトより評価すべきは、社内販売なんで一個四十円をきる低価格だ。
すごいぞ、卵をつけても六十円とか」
　驚きだ、と感心する手抜きシェフ。
　そりゃ誰だって驚くわ、とひとり吐き捨てる青子だった。
「そう、良かったわね。
　ところで今日の夕飯はどこにあるの？」
　シェフは二秒ほど考えこんで、ぽん、と両手を合わせた。
「蒼崎、そんなに食べると太るよ」
「つまり、
　これが夕飯だって言い張る気なのねアンタはーっ！」
「言い張るも何も、これ以外用意していない」
　ふたりはそこで睨み合う。
　青子はこんなもの食べるものかと徹底抗戦の意を示し、
　草十郎は食べてもらえる事を大前提と信じており、
　あまつさえ、好き嫌いはいけないぞ、なんて教育理念まで持ち始めていた。
　相変わらず両者の思考は噛み合わない。
「イヤ。私は食べないからね、こんなの」
「お姫さまみたいなこと言うんじゃない。大体、今日の夕食代はこれで三名さま二百円未満なんだぞ」
　けいざい的だ、と胸を張る草十郎。
　有珠はふたりの言い合いと、目前に置かれた未知の食器……実物を見るのは初めてらしい……を交互に眺めていた。もはや完全に傍観者である。
「し、信じられない……ひとり六十円の食事って、アンタ一体いつの生まれよ!?
　このご時世、新しくできた牛丼屋ですら贅沢に原価あげてるわよ、ばか！」
「…………蒼崎。一ヶ月の食費が三万円だけで、あんな好き勝手な食生活をしていたら、俺が君たちに殺される前に全員が飢え死ぬと思うんだ」
「たしかに昨日の有珠の肉料理は素晴らしかった。
　グラム七百円から肉は種類が変わるんだって感動した。
　生協の果汁百パーセントジュースだって、ちょっと本気で馬鹿にできるもんじゃないと反省したよ。
　けど、あれが三日続いたらこの家はどうなってしまうんだい？」
　珍しく常識的な事を口にする草十郎。
　ひっそりと抗議の眼差しを向ける有珠だが、幸い、青子も草十郎も気付かなかった。
「その時はその時よ。
　それにね、昨日みたいなのは滅多にないの。有珠はアンタの料理に触発されて柄にもなく頑張ったみたいだけど！」
　青子の言葉に、有珠は静かに瞳を閉じる。
　……もしかすると、ああして怒りを抑えているのかもしれない。
「……信じられない。じゃあ、今までどんな生活してたんだ、蒼崎たちは」
「その時は、それぞれでなんとかやってたわ。飢え死に一歩手前ぐらい、いい精神修行じゃない」
「――――――」
　あまりの潔さに絶句する。
　……また、これは後の話ではあるが、月の終わりになると頻繁に某会長が昼食をおごらせにやってくる、と某副会長は告発するのだった。
　それはともかくとして。
「そんな昔のコトより今のコト！
　前に見せたあの腕はどこにいったのよ草十郎!?　あれを見こんで今日の夕飯を任せたっていうのに！」
　……なんだかんだと、青子はそれが一番悔しいらしい。
　あの時の焼きうどんはいたく好評で、起きたばかりの青子の不機嫌っぷりは一口で解消してしまったほどだ。
　しかし草十郎は、あれが数少ないレパートリーの一つだという事を語っていない。
　男料理とは、基本的に<独身|ひとり>に<唯一|ひとつ>の<異能力|レシピ>なのだ。
　あと十五年ぐらいしたら流行りそうな特殊能力みたいなもんである。
　以上の誤解から、有珠と青子は草十郎の料理技術を過大評価していたりする。
　そこに原因があったのか、と納得する草十郎。
「……分かった、自腹を切るから出前をとろう。作るにしても材料がないからな。
　そのかわり、それは回収する」
　うむ、と自らの勝利を喜ぶ青子。
　が。出前の献立を取りに行く草十郎の顔を見て、青子は自分の勘違いに気付いてしまった。
　青子がカチンときたのは、夕食に手を抜くとは何事か、という点が大きい。
　けれど草十郎にとって、この夕食は手抜きでもなんでもなく、本気で食べてみたかったのだろう。
　山育ちはこういう物でも喜ぶのか、と青子はつくづく感心する。
　……と。
「……？　有珠、何してるの？」
　青子はようやく、有珠がテーブルに近寄り、しっかりとどんぶりを持っている事に気がついた。
「もうそれはいいんだってば。
　草十郎に返して、きちんとした出前にしましょ」
　青子に言われても、有珠はどんぶりから手を離さない。
　むしろ抱くように持ちあげ、
「これ、わたしのだから」
　静かな有珠の声が、閑散としたサンルームに響きわたる。
　どうやら多数決によって、今夜の献立は決定したらしい。
　まさかそんな、と青子は力なく肩を落とす。
　そういえば、有珠の『自分の物』に対する執着心は異常なものがあったなぁ、と思い返しながら。
　十二月も残すところ十日をきった朝。
　もうじきクリスマスと浮かれる町並みに逆行するように、草十郎はアルバイトに向かっていた。
　今にも雪が降ってきそうな空の下、並木道は鮮やかに賑わっている。
　ここ数日は特に華やかだ。
　冬休みの学生たちは日々親しい友人と顔を合わせ、間近に迫ったイベントを指折り数えて待っている。
　魔よけのお札のように乱立する特製ケーキの見出し。
　ビルの壁一面に貼られた巨大広告。
　駅前広場に集まった数々の露店。
　そういった都会の町の賑わいを横目に、草十郎は電話ボックスに入る。
　中も冷えきっていたが、冬の風が入らないだけ暖かい。
　雪山にこういうのを置いたら便利なんじゃないか、などと思いつつ、
草十郎は電話に十円玉を投入する。
　それなりに慣れた手つきで、暗記したナンバーをプッシュする。
　コールが鳴るまで約五秒。
　コールが鳴ってから、またも五秒。
　十秒間の待ち時間。
　電話ボックスからビルの壁に飾られた広告を見上げて、今さらながら人々の多種多様さに感心したりする。
　電話番号は槻司鳶丸のものである。
　槻司家は三咲市に深く関わりのある家―――古くからの地主、名家であるらしい。
　その豪邸は隣町である<社木|やしろぎ>にある。
　呼び出し音に取ってかわったのは、感じの良い初老の婦人の声だった。
　婦人は丁寧な挨拶の後、目的の人物に繋げてくれた。
「おはよう、鳶丸」
『……あい、おはよう』
　寝惚けているのか、そんな返答が受話器ごしに返される。
「ひとつ相談があるんだけど、いいか？」
『うむ、よきにはからえ』
　……大丈夫かなこの男、と不安に思いつつ、草十郎はまっすぐ本題を切りだした。
『………………』
　しばらく無音。
　受話器の向こうの副会長が、どんな呆れ顔をしているかは分からない。
『……あのな、んな単純なコトで俺を起こすな。
　いいか草十郎。仲が悪けりゃ遊びに行け。機嫌をとりたきゃいいとこ見せろ。んで、それが合わなきゃ早めに手を切れ。俺ができるアドバイスはそんなもんだ』
　以上、と鳶丸は電話を切った。
　もう朝の十時だというのに、まるで朝の六時のような鳶丸の対応に、うむ、と草十郎は真剣に頷いた。
　適当にあしらわれた気はするが、たしかにそれは一番現実的な気がする、と感心しながら。
　電話ボックスの一件から買い物を済ませ、正午前。
　草十郎が洋館に戻ると、青子と有珠は暗い面持ちで黙りこんでいた。
　事情を知らない第三者が見れば喧嘩の後にしか見えない。
　それは<吹雪|ふぶ>くような、チクチク痛いやらヒリヒリ寒いやらな、沈黙による暴力である。
　居間は巨大な冷蔵庫と化している。
　ちょっと天井を見上げれば、<氷柱|つらら>が垂れていても不思議ではないぐらいだ。
“やっぱり、今日もか”
　アライグマとペンギンの仲違いに心痛める飼育員……
つい先日、日雇いで動物園の清掃をしてきた草十郎である……
のような顔つきで、草十郎は青子たちを流し見る。
　言うまでもなく、ふたりは喧嘩などしていない。
　食事以外では終始この調子なだけだ。
　<草十郎|じぶん>の知らないところでの問題――他所からやってきた魔術師との戦いは、日に日に厳しいものになっているらしい。
“もっとも、有珠はいつも通りだけど”
　瞑想っぽく口を閉ざしている青子に対して、有珠は古ぼけた本を両膝に置いて読む、いつものスタンスである。
　違うところといえば、その本が今までの物より遥かに重そうな物であるコトぐらい。
「ただいま。煮詰まってるな、ここんところ」
　コートを脱ぎつつ青子たちに声をかける。
「煮詰まるぐらい事態が進んでるなら、まだ面白みもあるんでしょうけどね。
　今の誤用よ、草十郎」
「？」
　青子の言わんとするところが分からず、草十郎は首をかしげる。
　考えすぎはよくないぞ、とリラックスさせるつもりが、逆に注意されてしまった。
「煮詰まってるってコトはもうじき完成ってコトでしょ。
　進展がないって意味合いなら、行き詰まってると言うべきね」
　草十郎を叱る余裕もないのか、青子は邪険に手を振って“余所にいってて”とジェスチャーする。
　無論、
「じゃあ言い直して。
　やあ、あれから進展はあったかい？」
　それぐらいでめげる草十郎ではないのだった。
「草十郎には関係ないわ。
　<魔術|こっち>の事情に関しては不可侵だって、言わなかった？」
　静かではあるがトゲのある返答。
　ご機嫌斜めなのはいつものコトだが、今日は六割増しのようだ。
「もちろん聞いてる。ところで、お昼はまだだろう？」
　そんな青子の不機嫌さも気にせず、草十郎は食い下がった。
青子が六割増しなら、彼の<暢気|のんき>さは二倍に増強というところ。
　その強引さに、さすがの青子もわずかに怯む。
「どうしたの、今日は。なにかいい事でもあったわけ？」
　別に、と草十郎は首をふる。
「まだなんだ。じゃあちょっと、提案がある」
　言って、ハンガーにかけたコートのポケットをあさる。
　今日にかぎって積極的な草十郎の様子を、青子は訝しげに見据え、有珠は本を読みながら聞き耳をたてている。
「実は今日、給料日だったんだ。
　お金も入った事だし、外に遊びにいこう」
　コートから財布を取り出し、心温まる笑顔で言う。
　一方、ふたりは複雑な顔である。
「……草十郎」
　何か文句を言ってやりたかったけど、それと同じぐらい青子は草十郎に同情した。
　彼はいまだ不仲な有珠と融和するため、なけなしの給料をはたいて行動に出たのだろう。
　考え自体は悪くない。
　そんな事じゃ有珠の“とりあえず今は黙っていてあげるけど、何か目障りな事をしたら消す”感は消えないと分かっていても、その健気な努力に応援ぐらいはしてあげたい。
　けれど、今は三人で街を歩いている気分じゃないし、状況でもないのだ。
「悪いけど、いま忙しいの。暇になったら思い出してあげるから、しばらく我慢して」
　何も言わないが有珠も同意見らしい。
　そんな重苦しい空気にもめげず、
「忙しいって、ここで黙りあってるだけじゃないか。
　徹夜漬けの時、気分転換は必要だって言ったのは蒼崎だろ。行き詰まったら回れ右して戻らないと、どこにも行けない」
　いつになく強気に言って、草十郎は財布から二枚のチケットを取り出し、とん、とテーブルに置いた。
　それは映画の前売券……なんてありきたりなものではなく、有名な水族館のチケットだった。
　行き先は、快速と地下鉄を乗り継いだ先にある、三咲市より何倍も近代化の進んだ街。
　県内最大をうたうショッピングモールだけでなく、来年開場予定の、国際的な規模の演劇、講演を可能とする多目的ホールまで造られているという。
「それと、夜はメシアンでカレーでも食べてくれ」
　さらに、見ようによっては黄金にも見えるお札を二枚ほどぽん、とテーブルにそえる。
　そういえば、夕食の食事当番は草十郎だった。
「じゃ、そういう事で」
　草十郎は用件だけ告げ、財布をコートに戻す。
　それで、青子はようやく自分の間違いに気が付いた。
「ちょっと待った！　そういうアンタはどうするのよ」
「今日はアルバイト」
　さらっと答える草十郎に、そういうコト、と察する青子。
　草十郎は自分の為でなく、ここのところギスギスしている青子と有珠の仲をほぐそうとしているのだ。
　そんなのは彼の勝手な勘違いで、言ってしまえば迷惑なお節介に分類される。
　……しかし。
　そんな風に気を配ってくれた事と、なにより、そこまで気を遣わせてしまった自分の未熟さに反省する。
「――――――」
　青子は対面に座る有珠を覗き見た。
　すると、ちょうど有珠も青子に視線を投げかけているところだった。
　ふたりはしばし無言で見つめ合う。
「……わたしはかまわないけど。
　いまやれる事は全部やってあるし」
「そうね。そういう事なら、せっかくだし」
　観念したように言って、青子はソファーから立ち上がる。
　そんなふたりを、草十郎は満足げに眺めていた。
　それから二十分ほど後。
　青子と有珠は外出の支度を済ませ、居間にいる草十郎に声をかけた。
「それじゃ出かけてくるからアンタもバイト―――草十郎？」
　立ち寄ったふたりに気付かず、草十郎はなにやらテレビの前にしゃがみこんでいる。
「もしかして、ビデオいじってるの？」
「ああ、ちょうど良かった。蒼崎、これ―――」
　作業を中断し、青子たちに振り向く草十郎。
「――――――」
　振り向いて、驚きのあまり言葉を失った。
「？　私たち、お言葉に甘えて出かけてくるけど……どうしたのよ、一体。<棚|たな>の後ろに落とし物でもしたの？」
　固まっている草十郎を青子は不思議そうに見る。
　その挙動不審さに有珠もうんうん、と無言で同意した。
　……実際、頷いてはいなかったが。
「―――いや。
　なんか、
こう」
　すごく驚いたんだ、と続くところを、草十郎は喉を絞めて押し伏せた。
　その驚きが感動に由来するものである事を、彼はまだ知り得なかったからである。
「それじゃ分からないってば。
　まったく、落ち着いてるクセに妙に挙動不審なんだから。有珠に<煙|けむ>たがられても仕方ないって言うか―――」
　有珠は無言で観察している。
　あわてるのでもなく、ぼんやりするのでもなく、こんな風に固まる草十郎を見るのは初めてだったからだ。
「それで、何かあったの？」
「ああ、いや―――これなんだけど。
　蒼崎、ビデオってどう使うんだ？」
　動揺が顔に出ないよう気を取り直し、草十郎はビデオデッキを指さした。
　テレビの下にはＶＨＳ型のビデオデッキが置かれている。
「なに、タイマー録画でもするの？」
　青子はテレビの前でしゃがんでいる草十郎のとなりへ歩いていく。
「いや、木乃美からビデオを借りたんだけど、映らない」
「……まず、テレビの電源が入ってない」
　ぱちり、と音を立ててブラウン管に光がともる。
「次、チャンネルを外線に合わせて……
　あら、意外にも真っ黒。木乃美くんの事だからテープ頭から録画してると思ったけど」
　この時代、ビデオテープはそれなりに高価である。
　120分の記録容量をフルに使うため、せっかちな人間なら一秒も無駄にしたがらないのが常だった。
「わりと趣味には気を遣う性格なのね。じゃ、早送りっと」
　小さなリモコンを手にとって、青子はささっと早送りボタンを押す。
「ん？」
　ビデオデッキからの反応はない。
　ガチャンガチャン、と内部でモーターの空回る音がする。
「……壊してないぞ、たぶん」
　そういう事を言う人間の多くが電気機器を破壊する特殊技能を有しているのだが、それは置いておいて。
「……おまけに、テープが入ってない」
　青子はトドメとばかりに言い捨てた。
「テープ？」
　両面か？　などとベタな思案をする草十郎。
「草十郎。木乃美くんから、何か渡されなかった？」
「渡されたけど。ほら、テーブルの上」
「……………………」
　慣れたとはいえ、時々こいつわざとやってるんじゃないのか、と疑うほどのボケっぷりだった。
「木乃美くんがなんて言ったか、覚えてる？」
「テープ貸してやるから、家に帰ったらビデオを見ろ、と……」
「一番大事な言葉が抜けてたワケね。
　……はあ。失望を通り越して怖くなるわ。あっさり順応しているように見えてこれだものね。どんだけ<綱渡|つなわた>りな毎日送ってんのよ、アンタは」
　ちょっと疲れて、青子は問題のテープを手に取った。
　ラベルにはサインペンで『GAKUGAKU動物ランド暗黒大陸編』と書かれている。
　……生徒会における木乃美芳助の評価レベルをひとつ下げる青子だった。
「……で、このテープをデッキに入れて、再生すればいいの。ツメは折ってないから、録画ボタンだけは押さないようにね」
「ツメとは？」
「ここ。テープの側面にへこみがあるでしょ。これをカバーしているのがツメ。
これを切り取っておくと、もうそのテープは上書き録画できなくなるのよ。
　えーと……そうね、喩えるなら授業のノート。
　大事なものだから、消しゴムで消えないようにフィキサチーフをかけたっていうか。ヒューマンエラーを物理的に防止する、<力技|アナログ>な防御法ってワケ」
　デッキにビデオを入れ、草十郎にリモコンを手渡す。
　たったこれだけの事でひどく精神力を消耗してしまった。
　そんな青子の気苦労も知らず、ピッと再生ボタンを押して喜ぶ草十郎。
「……はあ。前から危なっかしいと思ってたけど、まさかここまでとはね。時代錯誤にも程がある。
　アンタ、山で何やってたの？　空手家じゃあるまいし、熊を倒す修業でもしてた、とか言わないでしょうね？」
　さすがにこれは嫌味だと分かったのか、草十郎は批難の目を青子に向けた。
「それは、もしかして俺を馬鹿にしてるのか？」
「心外ね、事実馬鹿にしてるんだけど」
　きっぱりと青子は答える。
　テレビでは問題のワニがむはぁー、とあくびをしているところだった。
「そんな馬鹿な話があるもんか。なんで熊を倒すために修業しなくちゃいけないんだ？」
　ぷいっと顔をテレビに逸らす草十郎。
　彼にしては珍しく怒ったのだが、顔を背けた先で大口を開けるワニの映像と向き合い、びくっと後退したりする。
　そんな光景を見て、青子は嬉しげに口元を緩めた。
　この少年はやっぱりこうでなくてはいけない、と安心するように。
「けど蒼崎。この機械、ずいぶんほこりがつもっているけど、掃除はしていないのか？」
「私はあんまり使わないし、有珠は見ないから今までほっぽってただけよ。
　ダメもとでトレーニング用に買ってもらったんだけど、飽きちゃった。イメージでどうにかできる問題じゃなかったっていうか」
　昔の自分の浅はかさを<嗤|わら>うように、青子は両肩をすくめる。
　またひとつ、ビデオデッキは飽きるもの、という間違った単語を覚える草十郎である。
「それじゃ、留守番お願いね。
　バイト、ほんとは無いんでしょう？」
　微笑みながら言って、青子は居間から立ち去っていった。
「………………」
　青子の笑顔に虚を突かれて、言葉につまる草十郎。
　やっぱり、あんな嘘が通じる相手ではなかったのだ、と頬をかく。
　そんなふたりのやりとりを最後まで傍観してから、有珠もロビーに向かっていった。
　ひとり居間に残され、さて、と草十郎はソファーに座る。
　……まあ。
　とりあえず、やりたいコトはきちんと機能したのだし。
　あとは彼女たちが帰ってくるまで、こうしてワニを観察していよう、と思いながら。
　三咲町から地下鉄線で六駅分。
　そこから更に快速で三駅分。
　一時間ほどかけて、青子と有珠は<有坂|ありさか>駅に到着した。
　有坂は政令指定によって一から開発された都市だ。
　三咲町は古きを残し、新しきを築く方針で生まれ変わった町だが、有坂は何もなかった土地に<高層建築|ビルディング>を築き上げた街である。
　十二月末、冬休みまっただ中。
　午後を過ぎた有坂の街の賑わいは、三咲町とは比べものにならない。
　なにしろ大型デパートや各種専門店、多目的ホールで賑わう、県内有数の近代都市だ。
　その結果、有坂駅前は地元の人々より、遠方からの来訪者が集まる歓楽地になっていた。
「へえ、あれが新しい演劇ホールかあ。
　県内最大のコンサートホールらしいけど、中はどうなってんだろ。なんか周りのビルより背が高くない？」
　目当ての水族館に向かう途中、多くの人々とすれ違う。
　青子は雑踏に慣れたものだが、
　<傍|かたわ>らの有珠は終始無言だ。
　有珠自身も、有珠とすれ違う人々も、道を行く白い少女の姿に違和感を覚えている。
「来年夏にはビッグアーティストも来日予定……
って、ピンクトゥルーデが入ってない！？
　ちょっと、これ日本初ライブよ有珠！？」
　看板にある予定表に一喜一憂する青子。
　青子的に注目株のロックバンドらしいのだが、当然、有珠はあまり関心を持っていない。
「それより、セレモニーに予定されてるポーランド楽団の方が驚きだと思うけど。
　随分とお金がかかっているようね。
……本当、懲りない人」
「あ」
　しまった、と口を<塞|ふさ>いで青子は足を速めた。
　建設予定図の下にはお馴染みの、久遠寺財閥ゆかりの企業名があったからだ。
　お目当ての水族館は、高層ビルの最上階に造られていた。
　もう目新しさはないのか、
　階下の映画館に客足をとられているのか。
　エントランスの人影はまばらで、館内の空気は落ち着いている。
　無音というほど寂しくはなく、
　町中ほど騒がしくはない。
　そんな美術館さながらの<趣|おもむき>が気に入ったのか。
「――――――」
　有珠は静かに、感じ入るように息を呑んでいた。
　はじめてサーカスを見た子供のようだ。
　驚きと期待に、知らず、目を見開かせている。
「お、気に入ったみたいね。良かった良かった。
　草十郎お薦めの物件は、気むずかしい有珠さんのお眼鏡にかないましたか」
　青子もつられて笑顔になる。
　有珠の驚きはそれぐらい微笑ましいものだったのだ。
「……別に。屋上にある水族館が珍しいだけ」
　水族館のエントランスは久遠寺邸のホールほどの大きさで、壁には館内の見取り図が展示されている。
　野外のペンギンショウは休演中だった。ペンギンのペン太くんが怪我につき治療中らしい。
　少し残念だが、有珠は気にとめず館内案内を目で追う。彼女にとってペンギンはそう珍しいものではないらしい。
　……と。
「―――、え」
“そんな、嘘よ”……と。
　有珠は悲鳴を飲みこむように喉を鳴らすのだった。
「なになに、どうしたの？」
　館内案内を見る青子。
　屋敷内ではたまに見られるが、外で有珠が取り乱すのはまずあり得ない。
　一体なにが有珠を<戦|おのの>かせたのか。
　案内にはこれといって珍しい部分はないが……
「ゾウガメがいない」
「え？」
「話が違うわ青子。
　どうしてゾウガメの展示スペースがないの？」
「どうしてって……そりゃあ、ゾウガメぐらいになったらもうほとんど陸上生物だからじゃない？　大きいし」
「なんで。ペンギンはいるのに、不公平よ。
イルカだって許せないわ」
　なんだかぜんぜん納得できない。
　ゾウガメが不在ならイルカだって不在であるべきだ、と妙な公正さからメラメラ瞳を燃やす有珠だった。
「あー……言われてみれば、確かに。
　ペンギンとイルカは定番なのに、なぜゾウガメだけ外されるのか。ちょっとした日常の落とし穴ね」
　ま、単に不人気だからだろうけど。
　そんな感想を心の中だけに留める青子。彼女なりに空気を読んだ結果である。
「有珠、こっち。チケットはあるから、<販売機|そっち>に並ぶことはないわよ」
　ゾウガメ論争から一分後。
　草十郎から貰ったチケットを受付に渡して、<人気|ひとけ>の途絶えた入り口に向かう。
　青一色で染められたエントランスとは対照的に、ゲートから延びる通路は暗く細長い。
　ここから先は隣人の顔も見えない密閉空間。
　魔術の手でもなく魔法の手でもない、文明の手によって現実と切り離された小宇宙だ。
　水槽だけがライトアップされた、影と水色の世界。
　ガラス一枚<隔|へだ>てた人工の海を眺めながら、ふたりの魔女は歩を進ませる。
　百の<異世界|コロニー>を<航|わた>る旅。
　それぞれ温度も環境も違う水槽たち。
　ひとつひとつが同じようで別の時間。
　光の屈折する<水底|みなそこ>では方角は不確かで、彼女たちの会話でさえ、断片的に消えていく。
「そういえば、有珠の家ってあれだけ大きいのにプールとかないわよね。なんで？」
「……呆れた。水槽を観て何を想像したのかは聞かないけど。
　必要ないものを欲しがるのは貴女の悪い癖ね、青子」
「えー、必要ないってコトはないんじゃない？　水遊びは<日|こ><本|っち>より<英国|そっち>の方が馴染み深いでしょうに。
　あ。もしかして有珠、泳げない？」
「泳ぎの経験ぐらいあるわ。夏は湖で何度も遊んだもの。
わたし、大型のセントバーナードにだって負けなかったのよ」
「セントバーナードって……有珠さんったら、もしかして<息|いき><継|つ>ぎとか苦手かしら？」
「この世でもっとも聞きたくない言葉のひとつね。
　クロールとかバタフライとか、発明した人は半魚人になればいいのに」
　かつ、かつ、かつ。
　海を巡る足取りは、普段のものよりおごそかに、繊細に。
　少女たちの会話はうわのそら。
　ここでは、視線は青いスクリーンにのみ向けられるので。
「でも驚いた。あんなにあっさり館の留守を任せるなんて。アイツがこっそり西館に入るかも、とか考えなかった？」
「……彼、そこまで考えなしじゃないでしょう。
　それに―――」
「それに、それならそれで手間が省けてせいせいした？」
「……そうじゃなくて。
　一度交わした約束は、破らないんじゃないかって」
　なるほど、そういうコトもあるだろう。
　長い髪の少女は感心したように頷いた。
　ちょっとだけ目が開いたところを見ると、驚きも何割か。
　少女たちは次の世界にふわふわと。
　かつ、かつ、かつ。
「ところで、水族館は初めて？」
「これで二度目。昔、友達とふたりで行ったきりよ」
「うそ、ほんと？」
「本当。六年以上も前。まだイギリスにいた頃」
「そうじゃなくて友達の方。アンタ、友人はいないって言ったじゃない」
「……昔の話よ。わたしたち、同じ名前だったの。
　それが縁でよく遊んでいたけれど、長続きはしなかったわ」
「そっか、あっちじゃそう珍しくない名前なのね、アリスって。こっちでいうところの良子とか、花子みたいなもの？」
「ええ。<青子|あおこ>とか<赤子|あかこ>とか、<黒子|くろこ>とか<白子|しらこ>みたいなものよ」
「……後半はみんな普通名詞なんですけど」
　ひとつひとつに名前があるのが彼らの社会。
　水の中もくるくると目まぐるしいけれど、
　人間も人間で、いろいろどうでも忙しいよう。
　少女たちは手を振りながら、次の世界にかつ、かつと。
「そう言う青子は、彼をどうするつもりなの？」
「どうって、今の一件を終わらせるまで大人しくしてもらって、落ち着いたら忘却のルーン探して、なかった事にするだけでしょ？　これ以上迷惑かけられないわよ」
「……それは、わたしに？」
「へ……？　―――あ、うん、そう。そうに決まってるじゃない。
ところでこの魚、キレイよね。なんか泳ぎたくなってくる。有珠、来年の夏は海にでも行ってみよっか？」
「海って……あの、海？」
「もちろん。夏の海っていったら灼熱の太陽と砂浜、水平線に沈む夕日ってね。
　今年は行けなかったけど、来年は一緒に行かない？」
「呆れた。本当、貴女って楽観的。
　……でも、そうね。夏まで生きていられたのなら、そういう事もあるかもしれない」
　かつ、かつ、かつ。
　人間の少女たちは次の水場に跳んでいく。
　眺めていたのはお互いさま。
　冬の海に訪れた客人は、涼しい顔で消えていった。
　それではさよなら、かつ、かつ、ばたん。
　……徒歩による航海は一時間に及んだ。
　展示物の多さもさることながら、入り組んだ通路は迷路のようで、気付かないうちに一フロア上の階層にあがっていたりもした。
　最上階と聞いていた事もあり、青子も二層構造と気付いた時は感心したものだ。
　おそらく、本当の最上階には水族館からしか行けない作りになっているのだろう。
　どのようなアトラクションであれ、サプライズはあるに越したことはない。
「有珠？」
　ふと振り返ると有珠の姿がない。
　さっきまで一緒にいたのに、と同居人の姿を探す。
　探し人はすぐに見つかった。
　闇に映える白い<外套|コート>が、ライトアップされた水槽の前に佇んでいる。
　少女はじっと青い水槽を見つめていた。
　散漫と、ありきたりな風景を見つめるように。
「どうしたの有珠？　気分でも悪くなった？」
　微妙な様子の変化を感じて声をかける。
　有珠の体にある、いつもの張りつめた空気がなくなっている気がしたからだ。
「珍しい魚でもいた？　それ、余り物を端においやりましたって感じの水槽だけど」
　有珠はそうね、とだけ返答した。
　少女の視線の先にあるのはひとつの影。
「ワォ、マンボウ」
　芝居がかった青子の声に、有珠は無言でうなずく。
　この、端においやられた水槽のさらに端っこで、彼は静かに漂っていた。
　一般的に言って、マンボウはカタチのいい魚ではない。
　海を泳ぐ生物として、なぜこんな進化を？　と聞きたくなる形状だ。
　平べったい魚身の上下にある舵びれで泳ぐらしいが、他の魚のようなスピードは期待できまい。
　青子からすれば、体も目も、その在り方ものっぺりとした不思議生物である。
　が。
「ね。有珠、あっちの水槽みない？　ジンベエザメの回遊とか、<見|み><目|め><麗|うるわ>しいわよ？」
　有珠はこのように、マンボウに夢中である。
　ふらふらと漂う魚界の<金平糖|こんぺいとう>を見つめ、彼がうまく<転回|ターン>できずコツコツと水槽にぶつかる度に、
「青子。この子、泳ぐのが下手だわ」
　水槽に触れようと指を伸ばし、大人げないと引っ込めていた。
「……ま、いっか。<愛嬌|あいきょう>だけはあるしね、マンボウ」
　こうなっては有珠はテコでも動かない。
　仕方ないと観念して、青子は有珠に付き合い、<座布団|ざぶとん>のような硬骨魚を眺めるのだった。
「へー。マンボウってフグ目だったんだ。なになに、マンボウのメスは一度に三億個の卵を海中に放出する、地上でもっとも多くの卵を産む脊椎動物である……なるほどねー。
　他の魚たちにとっちゃ格好のエサになるから、多く産むこと、それ自体が生存のための手段になるワケか」
　興味深く解説を読む青子だが、有珠はマンボウの生態はどうでもいいらしい。
　平たい魚影がコツコツと水槽の壁に当たるたび、目を輝かせたり、落ちこんだりする。
　そんな中、不意に少女は呟いた。
「さっきの話だけど」
「へ？　さっきの話って、なに？」
「彼について。留守を任せるとか、そういうの」
　気が付けば、少女はいつもの姿に戻っていた。
　張りつめた空気。
　何処であろうと、あの洋館の中であろうと、<頑|かたく>なに人を拒む冷たさに。
「わたしの気が変わった訳じゃないわ。
　依然として彼の事は分からないもの。分からない人を、どうやって信頼すればいいの？」
「……まあね。でも、じゃあどうして？」
「青子の事は分かるわ。貴女はいつも正しい選択をする。……だから、青子を信じる彼の人間性は、信じてもいい」
「………………」
　草十郎の事は分からないし、理解する気もない。
　けれど、<有珠|じぶん>の協力者である青子を信じているのなら、その選択に免じて許してもいい。
　有珠は今の自分の感情を、そう落としこんだらしい。
　分からない人は信頼できない、と少女は言う。
　けれど逆に言えば、それは―――誰かを信じたいから、深く理解したいと望んでいるようにもとれた。
「……ま、口にするのは何だからつっこまないけどね。
　それより、なに？　そんなに私のこと信頼してくれてたの、有珠？」
「……ええ。好意はともかく、信頼だけはしているわ。
　だって共犯者でしょう、わたしたち」
　白いコートが揺れる。
　……ひとときの旅は終わった。
　水の国の出口はすぐそこだ。
　少女は水槽から視線を逸らして、付き合いのいい同居人へと歩きだした。
「……優しい顔をしているのに、傷だらけね」
　最後に小さく。
　水槽の孤影に別れを告げるよう、呟いて。
　冬の日没は早い。
　午後の斜陽が完全に失われた午後四時。
　洋館は町中よりいくぶん早く夕暮れを迎えようとしている。
「―――なるほど。君の生態はよく解った」
　冷えこんできた中、お茶だけを<暖|だん>にして草十郎はひとりうなずいた。
　いいかげんワニは飽きたのか、ソファーに身を預けて、ぼんやりと窓の外を眺めている。
　一度やってみたかったのか、ソファーに寝そべったまま草十郎は動かない。
　三時間近くワニを観察していた影響か、あんなふうに日がな一日横になって暮らすのはどんな気持ちなのか、と真剣に悩んでいるようにも見える。
「…………」
　いい機会だし、いっそ青子たちが帰ってくるまでソファーで眠ってみようか、などと草十郎が考えた矢先、洋館には不釣り合いな怪音が響いてきた。
「……？」
　<四足|ワニ>から<二足|ヒト>に進化するように、のっそりと起き上がる。
　ごんごん、という音は辛抱強く定期的に続いていた。
　アパート暮らしの時に何度か経験した、玄関からの呼び音である。
「……むう。新聞の勧誘か？」
　こんな丘の上までたいしたもんだ、と感心しながら草十郎はロビーに向かった。
　音は妙に響き渡る。
　あの玄関には呼び鈴らしきものはないし、来訪者はいかなる道具で扉を叩いているのか。
　手だとしたら、なんていうか、<畏|い><怖|ふ>すべき鉄拳勧誘である。
　館の入り口にあたる玄関は、草十郎から見れば要塞の如き堅固さ、豪華さだ。
　両開きの扉は頑丈で、<破城鎚|はじょうづち>でも持ってこないかぎり破られる事はないだろう。
　そんな扉が、何度目かのノックで悲鳴を上げるように軋んでいる。
　どうも相手は、このまま出てこないのなら城門突破も<辞|じ>さないかまえらしい。
　新聞の勧誘バイトも経験済みの草十郎である。なので、
「はーい、いま開けまーす」
　彼らは彼らなりに必死な事を知っているので、別段そこには驚かなかった。
「…………」
　それは本日二度目の、正体不明の驚きだった。
　草十郎は言葉なく立ち尽くす。
　新聞の勧誘にしては珍しく、若い女性だったから……ではない。
　日没前の中庭を背景にした女性の姿は、自分なんかよりよほど、この洋館に相応しく思えたからだ。
　細いが、しかし、凛とした女性だった。
　背の程は草十郎よりやや低い。女性としては長身の部類だろう。
　緑色の服は地味な色彩のクセに派手で、この国の文化とは系統が違っていた。
　<清楚|せいそ>なのに堂々としている。
　華やかなようで、その実、強い芯が通っている感じ。
　そんな、本来ならあまり混ざらない要素を持つ女性を、草十郎はよく知っている。
　ただ、草十郎の知っている彼女と違い、この女性は威圧より優しさの方が際だっていた。
　中性的に見えるのは短髪だからだろう。
　見るも鮮やかなブラウンの髪はうなじまでしかない。
　呆然と、もったいないな、と思う草十郎だった。
　そんな草十郎を見て、女性は小さく微笑んだ。
　ずいぶん年上のように見えるのに、そんな仕草が悪戯っぽくて可愛いことこの上ない。
「――――――」
　自分は惚れっぽい<性質|たち>ではないと信じていた草十郎だが、なんだかそれも怪しいな、とうなだれる。
　ともあれ、こうして黙りこんでいては失礼だ。
「ええと、どちら様でしょうか」
　微妙にドギマギしている心臓を落ち着けて問いかける。
　それに、
「こんばんは。青子います？」
　女性は青子という言葉に親しみをこめて、笑顔で返してきたのだった。
「蒼崎はいないんです」
　青子の留守を告げる草十郎に、女性はあら、という意外そうな顔をした。
「それじゃあ久遠寺さんも留守なんだ」
　草十郎はしばし戸惑う。
　有珠を『久遠寺』と呼ぶ人間は今までいなかった。それも親しげに、十年来の友人のようにだ。
「そっかあ。夜ならともかく、日中から二人で出かけるとは感心感心。
カタチだけの雑居だろうと思ったけど、ちゃんと上手くいってるのね」
　にこりと微笑まれて、つい頷く草十郎。
　青子たちと面識がありそうなのも驚きだが、この女性はそもそも印象がおかしい。
　歳の頃は二十代前半だろうけれど、そう<草十郎|じぶん>と歳が離れている気がしない。
　屈託のない口調と明るい表情が、本来の美貌を<曖昧|あいまい>にしているような。
「それじゃあ、帰ってくるにしても夜？」
「はい。終電前には帰ってくると思いますけど」
「そう。ところで君、誰？」
　それはこっちの台詞なんだけど、と心の中でちょっとだけ困る草十郎だった。
　誰？　という問いへの返答は、草十郎には難しすぎる。
「すみません。誰か、と言われてもよく分からなくて。
　とりあえず、今は留守番してますけど、実は蒼崎の友人なんです」
　まったく頼り気のない返答。
　馬鹿にしているとしか思えない少年に、女性はぱあ、と顔を明るくした。
「へえ、面白いこと言うのね君。名前はなんて言うの？」
「あの……静希草十郎、と言うのですが」
　さらに自信なげな答えに、女性は笑いだしてしまった。
　草十郎にはどのあたりが可笑しかったのか分からなかったが、そう気分の悪い笑い声ではない。そこには卑下するものはなく、包むような温かさがあったからだ。
　そうして。
　女性はひとしきり笑った後、やけに親しげな眼差しで草十郎を見つめ直した。
「いや、気に入ったわ。えーと、草十郎くんだっけ？
　君には合わない名前だけど、それも暗示的で素敵だし。じゃ、そういうワケでお茶でも淹れてくれない？」
「？　あ、いや」
　女性は草十郎を置き去りに、堂々と玄関を抜けていく。
「うわ、呆れた。ほんと以前のまんまじゃない。
　せっかくこっちに持ってきたんだから、悪いところは<修復|リフォーム>したものと思ったけど。なにも柱の歪みまで再現しなくてもいいのにねー」
　女性は楽しげにロビーを観察する。
　草十郎は玄関に置き去り状態。
　<靴|ヒール>の音はロビーを横切って、居間に続く扉に向かっていく。
「どうしたの？　こっちでしょ、居間は」
　勝手知ったる<他人|ひと>の家状態で、女性は迷いなく居間に続く廊下に消えていった。
「蒼崎か有珠、どっちかの先輩……かな？」
　ぽつりと呟いて、草十郎も居間に向かった。
　草十郎が居間に入ると、女性は感心しきった顔で、居間中を<漫|すず>ろ歩いていた。
　公園の並木道を散策するような、
　懐かしい空気を吸って踊りだしそうな、
　女性というより少女らしい軽やかさで。
「ん？　よく見れば、このテレビって―――」
　３０インチのテレビが珍しいのか、女性は食い入るように居間に不釣り合いなテレビを見つめた。
　……間の悪いことに、ブラウン管には流しっぱなしのがくがく動物ランドの映像。
　ちゃんと停止ボタンを押しておけば良かった、と草十郎は悔やみつつ反省した。
「あの、もし」
　気を取り直して話しかける。
　とりあえず色々問題はある気はするけど、まず<女性|あいて>の名前ぐらいは聞かなければ、と意を決したのだ。
　そんな草十郎に、女性は一転して冷たい視線を向けた。
　細く長い眉と、相手を圧倒する瞳が、眼鏡ごしに草十郎を睨む。
「――――――」
　そんなつもりはなかったけど、自分に重大な落ち度があったらしい―――と思うしかない批難の眼差しだった。
　草十郎は申し訳なさそうに言葉を失う。
　そこへ、
「やだなあ草十郎くん。もし、なんてかしこまって。
　私、そんなおばさんに見える？」
　くすりと。
　鋭い眼差しを崩して、からかうように女性は笑った。
　もちろんそんな事は全然なくて、比喩するならお姉さんという単語がぴったりくる。
　そんな気持ちを全身で表現する草十郎に、女性は満足気に微笑んだ。
「よろしい。なら、そんな他人行儀な話し方はやめましょ。つまらないし、<柄|がら>じゃないわ」
　言って、彼女はソファーに腰を下ろした。
　あくまで自然に、優雅に、物音ひとつ立てずに。
　その、あまりにも洗練された動作と姿勢が、
『さあ、早くお茶淹れてきて』と語っている。
　疑問は究明されないまま、仕方なく草十郎は台所に向かった。
とにかくお茶を淹れないと話は進まないらしい。
　葉は以前、無断使用の<咎|とが>で弁償させられたフォションを選んだ。
　カップは青子を訪ねてきた人なので、青子の持ち物であるセーブルのカップで紅茶を淹れる事にする。
　深海を思わせるカップにお茶をそそいで、草十郎は居間へとまい戻った。
　<恭|うやうや>しくティーカップをテーブルにおいて、草十郎は女性を見る。
「あの。訊ねるのが遅れましたけど、蒼崎の知り合い……かな？」
　言われた事はすぐに直す草十郎だが、この女性にはつい丁寧語になってしまった。
　ので、強引に語尾を砕けたものにする。
　それが不満だったのか、女性はまたも眼差しを険しくした。
「それ。その蒼崎って言うの、やめてくれない？　なんだかくすぐったくて。青子でいいでしょ、呼び方は」
　女性はすました顔でカップを手にして、一口だけ口をつけた。
　青子たちには下手、苦い、と不評なソレを、女性は笑顔ひとつで受け流す。
　<結果|あじ>はどうあれ頑張ったで賞、という温情が存在する事を、のちに知る草十郎なのだった。
「ほら、立ってないで座って。
　見下ろされるのは好きじゃないんだ、私」
「……？」
　よく知る同居人に似た話し方に、ますます首をかしげる草十郎。
そう言えば―――唐突ではあるが、この光景にも見覚えのあるような―――
「…………あれ？」
　ソファーに座っている女性の姿から、忘れかけていた記憶が蘇る。
　そんな彼を、女性は楽しげに見上げている。
「思い出した？　私もちょっと驚いたわ。
青子を訪ねにきたら、いつか見た君が出迎えてくるんだから」
「――――――、あ」
　くすくすと笑う女性を見て、草十郎は完全に思い出した。
　あの時は一瞬しか見ていなかったが、間違いない。
　この女性こそ、いつかのパチンコ屋でフィーバーを出していた長い煙草の<達人|ひと>……！
「あの時は私もショックだったなぁ。
　草十郎くん、目が合うなりいきなり逃げ出したでしょ？
　そんなに私ってこわもてなのかしらって、あの日の晩は真剣に悩んだんだから」
　そんな思い出話を、女性は楽しそうに語る。
　そう。あの時は青子の秘密を知った翌日で、草十郎は公園にいた<青子|ひとかげ>を、この女性と勘違いして逃げだしたのだ。
　結局は人違いだったけど、あの時、なぜあんな事を思ったかと言うと―――
『……そうか。雰囲気が似てるんだ』
　そこまで思って、草十郎はやっと来客の正体に気が付いた。ちょっと考えればすぐに分かった事じゃないか、と自分を叱りながら。
「それじゃあ、あなたは」
　言い掛ける草十郎の口を塞ぐように、女性は片手を上げた。
　人差し指で草十郎の顔をばん、と射つように。
「ごめんなさい。君の仕草がちょっと可愛くて、からかいがすぎちゃった。
　自己紹介が遅れたけど、私は蒼崎<橙子|とうこ>。
　率直に言うと、青子の実の姉ってワケね」
　なるほど、見惚れるはずだと納得する。
　見るものを勇気づける笑顔を持った女性は、確かに青子の未来の姿を映していたのだから。
　……もっとも。
　常に前向きな青子と違って、この人物はななめ前あたりを面白がって眺めているタイプのようだけど。
「あの子が困ってるって聞いてね。
　いいかげん忠告してあげる気で、はるばるやってきたわけなのでした」
　ふふ、と妖しい笑みを浮かべて、青子のお姉さんは紅茶を一口。
　その仕草に釣られて、草十郎もソファーに腰を下ろした。急な来客に驚いてばかりだったが、そういうコトなら安心できる。
　そうして、時刻は午後五時前。
　遠出した青子たちも、そろそろ帰途につく頃だった。
　三咲市唯一の地下鉄線。
　開通からまだ半年ほどしか経っていない真新しいホームの先端に、彼女たちは<佇|たたず>んでいた。
　時刻は午後六時半。
　有坂から戻ってきた青子たちは地上には上がらず、既に二十分近い時間をここで浪費していた。
「青子」
　呆れ声で有珠は語りかける。
「ちょっと待って。あともう一回だけ、ね？」
　寒さに震えながら、両手を合わせて有珠にお願いする。
　彼女がここまで甘える事は珍しい。
　鳶丸あたりが見たら可愛いというより不気味だと用心するに違いない。
　青子はホームの先端―――深い闇になっている、レールの先を見つめている。
「……貴女の趣味、変わってるわ」
　呟いて、仕方なく有珠はベンチに座った。
　いつもならひとりで先に帰るところだが、今日は気分がいいので付き合う事にしたらしい。
　できるのなら今日はこのまま、すぐに溶けてしまう雪のような手触りであっても、幸せな気分のまま帰りたい。
　……穏やかに閉じられた有珠の<目蓋|まぶた>は、そんな気持ちを代弁しているようだった。
　かくして、人影のない地下鉄のホームで、ふたりは乗る予定のない電車を待つ事となった。
　開通したばかりの地下鉄。
　高めの料金設定や、そもそも地下鉄に馴染みのない三咲市の人々の気質もあって、利用客はまだまだ少ない。
　活気がないのは問題だが、そのおかげでホームはいまだ新品同様だ。
　思えば、人のいない地下鉄はこの上なく原始的だ。
　此処はもともと人の住まぬ<安寧|あんねい>の地。
　無音にして無生。
　物言わぬ微生物たちが息づく、生者には辿り着けぬ<根|ね>の国である。
　真白すぎる人工の明かりは生命を感じさせない。
　はっきりと光と影に分かれた空洞。
　<電車|ふね>は乗客のないまま闇に出航する。
　レールに挟まれたホームは、地底の海に造られた桟橋のようだ。
　そんな、地上の風景とはかけ離れた場所で、青子は目を<瞑|つむ>って<振動|ふなで>を待つ。
　青子は帰宅を少し遅らせて、ホームで休もうと提案した。
　理由は単純。
　蒼崎青子は地下鉄の通過音に安らぎを覚える、奇妙な趣味を持っていたからだ。
「今年はもうライブハウスに行けそうもないし、これぐらいのワガママはいいでしょ」
　青子は目を閉じたまま有珠に語りかける。
　付き合いで三回ほど電車を見送っている有珠はうなずきもしない。
　それきり静寂。
　青子はあと数分後の電車の到着を心待ちにしながら。
　有珠は、そんな青子に付き合いながらも地下鉄の壁を見つめながら。
　掲示板によると、次の電車は五分後に到着予定。
　暗い穴からは、カタカタと風の音が響いてくる。
「――――――」
　地下鉄のホームは人工の結界だ。
　駅員の姿はなく、出入り口にあたる通路はあまりにも狭く、少ない。
　結界を張るまでもなく<人避|ひとよ>けは成立している。
　地上に通じる階段の前には、いつのまにか六人ほどの人影が立っていた。
　―――ただし、全員同じ顔。
　一歩も動かず、三日月のような笑顔のまま、ホームにいる有珠たちを眺めている。
「……<鈍|にぶ>っているにも、程があるわね」
　自分への落胆から、静かに有珠はため息をついた。
「？　どうかした、有珠」
「……どうもなにも。この駅で降りたのは貴女とわたしだけなの、気付いていた？」
「そりゃあね。相変わらず、ここの地下鉄ってば利用客が少ないって…………」
　そこまで言いかけて、青子はち、と舌を鳴らした。
「で。そう言う有珠はいつ気が付いたの？」
「……憂鬱なコトにたった今よ。
　青子ばかり責められないわね。貴女とわたしが一つなら、こんな事もなかったのに」
「つまらない喩え話は口にしない」
　淡々と、視線も合わさず言葉を交わすふたり。
　そんな彼女たちとは対照的に、階段を<塞|ふさ>いでいた人影が動きはじめた。
　彼らは一律、二足歩行の生き物である事を忘れたように倒れこみ、四つんばいになって前進する。
　……その姿は巨大な<蟻|あり>そのものだ。
　ぞろぞろと、次々と。
　階段のみならず、レールのある洞穴からもカタカタと音を響かせて大挙してくる。
　その数、目測で三十体以上。
　おぞましい事に、響いてくる足音は増していくばかりだ。
「信じられない。これだけの自動人形、集めたら<三咲|うち>どころか南<仏|フランス>の一等地も買えるんじゃない？」
「……ええ。もっとも、こんな出来じゃ買手は見つからないでしょうけど」
「なんだ、ガラクタはガラクタか」
　青子の罵倒に応じて、人影の一体が飛び跳ねる。
　ダンプカーに<撥|は>ねられたような、唐突な突進。
　有珠は動かず。
　青子はそれを待っていたかのように、振り向きながら右腕を振るった。
　青い光弾はたやすく外皮に防がれた。
　魔力を弾いただけの<魔弾|スナップ>では、この人形たちには通用しない。
　人影はカエルのように地面に這い、首をくるりと一回転させて<獲物|あおこ>を探し求めている。
「……全部で三十か。悪いけど一人でやらせてもらうわよ有珠。この前のを実力と思われたままじゃ不愉快だ」
　ホームの端にまで移動して、青子はベンチに座ったままの少女に語りかけた。
　あの遊園地での反省は山ほどあるが、特に痛恨なのはミラーハウスでの一戦だ。
　人形戦に関して言うと、青子はまったく戦闘準備をしていなかった。
　けれど今日は万全の態勢で、フォロー役として有珠までいる。
　ここで思う存分、雪辱を果たそうと青子は魔術刻印に火を灯し―――。
「私の後ろまで下がって青子。そこにいたら、貴女まで食べてしまう」
　有珠はそれを、持ち上げた一指だけで停止させた。
「待って―――有珠、それは」
　地中の深海に、夜の鐘が響いていく。
　桟橋は<海神|わだつみ>の腕に抱かれるように、
　白い、
　白い粒子に覆われていく。
「……青子のやり方じゃ<疵痕|あと>が残るでしょう。
　もうじき次の電車も来るし、それに―――」
　白いヴェールの向こうで、不確かに伸び上がる少女のカタチ。
　悲壮な<群舞|バレエ>のようだ。
　<主役|プリマ>の周りを囲む人形たちは異常を察してざわめいている。
　彼らとて人間外の、神秘に属する器物である。
　あの少女が恐れるに足りるモノだと、人間である青子より何倍も悟っている。
　なので逃げる。
　人形たちの主人も、危険を感じたのなら撤退しろと言っていたのだ。
　けれど、
もう動けない。<主役|プリマ>を見守るダンサーたちは、のきなみ、
アキレス腱を外されてしまったらしい。
「―――それに。
　気分を台無しにされたのは、貴女だけじゃないわ」
　外される黒い手袋。
　洋館の中とは一変して、外では異常な寒がりである彼女の防寒ぶりは凄まじい。
　二枚重ねの手袋が、ぱさりとホームに落ちる。
　濃度を増していく白い闇。
　<見|ギ><逃|チ><し|ギ><て|チ><く|ギ><れ|チ>、と悲鳴をあげる影の集団。
　　　　“さあ―――ごっこ遊びをしましょう”
　何もかも不確かな、濃霧に映し出される暗黒童話。
　その中で。
　<凶歌|まがうた>のような彼女の声だけが、血のように<鮮明|リアル>だった。
　がつがつ／ざりざり／ぎしゃむ。
　最後に残った人影が消失した。
　壁には／床には／天井には／
　あえなく、異質な<擬音|オノマトペ>が染みついている。
　……彼らの悲鳴は、<拭|ぬぐ>っても消えない血の跡のようだ。
　三十体におよぶ人形たちは、速やかに、けれど味わうようにゆっくりと、得体の知れない怪物に<咀嚼|そしゃく>された。
　わずか一体分……それも片腕一本だけが、淋しくホームに残されている。
「……持ってきてたの、アレ？」
　青子は嫌悪を隠さずに、傍らの少女に語りかける。
　―――濃霧の怪物。
　三体の<貴重品|プロイキッシャー>の一つ、マインスターの薔薇の猟犬。
　それが、いま吹き荒れた暴力の名称だ。
　青子の言葉に刺があるのは、有珠が、その正体にあたる器物を持ち歩いていたからだ。
　三大のプロイはそれだけで強力な呪力を放つ。
　防衛戦ならともかく、今日のようなプライベートで持ち歩かれては、相方である青子も面白くはない。
　大げさな表現ではなく、外食の際、巨大な爆弾を忍ばせているようなものなのだから。
「ま、次からは一言お願いね。
　他のプロイならいいけど、今の<玩具|ヤツ>だけは別よ。できれば洋館限定にしてほしいぐらい」
「…………
悪かったわ。でも、最近なにも食べさせてなかったから」
　有珠はホームに転がった人形の腕へと歩いていく。
　たしかに、今のは食事以外の何物でもなかった。
　食べる者も見えなければ、食べられる物も血を流さないプラスチックな<情事|もの>だったけれど。
「青子、ちょっと」
　残された人形の右腕を拾い上げ、青子を呼びつける。
「これを見て。わたしたちは今まで、相手を人形<遣|つか>いと思っていたけど―――正確には違ったみたい。
　分かる？　この人形たちは新しすぎる。
　この子たちが造られたのは十七世紀以後よ。……それはそれで、信じがたいコトだけど」
「なんですって？」
　……矛盾した話ではあるが、<自動人形|オートマタ>は古いものほど性能が良い。
　十七世紀以後、人形・人体模造の魔術概念が衰退した結果、魔術戦に堪えうる<自動人形|オートマタ>の製造は困難になったからだ。
　近年ではオートマタを一体造るのなら、たとえ低級でも使い魔を錬成した方が遥かにコストが安く、優秀な出来になる。
　故に、この時代の人形遣いは十七世紀以前に造られた作品を蒐集し、手足とするのが常になっていた。
　自動人形に高値がつくのは、戦闘品としては時代遅れだが、稀少品としての価値がある為である。
　が。
その稀少品を、敵魔術師は湯水のように、それこそ使い捨てのコマのように扱ってきた。
　その事実から、今回の敵は“莫大な資金とコレクションを持ちながら、管理地を与えられていない成り上がり者の魔術師である”
　そう有珠たちは予想していたのだが―――
「それともう一つ。
　この内部<術式|こうぞう>は三咲市の結界に似ているわ。
　……まるで自分たちこそが、この街を守る兵士だって主張するぐらい」
　霧を払いながらやってきた青子へ、有珠は証拠品を差しだした。
　心底からの驚きと、瞬間の理解。
「……そう。
そういう事なのね」
　青子はいまいましげに呟くと、人形の腕をホームに叩きつけた。
　彼女の顔には怒りと、かすかな恐れが混ざっている。
「惜し気もなく骨董品を出してくると思ったら、そもそも出し惜しむ程のものじゃなかったワケか。
　……チッ。たしかにあの女なら<祖父|まち>の結界にも反応しないし、私の欠点も知ってて当然。支点の退去だって簡単にやってのけるわよね。
　だって―――」
　狂気を含んだ独白に、有珠は静かに瞳を曇らせる。
「青子。これを造ったのは、そうなの？」
「ええ。昔から物を造る事に関しちゃズバ抜けていたからね、あの人は」
　青子は人形の腕を睨みつける。
　人形の持ち主と、今までそれに気が付かなかった自分自身を責めるように。
「……でも、ようやく合点がいった。
　認めたくないけど、今回の敵は間違いなく私の<姉貴|あねき>。
　この土地の<元|もと>継承者、蒼崎<橙子|とうこ>その人よ、有珠」
　人気の絶えた地下の歩廊で。
　負の念を噛むように、青子はそう言い切った。
　少しだけ時間を巻き戻して、久遠寺邸。
　再生していたビデオが終わる。
　耳障りなノイズは停止ボタンを押すまでもなく、自動的に停止した。
　ブラウン管に映るのは、テーブルをはさんで談話する草十郎と、蒼崎橙子の姿だけ。
「……秘密を知られたから宣誓なしの直接攻撃、ね……懐柔策を考えもしないのは青子らしいけど」
　呆れているのか、どうでもいいのか。
　蒼崎橙子は紅茶を口にしながら、草十郎の体験談を聞いている。
　失敗だらけだった遊園地での逸話を、不出来な紅茶で飲み下すように。
「ありがとう、参考になったわ。
　ここしばらく青子とは顔を合わせていなかったから、あの子がどんな風に成長したかなんて、想像するしかなかったし」
「それと、いちおう肉親としてあやまっておかないとね。
　災難に付き合わせて悪かったわ草十郎くん。
ほんと、あの子ったら昔っから迷いってものがなかったから」
「なさすぎると思います」
　草十郎は憮然とした顔で抗議するも、会話そのものは楽しいものだった。
　ふたりきりになってもう一時間近く経過するが、話題には事欠かない。
　話にのぼるのは青子の事だけだったが、その青子が何かと話題になりやすかったのだ。
「ところで、さっきから気になってる事があるんだけど。
　訊いていいかな？」
　礼儀正しい姿勢のまま、目だけが好奇心に輝いている。
　その人あたりの良さに、やっぱりドギマギしてしまう草十郎だった。
「気になってる事……ですか？」
　結果、気をつけても敬語調になってしまう。
　そんな草十郎が微笑ましいのか、橙子は親しみをこめて頷いた。
「ええ。一度目はダッシュで逃げられて驚いたけど、今日は違った意味で驚かされた。
　ね、そういうのが若い子たちの<流行|はやり>なの？」
「はい？」
　橙子の視線は草十郎の首……青子から貰った首輪に向けられている。
「新手のチョーカー？　でも、どこから見ても、ほら」
　言いにくそうに言葉をにごす眼鏡の美女。
　年頃の少年がこういった<装飾|アクセ>をするのはあと十年……<Ｖ系|ヴィジュアル　 　>の台頭を待たねばならないのだが、それは置いておくとして。
「まさか。どこから見ても首輪ですよ。犬用の」
「やっぱり？　けどその首輪、すごく可愛いわ。よく似合ってるけど、自分でつけたの？」
　まじまじとベルトを観察する橙子。
　今までは何も感じなかったクセに、草十郎は少しだけ照れている。
「はい。つけたのは、自分ですけど」
「そうじゃなくて、誰から貰ったの？　青子？　それとも久遠寺さん？」
「くれたのは青子ですね」
　きっぱりと答える草十郎に、橙子はそう、と満足げに呟いた。
「……つまり、君は青子の持ち物な訳か」
　呟いた声は冷たい。それこそ、ここまで打ち解けた雰囲気を一変させるような。
　そんな橙子の鋭さに気づきもしないで、草十郎は頷いた。
「なんでも所有されてるそうです」
　他人事のように言う草十郎に、橙子はまた笑いだした。
　些細な事に笑いだす奇癖を、この人物は持っているらしい。
　ひとしきり笑い終わった後、橙子は<空|から>になったティーカップを手に取った。
「じゃ、これも青子のでしょ？　青っていう名前にコンプレックスがある癖に、青い物がわりと好きだから」
「そうですけど。……おかわりしますか？
　ふたりとも、まだ帰ってきそうにありませんから」
「いいえ、そろそろ帰ってくる頃よ。そういう風に仕向けたから」
　あ、そうなんですか、と草十郎は相づちを打つ。
　……打って、今の言葉のおかしさに首を傾げた。
「橙子さん？」
　聞き返す草十郎に、橙子は一度だけ嘆息する。
「ごめんね、草十郎くん。眼鏡、外してもいいかしら？」
　なんでそんな事を謝るんだろう、と思いつつ、草十郎はどうぞ、と促す。
「それじゃあ、お言葉に甘えて。
　もう少しぐらいは、君の反応を見ていたかったけど」
　橙子の指が眼鏡の<蔓|つる>に触れる。
　彼女の長い指は、よく見ると傷があった。
　細かな、年月を積み重ねた切り傷だ。
　その指が眼鏡を外すより早く、彼女の眼鏡はひとりでに壊れて落ちた。
　驚く暇もない。
　フレームは粉々に砕けて、眼鏡は彼女の顔を滑り落ちて、その<両股|あし>に不時着する。
「……やるもんだ。三十体を一瞬とはね」
　そう呟いた橙子は、今までの彼女ではなかった。
　眼鏡が外れただけ。それだけなのに、今までの彼女の趣は完全に消え去っていた。
　先ほどまでの温かな印象は何処にもない。
　そこにいるのは、<在|い>るだけで空気を黒く<淀|よど>ませる、ひとりの醜悪な魔術師だった。
「………………」
　草十郎はソファーに座ったままで、言葉もない。
　もはや別人になった橙子は、そんな草十郎を性悪そうに眺めている。
　青子が彼を殺そうとした時以上の敵意と魔力を、これみよがしに立ち<昇|のぼ>らせる。
　この少年が自分の変化にどんな反応を示すのか、その怯えや豹変を楽しむように。
　しかし。そんなまっとうな<愉悦|かんがえ>は、彼にはまったく適用されなかった。
「眼鏡、壊れましたね」
　いやぁ驚いた、とばかりに口走る草十郎。
「――――――」
　<予想|テンポ>を崩したのか、<煙草|シガレット>を取りだそうとした橙子の手が止まってしまう。
「もったいない。大丈夫ですか、それ」
「……いや、そんな物はいいんだ。多少、視力が落ちたところで大事にはならないし。
　そもそも<我欲|わたし>があるかぎり、五感による情報にすら主観が入る。全てこの世は霧の中だ。もともと目に見える<だ|・><け|・>のものは信じていない<質|たち>でね」
　橙子は口調まで中性的なものに変わっている。
　それすらも草十郎は気にしてはいないようだ。
「そうですか。それで、さっきの言葉の意味ですけど」
　変わらずに訊ねてくる草十郎と、
　苦虫をかむように沈黙する橙子。
　少しの思案の末、橙子はこの少年にははっきり言わないと駄目なんだな、という真理に到達した。
　何の因果か、おかしな頭痛に悩まされる姉妹である。
「意味も何もない。青子たちの帰り道に、多少の障害を置いただけだ。私がここにいる間は、外で足止めをするように。
　君は青子の持ち物だと言ったな。
なら、<殊更|ことさら>丁寧に教えてやる必要もない。
告白してしまうとね、草十郎くん。私が君たちの敵なんだ」
　草十郎が橙子の発言を理解するのに、たっぷり秒針二周分の時間がかかった。
　ソファーに座ったまま、ふたりは互いに見つめ合う。
　草十郎の両肩に緊張らしき力みが入る。
　彼にもようやく、この場がどれほど危険なのか理解できたらしい。
「驚いた？」
　楽しげに微笑む橙子。
　カタチは同じなのに、眼鏡がないだけで冷たい微笑に変わっている。
「あなたは、蒼崎の姉なのに……？」
　橙子の微笑に圧されながら、草十郎はそんな、当然の疑問を口にした。
　この状況で自身の安全ではなく<他人事|ひとごと>の質問をする草十郎に、しかし橙子は驚かない。
　彼女は彼以上に、この一時間で静希草十郎という人間を把握していた。
「逆だよ。姉だから敵なんだ。私には青子からあらゆる権利を奪う義務がある。
物質的な物も、精神的な物も、その全てを踏みにじらなければ気が済まない。
　尺度として言うなら、もし青子がこの街に頼っていたのなら、まず街から壊していたぐらい。
　―――けど、君の事は予想外だった」
　橙子は<悼|いた>むように瞳を閉じる。
　その顔は静かな葛藤に満ちている。
「……世の平等に怒るべきか、<幸運|ぐうぜん>の出会いとやらに嘆くべきか。これも抑止力というヤツかな。
　無垢な部外者を手に掛けるのは世の常だが、この手合いに会ったのは初めてだ。
　いや。そもそも居るなどと、考えた事すらなかったな」
　まったく、と空に向かってグチをこぼし、橙子は体を起こす。
　彼女が予想もしていなかった類の迷いは、それで断ち切れたらしい。
「君は青子の切札には見えない。
　排除しておくまでもない、善良かつ無能な部外者だ。
　だから放っておきたいのだけど、私の六感がこう告げているんだ。君を逃すな、いいからさっさと済ませてしまえ、と」
　分かりやすく言うと『よし、いま殺そう』という意味らしい。
　過大評価をしてくれる分には嬉しいけれどいきすぎるのも問題で、それより何より、なんだかんだと<青子|いもうと>と同じ結論になるあたり姉妹の<業|ごう>を感じる草十郎である。
「――――――」
　しかし、悠長に感想を述べている場合でもない。
　草十郎はできるだけさりげなく―――具体的には逃げだそうとしているのが見え見えな慎重さで―――ソファーから腰をあげようと努力する。
「バカもの、こういう時は半端に動くな。逃げるならサッサと逃げる、交渉するならテコでも動くな。
　……なんというか、そんな風に動かれるとその気がなくともつい反応してしまうだろう。ほら、命が惜しいのなら大人しく固まっていなさい」
「えっと……殺さない、んですか？」
「今のところはね。私は君が気に入ったし。
　いや、違うな、正しくはこう。私ぐらいしか、君を救ってあげられないのかも、かな」
「―――はい？」
　当惑する草十郎を、正面から見据える橙子。
　赤くさえ見える茶色の瞳は、剣のような鋭さで目前の少年を捕らえている。
　一瞬、草十郎は軽い<眩暈|めまい>に襲われた。
　正体のつかめない浮遊感と、脳の痺れ。
　魔物のような眠気、というのがもっとも近いイメージだった。
「―――、――――――」
　草十郎は歯を食いしばって意識を保つ。
　目前にはあまりにも深い、底なし沼のような橙子の瞳。
　……それで、草十郎は漠然と理解した。
　アレは青子の姉とかそういったモノでなく、
　有珠たちの敵というモノでもない。
　彼女たちの事情とは別の次元で、蒼崎橙子という人物は自分にとって<危|あや>うい生き物なのだと。
　何故なら―――
　たった一時間足らずの会話で、理由もないのに他人に心底から共感してしまうのは、良くないことだ。
　それはただ、同じ<金型|カタチ>のものが、空洞を埋める為だけに、同じものを求めているにすぎない。
　これまで感じた事のない危機感に身を引く草十郎だが、体はまったく言う事をきかない。
　そんな草十郎を見つめて、橙子は微かにうなずいた。
「君の思う通り、私は君と似たところがある。それとも君が私に近いのかな。なに、食べ物の好き嫌い程度の類似だが、軽視する事でもない。
　問題は、君が私より<偏|かたよ>っている、という事でね」
　偏っている。
　その言葉を、草十郎は違う意味にしかとれなかった。
　偏っている。
傍には誰もいない。
おまえはこの町では、仲間外れの異邦人だと。
　急激な反感が、温厚な彼の<性格|こころ>を沸騰させる。
「俺、ひとりじゃないですけど」
　心底からの嫌悪をこめて、草十郎は言い返す。
　蒼崎橙子と名乗る目前の魔女に。
　そう言い返さなければ、彼女の目から逃れられなくなりそうで恐ろしかった。
「だろうな。だからこそ君は偏っているんだ。早くそれに気付きなさい。一番てっとり早い解決は、それでいいんだと認める事だ。
人間なんて逞しいもんでね。別に、何もかも放り投げても上手くいくものなのさ。
　けれど―――青子にはそれは許せない。アレは他人であれ、あらゆる事を許さない人間だからな」
　言って、橙子はテーブルに身を乗り出した。
　片手を伸ばして草十郎の首輪を掴むと、力任せに自分へと引き寄せる。
「いや、そんな事はいいんだ。ただ純粋に、私は君が欲しいと思った。君が、自分の名前すら定かではないと名乗った時にね」
「自分の認識が不明で、自分自身が不能と感じる。
　未来というものが、とても自分に関わりのある事とは思えない。となれば必然、心情は過去への逆行を試みる。
　しかし、所詮<大我|ソア>の前の<小我|モア>のように、正常な流れの前には時間旅行は押し戻されてしまう。
　それも私にあって君にある物だ。
　ああ、なんて無様な私。なんて哀れな―――」
　言いかけて、橙子は口を塞ぐ。
　引き寄せられた草十郎の目に映るのは、橙子の目に映った、憐れみの表情をうかべた自分だけだった。
　草十郎は思う。
　この女性に敵意はない。
　殺意も、失意もない。
　あるのは怒りと、行く当てのない<憐憫|れんびん>だけだ。
　出来れば彼女の望む答えを口にしてやりたい。
　けれど―――
「あなたの言っている事は、よく分からない」
　申し訳ないように草十郎は返答した。
　視線で問われた事を、はっきりと言葉にして。
　橙子に落胆の色はない。
　むしろ楽しげに、かすかに唇をつり上げた。
「そうか。君には言葉の<魔術|あんじ>は通じないんだな。
　意味深な台詞回しで丸飲みにしてやろうとも思ったが、いや、失敗失敗。<小奇麗|こぎれい>な建前は逆効果だった。君には剥き出しの、原始的な語りの方が良かったんだな。
　―――いいよ、ますます気に入った」
　首輪を掴む指が、革を引き裂くように喉元に食いこむ。
　それを裂いてしまえば、この少年は自分の物になると言うかのように。
「―――少年。青子なぞより私のもとにこい。
　使い道はないが保護ぐらいはしてやろう。手が空いた時なら、気晴らしに愛してやってもいい」
　色々回り道はしたが、それが彼女の結論らしい。
　誘われている草十郎は、そこまで買われている事が不思議でしようがない。嬉しくないというのも嘘になる。
　しかし、それはそれとして、
「それは、お断りします」
　またもきっぱりと、草十郎は即答した。
「―――なぜ？」
「だって、貴方のためにならない」
　それだけは胸を張って断言できる。
　橙子の過大評価はともかく、草十郎は、自分がこの人物をどうにかしてはいけない、と強く感じていた。
　結論を出すのは彼女本人か、彼女が<拘|こだわ>っている相手の手でなければ間違っている、と。
「………………」
　直感を通り越した、信念めいた少年の断言。
　橙子はそっと首輪から指をぬいて、とん、と近寄っていた草十郎をソファーへと押し戻した。
「そうか。なら仕方がない。
　君も、青子の大切な持ち物として考える事にしよう」
　橙色の魔術師は静かに立ち上がる。
「青子が帰ってくる頃だから、私は行くよ。
青子では私には勝てない、とだけ伝えておいてくれればいい」
「それはいいんですけど」
　ソファーに座ったまま、草十郎は立ち去ろうとする橙子を呼び止めた。
　そうして、師匠に質問する弟子のように控え目に、橙子が持っている物を指差す。
「……あの。そのカップ、どうするんです？」
　頼りのない弟子の指摘に、ああ、と橙子は右手に持ったティーカップに視線を落とした。
　橙子本人、自分がカップを持っていた事実を意識していなかったとしか思えない。
「これ？　うん、せっかくだから貰っていく」
　……持ち主の許しもなく持っていくのは『貰う』ではなく『奪う』という。
　けれど、青子と橙子の間ではそれぐらいの交流は普通なのかも知れない。あの妹にしてこの姉あり、みたいな。
　なるほど、と草十郎は頷く。
　そんな、真面目なんだか不真面目なんだか分からない草十郎の仕草に、橙子は眼鏡を外してから二度目の、楽しげな笑みをこぼすのだった。
「やはり変わり種だね、君は。逸材かどうかは別の話だが」
　一瞬だけ、彼女は眼鏡をはずす前の、穏和な蒼崎橙子に戻っていた。
　その微笑みを最後にして、橙子は洋館から去っていった。
　居間のテーブルに、壊れた眼鏡を残したままで。
「ただいまー！」
　不意の来客と入れ替わるように、青子たちは帰ってきた。
　青子の表情は不機嫌ながらも活き活きとしている。
　とりあえず問題は山積みだけど目的が決まってスッキリした、と言いたげなハイテンションさだ。
　一方、傍らの有珠はいつも通り。
　相棒の暴走っぷりをフォローできるよう裏方に徹している……と見えなくもない。
　ふたりの颯爽とした登場はテレビの映像のように思えて、草十郎はお帰りと言うのも忘れてしまった。
「草十郎、留守中なにかあった？」
　青子は上着を脱ぎながら、社交辞令じみた質問をした。
　それには答えず、草十郎はソファーから立ち上がる。
「そりゃあ半日分の出来事はあったけど。
　それより寒かっただろう。お茶を淹れようか？」
「あ、お願い。
　こっちも一から作戦練り上げようってトコだから」
　上機嫌な青子の台詞を聞き流して、草十郎は台所に向かい、二人分の紅茶を淹れはじめる。
「……なんだろう。どこか、変だ」
　いつもの手順で紅茶を淹れているのに、作っている実感が湧かない。
　<夢現|ゆめうつつ>な気分で、草十郎は青子たちがくつろいでいる居間に戻り、テーブルにティーカップを置く。
「これからどうするつもりなの、青子」
「とりあえず足で探すしかないわね。あいつ相手に守りに入るのは良くない。こっちが城壁を作ってる間に、一個師団の人形をこさえかねないわ」
　ふたりは草十郎を無視して話をしている。
　それをつっ立ったまま聞きながら、ぽつりと草十郎は話しかけた。
「探すって、橙子さんを？」
「それ以外誰を探すって―――
　ちょっと。アンタ、今なんて言ったの？」
「橙子さんなんだろ、蒼崎たちの敵は。さっきまでここにいたよ」
　呆然とする青子に、平然と答える草十郎。
　そんな間の抜けたふたりを余所に、有珠はソファーから立ち上がった。
　可憐な顔立ちを、厳しい叱責の<貌|かたち>に変えて。
「静希君。その人、何かしていった？」
「お茶を飲んで、眼鏡を外して帰っていっただけだけど。
あれ……よく、思い出せないな……」
　さっきまで確かだった記憶が、消しゴムにかけられるように消えていく。
　草十郎は、つい先ほど感じた、眠気のような目眩に襲われて、
　ぱん、と乾いた音が居間に響く。
　草十郎の目眩を止めたのは、彼が思ってもいなかった有珠の平手打ちだった。
「―――二度は言わないわ。
　他人を、わたしの家に立ち入らせないで」
　有珠の目には、<潜|ひそ>めた、けれど激情が灯っている。
　それが怒りだけのものではないと気付いて、草十郎はようやく、自分の軽率さを悔いた。
「……すまない。有珠にとってここが大事な場所なのは、分かってたのに」
　重い沈黙。
　有珠も草十郎も、自分への後悔に縛られて動けない。
　放っておけば一晩中そうやっていそうなふたりを、青子は呆れて眺めている。
「あのね。姉貴を通した草十郎も悪いけど、言ってなかった有珠も悪いでしょ。
　子供じゃないんだからいつまでも反省してないで、もっと前向きに話をしない？」
「………………」
　青子に促され、有珠はうつむきがちにソファーに座った。
　草十郎は立ったままで、有珠に叩かれた右頬に手を当てた。
　痛む事は痛むけど、体の痛みには慣れている。
　それよりいま重要なのは、有珠の平手で記憶が鮮明になったという事だ。
「思い出した。青子じゃ私には勝てないって、伝えておいてほしいって」
「ふーん、大した自信ね。他には？」
「他は……基本的に世間話だったというか……ああ、そあとかもあとか、よく分からないコトを口にしてたな」
　それはともかく、世間話の大半が青子の失敗談だった事は墓まで持っていこう、と誓う草十郎だった。
「大我と小我？　あの人、インドにでも行ってたのかしら。
　ところで草十郎。アンタ、姉貴に何かされたわね」
　じろり、と鋭い視線を青子は向ける。
　後ろめたい事は何もないのに、草十郎はそれについ顔を背けてしまった。
「何かって、何さ」
「思い出せない、とか言ってたでしょ。さっきまでの態度もふわふわしてたし。
……そうか、眼鏡を外したまでは覚えてたって事は、魔眼にでも魅入られたか」
　そうやって勝手に結論に辿り着くと、青子はもう興味なし、とばかりに黙りこむ。
　しっくりいかないのは草十郎である。
「蒼崎、まがんって何だ？」
「……魔力を帯びた目の事よ。簡単な物は一時的な混乱を、上級な物は睨んだだけで相手を殺す、とかね。
　……ま、バロールみたいな魔眼の持ち主なんて伝説だけだろうし、そもそもそんな魔眼持ちが生まれてくるなら私たちの悩みもあっさり終わるってものだけど」
「……？」
　青子の説明は事情を知らない<草十郎|いちげんさん>にはさっぱりである。
「……んー、そうね。
分かりやすく言うと、私の魔弾みたいなのを目から照射するようなもんよ」
「目から……蒼崎……が？」
　退屈そうな青子とは反対に、草十郎の混乱はより深くなっていく。
「だから！　貴方、一度目を閉じた後の橙子の目を見たんでしょ？　その一瞬で姉貴の魔眼に捕まったってコト！
　目を猫目石に入れ替える魔術師もいるけど、姉貴はそんな事する必要はないから。
　あの人、生まれながらの魔眼持ちだしね。さしたる準備も詠唱もなしで、<閉塞|シャッター>するだけで切り替え自由なの」
　ぽん、と手を叩く草十郎。
　たしかに、橙子はそんな仕草をしていた気がする。
　あの直後から心が惑わされたのは、魔眼とやらの力が大きいらしい。
「……その話は分かったけど。
　橙子さんは蒼崎のお姉さんなんだろう？　なんで<姉妹|しまい>で殺し合いをしてるんだ」
　聞くべきではない事と分かっていても、あえて草十郎は問いただした。
　条約違反である質問。
　彼には関係のない、関わらせてはいけない争い。
　青子はしばし瞳を閉じて状況を整理し―――
　ここでつっぱねるより、概要だけ話して黙らせる方がお互いの為と判断した。
「いいわ、話してあげる。姉貴に関わった以上、事情を説明しておかないと危ないし。
　けど、なんであれ聞き返すのはナシね。この件に関しては、私は私の事情を話すだけだから」
　物わかり良さげに頷く草十郎に、どうだか、と青子は疑いの視線を向けた。
　草十郎の性格は、それなりに把握できている。
　またヘンに親身になったりするのは目に見えているが、話すと言ったからには話そう、と青子は姿勢を切り替えた。
「……姉貴の話をするってコトは、私と蒼崎の家の話と、なにより魔術と魔法の話をしないといけない。
　少し遠回りになるし他言無用な内容だけど、いずれアンタの記憶は消えるから問題ないってコトで」
　誰に対しての断りか、そういう前提付きだから話してあげるのよ、と青子は念を押す。
「魔術っていうのはね、草十郎。いわば共通のルールなのよ。
ルーンやカバラといった魔術系統はそれぞれの科目……世界共通の<教科書|マニュアル>だと思えばいい。
　教科書さえきちんと持っているのなら、あとは血脈次第で誰でも魔術師にはなれるわ。
　けど魔法を使うのは別。
　魔法は魔術みたいに『根源の渦』から派生した写本じゃなくて、根源の渦に直接つながる物だから」
「この根源の渦っていうのは……
あー、草十郎の分かるレベルに落としこむと……ま、太陽みたいなものと考えて。
　遠くにあって、なにより初めにあるもので、それなくしては私たちは生活できない、といった」
「魔術っていうのは、この太陽からの恩恵を利用しただけのものよ。
　自然現象の模倣、ないし代償が魔術の本質だから。神秘を学び、実践し、再現するけど、神秘そのものを作る事はできない。
　いえ、研究の末にたどり着くんでしょうけど、そこには大きな壁がある。人知では超えられない、リミッターみたいな壁がね」
「で、魔法っていうのは太陽そのものを扱うコト。
　誰にも到達できない場所に行って、
　何者にも<再現|マネ>できない奇跡を起こす。
　お金をかけようが時間をかけようが、今の人類には到達できない技術―――それが魔法」
「次元の壁を越えるっていうか。最後まで走ってみたら、まったく違うルールで出来た世界があって、そのルールを学んじゃった……ってとこかしら」
「前に、魔術に限界はないって言ったでしょ。あれは人知の及ぶ範囲なら限界はない、って意味ね。
　対して、魔法は限界だらけ―――っていうか、ひとつの事しかできないけど、それも当然なの。だってこの宇宙の<概念|しくみ>から仲間はずれの、ひとつっきりの光点なんだから」
「……魔術より魔法の方が凄い……というのは、流れ的に分かるんだけど。
限界だらけ、なんだよな？」
「限界っていうか特例、特権、越権の類ね。
　汎用性はないけど、誰にも出来ない事を可能とする時点で、魔術世界にとっては万能とされる」
「そもそも魔法は『根源の渦』にたどり着いた魔術師へのご褒美みたいなもので、たとえその術者に魔法を使うだけの肉体性能がなくても、根源への<路|パス>ができただけで魔術的にはやりたい放題ってわけ。
　要は、地球で一番のお金持ちになるってコト」
　力強い発言に、おお、と感動する草十郎。
　一方、青子の暴論を色々改めたくて仕方のない有珠。
「一番の大金持ちか……じゃあ、どんなにお金持ちでも、一番目でない以上は魔法は貰えないんだな？」
「―――まあ、そういう事。
　……時々とんでもない角度で核心をつくわね、コイツ……アンタの言う通り、同じ<理論|ルート>、同じ方法で根源に辿り着いても、一番目じゃないと魔法にはたどり着けない。
　どんなに優れていても二番目以降には意味がないのよ」
「魔法使いが五人……いえ、四人か。
　現存する魔法使いが四人しかいないのは、一度使われた<未|ル><知|ート>は<確定|とざ>されてしまうから。
　大昔はそうでもなかったって話だけどね。
　根源への路……真理への到達に壁を作ったのは、皮肉なことに人間自身だった」
「未知を解明すればするほどルートが閉じていくなんて、昔の魔術師たちは思いもしなかったんでしょう。
　でも結果はこの通り、気が付いた時には後の祭りっていうか。多くの研鑽の末、この世から魔法は消えていっちゃったワケ」
「……ふーん。それは、山と町の関係に似てる……と思っていいのかな」
「ミクロな視点で言うなら、似たようなものよ。
　で―――つい最近まで、現代の魔術師たちは残された最後の席を求めていたけど、それもちょっと前にどこぞの田舎者が横取りしちゃって、イス取りゲームはあえなく終了。
　あとは魔法抜きで根源にたどり着くため、地味で無意味な魔術の研究を続ける事になった」
「……ま、もともと魔法なんてのを優先してたのは一部の魔術師だけで、他のまっとうな連中はとっくに見切りをつけてたんだけどね。
　だって、魔術師にとって最終目的は根源の渦への到達であって魔法じゃないし。
　そのあたりいつのまにかごっちゃになっちゃったんでしょ。卵が先か鶏が先かって話」
「……よし。まったく分からないってコトは分かったんで、そろそろ本題に入ってくれ。
　あ。けど、一番目の人間しか魔法使いになれないのに、魔法使いは何人もいるのか？」
「五人いたわ。最終的に、人間に残される最後の課題は五つだろうって一番初めの―――」
「青子」
「―――じゃ、本題ね。
　魔法と魔術の関係が分かったところで、ようやくうちの話になるんだけど」
「蒼崎の家が代々魔術師だったのは前に言ったでしょ？
　歴史的には浅いけど、運と才能には恵まれていたのね。
　蒼崎は、なんだかんだって魔法にまで辿り着いたんだから」
「―――ちょっと待った。じゃあ、蒼崎が、その、」
「私はあくまで魔術師見習い。
　使えないし、使う気もないわよ、魔法なんて。私はただ、蒼崎の家を継いだだけだもの」
　青子は簡潔に、感情のない声で言い切った。
　魔法使いになるために魔術師になったのではなく、
　蒼崎の家を継ぐコトになったから、魔術師として生きていく道を選んだのだと。
「……ま、とにかく。
　根源の渦に辿り着くには、何代も何代も魔術を研究しなくちゃいけない。自分独自の川を造るようなものなんだから、もちろんその過程は果てがない。
　よほどの天賦か天啓でもないかぎり魔法を創るなんてできないしね」
「そしてもし根源に辿り着いても、相応しい後継者がいなければ一代かぎりの奇跡で終わってしまう。
　だから魔術師は血脈を重ねて、代々の魔力を次代に積み重ねていく。自分より勝れた後継者を生むために」
　要するにサラブレッドを作っているのよ、と青子は一度話を切った。
　もともと草十郎に理解させる気はこれっぽっちもないので、サラブレッド？　と首をひねる草十郎を華麗にスルーする。
「そうやって代を重ねて、魔術師は作り上げた独自の神秘、守り続けた魔術を次の世代に伝えていくの。
　きっと最後の最後に、全ての疑問を打ち消すに足る答えがある筈だって」
「でも魔術師―――いえ、魔法使いだって、みんな悟ってるのよ。
　自分の代でも、その次の代でも、きっと最後の最後の最後まで、誰もゴールには辿り着けないって結末を。
　それを解っていながら魔術を研究していくのが神秘学に取り憑かれた者の宿命だって、祖父はよく口にしてた。
　けど、私の姉はそうじゃなかったみたい」
　その気持ちも分かるけどね、と青子はひとり呟く。
　有珠はそれには無反応だ。
　魔法を伝える蒼崎の家。
　その後継者となった青子。
　そして―――青子の姉である蒼崎橙子。
「……ほんとは、蒼崎の後継者は姉貴だった。
　私もうちの家業がなんであるかは教えられてきたけど、実践する事はなかったのよ。
　魔術師の家系はよっぽど裕福でもないかぎり、基本的に一子相伝だからね。うち、ホント財力的には一般家庭レベルだし」
「で、後継者にはより魔術に適した者が選ばれるワケだけど……姉貴はたしかに天才だった。
　けどそれは、蒼崎の後継者にはいらない才能だった」
「そのかわり、私は心底蒼崎の後継者として相応しかったみたい。
　……まあ、それはそれでどうも思わないけど、祖父がはっきりと私に鞍替えしたのが十五歳の冬の頃でさ。
　姉貴はいきなり、四つ年下で、今まで魔術に関わってなかった妹に魔法の相続権利を奪われたってワケよ」
「…………そうか、それで」
　……私にはその<義|・><務|・>がある、と。
　蒼崎橙子は、憎しみに満ちた声で言い切ったのだ。
「<姉貴|あのひと>がどんな思いをしたか、私は本人じゃないから知らないけど。
　祖父と言い争って、今まで愛用してた眼鏡を叩き壊して家を出ていったのが三年と半年前。
　それからまったく消息なしで、私は姉の代わりになったの。これが、私と姉貴の争う原因でしょうね」
　かなり重い話だと草十郎は思うのだけど、青子の声はさっぱりしている。
　それが幼い頃から植え付けられた魔術師の思考だとしたら、同情すべきはどちらにあるのだろうか。
「……眼鏡を壊した、か」
「そう。あの人、昔はすっごく目が良かった。生まれながら魔眼を持ってたって化物だからね。
　けど祖父の期待に応えようとして、無理して頑張ったあげく視力が下がっちゃったみたい」
　なんだかねー、と呆れる青子。
　青子の冷徹さを知っている草十郎だが、さすがに今のは見ていて気持ちのいいものではない。
「けど、あれに何の意味があったんだろう。
　眼鏡を<祖父|じじい>に叩きつけるぐらいなら、フィンの一撃でも叩きこめば良かったのに。
　あの人、あの頃が才能のピークだったんだし、<耄碌|もうろく>した<祖|じ><父|じい>なんてそれこそ一撃だったと思うんだけど……」
　はて、と今更ながら考えこむ青子に、草十郎はうつむいて批難する。
「恨み辛みの話じゃない。
　……その眼鏡は、大事な物だったんだ。だってそれは、誰にだって分かる努力の証なんだから。
　それを叩きつけたんだ。痛かったんだろうな、橙子さんは。思い出を、自分で壊さなくちゃいけないぐらいに」
　そう語る草十郎自身、痛みをかみ殺している事に青子も有珠も気付かない。
　というより、二人には草十郎の心情が理解できない。
　魔術師として育てられ、戦うべき敵として認識しあう彼女たちには、そういった感傷は必要ないからだ。
「……けど、どうして今ごろになって戻ってきたのかしら。青子の言う通り、橙子さんならもっと早く三咲市を奪えたのに」
「そうね。そんなに土地が欲しかったのなら、三年前に私を殺せば後継者に戻れたのに。
　……世間の荒波にもまれて気が変わったとか……？」
「違う。蒼崎は本当に分からないのか」
　微かな<憤|いきどお>りが草十郎を揺り動かす。
　その声は、二人の知っている少年とは少しだけ違っていた。
「な、なによ。アンタなら分かるっていうの？」
「誰だって分かる。
　橙子さんは、蒼崎が一人前になるまで待っていたんだ。自分が失った物と同じぐらい、大切な物を無くさせるために。そうしないとどうにもならない。そこまでしなくちゃいけないほど、あの人の怒りは深かったんだ」
　なんでそれが分からない、と草十郎は二人を見据える。
　だが、分かっていないのは彼の方だ。
　そういった人間らしい関係を、彼女たちは、何より蒼崎橙子は、一番初めに断っているのだから。
　橙子を動かしているのは憎しみではない。
　たしかにそれもあるにはあるが、彼女を突き動かす最大の理由は魔法に至ること一点。
　彼女は貪欲で優秀な魔術師であり、憎しみなど後付の<外皮|りゆう>でしかない。
　それを間違えては、なにより、魔術に己を捧げた姉を侮辱する事になる。
　そう口にしようとして、青子は止めた。
　魔術師でもない草十郎に言っても意味がないし、彼にその事実を突きつけるのは面白くない。
　言語化できないが、それはしたくないと思ってしまった。
　なので―――
「ふーん。やけに姉貴の肩を持つじゃない、草十郎。
　もしかして、一目惚れでもした？」
　自分でも卑怯と思う方法で、青子は逃げた。
　にやっと笑う青子。
「肩ぐらい持つ。あの人は、可哀相な人だからな」
　しかし、草十郎はまったく動じていなかった。
　そこまで言われては青子もカチンとくる。
「なぜ？」
　作り笑いを消して、真剣な眼差しで青子は問いかけた。
　草十郎に<躊躇|ためら>いはない。
　彼は当然のように、
「だって実の妹と争わなくちゃいけないんだろ。
　それは可哀相な事じゃないのか？」
　何に対して怒っているのかを明言した。
「…………たしかに、ね」
　知らず、青子は目を細めた。
　胸を衝かれた事実を隠すように。
　コイツは毒だな、と思いながら。
　薬にもなりはしない。この男の言葉は、知らず知らずのうちに自分の弱い部分を浮き彫りにする、と。
「だけど私も姉貴も、それをなんとも思ってないのよ。
　だって、それ以外に解決策はないんだから」
　青子の答えに、草十郎はそうか、と表情を曇らせる。
「それも、悲しい話だね」と呟いて。
　夜の<帳|とばり>はとっくに落ちている。
　橙子が去ってからまだ一時間も経っていないのに、草十郎には彼女の顔がひどく遠いものに感じられた。
　青子と有珠にしてみれば、現在の蒼崎橙子の姿は幻よりさらに遠いに違いない。
「とにかく！　姉貴が敵だって事は草十郎にも分かったでしょう？　ならつべこべ言わず、君子危うきに近寄らずよ！
　……ま、姉貴もアンタと会って、私たちとはまったくの無関係だって分かっただろうから、そっちには手を出してこないでしょうけど」
　だから安全、気にするな、と青子は胸を張る。
　おかしな話だが、たとえ敵であっても橙子の合理性を青子は信頼しきっていた。
「……そうかな。……そうなのかな。
……そうだといいんだけどな」
「そうだから安心なさい。昔から要らない物には手を出さないんだから、あの人は」
「そっか。蒼崎がそこまで言うなら安心する。
　あ、要らない物っていえば、橙子さんが蒼崎のティーカップを貰うって。セーブルのやつ」
「え……ちょ、ちょっと待って！
　アンタ、それを黙って見てたっていうの!?」
「そうだけど。……む。やっぱりあれは奪っていったのか」
　怒る青子に、草十郎はなるほど、と納得する。
　さっきまでの深刻な顔つきと口調はどこへいったのか。
　今ここにいやがるのは、いつものぼんやりとした草十郎だった。
「しかもセーブルのカップって、私の一番のお気に入り……」
　ぬぬぬ、と拳を震わす青子だが、草十郎の<暢気顔|のんきがお>を殴りつけるワケにもいかない。
　もし草十郎が橙子を止めていたら大惨事だったろうし、なにより草十郎に、あの姉を止められた筈もないのである。
「……仕方ないか。そういえばあの人、よく私の持ち物を奪っていったっけ。
他人の物を欲しがるクセ、まだ治ってないんだ」
「？　子供の頃は、みんなそうなんじゃないのか？」
　つい聞き返してしまう草十郎。
「そうかな。私のクレヨンとか人形とかとっても仕方ないと思うけど。どうせ粉々にしちゃうんだし」
　その言葉に草十郎は息を呑んだ。
　なにかいま、不吉な意味が含まれていた気がする。
「………それは、どういう？」
「だから、あの人って私の持ち物を横取りしてはぶっ壊すのが趣味なのよ。苦節十四年、姉貴に目をつけられて無事だった物なんてひとつも無いもの」
「…………………………」
　青子の独白を聞いて、草十郎は橙子との会話を思い出す。
　……気のせいだといいのだけど、彼女はしきりに静希草十郎を、誰かさんの持ち物だと決め付けていたような……。
「……それは……ちょっと、難儀だな」
　手強い難問に出会った刑事よろしく、顔をしかめて呟く草十郎。
　解決策がまったく見つからないあたりまで、ホントよく似ている。
「でしょ？　ひどい姉貴なのよ、あの人って」
　草十郎の気持ちも知らず、青子は気楽に答えて紅茶を飲んだ。
　肩をすくめる青子を半眼で見つめながら、草十郎は居間の時計に目をやった。気分がどんなに<陰欝|いんうつ>でも、時間だけはきっちりと回っている。
「……明日から、大変になるね」
　ぽつりと呟く本日最大の被害者。
　そこに、青子はからっとした趣で付け足した。
「そうね。でも今は、そんな事より今日の夕飯のが楽しみなんだ、私」
　青子の意見に、有珠も賛同するように黙りこんでいる。
　ゆったりくつろぐふたりは、夕飯が用意されるまでソファーから動く意志が、見事なまでに皆無だった。
「……………………」
　たしかに夜のアルバイトはない。
　けれど深夜となると話は別だ。
　これから本当にアルバイトが待っている草十郎にとって、ふたりの期待は苛酷な命令以外の何物でもない。
　そもそも、今から調理したら食べるのは一時間後になってしまう。
　そんなコトを何やら疲れきったふたりが容認するはずもなく、となると結局、残された手段は出前のみ。
“……なんと。橙子さんに付いていけば良かったかもしれないな、俺”
　グチをこぼしつつ、草十郎はお財布の中身を確かめた。
　慎ましげに残っている三枚目の諭吉は、別れを惜しむようにしかめっ面をしている。
　それが、草十郎にはちょこっとだけ痛かった。
　とりあえずは、そんな日常の話から。
　星の運びは、今日一日を労働に<捧|ささ>げるべしと告げていた。
　具体的に言うと庭の清掃。
　草十郎にとって、これ以上アレを放置しておくのは精神衛生上よろしくない。
　幸い、アルバイトの<当番|シフト>は丸一日オフ。
　彼にとって今日はまたとない好機だった。
　―――しかし。洋館の<園|にわ>は本気で広い。
　荒れ放題なのは中庭だけでなく、館の正面玄関まわりですら手入れが行き届いていなかった。
　本気で掃除をするのなら、一週間単位で計画を組まなくてはいけない広さである。
「よし。まずは地ならしだな」
　理想は一日で成し遂げられるものではない。
　今日は雑草の除去だけに専念しよう、と草十郎は決意を新たに荒れ野に踏み出した。
　朝も早くから館の周りの雑草を引き抜いていく。
　計算によれば、午後までには玄関付近、中庭、裏庭をぐるりと一回りし、一休みできる予定になっていた。
「どうしたの、彼」
「さあ。草摘みが趣味ってワケじゃなさそうだけど」
　正午前のサンルーム。
　有珠が本を片手にやってきた時、先客である青子は優雅に紅茶を飲みつつ、ファッション誌を読んでいた。
　窓ガラスの向こうには、しゃがみこんだまま後退していく人影がひとつ。
「朝からやってるみたいよ。
　起きてカーテンを開けたら、もうあの格好でスパスパやってたから。ついでに焼却炉の掃除も言いつけといたけど、いいでしょ？」
「いいけど。……頑張るのね、彼。外はあんなにも寒いのに」
　有珠は静かに腰を下ろした。
　テーブルには彼女の分のティーカップも用意されていた。
　有珠はポットからカップに紅茶を注いで、持ちこんだ本を開く。
「………………」
「………………」
　二人は無言で時間を過ごす。
　青子も有珠も気まぐれに、部屋で休むのだったらサンルームでお茶にしよう、とやって来ただけだった。
　談話のネタもなく、夜にそなえての役割分担も既に済んでいる。
　青子は雑誌をパラ読みしながら、基本的には窓の外の風景を眺め、
　有珠はルーン魔術に関する書物に没頭しながら、時折、思い出したように顔をあげる。
　ティーカップに口をつけ、二人は申し合わせたように窓の外に視線を送った。
　手伝う気など爪の先ほどもないのか、少女たちは他人事のように庭職人（駆け出し）の動きを観察する。
　草十郎の動きは緩慢ではあるけれど、なぜか作業は<迅速|じんそく>にこなされていった。
　……ふと青子が視線を逸らすと、対面の相方と目が合った。
　有珠は取り<繕|つくろ>うように書物に視線を戻し、
　しばらくした後、もう一度顔をあげて、
「―――、
ぽこ」
　コホンと咳払いをして、読書に集中しようと目を伏せる。
　……有珠が驚くのも無理はない。
　草十郎は三十分も経たないうちに中庭を横断して、あれほど見苦しかった雑草を綺麗に片付けてしまったのだ。
　謎の庭師は休憩も入れず、白い息を吐きながら、中庭から退場していった。
　立つ鳥跡を<濁|にご>さず、どころの話ではない。
「……プロかしらね、あいつ」
　青子はその一部始終を見届けて、ぽつりと呟く。
　あまりにも迷いのない、鉄人の作業だった。
　良くできた映画を見た気分にすらなって、青子は感心……を通り越して、草十郎の無駄な芸達者ぶりに呆れている。
　一方、有珠は顔をあげて時計を確認していた。
「……焼却炉、今から手入れをしたら夕方ね」
「そっちはもう終わってるわ。朝、上から見てたもの。
　壊されちゃいけないからあれこれ指示だしてね。
　いやあ、窓開けてさんざん怒鳴ったから部屋が冷えるコト冷えるコト」
　青子が居間にやって来た理由は、自分の部屋が冷えきってしまったから、と推測される。
　……部屋から指図をするのと外で掃除をするのとでは、どちらが<極寒|ハード>か言うまでもない。
「静希君、何か言ってこなかった？」
「言ってたけど、よく聞こえなかったわ」
　つまり、草十郎の文句は一切<効|き>かなかったという事か。
　共通の話題もなくなって、二人は読書を再開する。
　そんな、少しだけ張りつめた沈黙を破るように、掃除を終えた草十郎がやってきた。
「……………………」
　気に食わない事があったのか、草十郎は険しい目で青子たちを一瞥する。
「あったかそうだね、蒼崎」
「外よりは幾分ね。廊下の気温は外とあまり変わらないけど。
　それで、どうして庭の掃除なんてはじめたのよ、草十郎」
　草十郎の嫌味なんてこれっぽっちも効いていない。
　<青子|てき>の丈夫さに、草十郎は今更ながらガッカリと肩を落とした。
「今日は本当に寒い。明日あたり雪でも降ってくるだろうから、外の掃除は早くに済ませたかったのに。
　……焼却炉は予定外だったぞ」
　恨みがましく言うが、草十郎にとって焼却炉の掃除などお菓子のおまけみたいな物だった。
　彼が不満に思っているのは、誰も手伝いにこなかった、お寒い事実だけである。
「いいじゃない、焼却炉はみんな使うんだから。
　じゃ、その殊勝な心がけついでに、二階の廊下に掃除機かけといてね。
　それと裏庭のブナの添え木、壊れかけてたでしょ。工具箱はアンタの<屋根裏|へや>に置きっぱなしだから、それを使うこと」
「で、ぜんぶ終わったら私の部屋に来てくれる？
　いらない物まとめておくから、焼却炉で焼いておいて」
「……………………」
　そのために焼却炉の手入れをさせたらしい。
　憎らしいぐらいの段取りの良さである。
「それで蒼崎、君は何をするんだ？」
「そうね、やる事もないしギターにでも触ってようかしら」
　うーん、と有意義な午後の過ごし方を模索する青子。
　嫌味に対して嫌味で返しているワケではない。
　きっと、彼女の予定には『掃除』という単語が存在しないのだ。
　この洋館はなぜ荒れ果てているのか。
　その理由を、はっきりと草十郎は思い知った。
　……それにしても二階の廊下は長い。
　おまけに青子の言う通り、廊下の気温は外とそう変わりはない極寒だ。
「……そうか、あくまで掃除をする気はないんだな蒼崎。
　まあ、掃除はしたいからするけど、こう、なんだろう。
　一緒に住んでる人間をそこまでこき使って良心は痛まないか？　それとも、わりと気付いてはいたけど、良心そのものがないのか？」
　相変わらず、一言多い男である。
　草十郎の的確すぎる指摘に、青子はファッション誌を置いて向き直る。
　透き通る青い目が、苛立ちをこめて草十郎を直視する。
　その目力に、正義は１００パーセント自分側にありながら、つい気合い負けをする草十郎だった。
「草十郎。
何度も言うようだけど」
「はい」
　落ち着いた青子の声に、反射的に背中を伸ばす草十郎。
「勘違いはしないで。私たちはアンタを同居させてあげてるんじゃない。
　これ以上ないって譲歩の末、仕方なく飼ってあげてるだけなんだからね」
　きっぱりと青子は言う。
　草十郎はなるほど、と頷いた。
「そうか、飼ってもらってるのか」
「そ。番犬にもならないだろうけど」
　草十郎の呟きに、青子はつまらなそうに言い返す。
　それはそれで事実なのだが、草十郎にも一つや二つ反論もあるというもの。
「しかし一方、番犬は間違っても自分の食い<扶持|ぶち>を入れたり、あまつさえ家賃を払ったりしないのも事実であった」
「何か言った？」
「いや。負け犬の遠吠えを、少しばかり」
　参りました、とばかりに手をあげる草十郎。
　自虐的なセリフは、彼が言うと間の抜けた冗談にしか聞こえない。
「……草十郎。アンタ、ほんとに分かってる？」
「そうだな。君たちがどうあっても掃除をする気がないぐらいは、なんとか」
　それだけ理解していれば上等である。
　そんな草十郎の態度に、青子はにっこりと笑みをうかべた。
　どうも、今の返答がたいへんお気に召した模様。
「ふーん。余裕あるんだ、静希くんってば」
　楽しげな青子の笑みと同時に、草十郎の顔が<曇|くも>る。
「……蒼崎。なんだか、息ができないんだけど」
「このまま放っておくとそんなコトも言ってられなくなるんだけど、試してみる？」
　草十郎は顔をますます曇らせながら、いや、と首を横に振って答えた。
「賢明ね。私も窒息死体なんて見たくないもの」
　耳障りな音が途絶える。
　草十郎はそろりと首に手を当てる。
　さっきまで独りでに絞まってきた首輪は、今ではもとのサイズに戻っていた。
「……気管が<塞|ふさ>がれた時の苦しさを知らないんだろ、蒼崎は。本当に抵抗できなくなるんだぞ、あれは」
「だから、そのための首輪だって言ったでしょ。
　今まで実践したコトなかったし、アンタはあいかわらず危機感ないし。ここらで一度<躾|しつ>けておいたの。
　―――それより掃除。急がないと日が暮れるんじゃないの？」
「……はあ。わかったよ。
　結局、今日はこうなる星の運びだったんだ」
　負け犬よろしく肩を落として、草十郎はサンルームから立ち去っていった。
　それを見送った後、何事もなかったように青子は雑誌に視線を戻す。
　以上のやりとりを、有珠は我関せずと聞き流していた。
　何度目かの沈黙。
　刻々と時計の針が回る中、不意に、ページをめくる有珠の手が止まった。
「ねえ。どうして彼を酷使するの？」
　独り言のような問い。
　青子は雑誌をめくる手を止めず、
「別に。最後には記憶を消させてもらうんだから、楽しかったら困るじゃない」
　極めて分かりにくい、彼女らしい誠実さを口にした。
「…………そう。言われてみれば、そうだったわね」
　……そんなコトを、忘れていた自分に驚いてしまう。
　有珠は静かに顔を上げ、硝子ごしの風景を眺めた。
　窓から見える彼女の中庭は、十年前の故郷を思わせる。
　あの頃に比べれば何もかも<見窄|みすぼ>らしい、荒れ野とさえ言える庭。
　なのに、どうして面影が重なるのか。
　ただ大切に、真心だけで手入れをされた彼女の庭。
　それが今日半日の、草十郎の成果だった。
　イヴの日に、雪はしんしんと降りはじめた。
　自らの価値を知っていたのか、今年の初雪は誰もが喜ぶ記念日に顔を見せた。
　大通りでの<賑|にぎ>わいは白く寒く、それでいて明るいものになっているだろう。
　トナカイを<象|かたど>るイルミネーション。
　子供たちの足を弾ませるジングルベル。
　レンガの道を行く人々は、一様に満ち足りた微笑みをうかべている。
　しかし。
　そんな街の<彩|いろど>りも、丘の上の洋館には届かない。
　人里から離れた館は静かに。
　森は白い粉雪に覆われ、いっそう影を濃くしていた。
　いずれ来るであろう<黄昏時|たそがれどき>。
　人々が<家路|いえじ>に就き、街頭から<人気|ひとけ>の絶える静夜を、じっと待ち続けるように。
　その日の洋館は、朝から空気が違っていた。
　嵐の前の静けさである。
　敵の正体―――蒼崎橙子の存在が明らかになってから二日。
　青子も有珠も自室に閉じこもる事が多くなり、食事<時|どき>の談話も目に見えて少なくなった。
　役割分担を終えた少女たちは、それぞれの仕事を<全|まっと>うするため、自分の事だけで手一杯なのだ。
　そんな二人が、今日は朝から居間でくつろいでいる。
　張りつめた様子もない。
　だから逆に今夜がそうなのだと、草十郎は悟ってしまった。
「雪が明日なら良かったのに」
　草十郎はソファーに座った二人に話しかける。
　返事は期待していない。
　大体、雪が明日になったところで彼女たちに変化があるわけでもない。
　クリスマスが、ホワイトクリスマスになるだけの話である。
　青子から言葉はなかった。
　無視しているのではなく、単純に、そこまでの余裕がないだけだ。
　分かり切った事とはいえ少し淋しいな、と草十郎はサンルームに視線を投げる。
　何日か前に手入れをした中庭は、白一色に染まっている。
　粉雪は降ったり止んだりと気まぐれだが、この分ではかなりの厚さで地面に残るに違いない。
　夜には一面の銀世界になるだろう。
　伝わる寒気から身を暖めるように、青子たちは紅茶を口に運んでいる。
　思えばそれだけが、今の彼女たちの行動だった。
「そういえば、橙子さんの髪の色は蒼崎より濃かったね。
　あんな綺麗な赤毛は初めて見た。短くしてるのはもったいなかったな」
　これも返事は期待せず、ぼんやりと呟く草十郎。
　しかし。
「……短かったって、姉貴の髪が……？」
　心ここにあらずだった青子の表情が、普段の鋭さを取り戻した。
「それどういうこと？　短くしてるって、髪の毛の事よね？」
「ああ。有珠より短かったけど、それがどうしたんだ？」
「別に。あの人、前は私より長かったってだけ。
　―――そう。あの髪を切ったのね、姉貴は」
　深刻な独白。
　有珠も関心があるのか、黒い瞳を草十郎に向けていた。
「……普通じゃないな。髪を切ったぐらいでどうしたんだ、一体。橙子さんの髪が短いと蒼崎が困るのか？」
「…………まあ、その通りだけど。
　いいわ、どうせ夜まで暇だし、説明ぐらいはしてあげる。
　アンタがそんなコト言わなければ、未知数のまま橙子と戦うはめになっただろうし」
　ま、ご褒美ね、と青子は有珠を一瞥した。
　おそらく有珠に同意を求めているのだろう。
　有珠はやっぱり無表情で、青子の視線に肯定も否定もしない。
「簡単に言うと、魔術師にとっては髪の毛も武器ってコトよ。
　昔っから人間の髪や目は魔術の材料になりやすいの。女の場合は<殊更|ことさら>にね。
　瞳の色は<多彩|おおい>ほどいいし、髪も長いほど質がいい。
　髪の毛は自身と同一視しやすいし、長い年月をかけて育てられる、原始的で強力な“原料”と思ってくれていいわ。
　私が髪を伸ばしてるのはまあ、そういうこと。手入れが大変なんだけど、そこは女だから半分趣味みたいなもんよね」
　……はて。そうなると有珠はどうなのだろうか、と草十郎は有珠の横顔を盗み見る。
　青子の言う通り、手入れが面倒なので切ってしまったのか。
　バカらしい考えだが、有珠ならありうるな、と草十郎は内心うなずいた。
「ん？　じゃあ蒼崎としてはいい事じゃないか。
　橙子さんの髪、短いんだから」
「それが<三咲町|ここ>に来る前に使い切ったものならいいんだけど。
　伸ばした髪には色々と使い道があるのよ。
　私は瞬間的な術の強化にしか使えないけど、姉貴だったら恒久的な術の補佐に使うはず。
　年月と想念を蓄えた髪は魔術師の分身とも言える。
　そういった物をね、死んじゃった犬だの猫だのを反魂させる時に与えると、術者に<服従|ふくじゅう>する使い魔が出来上がるの」
「生前魔力のなかった使い魔……例えば猫とか、犬ね。これらは術者の髪を取りこんで独自の魔術回路を得る。
　新生する事でまったく違う生き物―――<猫|・><の|・><魔|・><術|・><師|・>になるってコト。たとえば人語を解したり、人間に化けてみたりって。
　行動原理も変わってしまって、たいていは術者に似通った性格になるわ。そうよね、有珠？」
　青子の最後の言葉は、どこか意地の悪い笑みが含まれていた。
　有珠はそれを無言で受け流す。
「じゃあ、橙子さんには有珠のみたいな使い魔がいると……？」
「そう見るのが妥当でしょうね。
　姉貴は二十年以上伸ばし続けた髪と引き替えに、強力な使い魔を用意したってことよ」
「――――――」
　遊園地での戦い。
　久遠寺有珠が解放したフラットスナークを思い出して、草十郎は息を呑む。
　あの月の油は特注も特注で、あれだけの使い魔は世界に二つとないという話だが―――
「ほら、そこ心配しない、三咲町をぶっ壊す規模の使い魔なんてありっこないから。
　たしかに長く歴史のある髪を使用するほど、強力な使い魔が出来上がる」
「けど、髪を使った魔術師はそれまで溜めこんできた三柱のうちの一つを、初めからやり直さないといけない。
　切った髪はまた伸ばさないといけないでしょ？　使い魔を造るのは簡単だけど、そう多く従えないのはそういう事なの」
　話しているうちに何かふっきれたのか、青子は上機嫌になりつつある。
『……犬とか猫、か……』
　一方、青子の話を聞いて首を傾げる草十郎。
　彼の想像力では、どう考えても、犬と猫から強そうなイメージは生まれないようだ。
「……変ね。
　橙子さんは人形師よ。使い魔を造って自分のレベルを下げるのは、どうなのかしら」
「協力者がいないだけでしょ。蒼崎のお家騒動に<他人|ひと>の手を借りたくないから、自分だけで全部やるつもりなのよ」
「あ……もしかして、遊園地の人形って姉貴の髪で造られたんじゃないだろうな……」
「……たしかに、話に聞いたかぎりだと特注品ね。
　呪いによる永久機関、両手のギミック、フィンの一撃、執念深さ。橙子さんでもゼロから造るのは難しいでしょうけど……」
「けど、なによ有珠？」
「……あの人は、人形に自己を投影するような人じゃないわ。
　完璧な偽物なら許すけど、偽物にすぎない偽物は容赦なく壊してきた。
青子から見て、その特注人形は橙子さんと同じ力量を持っていた？」
「……まさか。遠く及ばないわよ、あんなの」
「なら橙子さんの髪と、あの人形は別件よ。
　あの人が自分の魔力を分け与えたほどの使い魔が、あと一体はいると見るべきね」
「……専門家としての意見？
　つまり、その使い魔は<姉|・><貴|・><よ|・><り|・><強|・><い|・>？」
「そうでないと意味がないわ。
　……人手が足りないというのもあるでしょうけど。だってわたしたちは二人、彼女は一人だもの」
「―――同時制圧も想定済みってワケ。
　なるほどね。その場合、どっちが強い方を引き当てても恨みっこなしよ有珠。
　ま、こと使い魔でアンタが後れを取るとは思えないけど」
　使い魔同士の戦いなら久遠寺有珠に敗北はない。
　そう楽観する青子に、有珠はため息まじりに忠告する。
「青子。たとえ二十年間の蓄えを付与したとしても、その器が小動物では限度があるわ。
　あの橙子さんが切札になる使い魔を用意したのなら、それは」
「……よしてよ。
　いくらなんでも、姉貴はそこまで悪趣味じゃないわ」
　意味ありげに見つめ合うふたり。
　居間に会話が戻ってきた事は嬉しいが、不穏すぎるのも困りものだ。
「……そうね。けれど、人間を追いつめるのに最も効果的な相手は、やっぱり人間なのよ。
　橙子さんが死者を亡者にしていなくても、それと同格の相手がいる、ぐらいは覚悟しておいて」
「……はいはい、分かったわよ。たしかに天才ってヤツは空気読めないから。どんな生き物の死体を用意してきても驚かないわ」
　有珠の冷たい言葉に、青子は不本意そうに頷いた。
　言うまでもなく、草十郎にはちんぷんかんぷんである。
「……その、よく分からないけど。
　なんで蒼崎たちは死んでるって事に固執するんだ？　生きてる物じゃ駄目なのか？」
「それは使い魔じゃなくて協力者でしょ。使い魔は基本、術者なくしては生きられないものにしないと。
　それでいて優れた<人格|いし>を持ち、術者の死角や盲点を補える知性もある―――それが一流の使い魔の条件よ。
　正直な話、それだけ都合のいいヤツは死から作り直すしかないってワケ」
　絶対服従でありながら、術者の死角……勘違いやドジをフォローする役回り。
　つまるところ、使い魔というのは今の自分とあんまり変わらない連中なのか、と草十郎は納得した。
「……さて。
　姉貴は昔からルーン使いだったから戦術は予測できる。
　問題の切札もどうやら使い魔らしい。
　自動人形もさすがにこの前で使いきっただろうし……」
　確認するように言いながら、青子は有珠と視線を合わせた。
　有珠は頷きだけで同意する。
「じゃあ予定通り、今日で終わりにしよう。
　この一ヶ月、好き放題やられた借り―――ぎったんぎったんにして、あのバカ姉貴に返してやる……！」
　ぐっと握りこぶしを作る青子。
　こうして見るとごく一般的な姉妹ゲンカにしか見えないのは、おそらく、本当に姉妹ゲンカにすぎないからだろう。
　そんな青子の様子に、草十郎はそっと安堵の息をついた。
　先日やってきた橙子と、その後の青子たちの緊張感は、本気で殺し合うような空気だった。
　が、今の青子には、そんな凄惨さはまったくない。
　結局、刀はもとの鞘に戻るのだろうな、とぼんやりと考えて、草十郎は安心したのだ。
　青子と橙子。たとえ両者が赤の他人であったとしても、彼は彼女たちの争う姿は見たくはなかった。
　……時間は緩やかに過ぎていく。
　青子の言う決着の夜―――彼の浅はかな間違いを正す、無慈悲な夜の静寂へと。
　夜の訪れと共に、二つのものが消え去った。
　一つは気まぐれな<白雪|しらゆき>。
　一つは、丘の上の洋館の明かりである。
　洋館に青子と有珠の姿はない。
　残っているのは草十郎だけだ。
　クリスマスイヴの夜。
　いまだ橙子の隠れ家を見つけてはいないものの、彼女たちには今日と明日が決着の日だと判っていた。
　祭りとは日常の中の非日常だ。
　終わり、蘇り、やり直しを象徴する特異点である。
　<聖誕祭|クリスマス>など百年程度の歴史しかなく、形骸的な記念日にすぎないとしても、営みの<環|わ>に組みこまれているのなら偽物も本物もない。
　祭りにおいて、土地の<魔|マ><力|ナ>の増大は<著|いちじる>しい。
　造るにしろ壊すにしろ、蓄えられてきた歪みは術者の魔術行使を助けるだろう。
　蒼崎橙子はこの土地に造られた支点……土地、人々からの魔力を集め、正しく循環させている……を壊そうとしている。
　草十郎もそれぐらいは青子たちの会話から聞き取っていた。
　五ヶ所にある支点のうち三つは既に破壊され、橙子の手に渡っている。
　残るは二ヶ所。
　これ以上の破壊は青子たちの敗北を意味する。
　青子と有珠は残った支点を守るため、別行動を取らざるをえない。
　力量的に劣る青子は、有珠の<使い魔|プロイ>を一体借り受け、最高の<魔力提供|バックアップ>を誇る陶川の支点に。
　有珠は万全の装備で<社木|やしろぎ>の支点へ。
　文明社会のくびきから逃れ、
　魔術が最大限の威力を発揮する深夜。
　幼い魔女と魔法使い見習いは、互いの健闘を祈って洋館を後にした。
　時刻はじき午後十時になろうとしている。
　彼女たちが出立してから、早い事に二時間は経っていた。
　青子が陶川の支点に向かう時、草十郎はロビーまで見送った。
　草十郎に話はなかったし、青子にだって話はなかった。
　<悲壮|ひそう>な空気もなく、青子は<颯爽|さっそう>と出ていった。
　宣言した通り、青子は草十郎を関わらせる気はないのか、それとも戦力と見ていないのか。
　どうしてか、それが少しだけ胸に残った。
「――――――」
　大きく息を吐く。
　<落胆|らくたん>でも<焦燥|しょうそう>でもない。
　機械的な、これといった<感|い><情|み>のない息継ぎだ。
　張りつくような冷たさの床に座りこんで、草十郎はぼんやりと天窓を見上げる。
　切り取られた空からは、雲間から覗く月の光。
　町に降り積もった雪は月光を照り返して、夜を真白に照らしているのだろう。
　その町中に、彼が立つ事はない。
　当然のように、初めから関わる事はない。
　彼女たちの世界と彼の世界は違っている。
　ついていく事はできないし、彼にその意志も意義も思いつかないのなら、あとは<傍観|ぼうかん>するだけだ。
　ただ、
「―――そうか。
この手が必要な時は、もうないのか」
　独白して月を見上げる。
　だから、それが少しだけ、悲しかった。
　その公園は、人々の記憶から忘却されたかのように、白い闇に沈んでいた。
　人の気配は完全に絶えている。
　夜は普段より何倍も深く得体が知れないが、同時に、息を呑むほど清潔だ。
　雲間から届くかすかな月光だけで、世界のすべてを見渡せるほどに。
　そんな束の間の永遠に、少女の足音が響いていく。
　<無|む><垢|く>の<白野|ビャクヤ>に、<静寂|シジマ>を踏む靴がひとつ。
　夜空には蒼い闇夜と<薄墨|うすずみ>の月。
　少しばかりの街灯と、場違いな電話ボックスだけが、いまは文明の名残だった。
　現れたのは黒衣の少女。
　雪原で浮き彫りになる姿は、紛れもなく久遠寺有珠だ。
　<外套|がいとう>、帽子、手袋。
　その全てが黒く、瞳と髪すら、闇より深い<藍色|やみいろ>に染められている。
　変化は長く訪れなかった。
　有珠にも、その白い風景にも。
　雪原にたたずむ姿は一枚の絵画のように。
　時間だけが過ぎ、公園の周囲から、かろうじてあった家々の明かりが消えていく。
　ここ<社木|やしろぎ>は三咲町より近代化の進んだ街だ。
　公園はそんな街のただ中にありながら、街の死角になっていた。
　開発につまはじきにされた、利用価値のない土地。
　周囲に住宅は少なく、道を照らす街灯も、深夜になれば明かりを落とす。
　そんな、人々だけでなく機械すら眠りについた白い夜。
『……わたしが、先なのね』
　消えていく灯を見つめながら、有珠は静かに呟いた。
　どこか遠くで、犬の遠吠えが聞こえた気がする。
　月にでも吠えたのだろうか。
　それは犬というより狼めいた強さで、長く長く、夜空に立ち上っていった。
　電話が鳴った。
　草十郎が洋館に住みだして、おそらく初めてになる電話の音は、深夜のホールに寒々しく響き渡った。
　草十郎はためらいがちに受話器をとる。
　受話器からの<音|こえ>はない。
　仕方なく何か言おうとして、ハタ、と草十郎は考えこんだ。
『もしもし、久遠寺ですが』と言えばいいのか、
　それとも『はい、蒼崎ですが』と言えばいいのか。
　そんな事を真剣に悩んでいると、受話器ごしに、消えそうなほど細い声が届けられた。
「……静希……君？」
　かすれてはいるが、間違いなく久遠寺有珠の声だ。
「そうだけど、有珠？」
「………………………………………………」
　草十郎の声に、有珠は<応|こた>えない。
　……深い闇のような沈黙。
　ただ、受話器の向こうは騒がしく、雑踏めいたノイズに満ちている。
　長い沈黙の後、ようやく有珠は声を出した。
「青子は、いる……？」
「いや、まだ帰ってないけど」
「―――そう」
　がしゃり、と電話は切れてしまった。
　何が言いたかったんだろう、と草十郎はひとり考えこんだが、答えはついにでなかった。
　降り積もった雪を汚すように、
　<彼|・><ら|・>はゆっくりと、その包囲の輪を狭めていく。
　いつの間にこれほどの数が集まったのか。
　公園には何十匹もの野犬が<群|むら>がり、<荒|あら>い呼吸で有珠を凝視していた。
　野犬たちの体は寒さに凍えて、どれもみすぼらしい。
　反して、かちかちと鳴る牙と血走った眼は、今にも稲妻のように走りだしそうだ。
　その飢えた腹を満たすために、目前のか弱い少女の、あまりにも食欲をそそる温かな腹の肉へ。
　彼らにとって、黒衣の少女は暗い海に立つ<灯台|きぼう>にさえ見えている。
　そんな光景を、有珠は遠い目で眺めていた。
　青子が行った陶川ではなく、ここ社木が今夜の本命であるらしい。
　それに動じるような心構えは初めからしていないし、この程度の脅しでは予想外どころか子供<騙|だま>しにもならない。
　有珠が見すえるべき敵は包囲する野犬ではなく、その後方の闇に<控|ひか>える魔術師―――蒼崎橙子に他ならないのだから。
「酷い趣味。ここ数年で品が落ちたの？
　……まあ、それならそれで嬉しいけど。コレが<地金|じがね>なら、蒼崎との付き合いもいよいよ白紙に戻せるわ」
　<辛辣|しんらつ>な言葉に、くぐもった笑いが応える。
「いやいや、コレは不可抗力でね。
　安心しろ有珠、間違っても私の趣味じゃあない」
　ざくり、と積もった雪を踏みしめて、彼女はゆっくりと現れた。
　有珠とは対照的なモスグリーンのコート。
　首もとを結ぶ<絹|シルク>のスカーフ。
　長身と短い髪、そして<凛|りん>とした背筋が、男性より遥かに彼女を<雄|おす>らしく見せている。
　―――そう。
　この雪原に立つ者は、白い夜気より深い闇を纏っていなくてはならない。
　有珠がそうであるように、その敵である橙子もまた。
　野犬たちの呼吸が弱まる。
　<端役|はやく>にすぎない彼らは、登場した主役の威光から目を逸らす。
　そうしなければ、眼球ばかりか心臓まで<潰|つぶ>されるからだ。
「久しぶりだね、有珠」
「橙子さんも、お元気そうで」
　六メートルほどの距離を隔てた挨拶。
　親愛の情はない。
　あるのは倒す者と倒される者、その区分だけである。
「さて。どうしようか有珠？
　積もる話もある。君の近況にも興味がある。そもそも今回の件について、色々と説明したくてたまらない。
　五分ほど時間を割いても構わないか？」
「お断りよ。貴女と五分も話をしていたら、その隙に内臓まで売却されそう」
　それは一瞬の出来事。
　あまりにも自然に、目を奪うほど大胆に、
　有珠は猫の鈴をケープの裾から取り出した。
　落下する鐘をディドルディドル。
　童話の夜を助長する、久遠寺有珠の魔術の始まりである。
　青子の魔術行使が西部劇の<早撃ち|クイックドロウ>なら、
　有珠の魔術行使は手品師の<指芸|カット>のようだ。
　見る者の意識の隙をついて、鮮やかに大胆に、何より気づかれる事なく、目的を終えている。
　鈴は泉に没する<金貨|コイン>のように落下し、そして―――
　跡形もなく、地中に沈む前に砕け散った。
「ルーン―――」
「ああ。一日かけて公園中に<刻|きざ>ませてもらった。
　この公園の道はレンガだからね。手間こそかかったが簡単な仕事だった。
　まわりの森まで見て、ざっと四百<平米|ヘーベー>のキャンバスだ。
　面白いだろう？
　いま私たちは、三十万字以上の<太陽|ルーン>の上にいる」
「――――――」
　息を呑みながら一歩だけ後じさる有珠。
　地表すべてにルーンを刻んでいる？
　いま一瞬だけディドルに反応した箇所だけでも気が滅入る数のルーンを、公園すべてに？
　驚きより、強い疑問に有珠は目を細めた。
　たしかに、それは完全な“日中”だ。
　夜を呼ぶディドルディドルは、この太陽の膜に破壊されて当然だろう。
　だが―――
「……一体、どうやって隠していたの？」
　それだけのルーン文字。
　それだけの魔術行使の痕跡を、どうやって隠し通したのか。
「ああ、ちょっと特別製。
このルーンね、普段は確定していないんだ。こうしている今も変形している。パッと見はただの<疵痕|きずあと>。それが強い魔力に触れると、もとのカタチに立ち戻る。形状記憶ルーンとでも言おうかな。
　そんな訳で、いかなる夜の深さをもってしても、この太陽は没しない。この通り、雪が降ってくれたおかげで視覚的な誤魔化しも万全だったしね」
　さらりと言ってのけるが、それがどれほどの執念、技術、才能を必要とするものか、有珠ですら正確に判断できない。
　一日作業だと言うなら、熟練したルーン使いが十人がかりでも可能かどうか。
　加えて、使われているルーンは協会に特許も出されていない未知の技術だ。
「……負け惜しみだけど。
　わたしみたいな小娘ひとりに大人げないわね、橙子さん」
「馬鹿を言うな。君を小娘だなんて、一度も思った事はないよ。
　まあ―――私<好|ごの>みの体だと、<睨|ね>め付ける事はあったがね」
　変化は一瞬だった。
　橙子の<戯言|たわごと>を、有珠は視線だけで斬って捨てた。
　深い闇色をした少女の左目は、禍々しい<紅玉|ルビー>の色に変わっている。
　最速の<一工程|シングルアクション>、視線による術式投射。
　魔眼と呼ばれる“魅了の視線”が、蒼崎橙子の姿を眼球に捕らえている。
　睨め付けていた、と語った女は、今や文字通り、少女の目によって<縫|・><い|・><付|・><け|・>られていた。
「―――――――――」
　橙子は腕をあげようとしたが、体は指一本動かない。
　<抵抗|レジスト>する間もない、問答無用の有珠の魔眼だった。
　自由が許されているのは<内臓|なかみ>ぐらい。
　<内臓|なかみ>は問題なく機能している以上、<運|・><動|・>ではなく<行|・><動|・>を禁じる<魅了|まがん>であるらしい。
　……に、しても惚れ惚れするタイミングだった。
　魔眼の速度ではない。
　こちらの呼吸、次の手に入る前の<間隙|かんげき>をつく術の<巧|うま>さは、青子などとは地金が違う。
　現代に隠れ住む魔女は、蒼崎橙子以上に、魔術戦のなんたるかを熟知していた。
「―――だが残念。ディドルディドルが響かないのでは、魔眼のアクロスティック化はできないようだな。
　惜しいね。あの月目のプロイキッシャーなら、これで<私|・>の方はお手上げだったろうが―――」
　橙子を拘束する陣形が歪んでいく。
　手足はおろか指一本動かせない筈の魔術師は、
　瞬きだけで、有珠の魔眼を克服した。
「――――――」
　黒衣が流れる。
　今の<克服|リカバー>が橙子の<魔|・><眼|・>によるものと看破し、有珠は相手の視界―――その正面に立たないように身を<翻|ひるがえ>す。
　魔眼と言えど、その根底にあるのは暗示だ。
　正面からの、相手の不意をつく<意識|マインド><制圧|ジャック>がもっとも効果的であり、<抵抗|レジスト>されにくい。
　逆に言えば、たとえ魔眼の範囲に入っていようと、正面にさえいなければ効果は半減する。
　ましてや、少女は数多の童話を従える最後の魔女。
　投写型の魔眼が相手なら、半身<逸|そ>らすだけであらゆる魔力をはじき返せる……！
　橙子の魔眼も有珠と同様、行動を封じる魅了だった。
　有珠は間一髪、正面からの視線を逸らした。
　この程度の<戒|いまし>め、少女にとっては森の小枝ほどの重みもない。
　指で払いのけるまでもなく、ただ通過するのみ―――
「っ―――!?」
　瞬間、有珠は信じがたい寒気に襲われた。
　これは、<詰|・><ん|・><だ|・>。
　死の感触が背中を走る。
　外套の下から青いゴムマリを逃がしながら、有珠は敵魔術師を凝視する。
　衝突する視線。
　魔眼を魔眼で押し返そうと、有珠は橙子を睨む。
　―――負ける筈がない。
　純粋な魔力量でも、魔眼の質でも、久遠寺有珠は蒼崎橙子の上にいる。
　当然の帰結として、敵の<戒|いまし>めは有珠の前で霧散した。
　だが。
　血統だの魔力量だの、そんな時代遅れの価値観は、橙子の狂気の前に砕け散った。
　目蓋ではなくその中身―――
　開く<機|コ><能|ト>のない<眼球|まがん>が開く。
　魔術師の左眼―――その水晶体の中に、<底なしの穴|クラインキューブ>がうがたれていく。
「、っ…………！」
　苦痛に歪む吐息。
　もはや拘束は一つではない。
　<夥|おびただ>しいまでの魔眼―――千を超える橙子の魔眼、その視線がすべて有珠に向けられている……！
「っ、っ……！」
　視線の重圧はいまも増え続けている。
　そこに果てがない事を、有珠は認めた。
　アレは―――
　信じがたい事に、魔眼の中に魔眼を造っている。
　橙子は自らの魔眼の内部を合わせ鏡にする事で、その<視線|こうか>を無限にしたのだ。
　魔眼の中に魔眼を造るだけでも狂気の沙汰。
　それを反射させ、次々とコピーされていく魔力を制御し、カオス化した魔力を暴走させる事なく機能させる―――
狂気なんて罵倒では飽き足らない。
　魔術を―――人間に残された最後の逃げ道である神秘を、あんな、分別なく<大量生産|マスプロダクション>してしまうのなら、あの女は魔術師と名乗るのもおこがましい―――！
「……やれやれ、これもお気に召さないか。私なりにマインスターの真似事をしてみたつもりなんだが。
　<巧|うま>く出来ているだろう？
　君のアクロのように稀少な神秘で現実をねじ曲げるのではなく、量産した神秘で現実をねじ伏せる。
　もの自体はただの魔眼。だがその弾数には果てがない。
相手がどれほどの魔力抵抗を持っていようと、それ以上の魔力で拘束する<だ|・><け|・>のモノだ」
　果てのない魔力で相手の動きを封じこめる。
　つまり、あの魔眼に囚われたが最後、無限という概念に縛られてしまうのだ。
　投写型の魔眼の欠点―――所詮は短銃であり、大砲である詠唱術式には火力・術式で敵わないという定説を、橙子は力ずくで破壊した。
　小銃が弱いのなら、数を用意する。
　９ミリの弾丸では要塞を壊せないのなら、壊せるだけの数を叩きつけてご覧にいれよう―――
　あの<積重|せきじゅう>魔眼はそれだけの原理だが、概念が力を持つ魔術世界においては完璧な兵器だった。
　アレに囚われた者は、橙子が眼を閉じるまで動けない。
　机上の空論とはいえ、理屈の上では「無限」である。
　魔力量では決して上回れない以上、魔力で抵抗する事は無意味なのだ。
　破る手段があるとしたら、まずは一つ、はじめから橙子の視界に入らないこと。
相手に気付かれる前に倒す、という対魔眼戦の基本にして最善手。
　そしてもう一つ。
　実に、単純かつ粗暴な話ではあるが―――
「ともあれこれで詰みだ。何か言い残す事は？」
「……………………」
　もう有珠には敵の姿も見えない。
　魔眼の呪縛が視界を<覆|おお>い尽くしている。
　かろうじて見えるのは空の月だけ。
　それと、<階|きざはし>のような青い軌跡。
「結構。悔いのない人生で羨ましい」
　大気中に描かれた<呪刻|ルーン>から、肌を裂く衝撃が<弾|はじ>かれる。
　風は鋭利な刃物と化して、少女の外套と、その体を八つ裂きにし―――
「―――！」
　<千|ち><々|ぢ>に散る青い羽根。
　背後に気配を感じて振りかえる橙子。
　その足下に、五体の猫鈴が投げつけられる。
　無惨に砕け散る猫鈴。
　橙子が振り向いた先には、変わらぬ久遠寺有珠の姿があった。
「…………そよ風みたいなルーンね。
　橙子さん、本当に<鈍|にぶ>った？」
「……<空蝉|うつせみ>か。術者の身代わりになるプロイの話は、聞いてなかったな」
「ええ。一年のうち３６５日は役立たずで、どうしてあんなのが古参なのかわたしも疑問だけど―――殺される事だけは得意なのよ、彼」
　少女の言葉に応えるように、チチチ、とどこからか鳥の鳴き声がする。
　犯人不明の<犠牲者|ブルーバード>。
『誰<が駒鳥を殺した|Who killed COCK ROBIN.>か？』を、音程はずれで唄っている。
「……ああ、そんな歌もあったな。
　だがアレは一度に一回しか殺されない。
　二度目はないし、あったとしても―――」
　ぷぎゃ、と鳥である事を疑う断末魔が響く。
　有珠の背後の木に留まっていた駒鳥は、橙子の魔眼を受けただけで悶絶してしまった。
「…………本当に、使えない」
「さて、ではやり直しだ。
　<後|あと>もつかえている、これで終わりにしよう有珠。どの道、この公園では手がないだろう？」
「―――そうでもないわ。
　たしかに、今のわたしに貴女の魔眼は<破|やぶ>れない。
　けれど―――」
　　　　　　『Build it up with wood and clay,
　　　　　　　Wood and clay,Wood and clay,
　　　　　　　Build it up with wood and clay,
　　　　　　　My fair lady.』
　その歌は地の底から。
　地面を<震|ふる>わせて、
　何か、巨大なものが生まれつつある―――
「―――！」
　土くれの変化が完成する前に、橙子は黒衣を無限地獄に落としこむ。
　だがもう、何もかもが遅い。
　　　　　『Wood and clay will wash away,』
　　　　　　Falling down,Falling down,
　　　　　　Build it up with bricks and mortar,
　　　　　　My fair lady.』
　波打つ大地。
　盛り上がる塔のような指。指。指。指。
　数多のレンガを呑みながら、石の巨人が<顕現|けんげん>する―――！
「そんなバカな話があるか……！
　なぜコイツが出てきやがる！？」
　困惑と怒りが、魔術師を口汚く<罵|ののし>らせる。
　橋の巨人。
　蒼崎橙子をして正面からの攻略を断念させた、マインスターの童話の怪物。
　その巨人は、強力であるが故に生成に条件が付く。
　どのような規模であれ、周囲に自然の川があること―――
　それが、この巨人を呼ぶ絶対条件だ。
　そして、この公園の周囲に天然の川はない。
　それを踏まえた上で、橙子は有珠との直接対決に乗り出したというのに……！
「―――あら。
　あるでしょう、すぐ<そ|・><こ|・>に。
　川と呼ぶには小さな、すぐに消えてしまうものだけど」
　少女の宣言に、魔術師は足下に視線を落とした。
　ぱしゃり、と革靴が水を弾く。
「――――――」
　愕然とするオレンジ色の魔術師。
　先ほどの、無意味と知った上でのディドルディドルの消費はこの為か。
　<猫鈴|ディドル>は量産できるとはいえ、少女にとっては貴重品だ。
　それを意味もなく五回。
　直線上に、道を描くよう放たれたディドルディドルは、太陽のルーンによって消滅した。
　その爪痕こそ―――
「雪解けの流水か―――！」
　石畳を食らいながら、<橋の巨人|テムズトロル>の巨腕が上がる。
　上半身だけで八メートルを超える怪物。
　その構成はすべて石。
　以前、少女が森で使役した木々の巨人も怪物だった。
　だが―――目前のモノはそれを二回り上回る怪物だと、魔術師は瞬時に理解する。
「「「「「止まれ―――！！！！」」」」」
　たまらず解放される積重魔眼。
　だが―――そんなものが、この巨大な一つの生命に、どれほどの意味があるのか。
　前述したが、魔眼への対応策は二つある。
　一つは身を隠し、術者の視界に入らない事。
　それが定石ではあるが、もう一つ、単純かつ絶対の対応策がある。
　いや、策というよりどうしようもない現実だ。
　魔眼とは視界、焦点に収めた対象に呪いを行う魔術。
　しかし。その対象が、<視|・><界|・><に|・><収|・><ま|・><り|・><き|・><ら|・><な|・><い|・><規格|サイズ>であったらどうなるのか？
　その答えが、これである。
　片腕を止めたところで些末なこと。
　巨人は自由気ままな右腕を持ち上げ、三十万の<太陽|ルーン>に叩き付ける。
　粉砕され、巨人の体として巻き込まれる石の欠片。
　魔術師はこう語った。
“いかなる夜をもってしても、この太陽は没しない”
　さもありなん。
　その言葉ごと、巨人は沈まぬ太陽を完膚無きまで<粉|・><砕|・><し|・><た|・>。
　……勝敗は決した。
　蒼崎橙子は魔眼を閉じ、逃げ道を確保するように後退する。
　周囲からはくぐもった野犬の<呻|うめ>き。
　集まった彼らも、そびえ立つ異形に怯えきっている。
「まいったな。私ではマインスターには勝てなかったか。
　まあ、そのあたりは今後の課題としよう」
「……呆れた。逃げられると思っているの、橙子さん？」
「まさか。そこまで鈍ってはいないよ有珠。
　だいいち―――逃げるとしたら、それは私の方じゃないからね」
「……？」
　魔術師の声に虚勢はない。
　自分では傷一つ付けられない巨人を前にして、蒼崎橙子の余裕は崩れない。
　なぜなら、
「ま、前座は終わりだ。―――来い、ベオ」
　技を競い合う戦いではなく、
　命を奪い合う戦いは、ここから始まるのだから。
　ぱちん、と指を鳴らす橙子。
　その呼びかけに応じて、一際高く、美しい旋律が月に伸びた。
　……どこまでも響く弦楽器。
　太古の記憶を呼び覚ます<螺旋|らせん>の<咆哮|ほうこう>。
　その音の主は、闇の中から魔術師の真横に舞い降りた。
「――――――」
　<少女|アリス>の口が、かすかにわななく。
　恐怖によるものではない。
　あれがどのような生き物なのか一目で受け入れ、感動で唇を震わせたのだ。
　あまりにも美しい<黄金|おうごん>の獣。
　魔でもなく幻でもなく、聖なるものにも留まらない。
　それは絶滅した<神代|しんだい>の<生命|いのち>。
　人智による神秘。積み重ねられた秘儀伝承。
　地に<遍|あまね>く在る奇跡の再現―――
　その一切をかみ砕く、<本|・><当|・><の|・><魔|・><術|・><の|・><天|・><敵|・>。
「………………」
　少女の眼が、静かな<諦|あきら>めに<翳|かげ>る。
　黄金の獣が駆ける。
　―――今度は詰んだとすら、思えなかった。
　―――すぐ<傍|そば>で、獣の息遣いが聞こえる。
　どうやら、意識が数秒ほど途切れていたようだ。
　有珠は目を開けて、息を吸う。
「―――、―――」
　咳きこむように苦痛を漏らす。
　喉もとから逆流した血が、冷たい地面を濡らす。
　焦点を取り戻した視覚が、高い空と、また降りだした雪と、黄金の狼を認めていた。
　狼の息遣いは荒々しい。
　<涎|よだれ>を舌からこぼしながら、有珠の顔を覗きこんでいる。
　ノコギリのような牙と口。
　この世のどんな動物より柔らかく、艶やかな毛並み。
　血に染まった<前脚|あし>の爪は、まるで包丁を三本揃えたような凶悪さだ。
　それでも、粗野な臭いは微塵もない。
　この金狼の前では、人間の方が己が<獣性|じゅうせい>に恥じ入るだろう。
　……有珠と狼の戦いはあっけなく終わった。
　橋の巨人は金狼の前に破れ、有珠は逃げる事もできず、その凶悪な前脚の洗礼を受けた。
　剣のような横殴りの衝撃が、有珠の腹を一閃したのだ。
　服はもちろん、内臓まで吹き飛んだ。
　その決定的な瞬間でさえ、有珠は声をあげなかった。
　狼は有珠を押し倒し、その顔を覗きこむ。
　触れれば折れかねない少女の四肢にのしかかる。
　それが<現在|いま>の状態だ。
　意識を取り戻した有珠は苦しげな瞳で敵を見据える。
　そこに恐怖はない。
　あるのは、現実を受け入れる冷めた色だけだった。
　有珠の覚悟に感じ入ったのか、狼は振り上げた前脚を停止させる。
　少女の黒い瞳と、狼の眼が交差した後―――
「“そんなに血が出てるのに、痛くないんだ”」
　思いがけない声があった。
　それは間違いなく、目前の狼が発した<言|も><葉|の>だ。
「“それとも、痛いのは平気なのかな”」
　邪気のない、子供のようなイントネーション。
　狼は不釣り合いな、これまでの風格を台無しにする笑みを両眼に浮かべ、
「“どっちにしろ我慢強いんだね、お姉ちゃんは……！”」
　大口を開けて、少女の首にかぶりついた。
「ベオ―――！」
　閉じられる狼の牙より、なお鋭い橙子の<叱責|しっせき>。
　それに驚くような動作で、狼はびくりと停止した。
「“……トーコさん”」
　狼はゆっくりと背後を振り返る。
「トドメは刺すなと言ったろう。余計な仕事を増やす気か、バカモン」
「“ちぇっ。それはそれで楽しいのに。
　あーあ、たいくつー。話に聞いた橋の巨人も、結局は他の生き物と一緒だったしー”」
　橙子の叱責を受け、狼は有珠からトボトボと離れていった。
　もう何の興味もないように。
　あの黄金の獣にとって、有珠は道ばたの草ほどの価値もないらしい。
「―――、っ―――」
「なんだ、もう意識が戻ったのか。心もタフなら体もたいがいだな。骨まで砕いて、その程度の出血とは。マインスターの教育のたまものかい？」
　有珠は死に<瀕|ひん>した体で、蒼崎橙子を凝視する。
　<敗|やぶ>れた憎しみからではなく、なぜあんなものを連れているのか、という糾弾から。
「ああ、紹介が遅れたな。
　彼はおそらく地上で現存している最後の<人狼|じんろう>だ。
北欧の奥地に生きる彼らの一族の中に現れた、生粋の原種だよ。
　見ての通り、先祖返りなんて言葉じゃ表せない黄金の神秘でね。名前がなかったんで、分かりやすくベオウルフと呼んでいる」
「ベオ……ウルフ？」
　腹部を裂く爪にさえ乱れなかった有珠の<表|か><情|お>が、<怪訝|けげん>に<曇|くも>る。
　ベオウルフ。
　デンマークに伝わる、巨人殺しの英雄の名前。
　その名は古英語でいうところのミツバチと野生の獣の組み合わせで、つまるところは熊を意味する。
「―――なんで、そんな、ちぐはぐな名前、を」
「うん？　いや、可愛いからに決まってるだろ」
　それはベオウルフという名前にかかったものか、金狼自体にかかったものか。
　この女の感性は青子より分かりづらい、と有珠は痛みをかみ殺した。
「ついでに説明しておくと、周りの犬どもはベオが勝手に呼び寄せたものだ。私自身、マインスターの娘がただの畜生に傷つけられるとは思ってはいないよ。
　―――今のところは、ね」
　それだけ言うと、橙子は小さく微笑んだ。
　草十郎に見せた温かなものではなく、勝者が敗者に見せる無慈悲な笑みを。
　有珠の瞳にこもった批難は、今や怒りに変わっている。
　黄金の神秘。
　そう口にするのなら、なぜこんな人の世界に連れてきてしまったのかと。
「なに、需要と供給だよ。
　過疎化は人間だけの問題じゃあない。彼らもいい加減、昔ながらの生活には限界がきたらしくてね。話し合いの末、高額で私が買い取った。
　といっても、あくまで<洞|さと>から出すだけの権利だがね。
　お察しの通り、私の髪はベオとの契約に使いきった。自分の髪を使って<使い魔|ぶんしん>を造るより、強大な怪物を縛り付けた方がよっぽど健全―――
む？」
　喋りながら、橙子は眼下の異常を感知した。
　……形容しがたい怪音。
　……聞く者の正気を削るような、この世には存在しない音。
　いや、してはならない音。
　それが、少女の裂かれた腹部から<零|こぼ>れている―――
「もう復元が始まったか。いや、というより、これは―――」
「“ん？　ふんふんふんふん？　なにこの匂い。トーコさん、なんかワクワクするコト起きてない？”」
　なーにー？　と近寄ってくるベオウルフ。
　<玩具|オモチャ>に興味を持った子犬さながらである。
「見るな、あっちに行っていろベオ。正気を失ってもしらんぞ」
　しっし、と橙子は駄犬を手で追い払う。
　ベオウルフは残念そうに、大人しく引き下がった。
「……教育方針を間違ったかな。まったく、乙女の<胎|はら>を見ようなんて恥を知れ、恥を」
「“えー。トーコさんだって見てるじゃない”」
「ばっか、私は乙女だからいいんだ！」
「……………………」
　青子がいたらフラットスナーク戦もかくや、という一撃を放ちかねない暴言だった。
「……まあ、しかし惨いな。
　<こ|・><ん|・><な|・><に|・><な|・><る|・><ま|・><で|・>放っておくとは、マインスターは人の親とはいえまいよ」
　橙子は手袋をつけたまま、鮮血に染まる有珠の腹部に手を滑らせる。
「っ………」
　小さく<零|こぼ>れる苦悶。
　悲鳴ひとつあげなかった有珠から吐息が漏れる。
　顔を<背|そむ>けたのは、恥じらいからか、痛みからか。
「ほら、もう肌も復元している。骨格、血管はおろか、内臓にまで施された、<夥|おびただ>しいまでの刻印だ。
　生後、肉体に魔術回路を付加する事は両刃の剣だ。
　呪文を自分と一体化させる事により、詠唱の手間を省き、術者に多大な利点をもたらす魔術刻印。
　しかし、それは多ければ多いほど苦痛をともなう。蒼崎の刻印は腕一本分。まあ、君に比べれば少ない方だな」
　橙子の語る魔術刻印とは、その家系の歴史を形にした遺産の事だ。
　後継者にしか刻まれない一品もの。
　蒼崎橙子が継承するはずだった刻印は、妹である青子の手に渡っている。
「しかし、それも良し悪しだな。
　右腕に刻印をした青子の痛みは、残る人間の体と神秘となった右腕とが反発する程度だ。
　通常の肉体が右腕を否定し、抹消にかかる痛み。
　精神的にも肉体的にも生じる幻痛は、原罪にも似て<拭|ぬぐ>い去る事はできない」
「……だが、ここまでくると痛みも何もあるまい。
　そもそも生きている実感はあるのか？
　自分が人間だとまだ信じている？
　ああ、本当に―――
お互い、非凡な師を持つと苦労するね、有珠」
　そうして、橙子は有珠の体を抱き起こした。
　ベオウルフに裂かれた腹部はもう大部分が<塞|ふさ>がっている。
　それでも痛みは残っているのか、有珠の呼吸はあまりにもか細く、弱い。
　そんな少女の顔を、橙子は優しく持ち上げる。
「マインスターには恩がある。それに、私の相手はあくまで青子ひとりだ」
　無惨に酸素を求める有珠の唇が、橙子の唇に塞がれる。
　身をよじって逃れる少女の肩を、魔術師の腕が掴み縛る。
　蒼い月の下、両者は凍り付いたように動かない。
　こくり、と嚥下する音。
　有珠の喉に滑り落ちる固形物。それきり、少女は力を失って崩れ落ちた。
　弱々しく横になった有珠を見届け、橙子は立ち上がる。
「今のはナナカマドに手を加えた私の特製品だ。そう簡単に解毒はできない。魔力を流せば体の中で暴発する仕組みになっているから気をつけなさい。
　―――ああ、口移しは私の趣味だから、特に気にする事はないよ」
「…………………………」
　有珠は地面に倒れたまま、必死に意識をたもって橙子を見上げる。
体の痛みより、今の口づけの方がよっぽどダメージが大きかったと睨むように。
　恨みがましい視線に振りかえる事もなく、橙子は黄金の狼を従えて歩きだす。
「と。そうそう、ひとつ言い忘れていた。
　ベオが呼び寄せた野犬たちだけどね、公園の外にまだ山ほどいるんだが―――困ったコトに、彼らは本来<何|・><を|・><口|・><に|・><す|・><る|・><べ|・><き|・><か|・>を思い出している。
　ベオの野性に刺激されたんだろう。獣は、より強い獣に従うものだからな」
　遠回しな死刑宣告。
　自然界において、動かなくなった動物は、まだ動く動物に<肉|からだ>を捧げるのが習わしだ。
「じゃあ私は行くよ。歩く事も満足にできないだろうが、無事に帰れるといいね、有珠」
　口元をいびつに歪ませて、魔術師は退場した。
　それと入れ替わるように、飢えた<彼|・><ら|・>の声が集まってくる。
「…………、――――――」
　……有珠の視界はいまだ定まらない。
　集まりだした野犬は、絵本に出てくるお化けのようだ。
　薄れゆく意識の中で、有珠は大きく息を吐いた。
　空は青く、森は高く、広場に救いはない。
　うつろな視界の隅には、場違いな電話ボックスがひとつ。
　電話が鳴った。
　草十郎にとって二回目にあたる電話の音は、深夜のロビーに寒々しく響き渡った。
　有珠の電話から、まだ数分と経っていない。
　彼女の用件はなんだったのか。
　ひとり考えこむ草十郎の目を覚ますように、コール音は鳴り響く。
「はい、久遠寺ですが」
「あら、その声は草十郎くん？」
　また有珠からの電話では、という草十郎の予想を裏切る明るい声。
　声の主は蒼崎橙子で、予想外の相手に草十郎はかすかに当惑……はしなかった。
「そうですけど。橙子さん、暇なんですか？」
　たしかもうじき午前零時になるな、と草十郎は時計を確認する。
　ここ一番でも緊張感のない男である。
「っ―――」
　受話器の向こうでは、笑いをこらえる息遣い。
　しばらくの呼吸困難の後、橙子はようやく落ち着いて会話を再開した。
「ごめんなさい、ちょっとツボはいっちゃったみたい。
　で、質問の返しね。これがあんまり暇じゃないな。私も今日で終わらせる予定だから忙しいんだ」
「偶然ですね。蒼崎もそんな事を言ってました」
「やっぱり？　そうね、こういう時は本当に姉妹だなって思うわ。昔からエンジンかけるタイミングだけは一緒だったから、あの子とは。
　……ところで、蒼崎はやめてって言ったでしょ。私も蒼崎だから、<擽|くすぐ>ったいのよね、そう言われるの」
　言われて、ああ、と草十郎は納得した。
　あの時の言葉はそういう意味だったのか、と。
「まあそんな訳だから、長話をする気はないんだ。
　単刀直入に聞くけど、そっちに青子はいる？」
　それは本当に、妹の行方を心配するような質問だった。
　しかし、どんなに緊張感のない草十郎でも、橙子が青子たちの敵であるコトは実感している。
　青子と有珠を思うのなら、この質問には答えられない。
「……さあ。なんて答えてほしいんですか、橙子さんとしては」
　今までの気軽な口調とは一変した質問。
　草十郎の言葉に、受話器の向こうにいる橙子は、まいったなあ、と呟いた。
　彼女が思っていた以上に、この少年は察しがいい。今は、その賢さがマイナスに働くというのにだ。
「そうね、君には何も答えてほしくないっていうのが正解かな。
　第一印象で君を無視するのはよくない気がしてたけど、やっぱり私は、草十郎くんを手にかけたくはないみたい。
　君は、このまま無関係でいてちょうだいね」
　嘘のない、親しみのこもった忠告。
　草十郎はそうですか、とだけ答えた。
　やっぱり彼女も無関係である事を望んでいる。
　それが彼女たちなりの誠意である事は、草十郎にも理解できる。
　だが。その誠意は、誰が望んだものなのか。
「じゃ、さよならね。私は君が思ってるほど暇じゃないから。
　……でも、最後にひとつだけ。君を試すようで悪いんだけど、伝えておかないと一生恨まれそうだし。
　なんで、そうならないように責任の半分を君に押しつけちゃおっかな」
　くす、と橙子は笑う。
　それは、はじめから<そ|・><れ|・>を伝える事だけが目的だと示す笑みだった。
「さっき久遠寺さんに会ってきたの。
　彼女から電話があったでしょう？」
　橙子の口調は変わらない。
　今の台詞にはどこにも嫌な気配はない。
　なのに有珠の名前を聞いた瞬間、草十郎の背筋に冷たい物が走り抜けた。
「彼女、今ひどい状態なんだ。満足に歩けないどころか、体中の刻印が活性化して破裂寸前。草十郎くんが骨折の痛みを知ってるなら、うまい喩えようがあるんだけどね。
　ま、ともかくだ。いつ気を失ってもおかしくない状態なんだけど―――災難なことに、怖い野犬に囲まれてるみたいなの。
　個人的な意見だけど、んー、十分もあれば骨しか残らない結末になるでしょうね」
　これっぽっちも信憑性のない、冗談のような話。
　それもとびきり出来の悪い。
　だが、草十郎はすべて現実だと受け入れた。
　橙子の言葉に嘘はない。
　都会の犬が人を襲うなんて話は聞かないけれど、先ほどの有珠の電話にあった違和感―――騒がしかった雑音の正体に、草十郎はようやく思い至った。
　あれは間違いなく、群れをなして獲物を囲む、犬たちの唸り声だったのだ。
「っ………！」
　なぜあの時に気付かなかったのか。
　受話器を強く握り締めて、草十郎は自分を呪う。
　つい数分前の有珠の言葉は、彼女にとって精一杯の、助けを呼ぶ声だった。
　青子以上に草十郎を関わらせまいとする有珠は、絶望的な状況でも、彼に助けを求める事はしなかった。
　……けれど、それでも、最後の最後で助けを求めた。
　か細い声で、彼女が彼の名前を呼んだあの時に。
「場所は」
　簡潔に問いただす。
　橙子が敵である事を思い知った草十郎だが、彼女なら場所を教えてくれるという確信がある。
　そのために、橙子はここに電話をしたのだから。
「教えてあげてもいいけど、そうした瞬間に君は私の敵になるのよ。その覚悟はある？」
　そういう事か、と草十郎は納得した。
　たしかに、これは試されている。
　ここで有珠を無視すれば、自分は彼女たちと無関係だと証明できる。
　けれど助けに行くのなら―――
「それで、場所は？」
　橙子の問いには答えず、草十郎はそれだけを聞き返した。
　覚悟なんて一生できないし、後悔だって尽きる事はない。
　だいたいはじめから、彼には明確な判断基準が失われている。
　だから、何であれ一番初めに感じた事を大事にしようと思ったのだ。
　それが山から下りてきてからの、彼の数少ない<矜持|きょうじ>だった。
「……そ。ちょっと残念だな、私はホントに君が気に入ってたのに。ま、こうなる事は分かってたけどね。
　場所は社木の森林公園。受話器の下に地図があるでしょ？この前、帰りがけに栞をはさんでおいたからそれを参考にすること。
　繰り返すようだけど、十分持てば幸運。その後は一分ごとに奇跡の価値があがるような状況よ、今の彼女は」
　橙子の説明を聞きながら、ぎり、と草十郎は苛立ちで顔を歪めた。
　ここ三咲町から社木は一駅離れている。
　今から洋館を出て駅に着くまで何分かかるだろう？
　いつもは二十分弱。
　そこから電車に乗って社木に着いた頃には、もう三十分は経っている―――
「地図の上じゃ近いのに、区画整理された交通手段は不便よね。けど、急げば最終の電車には間に合うわ。ここで諦めた方が賢明だけど、君はもう私の敵だから。
　―――どっちにしたって、後悔のないようにね」
　電話はそこで切れた。
　橙子が切ったのではなく、草十郎が切ったのだ。
　地図を頭にいれて走りだす。
　上着を取りにいく時間も惜しい。草十郎は着の身着のままで、まだ雪の残る冬の夜へと駆け出していく。
　ホールには放り出されたままの地図だけが残っていた。
　開かれたページには三咲市の地図がある。
　この洋館から森林公園まで、距離にして約１５キロ。
　直線で結べばその三分の一もないというのに、都会の道は本当に不便だ。
　<都市|ここ>では十センチもない紙上の距離が何倍にもなってしまう事を、草十郎ははじめて呪いたくなった。
　有珠が裂かれたのは腹部だけではなかった。
　正確には腹を貫通して背中まで。
腰のやや上にある<脊椎|せきつい>まで砕かれた有珠の両足は、ぴくりとも動かなかった。
　いずれ魔術刻印によって復元するにしろ、最短であと一時間。
　かろうじて動くのは心臓と、細い両手だけ。
　その希望も、地を這って電話ボックスに入った時点で、もう満足に動かなかった。
　腹部の傷を癒すために起動した刻印は、凶悪な炉熱を放って、有珠の小さな体を押し潰そうとする。
　―――自分の体が自分の物でなく、何か得体の知れない、別の生き物に変わっていく感覚。
　裂かれた腹部に渦巻く猛毒は、痛いというより辛い。
　痛みには慣れているが、この不快感だけは慣れようがない。
　慣れた時には、彼女はもう彼女ではなくなっているのだから。
「……、―――」
　腹部の痛みと、魔術刻印による不快感。
　いつ消えてもおかしくない意識の中、有珠は受話器を手に取った。
　青子が帰還している可能性は低い。
　それを知りながら洋館に電話をしたのは、電話ボックスに集まりだした野犬達の目つきに<圧|お>されての事かもしれない。
　けれど、電話に出たのは草十郎だった。
　関係のない彼なら無言で切るべきだったのに、有珠は名前を呼んでしまった。
　……長い沈黙と葛藤の末、受話器ごしに凡庸な草十郎の顔が思い出されて、有珠はなんとか電話を切った。
　どうあっても彼を関わらせるのはいけない、そう本能が律したのだ。
　……それは、一般人だからとか、そんな事とは関係なく。
　あの日ささやかな秘密を共有した時から、少女にとって、静希草十郎はそういう風に映っていた。
「…………、―――――――――」
　喉からこぼれる息が、細い。
　頭上の月が薄らいでいく。
　降り始めた雪が遠くなっていく。
　周囲からは野犬たちの騒ぎ声。どん、と電話ボックスに体当たりをする音も聞こえだした。
　……少女は最後に大きく息をついて、目蓋を閉じる。
　硝子の<棺|ひつぎ>の中で意識を手放す。
　少年に助けを乞わなかった事を最後まで正しく、そして不思議に思いながら。
　　　　　―――合間。
おかしな風景を見た。
　一面に花が咲き乱れた野原。
　雲ひとつない空は青すぎて、
　野原いっぱいの花は白すぎて、
　こんなにも美しいのに、目を<背|そむ>けたくて仕方がない。
　……それはたぶん、冬の出来事だった。
　冷たい風は人里離れた<桃源|とうげん>の匂いがして、太陽すら人の<手|て><垢|あか>に汚れていない。
　楽土と錯覚する<彼岸|ひがん>の原。
　そう言えば、<弔|とむら>いは悲しいものなのに、いつも<華|はな>やかな事を思い出す。
　……<嗚|あ><呼|あ>。
　なのに不釣り合いな呻き声と、<生命|いのち>の音がする。
　断片的にこぼれる<吐|い><息|き>は<絞|しぼ>るように。
　痛みを訴えるはずの<感情|しんぞう>は、<虚|うつ>ろになって機能不全。
　切断するかのような締め付けは胴と頭の中間に。
　女は泣きながら、鳴き声ひとつあげぬ幼子の―――
　空は高く、森は深く、人は途絶え。
　駆けつける足音も、助けを求める<意|こ><思|え>もない。
　そんな静けさの中で、無心で空を見上げていたのは、一体、誰だったのだろう―――
「………………」
　気が付くと、有珠は見慣れた坂を上っていた。
　夜気は冷たく、手足は凍てついたように動かない。
　当然と言えば当然だが、金狼によって裂かれた腹部は剥きだしで、体はしきりに震えていた。
「……静希……君？」
　自分がその人物におぶられて白犬塚の坂を登っている事を、有珠はうつろな意識で認めた。
　草十郎は有珠を背中におぶったまま、無言で坂を上っていた。
　落ち着いた瞳は、寒さのせいか辛そうな色をしている。
　見れば、この寒さの中で歩き回る服装ではなかった。
　草十郎は上着も着ておらず、首もとや手の平が哀れなほど冷えきっている。
「……どうして、ここにいるの……？」
　おぶられたまま有珠は問うた。
　体を起こしたくても力が入らない。
　自分の重さがすべて他人に預けられている事が、今はひどく気にかかる。
「橙子さんから電話があった。有珠が危ないって。
　……蒼崎はともかく、有珠は意地を張りすぎだ。あの状況で助けを呼ばないのはどうかしてる。そりゃあ、自分が行っても何もできなかっただろうけど」
　草十郎は前だけを見つめて、叱るように返答した。
　その叱責は背中の少女に向けたものではなく、力になれなかった自分に対してのものだ。
「…………静希君は、関係ないもの」
「だろうね。けど、これで関係はできた。館についたら話してもらうぞ」
　草十郎はとにかく坂を登っていく。
　……考えてみれば、洋館までの坂は段々ときつくなっていく。
　その坂を、自分を背負ったまま登っていく草十郎に、有珠は意外なものを見た気がした。
「降りるわ、もう大丈夫だから」
「お腹をむきだしでかい。このほうが少しは暖かいよ。
　それに、有珠は薪より軽い。山じゃこの程度は朝飯前だから気にしないでくれ。息があがっているのは公園まで急いだからだし。
……まあ、その意味はなかったんだが」
「……なぜ？」
「俺が着いたら、犬はさっさと散っていった。はじめから、橙子さんはそういうつもりだったんだ。
　有珠をどうにかするつもりもなければ、時間制限もなかった。喜ぶべき事なんだろうけど」
　憮然と言う草十郎。
　けれど、それは彼だけの勘違いだ。
　橙子に殺意はなかったが、結果として有珠が死んでしまう事には何の罪悪感もなかっただろう。
　……有珠は思う。
　この少年がどれほどの速さで公園に着いたかは知らないけれど、彼が来なければ間違いなく電話ボックスは破られて、自分は生きてはいなかったと。
「………………」
　有珠は様々な所感、感情をのど元で押し止める。
　言っても仕方のない事だし、草十郎の甘い勘違いを正すのも気が引けたからだ。
　……ただ。言いかけた<感謝|ことば>を飲み込むのは、傷を堪える事より辛かっただけ。
「……もしかして、公園からずっと？」
「仕方ないだろ。電車、終わってたんだから。タクシーを使えば良かったんだけど、あいにく持ち合わせがなくて。
　……ほんと。今日ほどお金の不便さを思い知った日はない」
　少年はようやくため息らしきものをついた。
　休み休みとは言え、彼は実に十キロ近い距離をこうして踏破してきた。
　疲れきっているだろうに、草十郎はその困難さより、自分の頼りなさに呆れたらしい。
「……でも。それを言うなら、お金の大切さ、じゃない？」
「使えるものがあるのにお金がないだけで使えないんだから、それって不便って言わないか？」
「――――――」
　純粋な疑問に、有珠は一時、傷の痛みを忘れてしまった。
　自分も、それなりに文明社会とは縁がないつもりだったけれど。
　この少年の素朴さに比べれば、ちゃんと文明人らしいのだ。
「なにか、貴方らしいわ」
　気付かれない様に小さく笑う。
　有珠が顔をあずけると、こつん、と柔らかいものが頬に当たった。
　少年の首に巻かれた、青子からの首輪だった。
「館についたら着替えるんだ。お腹の血も拭って、落ち着いたら居間で話そう。
　橙子さんに言わせれば、俺もこれで敵らしいから」
　その言葉を有珠が聞いた時、彼はもう坂を登りきっていた。
　森の入り口にあたる正門。その奥には、月明かりの下に佇む彼女の洋館がある。
　それを見上げて、少女は少しだけ残念に思った。
　……もちろん。
　何を残念に思ったのかは、気が付く事はなかったけれど。
　ロビーに着くと、有珠は草十郎の背中から降り、西館に向かって歩きだした。
　洋館の左翼、ロビーから西は彼女の管轄である。
　が。有珠は数歩もしないうち、床に崩れ落ちてしまった。
「有珠……！」
　草十郎が駆け寄ると、有珠は座りこんだまま片手を上げた。
　それ以上は近付かないで、と告げるように。
　草十郎は苦い顔付きで足を止める。
　……少女の白い肌には汗がにじんでいる。
　いつも無表情の顔は、苦しそうに痛みに耐えていた。
「……平気。部屋に戻るぐらいの力は戻ったわ。服を<繕|つくろ>ってくるから、貴方はここにいて。
　すぐに戻ってくるから、そうしたら―――」
　きちんと話をする、と苦しげな目が伝えてくる。
　そう言われては止める事もできない。
　辛いのは有珠の方で、断じて自分ではない、と草十郎は自分に言い聞かせる。
「……それじゃあ、戻ってきたら話を聞かせてくれ」
　有珠は深呼吸をしてから、確かな足取りで洋館の西館へ消えていった。
　……時間にすれば五分もない空白。
　有珠は代えの黒衣に着替えて戻ってきた。
　顔色は一向に良くはならない。
　小さく息をついて、いつかのように、ロビーの柱に背中を預けて座りこむ。
「有珠。傷が痛むなら、無理せず横になったほうがいい」
　草十郎は有珠に合わせて、冷たい床に座りこむ。
「……傷はもう痛まないわ。横になる必要もない。
　この体の異常はナナカマドを飲まされたせいだから、どうあっても治らないもの」
「じゃあ、せめて毛布とか」
「…………いいから、気遣いはしないで。ここなら寒さも関係ないから」
　寒さに関しては強がりではないらしい。
　いつかの青子の『有珠は洋館の中にいれば適温』説を思い出して、草十郎はあっさり引き下がった。
「……うん、あったかいのならいい。
　それで、ナナカマドっていうのは？」
「薬草の一種よ。七回<竃|かまど>で焼いても燃え残る事から付けられた名前で、効用は魔除け。
　……普通の人にはよくない程度だけど、わたしや青子には少し厄介ね。体内での魔力生成そのものに抵抗されてしまうから、手の打ちようがない」
「……毒、と思っていいのか？」
「いえ、本来は薬草よ。
　今は傷を治すために魔力を使っているから苦しいけど、傷が完治すれば大人しくなるわ。魔術さえ使わなければナナカマドも反応しないから。
　単純な話、ナナカマドを消化するまでわたしは役には立たないだけ」
　ただ。
　それが何日かかるかを、有珠は口にはしなかった。
「……別に、静希君が心配することじゃないわ。
　こんなの、血が流れる程度の痛みだから」
　有珠の声は努めて静かだった。
　青子も背中を強打されても平気な顔で走っていたし、魔術師という人種は痛みへの耐性が強いのかもしれない。
　それに驚きつつ、草十郎は呆れたのだ。
　耐えられる程度の痛みは傷じゃない、なんて考えでは、死に至る傷以外は痛みではなくなってしまう。
「……分かった。話をするのは明日にしよう。今日はとにかく体を休めてほしい」
「明日になっても、わたしの容態は変わらないけど……？」
「いいんだ、それでも。有珠はもっと体を大事にしてくれ」
　言って、草十郎は立ち上がった。
「部屋まで送るよ。それとも居間で休むか？　西館には入った事はないから、有珠の部屋も分からないし」
「……ここでいいわ。青子を待たなくちゃいけないから」
　有珠は座りこんだまま、天窓を見上げている。
　痛みに耐える顔が月光に照らされている。
　廃墟の古城を思わせるこのロビーで、月と有珠だけが現実より鮮明に映っている。
　その張りつめた強さは、何処からくるものなのか。
「――――――」
　草十郎は立ったまま、少女の在り方を眺めている。
　無力に夜空を見上げるしかない、有珠の視線の意味にも気付かないままで。
　……そうして、ロビーの静寂を破るように三度目の<電話|コール>が鳴り響いた。
　草十郎が動くより早く、細い影がロビーを横切る。
　それが衰弱した有珠だと草十郎が気付いた時、彼女はすでに受話器を手に取っていた。
「青子……？」
　……不安を含んだ有珠の声を、草十郎は初めて聞いた。
　痛みに耐える声より、何倍も<悲愴|ひそう>な響き。
　有珠の問いに、受話器はただ一言だけを返す。
　有珠以上に弱々しい、消え去る前の炎みたいな一言を。
「……ごめん、やられた」
　受話器から遠く離れた位置で、青子らしくない言葉が、草十郎の耳に響く。
　……それだけの言葉なのに、いや、それだけの言葉だからこそ。
　草十郎には青子の<敗北|けつまつ>が、堪え難いほど実感できた。
　有珠は静かに受話器を置く。
　今まで苦痛に耐えていた彼女の体は、一転してしなやかな強さを取り戻した。
　針金の人形が、美しい彫像に変わるように。
　それを見て、草十郎はようやく気が付いた。
　有珠の痛々しく月を見上げる瞳は、自分ではもう変えようのないこの結末を、静かに受け入れる為のものだったと。
　青子からの電話はつながったまま、もう語りかけてくる事はなかった。
　有珠は電話を切ると、手早くケープを着て玄関へと歩きだす。重症の体を、気力だけで動かすようにぎこちなく。
　その途中、ぴたりと足を止め、何やら思案げに草十郎を凝視した。
「……青子に何かあったんだな？」
　有珠は一瞬だけ思案し―――
　緊張をとくような思いきりの良さで、自分から少年の手をとった。
「静希君、一緒に来て」
「待ってくれ。一緒にって、どこに？」
「<合田|あいだ>教会まで。青子の方は、<詠梨|えいり>神父にお願いするしかないから」
「合田教会って、病院の横にある？」
「……そう。知っているのなら問題ないわね。説明する手間も省けたわ」
　有珠は玄関を出て、正面の並木道に向かっていく。
　……気丈に振る舞ってはいるが、その瞳には苦痛の色が見え隠れしている。
「ちょ、有珠！　連絡をするなら、電話は？」
　弱い、けれど逆らえない有珠の手に引かれながら、草十郎は館を振り返った。
「教会の人になら、もう報せた。
　……もしかして病院のことを言っているなら、それこそ無駄よ。ハイヤーなんて言うけど空を飛ぶわけでもないし。今は助けを呼ぶより、助けに行かないと間に合わない」
　……と。
　有珠は洋館に視線を切り返し、小さく指を鳴らした。
　有珠の合図に呼応するかのように、いずこかの窓が開き、無数の<椋鳥|ムクドリ>が飛び立っていく。
「一番隊は索敵。二番隊と三番隊は現場に向かって応急処置を。在庫切れになってもいいわ。
まだ生きているなら、青子の心臓を止めないで」
　有珠の声は、飛び立っていく椋鳥たちにかけられたものだ。
「静希君は、裏庭から青子の自転車を持ってきて」
　言われて、げっと草十郎は漏らした。
　裏庭にある赤い自転車はオーダーメイドの特注品だ。
　いつぞやの焼却炉の掃除の際、うっかり傷つけそうになった草十郎に、青子は怒濤の<罵詈雑言|ばりぞうごん>をみまったのである。
「……いいけど。どうするつもりなんだ、有珠は？」
「ここにいるより、教会にいたほうが静希君は安全よ。それに、わたしも急がないといけない。
……静希君、ふたり乗りできる？」
「――――――む」
　<見様見真似|み よ う み ま ね >でやれる自信はあるものの、いまいち自転車というものを信用できない草十郎だった。
　あの細い<骨格|フレーム>の乗り物に、はたして二人分の体重を支えるだけの性能があるかどうか―――
「ん？　ふたり乗りってコトは有珠が後ろに乗るのか!?」
「…………
出来ないなら、いいわ」
　ぷい、と顔を背けて歩きだす有珠。
　間の悪いコトに、草十郎の言葉をストレートに誤解したらしい。
「いや、そういう意味じゃないんだ。有珠とはイメージが合わなかったから」
　草十郎の弁解にも耳を貸さず、有珠は一人でスタスタと森に向かう。
　どうも、有珠は自転車に乗れないらしい。
　目に見えて意地を張っている有珠を、草十郎は必死に呼び止めた。
「待った、今のはこっちが悪かった。すぐに持ってくるから、怒るのはツケにしておいてくれ」
　聞いて、ぴたりと有珠の足が止まる。
　有珠の停止を確認して、草十郎は急いで裏庭に向かった。
　納屋の鍵置き場から自転車の鍵を取って、
青子愛用の自転車のロックを外す。
　自転車を引いて洋館の正面に戻ると、有珠はもう森に向かっていた。
「……有珠の性格、なんとなく掴めてきたな……」
　呟いて、草十郎は自転車にまたがった。
　ペダルに足を置く。軽いが確かな感触。
　これなら二人分の体重が乗っても問題ない、と自転車を走らせた。
「有珠！」
　呼びかけに振りむく有珠。
　あきらかに草十郎を非難している眼差しである。
「行こう、後ろの荷台に乗ってくれ。でもクッションがないから痛いと思う。辛かったら言ってくれ、止めるから」
「……わたしは大丈夫よ。静希君が、イヤじゃなければの話だけど」
　……やはり、些細な事でも怒らせると根に持つ性格なんだな、と学習する草十郎なのだった。
「そういうコトなら問題ないよ。有珠が後ろにいてくれるのは嬉しい。それで、行き先は合田教会でいいんだな？」
　臆面もない草十郎の返答。
　それに毒気が抜かれたのか、有珠はこくんとうなずいて、自転車の後部座席に腰を下ろした。
「…………手を回すけど。わたしが触れても、平気？」
「？　大丈夫だよ、体力があるのはさっき証明しただろ」
「………………」
　有珠は無言で草十郎の体に手を回す。
　有珠の手がしっかりと自分を掴んだのを確認して、よし、
と草十郎はハンドルを握った。
「良かった」
　なんて、小さな呟きと共に。
「何が良かったの……？」
　有珠のささやきに、草十郎は曖昧な視線を返し、勢いよくペダルを踏み込んだ。
　自転車は白犬塚の急な坂道を、ノーブレーキで駆け下りていく。
「っ……！」
　自分で言いだした事とはいえ、予想以上のスピードに有珠は息を呑んだ。
　あまりの急加速に、草十郎の両肩をぐっと掴んでしまったぐらいだ。
「し―――」
　抗議の声をあげようと草十郎を見上げるが、草十郎は有珠以上に真剣な顔でハンドルを握っていた。
　有珠はのど元まで出かかった声をおさえて、回した手を強く握る。
　夜の坂道を下る、生真面目な操縦者を信頼するように。
　自転車は最後までブレーキもかけず、ジェットコースター顔負けの速さで三咲町の駅前まで走っていく。
　午前零時を過ぎた駅前には人の気配も車のヘッドライトもない。
　完全に眠りについた町中、いまだ雪に埋もれた道の上を、風のように駆けていく。
　そんな中、
「……ほんとに良かった。ふたり乗りが思ったより簡単で」
　ホッと安堵する乗り手がひとり。
　初めて自転車に乗る少年少女は、無人の国道を激走していく。
　ゾッとする彼の呟きは、幸いにも風切り音にまぎれて、誰に届く事なく消えていった。
　深夜にも拘わらず、教会には明かりが灯っていた。
　本来、不慮の事故にそなえて眠らずの番である病院には、<仄暗|ほのぐら>い明かりが正面玄関に灯るのみ。
　娯楽の少ない田舎の町である。
　深夜の急患はそれこそ一日に一人いるかいないかで、
　今夜はただ、その一人が病院の手には負えない重傷者であっただけの話だ。
　時刻は午前一時前。
　自転車を外に止めて、ふたりは教会に向かう。
　雪をかぶり、闇夜の中でもはっきりと浮かび上がる三角屋根の建物。
　その入り口に、背の高い影が立っていた。
「久遠寺さん」
　落ち着いた男性の声。
　マントのような<外套|がいとう>を羽織った男は、入り口で有珠を待っていた。
「<詠梨|えいり>神父。青子は―――」
「<唯架|ゆいか>が診ています。私が駆け付けた時には手遅れでした。
　蒼崎の家に伝令を願いたいのですが」
「……青子はそれを望まないわ。それに、あちらも今は城に捕らわれているそうです。今夜の相手は、真っ先に青子の祖父の動きを封じたようですから」
　断片的な言葉が交わされる。
　草十郎は階段の手前から動かない。
「おや……そちらは？」
　落ち着いていた男の声が、かすかに<険|けん>を含む。
　その視線から草十郎を庇うように、有珠は男の前に歩みでた。
「……彼は青子の使い魔。契約はまだ成されていないけれど」
「使い魔って、有珠」
　文句を言いかける草十郎に、有珠は火のような視線を向ける。
“いいから黙っていて”と。
「そうですか。そのような申告はありませんでしたが、届けが遅れたのは不問としましょう。
　外部の魔術師と交戦中でしたからね。貴女たちはその撃退を最優先にした、という事で」
　神父の返答に、有珠は少しだけ頭を下げた。
「では通ります。……彼の同行を許可しなさい」
「ご自由に。私はこれより調停に向かいます。管理者が替わるのなら、両<組織|きょうかい>への資料を用意しなければいけませんので。
　ああ、留守中は<律架|りつか>に任せてありますから、必要なものがあれば彼女に」
　詠梨神父と呼ばれた人物は、ふたりと入れ替わるように教会の敷地から外に出た。
「………………」
　つられて、草十郎はきっかり<二間|にけん>ばかりの距離、おおげさに後退した。
　通り過ぎていく間、神父の風貌が明確になる。
　一言、美しい男だった。
　すっと通った<鼻梁|びりょう>と、<艶|つや>を持った唇。
　一点の歪みもない<面|おもて>は中性的ですらある。
　もっとも、それは外見だけの話で、神父の立ち振る舞いには女性らしい柔らかさは微塵もない。
　鍛えられた<鋼|はがね>を思わせる、頼りになるが近寄りがたい、そんな雰囲気を持っていた。
　神父は足音もたてず、黒い外套で月光をはじくように闇夜に消えていく。
　その後ろ姿を呆然と草十郎は見送った。
「……なんか、仙人みたいな人だな」
　呟きには草十郎なりの親しみがあった。
　他人を寄せ付けない雰囲気の詠梨神父に、どことなく懐かしいものを感じたらしい。
　一方。そんな草十郎に、有珠は厳しい視線を向ける。
「気を許さないで。彼は教会の人間よ。
　わたしたちを監視する側だけど、今回は彼の手を借りるしかなかっただけ。
　……許されるなら、真っ先に消えてほしい人間だから」
　<呪詛|じゅそ>とも取れる呟きを残して、有珠は礼拝堂の扉に手をかけた。
　扉は有珠より二倍ほど高く、重そうな両開きだ。
　有珠ひとりでは開けられそうにない。
　草十郎は階段を三段飛ばしで通過して、有珠と共に扉を押した。
　礼拝堂の明かりは、懐かしい油の匂いがした。
　高い天井。
　壁一面の装飾硝子。
　あまりにも<白々|しらじら>しく神々しい、聖霊の実在を証明する為の舞台装置。
　久遠寺邸のホールと同じく、礼拝堂にも暖房器具のたぐいは一切ない。<軋|きし>むような寒さが、礼拝堂をより厳格な空間へと変えている。
「アッちゃん、こっちよ」
　そんな礼拝堂で、やや場違いな声が響いた。
　柔らかな女性の声だ。
「<律架|りつか>さん？　奥？」
　有珠は奥の祭壇に向かって、長椅子の葬列を横断する。
　草十郎も扉を閉めて、その背中を追いかけた。
「早かったわね。これから迎えに行こうと思ったのに」
「……使える足があったから。後ろの彼」
「足って……あれ、貴方？」
「あ」
　有珠の紹介を受けて顔をだす草十郎と、女性の驚きが重なる。
　ふたりはまじまじと、ここに居るはずのない顔を眺めるのだった。
「……知り合い？」
「あ、うん、まずい事に知り合い。
　草十郎さん、引っ越したって話だけど……もしかしてアッちゃんのところに下宿してるの？」
　はい、とうなずく草十郎。
　予想外の展開に、有珠の機嫌は目に見えて悪くなる。
「……どういう事？　静希君、律架さんとはどういう関係？」
「関係って、そうね……。
　お魚屋さんでしょっちゅう割引してもらったり、
　荷物持ちを頼んでみたり、
　たまにお茶飲んだりする……主婦の友、みたいな？」
「意味が分かりません。律架さん、結婚していないでしょう」
　無論、草十郎も主婦ではないのだが、今は自分のコトより彼女の既婚問題の方が重要らしかった。
「うわあ、そこをつっこむのかあ……アッちゃん、わたしにだけは一切妥協がないのはどうかと思うの」
「律架さんの場合、どこまで本気か分からないから。おかしなところは、ぜんぶ追及しておかないといけないだけよ」
「あら素敵。仲の良い姉妹みたいね、わたしたち。
　じゃ、その信頼に応えてホントのコト言うと、彼とは町内会の顔見知りよ。スパイ行為とかそういうんじゃないし、そもそもそんな器用な人じゃないでしょ、草十郎さんは」
「…………
本当？」
　ジトっとした目で草十郎を見据える有珠。
批難の目というより、隠し事をされて怒っているような目だ。
「本当だ。魚屋でバイトしてる時に知り合った人だ。
　前に親切にしてもらったんで、お礼に鰯を一匹サービスしたら、それ以来ごひいきに」
「―――」
「そうそう。商店街で買い物してればイヤでも草十郎さんとは顔見知りになるわ。
　アッちゃんも怒るぐらいなら買い物に来ればいいのに。ひそかな商店街のアイドルです、彼」
「……アイドルとは人気者という意味で、値切りやすいカモって意味じゃない、ような」
　ある意味人気者なのだが、それは置いておいて。
　気を取り直し、有珠は奥のドアに視線を向けた。
「律架さんの事情は知りませんが、彼は青子の連れです。
　その他に説明は要りますか」
「あー、やっぱりそういうコトなのね……。ま、言いたい事は色々あるけど、今はそれどころじゃないし。
　ええ、了解したわ。他ならぬアッちゃんの頼みだし、特殊な例だけど、彼はこちらで保護しましょう！」
　律架の答えにうなずいて、有珠は奥のドアへと歩きだした。
「有珠」
「だめよ、草十郎さん」
　有珠の後を追う草十郎を、割り入って止める律架。
「貴方は行ってはいけません。彼女たちに任せなさい」
　ぴしゃりと律架は言い放つ。
　立ち止まっている草十郎をよそに、有珠はドアを開け、礼拝堂の奥に行ってしまった。
「行ってはいけないって、どうして」
「貴方のためよ。青子の容態は普通の人が見ていいものじゃない。気分を悪くするだけ。
　それとも……イヤな思いをしてもいいくらい、青子が心配なのかしら？」
　律架の問いかけに、草十郎はすぐには答えられなかった。
　……青子が良くない状況である事は分かっている。
　有珠の様子から察して、有珠以上の傷を負っているのかもしれない。
　そこまで承知していて、草十郎には青子のまいっている顔を想像できなかった。
「―――蒼崎相手に心配なんかしません」
　だから、本当の意味での心配を、彼はしていなかったのだ。
「でも、会いにいくのね」
「はい」
　律架の言葉に、草十郎は反射的に答えた。
　少年の未熟な勘違いにため息をつきながら、
仕方なく律架は道を譲る。
「どうぞ、いってらっしゃい。
　有珠さんが使ったドアから入って、四番目の部屋よ。
　いま一番とりこんでる頃だから、ユイちゃんの邪魔だけはしないように」
　律架に礼を言って、草十郎は有珠の後を追った。
　礼拝堂には自称・近所のお姉さんである<周|す><瀬|せ>律架だけが残される。
「……さて。唯架あたりなら止めるんでしょうけど、ま、わたしは草十郎さんの味方だし、傷つく男の子とか大好物だし。
　少々スパルタと自覚しておりますが、これも親切な姉心と思って、草十郎さんには後悔していただきましょう！」
　力強く断言するも、もちろん、礼拝堂には律架しかいない。
　やれやれと肩をすくめながら、律架は不信心に十字を切る。
　……遠くなっていく足音。
　その<躊躇|ためらい>のなさが、律架には痛ましい。
　なぜなら、少年が振り向かないのは迷いがないからではなく。
　彼本人が意識していない根本的な恐れから、ただ目を逸らしているだけなのだから。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　老人は語った。
　生き物の死と、人間の死は違うもんだ。
　同じように思えるかもしれないが、もう根本からぜんぜん違う。
　オレたちの<頭|ココ>は、はじめからそういう<区|・><別|・>をするように出来ている。
　鹿だの豚だのの<死骸|しがい>と、<同|・><じ|・><生|・><き|・><物|・>の死骸は違う。
　鉈だの斧だのを振るうのが暴力なら、
　人間の死骸ってのも否応なしの暴力だ。
　なんで、そういうモンに出遭う前に、言葉でだけでも知っておけばいい。
　いいかい草<十|ぼうず>郎。
　人が死ぬ時はな、目を背けたくなるぐらい、赤い血が流れていくもんなんだ――――――
　……慣れない、石造りの通路を歩いたせいか。
　彼は幼い頃に聞いた、他愛のない話を思い出した。
　ドアを開けた瞬間、異様な、違う空気が流れている事を思い知った。
　部屋は小さな個室で、簡素なベッドと、小さな桐のタンスがあるだけだ。
　ベッドには　　が横臥している。
　　　を看病しているのは、さっき礼拝堂にいた律架という女性だった。
　……いや、それは律架によく似た女性にすぎない。
　閉じられた目蓋と、血に濡れている修道服。
　一度なり面識はある。
　彼女はこの教会のシスター、<周|す><瀬|せ><唯架|ゆいか>だ。
　唯架は横臥している　　に触れている。
　その手にはハサミと糸。
　シスターはオルガンを<弾|ひ>く静かさで、たおやかに、しかし<迅速|じんそく>に指を動かす。
　<淀|よど>みのない手順は、そういう楽譜があるかのようだ。
　包帯は次から次へと消費される。
　さきほどまで使われていた包帯がはがされ、新しい包帯が、<潰|つぶ>れた人体部分を隠していく。
　血を拭うガーゼも、いいかげん使いすぎだ。
　投げ捨てた布の色は白ではなく赤。
　床に積もった布切れは、汚れた薔薇を思わせる。
　腐った薔薇園でオルガンを演奏するシスター。
　ますます、現実味というものがない。
　空気が違う理由は明らかだ。
　この部屋の空気には匂いがついている。
　初めて体験してもそれだと判ってしまう、胸の焼け付く、重い匂い。
　彼の視線は、どうにもベッドに定まらない。
　気持ちとは裏腹に、関係のない箇所ばかり見ようとする。
　見れば、有珠はベッドの横に立っていた。
　いつもの無表情な立ち姿が、今は<卒塔婆|そとば>のように見える。
　彼女は<微|かす>かに震えていた。
　<怯|おび>えか不安、それとも憎しみによる憤怒かは、どうにも。
　その視線の先に、死に<瀕|ひん>する生き物が一つ。
　ベッドに横たわるソレが何であるか、一見では頭に入らない。
　ところどころ包帯に巻かれた人形。
　美しかった髪は乱れて、呼吸は短く小さいクセに、胸はせわしなく上下している。
　どことなく滑稽で、デパートの屋上で見た、ロデオマシーンを彷彿とさせる。
　―――ああ。
　では、麻酔とか鎮痛剤とか、そういうものは効いていないのか。
　真新しい包帯は秒刻みで朱色に<滲|にじ>んでいく。
　シーツに食いこむ五指の爪。
　苦しみに歪む顔。
　麻酔は効かず、生きているのなら、意識だってあるだろう。
　誰も不安に思わないのか、と不安になる。
　あれでは体の傷より、痛みで心が先に死ぬ。
　端的に言って。
　それは少年にとって、二度と見たくない光景だった。
　本来清潔であるべき白いベッドが、またたくまに赤く染まっていく。
　その中心で流血する人形が彼女なのだと認めて、
　体中の血管が膨張する。
　ベッドの<軋|きし>む音も、ハサミの刃がこすれる音も、彼女の苦悶も<彼岸|ひがん>の話。
　自分の鼓動だけが<耳朶|じだ>に響く。
　むせ返る血の匂いに、吐き気がする。
　膝から力が失われる感覚。
　でも、それは仕方のない事だ。
　精神の安全装置が、断りもなく意識を遮断する。
　自明の理にも程がある。
　―――だってこんなモノ、何を引き替えにしても、彼は二度と見たくはなかったのだ。
“―――そうか。青子ちゃんは全部分かっているんだね。
　自分だけのコトじゃなくて、
　このあとに起きるコトも、なにが残ってなにが残らないのかも、全部まっすぐに受けとめている。
　それでも自分であり続けられるという事は、
　とても強いことなんだよ―――”
　などと。
　その人は、私がわりと好きだった笑顔で、いちばん言ってほしくない事を、誇らしげに口にした。
　今では遠い昔のように思える中学の卒業式。
　早咲きの桜が舞い散る中、私のささやかな夢は、木っ端微塵に砕け散ったのだ。
　だいたい、私は自分が強いなんて思った事はなかった。
　少なくとも、この言葉を時折思い出すようになるまでは。
“蒼崎は分かってると思ってた。
　いや、きっと分かってるんだな。だから、そこが強いんだろうね”
　……なのに最近、そんな<戯|たわ>けたコトを言った奴がいる。
　自分の判断基準がまわりとズレている事は知っていたけど、知り合って何日も経たない相手に指摘されたのは、ちょっとしたショックだった。
　おまけに台詞までそっくりで、あの時は怒りのあまり我を忘れたほどである。
　……今まで、私に対してそんなことを言ってきたのは彼を含めて二人だけ。
　けど、おそらくは姉貴も無言で言っていたのだ。
　おまえは、<自分|わたし>たちとは違う。
　私にとって、それは賛美の声ではなく、呪いにしか聞こえなかった。
　自分の一挙一動、意志選択、善悪基準から<迫害|はくがい><博愛|はくあい>。
　そのすべてを承知した上で、まだ自分が<大事|いちばん>なのか。
　もちろんだ。周りの為に自分を犠牲にするのなんて、どうあっても選べない。
　その<孤|こだわ>り、その道化ぶりを分かっていながら、自分であり続けられる事を、彼らは強いといった。
　幼い私は首をかしげるしかない。
　だって、私は違うやり方を見いだせないだけだ。
　悔しいぐらい、『ただ諦める』勇気を持てないだけ。
　なのにどうして―――
　そんな当たり前の事が、特別扱いされるんだろう―――？
　……朝の光で目を覚ます。
　全身を霊糸で<縫|ぬ>った痛みのせいか。
　他愛のない夢を、見たようだ。
「―――、ぁ―――」
　ガラガラに渇いて傷ついた喉が、大きく深呼吸をする。
　小さな窓から差しこむ灰色の日射しは、彼女の意識をゆっくりと覚醒させた。
「うわ、体中、かゆ……」
　耐えきれず寝返りをうってみる。
　が、動かせたのは右腕だけ。
　肘から先を持ち上げてみても、嘘のように感覚がない。
　腕に向けた集中をそらすと、
包帯だらけの腕はぱたん、と力なくベッドに落ちた。
「――――――さて」
　青子は視線だけで状況を確認する。
　……自分はベッドに眠っていたらしい。
　体のあちこちの感覚がなくて、ロボットか何かになった気がする。
　部屋は狭くて何の飾り気もない。
　まるで入居前のマンションだ。手入れは行き届いているところを見て、合田教会の一室だろう、とアタリをつける。
　外は朝というより昼に近い。
　空は相変わらず曇っていて、日射しは弱々しい。
　この分では雪解けはもっと先になってしまうだろうな、と取りとめのない事が頭によぎる。
　そうして最後に、青子は彼女の姿を認めた。
　自分の眠るベッドの横で、椅子に座ったまま動かない久遠寺有珠の姿を。
「……おはよ、有珠」
　やあ、とばかりに青子は有珠に呼びかけた。
　口の中がやたら<鈍|にぶ>い。
　有珠はあいかわらずの無表情。
　ただ、その瞳に同居人をいたわる<翳|かげ>りがあったのを、青子は見逃さなかった。
「寝てないんでしょ。肌が荒れてる」
「……努力はしたわ。けど、橙子さんに飲まされた物が解毒されるまで眠れそうにないの。
　半端な痛みは、こういう時に<生温|なまぬる>いわね」
　少女らしからぬ相方の台詞を聞いて、青子はますます気持ちを生き返らせた。
　今は心配してくれる隣人より、ともに戦ってくれる友人の方が心強い。
「そ、有珠もやられたの。
　……状況はだいたい予想してるけど、一応、細部を聞かせてくれない？」
　ベッドに横になったまま、青子は凛とした口調で言う。
　青子の無茶を、有珠は止めもせず聞き入れた。
　もう二年近い付き合いだ。
　こういう時、蒼崎青子という少女にとって何が一番の麻酔になるのか、有珠はよく理解していた。
　久遠寺有珠と蒼崎橙子の戦いは、有珠の勝利で終わった。
　橋の巨人は“童話の怪物”の中でも特別な使い魔だ。
　フラットスナークのような大異能はないが、その巨体、強度、出力、どれをとってもトップランクの性能を誇る。
　橙子のルーン魔術では表面の<石膚|せきふ>さえ破壊できまい。
　それは橙子に限った話ではない。現代の魔術師、その大部分は橋の巨人の前に敗れ去るだろう。
　身にまとった神秘の違いだ。
　魔術の原則として、神秘はより強い神秘の前に敗北する。
　橋の巨人が持つ歴史は単体で千年<級|クラス>。
　その起源はイギリスがローマの支配下にあった一世紀にまで<遡|さかのぼ>る。
　いかにルーンが神代の技術であったとしても、悲しいかな、歴史の影に埋もれた魔術。
一度死んだモノを、その都度、起こして利用しているにすぎない。
　だが、橋の巨人、童話の怪物たちは違う。
　彼等は今も、久遠寺有珠の手の中で生きている。
　千年以上も前に詠唱され、今も機能し続ける魔術は、世界広しと言えど有珠のプロイと他に二つあるかないか。
　一方、ルーン魔術を扱う橙子の年齢は二十年程度。
　ルーンを<刻|きざ>む時間にいたっては一瞬だ。
　有珠の故郷、その象徴の一つであるロンドン橋の擬人化を敗れる道理がない。
　だが。
　そこに、“童話の怪物”を上回る怪物が現れた。
　黄金の獣、ベオウルフ。
　橋の巨人とは比べるべくもない、小さく非力な狼は、<果敢|かかん>にも天を<覆|おお>う石くれに立ち向かった。
　大地を揺るがす巨人の一撃。
　直撃すれば<ぺしゃんこ|ペースト>に、
　かするだけでも<挽肉|ミンチ>になる50トンの衝撃。
　それを狼は、真っ正面から<食|・><い|・><破|・><っ|・><た|・>。
　毛並みが逆立つ。
　その容姿が、流体のように変貌する。
　あまりにも<荘厳|そうごん>な立ち振る舞い。
　金狼は歓びを示すように月に吠え、文字通り、金色の光となって<爆|は>ぜ<走|ばし>る。
　はたして、勝負は一撃で終わった。
　光の槍と化した獣は巨人の胸板まで飛びかかり、その心臓に牙をたてながら<爆|・><発|・>したのだ。
　はじけ飛ぶ石の筋肉。
　拡散する光の毛並み。
　二つの神秘は<痕跡|こんせき>なく爆散し、収束した。
　……その、神話の再現のような<終|つい>に。
　土塊となって崩れ落ちた“童話の怪物”の中心に、
　燃え上がる炎のような、金狼の姿があった。
　その後の出来事は、もはや戦いですらない。
　単なる敗残兵の処理だ。
　金狼は有珠に飛びかかり、たやすく腹を引き裂いた。
　有珠のコートに<編|あ>まれた守りの呪文なぞ、金狼にとって蜘蛛の巣と変わらない。
　金の狼。
　人語を解するアレは、<人狼|ウェアウルフ>と呼ばれる魔獣に違いない。
　捏造され流布された怪物の王、“吸血鬼”より遥かに古い起源を持つ、西欧の“森の人”。
　しかし―――彼らの基準に、黄金の毛並みは存在しない。
　人狼の社会において、最高位の血統は銀色と言われている。
　銀の人狼は一族の長であり、その階位は魔獣より上、幻獣の域とされる。
　それを上回る金色となると、もはや人智の及ぶものではない。
　久遠寺有珠の“童話の怪物”は、人の手によって作られた究極の神秘だ。
　だがあの金狼は、星の手によって産み落とされた神秘。
　<生命|ほし>が何千年何万年と活動した末、<希|まれ>にこぼれ落ちる奇跡のような<一滴|ひとしずく>。
　おそらく、身にまとった神秘は三千年以上。
　人間の魔術師―――
　いや、現在の魔術基盤に生きる魔術師であるかぎり、あの金狼を倒す魔術は、理論上<編|あ>みだせない。
　……それは即ち、蒼崎青子と久遠寺有珠にとって、カレが最悪の敵である事を示していた。
「―――そう。
有珠がお手上げの相手だものね、私がどうにかできる筈もなかったワケだ。
　……でも、要は魔術でなければいいのよね？
　テムズの動力は魔力だけど、テムズの<攻撃|パンチ>は純粋な衝撃でしょ？　当たりさえすればペシャンコじゃないの？」
「……残念だけど。
アレ、基本は狼の姿なだけで、状況によってカタチを変えるわ。テムズの腕を受け止めた時は<大猿|おおざる>みたいになっていたし。
　機関銃やロケットで狙っても<躱|かわ>されるか、体の硬い生き物に変化して防ぐんじゃないかしら」
「……地球上の生き物なら、何にでも変われるってコトか。
　でもまあ、質量までは無理かな？
　基本は二メートル大の生物の、いいトコどりってあたりで勘弁してほしいわね。
　ね。すごく関係ないけど、深海の生き物に変わられたら、ちょっと怖いと思わない？」
　なんというか視覚的に、とぼやく青子。
　話しているうちに闘志が湧いたのか、<虚|うつ>ろだった思考も、焦点の定まっていなかった瞳も、完全に元の彼女に戻っている。
「で、その後は？　有珠、うまく逃げられたの？」
「……いいえ。わたしもあの狼にやられたわ」
　有珠は金狼に押し倒されてからの事を報告した。
　余談ではあるが、草十郎に関するコトは大幅に短縮されていた。
彼との出来事を青子に語らなかった理由は、有珠自身、不思議に思うほど不明だった。
「ふーん……有珠の相手をした後、休む間もなく私の所に来たワケか。
　初めから昨日で決着をつけるつもりだったんだ、姉貴。
　……姉妹かな、ここぞって時のタイミングは一緒だったの、忘れてた……」
「切札は、見せたからには敵を殲滅しなくちゃいけない。
　姉貴は支点を残り二つにしておいて、自分の正体を告げて、こっちの戦力を分けさせた。
　……その時点で奥の手を投入してくるコトは覚悟してたけど、まさか人狼なんてキワモノとはね」
　はあ、と重いため息をつく。
　そこは有珠も同感らしく、小さく頷いていた。
「……それはそれとして、草十郎が有珠を助けに行くなんてね。感謝しなくちゃいけないんだろうけど、莫迦な真似してくれたわ。
　私が橙子の立場なら、報復の可能性はひとつ残らず排除する。
私たちがどうにかなった後、猫の手首ひねるみたいに片付けられるわよ、あいつ」
「静希君なら、こちらで保護してもらってるけど」
　有珠の言葉に、青子はえっと目を驚かせた。
「うわ、どういう風の吹き回し？
　有珠があいつの世話を焼くなんて」
「……だって。放っておいたら、青子が怒ると思って」
　瞳を閉じたまま有珠は答える。
　それに嫌そうな顔をして、青子は口を閉ざした。
　なんでそうなるのよ、と声にならない抗議をするように。
「……ま、いいけど。それじゃ今ここにいるんだ、草十郎。姿が見えないけど、どうしたの？」
　まだ首は動かせないのか、青子は視線だけで部屋を見回した。
「彼なら気分を悪くして倒れたわ。今は詠梨神父の寝室を借りているけど」
　倒れた、という言葉に青子は目を光らせる。
　では、ここに保護されたのはいいが、それでも橙子の行動が一歩早く、草十郎が始末されたのか―――？
「……何があったの、一体……？」
　真剣に問う青子に、有珠はしばし黙ってから、やや気を遣って、
「それが。
彼、あなたを見て<嘔吐|おうと>したの」
　きっぱりと、身も<蓋|ふた>もない真実を口にした。
　青子はちょっと、声もない。
　窓から差しこむ日射しに照らされること数秒。
　青子はようやく言語中枢を回復させて呟いた。
「……いいけど。ひどい侮辱よね、それって」
　そんな青子の仕草がおかしかったのか、一晩かけての看病の緊張がほぐれたのか、有珠はクスリと小さく笑った。
「なによ。そんなにおかしい、有珠？」
「さあ、どうかしらね。けど、静希君にも言い分はあるでしょう。今の貴女、とても見られたものじゃないわ」
　言われて、青子は自分の体を観察した。
　一枚布の患者衣。
　肌の露出より包帯の方が多いし、右足はギプスがあてられている。
　右手は動くので、包帯に巻かれた指で青子は自分の喉元に触れてみた。
「そっか……思い出した。あのガキ、まず私の首元に噛み付いたんだっけ。
　すごかったわよ、首が噛み砕かれるのって。ゴキンって音が頭の中に響いて、気持ち悪いったらなかったわ。
　……ちっ。あそこから好き勝手やられたもんだから、つい忘れてた」
　口調は明るいものの、青子の目は明るくはない。
　……彼女の全身は、ご丁寧に“死なない”程度に壊されていた。
　切断面は一切ない。
　基本的には噛みつかれてからの打撲、骨折だ。
　青子の体には蒼崎の秘術がつまった魔術刻印がある。
　仮に<脊椎|せきつい>を折られようが、青子自身がまだ生きているのなら、刻印が無理矢理にでも青子を生かす。
　……少しは刻印からの麻酔が働いたにせよ、この痛みの恨みは金狼を百回殺しても余りある。
「……支点は全部壊された。
　これで三咲市の霊脈はフリーってワケね。
　全容を把握してるのはうちらだけの特権だったけど、橙子は昔から知ってる以上、解析の手間もいらない、と。
　―――真剣な話、所有権の書き換えまで何時間かかると思う？」
「橙子さんなら二日かからないでしょうね。
　支点の修復は土地そのものに任せるしかない。
　支点の<防護陣|プロテクト>が治る頃には、この町はもう彼女の物よ」
「明日の夜明けと共に破産する我が身とはねぇ。
　それで有珠の方はどうなの？　まだいける？」
「思考魔術だけなら、少しは。
　あとは小道具に頼る事になるでしょうね」
「……はあ。お話にならない、か」
　言って、青子は口を閉ざした。
　瞳はまっすぐに天井を睨んでいる。
　そこにどんな決意がこめられているのか、有珠はよく分かっていた。
「それでもやるんでしょう、青子は」
「まあね。私、<諦|あきら>めるのってできないから。
　……で、そういう有珠はどうなのよ」
「わたしは、一度自分の物になった物は、決して人には渡さない」
　短い返答に、青子はそうだった、と呟く。
　有珠の、自分の物に対する執着心は青子でさえ薄ら寒くなるほどなのだ。
　自分の物になったモノは手放さない―――それは転じて、裏切りは決して許さない、少女の潔癖さの証でもある。
「オッケー、決まりね。
　じゃ、悪いけどもう少し休ませて。今晩までにはなんとか動けるようにするから」
　手術を担当したシスターが聞けば、その無謀さに卒倒するだろう。
　今の青子は食事すら満足にできない。
それを承知していながら、
有珠は頷いて立ち上がった。
　青子がそう言うのなら、相棒として、有珠は彼女を信じるだけである。
　黒衣の少女は無言で病室を後にする。
「あ」
　と。ドアの前で、片手を自分の口元に当てて、唐突に立ち止まった。
「有珠？」
　また何かどうでもいいコトを思いついたな、と青子は面白がって呼びかける。
　けれど。
　恥ずかしげに頬を染めるはずの有珠は、深い謎に突き当たったように眉をひそめていた。
「有珠ー？」
　もしもーし、と青子は呼びかける。
　有珠は振り向かず、扉に向いたまま、
「―――なんで、間に合ったのかしら」
　そんな、自問めいた声を漏らしていた。
　有珠の疑問は青子の知らないところでの出来事なので、当然、青子に分かるはずもない。
「……あの時もそう。
　わたしたち、始発で帰ってきたのに」
　ぶつぶつとドアに向かって語りかける。
　……結局答えは出なかったのか、有珠は物憂げに、ドアノブに手をかけた。
「……言いたくないなら別にいいけど。
　何がどうしたって言うのよ、有珠」
　背中越しの問いに、有珠は答えない。
　有珠はドアを開けて部屋から出ると、去り際に一言だけ青子に告げた。
「……どうでもいいコトだけど。
唯架さんには静希君は見えなかったそうよ、青子」
　ばたん、とドアは閉められた。
「ふーん。そりゃまた珍しい」
　青子は横になったまま、やや嬉しげに呟いた。
　先天的に盲目だった<周|す><瀬|せ><唯架|ゆいか>は、感覚で物事をとらえる。
　特に外敵、悪意のある者には敏感だ。
　基本、彼女はあらゆる人間を“脅威”として知覚する。
　それがもっとも感じやすい気配なのだそうだ。
　そんな彼女に見えなかったという事は、草十郎は底抜けに害のない人間だと、太鼓判を<捺|お>されたようなものだった。
　で。
　その害のない<某|なにがし>は、しばらくしてから病室にやってきた。
　貧血一歩手前の、まったく元気のない草十郎の顔にどっちが病人なんだか、と青子は内心呟いてみる。
「何しにきたの、アンタ」
　青子はベッドに横になったまま、来訪者を突き放した。
　草十郎は弱り切った顔のまま、うん、などと意味不明の返答をする。
「有珠が客間で眠ったから礼拝堂にいたんだけど。人が集まりだしたんで、こっちに逃げてきた」
「あ、礼拝の時間か……クリスマスだってのによくやるわ」
　今日はクリスマスだが、ミサのピークは２４日までだ。
　礼拝堂に集まっている人々はよほど信心深いのだろう。
　三咲町に住む外国人は少ない。
　いや、いないとさえ言っていい。礼拝堂に集まった人々は、ここ周辺の住人だ。
「それで？　別にどうってコトないでしょ。探せば顔見知りもいるんじゃない？」
　それでも、なお冷たく青子は突っぱねる。
　先ほど有珠から聞いた『自分を見て吐いた』という事実は、いろんな意味で青子を意地悪にさせているようだ。
　もっとも、
「いや、ちょうどいい機会だから色々と聞きたくなって。
少し、話をしていいかな」
　青子はいつだって不機嫌なので、草十郎は彼女の微妙な変化に気付かなかった。
「………………」
　青子としては、その前に水でも飲んで自分の顔色の悪さをどうにかしろ、と言いたいのだが、草十郎に自覚はないようだ。
　有珠曰く、本当にひどい状態だったから、血を見慣れていない男の子ならクラっときてもおかしくない、とのコトだが……。
「ああ、そうか。
　話なんてまだ無理だな。すまない、出直してくる」
　思案していた青子の様子から、“まだ話す体力もない”と誤解したらしい。
　それはそれで、なんだか癪に障る青子だった。
「待ちなさいよ。話だけなら別にかまわないわ。やる気もて余してるし、暇つぶしがてらに相手してあげるわよ。
　……まあ退屈しのぎにしてはちょっとグレード下がるけど、この際ぜいたく言ってられないし」
　なんか散々な言われようだが、それなら、
と草十郎はベッド横の椅子に腰を下ろした。
「で。何が聞きたいの？」
　青子は患者衣の弱々しさを払拭するように、きびきびと声をあげる。
　どう見ても強がりなのに、そんな弱さは微塵も見せない。
「―――うん。やっぱり蒼崎は強いな。安心した」
　感服してうなずく草十郎。
　そんな賞賛の言葉に、青子は呆れた視線を向けた。
「……。
アンタって、ほんと、間が悪いわ」
「？」
「いいわよ、別に。
　私の夢の話だから、そっちが気に病むことは―――」
　先ほどの夢を思いだして、つい苦い顔をする。
　そういえば、<教会|ここ>には夢の登場人物がほぼ揃っているコトに気付き、苦い顔は本当に不機嫌な顔になってしまった。
「やめやめ、こんなつまんない話。聞きたい事があるならてっとり早く済ませちゃってよ、草十郎」
「よかった。じゃあ、まず今の状況を聞かせてくれないか。
　橙子さんの話じゃ、俺も無関係じゃないそうだし」
　落ち着いて問いただす草十郎だが、その意味が本当に分かっているかどうか、青子には疑問である。
　橙子に狙われている以上、自衛手段のない草十郎を誰かが守らなければいけない。
　けれど青子にも有珠にもそんな余裕はないし、この教会だって、いつまで彼を保護してくれるか知れたものではない。
　<青子|じぶん>たちに味方した以上、橙子にとって草十郎は無関係どころか排斥対象である。
　質問の答えはそれだけだ。
　現状を知ったところで、魔術師ではない草十郎には何も出来ない。
「……まあ、それでも有珠は助けられたワケだし」
　借りはできてしまった。
　その礼として、今までの経緯をまともに話すぐらいは筋ではないか、と青子は自分なりに納得する。
「よし、今までの経緯もふくめて軽く説明してみましょうか。
　私も、なにか得る物があるかもしれないし」
　気を取り直して青子は語り始める。
　十一月の終わりから始まった戦い。
　静希草十郎との出会いもふくめた、長かったけれど新鮮でもあった、一連の出来事を。
「事の起こりは一ヶ月前。
　三咲市に張られた結界のはじっこが、何者かに消されたのが発端だった。
　私が後継ぎになってから五度目の、三咲市を狙う敵の登場ってワケ」
「今回の敵は私たちとは直接戦わず、まず土地を奪うところから始めたわ。
　今までのヤツは私たちを半人前と舐めていたから、たいていは真っ正面から仕掛けてきて、かってに有珠の猟犬の餌食になったんだけど、まあ、それはどうでもいいとして」
「町の結界には二種類あって、侵入者を見つけるものと、土地の力を有効利用するものがあるの。
　敵が壊したのは土地の結界の方で、これが全部壊されると私や有珠は土地の所有権を失ってしまう。
　土地のないはぐれ魔術師と同じになっちゃうのよ」
「勿論、そうならないように侵入者をあぶりだすための結界があるんだけど、こっちには何の反応もなかった。
　ま、当然よね。
　今回の敵は私の姉貴、蒼崎橙子その人だったんだから」
「蒼崎の結界は同族である姉貴を敵と見なさなかった。
　……あるいは、姉貴は結界の抜け道、構造の死角をついたのかもしれない。
　もともとうちの後継者はあの人だし、それぐらいの知識はあったでしょう」
「そうして、姉貴は私たちに見つかる事なく好き勝手に結界の支点を壊しはじめた。
　時間をかけてゆっくり壊していったのは、“外からやってきた部外者”を演じていたからでしょうね。
　さすがに連続して壊されれば、こっちも身内の犯行だと疑うし。うち、親戚である<浅葱|あさぎ>家とは仲悪いままだしさ」
「……まあ、姉貴の芝居に騙された私たちが間抜けなんだけど、セオリーとして、結界崩しは長丁場になるものなの。
　管理地の結界は強固に作られているからね。普通は半年単位での攻防になる」
「攻める側は、まず結界を<象|かたちど>る支点が何個あるか、それがどの五大要素でくくられているか、退去の正しい順序はどれか、それらを地道に解き明かしていく。
　もちろん、管理地の魔術師たちの目を盗みながら」
「対して、守る側は侵入者がいるコトに気づくから、悪さをされる前に敵の拠点を見つけだして、外敵を排除する。
　こんな感じで、結界崩しは長期戦、あるいは前哨戦になるものなの。
　たいていは攻める側が支点を壊すぞとアピールして、土地の持ち主を<翻弄|ほんろう>、<疲弊|ひへい>させてから、魔術師同士の直接対決で決着がつくわ」
「なんで、結界を<全部|ぜんぶ>壊す必要はないのよ。
　管理地の持ち主を始末した方が早いし、その後は術式さえ解読しちゃえば、土地を結界ごと横取りできる。
　わざわざ壊して作り直すより、昔からある結界の方が土地に馴染んでいて強力だしで一石二鳥でしょ」
　……そういった<定石|セオリー>から、青子たちは相手の思惑を読み違えてしまった。
　まさか相手が結界の支点をすべて壊すなど、そんな無駄な労力は割くまいとタカをくくっていたのだ。
「だから、私と有珠はとりあえず受けに回った。
　支点を探すために街を調査している敵を待ち伏せて、これを片っ端から倒そうって。
　でも、そのうちの一つがケチのつき始めだった。
　三咲町の公園でヤマはって待ち受けていた時、どうでもいい第三者が覗き見してやがったのよ」
　―――そう。
　魔術世界におけるトップクラスの<禁忌|タブー>。
　関わりのない第三者に、魔術師であるコトを知られてしまったのである。
「その後の事は分かるでしょう？
　私は敵との小競り合いを有珠に任せて、それより重要な目撃者狩りに専念せざるを得なくなった。
　……言っとくけど、これはアンタの事だからね。そこでワレ<関|カン>セズ、みたいな顔しないこと」
　青子にじろりと睨まれて、草十郎はそうなのか？　と目を見開いた。
　おとなしく話を聞いているものの、やはり、あまり理解していないようだ。
「……ま、いいけどね。草十郎がそんなだから秘密は漏れなかったんだし。
　で、アンタっていう目撃者を消そうとした私の単独行動は、敵にしても都合のいいものだった」
「強敵である有珠がいないんだから、敵はこれを機会に私を始末しようと、特注品の人形を差し向けた……
　と思っていたけど、アレはただの嫌がらせね、間違いなく。
そうでなきゃ私そっくりの人形なんて派遣するかっての」
　ああ、あの青子人形、と相づちを打つ草十郎。
「アレの事は忘れてちょうだい。
　……まあ、そこから先はアンタも薄々知ってるでしょ。
　私と有珠は敵との戦いに専念する事になって、毎日のように捜査の手を空振って、決戦の夜を迎えて、今はこうしてる。
　だいたいの経緯はこんなところよ」
　振り返ってみて納得したのか、ふむ、と青子はぞんざいに自分の体を見つめていた。
　シーツの下の体は、まだところどころ包帯が巻かれているものの、少しずつ<魔力|けつえき>が<通|かよ>いだしている。
「……蒼崎。これまでの君たちの話は分かった。
　けど、肝心の今の状況はどうなっているんだ？」
　青子がここに<臥|ふ>している理由。
　草十郎にとって最大の関心は、昨日の夜、何があったかという事だ。
「バカね。状況も何も、完全に私たちの負けじゃない」
　両手が満足に動けたのならバンザイでもしそうな口調で、青子はあっさり敗北宣言をした。
「負けた……？」
「そ。事実は正しく受け止めなくっちゃね。
　五つの支点がぜんぶ壊された時点で、勝負はついたの。
　管理地の所有権は宙ぶらりで、明日には橙子の手に渡るでしょう。
　で、それを阻止したいこっちは、私も有珠もこの有様。
　もう立場は逆転したから、これから私たちは挑戦者……つまり、はぐれ魔術師ってコトよ」
　なので、青子たちがこの教会に厄介になれるのも、あと数日だけだった。
　この合田教会は魔術協会の支部でもあり、異端を監視する聖堂教会とやらの支部でもある。
　青子たちはそのどちらにも所属していない、三咲市だけの有権者だ。
　教会が青子たちに力を貸しているのは、彼女たちが土地の管理者であったから。
　その権利を失うのなら、教会として肩入れする理由は皆無である。
「詠梨神父は<中立者|こうもり>だから私を助けてくれたけど、唯架さんは教会の代行者だから、傷が塞がったなら明日にでも出ていけって言ってくる。
教会にとっちゃ、魔術師なんてもともと排除すべき商売敵だからね。
　バカ律架は―――まあ、泣きつけば力にはなってくれるでしょうけど」
　ぶつぶつと草十郎には分からない話をする青子。
「そうじゃなくて、蒼崎。
昨日の夜、何があったんだ」
　一番聞きたい事を話したがらない青子に、草十郎は自分から切りだした。
「……見て分からない？　惨敗なんてものじゃないわ。
　喉に食い付かれる、体中好き放題噛まれまくる、あげくに右の<腿|もも>なんてなくなってたそうよ。
　ま、有珠のチョコレイトのおかげで出血死は免れたけど」
　青子はぽん、とギプスに包まれた片足を叩いた。
　気楽に言いながらも、その奥には雪辱への闘志が見え隠れしている。
「――――――」
　そんな青子とは反対に、彼に起きた感情は『空白』だった。
　青ざめた顔色がいっそう白く、色を削ぎ落とす。
　凄惨な行為からの逃避か、あるいは反感か。
　どちらにせよ、人間らしい感情の発露だった。
「なんでそこで固まる……あ、そっか。
　私を見て吐き出しちゃうぐらいナイーヴなんだっけ、草十郎ってば。大丈夫よ、今はくっついてるから。
　唯架さんは治療専門だし、私だってただやられてたワケじゃないし。復元は蒼崎の得意分野だから、あれくらい問題ないわ」
　だから心配はいらない、と視線で語る青子だが、草十郎の様子は一向に変わらない。
　……見当違いとはいえ、ここまで心配されると青子も文句は言い辛い。
　なんだか照れ臭くなって、青子は会話を再開した。
「けど姉貴ったら、どうやってあんなのを<手懐|てなず>けたんだろう。金の<狼|おおかみ>なんて、伝説の中にしかいないと思ってた。
　……神代の神秘であるあいつには千年クラスの魔術じゃないと太刀打ちできない。かといって殴り合いでどうにかできる相手じゃないし……」
　昨夜の惨状を思い出し、青子は悔しげに唇を噛む。
「金の……狼……？」
　一方、聞きなれない言葉を聞いて、草十郎はショック状態から回復したようだ。
「そ、<黄金|おうごん>の<人狼|じんろう>。<金狼|きんろう>って言った方がいいのかな。
　狼男……って言っても分からないわよね。人間と狼のいいとこどりみたいなヤツと思えばいいわ。
　野獣というより魔獣のたぐいよ。
　普通の人狼なら対抗手段はあるんだけど、橙子が連れてるのは黄金の毛並みをした怪物でさ」
「あれは原初の人狼の血統で、魔獣を通り越して幻獣の域に達している。
　聖域の相手には、そいつらを上回る神秘……積み重ねた時間とか、魔術の奥義……じゃないと無効化されるのよ。
　魔術は万能だけど、この“年月の差”だけは<覆|くつがえ>せない。
　ま、人間の魔術師にとっては天敵みたいな自然災害ね」
　憎しみはなく、感心するように青子は語る。
　そんな呟きに、
「………………」
　なにやら意味不明な納得をする草十郎だった。
「？　な、なに？」
「いや、要するに蒼崎たちじゃ敵わない相手なんだな。
　……なんて酷いヤツだ。
有珠はお<腹|なか>が裂かれてた。蒼崎は傷ついてない<箇所|ところ>はないぐらいだ。
　子供なのに……いや、子供だから加減がないのか」
　青ざめた顔で、<訥々|とつとつ>と呟く草十郎。
　青子は同感だ、とばかりにうなずいた。
「ほーんと。
人の体を何だと思っているのかしらね、あのお子さ―――なぬ？」
　そこまで言いかけて、青子はバッと顔をあげた。
　いつかのように、意外なお化けを見たように。
「いま子供って言った？
　アンタ、なんでそんなコトまで知ってるの？」
「やっぱりそうなのか。金色の髪なんて二人もいないと思ったんだ。そいつなら一度見かけた事がある。
　蒼崎が口にしたような怪物じゃなかったけど、森の奥で。
　木乃美が二人がかりでとっちめよう、なんて怖いコト言いだしてさ。<敵|かな>いっこないから止めたんだよ」
　不思議な事を、不思議な口調で草十郎は言う。
　青子にはそれを追及する余裕もない。
　彼女的に、他にもっと重要な事がある―――
「見たって、どこで！？」
「学校の旧校舎。
あ、そういえば挨拶ていどなら話もしたっけ。一度だけ、アルバイトの時に牛肉五十キロを生で届けた事があって……」
「こ、この大馬鹿ものーーーーお！」
　すぱかーん、と心地よい音がした。
　体の傷もなんのその、青子は神速で床のスリッパを取ると、草十郎の平和そうな顔に思いっきり投げ付けた。
　はあはあと肩で息をする青子と、顔面を強襲したスリッパの衝撃で、座ったまま倒れこむ草十郎。
　しばし、ふたりはそのままで動かなかった。
「―――なんで怒るんだ、蒼崎」
　むくりと起き上がる不屈の男。
　<小法師|こぼし>の如く<胡坐|あぐら>をかく彼を、青子は敵を見る目で睨みつける。
「あったりまえじゃない！
　なんでそんな怪しいコト黙ってんのよ、アンタはっ！」
「……言うほどの事でもない。第一、君たちにこんな話をしても怒られるだけじゃないか」
　草十郎のもっともな意見に、青子はうっと言葉を飲んだ。
　夕食中、
『ところで今日、牛肉の山をかついで届けたんだ。一匹丸ごと。いや、あるところにはあるものだね、お金と食欲』
　なんて話をされたら、<青子|じぶん>と有珠がどんな反応するか、考えるまでもない。
「っ……それは、そうだけど。
　……ほんとに、金髪の子供が旧校舎にいたの？」
「それが蒼崎の言うジンロウかどうか、自信はないけど。
　少なくとも街中の料理店が入れ代わりでおかしな注文を届けてるのは事実だ。駅前の大帝都なんてお得意様だって」
「……たしかに、食事のたびにあいつを外に出してちゃ目立つだろうけど……」
　……あんまり信じたくはないが、そこが人狼の住み家である可能性は高すぎる。
　橙子なりに人狼の存在を隠したのだろうが、その方法はどこか間が抜けていた。
　……しかし、ともかくだ。
　人狼の住み家が判明した以上、探していた橙子の本拠地も判明した事になる。
　そもそも結界の張り替えには資材が保管できて、人目につかない拠点が必要なのだ。
　三咲高校の旧校舎は、その条件を備えている。
「……つまり、全ての鍵はアンタが隠し持ってたってワケね」
「隠していたんじゃない。
だいたい、蒼崎が裏山の掃除に参加していたら、その時に分かったんじゃないか？
　鳶丸ひとりに任せず、蒼崎も掃除にでれば良かったんだ」
「…………………………」
　……ごもっともな意見に、青子はぱちりと指を鳴らす。
　スリッパ爆弾の代わりに、白い首輪は忠実に、彼女の気持ちを代弁したのだった。
　そうして。
　草十郎がひとしきり首輪の圧迫に苦しんだあと、
　彼ははっきりと、青子の変化に気が付いた。
　ベッドの上の少女は、<凛|リン>と遠くを見据えている
　傷ついて力がなかった<面|おも>もちも、患者衣の悲愴なイメージを打ち消すぐらいシャンとしていた。
　ようするにやる気に満ちあふれているのだ、青子は。
　それが誰に対して、何に対してかは言うまでもない。
「…………
蒼崎？」
「ん？」
　草十郎の呼びかけに、青子は無防備な声をあげた。
　事実、不意を突いたのだろう。
　目標を定めた彼女は、完全にひとりの世界に入っていたのだから。
「ありがと、草十郎」
　先ほどの不意打ちの仕返し……なんて<悪戯|いたずら>心からではない。
　青子はごく自然に感謝を口にした。
　聞きなれない言葉に、草十郎はハト<豆鉄砲|まめでっぽう>状態だ。
「……あのね。とにかく、橙子の居場所が判ったのはアンタのおかげだから、礼ぐらい言っておこうと思ったの。
　それがお気に召さなかった？」
「いや、お礼を言ってもらえるのはいい事だけど。
　……まさか、その体で橙子さんの所に行くつもりか？」
　<労|いたわ>りより叱責の色が濃い。
　そんな問いに、青子は当然とばかりに頷いた。
「取られた物は取り返すものよ、草十郎。
　それもすぐに、相手の物になってしまう前にね。ぐずぐずしている暇はないわ」
　こうして我を言いきる時の青子の気迫には逆らえないものがある。
　それでも、草十郎は<頑|がん>として引かなかった。
「勝ち目がなくてもか。暇はないと言うけど、今はそれ以上に休息が必要だろう。
その傷だって、今は見れるけど昨日は酷かったじゃないか。生きていたのが幸運なぐらいだ」
「違うわ。あれは幸運なんかじゃない。そんなタマかっていうのよ、橙子が」
「幸運じゃない……？」
「そ。橙子はね、私が生き残れる程度の傷にとどめたのよ。今回は見逃してやるから、もう一度やってこいって意味でね。
　だから私は生きてるんだし、橙子は私が行くのを待ってる。お互いが、お互いの舞台の幕を下ろすために。そうでなければここまで待った意味がないでしょう。
　……イヤだけど、アンタの言葉を借りるなら、ね」
　忌ま忌ましげに語る青子の横顔は、鬼気迫るものがあった。
　草十郎から見れば、殺し合いを良しとする青子も、そうなるように仕向けている橙子も、遠い世界の住人のようだ。
「……殺すために生かしたっていうのか、橙子さんは。
　蒼崎はそれが分かっているのに行こうとしている」
「そうよ。勝負はついたけど、まだ私たちの話は終わっていないもの。
　たしかに全快してから行ったほうがいいに決まってる。けど、そうしている間に橙子は三咲の深部にたどり着く。そうなったら、私の最後の切札さえ使えなくなる。
　自分にできる事を、自分から無くしてしまうのは―――」
　それは死より深い痛みではないけれど―――
　命あるかぎり逃げられない後悔だと、青い瞳が語っていた。
「――――――」
「納得いったのなら黙ってて。
　いい、これは私の戦い。アンタには何の責任も関わりもない、私の人生なの。
　座して死を待つなんてまっぴらゴメンよ。勝つ気があるなら、いつまでもベッドで寝てるワケにはいかないでしょう」
　青子の返答は、草十郎への完全な拒絶だ。
　他人の関わる余地はない。
　それが優しさからくるものなのか、<嘲|あざけ>りからくるものなのか、草十郎には読み取れない。
　分かるのは、彼女を止めたければ、彼女を手にかけるだけの覚悟が必要ということ。
その覚悟がないものに、蒼崎青子を批難する事は許されない。
「――――――」
　それでも、もう説得するのは無理だと悟ってしまっても、草十郎は最後の疑問を口にする。
　それを聞かないかぎり、自分は、この部屋を出る事さえできない気がして。
「……分からないな。蒼崎はなんでそこまでするのか、俺には想像もできない。
君を縛っているのは義務と強制、どっちなんだろうね」
　草十郎の瞳は、どこか悲しい。
　それを前にしても、青子は表情を崩さなかった。
「らしくなく、難しいこと訊いてくるのね。
　いいわ、口にしても仕方のない事だけど答えてあげる」
「その二つはね、常に私を圧迫してるものだと思う。
　けど、勘違いはしないで。義務も強制も、誇りも<畏|おそ>れも、<他人|まわり>から与えられた物じゃない。
　橙子と戦うのを止めたところで祖父は私を<叱|しか>らないだろうし、有珠も文句は言わないでしょう。
　ここで逃げても、それはそれで誰にとってもどうでもいい話になって終わるだけ。だから他人は関係ない。
　ホントに意味なんてないのよ、何にだって」
「でも私は橙子から逃げたりしない。
　これはただの、ここにいるっていう存在証明なの。
　私は単に、意味がないからこそ、できる事はぜんぶやるって決めただけなんだから」
　火のような激しさで、蒼崎青子はそう言い切った。
　―――胸にあるのは、<棘|とげ>のような反発だけ。
　なぜ青子の言葉が苛立たしいのか、草十郎には分からない。
　……ただ、同時に。
　そこまで自分を律する彼女だからこそ、自分は目を奪われたのだと思い知った。
　意味がないと言いながらも。
　その何もかもをに、意味を持たせようとする<頑|かたく>なさに。
「……じゃあ、それが、たとえ」
　知らず、草十郎は問いかけていた。
　青子の考えを改めさせる為か、それとも、彼自身がその答えを聞きたかったからか。
「たとえ、他の誰も、見ていなかったとしても？」
　呟くような一言。
　……そう。誰も見ていないのなら、逃げた事は分からない。
　今の青子はそういう状況だ。それでも、彼女はあっさりと否定した。
「あら、見てるわよ。少なくとも私自身がね」
　あんまりに当たり前の事を言わせたからか、青子の表情は不意をつかれたような、どこか明るいものになっていた。
　目を見張る草十郎と真逆に、青子はつまらなそうに返答する。
「知らないの草十郎？
　生きてく上で一番の観客っていうのはね、他ならぬ自分自身なのよ。だから人生っていうのは油断ならないんじゃない」
　呆れて語る青子に、草十郎は何も返さずに立ち上がった。
　その姿は敗北者じみた<翳|かげ>があって、実に彼らしくない。
「草十郎？」
「……すまない。君が素晴らしいことを言っているのは解るんだ。
けど、俺には分からない」
　足音も弱く歩いていく。
　草十郎は廊下に通じるドアに手を置いて立ち止まった。
　ほんの数秒の、何度も発言を<躊躇|ためら>わせた、短い葛藤。
「――――――」
　結局、青子にかける言葉を口にできず、草十郎はドアを開けた。
　ドアは無機質な音をたてて開き、来訪者は部屋を後にする。
　彼の背中を無言で見送った後、青子はちらりと窓に視線を投げた。
　じき夕暮れ。
　外の町並みには、もう薄い闇がかかろうとしていた。
　夜になって、礼拝堂には草十郎だけが残された。
　少年はひとり、長椅子の端に座っている。
　懺悔する者のように、かたちのない無力感を持て余している。
　寒気の<蔦|つた>が壁を伝う。
　暖の無い礼拝堂では、はき出される呼吸は魂のように白い。
　冷気は容赦なく体から熱を奪っていく。
　礼拝堂の高い天井が、広い講堂が、冬の寒さを一層増しているようにしか、草十郎には思えなかった。
「………………………………」
　やり場のない感情を持て余して、彼は力なく天井を見つめている。
　思考はまったく定まらない。
　胸のざわつきが何であるのか、まずそれが分からない。
　答えのないまま時間だけが過ぎていく。
　その様は何かを思案しているようにも取れるし、眠っているようにも取れる。放っておけば石にでも成りかねない、見るも無惨な意気消沈。
　問題は、それを彼自身、まったく自覚していない事だ。
「おや。夜間の礼拝とは感心です」
「――――――」
　突然の声に顔をあげる。
　……いつからそこにいたのか、祭壇の前には昨夜見た神父服の男が立っていた。
　乾いた音が礼拝堂に<木霊|こだま>する。
　いまさら立ち去るのも、そもそも立ち上がる気力もない草十郎は、歩み寄る影を見届けるしかない。
「もっとも、この教会に聖霊なんていませんけどね。
　ここ、座りますがよろしいですか？」
　神父は草十郎と同じ長椅子を指さした。
　草十郎とは逆位置の<端|はじ>っこに、返事を待たず腰をかける。
「改めて挨拶を。私は<文柄|ふみづか><詠梨|えいり>、この教会の……なんなんでしょうかね、書類の上では持ち主になるんでしょうか。詠梨神父と呼んでください。
　貴方は静希草十郎君ですか。なるほど、たしかに唯架には見えない」
　穏やかな口調だが、神父の声には白々しいほど感情がこもっていない。
　徹底した利<己主義|エゴイスト>者。
　こういう声をする人間を、草十郎はよく知っている。
　山から下りる際、彼の世話をしてくれた恩人がこういった<感|こ><情|え>をだす人物だった。
「…………」
　座ったまま、草十郎は無関心に神父を一瞥する。
　心ここにあらず、といった状態だが、詠梨は気にしていないようだ。
「少し君と話がしたいのですが、よろしいでしょうか？」
　草十郎はうなずきで答えた。
　それは良かった、と作り物めいた笑みの神父。
「青子が心配のようですね」
「別に。律架さんにもそう聞かれましたけど、蒼崎の心配はしていないんです」
　神父を見ずに、前を向いたまま草十郎は返す。
　迷いに満ちた、彼らしからぬ弱々しい声で。
「けど、今はずっと彼女の事が気にかかっている。それが何だか分からなくて、さっきから考えてる最中です」
「簡単ですよ。君は単に、青子に嫉妬しているのです」
　あれだけ元気のなかった少年の顔が、その一言で蘇った。
　草十郎は水を得た魚のように、ぽん、と両手を打って神父に顔を向ける。
「そっか。俺はたんに、蒼崎が<羨|うらや>ましかっただけなんだ。
　―――いや、でも、それは困るな。
自分の中に、そういうところがあるなんて、気づきもしなかった」
　懺悔のような呟きに、神父は何も返さない。
「それで、話っていうのはなんですか？」
「いえ、話というより質問です。
　君は今まで山奥に住んでいたと聞きました。そこで一つ、どうしても気になる事があって」
「気になる事、ですか？」
「はい。おそらく、今まで誰も貴方にこの手の質問をしなかったのでしょう。
それは貴方が、他人にその手の不安を感じさせないからです。実際私もそう思いますし。
　ですから、まあ。これも縁ですし、私も肩書きが<神父|コレ>ですしねぇ。迷える子羊がいるんですから、それなりの<勤|つと>めをはたさないと後ろめたいというか」
　そうして、神父は穏やかな瞳を草十郎へ向けた。
　容赦なく暗い、罪を<暴|あば>くような瞳を。
「おかしなコトが気になるんですね。
　……その、質問というのは？」
「いえ、ごく自然の疑問ですよ。
　貴方はなぜ山から下りてきたのか。そこでなら君は幸福だったでしょうに」
　罪状こそ確かではないが、それは確かに告発だった。
　遅すぎたといえば遅すぎ、当然と言えば当然の質問。
「………………」
　草十郎に返答はない。
　苦虫をかみつぶす少年を無視して神父は続ける。
「山での生活がいかに厳しいものかは、私も人並みには知っています。若い頃、ちょっとした手違いで遭難した事もありますしね。
　山での生活はこの上なく簡素です。なにしろ生きること以外に時間をさく余裕がない。愉しむ為に生きるのではなく、生きる為にただ生きる。生活は必要最小限を、さらに切り詰めたものとなっていく」
「山での生活に比べれば、都市の在り方は楽園以外の何物でもないでしょう。
　ですが。楽園の定義は、人それぞれです」
　草十郎は答えない。表情も何も語らない。
　ただ、神父の声だけが礼拝堂に<木霊|こだま>する。
「一粒の種の誕生すら喜びになる生活。
　電気の明かりがどれだけ暖かでも、自然のままの厳しい寒さを君は<尊|とうと>んでいた筈です。
　なのになぜ、下りてきたのですか。山にいれば、君は<倖|しあわ>せだったでしょうに」
　神父の問いが、もう一度繰り返される。
　草十郎は堅く口を閉ざしている。
　それは答えたくないのではなく、彼自身、どうしてそうなったのか未だ分からないからだ。
　……確かな事は、帰りたくとも、もう帰ってはいけないという事実だけ。
「困ったものです。そこをはっきりさせない事には、いつまでも救いがない。
　故郷を捨てた理由も分からないのに、旅先の土地を愛するコトなんて、まっとうな人間にはできませんよ。
　これは忠告ですが。すべてを無条件に肯定したところで、幸福になれるとはかぎりません。
　貴方はもう少し、自分の心を許してあげないと」
　草十郎には、神父の言葉はまったく理解できない。
　ただ、最後の言葉だけは印象的だった。
　自分の心を許せ、と言うけど。
　彼には、その心のカタチがよく分からない。
「ああ、そう言えば―――」
　同じような事を、蒼崎橙子も口にしていた。
　橙子といい、この神父といい、口にしてもいない事をよく言い当てられるものだな、と草十郎は感心する。
「……すごいですね。神父さんっていうのは、みんなそうなんですか」
　さっきまでの暗さはどこへいったのか、不思議そうに草十郎は言った。
　心の傷が表に<顕|あらわ>れない、ある意味、鉄の心臓がこの少年の特徴である。
「ええ。神父は悩みを<暴|あば>くのが仕事ですから。
ま、たいていは暴くだけで埋めるのに失敗するんですけどね」
「……。悩みを暴くって、つまり相談事ですか？」
「そういうソフトなのも<承|うけたまわ>っています。私が解決できる悩みなど、タカが知れているようですけど」
　神父は困ったように肩をすくめる。
　信用できないコトこの上ないが、今の草十郎には誰であろうと後光が差して見えるのだった。
「あの。じゃあ、タカが知れた程度の悩みを聞いてもらえますか」
「君が青子をなぜ<羨|うらや>むか、ですね」
　人の心でも読めるのか、神父は穏やかな眼差しのまま草十郎の台詞を先読みする。
「えっと……まあ、そういう事です。
　自分でも、どうしてそう思うのかが分からない。
でも貴方なら、それを知ってそうだ」
「知りませんけど、まあ、無責任に答えましょうか。
　それはおそらく、貴方には根拠がないからですよ。
自分の色がない、と喩えた方が正確ですが」
　すっぱりと答える詠梨神父に、草十郎は難解そうに目を細めた。色がない、とはどういう意味なのだろう、と。
「ほら、そこです。君に<勝|すぐ>れた部分があるとしたら、その順応性です。
　山という異界から町に下りて、一人で暮らしていけた事。
　ようやく慣れた常識の中で、青子たちという非常識と関わっても暮らしていけた事。
……そうであれと努めているにしても、貴方の順応性は<際|きわ>だっている。
　原因は知りませんが、君には初めから、自我というものが第一に表れてはいないのです」
「何事にも対応できるものの、<朱|しゅ>に<交|まじ>わるほど器用でもない。
　しいて言うのなら、色の乗っていない空白ですかね。
　風景に溶けこむ自然さは素晴らしい人徳ですが、自我がないという事は、居場所がないという事ですから。
　いいコトばかりじゃありません」
「唯架にまで見えない、というのは予想以上でしたが。
　姿なき精霊すら捉えるアレが見えなかったのですから、君の無欲ぶりも筋金入りだ」
　なにが嬉しいのか、微笑みながら神父はそう告げた。
　草十郎には彼の言いたい事も、その笑顔の意味もさっぱり分からない。
「憶測にすぎませんが、青子は貴方を見て反感を覚えたと思いますよ。
　自分のない貴方は、自己を押し通してきた彼女にとって認めがたいものだったでしょうから。
　そして同時に、貴方は青子に、自分ではどうしても手に入れられないものを見てしまった」
「言葉にすると下らない表現になりますが、そういう事です。
　先程は嫉妬と言いましたが、それは訂正しましょう。
　君は青子に―――いや、いいです。
言葉にするのは、それこそ<野|や><暮|ぼ>だ」
　柔らかに神父は笑った。
　それは詠梨本来の年齢を思わせる、若々しい笑みだった。
　この人物は青子の事になると<神父然|しんぷぜん>とした姿勢が崩れるようだ。
　と、それはともかく。
「えっと、神父さん。それで結局、自分は青子のどこらへんに憧れてるんですか？」
　要領を得ない詠梨の言葉に、草十郎は真っ正面から聞き返す。
　順を追って話していた詠梨だが、この相手には冗長すぎたようだ。
「……今のでも分からない、と。
　まいりましたね。こういう事は言葉を尽くすほど実感が湧かないものですが……ま、私も神父と呼ばれる身です。少し切り口を変えて代弁してみましょう。
　貴方は青子の過去を知っていますか？」
「詳しくは知りません。高校デビューとか、おかしな言葉を口にしてましたけど」
「まったく知らないというコトですね。
　いいでしょう。では静希君、益体のないたとえ話ですが。
　君は、突然自殺しろと言われて従えますか？」
「自殺……ですか？」
「そう、自殺です。神父である私が口にしていい事ではありませんが、ま、私は格好だけなのでいいでしょう。
　青子はね、近いことを求められたのです、十五歳の時に。
　彼女がそれまで積み重ねてきた努力も希望も、過去も未来もすべて捨てること。今日からおまえは違う生き物として生きろ、とね。
　どうです？　それは自己の抹消、未来の死と同じだと思いませんか？」
「…………」
　神父の言葉は、たしかに青子が口にした過去と一致する。
　蒼崎青子は中学まで、普通の学生として暮らしてきた。
　それが突然、姉に代わって家を継ぐ事になってしまった。
　魔法使いになる、という事は、今までの生活を捨てる、という事らしい。
　青子は知識としてしか受けとめていなかった魔術師の観念を常識にして、今までの努力も展望も捨てて、違う生き方を余儀なくされた。
　そして、その生き方は、それまでの青子の常識からすれば、苦痛しかともなわない道だった。
　……青子の祖父は、彼女に強制はしなかった。
“姉が駄目になったので、次はおまえだ”としか言わなかったらしい。
　青子はそれを拒んだろうか……？
　草十郎には考えもつかない。
　……けれど。彼女がそのカードを、喜んで選んでいない事だけは断言できる。
　魔法使いとしての生き方が魅力的だったとしても、今までの生活をあっさりと切り捨てる事なんて、あの少女にはあり得ない。
　だって、蒼崎青子はいつだって本気で走っていた。
　必然、彼女の十五年間はその努力の分だけ、十分に報われていた筈だ。
　それまでの成果も、将来の展望も、誰もが羨むだけの輝きを持っていた筈なのだ。
それを白紙に戻して、一からやり直す決意を持てるものなのか。
　……単純に、やり直すだけではなく。
　ずっと描いていた<未来|ゆめ>を、完膚無きまでに、殺す事になったとしても。
「……青子は、どうしたんですか？」
「いや、これがもう、まったくの頑固者でして。
　立ち会った私でさえどうかと思うぐらい、簡単に<頷|うなず>きました。
震える指を懸命に握りこんで、やってやろうじゃない、と見得を切ってね。
　彼女は祖父の期待や蒼崎の責任感からではなく、逃げる事を嫌って、魔術師の道を取ったんですよ」
「拒む事は逃げではないのでしょうが、青子にはそう思えたんでしょう。……逃避という行為は、これまでの自分の<人生|じかん>を否定する事になると。
　今までの自分を嘘にしてしまうのなら―――今までの生活に別れを告げる事を、青子は選んだのです。
　ま、極端ではありますが。アレは前に進む為なら、全てを捨てられる人間なんです」
　詠梨神父は懐かしむように微笑んだ。
　そこには青子に対する親近感というよりは、保護者としての誇らしさがうかがえた。
「……ですが、私も思い違いをしていました。結局はそうなるように、青子は育てられていたのです。
　彼女の祖父は、橙子が家を出る事も、青子が後継ぎを了解する事も読んだ上で、あの二人を育ててきた」
「カタチだけですが、私も神父としてさすがにそれはどうかと思いましてね。<柄|がら>にもなく青子を説得したものです。
　祖父の思い通りになる事はありません、なんなら私とメキシコあたりに逃げませんかと。
　―――しかしまぁ、躊躇なくフられました。
　その時の彼女の返答は、今でも一言一句覚えています」
『……だって、私ひとりがどんなに泣き叫んでも今の状況は変わらないんでしょ？
　私にしかできないなら、正面から受けて立つ。
　たとえ不本意で、とつぜん投げこまれた川の中でだって、出来ることはあるはずだもの。
　逃げるなんてのは最後の最後。
　それまでは、せいぜい華麗に踊ってやるわ』
　過去を懐かしむように、神父は少女の台詞を暗唱した。
　それは、たしかに彼女らしい台詞だった。
　病室で青子と交わした最後の台詞は、たぶんそういう意味なのだ。
　観客はもちろんいるし、喝采も当然のように求めるべきものだ。
　けれど、それを一番初めに贈るのは自分であって、決して他人ではない。
　周りに認められるより先に、あの少女はまず、自分自身に胸を張れるよう走ってきた。
　せめて美しく。
　無くしてきた多くのものに応えられるように、たとえ地上に一人きりになっても、ああやってやせ我慢を続けるのだ。
　なぜ羨んでいるのかなんて、言葉にするまでもない。
　彼には、彼女の在り方があまりにも誇らしかった。
　全てを受け入れていながら、その実、何も手に入れていない人間がいて、
　全てを捨ててきたようで、その実、何一つ失ってはいない少女がいた。
　……まだ誰とも出会っていなかった雨の会議室。
　自らの醜さと、
　正反対の気高さを見た。
　思えばあの時。
　彼はようやく、自分の棘に気が付いたのだ。
「もういいでしょう。君は青子の容姿に感じ入ったのではなく、蒼崎青子という生き方に感じ入ったのです。
　ま、青子は青子でれっきとした美人ですが」
　少年はうなずく。
　初めて少女に出会ったあの日。
　無意識に感じた印象は、それ以外の何物でもないと。
　強い眼差しと、ただ自分であろうとする彼女の意志に、彼はあんなにも見惚れたのだ。
「……なんか、すごいやせ我慢だ」
「本当に。小娘のクセに、ギネス級の頑固さです」
　神父の同意は心からのものだ。
　草十郎は小さく、この数時間の自分の馬鹿さかげんを笑うように頬をかいて、顔を上げた。
　正体不明の気持ちはまだ持て余しているが、どうもそれは解決しなくてもいいものらしい。
　いてもたってもいられず立ち上がる。
　蒼崎の家のことも、魔術師同士の争いも、死にに行こうとする青子のことも、どうでもいい。
　今はただ、彼女の顔が見たかった。
「お待ちなさい。病室は立ち入り禁止です」
　……と。
　礼拝堂の奥、病室に向かう草十郎に、冷たい声が浴びせられた。
　祭壇の横に控えていたのか、盲目のシスターは草十郎を律するように、ドアの前に移動した。
「唯架さん。いま、病室には入れないんですか？」
「はい。しばらく<人除|ひとよ>けをしてほしいと、久遠寺様から言付かっています」
「有珠が……？」
　人除けとはどういう事か。
　傷の手当て、容態の悪化といった理由で面会謝絶になるのなら分かるが、シスターの言葉から、そういった事情は感じとれない。
　そもそも、治療はもう終わっていると青子自身が―――
「人がいいのですね、シスター唯架は。そんな方便をしなくてもいいんですよ。
　はっきり言ってあげればいい。今から病室に行っても無駄です、と。
青子はとっくに出発しているんですから」
「エイリ神父」
　長椅子に座ったまま、神父はにこやかに説明した。
　先ほどまでの一連のやりとり。
　彼はなぜ、頼まれもせず他人の悩みを解いていたのか。
　……その真意は、もう語るまでもない。
「初めから、そのつもりだったんですね」
　怒気を含んだ声を、神父は眉ひとつ動かさず受けとめる。
「申し訳ありません。青子に貴方の保護を頼まれたもので。
　彼女の準備が整うまでの時間稼ぎでしたが、私が貴方と話をしたかったのは事実ですよ」
　そこは誤解なきよう、と神父は誠意のかけらもない弁明をした。
　強く、激情から歯を噛み締める。
　……なぜ青子たちの自殺行為を止めなかったのか、なんて罵倒はない。
　神父もシスターも魔術師と同類だ。
　彼らにとって見れば青子の選択は当然であり、そもそも、この神父は青子を知っている。
　たとえ彼に青子を止める力があったとしても、彼はすっぱり見送っただろう。
　このまま教会でくすぶっている青子なんて、彼の知る蒼崎青子ではないのだから。
「有珠は？」
「青子と行きましたよ。あれから三十分は過ぎていますね」
　神父はご丁寧にも、時間まで口にした。
　三十分。ちょうど神父が現れた時間と一致する。
　この教会から学校までは二十分かからない。
　そこから三咲高校の旧校舎までなら、走れば十分たらずで到着してしまう―――
「っ…………！」
　草十郎は礼拝堂の玄関へと踵を返す。
　それを、
「待ちなさい。何処へ行くつもりですか」
　盲目のシスターが、声だけで押し止めた。
　―――見えない重圧が草十郎の足を止めている。
　シスターの声は呪縛となって、向こう見ずな少年を<諫|いさ>めていた。
「貴方は魔術師同士の争いを知りません。
　何の助力にもならないばかりか、彼女たちの<足枷|あしかせ>になるだけです。
　彼女たちが命を落とすのは彼女たちの業によるもの。望むままに傷つけ合えばいいでしょう。
貴方のような何の<咎|とが>もない若者が、凶事に立ち会う事はありません」
　シスターの声には静かな怒りがある。
　青子たちへの嫌悪ではなく、それを承知の上で命を粗末にする草十郎を<諫|いさ>めている。
「なにかしら希望があるのなら私も止めはしません。
　ですがこの件は別です。貴方が行っても、彼女たちが助かる事はありません」
　……たしかに、草十郎が追いついたところで、何がどうなる訳でもない。
　遊園地の時だって、結局は役に立たなかったのだ。
　相手はあの夜以上の怪物だと言うなら、何が出来るかすら思いつかない。
「言っておきますが、蒼崎青子は祖父に護身術を教えこまれています。魔術以外でも貴方より腕は立つ。
　その彼女も、あの使い魔が相手では勝負にならない」
　唯一の利点である男の腕力も無駄らしい。
このまま行ったところで足手まといになるのは目に見えている。
　シスターの言はすべて正しい。
　それでも―――
「でも、行かないと。青子には、返さなくちゃいけない借りがあります」
　あまりに落ち着いた、厳格な響き。
　それについ<絆|ほだ>されかけ、シスターは眉をひそめた。
　……気は乗らないがこれも少年のためだ。
　言葉で分からないのなら無理矢理にでも眠らせるしかないと、呪縛の指を草十郎に向け―――
「それを言うなら返したい借りがある、ですよ草十郎君。
　それとシスター唯架、教会内での魔術は控えてくださいね。
　使うのなら秘蹟にとどめてもらわないと、私の査定に響きます。
……まったく。大人しそうに見えて律架クンより短気なんですから、貴女は」
「エイリ神父、しかし」
「行かせてあげればいいじゃないですか。それとも貴女は、やはり青子たちに退場してほしいと？」
「……その問題と、彼の献身は別の話です。
　<改|あらた>めなさい静希さん。貴方が行っても、何も出来はしないのですから」
「――――――」
　　……それは、何より彼自身が痛感している真実だった。
　それでも答えは決まっている。
　初めからそうだった。どうせ自分すら確かではないのなら、せめて、迷わないように。
　自然にうかんだ気持ちだけは貫こうと思ったのは、もうずっと以前からの事だ。
「分かっています。
……でも、行かないと。
　ここにいたら、本当に何もできない」
　胸にあるのは未熟な<衝動|こころ>だけ。
　神父の話を聞いた時、彼はただ、彼女に会いたいと思った。
　心配や助けなんて浮かばず、それだけしか思えなかった。
　だから―――
その後の事は、その時にしか考えられない。
「ほら。献身なんて考え自体が間違ってるんです。
　足を引っ張るといいますが、どのみち青子たちに勝ち目はないんでしょう？
　
なら、彼がマイナスになってもいいじゃないですか。どうせ破産するなら、豪快に破産すれば」
「神父」
「ほら草十郎くん、行って行って。
　シスター、今の貴方の返事で心が折れましたから。
　足、動くでしょう？」
　神父に指摘され、草十郎は体を確かめる。
　肩にのしかかっていた重圧は薄れ、彼自身が抱いていたかすかな恐れ―――
自分は役に立たないどころか、青子たちを危険に<晒|さら>すだけかもしれない―――も、完全に吹き飛んでいた。
「―――行きます。<縁|えん>が残っていれば、また」
「はい。何であれ、後悔のない一日を」
　走りだす草十郎を、神父は満足げに見送った。
　どのみち青子を説得する事も無理なら、彼を納得させる事も無理だと分かっていたように。
　走り去っていく、がむしゃらな少年の後ろ姿。
　盲目のシスターは、その音を聞き届ける事しかできない。
　……彼女は神父とも草十郎とも違う。
　悪徳にも独善にも慈悲は見せないが、無垢な<中庸|ちゅうよう>さには<慈|じ><愛|あい>を抱くのだ。
　あの平凡な少年が天寿を全うするのは素晴らしいが、むざむざ異端たちの地獄に堕ちるのは心苦しい。
「……最悪ですね、エイリ神父。
　分別の付かない子供を導くのが、責任のある大人だと思いましたが」
　刺々しい抗議の声。
　彼女は彼女なりに、あの少年の身を案じていたのだ。
　そんなシスターの気遣いに、神父はやれやれと肩をすくめて、
「だから、色々と間違えていますよシスター唯架。
　責任のある大人、なんて言葉自体がおかしい。
　<何|・><が|・><起|・><き|・><て|・><も|・><責|・><任|・><を|・><と|・><る|・>。それが、正しい大人というものです」
　誰が死んでも構わない、と。
　神父らしい温かな笑顔のまま、彼女の間違いを訂正した。
　<下界|まち>の<喧噪|におい>に、ピンと耳を立てる。
　食事を済ませ<午睡|ごすい>に身を任せていた金色の狼は、クワア、と大きなあくびをして、退屈そうに身を丸めた。
　その役割を終え、久しく使われていなかった教室。
　積み重ねた<瓦礫|つくえ>の上で身を休めるのが、ここ一ヶ月の彼の日常だ。
　彼の名はルゥ・ベオウルフ。
　故郷では太陽の名で呼ばれ、故郷を後にしてからは勇者の名を<戴|いただ>いた、純血の人狼である。
　言うまでもなく、彼の故郷はこの国ではない。
　ヨーロッパ深部、山と森に守られた荒野が彼の<世界|ふるさと>だ。
　いまだ人智の及ばぬ秘境。
　誰一人として訪れる事のない停止した世界で、ゆるやかに絶えるだけの日々を送っていた人狼たち。
　その中に、<彼|ベオ>は忽然と現れた。
　<人狼|かれ>らの祖と同じ金の毛並みを持った子供は、村はずれの洞穴で発見された。
　安らかな寝息をたてて、まるで、そこに<存|い>るのが当然といった様子で。
　村は新しい仲間の誕生と、その貴重性に沸き立った。
　文明が消費を良しとしてからはや二千年。
　森が<暴|あば>かれ、谷が埋められ、海の<混濁|よごれ>が進むにつれ、<人狼|かれ>らの生殖機能は落ちていた。
　一族の者が子を<孕|はら>むだけでも十年に一度の祝い事だ。
　それが灰や白を飛び越え、<人狼|かれ>らが森の神とされていた頃の金の獣性を持っていたのだから、村に降りた希望がどれほどのものだったか、想像に難くない。
　衰退していく一族。
　転換を受け入れざるをえない時代。
　それら根本的な問題を一時でも忘れてしまうほど、その赤子は輝かしかったのだ。
　……だが。
　時が経つに連れ、喜びは失望へと変わっていった。
　金狼は何も救わない。
　ルゥ―――太陽と愛された子供は、不思議な事に発見された時から今の<カ|・><タ|・><チ|・>をしていた。
　そればかりか、何十年経とうと一向に成長しない。
　彼は不老であり、不滅であり、それ故に不遇だった。
　村中を探しても、彼を生んだ母親はいなかった。
　村中を探しても、彼を理解できる人狼はいなかった。
　そして彼本人も、その事実を百年かけて実感した。
　自分は何もかもが他の連中と違う。
　雄も雌もない。
　<強|つよ>きも<弱|よわ>きもない。
　生も死も、<悦|えつ>も恐れもまだ知らない。
『アレは自然発生した精霊だ。人狼の姿をしているが、我々とはまったく違う生きものだろう―――』
　陰口を言われるまでもなく、彼もそれを実感していた。
　完成しているからこその<閉塞感|へいそくかん>。
　金の獣にとって、肌に感じる世界はあまりにも狭すぎる。
　だからこそ―――
　そう、だからこそ。
　生命とは何かを知りたい。
　欠落とは何かを知りたい。
　万能であるのなら、万能であるが故の未知を知りたい。
　だってこのままでは、
　生きている意味がまるで無い―――
　金の狼は自分自身を持て余す。
　そうして<人狼|かれ>らも、この太陽を持て余した。
　敬いはするが、同時に関わりたくもない。
　ルゥは自分が発見された洞穴に居を構え、神子として、一生を<独|ひと>りのまま過ごすと宿命付けられた。
『太陽のルゥ？　<ルー・ガルー|loup-garou>じゃなくて？
　ハ、そりゃ面白い！　偶然にしちゃあ出来すぎだ！』
　その村に、風変わりな魔術師が訪れるまでは。
「“……またガタガタとうるさい……トーコさんはアレだよね、派手好きなクセにマメだよね……”」
　瓦礫の上で身を丸めながら、ベオは廊下の様子を盗み聴く。
　小うるさい主人は三咲市全体の霊脈の掌握とやらに忙しい……と思いきや、飽きもせず趣味の仕掛けをこしらえているようだ。
　この廃屋を仮の工房に使い始めて一ヶ月。
　一日に一つ、新しい侵入者用のトラップを作るのが彼女のひそかな趣味らしい。
「“……安全を用意しておくなんて、他の生き物はタイヘンだ”」
　生まれながらこのカタチ―――赤子という未成熟な立場も、老衰という劣化も知らない<彼|ベオ>は、通常の生き物とは在り方も思想も違う。
　彼はその発生からして“完全”だった。
　何も引くものがなく、何も付け足すところがない。
　故に、あらゆる弱さを実感できない。
　無邪気かつ天衣無縫の気分屋で、人間としての善悪も、狼としての良し悪しも計らない。
　この美しい獣は、周囲と没交渉でありながら、自分以外の生き物を見下している。
　その例外が彼の主人、蒼崎橙子である。
　キラキラするモノ、美味しいモノを教えてくれたし、なにより匂いがすっきりしている。
　彼にとっての良し悪しの基準は、単純に「格好いい」か「格好悪い」か。
　趣味嗜好、外見性別は問わない。
　何であろうと、その生き方に筋が通っているのなら「格好のいい」匂いがする。
　蒼崎橙子は、色々とねじまがっているが、彼にしてみるといい匂いの人間なのだった。
「ベオ、昼食は済ませたか？」
　廊下の仕掛けが済んだのか、教室に<件|くだん>の主人が入ってくる。
「夜が本番だ。それまで、あまりハメを外すなよ」
　この通り少々口やかましいところがあるが、彼はこの主人を基本的に気に入っている。
　実際のところ、<彼|ベオ>を縛っている彼女の契約はさして強力なものでもない。
　<彼|・>が本気になれば<噛|か>み<千|ち><切|ぎ>れる程度のものだ。
　彼を縛り付けられる人間などいる筈がない。
　が、そうは言っても、橙子を殺して自由になる気もない。
　その理由が見あたらない。
　彼が人間社会で気ままにやっていくのには、便利な人間が必要なのだ。
　よほど彼の気分を害さないかぎり、この主人をどうこうするつもりはない。
　もっとも―――
「“やっと本番か。<待|・><た|・><せ|・><す|・><ぎ|・>だよ、トーコさん”」
　彼を連れ出した時の約束と、現実が少しズレはじめている。
“来い。最高の神秘と戦わせてやる”
　その口車に乗って今まで従ってきたが、そろそろ我慢の限界だ。待ちに待った昨夜の戦いは特に酷い。“最新の魔法使い”なんて、名前負けもいいところだった。
「そう言うな。私も昨日は拍子抜けだったんだから」
「“……いいけどね。実はあの娘、使わないんじゃなくて、使えないだけじゃないの？”」
　む、と主人の顔が険しくなる。
　彼の疑問に賛同しての事ではない。
　ソレが<あ|・><る|・>か<な|・><い|・>かの問答など、彼女はとっくに通り越している。
「……いや。使うぐらいなら死んだ方がまし……なのかもな」
「“？？　そんなバカな事があるの？　使わないと死んじゃう状態だったんだよ？”」
「だから、そんなバカな考えが成立するぐらい―――」
　おぞましいモノなんだろう、と。
　そう口にしかけて、彼女は感傷的な自分を<嘲|わ><笑|ら>うように首を振った。
「どれほどのものか想像がつかないのは確かだ。
　だがまあ、根本は変わらないさ。魔法がどのような奇跡神秘の類であれ、魔術師である以上、青子に勝ち目はない」
　そう残して、彼の主人は教室を後にした。
　おまえの相手、おまえの出番は“その一点だけ”と念を押して。
「“―――魔法、ねぇ―――”」
　退屈に沈んでいた彼の目が、ぐにゃりと<歪|ゆが>む。
　昨夜の少女の<腿|あじ>を思い出して、長い舌が、べろりとノコギリのような口を舐める。
　もちろん、言われるまでもなく<蹂躙|じゅうりん>しよう。
　彼は最古の人狼、黄金の森の神。
　物心ついた時―――いや、この地上に発生した時から、自身が“最も強い生き物の一つ”だと認識している。
　彼からすれば人間の手による神秘など<塵芥|ちりあくた>も同然。
　魔術など無駄であり、その上にある神秘―――人造の奇跡など無用だ。存在すら気にくわない。
「“……もちろん。そういう契約だし、ちゃんと<平|たい>らげはするけれど”」
　契約はそこまで。
　魔法とやらを食い破った後、どうするかは彼の自由だ。
　……いびつな瞳に、狼の<彩|いろ>が宿る。
　それは<淫蕩|いんとう>に<耽|ふけ>る、<嗜虐|しぎゃく>に満ちた、<卑|いや>しい獣の笑みだった。
　午後七時過ぎ。
　三咲高校の校舎は、完全に<睡没|すいぼつ>していた。
　街から夜の明かりは届いているものの、校舎周辺の山林は静まりかえっている。
　それも無理からぬ事だ。
　冬休み中、校舎は数えるほどしか使われておらず、校庭は昨夜からの雪に包まれている。
　……使う者のいない建造物は、その時点で<慰霊碑|モニュメント>と変わらなくなる。
　いま死者に近いこの建物は、新学期まで息を吹き返す事はない。
　その背後に広がる森は、更に闇を増している。
　二週間たらずの休みで校舎が死に絶えるのなら、数年にわたり忘れ去られてきた森は如何なるものか。
　木々の壁の向こうは、街の喧噪はおろか、月明かりでさえ入れずにいる。
　人々の住まう町から、三キロも離れていない魔境。
　そんな、しんしんと凍てつく夜気の中、新雪を踏みしだく足音が二つ。
「このあたりに仕掛けはなさそうね。
　……それで、どうするの？　このまま旧校舎に忍びこむ？」
「まさか。私らがやってきたコトなんて、とっくにバレてるわ。
隠れても意味はないし、なにより、敵の<工房|アジト>に入ってどうするのよ。盗みが目的じゃないでしょ、今回は」
「……後ろから斬りつけるのは、強盗と言うのじゃなくて？」
「……それができれば苦労はないんだけどね。まあ、忍者の真似事は私……というか、有珠の芸風じゃないでしょ。
　そもそも―――」
「―――そもそも。
　やる気満々なのは、こっちもあっちも同じってコト」
　雪を踏むふたりの足音が、言い合わせたように停止する。
　三咲高校の裏山に残る旧校舎。
　かつての<校庭|グラウンド>は一面の雪原となっていた。
　森に取り残された建物は、もの言わぬ死者のようだ。
　そんな時代の残骸を<祀|まつ>るように、木々は壁となって周囲を<覆|おお>っている。
「せっかちなお嬢さん<方|がた>だ。タイムリミットまで、あと四時間はあるというのに」
　その白い祭壇の中心に、橙色の魔術師が一人。
　森を抜けてきた少女―――蒼崎青子はわずかに腰を落として、遠方の標的を睨む。
　青子の<傍|かたわ>らに立つ久遠寺有珠は指一本動かさない。
　枝葉を落とした木々の影は<茨|いばら>を思わせる。
　眠り続ける姫の童話を連想した青子だが、あの魔術師はお姫さまほど<幸福|しあわせ>な性格はしていなかったらしい。
　王子を待つのも、眠っているのも性に合わない、と。
　旧校舎という城に棲んでいた姫は、現れた挑戦者を堂々と出迎えたのだから。
「その体で無理をして。
　貴女のそういうところ、姉としてどうかと思うわ青子」
　橙子は微笑みを浮かべている。
　文句のひとつでも返したい青子だが、ここは我慢と口を<噤|つぐ>んだ。
　有珠は一律で無言。両者の因縁に関心はないと、その態度で示している。
　両陣営の距離は三十メートルほど。
　互いの声が届くのは森の静けさと、魔術によって強化された五感の<賜|たまもの>だ。
　蒼崎橙子の<傍|かたわ>らに金狼の姿はない。
　彼女は体ひとつで青子たちと対峙している。
　有珠は黒い<外套|コート>に帽子をかぶった、典型的な魔術戦の出で立ち。
　その有珠より半歩前に出ている青子の服装は、場にそぐわない事この上ない、三咲高校の学生服だ。
　有珠に着替えを持ってくるよう頼んだところ、何を勘違いしたのか、私服ではなく制服を持ってきた為である。
　そんな些細な事情なのだが、橙子は特別な意味があると見たらしい。
「ところで、始める前にひとついいかな。
　気になって仕方がないし、この先、機会もないだろうから訊くんだけど……貴女の戦闘服ってそれなの、青子？」
　離れた距離も関係なく、橙子の声はよく響いた。
　心底から不快そうな、侮辱というより軽蔑すらこもった<韻|いん>も、のこさず聞き取れる。
「………………」
　無駄話はせず、ほぼ奇襲のカタチで橙子を仕留めるつもりだった青子だが、さすがに今のは無視できない。
「そんなワケないでしょ。今までこういう機会が多かっただけよ。数えるなら今日を含めて四回しかないわ。
　……ま、私はまだ<現|・><役|・>だからそれも悪くはないかもしれないけど？　いつか流行るでしょ、こういうのも」
　現役、という単語を強調する青子。
　一瞬、橙子の瞳が青子もかくやといった鋭さを帯びた。
「……呆れたな。あいかわらずのローセンスだ」
「それはどうも、人形を実の妹に見立てる異常者にそう言われるなら、一周まわって安心よ」
　それきり、ふたりは無言で見つめ合った。
　凍える大気に、<姉妹|しまい>間<独特|どくとく>の殺意が火花を散らす。
「――――――」
　ふたりが<牽制|けんせい>し合う中、有珠は<橙|て><子|き>の周囲を解析する。
　……橙子の周りに何者かが<潜|ひそ>んでいる気配はない。
　人狼はいまだ旧校舎に残っていると見るべきか。
　傷ついた青子と有珠、二人でようやく一人分の戦力と見ているのか―――
それとも本当に、この時間での反撃を予測しておらず、人狼の準備が整っていないのか。
　静かな心持ちで、有珠は前者だと判断した。
　敵は<単身|ひとり>で戦うつもりだ。
　<橙|て><子|き>の武装は、魔眼と修得しているルーン。
　それだけで現状の青子と有珠を処理して余りあるのだから。
“―――有珠。初撃で決めるから”
　青子は背後の有珠へ、指先の動きだけでそう伝えた。
　有珠に異論はない。
　……当初の予定では人狼は有珠が引き付け、
　青子は『鏡』のバックアップを受けつつ、橙子を奇襲する算段だった。
　他にも幾つか奥の手はあったが、青子たちが魔術師である以上、何であれ人狼には通じない。
　なので人狼は無視し、橙子のみを標的にする。
　都合のいい作戦ではあるが、ふたりにはそれしか選択の余地はなかったのだ。
　……が、事態は想定していたものと違っていた。
　橙子は自軍の有利性から、人狼の出陣を<渋|しぶ>っている。
　ならば、と青子は即断した。
　<和気藹々|わきあいあい>とした姉妹の談話の隙をついて、人狼が出てくる前に決着をつけるのみ、と。
「じゃあ今度はこっちの番ね。
　どう、結界の張り直しは進んでる？」
「まさか、昨日の今日よ。まだ手を付けてもいない。<急|せ>いては事をし損じる。
だいたい、私の目的は霊脈の奥にあるもので結界そのものじゃない。張り直しは予定にないさ。
　まあ―――土地を<暴|あば>くなんて面倒な真似をするより、<貴女|おまえ>を暴いた方が早いのかもしれないが」
「ふん、やっぱりそれが目的だったのね。
　……なら尚のこと、アンタを魔法使いにするワケにはいかないわ」
　青い瞳に明確な戦意が<宿|やど>る。
　今まさに仕掛けてきそうな妹の様子を見ても、橙子に動きはない。その唇が皮肉げに動くだけだ。
「魔法使い、か。たしかにまだ執着はあるね。
　私には移植されなかった魔術刻印と、蒼崎の伝える魔法の正体。
だがもういいよ。欲しくはあるが、<到|・><達|・><す|・><れ|・><ば|・>どちらも自分で用意できる。
　それとも……今ここで、私の為に魔法の正体を見せてくれるのかい、青子？」
　橙子の瞳は、言葉とは裏腹に青子を<嘲|あざけ>っていた。
　……青子が<橙|て><子|き>を排除したいのなら、正体の分からない『魔法』を使うのが最良であり、確実だ。
　だが青子にはそれが出来ない。
　出来るのなら昨夜の窮地で使用している。
　蒼崎青子は魔法を使用できない。
　橙子はそれを何らかの条件付けと考えた。
　祖父の<術式防護|プロテクト>が、安易な奇跡の発現を禁じているのだと。
　だが―――あの<祖父|おとこ>は、人の世を<顧|かえり>みる人格者ではない。
　大げさな話でなく、魔法の発現でこの街が消え去っても何の感慨も浮かべまい。
　初めから、<魔|・><法|・><に|・><条|・><件|・><付|・><け|・><な|・><ど|・><な|・><い|・>。
　青子を縛っているものはトラウマにすぎない。
　地上でただ五つの特権を、精神的な<枷|かせ>で縛っている。
　故に、橙子の瞳は未熟な妹を<嘲|あざけ>るのだ。
　その弱さ。人の身に背負いきれない『魔法』なぞ、一振りの剣にも劣ると。
　それを何よりも自覚しているからこそ、青子にはその嘲笑は許せない。
　魔法を使ってみせろ？
　なんて安い挑発。
　そんなもの、言われるまでもなく―――
「ええ、お望みとあらばね――――――！」
　切りつけんばかりの殺気と共に、青子はスタートをきった。
　―――<未到|みとう>の雪原に、無色の靴が駆け抜ける。
「――――――」
　まるで<水面|みなも>の飛び石だ。
　高速で橙子に向かう青子の体は、完全に“消失”していた。
　足跡だけが<弾痕|だんこん>のように迫ってくる。
　それを橙子は不動のまま待ち受けた。
　姿隠しは簡単な魔術だ。
　おそらくは有珠が用意した小道具の力だろう。
　単純だが、効果的な魔眼対策である。
　<捕縛|ロック>の呪いに特化した橙子の魔眼は、不正を<見|み><抜|ぬ>き<明|あき>らかにする“<真理|ロゴス>”の特性を持っていない。
　仕組みを知られた魔術は、このようにたやすく打破される。
“足癖が悪いのも変わらず、か”
　既に四秒。十メートルもの距離を<詰|つ>め、さらに加速する姿なき襲撃者。
　魔術戦では敵わぬと見て、殴り合いならぬ蹴り合いを挑むつもりらしい。
　もう一人の少女、久遠寺有珠は一歩も動かず。
“<被弾|ひだん>覚悟の特攻―――有珠から護符でも貰っているのでしょうけど、反省なさい青子。
切札というものは、あくまで自己の力によるものを言うのよ”
　くっ、と口端をつり上げて橙子は左腕を構えた。
　なぎ払うように、胸の前で水平に。
　残り十メートル。
　本来なら不可視の青子の<位置|すがた>は、不運にも足跡が十分に示していた。
「<[swel]|ソウ>―――」
　ルーンの呪詛を<刻|きざ>む橙子。
　それより早く、青子の足跡はぴたりと止まった。
　格闘戦を行うにはまだ遠すぎる。
　あの位置で止まるのはあまりに不可解。
　いや。それ以前に、あのスピードで急停止などできるものだろうか……？
“跳んだか―――！”
　一瞬の判断。
　水平に構えられた橙子の腕が、月を<仰|あお>ぐよう上空に向けられる。
「<[swel]|ソウェル>―――！」
　大気を<滑|はし>る、<劫火|ごうか>の導線。
　<刻印|ルーン>は空中の見えざる人体に<刻|きざ>まれ、わずか一秒で炎を巻き起こした。
　内部からの魔術抵抗は意味をなさない。
　ルーンは対象を燃やしたのではなく、対象を炎で包み込んだのだから。
　悲鳴をあげて雪原に落ちる襲撃者。
　<苦悶|くもん>に荒れ狂う体、助けを<乞|こ>うように<掲|かか>げられる手は、夢に出てきそうなほど見苦しい。
　炎は消えず、積もった雪を溶かしながら、襲撃者は息絶えるまであぶられ続ける。
　チチチ、チチチと。
　青子らしからぬ、あまりにも大げさな<三流芝居|だんまつま>をあげながら。
「――――――」
　橙子の視線は、既に有珠に向けられている。
　燃えカスなどはじめから見てはいない。
　橙子は<ソ|・><レ|・>が無抵抗に落下した時から、青子ではないと判断していた。
“チッ、マインスターの使い魔は何匹いる…………！”
　<苛|いら>だたしげに舌打ちしつつ、橙子は有珠を凝視する。
　たしかに青子の姿は透明化していた。
　ただし、本人は一歩たりとも動いてはいない。
　青子が立っていた地面には、青い円陣が回りだしている。
　それは魔術刻印を動員した、<四小節の大魔術|フォース・トゥ・フォース>。
　<一工程|シングルアクション>のルーンしか―――
　いや、そもそも二小節以上の魔術を修得できない橙子にとっては、太刀打ちできない魔力の奔流―――！
「―――<[eywz]|エイワズ>！」
　円陣の上に、ルーンの軌跡が刻まれる。
　<退去|エイワズ>のルーンで青子にかかった姿隠しを解呪し、橙子は<角|ひ><膜|とみ>を切り替える。
　新たに開かれる<瞳|もの>は、見たものを眼球内の無限地獄に捕らえる、合わせ鏡の積重魔眼―――！
「っ……！？」
　だが、魔術師の視線は文字通り<両|・><断|・>された。
　青子の前の空間が歪んでいる。
　夜気は霧のように重なり、青子の姿を<被|だぶ>らせている。
　橙子の魔眼が合わせ鏡なら、あれは三角点に置かれたマジックミラーだ。
　橙子の位置からでは視界が二つに別けられ、正面の<像|あおこ>を視認できない……！
「午睡の鏡の効果よ、橙子さん。
青子は鏡のＹ字路の奥にいる。一本道から見ている貴女に、中心は見渡せない」
「……！」
　いつかの逆転とばかりに有珠は言い捨てた。
　有珠自身、橙子に飲まされた薬草によって魔術は使えない。
　だが、既に起動しているプロイたち……洋館の『鏡』と、無駄に動き回る青い鳥は、彼女の魔力がなくとも最低限の機能は果たせるのだ。
　そして、暴風の<魔弾|まだん>が<装填|そうてん>される。
「<接続|セット>―――<刻印|ルート>、<交流数紋|ディレクト・カーラント>」
　右腕を<掲|かか>げ、<光|ひ><芒|か>る刻印をあらわにし、青子は三十メートル先の標的を見据える。
　<砲|う><身|で>は十分な魔力に満ちている。
　有珠の姿隠しを受けた瞬間から、青子は魔術の詠唱を始めていた。
　橙子が気付くまでの数秒間。
　最速の手順で形成し、起動させた魔術回路の回転数は自己ベストを超えている。
　<一工程|スナップ>でも<二|ド><工|ロ><程|ウ>でもない、三工程以上の<魔力圧縮|マジック・ブロウ>。
　生成され、目前に集められて渦巻く青いエーテルは、単純に撃ち出すだけで１０トン相当の質量。
　これを魔術刻印によって加工し、相乗に相乗を重ねて掃射すれば、背後の旧校舎さえ粉砕できる―――！
「橙子――――――！」
　覚悟、とばかりに青子は姉を見据えた。
　橙子には対抗する時間も、回避するだけの<移動力|あし>もない。
　それを誰より理解しているのか、彼女は驚愕のまま動かなかった。
　<怯|おび>えはなく、敗北を悟った自責の瞳。
　それに青子は躊躇する事なく、右手の引き金に力をいれた。
「<魔弾|ツアー><形式|プラン>、<収束|スター><投射|マイン>―――回路、放て………！！！！」
　叫び声にも似た最後の一節。
　撃ち出された架<空要|エーテル>素は仮初めの熱量となって、降り積もった雪を波と散らす。
　―――橙子を飲みこむ、圧倒的なまでの土砂。
　できうるかぎりの魔力を用いた青子の魔弾は、逃れようのない死の一撃となった。
　その衝突を目の当たりにして、青子は自分の勝利を受け入れた。
　……どこか、苦い感情と共に。
　―――そして。
　自らを飲みこんだ魔力の<奔|な><流|み>を後にして、橙子は青子の甘さに舌打ちした。
　青子とは真逆の、失望に満ちた苦さと共に。
「学ぶにしては遅すぎたが、まあ聞いておけ青子。
　切札というものは、先に出した方の負けなんだよ」
　超然とした声には、何のダメージも見られない。
　雪原に立つ魔術師の<外套|コート>には<煤|すす>一つない。
　―――<渾身|こんしん>の魔弾は、橙子の体に触れる寸前で、同位の魔力によって周囲へと<弾|はじ>き飛ばされたのだ。
「――――――」
　その光景を、青子はただ見つめていた。
　自身の魔術の消滅を、ではない。
　悪夢でも見るように、姉の背後に浮遊するモノを凝視する。
　橙子の背後に現れた、<夥|おびただ>しいまでの魔術刻印を。
　……それは一瞬の出来事だった。
　大波となって押し寄せる魔弾を前に、橙子は軽やかに右指を鳴らした。
　途端、背後からざあ、と音をたてて幾多もの文字が羅列されていったのだ。
　<言葉|テキスト>は<美術|アート>となり、金色の花に成った。
　おそらくは数百の。
　西欧だけに留まらない、多種多様な魔術の<群像|カタチ>。
　本来、魔術師の肌に刻む筈の、
　本来、蒼崎橙子には無い筈の、
　本来、その門派の後継者しか知らない筈の、
　月光より鮮やかに咲く魔術刻印。
　それは橙子を守る<守護の獣|トーテムポール>となって、彼女の背後の空間に刻まれていた。
　―――詰まるところ。
　魔術とは人智であり世界であり、
　魔法とはそれらに含まれない、<埒|らち><天外|てんがい>の孤独である。
　……はじめの一つは全てを変えた。
　……つぎの二つは多くを認めた。
　……受けて三つは未来を示した。
　……繋ぐ四つは姿を隠した。
　そして終わりの五つ目は、とっくに<意義|せき>を失っていた。
　三つ目で終わっていれば良かったのに、と誰かが言った。
　魔術とは歴史の研鑽。
　人の手による<業|わざ>と、星の元に<巡|めぐ>る命だ。
　けれど魔法は<天|てん>の<外|そと>の神の摂理。
　人にも星にも含まれない<業|わざ>を、一体地上の誰が、どうして、奇跡と<讃|たた>え<尊|とうと>ぶものか。
　明白な罪科。
　魔法とは、人類の敵そのもの。
　故に―――
　<新|あら>たに魔法を<宿|やど>したものは、その赤い影に殺される。
「―――<聴|き>け、万物の霊長」
　声は高らかに、冬の空に響き渡る。
　空間そのものに走る断裂。
　周囲の<風景|カタチ>が軋んでいく様は、<伽藍|がらん>の崩壊を思わせる。
「――――――」
　撤退すべきか、それとも戦うべきか。
　橙子は<逸|はや>る気持ちを抑えながら、無様にも事の<顛末|てんまつ>を見届けてしまう。
　長年の苦悩―――これまで追い続けてきたモノを前にして、合理的な判断などできよう筈がない。
　互いの命運は、今や不確定にたゆたっている。
　背後の魔術刻印と地形の有利性から、橙子の戦力は青子の十倍強。負ける道理はない。
　だが魔法は別だ。
　仮に、蒼崎の魔法が久遠寺有珠の“童話の怪物”と同系統のモノなら、術者の力量差は関係ない。
　その時は“魔法”と“蒼崎橙子”の戦いになる。
　……勝ち目はない。
　魔法の特異性、超越性は、魔術の技量差など吹き飛ばしてしまうだろう。
「―――だが」
　本当に使えるのか、と橙子は妹を凝視する。
　今の宣言には力がなかった。
　高らかに声をあげながら、あるのは自制心だけで、何者をも代償にする<傲慢|つよさ>が存在しなかった。
　魔法を身に宿すとはどのような事なのか、選ばれなかった橙子には分からない。
　だが世界を変えるという暴挙。
　星を敵に回す<不遜|ふそん>に、人の精神が耐えられる筈がない。
　迷いがあるのなら尚のこと、あの少女には魔法の力は重すぎる―――！
「―――そりゃあ、ね」
　橙子の視線を受けて、青子はひとり自嘲した。
　迷いは晴れない。
　胸の恐れが消える事なんてきっとない。
「―――でも、だからって」
　いつまでも逃げる訳にはいかない。
　迷いも恐れも消えないからこそ、そんなもので立ち止まる自分が許せないと。
　瞳を閉じて、彼女は最後の工程に身を投げた。
　光を閉ざすように、時を止める。
　そして、彼女は自己の闇へと埋没した。
　何もかもが止まったまま過ぎていく。
　彼女以外のすべてが途絶えた、果てのない星の運河に。
　途端。
　何の答えもなく<彼|コ><方|コ>に訪れた浅はかさに、消えたくなる。
　　　　　　　　　　　　　　　―――ああ、また。
　今度こそ、あの赤い影がやってくる。
　不意に、
　　　　　新しい記憶を見た。
　他者を媒介にして　　を交換しようとした結果だろう。
　ワタシは、聞いた事もないクセに、慣れ親しんだその音を聴く。
　　　　　　　　
何も望まないように。
　　　　　　　　何も求めないように。
　今はゼロに向けて逆行する意識を、
　　　　　　　　　　　　　一つに統合しなくてはならない。
　こんな音。
　こんな、悔しくて涙がでそうな戯言に、
　　　　　　　　　　　後ろ髪を引かれている場合じゃない。
　そもそもワタシの最大の問題は、あの赤い幽霊で―――
　　　　　　　
生の価値も覚えてはいけません。
　　　　　　　死の<尊|とうと>さも、考えてはいけません。
　音は続いていく。
　それはこの旅路に組みこまれている物ではなく、
　　　　　　　　　　　　　　外部からの妨害に他ならない。
　なのに、ここまで自分の心を乱す音の正体を、
　　　　　　　　　　　　　　　　ワタシはようやく悟った。
“……なに、それ”
　不快げな呟きは、音の主に向けられたものだった。
　もしくは、その声をおとなしく聞いている誰かに対して。
　赤い影は戸惑っている。
　答えも覚悟も持ってこなかったワタシを、憎悪に満ちた目で睨んでいる。
　オマエは、まさか。
　まさか、<そ|・><ん|・><な|・><理|・><由|・><で|・>。
　そんな思いつきで、ワタシの獲物になるつもりか―――！
　　　　　　　　
それが貴方の全てです。
　　　　　それ以外、貴方には何も無いのです。
　巻き戻しの影響―――否を許さない断定。
　彼の一番だった頃―――あまりにも意味のない人生。
　それを彼女は打ち消した。
　彼にとって絶対の<原則|もの>であるその音を、さらに上回る力強さで。
　邪魔だ、と目の前の蜘蛛の巣を払い除けるように。
　音は千切れ、また違う音が耳に響く。
　　　　　　　　　／何も望まない。
何も欲しくない。
　断定に従う、無垢な心。
　　　　　　　　／だから、
何を与えられる事はない。
　肯定が導く、不実の命。
“……あんまりにも、バカげてる”
　<未|ま><来|え>を目指す足が止まる。
　ワタシは思いつきで<航|み><路|ち>を変える。
　大事なものが変わったというより、ひどく頭にくるコトができてしまって、なんて言うか―――
“こんな物が過去だって言うの、アンタは……！”
　誰かに、文句の一つでも言わないと気が済まない……！！
　声の主か、それを聞き届ける彼か、
　それを黙って見ているだけの自分か、
　それとも、彼をそうしてしまった何者へか。
　答えは出ないまま、ワタシは閉じた<目蓋|まぶた>を開いて―――
「―――告げる」
　引き上げてきたものを解放する。
　何を見てきたのか、何があったのかなど、青子の記憶には残っていない。
　あるのは心臓を<昂|たか>ぶらせる激情だけ。
　自分でも正体の分からないものに押されて、彼女は魔法のフタを開く。
　変化は劇的だった。
　少女の足下の雪が消え、緑の地面が<覗|のぞ>いていく。
　それは雪解けによるものではなく、まったく別の風景に書き換わったものであり、
　それを批難するように、あらゆる要素が、彼女の行為を消しにかかる。
「っ、―――」
　放電は彼女自身をも許さない。
　その奇跡は世界を壊すと。
　自らの保身の為、世界自身が彼女の抹殺に動き出す。
「っ、―――！」
　全身の細胞を焼く痛みに、意識が現世から消失する。
　だが怯まない。
　この痛みもこの孤立も、全ては生身のまま根源に至る為。
　魔法を継いだ時から、この程度の責め苦、彼女は何度も超えてきた。
「――――――」
　声なき声をあげて、<宇|ソ><宙|ラ>の在り方と拮抗する。
　負荷は彼女の<網膜|もうまく>も神経も焼き捨てる。
　その果てに、
　光を見た。
　何の為に戻ってきたのか。
　何を叫びたいのか、彼女はようやく思い出し―――
「<秩序|あお>を示す我が<銘|な>において告げる」
　止めろ、と<正|ただ>す声がする。
　忘我の果てに魔法の正体に手が届く。
　それでは意味がない、と牙を伸ばす赤色の影がいる。
　多くの迷い、多くの怒り。
　けれどそんなもの、彼女には／ワタシには関係ない。
　魔法使いの責務とか、これで人類滅亡とか勝手にしろ。
　いいかげんもう聞き飽きた。
　いま、私が指を動かす理由はたった一つ。
つまり、なんていうか、口にするのもどうかと思うけど―――
　私はこんなにも、コイツを助けたがってる……！！！！
「―――<全て|not,>は<正し|SANE>く」
　沸き上がる青い旋風。
　迷いも<憂|うれ>いも捨てさった瞳で、魔法使いは世界を相手にペテンを始める。
　逆行する時間。
　書き換えられる原風景。
　見れば、それは白い花だった。
　雪よりも真白い野花の<群|むれ>は、さざ波のように世界を侵食していき、そして―――
「―――秩<序|five>は、こ<こに崩れ落ち|　timeless words>た」
　宣言通り。
　五番目の魔法が、この時間、この領域にだけ、その姿を現した。
　人里離れた雪の広場は、<瞬|またた>きの間に変貌した。
　一面に咲き誇る白花の海。
　周囲にある裸の木々と朽ちた旧校舎だけが、ここが元の世界である事を告げている。
　冷たい風もこの野原では暖かだ。
　見上げる夜空すら、満天の星の夜に戻っている。
　手を伸ばせば届きそうなほど近い星の明かり。
　淋しさも心地よさも混ざり合った、虫の羽音と夜の<囁|ささや>きだけの孤影。
　人の営みを<排|はい>した、<穢|けが>れも<悼|いた>みもない風景。
　何もないけれど、同時に何も必要としない世界。
　……そしてそれが、彼の一番だった頃。
　冬の荒地を、春の草原に変えてしまう。
　それが青子の言う『魔法』だという事に、橙子は呆然としていた。
　これはこれで悪くはないが、彼女の見たかった『魔法』は断じて、こんなロマンチックなだけのものではない。
　何か大がかりな術式を展開したようだが、周囲の<魔力|マナ>に変化もない。
　拍子抜けもいいところだ。久遠寺有珠のフラットスナークに比べれば<児|じ><戯|ぎ>に等しい。
　変わったのはこの花園と、あの―――
　出で立ちの変わった青子だけ。
　自身の肉体に何らかの<強化|ブースト>をかけたと見るべきだが、今の青子では何をしようと橙子には及ばない。
「……たしかに、魔法といえば魔法だが」
　呟きには微かな苛立ちがある。
「あいにくと、お互い夢見る年頃ではないんだ。
　まさか、それで終わりではないだろう？」
　青子は花の海を歩き始める。
　向かう先は、遠方にいる橙子に他ならない。
「いえ、これでおしまいよ。私も、貴女も」
　短く返された言葉に、橙子は微妙な違和感をおぼえた。
　今の声は、青子とは違う気がする。
　声質はほぼ同じだから、口調が違うのだろうか？
　いや、それも同じだ。
　どこか違うとしたら、それは………。
「――――――！」
　そこで、橙子はもう一つの変化に気が付いた。
　変わったのは広場と青子だけではない。
　青子の足下、二つになっていた死体が復元している。
　死者の蘇生？　傷の治療？
　そんな大がかりな術式を施した様子はないし、何より、体を復元したところで“死”は<覆|くつがえ>らない。
　古来、死者の<完|・><全|・><な|・>蘇生は魔法ですら叶えていない。
　だが―――青子の背後で倒れている青年が、意識がないまま呼吸をしているのはどう説明する―――！？
“死者の蘇生が蒼崎の魔法……？
　いや違う。あれは蘇生というより……”
　その答えが出るより早く、橙子は違和感の正体に気が付いた。
　先ほどの青子の仕草は年相応のものではなかった。
　わずかな外見の変化より、留意すべきは中身の変化だ。
　まさかの結論に達した時、青子は橙子との距離を残り十メートルまで詰めていた。
「―――<回路|タービン>、<接続|セット>」
　その左手が、目の高さまで上げられる。
　青子の体内で生成される魔力量が目に見えて……いや、耳に聞こえるほど違う。
　橙子ですら聞いた事のない快音。
　青子のソレは、<凡夫|ぼんぷ>の魔術師に見られる、単一機能しか持たない低級魔術回路だ。魔力の生成量は橙子を遥かに下回る。
　だがあの速度は異常にすぎる。
　あきらかに血流の速度を上回っているし、なにより―――
　魔術による<振動|おと>ならともかく、<た|・><だ|・><魔|・><術|・><回|・><路|・><が|・><起|・><動|・><す|・><る|・><だ|・><け|・><で|・><波|おと>をあげるなど、協会でも聞いた事がない―――！
「我が目前に勝利ありき―――」
　<悪寒|おかん>に<急|せ>かされるよう、橙子は中空にルーンを刻む。
　青子が仕掛けてくるであろう魔術を防ぐため<勝利|トゥール>の加護を張り、さらに刻印の力で強化し、障壁としたのだ。
　対して、青子は意にも介さず、照準を合わせる為に腕をあげる事もなく、
「―――魔弾、展開」
　短く、自分自身に命令した。
「！！！？」
　魔術の起こりさえ見えない。
　一言で放たれた魔弾は実に二十発。
　それは流星のように、ロケット弾すら弾くルーンの壁を溶解し、蒼崎橙子の<礼装|コート>を撃ち抜いた。
「っ、装填ではなく展開だと―――！？」
　<礼装|コート>にかけてある防護のルーンが悲鳴をあげる。
　あの掃射をもう一度受ければ<保|も>たない。
　それ以前に、今の直撃で間違いなく<内臓|かいろ>に傷が入った。
　認めたくはないが、直接的な火力において蒼崎青子は蒼崎橙子を上回っている。
　さらに認めがたいのは―――おそらく、あの女はまだ<本|・><気|・><に|・><す|・><ら|・><な|・><っ|・><て|・><い|・><な|・><い|・>……！
「<[ansz]|アンサズ>、<[swel]|ソウェル>、<[ingz]|イングズ>ッ！」
　橙子は跳びのきながら中空にルーンを描く。
　一喝に応じて刻印は炎へと転じていく。
　だが。
「―――<古|おそ>いっ！」
　それを、青子はただ一言で打ち消した。
　ルーンは意味を持つ前に砕け散る。
　単純に、ルーンをカタチにする橙子の魔力より、彼女の言葉の力が上回ったのだ。
　ルーンを無効化し、青子は白い花園を突き進む。
　その<表情|かお>も、安定した魔術回路の働きも、息遣いさえ今までの彼女とは違う。
　それは多くの戦闘経験を得た者にしか出来えない、最適化された自己管理だ。
「―――あれは、<経験|じかん>か―――？」
　それが蒼崎の魔法の正体だとしたら、たしかにすべてが<符|ふ><合|ごう>する。
　青子の魔術回路が増幅されたのではない。
　そもそもそんな事は出来ないし、橙子のように外付けにしたところで、増えるのは魔力の総量と使用可能な術式だけ。
魔術師自体の資質、魔術回路の純度は変わらない。
　だが、今の青子は明らかに<魔|・><術|・><師|・><と|・><し|・><て|・>蒼崎橙子を凌駕している。
　ならば答えは一つ。
　あの見習い魔術師は一瞬で一人前の魔術師に成長―――
　いや、自身の<時|・><間|・><を|・><早|・><送|・><り|・>したのだ。
「っ―――！」
　青子に背を向けて、オレンジ色の魔術師は走りだした。
　<こ|・><こ|・>では勝ち目がないと直感し、旧校舎に逃げこんでいく。
　その背中を青子は狙わなかった。
　情けからではなく、冷静に、この距離からでは仕損じると判断して。
　逃すまいと青子は身を乗り出し、はた、と思い立ったように足を止めた。
　……言葉にするのは少し迷う。
　彼女は小さく息を呑んで、
「アリス。そいつ、お願い」
　大人びた声を恥じるように、そんな言葉を口にした。
　白い花が散っていく。
　青子は振り返らず、長い髪をなびかせて橙子の後を追っていった。
「―――あれ？」
　ぱちり、と軽快に<目蓋|まぶた>が開く。
　<永|なが>い休眠から草十郎は目を覚ました。
　仰向けに寝っころがっているらしく、視界にはいっぱいの星空が広がっている。
　木々によって形作られた円形の空。
　それは初めて見たものなのに、
　久しく忘れていた景色に見えて、居心地が悪かった。
「――――――」
　どうにも自分が確かではない。
　眠る前に何をしていたのか、
　どうして眠っていたのか、
　キレイさっぱり記憶にない。
　これから出かけようと玄関をすぎた直後、目を開けたらベッドにいたような気分だ。
　前後の出来事が無さすぎて、自分が何者であるのかさえ、すぐには思い至らない。
　思い出せるのはただ、
　見たこともない女の人と、
　首にかかった細い
「静希君」
　真横から誰かの声……低いのによく通る声は、たしか、久遠寺有珠という少女の物だ。
「そういえば、そうだった」
　脈絡のない呟きと共に、草十郎は体を起こす。
　目を覚ました彼の横には、黒衣の少女が正座していた。
「……花だ」
　<傍|かたわ>らの有珠を見ず、ぼんやりと口にする。
　……<蒼|あお>い月明かりの下、枯れた木々と雪原に囲まれて、春の花園が<揺|ゆ>らめいていた。
　夜風に散る花びらは蝶のように、白い身を闇夜にくっきりと浮かびあがらせる。
　長く、その光景を見つめて、草十郎はそっと首に指を置いた。
　はじめは、傷口に触れるように恐る恐る。
　あとは、握りこむように、強く強く。
「―――静希君」
　その暗転を止めたのは、傍らの少女の声だった。
「せっかく戻れたのに、またいくの……？」
　問いかけの意味を、草十郎は掴めなかった。
　批難と哀しみの混じった声。
　その、有珠らしからぬ眼差しに責められて、彼は無意識から解放された。
「いくって、どこに」
　首から落ちる指。
　有珠は答えず、無表情に空を見上げた。
　そこにあるのは、ただ暗いばかりの――――――。
「……ま、いいや。それより俺は何をしてたんだろう。
　なんかヘンだ。ごちゃごちゃしてる」
　はて、と首を傾げる草十郎を、有珠はじいっと観察する。
　さっきの人狼を一蹴した少年と、こうやって呆けている少年はまるっきり別人で、そのくせ、まるで違和感がない。
　その不思議を見抜こうと少年を見つめるのだが、納得いく答えは出ないだろう事も、なんとなく有珠は認めていた。
　そうして問いかける。
　彼が眠っていた間、遠く離れた彼女が何度も繰り返して、しまいには怒って止めてしまった、その問いを。
「……今まで、静希君は何をしていたの？」
　静かな問いかけは、旅人を魅了する魔術に等しい。
　それに魅了されてか、草十郎は記憶の海に沈みこむ。
　沈黙の間、ふたりは兄妹のように、白い丘に<佇|たたず>んでいた。
「……誰かの声が聞こえた気がする。
何かを訊いているようだった。けど、自分は最後まで、一言も返せなかった」
　死中の闇において繰り返された問いを、彼はおぼろげに思い出した。
　死んでいた事すら分かっていないが、彼女の時間と交差した断片は残っているようだ。
　草十郎は悔いるように顔を<曇|くも>らせる。
　その横顔に有珠は静かに問いかける。
「……それで、欲しい物は見つかった？」
　それが『誰か』に訊ねられていた事だと思い出して、彼はかすかにうなずいた。
「……ああ、そうだった。
けれどね、有珠。そんな物は、見つからないって思っていたんだ。
　……うん。ずっと、そう思っていた」
　悔いる声には、かすかな強さが混じっている。
　見下ろす白い花園は、死者を迎える<彼岸|ひがん>のようだ。
　それが、少しだけ草十郎には<眩|まぶ>しかった。
「思い出した。青子の前でざっくりいったんだっけ。
　なのに生きているのは、どういう事なんだろう」
　不思議そうに体を触る草十郎。
　両腕も完全に元のままで、肝心の青子の姿はない。
　答えを求めて有珠に視線を向けると、彼女は座ったままで、どこか拗ねるように、
「巻き戻されたのよ、静希君は。
　この風景も本来は貴方の記憶だけど、わからない……？」
　などと、おかしな言葉を口にした。
「俺の、記憶って……そのわりには、知らないところなんだけど」
「いま静希君の時間は青子に使われているから。それが戻されるまで思い出す事はないわ」
　物騒な返答をして、有珠は花園を見渡した。
「……でも、これが消えてしまうのは残念ね。
　元に戻れば、思い返せるのはわたしだけなのに」
　一瞬だけ瞳を細めて、有珠は白い花々を見る。
「…………」
　彼女の言葉は、草十郎にはやっぱりさっぱり。
「有珠。君、答える気がないんだろう」
　草十郎の声に、有珠はつい、と振り向いた。
　深い瞳は、どんな感情を秘めているかも分からない。
「意味のない話だけど、聞きたい？」
「聞きたい。有珠が教えてくれるなら尚更だ」
　力強くうなずく草十郎に、有珠はそう、とため息まじりに目を閉じた。
　それでも口を開いたのは、草十郎を嫌っての事ではなく、彼女なりに気を遣っているからだろう。
「……結論だけ言うと、貴方は一度死んで、生き返ったの。
　静希君が橙子さんに殺されてから、青子が目を覚ますまでの五分間分の時間を巻き戻して。
　その時、貴方は十年近い年月を青子に使われた。
　二人とも肉体年齢は変わってないから、<精神|なか>の時間だけ持っていったんでしょうね。
　だから今、この景色を懐かしく思えるのは青子だけ。
　そして…………」
　そして、時間の交換が終われば、この数分たらずの出来事は、青子と草十郎の記憶から失われる。
　青子ひとりだけの変化ではなく、他人を媒介にした魔法の結果だ。
　青子ひとりでの逆行であれば、時間軸の矛盾もふくめて彼女の経験になるが、今回は<ま|・><っ|・><と|・><う|・>な時間旅行である。
　矛盾はきちんと修正される。
　いずれ魔法が解ければ、
　此処を懐かしく思った青子も、
　此処を初めてと感じた草十郎も、
　なかった事として修正される。
　この奇跡。
　白い花の海を覚えていられるのは、第三者である有珠と橙子だけになる。
「……時間を、持っていく……？」
　ますます首を傾げる草十郎に、有珠はとりあえず形だけ説明する事にした。
　理解してもらえなくても、概要を説明してあげれば草十郎は聞き返してこない、と青子が言っていたのを思いだして。
「静希君を生き返らせる方法はなかったから、生命の復元より、死そのものの回避を青子は<試|こころ>みたのよ。
　まだ青子には無理なのか、それとも、今回も<日|ひ><和|よ>ったのか。
　大きな操作は避けて、小さな操作―――自分と貴方だけの交換に<留|とど>めたようね」
「貴方はいま、五分間だけ時間を跳んだ事になるわ。
　仮に、遠い未来、この時間を検索できる人がいたとしても、貴方だけは誰にも見つけられない。だって、時間軸の上にいなかったんですもの」
「そして同時に、青子は自分の時間を上乗せするために、貴方から時間を借り受けた。
　たぶん幼年期の時間でしょうね。個人の時間操作は、忘却している部分の方が楽だと聞くし……静希君？」
　もうこの辺で止めておく？
　という有珠の視線に、頷く事しかできない草十郎だった。
「……つまり、二つの奇跡を青子は行使したの。
　貴方の体の巻き戻しと、自分の体の早送りね。
　静希君の時間に介入する際、ついでに十年分の時間を借り受けて、未来の自分を持ってきた」
「だから、いま橙子さんを殺そうとしているのは<二|・><十|・><七|・><歳|・>分の<経験|じかん>をもった蒼崎青子という事になるわ」
　……だから、まったくちんぷんかんぷんなんだ、有珠。
　そんな感想を表情で示しながらも、橙子に関する説明に草十郎は眉をひそめた。
「……橙子さんを殺すって、青子が？」
「もう、終わってるでしょうけど」
　有珠の返答に、草十郎は即座に走りだした。
　白い花びらを散らしながら駆けていく姿は、人狼と対した時の勇ましさを思わせる。
　有珠は引き止める事もせず、ただその姿を見続けた。
　……ある雪の日の夜。
　誰かのために白犬塚の坂を駆け下りていったであろう、少年の姿と重ねながら。
　草十郎は旧校舎に入っていく。
　先ほどから破滅的な音と光が<乱舞|らんぶ>し、<瓦解|がかい>寸前の<墓標|ぼひょう>となった場所に、戸惑う事もなく。
「―――ほら。
　悪いけれど、やっぱり無駄だったわ、青子」
　白い花の中でひとり呟く。
　青子はこうなる事を予期して、草十郎の足止めを有珠に託したのだ。
　橙子との交戦中に割って入られたら、今度こそかばいようがないと。
　が、青子の見事なまでの草十郎の把握ぶりもこうなっては後の祭りだ。
　追いかける気にもならず、
　黒衣の少女は細い眉をかすかに曇らせて、消えていく花園の中で<佇|たたず>むのだった。
　飛び交う<電刃|でんじん>を、暴風の如き<魔弾|まだん>が叩き伏せる。
　魔術師にとって、拠点とする<工房|アジト>は始まりにして最後の切札である。
　<不遜|ふそん>な挑戦者、<不埒|ふらち>な盗人を切りきざむ為、<幾重|いくえ><数多|あまた>の防衛術式が張られている。
　この旧校舎もその例に漏れず、希代の人形師にしてルーン使いである蒼崎橙子の手が入っていた。
　彼女の<偏執|へんしつ>的なこだわりを反映させた<工房|ソレ>は、訪れるものを人魔区別なく<鏖殺|おうさつ>する。
「っ、足止めぐらいは果たせバカモン―――！」
　廊下を走りながら、橙子は廊下に組み込んだトラップを起動させていく。
　だが、その一切は通用しない。
　質、<量|りょう>問わず、十や二十のルーンでは、あの小娘を止める事さえ出来ない。
　卓越した運動神経と攻撃予測、
　両手にまとった魔弾の威力は、橙子の用意したルーンを壁ごとぶち抜いて余りある―――！
「それで一人前のつもりか単細胞め―――
　熟成したところで壊すコトしか出来ないとは、呆れたな！」
　<罵倒|ばとう>と共に天井が開き、ルーンによる重圧がかけられる。
　廊下は不可視の壁に、
　ゼラチンと化した大気を前に、青子は走る足を止め、右足を跳ね上げた。
　まさに<天墜|てんつい>。
真一文字に蹴り上げられた足は大気を裂き、そのままルーンごと天井を粉砕する。
「アンタの方こそ、いつまでたってもこの凝り性……！
　どこもかしこもルーンだらけ、少しは遠慮ってもんがないの！？　宇宙要塞ばりに改造してんじゃないってぇの！
　みんなの思い出の校舎なんだから、もっと大切に扱いなさいよね！」
　くたびれた板張りの廊下を、
　何十年と風雪に耐えてきた壁を、<木|こ>っ<端|ぱ>と散らしながら青子は走る。
　ごく当然の惨劇である。
　橙子のルーンはあくまで対人に効果を発揮する“呪い”だが、青子の魔弾は何であろうと分け<隔|へだ>てなく<猛威|もうい>を振るう。
「っ、<優雅|ゆうが>さの欠片もない！
　あんなのが自分の妹だと思うと―――」
　吐き気はしないまでも全身の血を交換したくなる橙子だが、今はそれどころではない。
　追ってくる少女は先ほどまでの蒼崎青子ではなく、“完成した”蒼崎青子なのだ。
　髪の毛一本ほどの油断も許されまい。
　だが―――
「笑わせる。そんなものが魔法であるものか！」
　個人限定の時間旅行―――それが蒼崎の魔法の正体などとは、橙子は思っていない。
　青子の変化はあくまで魔法の副産物だ。
　魔法の正体、その深淵に<青子|アレ>が届いたかまでは測れないが、決して、そんな単純な奇跡ではない。
　なぜなら―――時間旅行の概念は、既に第二魔法に含まれている。
　記録の<改竄|かいざん>、<事象|じしょう>の書き換え等は、すなわち並行世界の運営にあたる。
　いまさらそんなものが第五魔法と呼ばれる筈もない。
「―――となると、次に出てくる疑問はこれか。
　青子！　貴様、その十年分の時間をどこから持ってきた！」
「あのボンクラからよ、悪い!?
　後で返すんだから、アンタに批難される覚えはありませんけど！」
　そう、それはいい。
　一方的ではあるが、この時間軸での時間の総量は変わっていない。
　だが―――
「では、あの五分間はどうする!?
　まさか私を始末した後、彼を元の状態に戻すのか!?」
　青子の足が止まる。
　蒼崎の魔法の矛盾と、青子の人間性の矛盾。
　二つの隙が、橙子に反撃の<狼煙|のろし>をあげさせる。
「そうだ。時間操作では死者の蘇生は許されない。
　おまえがしたコトは一時だけの気休めか―――」
　橙子の背中の魔術刻印が、その真価を発揮する。
　刻印からの魔力提供を受け、廊下に仕込まれた最大の仕掛けが物質化する。
「―――あるいは、より<罪|つみ>深い<暴虐|ぼうぎゃく>というコトだ！」
　現れる三枚のルーン石。
　その規模も込められた魔力も、これまでのモノとはケタが違う。
　これこそ北欧の巨人の<御業|みわざ>、
　蒼崎橙子が魔術協会で復元・分生させた、失われた“原初のルーン”のレプリカである。
　三枚の水晶膜は刻まれたルーンを一千万規模に膨張させる。
　魔弾による相殺など許さない。
　青子の出力が橙子を遥かに上回るものだとしても、この巨石はさらに数倍。
『魔力を放出する』だけの青子の魔術特性では、この呪いを防ぐ事も躱す事も出来はしない……！
「―――<主|メ><観|イ><軸|ン>、<固定|セット>」
　短い自己暗示と、意を決する深呼吸。
　青子は防ぎもせず避けもせず、ルーンの嵐へと突進する。
「貴様―――この時間軸に存在していないな!?」
　やはり、と得心しながら、橙子は魔術刻印をフル稼働させる。
　青子にルーンが作用しないのは、アレが今も秒単位で時間旅行を繰り返しているからだ。
　着弾したルーンをいずこかの時間に跳ばしているのか、
　それとも、何千という“<自分|たて>”を重ね着しているのか。
　どちらにせよそんなデタラメ、魔力が続くはずがない……！
「一枚目！」
　巨石が文字通り一蹴される。
　残りは二枚。距離にして十メートル。
　橙子の魔力残量は十分だ。刻印を使い果たすが、十秒は掃射を続けられる。
　対する青子は、魔術師としての常識で考えるのならここで打ち止め。
　これ以上の反則は行えまい。
　だが―――反則と言うのなら、それは時間旅行の段階で反則である。
「青子―――！」
　同じ展開が繰り返される。
　橙子の疑念は、ここに至って憎悪に変貌した。
　時間旅行の術式などどうでもいい。
　問題はあの魔力量。
時間旅行に必要なだけのエネルギーを、あの女はどこから捻出しているのか……？
「やはりそうか。おまえは―――！」
　静希草十郎の死。
　彼を、まだ生きていた頃の五分前に戻したというが、では、その五分間はどこに行くのか。
　青子の魔法は、世界そのものを書き換える“並行世界の運営”ではない。
　青子は『草十郎の五分間』だけを巻き戻した。
　が、それでは魔法が切れた時、彼が死体に戻るのも道理。
　世界を換えずに行う時間旅行では、そもそも過去を変えられない。
　……故に。
　彼を救いたいのなら死者を蘇生させるか、
　それとも―――現実にあった<五分間|エネルギー>を、このままどこにも還さず、遠い場所に<棚|たな>上げしておくしかない―――！
「二枚目！」
　青子の進撃は止まらない。
　橙子は憎しみをもって、最後の<巨石|まもり>の後ろで青子を睨む。
「答えろ青子！　貴様、彼の時間をどこにやった！
　そこにあった熱量の帳尻を、どうやって合わせている！？」
「っ、そんなの知るか！　アイツの時間なら、遥かな未来に<措|お>いてきたわよ！」
「な―――」
　あと五メートル。
　肉薄するデタラメに、橙子は目を<覆|おお>いたくなった。
　いま<現在|ここ>で作った負債を、未来に<措|お>いてきただと？
　タイムパラドックスの方がまだ人道的だ。
　そんな膨大な、無計画な熱量の消費を許してはならない。
　そも、時間旅行だけでも膨大なエネルギーを要する。
　ここに無いものを持ってくる事にも魔力は必要だが、
　それと同じに、ここに有るものを“無くす”事にも莫大なエネルギーが<消費|うしな>われる。
　その冷却に使われた魔力はどうする？
　プラスにしろマイナスにしろ、それは秩序の崩壊だ。
　魔法の作る<歪|ゆが>みは、いずれこの<宙域|ちゅういき>すべてに及ぶだろう。
「ば―――バカここに極まったな！
　何千億年後にくる宇宙の死滅、人類の行く末に待つ<どん詰|デッド><まり|エンド>に、さらなる負債を押しつける気か!?
　この星の頭上に隕石を作っているようなものだぞ!?
　というか、おまえの重みでこの星を押し潰す気か!?」
「な―――」
　その喩えはあんまりだ、と目をむく青子。
　突き進む足も、勢いあまって床をブチ抜いていたりする。
「その時はその時で、今度は負債を過去に送ってやるわよ！　それなら文句ないんでしょう！？
　歪みに潰されるのは過去だけなんだから！」
「それで解決したつもりか！？
　現在が確定している以上、過去を消滅させてもいいと！？
　それでいいのは私たちだけだ！　問題の総量、宇宙の負債はどうする！？」
　―――そう。
　宇宙が閉じているにせよ、現在も<拡|ひろ>がっているにせよ、
　消費熱量の増大は手に負えないものになる。
　際限のない広がり、
　際限のない消費、
　際限のない成長の末に待つモノは、希望に満ちた未来などではない。
　<開闢|かいびゃく>の前の無。
　いずれ宇宙は<熱的死|ねつてきし>する。
「青子の―――蒼崎の魔法は、その結末をより確かなものにするだけだ！　その責任を、おまえは―――！」
「言われなくても分かってる！
　責任なんて、私が生きてる間になんとかするわよ！」
　残り二メートル。
　ルーンの掃射は、もはや橙子の憎悪を宿した<熱線|ねっせん>となって突き刺さる。
　その熱さに身を裂かれながらも、より強い感情で青子は地面を蹴り―――
「責任をとると言ったな……！　では、その具体案は！？」
「そんなの―――これから考えるに決まってるでしょう！」
「―――
おまえは、最悪だ！」
　―――砕け散る最後の守り。
　二人の魔術師は拳を打てば届く距離で魔術を組み上げる。
　赤色のルーンと、青色のエーテル流。
　撃ち出された魔弾は<瀑布|ばくふ>となって、背後に浮かんだ刻印ごと、蒼崎橙子を粉砕した。
　有珠の言った通り。
　草十郎が追いつく前に、決着はついていた。
　何十年もの風化に耐えてきた木造の校舎は、実に分かりやすく彼女たちの道行きを示していた。
　外れて戸が開かなくなった昇降口、
　ぎしぎしと音をたてる廊下、
　体重をのせれば踏み抜けそうな階段。
　それらを徹底的に破壊しながら続く逃走とその追跡は、二階の奥で終わりを告げていた。
　廊下の突き当たり、三階に続く小階段の前。
　橙子は壁に背を預けるかたちで崩れ落ちていた。
　傷つきながらも青子から視線は逸らさない。
　内部出血、さらには骨折。
　彼女の<骨格|フレーム>はもう満足に動かない。
　青子の跳び蹴りでショートしたのか、<魔眼|ひだりめ>は内部から破裂し、開かれる事はない。
　それだけの<満身|まんしん><創痍|そうい>ぶりで、呼吸を乱していないのは最後の意地か。
　目前で、無傷のまま見下ろしてくる妹に対しての。
「……屋上までは、<保|も>つと思っていたんだが」
　自嘲ではなく、純粋な思いを橙子は口にした。
　青子は冷たい視線だけを返す。
　先ほどからまったく変わらない青色の目。
　冴え<凍|こご>えるそれは、冷酷なものだとしても、どうしようもなく美しい。
　青子は橙子には近寄らず、数歩の距離を開けて右手を差しだした。
　撃ち落とした獲物に<引導|いんどう>を渡す、<射手|しゃしゅ>のように。
　勝負はついた。
　管理地を奪いに来た魔術師は、死をもって敗北とする。
「――――――」
　不必要な沈黙。
　半壊した壁から差しこむ月明かりが、二人の影を廊下に映している。
　先ほどまでの<馬|バ><鹿|カ><騒|さわ>ぎも既に無い。
　<火花|ひばな><散|ち>る嵐は過ぎ、
　張り詰めた寒気だけが、旧校舎を支配している。
「何か、言い残す事はある？」
　唐突に青子は口を開けた。
　橙子はそうだな、としばし考えこむ。
　途中、コートのポケットを軽く叩き、何も入っていない音に渋い顔をした。
「…………
最後に<一服|いっぷく>と思ったが、あいにく、おまえを待っている間に吸い切ってしまってね。
日本の煙草は<旨|うま>すぎていけない」
　橙子の言葉に、青子はそう、と小さくうなずく。
「なかなか、常人には真似できない<遺言|ゆいごん>だったわ」
「待て待て。いくら私でも、遺言まで謎かけをする気はないよ。お望み通り、敗者は敗者らしく<遠吠|とおぼ>えをあげるから聞くといい」
　橙子の声は皮肉げではあるものの、青子への敵意も憎悪もない。
　―――おそらく。
　彼女が報復しようとしたものは青子個人ではなく、自分と妹を取りこんだ、魔術師の家系そのものだったからだろう。
「……蒼崎の魔法が、時間旅行に端を発するものとは思わなかった。まだ事情がありそうだが、当事者ではない私には何ともね。
<凡夫|ぼんぷ>には分からない悩みだ、せいぜい大事に付き合っていけばいいさ。
　……しかし、十年経ってもソレでは先が思いやられる。有珠は何をしていたんだか」
「アリスにしてはよく付き合ってくれた方よ。魔術師としてはいつまでも半人前っていうのが彼女の結論。
　―――けどまあ、そうね。
　あの狼となら、いい勝負をしたんじゃない？」
「うん？　あれはダメだ、敗北を知ってしまった。もう完全じゃあない。
半人前に<値|あたい>で<勝|まさ>っていようが、魔法の前には特異性を見失うだろう。
　ところで青子。
　おまえの魔法とやらは、手段か、それとも結果か？」
　先なのか、後なのか。
　ある場所を目指す為に魔法を必要としたのか、
　その場所に到達した為に魔法が出来てしまったのか。
「―――後よ。私は扉の前で尻尾をまいたから、じじいの思惑なんて知らないけど」
「第一魔法と同じ経緯か。ますます業が深い。第二から第四はその場所へ到達する為に生み出されたものと聞く。
同族嫌悪は世の常だ。いずれ第一と食い合わなければいいのだがね。
　……しかし、扉ときたか。魔法の継承とは<路|パス>の継承のようだな。ではやはり、ここに<泉|ユミル>の入り口があると？」
「北欧かぶれの貴女にとってはね。私にとってはアカシャの門と言えるものよ。
　……最初からそれを狙っていたんでしょう、貴女は」
　青子の問いに、橙子は残された命をはき出すように、ああ、と力なくうなずいた。
「……望めば手に入るというのに、何代も待つのは嫌だったんだ。
祖父とはそれで決別したようなものだったよ。
蒼崎に対する復讐心は、それには優先されなかった。
　まあ、全ては終わった事だ。もう語る必要はない。
　……最後に、<根源|こんげん>に触れた感想が聞きたいな」
　深く息を吸いこんで橙子は言った。
　憎しみのない<遺言|ゆいごん>。
　青子は答えず、右手を高々とかかげる。
　数少ない祖父の言いつけ。
　魔法の源。
　<根源|こんげん>に関しての知識、<所感|しょかん>は一切<漏|も>らしてはならない。
　けれど、姉の最後の頼みならば、その感想ぐらいは伝えてあげるべきなのだろうか。
　……天を指すその腕が振り落とされれば、話は終わりだ。
　この朽ちた建物が姉だった人の<墓標|ぼひょう>になるだろう。
　なら素直になるべきだし、そもそも、青子は祖父の言いつけを守る気などさらさら無い。
「……白状するとね、姉さん」
　蒼い廊下に、声は響く。
「―――正直、ぜんっぜん分からなかったわ」
　なんだかミもフタもない感想を告げて、落雷のように、青子は右腕を振り落とした。
　……いや、落とそうとした。
　けれど腕は青子の意に反して止まり、どんなに力を入れても下げられない。
「―――何の、つもり」
　アリスの役たたず、と内心恨みながら青子は不愉快そうに吐き捨てた。
　自分の背後に現れて、かかげた右手を掴んでいる静希草十郎に向けて。
　表情にこそでていないが、橙子も彼の乱入に驚いている。
「手、離して」
　草十郎に振り返る事も、掴まれた腕を見る事もせず、前だけを見つめて青子は言う。
　……そういえば、懐かしいあの時も、この男は唐突に現れて人形から自分をかばったんだっけ、などと思いつつ。
「聞こえなかった？　二度はないわよ」
　青子の声に嘘はない。
　邪魔をするのなら、草十郎だろうと容赦はしない。
『命だけは助けてあげる』
　その約束とは矛盾しているけれど、そこまでしないと草十郎には伝わらないと理解している。
　けれど、青子のそんな鉄の意志を聞いても、草十郎は腕を掴んだまま離さない。
「いい加減に……」
　離せッ……！　と青子は振り向く。
　とたん、声の続きは<喉|のど>に<詰|つ>まってしまった。
　……その<表情|かお>を、見るべきではなかったと後悔する。
　自分の腕を掴んでいる少年の顔を見て、青子は鏡だな、と痛感した。
　<悼|いた>むような哀しみ。
　<糾|ただ>すような怒り。
　相容れない感情に沈んだ顔は、自分の中にある都合の悪い面を連想させる。
　静かに、声もなく、意志もなく。
　<贖|あがな>いがたい罪を問う、灰色のさびた瞳。
「……言いたい事があるなら、はっきり口にしなさい。
　それが出来ないなら消えて」
　態度を崩さない青子から、草十郎はそっと手をほどいた。
　ふたりは敵と味方のように見つめ合う。
　互いに口にする事はなくて、あるのは終わらない沈黙の<苦|にが>さだけ。
　その中で、不意に、
「人殺しは、いけない事だ」
　あまりにも聞き慣れた、短い言葉が告げられた。
「…………」
　それは気持ちを形にしただけの、つまらない言葉だったけれど。
　今の青子には、その重さが嫌というほど分かってしまう。
　いずれ忘れてしまうとしても、静希草十郎の過去を断片的に知ってしまった彼女には、本当に痛いほど理解できた。
　けれどうなずく事はできない。
　立場は逆転していくものだ。今を逃したら次は自分が追い詰められる。
　だいたい、一度ならず二度までも殺されかけた。
　この借りを帳消しにするほど彼女は優しくはないし、
　なにより―――このままでは、橙子の言う通り、いつまでも半人前だ。
　まだ彼女は、魔術師として最初の<咎|とが>を果たしていない。
　その機会が肉親になるのなら、なにより強い決意になると青子は知っている。
「…………っ」
　なのに、心の中では彼の台詞が繰り返されている。
　……人殺しは、いけない事だ。
　子供じみた<率直|そっちょく>さ。その願いが彼にとってどれほど<尊|とうと>いものなのか、憎らしいほど感じ取れる。
　それを振り払うため、青子は草十郎を睨みつけた。
「だから？　
殺されたクセに、その相手まで<庇|かば>うっていうのアンタは？　
元気になったら懲りずにやってくる殺人鬼が相手でも見逃してやれっていうの？」
「……まさか。そこまでいったら聖者だ。自分には、そこまでの事は言えない」
　だが、彼は見逃すだろう。
　悪人の改心を期待するのではなく、
　悪人の人生を考慮してのものでもなく。
　ただ、誰かが生きている事に、感謝したいだけなのだと。
“……じゅうぶん聖者なのよ、あなたは……！”
　だから、それが頭にくる。
　<無|む><知|ち><善良|ぜんりょう>すぎて頭にくるなんて、これでは本当にミラーハウスの焼き直しだ。
　違うのは、草十郎がそこまで固執する理由を、今の青子は知っている事。
　草十郎はその経緯を、今は彼女に奪われている事。
　彼は、彼女とすれ違うように前に出た。
　自身が、決して口にしてはならない言葉と共に。
「仕返しなら、殺された人間がやるのが筋だろう。
　君を止められないのは分かってる。
だから、蒼崎がやるぐらいなら、俺がやる」
「――――――」
　……その言葉に敗北を感じたのは、果たして誰だったのか。
　二人を無言で見つめていた橙子は眠るように目蓋を閉じた。
「ごめんなさい、橙子さん」
　歩み出る草十郎に、橙子は仕方なげに、小さくうなずいた。
「……そうだな。君には、それもいいかもしれない。
　今は特殊な状況だから、醒めた後に君がどれほど悔やむ事になるか想像もできない。
　ただ、それで君の停滞は終わるだろう。晴れて<禊|みそ>ぎ落としというワケだ。純粋に祝福してあげられる。
　気に食わないのは、それを決意させたのが私ではなかったという事ぐらいか」
　草十郎には分からない言葉を告げて、橙子は唇を堅く閉じた。
　……無防備な、細い首が差し出される。
　さらに一歩踏みだす草十郎。
「――――――」
　それより早く青子は動いた。
　草十郎の前に回りこんで、全身に巡る魔力をすべてカットして、力のかぎり右手を振るった。
　頬を叩く乾いた音と、廊下を数歩よろめく足音。
「……あお……崎……？」
「この、卑怯者―――」
　泣きそうなほど怒っている青子は、そのままくるりと草十郎に背を向ける。
　これ以上その顔を見ていたら、本気で殺しかねないと拗ねるように。
「他人の記憶を取り込んだ代償か。引きずられたな、青子」
「そうよ。自分の意志を<他|ひ><人|と>に曲げられるのが、こんなに悔しいなんて、知らなかった」
　皮肉げな呟きに、青子はついそんな返答をしてしまった。
　橙子は可笑しそうに唇をつり上げる。
「……何が可笑しいのよ、貴女」
「いや、おまえにも人並の情けがあるとは思っていなくてね。
　バカ呼ばわりは訂正しておくよ。他人の理想を<背|せ><負|お>うのに<怯|おび>えるなんて、十年経っても可愛いじゃないか」
「―――アンタね」
「そう睨むな、今のは心からの賛辞だ。
　で、私をどうする？　彼に殺させるか、それとも見逃すか？」
「……仕方ないでしょ。貴女の言う通り、これが何よりの代償だったんだから」
　言って、青子はちらりと草十郎の顔を見た。
　<頬|ほほ>を<叩|たた>かれた事で緊張が解けたのか、いつもの<呆|ぼう>とした表情に戻っている。
　……たとえ今は過去の記憶がなくとも、深層意識に刻まれた<不文律|ふぶんりつ>は消えはしない。
　それを、草十郎は自ら犯そうとした。
　自己を永遠に壊し続けるであろう事を代償に。
　静希草十郎のためでなく、蒼崎青子を守るために。
　今の青子にはそれがよく解っている。
　だから彼が『自分がやる』といった瞬間、敗北を知らされた。
　それは彼を見殺しにする事と同義であり―――
　なにより、それを許せば自分は、彼にとって命より大事な物になってしまう。
　……そんな物に、青子はなりたくはなかったのだ。
「……蒼崎、やっぱりその、自分の受けた傷は自分で返さないと気が済まない性格か？」
　見当違いの心配をしている草十郎から、ぷい、と青子は顔を背ける。
　あとは目前に倒れこむ橙子を、いつも通りの不機嫌そうな視線で見下ろした。
「……分かったわよ。橙子、今回は見逃してあげる。
　けど、ただで帰れるとは思ってないわよね？」
　声もなく口元に笑みを浮かべる青子を、橙子は眉をひそめて見つめた。
「祖父の所に突き出すのなら、ここで引導を渡してくれ」
「まさか。私もあの人には会いたくないもの。貴女にはこのまま出ていってもらうわ。
邪魔もしないし、協会に届けも出さない。
　律架は私が言いふくめておくから、今回の件は私たちだけの秘密よ」
　橙子はますます眉をひそめる。
　そんな都合のいい話、ある訳がない。
「青子。何を企んでいる」
「別に。
そのかわりに呪いをプレゼントしようと思って。今までさんざんガンドくらってきたし、おあいこでしょ？
　まあ、私のはちょっと強力だけど。
今後この土地に入ろうものなら、マダガスカルガエルになってもらうわ」
　まるで明日の夕飯は中華にしよう、という気軽さで微笑んで、彼女は橙子へと歩み寄った。
「待て……！
　なんでそういうモノだけ修得してるんだ、おまえは！」
「そりゃ師匠がアリスだもの。<偏|かたよ>るのは当然でしょ？」
　むう、と納得しつつ眉をひそめる蒼崎・姉。
　妹がいつまで経っても半人前なのは、そのあたりに原因があったのかと。
「草十郎、席<外|はず>して。
　覗き見が趣味なら、別に見ていってもいいけど」
　言いつつ、青子は姉のコートをはぎ取りにかかる。
　橙子のイヤそうな目と、青子のどことなく楽しげな目が対照的で、草十郎は少しだけ悩んでしまった。
　はたして、このまま青子と橙子をふたりだけにしていいものか、と。
　けれど結局、罰ゲームを思わせる姉妹の様子に草十郎はうん、と頷き、
「覗き見は、たしかにいい趣味じゃないな」
　いつかのように呟いて、適当な空き教室へ退場した。
「ちょっ、なんだその不細工で悪趣味な術式は……！　
センスがないにも程がある！　おまえ、本当に私の妹か！？」
「ええ。この通り、芸術的才能はぜんぶ姉貴に持っていかれた憐れな妹でして。嘆くなら自分の天才性を嘆きなさい、橙子」
　廊下には泣き声とも笑い声ともつかない苦悶の声が、遠吠えのように響いていった。
　咲き乱れていた白い花々は、ひとつ、またひとつと夜空へ舞い上がっていく。
　<吹|ふ><雪|ぶ>く<花霞|はながすみ>の中、有珠は原初の星空を見つめていた。
　花びらは<群雲|むらくも>になって、静かに、眠るように欠けていく。
　いずれは一輪の<華影|かえい>もなく、広場はもとの雪原に<還|かえ>るのだろう。
　魔法は終わり。
　過去の光景は、あと数分足らずで退場する。
　少年と少女の、行き違った時間のように。
　旧校舎から音が<絶|た>えて<久|ひさ>しい。
　有珠は無言で待ち続ける。
　しばらくの<後|あと>、旧校舎から現れた草十郎の姿を見て、有珠は白い息をこぼした。
　かすかな安堵をふくんだ、終わりを認める嘆息を。
　草十郎は青子を抱えてやってきた。
　背中におぶるのではなく、前に寝かせるように両手で。
　青子は眠っているのか、安らかな顔で目蓋を閉じていた。
　ぐったりとした、けれどしなやかな体と長い髪が、童話の眠り姫を連想させる。
「待っていてくれたんだ、有珠」
　苦もなく青子を抱える草十郎に、有珠は頷きだけで返答した。
「橙子さんはどうなったの？」
「……いや。よく分からないけど、橙子さんは帰ったよ。
　蒼崎が言うにはそう簡単に解呪できない呪いをかけたから、むこう十年は三咲市には入ってこれないって。
　その後、橙子さんが尻尾をまくのを仁王立ちで見届けて、見えなくなったらそのまま倒れたんだ」
　その光景は簡単に想像できるのか、有珠はそう、と素っ気なく応えた。
　橙子の心配はするクセに青子の心配はこれっぽっちもしていないらしい。
　青子と有珠の関係そのものを、ちょっと心配してしまう草十郎だった。
「それはともかくとして。
　青子はどうなっているんだろう？」
　わりとどうでもいいような口ぶりで、草十郎は寝息をたてている少女の顔を覗きこむ。
「……<無順|むじゅん>と<正順|せいじゅん>を合わせているのね。
　彼女の時間は今の時間とは異なってしまったから、歯車を合わせるまで目は覚めないわ」
　有珠の言葉に、なるほど、などと<胡乱|うろん>な相づちをうって、草十郎は旧校舎を振り返った。
「なんか拍子抜けしたよ。
　結局、橙子さんと蒼崎、どっちが勝ったのかよく掴めない」
「……そうね。魔術師の争いには明確な点数はつけられないから。どちらが強いかで勝負はつかないわ。
　橙子さんの大目的が蒼崎の魔法の解明なら、魔法を使わされた時点で青子の負けよ。
……その後のいざこざは、<凱旋|がいせん>する勝者を夜道で襲ったようなものだし」
　言って、有珠は森の方角に視線を投げた。
　それが『帰りましょう』という意思表示である事は、草十郎にも読み取れた。
「そうだね。蒼崎も有珠も、このままじゃ風邪をひく。
　ああ、それと。蒼崎が橙子さんに呪いをかける時、何かしてたんだけど」
　わかる？　と訊きたがる草十郎に、有珠はやや作り物っぽい、いつもの無感情な視線を向けた。
「……見たの、静希君？」
「いや、蒼崎が出てけって」
「……そう。それで、青子はどんな呪いをかけたの？」
「えーと、カエルがどうとか」
　草十郎の言葉に、有珠はますます顔を<曇|くも>らせる。
　……体を変異させる呪いなんて、青子はまだ修得していないはずなのに。
「そ―――」
　思い立って、その言葉を飲む。
　そう、たしかにさっきまでの彼女なら、それぐらいは知っていたかもしれない。
　そうなると青子の言う通り、むこう十年は呪いの解呪はできないだろう。
　なにしろ呪いをかけた本人が、その呪いをまだ修得していないのだ。
　<回|まわ>そうにも、呪い返す相手がいない。
　いかに橙子が優れた呪いの破壊を開発しても、因にあたる<青子|あいて>がいないのでは成立しない。
「青子が橙子さんにつけたのは<切傷|きりきず>ぐらいだから、静希君が心配するような事はないわ。
　……青子にしては、ずいぶんと<生温|なまぬる>い処置だけど」
　わりと非道な事を言って、有珠は歩きだした。
　草十郎も青子を抱いたまま付いていく。
　ふたりは広場から出て森の中に入る。
　その時、不意に草十郎は足を止めた。
「…………静希君？」
　草十郎は不思議そうに、旧校舎の広場を振り返る。
　眼差しは、望郷の<類|たぐい>だろうか。
　一夜だけの、二度と見る事のない風景を<懐|なつ>かしみながらも、二度と出会えない事を<悟|さと>っている顔。
　戻らない船を見送る子供のようだ。
　……その横顔に、わずかな同情を抱いている事に気付いて、有珠は自らを<戒|いまし>めた。
「あの<荒地|あれち>がどうかした……？」
　雪原に戻りかける花園を、少女は荒地と言った。
　有珠の問いかけに、草十郎はいや、と首を振る。
「なんとなく知っている場所に似てる気がして。
　おかしいな、やってきた時はそんな気はしなかったのに」
　彼は、いつまでも名残惜しそうに雪原を見つめていた。
　放っておけば朝が来るまで、いや、朝が来ても見つめたままだろう。
　……けれど、それは意味のない行為だ。
　彼が恋焦がれている風景は、有珠だけが覚えているものなのだから。
「……ここは、その場所にそんなに似てる？」
「ぜんぜん似てない。<面影|おもかげ>すら<皆無|かいむ>だ」
「なら、それは気の迷いよ」
　強く断定する有珠の言葉に、草十郎は静かに頷いた。
　ありえないものに焦がれるのは、もう止めようと微笑むように。
「そうだね。たぶん、幻を見ていたんだ。
　……あれは一度、幸福だった時の夢だった」
　尽きぬ名残を断ち切って、草十郎は雪原から目を背ける。
　どこにも共通点のない、彼が一度だけ幸福だった野原から。
「さ、早く帰ろう。蒼崎は重いし、体も疲れてる。
　洋館についたらあったかいお茶を淹れよう、有珠」
　鮮やかな笑顔をうかべて、草十郎は少女の名を呼びかけた。
　それに一瞬だけ有珠は息を止めてしまう。
　こんな風に、あんまりにも自然に名を呼ばれたのはいつ以来だろう。
　なんとか頷き返す有珠と、歩きだす草十郎。
　その背中に、有珠はちょっとした疑問を投げかけてみた。
「……重いって、わたしより？」
　……青子と有珠では身長差がある。
　有珠の方が軽いのは当たり前のコトだろうけど、その答えを、少女は彼の口から聞いてみたかったのかも知れない。
　そんな有珠の期待にそうように、草十郎はきっぱりと口にした。
「ああ。数値的に言うのなら、有珠より十キロ増しぐらい」
「そう。青子が聞いてたら大変ね」
　それは、後で青子に告げ口をしよう、という悪戯心を思わせる口調だった。
「……意地が悪いな、有珠も。
それに、さっきのは本人の名誉のために四捨五入してたんだぞ、いちおう」
「――――――」
　弁解どころか、青子が本気で怒りかねない事実だった。
「…………ダメかな？」
　困った顔で有珠の様子をうかがう草十郎。
　その仕草は妙に温かで、有珠はつい、<緩|ゆる>んだ頬をかすかな笑顔に変えてしまった。
　人前で笑う事に慣れていないためか、有珠は顔を背けて森へと歩きだした。
　そんな有珠の後ろ姿を見ながら、草十郎は相変わらず見当違いの感想を口にする。
「―――なんだ。
友達の悪口で怒るなんて、やっぱり仲はいいんじゃないか、蒼崎」
　青子を抱いたまま呟いて、草十郎はしずしずと有珠の後を追っていった。
　森の中、眠り姫に口づけする勇気もなく、助けただけでお城に帰還しようとする若い騎士。
　十分な活躍はした筈なのに格好がつかない彼は、そんな物語の主人公を思わせた。
「と、まあこういう訳だ。
　ベオだけに頼ってはいない事がよく分かったろう」
　表情は冷淡なまま。勝利は<揺|ゆ>るぎないものとなったのに、橙子には喜びの笑みもない。
「姿を隠したのは鏡の応用か。
　……探知や隔離だけでなく、援護まで行えるとはね。
　三大のプロイには含まれないものの、汎用性の面で言えばアレも破格のプロイだな」
「……持ち上げるじゃない。なに、騙された負けおしみ？」
「いや、ただの自画自賛だよ。
　なにしろ今の<鏡|バージョン>は私とマインスターの合作だ。趣味に興じすぎてあれこれと機能を足してしまったと、今更ながら悔いているところさ」
「その後、青子に見せかけて私に向かってきたのは例の駒鳥。それに気を取られている間の大規模な魔術の発動。
　私の魔眼は有珠が防ぎ、青子は攻撃だけに専念する……組み立ては悪くはない。よくやったと言っておくよ」
　一連の攻防を顧みて、所感を述べる橙子。
　青子は橙子の背後に咲いた魔術刻印に気を取られている。
　有珠だけが、橙子の言動を正確に把握していた。
「しかし、それもここまでだ。
　惜しいな青子。わずか二年であれだけの魔術を使えるのなら、あと数年もすれば一流の<射手|しゃしゅ>になっていただろうに」
　橙子は再度指を鳴らす。
　中空に浮かぶ刻印に、さらなる光が灯っていく―――
“……有珠。アレは何？”
　傍らの有珠の手に触れて、青子は呼びかけた。
　青子は振り返る事さえできない。
　橙子から目を離した瞬間、この戦いが終わる事を肌で感じているからだ。
「見ての通り、魔術刻印よ。……信じられないけど」
　有珠の声には、驚きと、不快感がこめられていた。
　その気持ちは青子にも理解できる。
　そもそも、魔術刻印とは各々の家系が独特の形で伝える物だ。文字である事から魔道書と同一に思われるが、その実態は大きく異なる。
　魔術には形がない。
　実像がなく、再現性さえ不確かだ。
　ソレを明確な形にしようと、莫大な時間、心血を削る技術をかけたもの―――
一族の悲願と希望の結晶が、各門派の後継者の証、魔術刻印なのである。
　そして、刻印は単体では効果を発揮しない。
　一族の先端にいるモノ。
　刻印を身に宿し、いずれ自身も刻印の一部になる事を覚悟した魔術師がいなければ、そもそも意味を見失う。
　魔道書との最大の違いはそこだ。
　刻印は写本した所で意味はないし、分け与える事もできない。
　故に。
　橙子の背後に出現している刻印が他人の写しだとしても、本来の持ち主にしか<恩恵|おんけい>はないのだが―――
“でも、たしかに私の魔弾はあの刻印からの魔術で<弾|はじ>かれた。……あれは、もしかすると”
　見えない物を必死に見るように、青子は目を細めて橙子を見つめる。
　刻印をコピーしても意味はない。
　刻印は受け継いだ後継者でなければ発動できない。
　―――なら、それは―――
「……そう。
　肌に刻まず中空に浮かべてるのは、そういう事……」
　不快だ、と吐き捨てる青子。
　橙子は理解の早い敵に、満足してうなずいた。
「ああ、この体には合わないのでな、私の背後の空間に固定している。
本当はね、おまえたちのように肉に刻んだほうがいいんだ。魔術の起動が一動作で済むんだから。
　だが実際に使用するのなら、こうするしかない」
「起動までの手順は一つ増えるが、なに、マイナスばかりでもない。所詮は他人事なんでね、<痛|・><み|・><は|・><ま|・><っ|・><た|・><く|・><感|・><じ|・><な|・><い|・>」
　それは肉体的なものであり、精神的なものだろう。
　青子とて姉の非人間性を知ってはいたが、ここまでのものとは予想していなかった。
「……ふん、合うワケないじゃない。他人の魔術刻印を<剥|は>がしてるんだから、血筋の照合からして馴染むはずがないわ。
　―――で。
奪われた連中は死ぬ事もできず、今もどこかに<幽閉|いかされ>ているワケだ。刻印の持ち主が死んだら起動すらできないものね、それ」
「―――橙子さん、貴女―――」
「非難される覚えはないんだが。
私はかかる火の粉を払っただけだよ。向こうから戦いを挑んできたんだから、戦利品ぐらいは用意してもらわないと。
　まあ、中にはつまらない単語を口にした馬鹿者もいるが、それはそれだ。
　むしろ優しいと思うけどね。私を殺しに来た連中を、わざわざ生かしてあげてるんだから」
「は。その魔術師たちがちゃんと<人|・><間|・><の|・><カ|・><タ|・><チ|・>をしてる事を祈るわ、肉親として」
「おまえね、私をなんだと思ってるんだ。
　脳だけ保存とか、面倒だから百人ひとまとめにした肉塊とか、そんな手抜きなんぞするものか！
　きちんとカフェを用意して、食事も娯楽も睡眠も自由に提供してるんだぞ？　中には“一生ここで暮らしたい！”なんて騒ぎ立てる莫迦もいるぐらいだ！」
　……どこまで信じていいものか微妙な返答だったが、橙子の刻印がコピーではなく本物である事は真実だ。
　有珠はますます眉をひそめる。
　なぜなら、その行為自体にあまり意味がない。
　他者の刻印を奪い、自分用に加工するのはたいへんな手間だったろう。
　そんな事をしている時間があるなら、刻印を材料にして模造品を造った方がはるかに効率がいい。
　他の魔術師ならいざ知らず、卓越した人形師である橙子なら、刻印を利用してより強力な人形を造れただろう。
　刻印の持ち主である魔術師以上の、自分の命令通りに動く人形を。
「……なんで、そんな事を」
「そういう人なのよ、姉貴は。これで行く、と決めたらそれしか目に入らない人なの。過程より結果の人なの。
　……ある日の話よ。テレビでピザのＣＭをやっててさ、私たちは唐突にあのデブ<食|しょく>を食べたくなった。
でも悲しいかな、一般家庭であるうちにあったのはサラミだけ」
「うちの実家、山奥にあるの知ってるでしょ？
　町まで行くのに一時間はかかる。中学一年だった私は我慢できなくて町まで行ったけど、ピザ屋なんか一軒もなくてとぼとぼ帰ったの」
　田舎町の悲劇だった。
　回転寿司がようやくできた三咲町において、ピザ屋の台頭はあと二年待たねばならない。
「なのに。
骨折り損で家に帰ったら、姉貴のヤツ、おかえりー、とか手を振ってピザ食べてやがったのよ……！
　お<煎餅|せんべい>を下地にしてみたわー、とか言って。
　外みたら鶏三羽と牛一頭まるまる消えてて、ああ、この女には等価交換とか手間とかお金の問題とか、そういうの一切頭にないんだって思い知らされたわ！」
　それはそれで凄い事だと思う有珠であった。
「そんな無茶な奴だから、ガンド撃ちで目に見える傷跡を出そうなんて、平気で考えるのよね。
　あんなの、ゲマトリア一節分の詠唱で同じ効果を出せるのに、あくまで呪術にこだわるから空も飛べない人形になるのよ、バカ姉貴っ！」
　自分そっくりに造られた人形を思いだし、ここぞとばかりに怒鳴る青子。
　今にして思えば、あれは彼女への痛烈な嫌味だったからだ。
　青子の<罵倒|ばとう>に、橙子の細い眉が微かに動く。
　今まで表情のなかった橙子だが、自慢の人形をけなされて気分をいたく害したらしい。
「……その人形に追い詰められたのはおまえだったね。
　それと、数<値変換|ゲマトリア>式はカバラの秘術だ。私はルーン専門だから、おまえのように広く浅く知識を広める気はないよ。
　―――まあ、もっとも。
この刻印の所有者の一人から、ケルトの結界を教わりはしたがね」
　橙子は左後方の刻印に視線を向ける。
　こうしている今も光り輝いている刻印。
　それは、たえず何らかの魔術を行使している証だ。
「これは『城』で祖父を封じこめるのに使っていてね。
　半人半妖のドルイド僧を閉じこめた塔……とまではいかないが―――そうだな、私では郵便ポストぐらいの大きさが限界か。
　ほら、むかし<青子|おまえ>が壊した赤いポスト。ちょうどあれぐらいの可愛い鳥小屋だよ。
人間ひとり分を仕舞うには窮屈だろうが、祖父は肉体というより霊体に近い。見様によっては、そっちの方が相応しいかもしれないね」
　<陰鬱|いんうつ>な笑いをかみ殺しながら、橙子は淡々と説明する。
　常に冷静な彼女だが、祖父に対しては感情を<抑|おさ>えきれないらしい。
　それが<鬱積|うっせき>した憎悪である事は、彼女の笑みを見れば明らかだった。
「そういった訳でね、先の青子の魔術を防いだので、この刻印もしばらくは使用不能なんだ。
　今のが本当の魔法だったなら、わずか三行の刻印では打ち消せなかっただろうに。青子。おまえは<僅差|きんさ>で負けたんだ。恥じる事はないよ。
　じゃあそろそろ終わりにしよう。
　抵抗をするのは自由だが、ベオ相手にそれは辛いぞ」
　ぱちん、と橙子の左手が鳴る。
　旧校舎に<潜|ひそ>む黄金の人狼。
　彼を呼び出す合図は、森に<木霊|こだま>するように長く響いた。
　その残響が消えるより早く、青子は背後にいる有珠へ叫ぶ。
「行って、有珠！」
　<叱咤|しった>に近い指示に、有珠は無言で従った。
　橙子と対峙する青子を残し、有珠はためらう事なく森へと<踵|きびす>を返す。
　……敗北が決定的になった以上、ふたり一緒に殺される愚だけは犯せない。
　どちらかが生き延びれば三度目の正直もある。
　その為に犠牲になるのは自分の役割だと青子は判断したのだ。
『……橙子自身の切札も分かったし、有珠が本調子になれば勝てない相手じゃないものね……』
　走り去る有珠の足音を聞きながら、青子は少しだけ残念そうに呟いた。
　……惜しいのは自分の死ではなく、有珠が橙子を打ち負かす瞬間が見られない事だけ。
　それ以外に何を無念に思う事があるだろうか。
　有珠が森へと消えていく。
　それを背中で感じながら、青子は橙子を睨み続ける。
「……いつまで焦らす気？
　私、待たされるのは好きじゃないんだけど」
　合図はされたものの、人狼の姿はない。
　あの怪物なら一分とかからず、旧校舎から飛んでくるだろうに、と。
「そう急くな。いま赤ずきんを追っているところだ。
　黒帽子の彼女をそう喩えるのは、やや無理があるがね」
　皮肉げに響く橙子の声。
「――――――」
　校庭で流れる、関わりのない放送みたいだ。
　青子は呆然と立ちつくす。
　今の橙子の言葉を、青子は<忘我|ぼうが>する事で、現実ではないと聞き流し―――
「有珠―――！」
　誤魔化しきれるはずもなく、青子は背後を振り返った。
　……夜の森は白雪のおかげで、月明かりだけでも十分に遠くを見通せた。
　その真白い闇の中から、ひとりの少年が歩いてくるのが見てとれる。
　青子の胸より背の低い少年は、自分より大きな<有珠|ひとかげ>を肩にかけて歩いていた。
　少年は無造作に有珠の体を投げ捨てる。
　放られた有珠は、数メートルもの放物線を描いて、青子の目前に落下する。
　頭から。ごきりと、首の骨を折るように。
「―――っ！」
　やめたほうがいいのに、と思いつつ青子は有珠を受けとめた。
　有珠の軽い体が何倍にもなって両腕にのし掛かる。
　……縫合したばかりの傷が、容赦なく開いていく。
　受けとめた両腕が赤い。
　ぬらりとした血の感触と激痛に、青子は歯を食いしばって耐えた。
「有珠、無事……？」
「……………………」
　返事はないものの、意識はあるようだ。
　有珠は森に入ったところで人狼の奇襲を受けたのだろう。
　昨夜、狼に切り裂かれた腹部は、青子と同じように血で<滲|にじ>んでいた。
「……はじめから、森に<潜|ひそ>ませていたとはね」
　チ、と自分の浅はかさを呪いながら、有珠の体をそっと下ろす。
　青子の視線は目前の敵―――金髪の少年に向けられている。
「つまり、あれよね。
　甘く見ていたフリで、初めから、余裕なかったんだ」
　青子の怒気を受けても、少年はうす笑いを崩さない。
　少女たちを見つめる瞳は<爛|らん>と輝き、明らかに、この後の惨劇を待ち焦がれている風だ。
　夜目にも鮮やかな金髪とグリーンの瞳、
　少年というよりは少女に見える顔立ちも、
今はそういうカタチをしただけの、違う星の生き物としか思えない―――
「ベオ。今日は喰っていいぞ」
　遠くから響く、橙子の短い声。
　少年は小さく笑ったように見えた。
　けれど、まさか。
　そこで青子が<自|・><分|・>から少年に走り出すなど、誰に予想できただろうか。
　足跡だけの駒鳥より早く、両手から赤い血を地面にこぼしながら、青子は少年へと疾走する。
　橙子は予想外の展開に目を見張り、
　地面に寝かされた有珠は<虚|うつ>ろな目で見守る事しかできない。
　人狼の少年とて、今まで獲物としか思っていなかった<雌鹿|めじか>の反撃に意表を突かれていた。
　六メートルもの間合いを一気に詰めて、青子は片足で雪原をダン、と踏み付けた。
　停止と回転軸を兼ねた踏みこみ。
　攻撃意図を瞬時に悟るも、少年の跳び退きは間に合わない。
「―――首！」
　片足が、走った勢いもそのままに跳ね上がる。
　少年の首を狙った回し蹴りは弧を描いて、この上ないタイミングで少年の<延髄|えんずい>に<炸裂|さくれつ>した。
　魔力によって強化された白兵術式。
　人形との戦いでコツを掴んだ青子の、この森の痩せた木なら<粉砕|ふんさい>しかねない、強烈な一撃だった。
　少年は動かない。
　そして青子も、右足を首に直撃させたまま止まっていた。
「――――――」
　首筋が、<戦慄|せんりつ>で凍りついている。
　あの人形を破壊したのと同等の手応え。
　倒せないまでも、首の骨にダメージを与えた筈だ。
　そう確信した青子の思い上がりを正すように、少年は眉すら動かさず、目前の青子を見つめていた。
「……ふーん。お姉さんの右足は、たしか噛み切った方だ。
　それで首を狙ったのは、すごいよね。女の人は本能的に自分の体を<庇|かば>うものだって、トーコさんは言ってたのに。
　けど残念、せっかくの勇気も無駄でした。ボクの体毛の質は、<こ|・><の|・><姿|・>でも変わらない。うぶ毛だけでも、お姉さんの蹴りを受けとめる事はできる」
　痛みがあるのは青子の方だけ。
　延髄を蹴った足の<脛|すね>は、まるで斧で切り落とされたように、感覚というものがない―――
「それに、少しだけ迷いがあったな。くっつけたばっかりの足だから庇ったでしょ？
　人間がボクの相手をするなら、そんなこと気にしちゃいけないのに。
　ああ、でも―――」
　青子の驚愕を浴びながら少年は笑う。
　足は戻せない。
たぶん地面に下ろした瞬間、自分が腹から裂かれると青子は予測してしまい―――
「どっちにしろミンチだから、気にしても仕方がないよね？」
「ほら、もったいない。せっかく治ったばかりなのに」
　少年の指らしきものが、右足に食いこんだ事が、青子にはよく判らなかった。
　もともと少年の言うとおり、右足には感覚なんてほとんどなかったのだ。
　今の一撃で完全に麻痺した足は、またも<凄惨|せいさん>な運命を繰り返したらしい。
　……ただ、今回は千切られる事なく、骨まで握られた。
　感覚はないけれど、<夥|おびただ>しい血の量と、<無惨|むざん>にやせこけた自分の足の<醜|みにく>さが、目に痛い。
　普通なら出血量だけでショック死。
　魔術刻印というものは、こういう時に残酷よね、と他人事のように青子は思う。
「あれ？　まだ目が死んでない。
　……あんまり苦しめたくないんだけど。ガンジョウなのも考え物だよ、お姉さん」
　少年の手が、青子の胸に<放|はな>たれる。
　胸の中心に刺さった<杭|くい>―――いや、少年の拳の痛みに、青子の意識が消えかかる。
　……飛んでいる。
　中身のない空気人形のように、自分の体が飛んでいるのが分かる。
　先ほどの有珠と同じように大きく空中に放られて、青子は背中から地面に落ちた。
　潰された右足と、胸に残る拳の衝撃。
「っ―――、…………！」
　満足な呼吸はできず、心臓をえぐり取られたとしか思えない痛みに、視界が点滅する。
　目から火が出るとはこういう事か。
　恐ろしいのは痛みがまったく<薄|うす>れないこと。
　無惨にあえぐ青子の胸には、いまも拳大の、杭の感覚が残っている―――
　……少年はゆっくりと、雪原に殴り飛ばされた青子に近寄っていく。
　唇を舐める赤い舌。
　喜びに<濁|にご>った目が、呼吸すら精一杯の<獲物|あおこ>を見つめている。
“―――、―――…………”
　もう、ここで意識を失ってしまおうか、なんて甘さを青子はかみ砕く。
　……けれど、頑張ってどうなるのか。
　落下した背中は雪に助けられたが、拳を受けた胸の<陥没|かんぼつ>と、潰された右足が、容赦なく生命を奪っていく。
　自分がスクラップみたいに壊れてしまったと分かるのに、
　どうして今も、必死に痺れた心臓を蘇生させようと、魔術刻印を回しているのか。
“―――ぁ…………、れは”
　絶望的な状況で青子の意識を繋ぎ止めていたのは、遠くで<佇|たたず>む橙子の姿だった。
　……橙子は、たしかに驚いている。
　何か意外な物を見たような、彼女らしからぬ思考停止。
　それが何であるかが気になって、青子はいまだ意識を保っていた。
“…………な、に？”
　沈みかける顔を起こして、橙子の視線の先を見る。
　いったい、この絶対的な勝利の状況で、あの女を驚かせる物とは何なのだろう、と。
　胸の<鼓動|おと>が平常時より高い。
　<千々|ちぢ>に乱れていく思考を、彼は慎重に抑えつける。
　心を弱める雑念。
　寄り道でしかない不要な意識を、できるだけ見えない<左脳|ところ>に整理する。
「―――――――――」
　呼吸が速いのも、力が入っているのも、<偏|ひとえ>に自分の責任だ。
　彼は努めて、冷静であれと繰り返す。
　教会を出てからここまで、一秒も止まらなかった。
　ここからはどうだろう。
　信号が多い。
　人が多い。
　タクシーを使うのも手ではあるが、クリスマスの街は混みあっている。
だいたいタクシー待ちが多すぎる。それならこのまま、小回りのきく自分の足を信用した。
　昨夜以上に最短距離で行けるよう、夜の街を駆けていく。
　胸の<鼓|お><動|と>は針のようだ。
　<早鐘|はやがね>は依然として鳴り続けている。
　この程度の距離で音を上げる事はないのに、まったくもって落ち着かない。
　ふわふわした<自分|からだ>には、その音はいささか大きすぎるようだった。
　嫌な予感だけが先走ってしまう。
　でも冷静に、冷静に。
　だって、それだけが彼の武器だ。
　無力であるが故に、落ち着く事だけが自分にできる最善だと、彼はよく理解していた。
　―――反面。
　しゃにむに走るたび、胸の鼓動は速くなる。
　月光が森をかすかに照らす。
　はげ山にはそれだけで十分だった。
　ふたり分の足跡を追いかける。
　この先はいつかの遊園地と同じ、彼には関わりのない窮地だ。
『―――貴方が行っても何も出来ない』
　戒めの言葉に、心音だけが高くなる。
　地を蹴る足は勢いをまして、戸惑う心は後方に千切れて消えていく。
　そんな事、言われるまでもない。
　何より彼自身が痛感している。
　役に立たないだけならまだマシで、最悪、彼女たちにとってマイナスにしかならないのではと。
　それが教会で一瞬だけ足を止めた呪縛だった。
　でも、結局は―――
　体は、何もしない後悔より、砕け散る後悔を選んだ。
　森を走る足取りは乱れない。
　乱れそうなのは鼓動だけ。
　自分の弱さだけが叫んでいる。
　あの遊園地の空を駆け下りた時とまったく同じ。
　どんな理由も<経緯|いきさつ>も関係ない。
　結局のところ、
“―――自分が、<彼女|だれか>を助けたいんだ”
　ただそれだけの、純粋な欲求だ。
　心音は調子を崩さない。
　暗い森を走っていく間、彼の脳裏を占めていたものは一つだけ。
　彼女たちへの心配でも、橙子に対する敵意でもない。
　赤い花に飾られたような肢体。
　産声にも似た苦痛の声。
　美しいと感じたものが、静かに死滅していく現実。
　なんて<拭|ぬぐ>いがたい悪夢。
　だから、もう二度と。
　あんな光景は、見たくなかったのに。
　森はじき終わろうとしている。
　月光はさえざえと旧校舎を示している。
　その、絶望的なタイミングで思い至ってしまった。
　あんな光景は二度と見たくない。
　そのためにこうして自分は走っている。
　……けれど。
もし二度目と直面した時、どうすれば冷静でいられるのか。
　そうして、彼は広場に辿り着いた。
　長く走った事で乱れた呼吸も、<瘧|おこり>のように上下する肩も、嘘のように消え去った。
　<排気|はいき>も<慣性|かんせい>もない、時間停止のような思考停止。
　二度目は、たしかにあった。
　一度目のような目眩と吐き気はあったかどうか。
　ここまで積み重ねてきた弱音。
　頭を乱していた迷いは、より強い感情で、跡形もなく消え去った。
完全に、<頭蓋|ずがい>の外にはじき出された。
　―――心音は胸を貫く<楔|くさび>のように。
　それはひときわ高い、意識を覚ます原初の鼓動。
「――――――」
　<深|ふか>く<細|ほそ>く息を吐いて、草十郎は広場に足を踏み入れた。
　視線は金髪の少年に合わせてはいるものの、意識は自分に向けられている。
　冷静であれ、冷静であれ、と。
　彼は全身全霊で、<努|つと>めて呼吸を合わせている。
　広場の状況は、青子たちの敗北を物語っていた。
　青子は<仰向|あおむ>けに倒れている。
　片足は真っ赤で、<腿|もも>は<醜|みにく>く潰されていた。
　青子の<瞳|め>は<霞|かす>んでいるものの、やってきた草十郎を見すえる程度には、気丈な意志が残っている。
　小さく咳きこんでいるところを見ると、腹部か背中を強く殴打したのだろう。
　いや、その両方か、と草十郎は判断した。
　有珠は青子ほど重傷には見えないが、やはり地面に倒れたまま動けない。
　青子とは反対にうつぶせで、懸命に両肘を地面に立て、起きあがろうとしているのが痛々しかった。
　広場の奥に鎮座する旧校舎の前には、いつか見た魔術師の姿。
　それにはまったくの無意志を<示|しめ>し、草十郎は歩きだした。
　彼は広場に到着した時より落ち着いた面もちで、青子へと足を進める。
　橙子はそれを止めない。
　ただ、誰に気付かれるコトなく、瞳に苦悩の色を浮かべただけだった。
「お兄さんも、その人たちの仲間？」
　勝者の余裕か、人狼の少年は親しげに話しかける。
　新しい獲物が来た、程度の気持ちなのだろう。
　草十郎は応えずに青子へと歩いていく。
　完全な無視に、少年から笑みが消えた。
　悪魔の機嫌を損ねた事も気にならないのか、草十郎は歩みを止めない。
　そうして青子の元まで到着すると、彼は痛ましげに顔を<曇|くも>らせた。
　……らしくなく、自然な言葉が見つからない。
　短い逡巡の<末|すえ>、かろうじて口に出来たのは、
「なってないぞ生徒会長。
　行く時ぐらい、声をかけるものだろう」
　叱るような<気遣|きづか>うような、不器用な呼びかけだけだった。
「………………
この、ばか」
　腹の痛みもなんのその、青子は自分をかばうように立つ草十郎を罵倒する。
「安心した。余裕あるじゃないか、蒼崎」
　そんな青子の強がりを真に受けたのか、草十郎の声は明るい。
　……実際、青子には余裕どころか体力も無い。
　なのに草十郎の返事はいつも通りで、
『さすが蒼崎、殺しても死なないな』とでも言いたげな<暢気|のんき>さだ。
「アンタ、ね―――」
　つい口に出して、青子は息を呑んだ。
　……草十郎は何も勘違いしていない。
　いかに間が抜けていても、今の状況がどれほど危険なのか、痛いほど理解している。
　その証拠に、暢気な台詞が空々しく聞こえるほど、その表情は凍りついていた。
「……いったい、何のつもりで……」
　来たのよ、といいかけて青子は咳きこんでしまった。
　草十郎は人差し指を口元に立てて頷く。
　青子には理解しがたいが、無理して話しちゃダメだ、というジェスチャーらしい。
「だって、ほら。状況はあの時と一緒だ。
　君がやられたら、次はこっちの番なんだろう？　だから協力をしに来たんじゃないか。
　……まあ。何もできないのも、あの時と変わってはいないんだけど」
　青子には答えもない。
　ただ呆然と顔をあげて、本気で呆れるように、草十郎を見つめ返す事しかできなかった。
　そんなふたりを、人狼は<苛立|いらだ>たしく見つめている。
　彼には王者としての自意識がある。
　無視されただけでも<轢殺|れきさつ>もので、橙子さえいなければサクッと草十郎の喉を噛みちぎっている。
　自分の重圧は確かに伝わっている筈だ。
　なのに獲物からは、まったく恐れが伝わってこない。
　……考えづらいが、まさか、ひょっとして。
　あの人間の視界には、自分はどうでもいいモノとして映っているのではないだろうか―――？
「……まあ、誰でもいいんだけど。筋ばった肉は歯ごたえがあっていいし、何より食いでがある。
　先に、そのお兄さんからハジメテもかまわないよね？」
　少年はもう一度呼びかけた。
　それにも応えず、草十郎は片手をゆっくりと鼻にあてた。
　<極|きわ>めて冷静に。
　少年に意識は向けず、けれど目は逸らさず。
「……匂うな」
「…………？」
　不快げに呟かれた声に誰もが首をかしげる。
　彼の言う匂いなんて、少しも嗅ぎ取れないからだ。
「……へえ。何が匂うって言うのかな、お兄さん」
　余裕に満ちてはいるが、苛立ちに急かされた声。
　<度重|たびかさ>なる無視に少年は怒気を抑えきれない。
　それでようやく、草十郎は遠くの、けれど真っ正面にいる少年へと体を向けた。
「品のない肉の匂いがする。これだから犬は嫌いなんだ」
　心底から不快だ、と言わんばかりの声。
　草十郎にとってはただの独り言。
　少年にとって侮辱以外の何物でもない。
　草十郎本人に、そんなつもりが全くなかったとしても。
「―――、は」
　瞬間、たしかに風が吹いた。
　人狼に起きた感情の変化だろう。
　獣気は大気を焼く風になって、雪原に<風紋|ふうもん>を走らせた。
「草十郎…………！」
　このままでは草十郎が真っ先に殺される、と青子は体に力をいれた。
　だが、壊れた体は指先ぐらいしか動かない。
　見れば、草十郎の失言だけは聞こえていたのか、有珠もなんとか立ち上がろうとしている。
　草十郎の姿は、そんなふたりとは対照的だった。
　<泰然|たいぜん>としてさえ見える立ち姿。
　少年の苛立ちは、それで限界を超えてしまった。
「……そうか。ようするに、ボクが子供だからって舐めてるんだね、
お兄さんは…………！」
　―――人間の時間が終わる。
　怒気を含んだ言葉と共に、少年の<躯|からだ>が変化する。
　肉体はさらに大きく、その肌は悪魔の牙めいた、刺々しい毛並みに包まれていく。
　人間の物だった顔も手も、いびつなカタチに膨れ上がっていく。
　それは大気中の魔力を取りこみ、存在規模を膨張させていく異形の獣―――ヒトのカタチをした、狼の姿だった。
「獣化の許しは出していないぞ、ベオ……！」
　傍観していた橙子が叫ぶが、人狼と化した少年は応えない。
　その荒い息遣いをケモノの口から吐き出すだけだ。
「そんな、バカな話、が」
　少年の変身を見届けて、ぽつりと草十郎は漏らす。
　人から獣に変わっただけでも悪夢なのだ。
　加えて、自分より小さかった少年が二メートル近い大きさになれば、もう理解の外だろう。正常な理性が残っているかすら怪しい。
「……驚いた」
　獲物の呟きに、人狼は満足そうに口元を歪ませた。
　おかしな人間だったが、結局はいつも通りだと。
　……けれど。
彼の虚栄心が満たされたのはほんの一瞬。
　狩られるだけの<獲物|にんげん>は、心底呆れたように息をついて、
「それじゃ、ほんとに犬そのものじゃないか」
「――――――」
　<木|こ>っ<端|ぱ><微塵|みじん>に砕け散るような沈黙。
　青子も有珠も、橙子さえも声がない。
　自分たちでさえ目を<背|そむ>ける人狼の獣化を目の当たりにして、まさか、そんな言葉を返せる人間がいようとは。
　楽観者は子供騙しの映画を見たような不満顔。
「“―――、―――、―――”」
　……もはや、何もかも手遅れだった。
　絶対者としての風格。
　最強を自負していた人狼から、感情の起こりが消えていく。
　つまり本気になったのだ、と理解できた者は何人いたか。
「ベオ、殺すな―――！」
　仮初めの主人の制止など、金の獣には届かない。
　人狼は前傾姿勢になりながら、たった十メートル先の草十郎を凝視する。
　そう、たった十メートル。
　<突進|はし>って０．５秒。
　上から下、顔から足首まで、その爪で三枚に下ろすのにさらに０．５秒。
「“死んだよ、おまえ……！”」
　凶悪な<悦|よろこ>びに満ちた呟き。
　それだけを合図にして、人狼は草十郎へと弾け跳ぶ。
　まさしく一秒。
　金の毛並みは残像<遥|はる>かに、それは、暴風にしか見えない程の<速度|たけり>だった。
　―――ならば、それは神速か。
　弾け跳んだ人狼が黒影なら、<迎|むか>え撃たんと踏みこむ彼も無音の影。
　向かうべき位置はきっかり三歩分。
　その、わずか一メートルの前進に、彼は<人生|おのれ>の全てを<賭|と>した。
　<瞬|またた>きひとつ分の時間で迫る死。
　疾走する巨大な暴力を前にして、彼は避ける素振りさえ見せなかった。
　地面よ割れよとばかりに踏みこまれる前<脚|あし>。
　ありあまる脚力が、はち切れんばかりの<背筋|はいきん>が、人狼の腕を振り下ろさせる。
　わずかな踏み込みが人狼の爪を<躱|かわ>す。
　しかし、彼が飛びこんだのは回避の為ではない。
　彼にはただ、この位置が必要だっただけ。
　そも、<躱|かわ>すも<躱|かわ>さないもない。
　彼の思考には初めから、<そ|・><の|・><点|・>しか存在しない。
　―――狙うは一点。
　意識の同一、
　呼吸の合致。
　<体幹|たいかん>の見切りと筋肉の<凝固|ぎょうこ><弛緩|しかん>その<隙間|すきま>。
　その地点こそ、唯一とも言える、<生命|いのち>の壁の亀裂である。
　人狼の胸に<叩|たた>きつけられる、あまりにも弱い人の力。
　鈍い打撃音と、飛び散る血飛沫。
　肉片も流血もすべては彼のもの。
「“、―――！？”」
　振り上げた人狼の爪が<痙攣|けいれん>する。
　人狼の精神より先に、人狼の肉体が、取るに足りない衝撃に虚脱した。
　正体の分からない一瞬の不明。
　息を吐こうと喉をあげる狼の口。
　狼は知らず、あえぐようにうつぶせに倒れかける。
　その横を、か細い人影がすり抜ける。
　衝撃は短い槍のように。
　人影は折れた左腕を<庇|かば>いもせず、前のめりに倒れこむ人狼の背中へ、残る右腕を<抉|えぐ>り打つ。
　もう一度、鈍い音がした。
　正面から<穿|うが>った位置と寸分違わぬ箇所を<貫|つ>く、心臓を圧する破裂の<楔|くさび>。
　一度目と違うのは飛び散る<血潮|ちしお>がない事と、獣のあえぎがした事だけ。
　ガ、と吐血をして人狼は倒れこんだ。
　立ち上がる気配はない。
なぎ払われた命はない。
　<以|もっ>て事は終わった。
　振るわれた暴力に一切の<撓|たわ>みなく、
　猛る金獣の四肢、無欠にして<天賦|てんぷ><盤石|ばんじゃく>。
　されど。わずか三秒の<交|まじ>わりで、人狼は敗北した。
「――――――」
　この世のものとは思えない結末に誰もが目を疑う。
　当事者は呼吸さえ乱さず、淡々と、倒れ<臥|ふ>した人狼を見下ろしていた。
　ならば、それは神速か。
　弾け跳んだ人狼が黒影なら、<迎|むか>え撃たんと踏みこむ彼も無音の黒影。
　向かうべき位置はきっかり三歩分。
　その、わずか一メートルの前進に、彼は<人生|おのれ>の全てを<賭|と>した。
「――――――」
　この世のものとは思えない結末に、当事者以外の誰もが目を疑う。
　それを一身に受けながら、人狼を見下ろしているのは言うまでもなく、静希草十郎という名前の、ごく当たり前の少年だった。
“……なんで……ボクが……？”
　地面に倒れ臥した後でも、<人|カ><狼|レ>は自分に起きた出来事を把握できなかった。
　心臓が破裂し、血液の逆流によって脳をふくむ身体機能が停止し、地面に倒れこんだ。
　そこまでは確認できる。
　通常の動物なら、それが死である事も承知している。
　だが<人|カ><狼|レ>にとってはどうでもいい問題だ。
　なにしろ心臓は復元を終え、身体機能はほぼ回復している。
　彼の神秘性を上回る魔術を受けた訳でもなし、こんな傷、小石につまずいたのと変わらない。
　……だから、<矛盾|もんだい>は。
　小石につまずいた程度で、心臓が止まる生き物はいないということ。
“……思い、出さないと……”
　<人|カ><狼|レ>は必死に記憶を呼び覚ます。
　爪を振り上げたところまでは、なんとか思い出せる。
　論点はその後だ。
　形状次第では速射砲の直撃すら耐える自分が、なぜ、人間程度の腕力に倒されたのか。
　いや。
なぜ、と言うのなら、そもそも相手が何をしたのかが分からない。
　たしか、<懐|ふところ>に入られた瞬間、小さな衝撃を一点に<搾|しぼ>りこむような接触があった。
　あの正確な一撃によって、心臓だけがダメージを受けたのかもしれない。
“ハ―――”
　そんな馬鹿な話はない。
　仮にそうだとしても、それだけで止まる心臓なぞ<人|カ><狼|レ>は待ち合わせていない。
　結局、どれだけ自問しても明確な答えはでなかった。
　そもそも“窮地に陥る”経験がなく、人間の<研磨|けんま>を知らない<人|カ><狼|レ>に、その答えは遠すぎた。
　なので、<人|カ><狼|レ>にとって確かな事は、己が倒れ臥している事実だけ。
　手探りで経緯を思い返す。
　―――胸に<炸裂|さくれつ>した衝撃と、一瞬の空白。
　その後、相手におおい<被|かぶ>さるように倒れこむ<最中|さなか>、もう一度背中に衝撃が走ったのだ。
　心臓を破ったのは、その一撃によるものらしい。
“……ふざけてる。そんな事で、ボクが―――”
　倒される筈はない。
　物理的に間違っている。
　反則じみた結末に、少年は歯ぎしりをして全身に力をこめた。
“―――そうだ。こんなのはウソだ。同族でだってボクを負かせる奴はいなかった。
こんな痛みも、こんな事態も、全部ウソだ。
不合理に狂っている。
だって、この<器|ボク>が、他の生き物に負けるハズが……！”
　考察の時間は終わりだ。
　とうに傷は癒えている。
　再戦のため、<人|カ><狼|レ>は倒れたまま、傍らに立つ敵を睨みつけ、
“負ける――ハズ、が―――”
　瞬間。
　よく分からない新種の痛みが、人狼の背中を走り抜けた。
　頭上には無機質な<視|め>。<眼|め>。<目|め>。
　あまりにも<活|いろ>がない。
　まだ虚空にある月の方が<活|い>きている。
　ソレの両腕は折れている。
　人智に収まらぬ強打によって跡形もない。
　痛覚があるのなら<叫|こえ>が漏れる。
　なのに無音という事は。
　故に／
あるいは元より
／生きていない。／
のか。
　ソレは死人のような<貌|め>で<人|カ><狼|レ>を凝視している。
　　　　　　　　　　　　　　　
近いモノなら知っている。
　憎悪もなし歓喜もなし。
　いかなる意思の発露もなし。
　　　　　　　　　　　　　　　
<脳|ちせい>のない昆虫だ。
　ぞわりと体毛がささくれ立つ。
　己が背に走る感情の名を、人狼は知らない。
　その不可解さに<怖|おじ>けてしまったことを、そもそも恐怖を知らなかった<人|カ><狼|レ>には、微塵たりとも自覚できない。
　……金狼は今まで、多くの神秘と戦い、これを打ち破ってきた。
　カレは自分以上の巨体を誇る獣を知っている。
　自分と同じ、伝承から生まれた獣も知っている。
　だが、コレは知らない。
　人間ほどの大きさをした昆虫など、彼は出会ってもいないし、想像した事さえなかった。
“―――、―――”
　背筋が二つに割れそうな<悪寒|おかん>。
　今ここで少しでも動けば、何の理由も初動もなく、首めがけてあの足が落ちてくる。
　そんな絶望的な予感とは裏腹に、この相手は決して動かない事も、少年は感じ取っていた。
　この人間は、これ以上の暴力は振るわない。
　生き物らしい……いや、動物らしい本能がない石くれのクセに、<人|・><間|・><ら|・><し|・><い|・><分|・><別|・><で|・><動|・><い|・><て|・><い|・><る|・>。
　その矛盾が、<人|カ><狼|レ>の<価値観|こころ>に粘りつく。
　未知の<感情|きょうふ>からくる<幻肢痛|げんしつう>。
　ぷつぷつと音をたてて、小さな<画鋲|がびょう>が心臓に迫るようだ。
　それは<人|カ><狼|レ>がはじめて出会った疑問であり、現実だった。
　この世にはどうしようもない矛盾があり、そして―――
　答えなど知りたくもない“不合理”があるのだと。
“っ―――い、た―――ぃ”
　それまで遮断していた痛覚が、全身にあふれ出す。
　こんな事も初めてだった。
　今まで<人|カ><狼|レ>の体は痛覚すら制御してきた。
　そもそも悪寒など感じた事もなかった。
　精霊がいたのなら嘆いただろう。
　……ああ。生まれながら完成していたモノが、人の世の不条理に混乱している。
“いた―――いたい、いたい、いたい―――！”
　心臓は完治している。
恐れからくる幻肢痛にあえぎながら、<人|カ><狼|レ>は震える体を抱きしめる。
　頭上にはレンズのような人間の目。
　それで、少年は自分が生きている理由をようやく悟った。
　たとえ両腕がなくても、残った足だけでこの相手は自分を殺せただろう。
　けれどそれはありえない。
　なぜなら、この相手は<た|・><だ|・><や|・><り|・><返|・><し|・><た|・><だ|・><け|・>なのだから。
　彼を殺そうとした狼に対しての反撃、ではない。
　これは彼女たちを傷つけた行為に対する、当然の報復だった。
“―――、……、―――”
　おかしさから<喉|のど>がひきつる。
　呼吸はさっきから乱れっぱなし。
　この人間には自己がない。
立ち塞がった金狼を、己に向けられた脅威だと計りもしない。
　憎悪も恐怖も、おそらくは殺意すらなかったのはそういう事だ。
　―――そう。人狼が生かされているのは、この人間の意志によるものではない。
　戦いも機械的なら、その判断も機械的。
　この生き物はただ、<等|・><価|・><な|・><交|・><換|・><を|・><行|・><っ|・><た|・>だけなのだ。
　人狼が彼女たちを一人でも手に掛けていれば、この差し引きは違っただろう。
“……殺していたら、殺されていた……？”
　その問いかけに、ぞくりとした。
　今まで考える事すらなかった恐れ。
　自分はその<規律|ルール>の外にいるのだと、当然のように思っていたのに―――！
　体中に痛みが走る。
　いかな神秘であろうと、傷つき、朽ちる事に例外はない。
　そんな当たり前の摂理を、少年はようやく思い知った。
　いや、思い知らされてしまった。
“……殺されてた……間違いなく……”
　無機質な目は、感慨もなく見下ろしている。
　報復は万物に共通する摂理だ。
　それはもう痛いほどよく分かった。
　―――なのに。
なのに。
なのに。
　それを体現した生き物が、なにより、その決まりから外れているおぞましさ……！
　敗北の痛み、心臓の痛み、なにより、不可解を知った痛み。
　痛み、痛み、痛み。
　あり得ない出来事によって、完璧だった世界が崩れていく。
　それは全身を食い尽くす<茨|いばら>となって、少年の心柱を切断していった。
　　　　　　　目眩を起こすほどの疑問。
　　　ああ―――
人間は、<あ|・><ま|・><り|・><に|・><も|・><不|・><可|・><解|・><す|・><ぎ|・><る|・>。
“……殺されてた。殺されてた、殺されてた……”
　他人の死に向けられたものではなく、己が生に対する<畏|おそ>れ。
　それに耐えられなくなって、<人|カ><狼|レ>は獣から人間に戻ってしまった。
　……静かに。
　母親の膝で<怯|おび>える子供のように、体を震わせながら。
「な…………」
　倒れたまま、青子はつい声を飲んでしまった。
　正直、目の前で起こった事が把握できない。
「……草十郎、アンタ……」
　つい呼びかける声が震えてしまう。
「なに？」
　草十郎はいつもの口調で、ごく自然に振り向いた。
「なにって……いま自分が何をしたか分かってんの！？」
　悪いのはアンタの方、と言わんばかりの怒鳴り声だった。
　草十郎は目を点にして、青子が怒るような事をしたかな、と考えこむ。
　視線を下に向けると、人狼は少年の姿に戻っていた。
　……青子はこの事を言っているんだろうか、とようやく気付いて、草十郎は不機嫌そうに眉をひそめた。
「心外だな。蒼崎は分かってると思ってた」
　向けられる批難の目。
「え……わ、分かってるって、何をよ」
　非難される覚えはないので、青子もややつっけんどんに聞き返す。
　それに、草十郎は重いため息を洩らした。
「山じゃ、熊はそう珍しいものじゃない。
　以前、確かに言ったじゃないか」
「――――――
は？」
　……開いた口が<塞|ふさ>がらない。
　今の言葉をそのままの意味として受け入れるのには、幾分かの時間を要した。
　青子はいつかの、他愛のないやりとりを思い出す。
『……君、もしかして俺を罵迦にしているのか？
　まったく、なんで熊を倒すためなんかに修業しなくちゃいけないんだ』
「………………」
　そう。よくよく思い返してみると、アレはおかしな言い回しだったのだ。
　熊という巨獣に慣れていないと言えない台詞だし、
　そもそも何より、彼本人が“修業をしていた”なんて時代錯誤な言葉を否定していない。
　……と、なると。
　彼にとって、自分より大きな動物は珍しいものではなく。
　野生の熊と遭遇するような生活をしていたのなら、人間が狼になる程度、驚くことはあれ、恐れることはないのかもしれない。
　そこまで思い至って、青子は大きくうなだれた。
　初めから、いちばん常識から外れていたのは、一体誰だったのか―――
「……まいったわ。貴方の勝ちよ、草十郎」
　感服したのか、それとも心底呆れたのか。
　とにかく肩の力をがっくりと落として、青子は自分にだけ聞こえるよう、そんな台詞を呟いた。
　一方、橙子は一連の出来事を正確に把握していた。
　倒れ<臥|ふ>し、人型になってしまったベオと、
　その傍らに立っている、両腕を粉砕した少年。
　人狼の一撃を受けて青子と有珠はまだ立ち上がれそうにないが、呼吸ができる程度には回復している。
　対して、自分に残された物はあと数刻……三、四回分のルーン文字だけである。
　背後の魔術刻印は使えない。
　刻印の残魔力量―――祖父を密閉している結界を解除すれば攻撃に回せるが、それは下策にすぎる。
　そもそも、いま祖父を解放すれば霊地の所有権は根こそぎ奪われる。
　ここで青子たちに勝利しても始めからやり直し―――なんて徒労は容認できないし、なにより、この姉妹喧嘩に二度目はない。
　一度きりの奇襲だからこそ、彼女は全ての資金を<費|つい>やしたのだ。
　自分がまだ蒼崎の身内である事を利用した侵攻。
　身を粉にして得た三年間の成果を協会に売り渡し、
　二十年分の髪を代償にし、新たな使い魔を動員した。
　この条件で戦える事など、おそらく二度とはありえまい。
“―――だが、私は失敗した”
　敗因は一点、人狼の力を絶対視しすぎていた事だ。
　本来、そこに間違いはない。
　相手が魔術師であるのなら黄金のベオウルフだけで完璧なまでに勝利できる。
　……ただ、そこに神風みたいなトラブルが紛れこんだ。
　ベオの強さは相性の強さだ。
　それを熟知しておきながら、なぜ、アレを食い物にできる例外もあると<留意|りゅうい>しなかったのか。
　橙子は冷えきった心で、立ち尽くす少年を凝視する。
　……草十郎の両腕は、ひどい事になっていた。
　正面からベオを打った左手は、腕のカタチをしていない。
　知恵の輪のように折れ曲がった骨と、はじけ散った筋肉繊維。<粉砕|ふんさい><骨折|こっせつ>と呼ぶのも馬鹿らしい。
　残った右腕も、肘に赤い血がにじみ出ている。
　ベオの背中を強打した肘は、その肩の筋組織まで破裂させたのだろう。
　……だらりと下がっている両腕を見ると、どちらも二度とは振るえまい。
　だが、より深い損傷を負っているのは彼の腕ではなく、内臓と左足だ。
　軸足となった草十郎の左足は、ベオの突進を支えたに等しい。
無事のように見えるが、あれはもう、ただ胴体に付いているだけの肉片だ。
　<内臓|なかみ>はもっと酷い。ベオの体重を受け止めた事で背骨は<軋|きし>み、所々が内出血をしている。
　つまり死に<体|たい>。
　あれは翼を失った鳥と同じ。
　生きる為のカタチを捨てた、終わった命。
　もう一度戦えば、彼に戦う<術|すべ>はない。
　対して、倒れている人狼に傷はない。
　口から吐いた<血咳|けっせき>は一度だけだ。
　雪原を染める赤い血は、草十郎だけが流している。
　あの鋼より硬い人狼の体毛を、躊躇する事なく殴り付けた証拠である。
“……当然だ。衝撃には反動が伴う。
　拳を振るうのなら相応の負担がある。まして相手は人狼。
　走ってくる鉄の壁を真っ向から殴るようなものだ。
　それを―――”
　承知の上で、平然と<行|おこな>ったのか。
　動物は自分の体を庇って、本能的に力を加減してしまう。
　それを理性の力、技術の<巧|たく>みで<補|おぎな>うのが人間の利点だとしたら、今のは人間の長所の結晶であり、同時に、あまりにも人間性からかけ離れている。
　自身の保存を顧みない、無償の一撃。
　自己保存の<楔|くさび>を外せば、その一撃は驚異的なものになるだろう。
　鋼の如き人狼の体毛を貫通したのはその結果だ。
　……けれど、人間程度の腕力で、戦車の砲撃にも耐えるあの怪物を倒せるなどとは誰が思おうか。
“……いや、違う。
ためらう事なく殴り付けたから壊れた、のではない。
初めから、アレは<壊|・><す|・><事|・><を|・><前|・><提|・><に|・><し|・><て|・>いたな……”
　身体を引き替えにした心臓撃ち。
　草十郎の狼退治を脳裏に再生した途端、橙子はぞくりとした感覚を味わった。
　彼女にとっては悪夢でしかない筈なのに、目を奪った人体合理の極北。
　門外漢である橙子に見えたものは、アレはわずかな偶然もふくまない、当然の帰結であるという事だけ。
　少年はあの瞬間―――ベオの胸板を貫く事だけに<専心|せんしん>していた。
　この広場に現れ、青子たちを視界に収めた時から。
　ベオを観察し、ベオと呼吸を合わせ、
　ベオの欠点、交差するのならどの位置が適切か、どのタイミングなら決して<覆|くつがえ>らない天秤が覆るのかを算出し。
　<こ|・><の|・><条|・><件|・>なら勝機があると読み、そうなるように、自身の全てを費やした。
　……それは、野生の感性などでは決してない。
　野生の獣なら、勝てない相手には挑まない。
　勝ち目のない戦いに命を賭すのは、人間だけの矛盾である。
　その矛盾が、あの一撃を練りあげた。
　全身の円運動、<踝|かかと>から首までの捻りだしを、<錐|きり>状にして集結させた。
　……あるいは、ベオが突進による<轢殺|れきさつ>を目的としたのなら、草十郎は為す術なくひき殺されていただろう。
　だがベオは相手を引き裂く事を選んだ。
いや、安い挑発で選ばされた。
　金狼が突進し、踏みこむ瞬間。
　爪を振り上げ、下ろす時の<気勢|いしき>の淀み。
　運動の基点、脈拍の乱れ、一瞬の無防備さ。
　彼が突いたのはその一点だ。
　力を持て余し、ただ周囲にまき散らすだけの怪物と。
　数少ない力を<束|たば>ね、極小の一点に注ぎこむ人間の執念。
　その差が、天秤を人間に<傾|かたむ>けた。
　その後、あの<無様|ぶざま>な肘撃ちでベオの心臓は破裂した。
　二撃目の肘撃ちには何の美しさもない。
　力まかせの、ベオと大差ない未熟な攻撃だった。
　本来ならベオの体毛に弾かれるだけの肘撃ちを致命傷たらしめたのは、最初の一撃があってこそ。
“……あの時点でベオは丸裸にされていた。
　無敵の人狼が、その機能の一切を休止させられた。
　つまり―――”
　アレは『壊す』のではなく、『止める』ための芸術だ。
　生物には欠点がある。
　どのような強者であれ、弱い部分、弱い瞬間、弱い時間は存在する。
　それは<生態機能|フィジカル>だけに及ばず、<精神|メンタル>にもある落とし穴だ。
　曰く、調子が悪い。
　思考が冴えない、気分が乗らない。
　<病|やまい>、睡眠、食事、最小単位で言うのなら呼吸の隙間。
　多くの理由から、理性あるものはその力を十全に発揮できない危険がある。
　いかな神話の獣と言えど、ヒトであるかぎりその縛りからは逃れられない。
“……弱点、欠点を突く魔術なら知っているが―――全てを投げうって<弱|・><点|・><を|・><生|・><む|・>とはな”
　あの少年の心臓撃ちは、ベオを殺す目的で撃たれたものではない。
　アレは弱点がないものに、弱点を作っただけ。
　その後の肘撃ちが力任せでありながらベオを粉砕したのは、既にベオが己の完全性を見失っていたからだ。
“……加えて、笑える事に不意打ちですらない。
　ベオの神経の伝達速度なら、毒が当たった瞬間に感知し、対応できる。
　だが―――そもそも、それを毒と認識できなければ変形のしようもない。
<毒|・><で|・><は|・><な|・><い|・><も|・><の|・><が|・><毒|・><に|・><な|・><る|・>なんて落とし穴を、誰が教えてやれるものか―――”
　舌打ちの一つもしたくなる。
　アレは究極の<献身|けんしん>。もしくは<捨身|しゃしん>。
　見返りを一切考えず、たった一秒の空白を作り上げる為だけに己の全てを賭した。
　それが出来る技量と経験を、あの少年は持っていたのだ。
　奇跡を呼ぶ幸運も、
　奇跡を掴む情熱も、あの行為には関わりがない。
　アレは才能によるものではなく、執念、怨念の<類|たぐい>。
　過度の、極限状態での<鍛練|くりかえし>でなければ、あんな、一瞬で自身を焼却するような真似はできない。
“……子供には、相手が悪かったようね”
　うずくまるベオを見て、橙子は自身の甘さに失望した。
　性能のみを評価して連れてきたが、経験の少なさがこの結果を生んだのだ。
　ベオが子供でなければ、せめて一度でも自分と対等の相手と命を削りあう経験があったのなら、すぐさま立ち上がって草十郎を食い殺していただろうに。
“ベオを責めるべきか、それとも……君を評価すべきなのか”
　そして、彼女は静かに左手を持ち上げる。
　気が付く者は一人もいなかった。
　遠くで立つ少年の姿は、絵本の狩人に見えた。
　細い肉付きだが、アレは意図的に無駄を削ぎ落とされた結果だろう。
　今の光景の後だと、その<飄然|ひょうぜん>とした仕草も、獲物を狙う獣のしなやかさを思わせる。
　それを感じながら、橙子は不意に思い出した。
　自分が彼と初めて話をした時、まっさきに脳裏によぎった事柄を。
“……そうだったな。
　だが、それは忘れていたかったよ、草十郎君”
　自分らしからぬ感傷を、鉄の理性が飲み下す。
　手段の善悪など、蒼崎の後継ぎとして育てられた時に消失している。
　だから、今からでも。
　彼女のやるべき行為は、たった一つに決まっていた。
「でも、よかった」
　折れた両腕が痛むのか、草十郎は一歩も動かずに、そんな事を呟いた。
　彼は青子を見ていない。
　労りのこもった視線は、遠くの有珠に向けられている。
　どうしてか、その姿が孤独に見えて、
「よかったって、なにがよ」
　焚きつけるように、青子はそう問いかけた。
　ふたりの距離は離れてはいるが、互いが二歩も踏みだせば手が届く距離でもあった。
　小さな声も、この静けさではよく届く。
「私たちが無事だったから、なんて言ったら怒るわよ」
　本心から青子は言う。
　草十郎は青子から少しだけ顔を背けて、いや、と首を振った。
「口にするのは三度目だけど、蒼崎の心配はしていないんだ。
　……いや、さっきはちょっと、意識が飛んだようなんだけど」
　照れくさそうに苦笑する。
　一度目は目眩で意識を失った。けれど、二度目は目眩も吐き気も、強い激情でかき消された。
　彼は彼なりに冷静に、やれる事に<努|つと>めただけ。
　ただ、どんなに冷静になろうとしたところで、その根底にあったものは、自分本意な怒りだったのだ。
「ふーん……じゃ、何がよかったのよ、草十郎」
　やや不満そうな青子の声。
　それに、
「だって、ようやく約束が守れた。そっちだけが約束を守っているのに、こっちは果たせなかっただろ。
　それがずっと気になっていたんだ。その機会があって、本当によかった」
　彼は本当に嬉しそうに、ささやかな笑顔を浮かべた。
　青子は呆然とその言葉を聞いている。
　一瞬、草十郎の言う約束とは何なのか、彼女には思い当たらなかった。
　それがもう遥か昔の出来事のような、遊園地でのものと気付いた時、思考が真っ白になってしまった。
『アイツをやっつけるのに協力したら、俺の事は見逃してくれる？』
　自分から提案を持ちだしたものの、結局、あまり役には立てなかった。
　それを彼はずっと気に病んでいたのだろう。
　……青子にとってあの約束は、自分だけの<約|も><束|の>だと思っていたのに。
「……あんな、どうでもいい事を……？」
　信じられない、と呟く青子。
　か細いその声に、草十郎はああ、とうなずいた。
「約束は、自分のために果たすものだって、教えてくれたのは蒼崎だ。
　だから、君が守っているかぎり俺も守らないといけない。
　……ああ。ずっと、俺はそうしたかったんだ」
　告解のような独白に、青子は答えない。
　返答する言葉が見当たらない。
　……何なんだろう、この男は。
　あんな些細な約束を大事に思って、こんな簡単な言葉を大切そうに口にして。
　人狼を倒してしまった事も謎なら、その性格も謎だらけだ。
　―――いまさら思い返すまでもなく。
　少なくとも蒼崎青子にとって、この相手は<徹頭|てっとう><徹尾|てつび>、正体不明の存在なのだった。
「それじゃ、借りは返したから帳尻はゼロだ。
　これで貸し借りはなしだぞ、蒼崎」
　草十郎は冗談っぽく口にする。
　無言で沈みこむ青子に気を利かせたのだろう。
　いつもは気が付かないけれど、今回ばかりは、彼のそんな穏やかな優しさは伝わったようだ。
「貸しがついたのはこっちの方よ。
……これじゃ、どうやって返していいか分からないじゃない」
　青子のぼやきに、草十郎はもう一度、ああ、と嬉しげに頷いた。
「それより蒼崎の足、なんか<塞|ふさ>がってるな。
　もしかして、もう立てるのか？」
　あったりまえよ、と青子は目で意地を張る。
　その気丈さに呆れながら、草十郎は右手を差し伸べた。
　肘が砕けているのに、青子にはその右手は何より頑丈そうに見えた。
　どう見ても再起不能。おそらくは<一生涯|いっしょうがい><完治|かんち>しまい。
　それでも青子を立たせる為なら、その時だけは痛まないのだろう。
「……ほんと、アンタってばか」
　見上げながら青子は小さく呟いた。
　悔しいけれど、今はその手を拒めそうにない。
　青子は仕方なげに、草十郎の手を取ろうと手を伸ばす。
　けれど、その手が触れ合う事はなかった。
　しゃん、と鈴を鳴らす音。
　風は線を引いて走った。
　断頭台の刃は、胴体を裂くように横なぐりに。
　あっけなく崩れ落ちる。
　目の前に落ちた<物|モ><体|ノ>が一秒前まで誰だったか、彼女はすぐに、思い出せなかった。
「そう……じゅうろう……？」
　自分と同じく地に臥した、そう呼ばれていた物に青子は語りかけた。
　彼の顔はもう、自分より低いところに倒れている。
　鼻腔をつく<臓|ハ><物|ラ>の異臭。
　かつて胃のあった箇所から、赤い血液が飛散している。
　一瞬の出来事だった。
　水のつまったバケツを倒した時みたいに、何もかも一瞬で終わってしまって、現実感がまるで無い。
　唯一の救いは、たぶん、痛みさえ一瞬だった事ぐらい。
　青子は一変した状況を目前にしながら、冷静に、即死だな、と判断する自分に腹を立てた。
　……しかし。
そうなると、これを行った相手にはどんな感情をぶつければいいのだろう。
　怒りは自分相手に使ってしまった。
　他人に回す余裕なんて許さない。
　この憎悪は自分を焼く為に使うと決めた。
　次の問題は、コレを上回る激情が、はたして自分の中にあるかどうか。
　疑問に思いつつ、それを探すのはわりと楽しそうな気がして、彼女はくすりと<微笑|わら>ってしまった。
　旧校舎に視線を向けると、片腕を胸の位置に構えた蒼崎橙子の姿がある。
　彼女は青子や有珠には魔力で<弾|はじ>かれる簡素なルーン魔術を、刻印を持たない<草|あ><十|い><郎|て>に放ったのだ。
　橙子は琥珀色の瞳をやや細めて、崩れ落ちた死体を見つめている。
　そこにどんな感情があるかなんて、青子はいちいち考えてみる気にもならなかった。
　もし仮に後悔の色なんてあったりしたら、それこそ一生許せないだろうし。
「やはり、君からこうしておくべきだったな」
　橙子は青子にではなく、もう応えない死体に語りかけた。
　反応もない。
呼吸もない。
　それが完全に死んでいる事を確認して、青子は腕に力をこめて立ち上がった。
「案外、無様ね」
　遠く離れた姉に向けて、青子は乾いた声で語りかける。
「でも正しい選択だわ。これで勝負はやり直しだもの」
　彼の死体に背を向けて、青子は橙子へと向き直った。
　両者の距離は遠い。
　それは実際の広がりより、遥かに遠い<断絶|だんぜつ>。
　本当は交わす言葉なんて無いのだけど、今までの姉妹としての人生に敬意を表して、ふたりは益体のない会話を交わす。
「―――ああ。魔術刻印という私の切札はこの通りで、人狼というカードもおまえの切札の前に破れ去った。
　だが、そちらも刻印を使いきり、彼もいま息絶えた。
　互いに決定打はなくなった訳だ」
「そうね。私も甘かった。人狼が再起不能になった時点で、貴女が敗北を認めたなんて勝手に思い上がるんだから。
　……本来ならそうなるんだけど、貴女がそんなに<諦|あきら>めがいいのなら、この町に戻ってきはしないものね。
　――――――
本当に、甘かった」
　青子の声が、自分の<言霊|ことだま>を圧倒している事を橙子は認めた。
　青子の見解は正しい。それほど橙子は<使い魔|ベオウルフ>に依存していた。
　有珠と青子にどんな切札があろうと、彼女たちが魔術師である以上、倒しようのなかった最強の人狼。
　それを破った草十郎がいるかぎりは、橙子に勝利はない。
　けれど草十郎は人狼を討つ事はできても、魔術師に対しては、そのかぎりではなかったのだ。
　だから殺した。
　草十郎さえ退場すれば人狼を阻む者はいなくなる。
　人狼の再起に時間はかかるだろうが、精神的なものであるなら治療可能だ。
　その前に青子たちは挑んでくるだろうが、有珠の体内の毒草を解呪しないかぎり橙子の優位は動かない。
　この通り、今はお互い決定打が無い。
　戦いはどう見ても後日に引き伸ばされる事になる。
　―――青子が、それを使わなければ。
　粉雪が舞う。
　彼女を中心に、大気そのものが<軋|きし>みをあげる。
　―――神秘を<超越|ちょうえつ>した魔術。
　人智を<拒|こば>む奇跡の扉が、この雪原に下りようとしている。
「やる気のようね、青子」
　橙子は結界の維持を解除した。
　これで祖父は自由になり、ここまで破壊した三咲の結界は修復されてしまうだろう。
　だが、今ここで刻印を使わなければ自分の命が無いと彼女は即断した。
　使用可能になった橙子の刻印は、青子の<刻印|それ>の二倍強。
　その脅威を青子は半眼で眺めている。
　まるっきり興味の外。
　彼女はそんな<外部|モノ>より、心中に<潜|ひそ>むモノを探りあて、慎重に捕まえていた。
　……それは、<藻|も>のような手応えだった。
　激情の<類|たぐい>ではないし、堅くも、大きくもない。
　きっと、こんなのはその場の<勢|いきお>い。
　彼女は思考そのものを放棄して、心中のわだかまりを掌中に収め、強く敵を凝視する。
「いいわよ、橙子」
　小さな、けれど叫びより確かな呟き。
「―――お望みどおり、本当の『魔法』を見せてあげる」
　輝きを失った右腕の刻印に<意識|ちから>を込めて、彼女はその続きをはっきりと紡いだ。
　ひとつの呪文。
　深い想いが<籠|こ>められた彼女の訣別。
　それは、ある誰かの幸福だった時間を巻き戻す、青い色をした魔法のことば。
　それから六日が経って、天気は晴れて。
　彼がその話を聞いたのは、一日かけての大掃除が終わって、有珠と一服している時。
「草十郎、今日ぐらいはバイト休みでしょ？」
　居間に入ってくるなり、青子はいつもの調子でそう言った。
　夜もふけて、時刻は九時になろうとしている。
　昼間の晴天から一変して、窓の外は厚い雲。
　それをのんびり眺めていた草十郎は、うん？と平和そうに首をかしげた。
「休みだけど、どうして？」
「これから実家に戻るから、用意しておいて」
　緩みきった草十郎の表情は、青子の登場でとたんに曇ってしまう。
　今の台詞が自分にどう関係するのか掴めず、草十郎は正面に座っている有珠をちらりと盗み見た。
　有珠にとっても今の台詞は意外だったらしく、わずかに目を開かせて、青子と草十郎を<見比|みくら>べている。
「用意って、何の？」
　大掃除が終わるまで行方を<暗|くら>ましていた青子への批難をぐっと<堪|こら>えて、草十郎は恐る恐る聞き返す。
「用意は用意よ。一時間ぐらい歩く山の上だから、寒くない格好しろって言ってるの」
　草十郎はますます顔を曇らせる。
　今の言い回しだと、まるで―――
「……静希君を連れていくの？」
　草十郎が口にするより早く、有珠が青子に問いかけた。
　それにいけない？　と青子は言い返す。
「私だってあんなとこに行きたくないわよ。
　けど今日ぐらいは顔を出せってうるさいから、ホントに顔だけ見せにいくの。
草十郎を連れていくのは、たんに暇だからだけど」
　文句ないでしょ？　と胸を張って主張する。
　有珠はどこかうかない顔をして青子を見る。
　草十郎も露骨にイヤそうな顔をして青子を見る。
　そんなふたりの無言の抗議は、もちろん、青子にはまったく通じなかった。
「それじゃ、<半|はん>になったら出かけるからね」
　言いたい事だけ言って、青子は居間から姿を消した。
　残ったふたりは呆然とするばかりだ。
「有珠。蒼崎の家って、遠いのか？」
　九時半まであと十分ほどの時計を見つめながら、草十郎は問いかけた。
「場所的には三咲市の端よ。ここから電車で四駅分<下|くだ>った、小さな山の中にあるわ。
　……貴方の住んでいたところに比べれば丘でしょうけど」
　表情こそ変わらないものの、有珠の声は思いっきり不機嫌そうだった。……本人がそうと気付いていないところが、いっそうのご機嫌斜めぶりを<示|しめ>している。
「そっか。今から行ったら、帰ってくるのは明日になるね」
「……帰ってこられたらの話だけど」
　草十郎の独り言に、有珠も独り言で反応した。
　これから旅立つ人間に、思いっきり不吉な予言をするように。
「……蒼崎の家ってお化けでも出るのか？」
　草十郎の問いに有珠は答えない。
　ティーカップから視線を上げ、無言で草十郎を眺めるだけだった。
「……有珠？」
　どこか様子のおかしい彼女に呼びかけると、有珠はふい、と顔を背けてしまった。
　……時計は、もうじき半になろうとしている。
　有珠の様子は気がかりだが、草十郎は仕方なくソファーから立ち上がった。
「それじゃ、行ってくるよ」
　トコトコと居間を横切る草十郎。
　その背中を、有珠はいつまでも見つめ続けた。
　草十郎が部屋に戻って外行きに着替え、ロビーまで下りた時、青子はとっくに準備を済ませて待っていた。
　青子の横には有珠がいて、何やら話しこんでいる。
　草十郎が階段を下りきると、青子はよし、と調子をとるように会話を切った。
「それじゃ行きましょうか。有珠、留守番よろしくね」
　有珠は頷きだけで応えた。
　青子はつかつかと玄関へ歩いていく。
　草十郎はロビーでコートを羽織りつつ、青子の後を追うように歩きだした。
「ほら、ぐずぐずしないっ！」
　青子の呼びかけに足を速める草十郎だったが、何を思ったか唐突に立ち止まった。
　そういえば部屋のストーブがつけっぱなしだったな、なんて素振りで、ひとり<佇|たたず>む有珠へと振り返る。
「それじゃ行ってくる。できるだけ早めに帰ってくるから、寝ないで待ってるんだぞ有珠」
　突然の言いつけに、有珠は不意をつかれたように<瞬|またた>きをした。
　草十郎は返事を待っていて、
　青子は腕を組んでふたりのやりとりを眺めている。
　……それに少し戸惑ってから、有珠は無言で居間へと行ってしまった。
　どうでもいい草十郎の言葉に、こくんと<控|ひか>え目にうなずいてから。
　<秋古城|あきこしろ>というのが、その駅の名前だった。
　夜はふけて十一時より少し前。
　参拝客の一団を乗せた<上|のぼ>りの列車とは逆行して、ふたりはその小さな駅に着いた。
　周囲はあまりにも暗く、静かだ。
　駅というより深夜の波止場を思わせる。
　平時でさえ、この駅で降りる人は少ないのだろう。
　時折やってくる列車を見送るだけの停留所。
　駅のまわりにはコンビニエンスストアの一軒もなく、あるのは一面の畑と、道に立てられた街灯だけ。
　駅員室で座ったまま眠る駅員の前にキップを置いて、青子は時刻表を確認する。
　零時半過ぎに、もう一本だけ帰りの電車がある。
　最終電車を確認して、青子は急ぎ足で駅を後にした。
　……年老いた駅員はひとりきりだった。
　彼はストーブとテレビをつけたまま、こくこくと船を<漕|こ>いでいる。
　その寝顔は満ち足りている。
　あまりにも広大な夜の闇。
　自動車の供給と共に<廃|すた>れてしまった小さな駅。
　暗い宇宙の中でただひとつ光を放つ、孤独な星のようだ。
　それを何十年と守り、これからも人生の終わりまで付きそう事を良しとした老人に一礼して、草十郎も暗い夜に足を向けた。
　駅から出ると、そこは村というよりは里だった。
　駅前には<広場|ロータリー>すらない。
　パノラマに広がる平地は一面の畑で、網の目のように<畦道|あぜみち>がある。
　夏であれば風紋を走らせる小麦畑も、冬の夜では荒地にしか見えない。
　ただ一面の闇の中、電灯だけが場違いに<灯|とも>っている。
　寒さは夜になってより厳しさを増していた。
　冷気は容赦なく、指先から<感覚|ねつ>を奪っていく。
　両手をポケットにいれて、青子は畦道を歩きだした。
　<靴|ブーツ>には土の感触。
　町とは違う柔らかさに、青子は懐かしさを感じている。
　彼女にとっては、中学生時代まで毎日のように通った道だ。
「あの山の真ん中あたり、家の明かりが見えるでしょ？
　アレがうち」
　もりあがった<山|やみ>を指さす青子。
　ここからだと四十分も歩けば辿り着けるだろう。
　道は長く、しばらくは畦道が続いている。
　青子は振り返らず、明かりに照らされた道を歩いていく。
　浮かび上がった道は、暗い海にかけられた<桟橋|さんばし>のように見えた。
　山に近づくにつれ、暗闇は深くなる。
　ここでは人の<喧|お><噪|と>は忘れ去られている。
　頭上の月の光は眩しいほど。
　真っ黒い山道は、その光に照らされて<闇色|やみいろ>から<影色|かげいろ>になっている。
　周りは暗いけれど、世界はたしかに見渡せた。
　ゴールの見えない道は<延々|えんえん>と続いている。
　青子のペースに合わせて歩きながら、ふと草十郎は彼女の横顔を盗み見た。
　月明かりが鮮やかとは言え、ここまで静かな夜道に青子は不安を感じないのだろうか。
　青子は無言のまま、いたって普通の顔つきで歩いている。
　こんな顔の時は、決まって強がっている時だ。
　一ヶ月程度の未熟な経験からではあるが、草十郎は確かにそう感じ取った。
　何か、些細だけれど無視できない問題を、彼女は飲みこもうとしているらしい。
「蒼崎でもこういうところは恐いのかい？」
　試しに訊いてみると、青子は意外にも頷いた。
「こんな夜道を恐がらない人なんて、普通いないでしょう。
　我慢できるか無視できるかの二つだけよ。そのどちらも出来ない人は、夜に出歩かないわ」
「なるほど。それじゃ、どうして自分を連れてきたんだ」
「言わなかった？　こんな何もない道をひとりで歩くのは時間の無駄でしょ。退屈しのぎに話し相手がほしかったの」
「……そういえば、そんな事を言ってたな」
　それきり草十郎は黙りこむ。
　別に青子の言葉に落ちこんだ訳でもなく、必死に何かを探しているような素振りだ。
　夜の道は続いていく。
　ふたりの足音だけが響く中、青子は彼女なりに耐えてみたけれど、それも限界とばかりに口を開けた。
「草十郎、退屈しのぎに何か話してよ」
「……まいったな。話すような事はないんだけど」
　面目ない、と頭を抱える。
　どうも、さっき黙りこんだのは<話|そ><題|れ>を探しての事らしい。
　青子は呆れながらも温かなため息をひとつ。
　とことん律儀な草十郎の人柄が、彼女を悩ませていたモノを少しだけ<剥|は>がしていった。
「莫迦ね、嘘でもなんでもいいから、とにかく話をすればいいの。別に面白い話なんて期待してないから」
　青子は素っ気ない態度で、あんまりな事を言う。
　そもそも嘘なんて言ったら、それこそお仕置きタイムだ。
　前に嘘は嫌い、といったのは蒼崎本人じゃないか、と草十郎は内心でごちてみた。
　当然、青子からの返事はない。
「……仕方ない。話はないけど、聞きたい事ならあった。
　何でもいいならそれもいいだろう？」
　草十郎の提案に、青子はかすかに眉を寄せた。
　けれどそれも一瞬で、彼女はすぐに元の、落ち着いた<表情|かお>に戻る。
「……ま、それもいいか。どうせ、もうすぐ忘れるんだから」
　草十郎から目を逸らして、呟くように青子は答えた。
　山中の目的地は、まだ影も形も見えてこない。
　あれからずっと<抱|かか>えていた疑問。
　今回の事件の<顛末|てんまつ>と、姉妹間の決着。
　そういった余分な話を、草十郎は口にする。
「それで、橙子さんは何がしたかったんだ？」
「あれ、言わなかった？　<蒼崎|わたし>への復讐と、根源に接触する事だって。
根源の渦については前に少しだけ話したでしょ」
「……たしか、魔術の源だっけ」
「そう。そして最終目的でもあるわ。
　根源の渦っていうのは、全ての<叡知|えいち>が記録された位置、全ての事柄が決定された場所。
　そこを見て、触れて、理解できれば不可能なんて言葉すら作り替えられる。伝承によって呼び名は様々だけど、ようするに神さまのいる位置なんでしょうね」
「神さまっていうのは、<八百万|やおよろず>的なものじゃなく？」
「……たまにそういうコト言いだすから厄介よねアンタは。
　そりゃ万象に宿る神さまもいるでしょうけど、これはその前、そういうのを決めた大前提みたいなものよ」
「そんなものの入り口がどうして三咲にあったのかは知らないけど、祖父はそれを発見して、新しい魔法を作り出した。
　でも、その後に根源への<路|みち>を閉ざしちゃったのよ。
魔法さえ成立したのなら、神さまへの<路|みち>は消えるべきだって」
「……たぶん、私たちが生きているかぎり開放する気はなくて、橙子はそれが腹立たしかったんだと思う。
　たとえ力不足で取り込まれても、道があるのなら試すべきだ。自己の消滅を恐れるぐらいなら、そもそも魔術なんて学ばなかった―――ってね」
「でも祖父は<礎|いしずえ>になろうとする意志さえ認めなかった。
　もっと強力な後継ぎが生まれるまで、根源の解析は許可しない。後継ぎに魔法は<譲|ゆず>るけれど、根源への路だけは閉ざしていたのよ。
　……橙子の気持ちも分かるけど、私は祖父に賛成だわ。
　根源なんてものに興味はないし、第一、今まで一人も生還者がいないんだもの。それが本当に神々の座なのか保証もないし」
　話しているうちに機嫌を損ねたのか、後半はなかば文句になっていた。
　なんだかんだ言って、青子本人も祖父には賛同しきれない部分があるらしい。
　それを気にしながら、草十郎は今の話のおかしな部分について訊き返す。
「蒼崎。一人も生還者がいないって、どういう事だ？」
「根源に触れて、帰ってきた者は一人もいないの。世界規模でね。
　触れれば即消滅。人間程度の魂だと触れた瞬間に<元|・><に|・><戻|・><る|・>とか、根源に取りこまれるとか」
「なんで、どんなに歴史に名を残した魔術師でも、あれにだけは触れていないわ。せいぜい間近にして、大急ぎで自分の魔術を安定させた程度だもの」
　そこがおかしい、と草十郎は眉をひそめる。
「それじゃあ、どうしてそこがそういう場所だって分かるんだ」
「そりゃあ、中に入って伝えた人がいたからでしょう」
「でも生還者はいないって」
「だから。そういう人たちは、中で神さまにでもなっちゃったんじゃない？」
　実にきっぱりと彼女は言った。
　何でもない話のように、昨日の話をするように。
「そうなればこっちに帰ってくる必要はないでしょうし、もしかすると、単に帰って来られないだけかもね。
　……ま、神さまって位置づけが私たちが思っているようなものとは思えないから、あまり幸福そうには思えないけど」
「………………」
　成功者も失敗者も、それに触れては、こちらの世界に帰っては来られない。
　根源の渦とやらを人々に伝えたのは、
　一番初めに神さまになった誰かが、淋しさから仲間を欲しがった結果なのかもしれない。
　……あるいは、あちらの仕事はあまりにも膨大で、他にも仲間を欲しがったのか。
　草十郎には、いくら考えても掴めない事ではあるが。
「……橙子さんは、そうなりたかったのかな」
「まさか。あの人は単に知りたかっただけよ。
　その後に残された人たちの事なんて興味はないの。昔から、目標に没頭しても成果を愛する人じゃなかったから」
「正直なところ、そのあたり姉貴は突き抜けてるわ。
ホントの天才ってのはああいう非人間のコト言うのよ。苦労して作り上げたモノの、その後をまったく考えないんだから」
　呆れているようにも認めているようにも取れる口ぶり。
「でも、そのくせ面倒見はいいって言うか。
　未来の事は考えないのに、今あるものには何にでも興味を持つんだから」
　これだから天才肌の女は、と悪態をつく青子。
　<敵意|てきい>の<欠片|かけら>もない声は、聞くものとしては微笑ましい。
「そうだね。それに、橙子さんはこっちの方が好きみたいだったから」
　そんな事を口にしたら、草十郎は先ほどの言葉の意味も分かってしまった。
“根源になんて興味はない”
　つまり青子も、橙子と同じ気持ちなのだろう、と。
　―――と。
　橙子と言えば、草十郎にはちょっとした疑問があった。
「そういえば。カエルにするって、いったい……」
　あれ以来まったく口にしなかった話題を、草十郎は口にしてみた。
　それを訊くのは<禁忌|タブー>のように思えていたし、なにより、その<突飛|とっぴ>さ故、真実を聞くのが<躊躇|ためら>われたというか。
「いったいも何も、言葉通りの意味だけど。
　もともとルーン使いには変身術があるぶん、橙子にはかかりやすかったみたいよ？」
「いや、そんな当然のように言われても……」
　本気でどう切り返していいか、ちくりと胃が痛む草十郎だった。
「…………まあ。それで、どうやって？」
　聞きたくはないけれど、話の流れから問いたださずにはいられない。
　草十郎の嫌そうな顔には気が付かず、青子は前を見たまま、教師よろしく説明をする。
「二種類あって、精神を入れ替えるのか、肉体を再編成するかね。
　精神だけを入れ替えるのは簡単な分、すぐ元に戻れるわ。
　夢を見ているようなものだし、ちょっとしたショックで元の体に意識が戻ってくれるから」
「厄介なのは肉体そのものを変えてしまう方で、この場合、術が切れるまで元に戻るのは難しいでしょうね。
　私がやったのは、その再編成の方みたい。
　たぶん塩基配列を組み換えるんだろうけど、もうちんぷんかんぷん。ま、魔術が科学的な説明するのもナンセンスだし？」
　しれっと、まさに他人事のように青子は言った。
　あの時の青子が扱った魔術は前借りしたようなもので、今の青子にはまったく使えないものらしい。
　不幸中の幸いではあるが、同時に、十年後にくる逃れられない脅威でもある。
　とばっちりを受ける候補その一としては、たいへん頭の痛い問題だった。
「あと数年後には蒼崎はそんな事もできるのか。
　…………<末|すえ>恐ろしいな」
　心底からの気持ちを呟く草十郎。
　それに青子はきょとんと目を見開く。
　何をいまさら、と言いたげな顔だった。
「えっとね。有珠ならそれぐらい、今でもできるわよ」
「――――――なん、だと？」
「……やっぱりね、そんな事だと思ってたわ。
　前にも言ったでしょ、アンタはあの娘を甘く見てるって。
　有珠の部屋のもろもろの人形は、あの娘に逆らった執事たちのなれの果てなんだから」
「……まさか。有珠はそんなコトしないぞ」
「いやいや、これがこれが。私もねー、付き合い初めて半年はそう思ってたんだけどねー」
　軽快に笑いとばす青子だが、その陽気さが逆に怖い。
「……蒼崎。その冗談、笑えないぞ」
「あら、私は笑わせる気なんて、これっぽっちもないんだけど？」
　青子は明らかに草十郎をからかっている。
　どこまで信じていいのか判別がつかず、ますます顔をしかめる草十郎。
そんな消沈ぶりが楽しくて、青子はにまにまと微笑んでいる。
“……ま、あそこでアンタの言葉にうなずいちゃうあの娘が、そこまで魔女になれる筈もないんだけど―――”
　温かな感想を胸に留めた少女は、彼の横顔を見ながら歩いていく。
　道はいつしか、<畦道|あぜみち>から山道になっていた。
　小振りな山は思いのほか<拓|ひら>けていて、木々はあるものの、山道は横に広い。
　自然の並木道は<延々|えんえん>と山頂に向かっている。
　土の道には<轍|わだち>がある。
　おそらく蒼崎の家から車が通っているのだろう。
　はげ山には街灯も民家もなく、明かりは星と月の光だけだった。
　山道の傾斜は、段々と平坦になっていく。
　道はずっと先にある民家の前で途切れようとしていた。
　まだ遠くで建物の<輪郭|りんかく>も掴めないけれど、暖かそうな窓明かりから、あれが蒼崎の家だろうと草十郎は読み取った。
「ところで、君が家で団らんしている間、自分は何をしていればいいんだろう」
　一家<団欒|だんらん>する青子の姿は想像しにくかったが、無理やりしてみると、それはそれでたいへん幸福そうな場面が想像できた。
　自分が入る事でそれを壊すのは<忍|しの>びなく、草十郎は青子にそう訊ねたのだ。
　草十郎としては今から帰っても、ここで一晩<野営|やえい>しても文句はない。
　けれど、青子の返答は予想外のものだった。
「君は、うちの離れにいって祖父に会うの。
　たぶん、そこで今日までの記憶を消されるわ」
　ぴたりと足を止めて青子はそう言った。
　今までの打ち解けた雰囲気もなく、他人と話すように。
「え………………？」
　驚いて、草十郎も足を止める。
　追い抜いてしまった青子を振り返ると、それが真実である事がはっきりと分かった。
「…………………………」
　睨むような沈黙と、それを自然に受けとめる草十郎。
　先に口を開けたのは、やっぱり青子だった。
「驚かないのね、貴方」
「……いや、驚いたけど。でも、それは初めから決まっていた事だ。そうか、それで蒼崎は俺を連れて来たのか」
「退屈しのぎは本当よ。それとは別に、祖父が貴方を連れて来いって言ったの」
　なるほど、と少年はうなずく。
　夜は<密|ひそ>やかに変わりなく、少年も、なにひとつ変わりはなかった。
　……目前の少女が、その在り方を憎らしいと思うほどに。
「それじゃ行こうか。立っていると寒い」
「草十郎」
　歩きだそうとする草十郎を、青子は声で引き止める。
「貴方はそれでいいの？
　記憶を消されるって事は、今までの一ヶ月がなくなるのと同じなのよ」
　青子の問いに、草十郎はそうか、と呟いた。
　青子の事はもちろん、有珠の事や、あの洋館での暮らしを忘れて一ヶ月前の自分に戻るのは、手に入れかけた宝物を無くしてしまうような気がする。
　けれど、それを惜しいと、彼は思わなかった。
「たしかにそれは嫌だな。蒼崎と知り合ってからの一ヶ月は楽しかったし、有珠とも約束したばっかりだし。
　でも蒼崎が消えるわけじゃないんだろう？　冬休みが終われば、また学校で会えるじゃないか」
　それに青子は返答しなかった。
　青子はあえて口にはしなかったが、記憶を消されるのは草十郎だけではない。
　彼女の祖父が介入する以上、青子も草十郎に関する記憶を消されるのだ。
　その後には、お互いの接点はないように思われた。
　こんな関係になる事もなく、ただ気に食わない生徒にしか見えない。
　どんなに優れた偶然が働いても、もう、今の状況には戻れない。
　……それを少し残念だと思うのは、たしかに、未練だと認めるしかない。
「そう。なら行きましょ」
　整理のつかないまま、理屈だけで感情を切り捨てて、青子は歩きだした。
　そのとなりに草十郎は付き添っていく。
　目的地まであと数分。
　草十郎はいつも通りの顔で歩いていて、青子にはそれが腹立たしい。
　こっちはホンの少しだけど未練と思っているのに、この男は<微塵|みじん>もそう思っていないのだ。
「……そりゃあね、平気で自分の腕を叩き折れるヤツに、そんな<繊細|せんさい>なコト期待していないけ、ど……」
　つい憎まれ口を叩いて、青子は唐突に思い出した。
　いや、思い至ってしまった。
　一度きりの狼退治。
　静希草十郎とは何者なのか、という不明点を。
　あの夜の青子は草十郎の<時間|きおく>を知ってはいたが、今の青子は知る<由|よし>もない。
　この凡庸な少年の間違い。
なぜあんな事が出来たのか、そもそも、彼は山でどんな生活をしていたのか。
　今まで気になってはいたものの、ついに聞き出す機会には恵まれなかった。
　その疑問も、祖父に会えば疑問と思う事さえなくなってしまうだろう。
「――――――」
　たとえすぐに忘れてしまうにしても―――いや、数分後には何もかも無かった事になるのなら。
　彼に、その矛盾を吐き出させる機会は今しかない。
「待って。私も最後にひとつ、訊きたい事がある。
　―――アンタ、山でどんな生活を送ってたの？」
　青子の問いに、草十郎はぴたりと足を止めた。
　その顔は今までのどんなものより<辛|つら>そうに見える。
「つまらないよ、そんな話は」
「面白い話は期待してないって言ったでしょ。
　どうせ私も草十郎の事は忘れるんだから、それぐらい話してくれてもいいんじゃない？」
　けち、とばかりに見据える青子の発言に、草十郎は驚いて顔をあげた。
「……忘れるって、蒼崎が？」
「当然よ。アンタが忘れても、私が覚えているんじゃ意味がないでしょう。お互いが忘れなくちゃ人と人の関係は断てないわ。
　……行って来いで公平じゃない。
なんで、そんな顔するの」
　言われて、草十郎は口元を手で隠した。
　自分がどんな顔をしていたか判らないが、情けない顔をしている気がして。
「そうか、蒼崎も忘れるのか。
　…………
そこまでは、考えていなかった」
「ええ。そして、私は貴方とは会わなくなる。断定はできないけど、まず間違いなくね」
　だから、これは最後の会話。
　青子の台詞からも、お互いが忘れるという事からも、それは感じ取れた。
　蒼崎青子は変わらず学校にいて、その後ろ姿に草十郎は<憧|あこが>れる。
　けれど、その先に接点はない。
どんなに草十郎が話しかけても、青子は他人を必要としていないのだから。
　……いや、そもそも自分から話しかける事が彼にはできない。少なくとも、一ヶ月前の草十郎には。
　そこでようやく、彼は忘却の<無|む><慈|じ><悲|ひ>さを知った。
　青子の事を忘れる、とは彼女との出来事を忘れるのではなく、蒼崎青子という名前、存在からして忘れる、という事だ。
　彼女に憧れる自分はいても、その正体を掴む事はない。
　どんなに優れた偶然が働いても、今の状況には戻れない。
　この夜の歩みは、互いの死を見取る<葬式|そうしき>と変わらない。
　草十郎は蒼崎青子という人物を殺して、
　青子は静希草十郎という人物を殺す。
　その後に残るものは、何もない。
「だから、その前に聞いておきたいの。嫌だっていうなら、あとはこのまま家まで直行するだけだけど」
「それはさみしいな。
……うん、くだらない話だけど、会話がないよりはましだろう」
　呟いて、草十郎は歩きだした。
　今度は青子が付き添うよう、となりに並ぶ。
　道はあと数分足らずで終わろうとしている。
　寒さのせいでふたりの吐息は白く、暗い夜道によく残った。
　後になって青子は振り返る。
　あれは会話ではなく告解に近いもので―――
　彼にしては長く続けられた、不出来な昔話のようだったと。
「山での暮らしは、別に、どうという事はない。
毎日同じ事を繰り返して、毎日同じ事を教えられた。
　そこでは明日はないんだ。
始まりが朝で、夜になれば終わる。一日は次の日には繋がらない。
だから、明日を夢見る事もない」
「次の日を楽しみにする、なんて言葉は、こっちに来てから知った感覚だったな。
　初めは馴染めなかったし、馴染む気もなかった。
　けど、みんながまた明日、と満足そうに口にする。いつのまにか、そういうものを夢見るようになっている自分がいた」
　歩きながら草十郎は語っていく。
　青子には視線を向けず、前を見つめながら、夜に語りかけるように。
　青子は沈黙に徹している。
　うなずきも問いかけも、今は無意味な行いだ。
「目が覚めていつもの一日に戻って、ふと気が付くと昨日までいた誰かがいない。
　訊ねてみると、夜に体調を崩したらしい。たまにね、眠れなくなって家から出ていって、それっきりな人もいたんだ。
　見なくなってしばらくした後、崖の下で見覚えのある遺体を見付けた事もあった」
「……今にして思うと、それは異常な事だ。
　集まって暮らしていればそんな事にはならなかったのに、自分たちは関わらなかった。一日で完結する世界だったから、他人は必要じゃなかったのかも知れない」
「山では食べる物も少なかった。飢えないためには、他の人がよりつけない場所に行くことが多くなる。その途中の道で、いなくなってしまう人も多かった」
「山では、誰も他人から奪うことを考えなかった。
　口にできるものを探す時、気をくばる相手は犬だの熊だのだけで、人を気にする事はなかったんだよ。
今は、その逆になりつつあるけど。
　ともかく、生活の半分はそれだけで済んでいた」
　草十郎は変わらず前を見つめている。
　思い出に苦しんでいる様子はない。
　青子から見ればとても人の住む環境ではないソレを、彼は当然と思っている。むしろ懐かしがってさえいるようだ。
　けれど、そこからの告白は、ゆっくりと苦悩を刻んでいった。
「もう半分は、まあ、身を守る手段を教わっていた。
　学校の授業に比べたら些細な事だ。単に、自分の体はどう動くものなのか、生き物はどう動くものなのかを、よく見て、よく考えろと言われた。
　単純な反復運動だ。小石を蹴ったり森の中にこもったり、まあ、そんな意味合いのコトをやっていたんだ」
「あの決まり事がはじまると朝も夜もなかった。
　外の変化に気持ちを向ける余裕はなくて、ふと気が付くとずいぶん長く食事をしていない、なんてのもざらだった。
　あ、ちゃんとご<飯|はん>はもらえたよ、そういうのの後は」
「あれが何のためだったのかは、今でも分からない。
　ただ山で暮らしていくには役に立ったし、そもそもあれだって生活の一部だった。
　生きるって事はそうする事だって思ってた。こうやって息をして歩くためには、あの繰り返しは当然のものだったんだ」
「草十郎、それは」
　草十郎は淡々と語るけれど、その異常さに青子は口を挟んでしまった。
　彼は歩きながら、うん、とうなずいて青子にちらりと視線を移す。
「何かがおかしかったんだろう。あれは身を守る知恵じゃなくて、もっと違う用途のものだった。
　たまにいなくなる知り合いは、山の土になったんじゃなくて、他の場所で、他の理由で消えた場合もあったんだろう」
「でも、考える事さえなかった。
　精神の<隙間|すきま>を知れだの、命の勝ち負けを知れだの、意味をくみ取らないまま<鵜|う><呑|の>みにして、当然のように繰り返した。
　それがどう評価されるものなのか、俺には分からない。
　ただ、知らなければ。
　外の事なんて知らなければ、悩むことなく、自分はそこに居続けられたと思う」
「……貴方の嫌いな、生き死にの真似を続けて？」
　その問いに、彼は答えなかった。
　無言のまま足は進む。
　……数々の矛盾、点在していた不合理を、今更ながら青子は噛みしめる。
　たとえば、この少年の教養のバランスだ。
　文明の機器をまったく知らないくせに、基礎知識だけは持ち合わせていた。
　今の話では人付き合いは皆無だというのに、意思の<疎通|そつう>、言葉による対話に慣れていた。
　それは偶発的には生まれるはずのない環境、第三者の意図によって作られた<異常性|おかしさ>だ。
　……その、第三者の意図など青子には分からない。
　彼のような人間を育てる事に何の意味があったのか。
　利害目的か、それとも、その山奥ではいまだに当然の<生活|ありかた>だったのか。
　彼は一度だけ、どうして、と訊ねたコトがあるらしい。
　疑問を覚えた彼に、彼を引き取った老人は、
“んなもんオメエ、昔から続いているだけだろうよ。
　続ける理由もなかったが、止める理由もなかったのさ”
　そう笑って、彼に<戸籍|こせき>と新生活を<見繕|みつくろ>って、山以外で<野|の><垂|た>れ死ねと見送った。
　道の終わりには、彼女の帰る場所があった。
　これといって特色のない一般家屋。
　街にある一戸建てをそのまま持ってきて、日々の趣味として畑や家畜を育てている、あまりにも平和な家。
　それを視界に収めて、先ほどの少女の問いに答えようと、彼は口を開けた。
「自分には、できなかった。知らなければ良かったのに、知ってしまったから。
その後は簡単だ。
　鳴けない鳥はいらないと言われた。
　今まで疑いもなく出来た事を、意味を知っただけで出来なくなったものはいらないと」
「どんなに山にいたくても、できないのなら意味がない。
　俺は意味を知った瞬間に、意味を信じるコトができなくなった。だから山を下りたんだ。
　……けれど、どうなんだろう。
　そこでは、そうする事だけが全てだった。
　そうする事だけしか教えられなかった。
だから―――」
　間違えていたのは。
　おかしかったのは、疑いを持ってしまった自分だったのか、と。
　自戒のように、彼の呟きは途切れていった。
　……青子は思う。
　彼の<棲|す>んでいた世界は、ある意味で完成していた。
　一つの事柄を成立させたければ、それ以外は何もない世界を作ればいい。
　それがどんな不道徳な事でも、不道徳という概念を知らなければ、それは正義だ。
　いや、そもそも正しさの観念すらない。
　あるのはただ一つ。
その世界が、あまりにも行き止まっている、という事だけ。
　……悲劇は、そこで満ち足りてしまった事だ。
　その間違いだらけの世界で、
　　　間違いだらけの人間として、
　　　　こうやって残ってしまった。
　彼はそれを悪と知りながら、今でも美しいと感じている。
　真相はどうあれ、彼にとって、その世界は完成していた。
　悪いのは外の世界を知ってしまった自分。
　だって、それを知らなければ、彼は今でも幸福だったのだから。
“知らなければ、良かったのに。”
　その言葉の罪深さは、呟く本人が誰よりも。
　だから彼は問うたのだ。
　おかしいのは一体なんなのか。
　間違っていたのは誰なのかを。
　自分の言葉ではなく、少女の言葉で、明確に告発してほしかった。
　一瞬の、けれど<永劫|えいごう>のような思考の末、
「―――私には、答えられないわ」
　少女は静かに、そう返答した。
　分からない、ではなく、答えられない。
　それは嘘を言わない彼女にとって、精一杯の回答だった。
　少年は深くかみしめる。
　今のがどれほど優しい言葉なのか、考えるまでもないのだから。
「うん、そうだな。
君の最初の優しさが、今でよかった」
　などと、<倖|しあわ>せそうに言う草十郎を、青子はじとりと睨みつけた。
「なによそれ。
　まるで、普段から優しくないみたいじゃない」
「蒼崎は優しくないじゃないか」
　きっぱりと言われて、青子は反論できなかった。
　……それは、たしかに彼の言う通りで。
「……そうね。優しくなんかないわね、私」
　どこか<寂|さみ>しげな青子の同意に、ほら、と草十郎は笑った。
　見守るような微笑みは、彼が誰よりも、それを誇りに思っているからだろう。
　それが気まずくて温かくて、青子はあんな質問をした事を後悔した。
　もっと違う、なんでもない話をすれば、こんな<陰欝|いんうつ>とした気分にはならなかったのにと。
　道は、あと数歩分もない。
　木の柵に囲まれた建物は、冬の中にある<憩|いこ>いの宿に見えた。
　窓からこぼれる明かりが、今の気分に逆らって食卓の<賑|にぎ>わいを想像させる。
「ごめん。悪いこと聞いちゃって」
　青子は庭の入り口で立ち止まる。
　最後なのに、それとも最後だから、一度くらいは謝っておこうと思ったのか。
　それに草十郎はいや、と答えるだけだった。
「話、途中なのにね」
　辿り着いてしまった家を見上げて、白い息をこぼす。
　うなずく草十郎の顔に、もう<昏|くら>い<翳|かげ>りは微塵もない。
「自分も、話してみてようやく振り向けたと思う。だから蒼崎には感謝してるよ。
　―――それに、これはもう終わった事だ。
　続きを話すのは、また機会があった時にしよう」
　消え入るような笑顔で、草十郎は青子と顔を向き合わせる。
　今まで通りの、何でもない静希草十郎として。
　それが痛ましくて、そんな日がこない事を青子は祈った。
　自分のためと、この特異な少年のために。
“……もっとも、そんな機会はもうこないか”
　そして、彼女は一軒家の更に向こう、小さな森に隠れた<洞|どう><穴|けつ>を指さした。
「あそこ、ちょっとした洞穴があるの。そこに祖父がいるから、行って。
　……ほんとはもっと違った話が聞きたかったけど。仕方ないか、魔法は十二時になるときれちゃうものだしね」
　皮肉げな微笑みを浮かべて、青子はそう言った。
　それがどんな童話の引用かも知らず、草十郎は歩きだす。
　家から離れた森は遠すぎて、青子には<地上|ここ>とは別の場所のように思えた。
　実際は五分もかからない、短く、手の届く距離なのに。
「さよなら、静希くん」
　振り向かずに歩いていく背中に、青子は呟きかける。
　聞こえる筈のないそれを、やっぱり草十郎は聞き届けたようだ。
「ああ。じゃあまた明日、町の何処かで」
　少年は片手を上げて答えると、彼方の森へと消えていった。
　それを見届けて、青子はひとり<天|そら>を<仰|あお>ぐ。
　今夜は月よりも星が綺麗だ。
　それをさっきまで懐かしそうに眺めていた人物は、嘘みたいにあっさり、別れの言葉を告げて消えていった。
　まったく、と青子は今更ながら納得する。
　結局、いちばん普通じゃなかったのは誰だったのか。
　草十郎の行いは、言ってしまえば誰にだってできる事だ。
　けれど、彼の言う繰り返しを続けられる人間はそうはいない。
　あんな山での生活をしていれば、たしかに、今までの出来事なんてどうという事もなかったのだろう。
　自分は魔法使いだから奇跡を起こすけれど、
　彼は常識を繰り返した<末|すえ>にひとつの奇跡に辿り着いて、最後に、あんな魔法を見せたのだ。
「素手で熊を倒すなんて、私にはどう転んでもできないし」
　だから、それはすごいコトだ。
　……その魔法は、彼にとって哀しいぐらい、無意味な物だったとしても。
　あれは確かに、人間だけが持つ輝きだった。
　彼女は星空から目を離して歩きだした。
　玄関の明かりはついていて、鍵はかかっていない。
　くっと服の袖をあげて時計を見ると、時刻はあと半刻で零時になろうとしていた。
　……どうやら、年内に来いという両親の言いつけは守れたようだ。
　扉に手を掛けて、深呼吸を一度する。
　それで、さっきまでの淡い未練を、彼女は綺麗に断ち切った。
　実家に帰ってくるのは二年ぶりだ。
　高校に入学してから下宿を始めて、今日までの二年間。
　早かったといえば早くすぎたその月日は、なぜか今になって思い出のように、自分の中を走り抜けていった。
　扉に手をかけて、今までの事を思い出すのなら。
　扉を開ければ、これからの事を見つめる事になるのだろう。
　ノブを持つ手に力をいれる。
　……中の風景はどこか微妙に違うけれど、記憶の中で見なれた温かい風景だった。
　自分が去って、月日が経っても変わらず出迎えてくれるものがある事は、なんて幸福なんだろう。
　それにほんの些細な、言葉にしない小さな感謝をして、彼女は自分の家に帰ってきた。
　呼び鈴も押さずに、ただいまと微笑んで。
　その洞穴に入った瞬間、奇妙な懐かしさに襲われた。
　<郷愁|きょうしゅう>ではなく、もっと<前期|いぜん>の。
　今の自分すら遠く想うほどの、<彼方|かなた>に至る懐かしさだ。
　その人物が何者であったかは、よく覚えていない。
　自分と同じだったかも知れないし、老人だった気もする。
　人らしき<輪郭|りんかく>だけがあり、その中身を判別する事はできなかった。
　叶ったとしても、表現するための適切なパーツが思いつかない。
　はっきりしていたのは、その煙のような人物が、青子の言う『祖父』という事だけだった。
「娘たちが世話になった」
　老人の声はしわがれていたが、張りがあり、洞穴によく響いた。
「これも縁だ。望みがあるのなら聞こう」
「望みはないです。でも、訊きたい事は一つあります。
　……どうして、二人を争わせたんですか？」
「それは私の外で起きた物語だ。答える事はできない」
「そうしむけたのは貴方だと聞きました」
「星の<巡|めぐ>りだ。あれらは相容れない才能を与えられ、あのような形でしか<交|か>み合えない人間だ。私の意図に関係なく、共に居ればどちらかが<軋|きし>みをあげた。
　だが、確かに衝突を避ける余地はあった。あれらの意志が凡庸であったか、あるいは破格のものであったのなら、多くの<不純|ふじゅん>に耐えただろう。
　君のように、自己の崩壊が見えていても、共存を尊ぶように。しかし娘たちはそれを選ばなかった」
「彼女たちが争うのは彼女たちのせいだって言うんですね。その原因は、貴方にあるのに」
「そうだ。あれらの争いは、あれらの生をあらわすもの。原因と言うのなら、私などゼロに等しい」
「ゼロ……？　形が無いという事ですか」
「形ではなく、意味が無い。
　私という起因から起こり、娘たちが一つの<題目|いのち>を得た時点で、私は<現代|ぶたい>から消え失せた。その後の因は、常に娘たちから生じたものだ。私の介入はない」
「今回、どちらが時間を終わらせても、あるいは両者が終わらせても、私には無価値だった。
　いや、もとより無価値だ。
　私に価値を与える<題目|いのち>は、まだ生まれていない。
　あれらがどうなろうと、やるべき事は変わらない」
「……青子が生きていても死んでいても、後継ぎを作るという事ですか」
「おそらく。この体が消えないのは、そういう事だ」
　洞穴に充満した、蒸気のような<精気|オド>に目眩がした。
　この老人は、青子と橙子が生まれた瞬間に、彼女たちが孫である事を忘れたのだ。
　……正統な蒼崎の後継者は、たぶん、永遠に誕生しないだろう。
　この老人がいるかぎり、<際限|さいげん>なく新しい力は求められる。
　そこには<妥協|だきょう>も<限界|げんかい>もない。
「青子は、そのために過去を捨てたのに？」
　沈黙があった。
ただ一度だけの、短い沈黙。
　不確かな人物像は、その輪郭さえぼやけていく。
　―――昔。
　因の切れた幼子が、この洞穴に入ってきた事がある。
　<無|む><知|ち>、<無|む><垢|く>から生まれた願いを、老人は自動的に叶えてやった。
　老人は長く残るために自我を失った魔法使いで、そのとき自分にできる事なら、なんでも叶えてしまうのだ。
　そしてあの日は、何もかもが符合しすぎていた。
　<自|みずか>らが<招|まね>いた罪を見て、<幼子|おさなご>は瞳にいっぱいの涙をためて、老人を睨みつけた。
　全ては失われる。誰でもいい貴方の失敗一つで、前置きもなく、あっさりと。
　幼子はその不条理に<癇癪|かんしゃく>を起こした。
　世界なんてそんなもんじゃぞ、と嘆息する魔法使いに、
“ジジイ、うるさい”と真っ向から立ち向かった。
　そして―――
　―――そう、そして。
　一つの命と全ての命を、同じものとして<償|つぐな>ってみせると、泣きながら走り出した。
「それは間違いだ、少年」
　……あの時、あるいは。
「捨てたのではない。
<過|そ><去|れ>を美しくする為に、アレは生きているのだ」
　<己|そ>の役割は、とうに終わっていたのかも知れないが。
　老人の姿は青年に変わって見えた。
　ほんの一瞬だけの、陽炎のような揺らぎだった。
「君の過ちを正そう。娘たちは、私という物をよく解っている。ともすれば、私本人より理解しているとも言える。
　私が娘たちの人格を考慮せぬように、娘たちもまた、私という物の人格を認めていない。
　祖父さえいなかったのなら、という考えさえないだろう」
「あれらはそもそも、争いあう自分たちを一度も<卑|ひ><下|げ>はしない筈だ。
君に、その関係を解れというのは酷だろうが。
　訊ね事は終わったようだ。
　次は私の番だ。
　君の名前を知りたい」
　老人の問いに答える。
　煙は顔をしかめるように、かすかに揺らいでいた。
「……意外だ。君は孤立しているというのに、複数を示す名が付いているとは思わなかった。
　似合わん。まったく、似合わん。
　だが、そちらでは正しい事だ。不釣り合いな場所にいるのなら、不釣り合いな名が必要だろう。
　稀少ではあるが、やはり無価値だ。
　全てを肯定する<諦|あきら>めは死に<由来|ゆらい>するものだろう。続くものがない以上、一代かぎりの才能は無価値だ」
「―――<青子|アレ>の行く末に影響を与えた君に興味を持ったが、失望した。
　無駄な時間を過ごしたようだ。
　今は結ばれているが、いずれ離れていくのは変えようのない結末だ。
　では立ち去りたまえ。
　私は死者に用はない。二度と会う事はないだろう」
　風景が霞んでいく。
　記憶が薄れていく。
　答えのなかった会話。
　意義のなかった時間のあと、全ては夢のように霧散した。
　夜気は寒くて、空は綺麗だった。
　一日の終わりに<映|うつ>る光景は、けれど、一日だって同じ事はない。
　今日の景色は今日だけの物だ。
　人の知覚では大差のない風景にしか映らなくても、
　その時の風景の美しさも、ありのままに感じる傷心も、すべてが<儚|はかな>くて、明日は違った自分で目が覚める。
　山の閑散とした空気の中では、そんなあたり前の事が冬の寒さよりずっと、体に沁みこんでくるようだった。
　彼は時を忘れたように空を見上げている。
　それを止めたのは、呆然と立ち尽くす青子の視線だった。
「なんだ。早かったな、蒼崎」
　庭から出てきたばかりの青子に向けて、草十郎は話しかけた。
　青子は言葉もなく立ち尽くしていたけれど、すぐに気を取り直してつかつかと歩きだした。
　そのまま草十郎の前まで行くと、じろりとした目で睨む。
　こんなヤツ認めない、と言わんばかりの視線の激しさに、草十郎は肩をすくめた。
　青子がどうしてこんなに怒っているか、草十郎にはまったく見当がつかない。
「……なんで、まだここにいるのよ」
“……自分は、なんとか割り切ったのに”
　それなのに、この男が目の前にいるコトが青子には憎らしかったらしい。喜ぶべき事なのか悲しむべき事なのかを考えるのは、たぶん、その怒りが治まってからだろう。
　人間、思い通りにいかないと無性に腹が立つものなのだ。
「さっきから十分と二十秒も経ってない。
　なんでこんなところで突っ立ってるのよ、アンタ」
　いかに祖父といえど、記憶を消去して空白の一ヶ月をつなげるのには一日を要する筈だ。
　だからあとの処置はぜんぶ祖父に任せようと思ったのに、草十郎はここでぼんやりと空を見上げていた。
“……<祈祷師|きとうし>じゃあるまいし、ほんと、夜空を見上げるのが好きな奴”
　そんな青子の、口にはしない一方的な感情をぶつけられながら、草十郎は事情を説明する。
「……あの老人からの伝言だけど。
　記憶の消去は君の役目で、人に頼るな、だそうだ。今日呼ばれたのは、たんに悪口を聞かせたかっただけらしいよ」
　その言葉で青子の憑き物は落ちた。
　今にも平手打ちが飛んできそうな態度が、すう、と落ち着いたものになる。
「……そっか。
　人に任せるなんて、たしかに私らしくなかった」
　きびしかった瞳が、段々といつもの、不機嫌そうな顔になっていく。
　ホッと安堵する草十郎。
　ご機嫌は、なんとか戻ってくれたようだ。
「納得いったなら、行こう。
　急がないと最終電車に間に合わない」
　返事を待たず草十郎は歩きだした。
　青子はその背中を少しの間だけ見つめてから、小言を言いつつ付いていく。
　帰り道は、来る時より楽だった。
　眼下の景色は一面の闇。
　その黒い海の中、灯台のように、小さな駅が輝いている。
　ふたりはしばらく、言葉もなく歩いていた。
　青子は来る時の会話を思い出して、若かったなぁ、と反省中。
　こんな事なら、あんなしんみりとした話をするんじゃなかった、と照れている。
　一方の草十郎は、いつも通り、何も考えてはいなかった。
　草十郎にとっては普通の、青子にとっては気まずい沈黙。
　そんな中、不意に草十郎はおかしな事を言いだした。
「有珠には、お<餅|もち>を買っていってあげよう」
　目を点にする青子。
　この男はいったいなんなんだろう、という不満とか疑問がありありと浮かんでいる。
「お餅が、なに……？」
「お土産。有珠、ひとりで待っているんだから、喜ぶと思う」
　うーん、と青子は難しそうに口に手をあてた。
　手袋をしていない細い指が、寒さで白く染まっている。
“……あの娘にはそういうの逆効果だけど、草十郎がやるぶんには大丈夫か……”
　見るからに無欲という彼の雰囲気は、こういう<時|とき>便利だ。
　有珠も素直に厚意を受け取る公算<大|だい>である。
「そうね。たしかに有珠はこういうの根にもって、口に出さずに恨んでる<性質|たち>だけど。
　また、なんだってお土産がお餅なの？」
「だって、食べた事なさそうだろ、彼女」
　あっさりと返答されて、青子はたしかに、と同意してしまった。
　有珠がお餅を食べている姿をつい想像し、とたんに帰るのが楽しみになってくる。
「アンタって本当に無心よね。
　……そういえば前から不思議に思ってたんだけど、いつから有珠と仲良くなったの？　そのきっかけが、私には分からないんだけど」
　隣りから覗きこむように見つめられて、草十郎はさて、と考えを巡らせた。
「大きなきっかけとか、そういうのはないと思うけど。
　しいていうなら初めて話した時かな。もっと確かになったのはロビーで話した時だろうね」
「たったそれだけ？」
「ああ。親しくなるっていうのは、そういう事だろ？」
　変なこと訊くんだな、と草十郎は言葉をきった。
　言葉ではなく感性で通じ合う。
　たしかに、この少年と有珠はそんな関係なのかも知れない。
「……そういえば、初めから『有珠』って呼び捨てだったものね、アンタは」
「そうだっけ？　よく覚えていないけど。……それより、なにを怒ってるんだ蒼崎？」
「別に怒ってないわよ、私」
　その返答は、やや冷たくて、どことなく愛らしかった。
　山道は半分にさしかかる。
　平地に近づくにつれ星空は遠のいていくようで、草十郎はぼんやりと空を見上げ続ける。
　来る時からその素振りが気になっていた青子だが、ここにきてようやく、その理由に思い至った。
　ようするに、彼は懐かしがっているのだ。
　山から見る星空というヤツを。
「――――――
蒼崎」
　不意に、草十郎は見上げたまま問いかけてきた。
「ひとつ聞きたいんだけど、君に後悔はあるのかな」
　両手を上着のポケットにいれたまま、白い息をする草十郎。
　青子にはその姿が、幻のように遠く感じられた。
「……どうしたの、突然そんなこと聞いて」
「いいから、答えて。聞きたいんだ。
君に、悔いはあるのかないのかを」
　……それは、哀しい問いだった。
　なんと答えても彼は多くの物を失うのだろう。
　それでも答えを求めている以上、青子はさっぱりと返答する。
「ないわよ、そんなの。だってそれをしない為に、今を頑張ってるんだもの。
　後悔なんてのはね、草十郎。するものじゃなくて、無くしていく為にあるものなのよ」
「―――――――――」
　……ああ、と。
　噛みしめるように、彼は万感の想いを<葬|みおく>った。
　もう形も匂いも薄れている全てに、手を伸ばさず、手を振った。
「―――そうか。後悔も、無くなるものなのか」
　呟く顔にはかすかな痛み。
　ただ、<鮮|あざ>やかで。
　そう言い切れるほど自分は強くはないけれど、それに焦がれている。そう言い切れる彼女に、強く焦がれている。
　なら、いつか―――
　いまは、空も闇も遠く。
　今日だけの景色が、いつまでも美しく思えるのなら。
　残してきた<幾|いく>つかの悔いが、星のように思える日が、いつかはあるのだろうか？
「いい空ね。町じゃ、ちょっと見れないな」
　見上げる草十郎にならって、青子は暗い空を眺めた。
　星は町でのそれより強く輝いている。
　澄んだ空気と、明かりのない闇のおかげだ。
　それを憎むような眼差しで草十郎は見つめていた。
　……こんなにも綺麗な星なのに、それを偽物と決め付けるように。
「……そうだね。でも、ここでも手は届きそうにない」
「え……？」
　突然の否定に驚いて、青子は草十郎の顔を覗き見る。
　……憎むような瞳は、もうくすんだ色に戻っていた。
　一呼吸して草十郎は呟く。
　視線はいまだ星空に釘付けたまま。
「山ではね、蒼崎。星は本当に手が届きそうなんだ。届かないのは分かっていても、望めば掴めそうなぐらい近いのに。
都会の星は、そう思う事さえ許してくれない」
　それが本当のソラ。
　彼の語る山の星空は、<天象儀|プラネタリウム>より素晴らしい物だった。
　降り注ぐ雨のような、回る星々。
　指でなぞるだけで観測できる、原初のままの夜空。
　……それは、彼にはもう戻る事のできない、帰り道すら知らない故郷。
「……今まで、目に映るすべてを山と比べていた。こんな場所は、本当は嫌いだったんだ。今でも、正直なじめない。
　でも、いつか比べるのは街になってしまうんだろう。自分は、こっちに下りてきてしまったんだから」
　それが今までの後悔。
　星空から視線を離して、草十郎は青子へと視線を向ける。
　いつもとは違う、ためらいがちの彼女の瞳が、少し痛い。
　それは自分への同情か、それともただの<憐愍|れんびん>か。
　……そのどちらにしたって、彼女らしくない瞳をさせているのは自分だ。
　青子の無言の問いかけに、草十郎は目を閉じてうなずいた。
「……うん。それは仕方のない事だ。
　ただ、そうなるのなら、そうなってしまう以上に、すばらしい物を手に入れないといけない。
　後悔を、いつか、後悔と思わないために」
　彼は感謝するように、そう告白した。
　古いカラは捨てなければいけない。
　喪失は踏み越えなければならない。
　それが、青子の答えで彼が失った、彼の全てだったモノ。
「……やめてよね。私の一言でいちいち<人生観|じんせいかん>変えられちゃ、荷が重いじゃない」
　向けられた笑顔があんまりに柔らかくて、青子は顔を背けながら憎まれ口を言う。
　……本音である可能性も大きいが、それはそれで彼女らしい。
「それで、祖父と何を話したの？
　あの人が他人に興味を持つなんて、すごい事よ」
　せっかくの質問だったが、あの老人との会話について、草十郎は答えなかった。
　当たり障りのない返答をしてお茶をにごす。
　道は、もうじき平坦な路面に戻ろうとしていた。
　柔らかな土の地面は、<畦道|あぜみち>の固い土の道になるのだろう。
　その前に、ぴたりと草十郎は立ち止まった。
　目を閉じて、耳を澄ます。
　その後にうん、とうなずいて青子に向き直った。
「おめでとう、蒼崎」
　青子はわけも分からず目をまたたかせる。
「なによ、突然」
　当然の反応。
　それに、少年はほころぶように、
「新しい年だ」
　喜びに満ちた笑顔で、そう返答した。
「――――――」
　青子は呆然と、ただ彼の顔を見てしまう。
　あまりの不意打ちで、遠く離れた<社木|やしろぎ>から<除夜|じょや>の鐘が聞こえた気がするぐらいだ。
　今日が<今年|ことし>最後の日だと知っていたのに、彼女はそれをどうとも思っていなかった。
　なのに、たった少しの言葉だけで。
　遠い昔に置いたままの、鐘の音の奇跡を信じていた少女が振り向いた気がしたのだ。
「そっか……午前零時で、もう新しい年なんだ」
　知らなかった事のように青子は呟く。
　その口元に、少しだけの微笑みを浮かべて。
　……そう。
　思い出の中で振り向く少女は、初めての<振|ふ>り<袖|そで>なのに緊張の素振りもなくて、あんまり可愛くはなかったけれど。
　それでも、鏡越しに微笑んでしまうだけの愛らしさはあったのだ。
　温かそうな青子の顔を見て、草十郎は満足そうに目蓋を閉じた。それが何より嬉しい、と言うように。
「―――うん、色々あったけど。
　新しい年を、君と<迎|むか>えられて良かった」
　そう言って草十郎は歩きだした。
　たぶん、こんな夜なのにひとりで待っている有珠の為に。
　その横を歩きながら、青子はさっきの言葉をもう一度だけ思いだす。
　新年を告げる言葉。
　本当に自然に告げられたあの一言のせいで、もう何年も前から知り合っている友人の気さえした。
　それをとても幸福な事だと感じるのは、たぶん間違いじゃないはずだ。
　いずれ、この少年ともあっさりと別れる日が来るのだろうけど。
　その時まで、こんな風に自然に、古い友人のように付き合えるのなら、それは悪いことじゃない。
　一見<素朴|そぼく>な、けれど特異な少年。
　彼との束の間の友情がいったい<何|い><時|つ>まで続くか考えながら、青子は足を進ませる。
　途中で一度だけ、草十郎のように、名残惜しく夜空を見上げてから。
　空には満天の星の夜。
　ふたりは届かない星空の<下|した>、山道を<下|お>りていく。
　　　　　　私がその本を見つけたのは、
　　　　　　日曜のけだるい午前中の事だった。
　部外者……というか約一名の冒険野郎……立ち入り禁止の、久遠寺邸の図書室。
　本棚の上に隠すように置かれたそれは、なんとなく秘密めいて私の興味をひいたのだ。
　盾にでもなりそうなほど大きな本を、苦労しながら本棚の上から引っ張り出す。
　パラパラとめくっていくうちに、これがルーン魔術の<魔導|グリ><書|モア>、それも<原書|オリジナル>に関するものである事に気が付いた。
　まさかね、と思っているうちに、ここのところ探す<素|そ><振|ぶ>りさえ<止|や>めてしまった、目的の物が発見された。
　北欧の大神が戦乙女に使ったとされる、存在だけは有名な忘却のルーン文字だ。
　その使用法が如実に書かれたページとにらめっこすること数分。
……結局、私は本を閉じる事にした。
　そうして元の位置より、もうちょっと見付けにくい場所に戻そうとした時、あれっと思い出す。
　……この本を、どこかで見た事があるのだ。
　あれはいつだったろう。
　たしか……そう、彼が初めて遊びに行こうと誘った時。
　自分の目前に座っていた少女が手にしていたのが、この本だったと思うけど……。
　いや、きっとそうだ。
　小さな笑いをこらえきれず、私は本を寸分違わない元の場所に戻すことにした。
　ここの蔵書量なら本棚の中に混ぜたほうが見付ける可能性は低いのだけど、ここは彼女の微笑ましい努力をくんで見なかった事にしよう。
　……文字通り、自分の事を棚に上げてる、とは思うけど。
　その時、本館の方から聞きなれた叫び声が聞こえてきた。
　最近、彼は家政婦業に目覚めたのか、洋館のいたるところを掃除しようと頑張っている。
　……それはいいんだけど、この洋館には私や有珠にだって手を出せない開かずの間が幾つもある。
　それを構わず開けてしまうものだから、火の粉はこっちにまで飛んでくる。
　この前は、有珠のお母さんが保存していた亡霊船を開放して大騒ぎになったんだっけ。
　カティサークとかいう<飛ばし屋|スピードスター>を捕まえるのは、本当に苦労した。
あのいけすかない金狼の手を借りるのはもうゴメンである。
　その前は地下室の悪霊さんご一行の封印を解いて、
　さらにいけすかない教会ご一行が洋館に乗りこんでくるだけでなく、一週間も滞在しやがったし。
　もう少しさかのぼれば、有珠の部屋に勝手に入って、そのとばっちりで私も鏡の国に落っこちて、あやうく有珠と全面戦争をする羽目になりかけた。
　……考えてみると。
　あいつ、学習能力がないみたい。
「もう、いい加減にしてよね、あのバカ……！」
　さっきまでの幸福な気分が台無しになって、私は図書室から飛び出した。
　たぶん、この後は廊下で立ち尽くしている元凶に飛び蹴りでも食らわせる、なんて未来視をうかべながら。
　でもまあ、それはそれで楽しい日常には変わりはない。
　棚の上に隠された私たちふたりの秘密。
　あの本はたぶん、もう開かれる事はないだろう―――
　　　　　　 なぜなにー
　　　　　　プロイー
魔法の魔の字も知らない全国のシャバ僧ども。
ヒロインにならんと高校デビューしたものの、
真のヒロインにその座を奪われた青セーターども。
　　こんばんはッス。
　　よく分からない話をよく分からない方向でレクチャーする
　　真番組『なぜなにプロイ』の時間っスよ。
　　　　　 …………。
　　　司会はグレートスリー<＋|プラス>１こと、
　　　コマドリ・ザ・くるっくー。
　　ティーチャ役にはマイ天使であるところの
　　アリスさんをお招きしたッス。
つーかここアリスさんの部屋ッスね！
時間になってもアリスさんがスタジオに来ないんで、
アリスさんの部屋にカメラ持ち込んだッスよ。
　　　発想の転換？　なんス？
　　　ゲストが来ないなら、
　　　ゲストの部屋でやればいいじゃない？
……いいから、はじめてちょうだい。
一秒でも早く終わらせて、光より早く出て行って。
　　うひゃー、照れるッスー！
　　のたうちまわるっス－！
　　　………………………なぜ？
　　や、ジブン的に
　　「ビジネスはすぐに終わらせて、アナタとプライベート
　　タイムに入りたいの……」と解釈したッス。
人語の奥の深さってやべぇッスよね。
正直、相手やジブンが何を伝えたいのか、九割方は<意味不能|イ　ミ　フ>ッス。
　そうね。
　わたしも、その意見には賛成よ。
　　　うはっ、このほとばしる信頼感……！
　　　頼られるって時に重いッス。
　　　というか、物理的に重いッス？
　　　　　　ロビン。
　　　　　チャッス。
　　今回は初歩の初歩、使い魔の説明っスよ。
　　魔術オンチなイチゲンさんに優しい授業。
　　それが「なぜなにプロイ」なワケッスね。
　で。この『使い魔』ってなんスかアリスさん。
　自分、生まれてこの方、
　見たことも聞いたコトもないッスよ？
　　使い魔というのは、
　　魔術師が使役するロボットみたいなものよ。
古来から、魔術師は工房にこもって研鑽を重ねるのが<生業|なりわい>だから。信頼できるモノに素材集めや外界の偵察、外敵の駆除を任せるの。
　　ただのコマ使いっスね。
　　それは弟子とは違うんスか？
　　違うわ。
　　弟子というのは<業|わざ>を引き継いで師を越える後継者でしょう？
　　　<弟子|かれら>はいずれ師を超える義務があるし、
　　　師も、そういうものでなければ弟子にはとらないわ。
　　　　でも使い魔は造られた時の性能がすべてだから。
　　　　成長しないものを、後継ぎにはできないわ。
そっかー。道理でジブン、何年経っても記憶容量増えないワケッスねー。然るに、生まれた時から<完成|パーフェクト>だった、と。
　　　そうね。パーフェクトに役たたずね。
使い魔の多くは小動物をベースに造られるわ。
これは、使い魔は術者からの魔力供給で活動するタイプが多いから。
使い魔は大きいほど魔力提供を必要とする。
だから魔力消費も少なく、造ってしまえば<栄養|どうりょく>を自力で補充できる小動物は便利なの。
　？　ジブン、狩りとかしたコトないッスよ？
　蛋白質も食物繊維も要らないッス？
貴方たちプロイはまた別のくくり。
とにかく、魔術師たちにとって、使い魔は自分の命令を聞く「従者」「ペット」だと思えばいいわ。
このように、猫や鳥、鼠を使い魔にするのが一般的ね。
　　アリスさん、この物騒なのは
　　どういうカテゴリーッスか？
　これは戦闘用に調律された自動人形。
　ここまでくると<使い魔|ファミリア>というより<衛兵|センチネル>だけど。
　　……これは使い魔のセオリーから外れた特注品よ。
　　また、アナタのように人間互換できる知性を持った使い魔も
　　特例にあたるわ。
　　　でも、そんなのは魔力の無駄ね。コストが高いだけ。
　　　たいていは術者本人が済ませた方が早かったり、
　　　もっと安い材料で代用できるから。
　　手段と結果を間違える、
　　ってやつッスね。
　ん？　んじゃ、使い魔は術者より弱いんスね。
　あくまで前座ってコトっスか？
　うは、マジ使えないヤツらッスー！
　　アナタらしい短絡思考ねロビン。
　　痺れるわ。これがわたしの使い魔だなんて、
　　どうにかなってしまいそう。
　アリスさん、
　言葉はステキなのにどうして顔が怖いんスか？
　術者の十分の一ぐらいの性能しかなくても、
　本人より“強い”使い魔を造る事は簡単よ。
　　試しに、こんどアナタのお腹に
　　デリンジャーを埋め込んでみましょうか。
　泣いたり笑ったり飛んだりはできなくなるけど、
　相手を驚かせるぐらいはできるわ、きっと。
　　コ―――コマドリ・ザ・クラッカー！
　　かっちょいいッスー！
　　クリスマスに大活躍の予感……！
　　　まさに豆鉄砲ね。
　　　そのまま消費されてくれないかしら。
　　なんか当たりキツイッス。
　　でも、これで大まかな説明はしたっスね。
　使い魔は魔術師を守るロボットで、
　その性能は造った魔術師によってマチマチ、と。
　ん？　万能感あふれるアリスさんはともかく、
　青子さんが使い魔を造ったらどうなるッスか？
　やっぱり、起動・即・自爆？
　あり得ない仮定ね。
　青子には使い魔を造るだけの技量はないもの。
　そもそも、彼女は壊す事しかできないのよ？
　その唯一の特技を使い魔に任せてしまったら、
　存在意義も跡形もなく壊れてしまうわ。
　　ハハハ。
　　さりげにひどい発言ッス。
戦闘において、青子は使い魔に任せる必要がない。
逆に、私は戦う事はできないから―――
　　なるほどー。
　　青子さんは青子さん自身が強い。
　　アリスさんはアリスさんの周りが強い。
　チェス……いえ、将棋で喩えるなら、
　青子は王将（角・飛車の能力アリ）だけの陣営。
わたしは陣営こそ強力だけど、王将自体が「歩」の^能力しかない、というイメージね。
　そーッス、アリスさんは
　体力も運動神経もない運痴キャラだったッス！
　　泳ぎは犬かきしかできない、
　　鉄棒もできなければ自転車にも乗れない、
体育の時間は校庭のはじっこで座っているだけのカ^ンタンなお仕事。
　だがそれがいい！
　ジブン、盗撮してるから知ってるッスよー！
　マイ天使よ、ただ美しく
アレ！？
　　……失礼ね。
　　わたしだって、走るだけなら少しはこなせるわ。
　　　コンチハ。
　　　日課のマンウォッチをこなし、
　　　さっそうと園に降り立つ青い影。
さしずめ、鳥は舞い降りた、というところッスか。
今回はここ、アリスさんが指定した
特設会場でレクチャーを始めるんスけど……
　　ここ、どう見てもフツーの園ッスよね。
　　アリスさんはどこに……
　　　遅かったわねロビン。
　　　出演者としての自覚はあるのかしら。
　　ハッ！？　声はすれども姿はなしッス！？
　　ここには園児しかいないというのに、
　　アリスさんは何処に！？
　　　　　　ここよ。
　　　なぜなにー、プロイー。
　　　　　　―――。
　　なぜなにー、プロイー。
　　…………なぜ黙っているのかしら、ロビン？
　いや、別になんでもないッス。
　ジブン的には、何の違和感もなかったところが
　よけい怖かっただけッス。
　　さすがマイ天使であるところのアリスさん。
　　なにを着てもヤバイぐらい似合うッス。
　　ほんとバイヤー。
　　ところで。
　　素朴な疑問なんスけど、ここで何を？
　　あと何で？
　マンネリズムはよくないでしょう？
　オマケコーナーだからって素材を使い回すのはわたしの美学に
　反するわ。なんとか道場じゃあるまいし。
　　だから場所を変えたッスか。
　　なるほど。それはおおむね理解したッス。
　　青子さんもビックリの浪費家ぶりっス。
でもジブン、スモックよりワンピの方が好みなんスよね。ドレスみたいなの。女神っぽいの。いや、スモックがダメという話ではなくてッスね、あくまでイメージの問題？　絵画にした時の説得力？
『森と鳥と少女』みたいな？ほら、『鳥と園児』じゃ園児のインパクトが強すぎて鳥にフォーカスがあたらないっつーか、
　　　いけない。菓子作りの途中だったわ。
ナチュラルに無視。
ところで、アリスさんは普段なにをやってるッスか？
　　青子さんは生徒会。
　　シャバ僧はアルバイト。
　　アリスさんは帰宅部ッス？
見ての通りよ。
時間があればプロイを作っているわ。
わー。
まんま、童話の魔女のイメージっス。
プロイって鍋で作ってたッスか。
　っていうか、この匂いはチョコレイト？
　まさか……
　プロイってお菓子だったんスかーーーー！？
　　……アナタね。プロイのくせに、
　　プロイの仕組みを知らないの？
　　気付きたくはなかったけれど、やっぱりただの鳥だった？
　そのあたり、ジブンでもよく分からないッス。
　でもプロイの仕組みは分かるッスよ。
　なぜなら―――
　　なぜなら、これからアリスさんが
　　海より深く<宙|そら>より広く、
　　かっちょいい説明してくれるからッス！
　　本編で説明している通りよ。
　　以上、解散。
　　　このコーナーの根底を崩す一言ッスね。
　　　　何か意見があって？
　　ないッス。
　　でも、せめて概要だけでもレクチャーしてほしいッス。
　　これじゃこのコーナー、なんとか道場以下ッスよ？
………………それは避けたいわね。
それじゃあ……
　これがプロイキッシャーの綴り。
　これだけで説明になると思うのだけど、どう？
　　　ぷろい？　きっくしゃー？
キックシャーのクはほとんどサイレントよ。
西欧圏の、子供のオモチャ、子供だまし、軽蔑的に珍しいもの、
といった意味ね。
　あ。知ってるッス、
　それ変人の意味でも用い―――
　　　プロイも同様に西欧圏のオモチャで、
　　　こっちは戦争ごっこに使われるもの。
　　　子供の教育用玩具の総称ね。
　戦略、戦術の俗語でもあり、
　スコットランドだと……な意味もあるけれど、
　それは忘れて。
　ふむ。この二つの単語をむりやり繋げたのが
　プロイキッシャーなんスね。
　もしかしてアリスさんオリジナル？
……わたしの母に伝わっていた独自の魔術系統よ。
魔術協会に公開して権利と利益を得る、なんて低俗^な事はしていないから。
　　まあ、公開したところでアリスさんにしか
　　扱えないんですけどね！
　　マインスターの血に縛られてるッス！
　　……アナタ、
　　本当はちゃんと分かっているんじゃないの？
？　すまないッス、今なに言ったのか忘れたッス。
ジブン、昔のコトは未来よりあやふやッスから。
　……。
　マインスターというのは、なに？
マイ女神ッス。アリスさんの母君ッスね。
あと、純血の魔女とか、いかにもなセカンドネームがあったッス。
　　でも母君、ミーハーだったんスよね。
　　流行り物に弱いというか。
　　ルイスキャロルの大ファンでもあったッス。
　魔女は自分の代で、先代から遺されたプロイを
　自分用にチューンナップするッスよ。
　母君、キャロルにはまってたからあの始末ッス。
　　 禁を犯した時も、ノータイムで
　　「名前はアリスにしましょう」なんて
　　 微笑んだぐらいッスから！
　　……あきれた。
　　少女趣味のかたまりだったのね、あの人。
　　ハハハなに言ってるッスか、
　　シャバ僧が帰ってくると必ず目を覚ます
　　アリスさんも
負けてはいな
ぐぼぁ!?
　 次回のレクチャーは
　『プロイキッシャー：個別』にしましょう。
　　それじゃロビン、お店の予約をしておいて。
　　それが済んだらチョコレイトの湯煎。
　　それが済んだら鏡の<磨|みが>き。
　それが済んだら……そうね。
　電柱にでもぶつかって、盛大に死んでちょうだい。
　　いつも通りってコトッスね！
　　アリスさん、なんか当たりきついッス！
わたし、本来はこういうキャラよ。
本編では面倒だから黙っているだけ。
　　面倒って、なにがッスか。
　貴方のような
××を罵るのに
　いちいちカロリーを使うとか。
　それだけの価値があると思って？
　たまんないッスー！
　ジブン、グリコのキャラメル以下だったスね！
　でも。
それなら。
舐めて。
ほしい。
ッス。
　そうね。
　それでも死なないか、一度試してみましょうか。
　ノータイムでマルカジリ。
　やっぱりプロイってお菓子なんス？
　んー、あめえ。
　　シェフ。
　　マグロ三種盛り、一つ。
　アリスさん、なんスかそれ？
　なんか、見たこともない金色のお皿ッスね。
　　　たいしたことはないわ。
　　普通のと、
　　中トロと、
　　大トロのセットなだけよ。
鮮血のトリコロール。フランスの国旗みたいッスね。
ジブン、経済的な理由で玉子とイカとイナリしか頼めないッス。
　　　シェフ。
　　　中トロをもう一度。
　　また赤いのッスか。
　　光りものとか白身とかいかないんスか？
　　イワシとかカンパチとかいけるッスよ。
　　　シェフ。
　　　大トロをもう一度。
　　その皿ひとつで、
　　いつもの夕食一回分の値段なんスね。
　　サーモンで妥協とかしないんスか？
　　たいしたことはないわ。
　　シェフ。大トロをリピート。
　　はじめからマグロしか眼中にないとか、
　　さすがアリスさんッスーーー！
　　久遠寺財閥の娘は伊達じゃないッスね！
　　お金はこういう時に使うのよ、ロビン。
　　チャンスで出し渋るのはよくないわ。
　　今日は、青子のお財布を借りているのだけど。
　　　　　そッスか。
　　　　　青子さんの。
　　でもそれ、すぐにカラにならないッスか。
　　青子さんの財布の中身、お寒いッスよ。
　　あの人、すぐに物を買うから。
　　だいじょうぶ。
　　備えあれば、よロビン。
　　ここにもう一つ、温かなお財布があるわ。
　　　　　　　ぶほっ
　　　　　　　なに？
　　なンでもないッス。
　　アリスさんは家主。すなわち絶対者。
　　あの洋館に住むもので誰が逆らえようか。
　……にしても、あのシャバ僧、小金持ちッスね。
　ずっしり来るッスよ、この財布。
　　　　うなる札束ね。
　　　　ドキドキするわ。
　　……赤身がこないわね。
　上座の席で独占しているヤツがいるみたいッス。
　緑色のコートで。メガネで。
　麻雀牌をつもるような優雅さで二貫ぺろりと。
　あえて誰かは言わないんスけど、
　あれヤケ食いッスね。
　声、かけるッスか？
放っておきましょう。
誰にだって、知り合いに見られたくない時はあるわ。
　アリスさん、お皿取らないッスか？
　　　……仕方ないわね。
　　　じゃあ、これ。
　　　おめでとーございまーす！
　　　ありがとうございまーす！
　　　　　誰ッスか？
　　　　　テコイレ？
　　　　　説明しよう！
　　　　　説明するよ！
　　　何を隠そう僕らこそ！
　　　誰が語ろう僕らこそ！
ご主人様の<寵愛|ちょうあい><篤|あつ>い、変幻自在のシックスフォース！
　　ほ乳類から鳥類まで完全網羅の高級プロイ！
　　おしゃべり双子とは僕らのコト
　おおーーー！？
　まったく真っ暗どっちらけ、これじゃあゲームもできやしない！
　あやーーー！！
　見る者いなけりゃどんな目だろうと同じこと！
　賭けの続きは薄墨の、<鶏|とり>の卵が回った後で！
　　あ、いまの、もしかしてブタコンビ!?
　　アイツら、人間にもなれるッスかーーー！？
　　……一の目をだすと人間になるそうよ。
　　詳しくは、こう。
　　　　名前はおしゃべり双子。
　　　　うるさい方がトゥィードルダム、
　　　　さわがしい方がトゥィードルディー。
　　ダイスを振って、
　　出た目で変形するカタチが変わるプロイね。
　　　人間社会に毒されているから、
　　　普通の魔術が効きやすいのが欠点よ。
一の目とか、だしたコトあるッスか？
　　　わたしじゃ無理みたい。
　　　子ブタの姿以外、見たこともないもの。
　　　無理も何も、ご主人様は清純すぎる！
　　　どんなものにも裏はある、
　　　僕らは振るにゃあコツがいる！
　　そうそう、時にはダーティーに！
　　とかく、この世はイカサマだらけ、
　　ズルをしないと六の目以外は出ないが定め！
　　夜の饗宴が、お皿に乗ってやってきたわね。
　おなじみの『ディドルディドル』ッスね。
　ジブンも知ってるッスよ。このマザーグース。
　　それだけ有名というコトよ。
　　　　　『ヘイ、ディドル、ディドル。
　　　　　　　猫とヴァイオリン。
　　　　　　牛が月を飛び越えた。
　　　そのおもしろい光景を見て犬が笑った。
　　　　そしてお皿はスプーンと逃げた。』
　　　典型的な<韻踏み唄|マザーグース>ね。
　　　真夜中、猫がヴァイオリンをひいて、
牛が月を飛び越えて、犬が笑って、
擬人化された皿とスプーンが逃げていくだけの唄。
　　　一説ではギリシャ・エジプトの神話を元にした……
　　　とも言われているわ。星の運営を表しているのなら、
　　　牛は<牡牛座|タウルス>のもじりでしょう。
　　　これは使い切りのプロイッスね。
　　　一回使ったら壊れるッス。
　　　アリスさん、そのたびに作ってるッスか？
　当然でしょう。
　ディドルディドルはわたしの魔術の基本だもの。
　　これを地面に沈めると、夜を助長させるの。
　　夜が深まれば、それだけわたしの魔術―――
　　童話詠唱が確かな意味を持つようになるわ。
　　　　　詳しくはこう。
　　わりと使いどころ限定なプロイッスね。
　　アリスさん、都市部じゃ能力半減っつーか、
　　森ガールだったッスか。
　　　これは「名無しの森」ね。
　　　これ単体だと意味がないから、
　　　<地図|どだい>になるものが必要なのだけど……
　　この「午睡の鏡」とセットで使うものよ。
　　この鏡は三大プロイにはなれなかったけど、
　　機能的には三大に負けていないわ。
　　　　　詳しくは、
　基本的には三咲市全体の索敵と洋館内の警備。
　たまに暴走して洋館内にゲートを作って、
　通る人を鏡の中に招いてしまうのが難点ね。
ははは。それであのシャバ僧が何度死にかけたか。
原点は鏡の国のアリスっスね。
そうね。元々は内側に異世界を持つだけの<魔術卵|エンブリオ>で、
長いこと壊れていたらしいわ。
　　それを母と橙子さんが協力して作り直した、
　　という話よ。
？　なんでそんなコトするッスか？
マイ女神だけで十分じゃないッスか。
魔女はその生で一つ、至高のプロイを遺さないとい^けない決まりがあるから。
　　「彼女はこの鏡を作り直して、
　　自分の最高傑作にしたかったのよ、きっと」
　　そう橙子さんは言っていたけど、どうだか。
　どうかしら。こんなふうに午睡の鏡の表面を三咲の地図にして、
　その上にコマを置くとそこが「名無しの森」になるの。
　　　青子のデビュー戦で使っていたのはこのプロイね。
　　　このプロイの効果範囲に来ると『この先に用はない』
　　　と暗示がかかって人避けになるのだけど……
 空気読まないヤツには通用しないってコトッスね。
……そうね。
わたしのミスではないけれど、配慮が足りなかった。
次からは、本当に気をつけるわ。
　　　気を取り直して、次のプロイは―――
　　　ヤフー！
　　　ジブンでも食べられる玉子ッスー！
　　うめぇ。玉子うめぇ。
　　でも、なんかハラにたまるッスこの玉子。
　消化できないっつーか、
　なんか、体の中心からチクタクチクタク音が
　するってゆーかぁ。
　　　　　　スリー。
　　　アリスさん？
　　　なんで離れるッスか？
　　　　　　トゥー。
　なんで
　“かわいそうだけど、あと一秒で爆発するのよ”
　みたいな目で見るッスか？
　　　　　　ワン。
　　　　　タスケテ。
　　　　　　ゼロ。
これはスクラッチ・ダンプティね。
マザーグースの唄にあるハンプティ・ダンプティを
モデルにしたものよ。
　　“塀に上った卵はあぶなかしくて、
　　通りがかった王様が降りろと言っても無視するばかり。
　　怒った王様は兵士たちに命じたけれど、
　　兵士たちでも卵を下ろすコトはできなかった。
　もう好きにしろ、と疲れた王様は目を離す。
　そのとたんに卵は落ちて、
　見るも無惨、聞くも痛快に、粉々に砕け散った。
　　油断も後悔も後のお祭り。
　　星のような欠片たちは、
　　王の軍勢をもっても拾いきれない―――”
　　壊れた物は直らない、という寓話ね。
　　はた迷惑なお話だけど。
ちなみに、
ハンプティが卵型になったのは１９世紀半ばから。
　　１８４３年にアリキスというペンネームで、
　　マベリー牧師という人がハンプティの
　　パノラマ絵本を書いたのがはしり。
　ルイスキャロルのハンプティは、
　それを参考にしたのでしょう。
　 今夜は品切れのようね。
 　シェフ、オカンジョーをお願い。
　　次は―――
　　店中の大トロを、残らずいただくわ。
おーす、今日もワンワン働いているッスかシャバ僧。
これで鳥の餌を一ダースくれ。
ヒエかムギの一番いいところを頼む。
　　いらっしゃいませ。
　　昼間から買い物なんて、いい身分ねロビン。
　　げぇ、アリスさん！？
　　ななな、なんで店員とかしてるッスー！？
　　シャバ僧はどこいったッスか！？
　　トリ頭のクセに細かいコトを気にするのね。
　　今日はわたしが店番をしているの。
　　何か、意見があって？
いや、ないッスけど。
あ。ピンときたッスよ。さてはアリスさん、
シャバ僧と一緒にアルバイトとかスイーツなコ、
　　　なぜなにー、プロイー。
今回は比較的安全なプロイキッシャーの紹介よ。
さあロビン。
好きなものを選びなさい。
　ケーキショップかと思ったら、
　プロイキッシャーを売ってる闇市場だった。
　三咲町はホント地獄ッスね。
　じゃあ右端から順にいくッスか。
　この宝石箱っぽいヤツは何スか？
　　それは６ペンスの歌。
　　ジャック・イン・ザ・ボックス、
　　シックス・スィング・チョコレイトよ。
　　　地味に見えるけど、役に立つプロイね。
　　　どこかの誰かさんとは大違い。
あったりまえッス！
鳥はすべて有能かつエレガントな使い魔ッスから。
　　かくいうジブンも
　　６ペンスの歌なら知ってるッスよ。
　　鳥つながりで。
『６ペンスの歌を歌うッス～♪
ポケットにはいっぱいのライ麦ッス～♪
24羽の黒ムクドリ～パイの中に焼きこまれた～♪』
……むう。
なぜ意味もなく鳥を虐殺するのか分かんないッス。
西欧圏の人間どもは鳥をなんだと思っていたのか。
　 その後は『お金の勘定をする王さま』
 　『こっそりハチミツかけたパンを食べる王妃』
 　といった歌詞が続くわね。
　　二番目以降は
　　当時の政治を風刺した唄なんじゃないかしら。
いや、端的に久遠寺邸の日々を表しているッス。
金勘定するのが王じゃなくて女王な青セーターで、
こっそり贅沢をするのが王妃じゃなくてアリ
　　　さよならー、ロビンー。
　　　　　次はなに？
生きてる？　とか　愛してる？
とか、そういうセリフはないッスか。
ないッスね。
でもジブン的には<無問題|ノープロ>。
アリスさんの虐待もラブのカタ……
　　　　ん、ぶはははははは！
　　　なんスかコレ、超ウケルー！
　　　このでっぷりしたヤツ、超ブサイクなんですけどー！
　　　生きてるのが恥ずかしくなるレベルッスー！
　　　　　アナタよ。
　　　　　アナタヨ？
　　だから、それがアナタの本体。
　　ロスト・ロビン・ロンド、とタグには書かれているけど、
　　アナタには勿体ない名称ね。
　まさにミケランジェロクラスの造形ッス。
　ジブン、店に入った時から、コイツが一番高価で大人気だって
　気付いてたッスよ。ほんとほんと。
詳細データは必要ないわね。
アナタ、本編で十分すぎるほど出しゃばってるから。
　　元は葬式の歌よ。
　　殺された<駒鳥|ロビン>を巡ってのお話。
　　「誰が？」という問いかけに、
　　「わたしが」と参列者たちが答えていくの。
　　犯人捜しの歌でもあるわ。
　大ヒットしたマザーグースで、その後、
　前日譚である「コックロビンとジェニーレンの幸せな求婚」が
　出版され、これまたヒット。
　その後、コックロビンの死の後を歌った
　スズメの裁判と処罰も出版。
　羨ましいわ。印税だけで大もうけね、ロビン。
　　鳥には一円も入ってこないッスけどね。
　　それよりアリスさん、知ってるッスか。
　　駒鳥はイギリスの国鳥ッスよ。
　　クリスマスの象徴でもあるッス。
　　つまり―――まほよの主役はジブ
きゃ。
　　　あんまり調子に乗ってると、たいへんよ
　 既にこれ以上ないほど大変ッス
　　あとは……ほとんど残り物ね。
　　とりたてて紹介するほどの物ではないわ。
　　アリスさんアリスさん。
　　この三つ目のプロイ、なんスか？
　　目……っぽいカタチをしたキャンディ？
　　　　　　目玉よ。
　　目玉っぽいキャンディ？
　　　　本物の目玉よ。
　　　　見る？
　　ピギャーーーー！？
　　アリスさんの左目、義眼だったッスか！？
　　　……そういう訳ではないのだけど。
　　　わたしの左目もプロイ扱いなだけよ。
　　？　アクロスティック化って、なんスか？
　一つの言葉にたくさんの意味を持たせる事よ。
　ルイス・キャロルが提示した「鞄語」と同じね。
　鏡の国でアリスはハンプティにこう質問したの。
　「しなぬるストーブってどういう意味？」
　　　ハンプティは答えたわ。
　　　「うむ。それはな、しなやかでぬるやかという意味だ」
……分かって？
ようは、異なる二つの意味を新しい「言葉」として
生み出すルール変更。それが魔眼のアクロ化よ。
別にハンプティがモデルという訳ではないのだけど、
彼女はハンプティにちなんだ名前をつけたのね。
　ふーん。ただの思いつきなんスけど、
　「初回限定版」と「通常版」をくっつけると
　どうなるッスか？
そうね。その二つを合わせた場合、
初回特典付きのアイテムが永遠に
市場に残り続けるでしょう。
ぶはは！
その場合、新しい言葉は「初回限定普及版」ッスね！
　　違うわ。「ワゴン行き」よ。
　　　　　　　げ。
　　……コホン。
　　このように、使い処が難しいプロイなの。
　　今後は気をつけるわ。
次は……ああ、これっスか。
コイツについては番外編で語るんで、パスっスね。
　次は―――なんスか、これ？
……ただの失敗品よ。
わたしの最初のプロイ。
使い道はないのだけど、記念として飾っているの。
この通り、魔術戦には使えないわ。
カタチもよくないから見せる物でもないのだけど……こういうのは、思い出だから。
　ブローチのカタチをした砂糖細工なんスねー。
　うは、あめぇー！
　アリスさんの手作りキャンディ、あめぇー！
　そろそろ終業時間ね。
　わたしは先に帰っているから、
　後片づけをやっておいて。
　ふう。この蒼天に浮かれて、
　ついタイトルコールを叫んでしまったッス。
　　しかし、指定場所に来たもののアリスさんの姿はなし。
　　時間と場所はあってるハズなんスけどー。
　　もう一回タイトルコール、してみるッスか。
　　いいえ。その必要はないわ。
　　わたしは昨日からビバーク中なのだから。
　アリスさん！？
　ギャハハ、なんスかその完全装備wwwww
　ファッションから入る、なんちゃって登山家
　　　アマチュアバード！
　　　　　ぴっける！？
山を甘く見ないことよ。
渡り鳥が山越えをする時、何割かは越えられずに脱落死する話を知らないのかしら。
　油断すれば即デッド。
　隙あらば是キリング。
　それが、神々の住まう<頂|いただき>への礼儀と知りなさい。
つまり、いつもと何も変わらないってコトッスね。
　　繰り返すわ。
　　山とわたしを甘く見ないで。
　　今日はいつもの二倍はやる気に満ちている。
　やっべぇー。
　なんかスイッチ入ってるッスー。
　　さあ、なぜなにプロイの時間よ、ロビン。
　　今日は気分がいいから、
　　取っておきの話をするとしましょう。
　　あー、ついにきたッスね。
　　三大プロイ、グレートスリーについて。
　　アリスさんの母上の、そのまた母上の、
　　そのまた母上の……とにかく初代ッスね。
　　初代の頃から伝わってきた、三つの奇跡。
　それが三大プロイ。
　初めの魔女が造ったとされる、偉大な三品。
　　橋の巨人テムズトロル、
　　月の油フラットスナーク、
　　三つ目は……あれ、何だったっス？
　最後の一体はまだ秘密よ。
　今回はテムズの話をしましょう。
　　　もとになったマザーグースはロンドン橋。
　　　『ロンドン橋　落ちた　落ちた　落ちた
　　　ロンドン橋　落ちた　<わたしのきれいなご婦人よ|マ　イ　フ　ェ　ア　レ　デ　ィ >』
　日本語訳されて音楽の教材にもなっているから、
　知っている人も多いでしょうね。
　別名、デオチトロルッスー！
　こいつ、ザコ相手にしか活躍してないッスよね！
　　　……相手が悪かったのよ。
　　　それに、わたしとの相性も悪いし。
　　　実はわたし、テムズをうまく使えないの。
　　わたしが顕現させられるのは二段階目まで。
　　三番目と四番目の歌詞は未知の領域よ。
　三番目と四番目って、なんスか？
　　　ロンドン橋の歌詞よ。
『～木と土は流される
　～煉瓦とモルタルは崩れてしまう』
　　『～鉄と鋼は折れ曲がる
　　　～銀と金は盗まれる』
　　　　テムズはロンドン橋のプロイだけど、
　　　　時代に添ってその在り方を変えてきた。
　　　　だから、今はマザーグース通り四種類の姿があるの。
　ウッド、ストーンの他にまだ先があるんスね。
　でもいいんスか、
　こんなカンタンに奥の手をさらしちゃって？
　　ええ。ロンドン橋の歌詞なんて、
　　いまどき調べれば誰だって分かるのだし。
　 そもそもわたし、
　 どうあってもストーンまでしか使えないわ。
　 ネタをバラしても支障はないでしょう？
　　どうして使えないんスか？
　わたし、人間の文明社会に興味がないもの。
　わたしの心象世界にある橋は『木と石まで』、というコトね。
　なんと。
　無敵のアリスさんにも弱点があったんスね……
 あ。いや、振り返ってみればそんなに
 無敵じゃなかったッスね！　アリスさん、負け星のが多いッス、
 ジブンとおそろッスー！
でも、風の噂によるとテムズトロルは
世界屈指のゴーレムと聞いたッスよ。
最高級のテムズトロルはどれくらい強いんスか？
　そうね。テムズを最後まで建築できる魔女が、
　もし現代にいるのなら―――
 そのテムズは奥の手を出しきった青子でも
 倒しきれない、踏破不可能の橋になるでしょうね。
　　産業革命時の<煤煙|スモッグ>都市、ロンドン。
　　その異名を上回る、都市の巨人として顕現するのだから。
　ハハハ、また大きく出たッスね！
　都市！　都市っスか！
　口だけならなんとでも言えるってヤツッス？
アリスさん、その見栄っ張りで負けず嫌いなところ、
直した方がいいッスよ。
親愛なるプロイからの、涙の忠告ッス！
　　ありがとう。
　　それじゃあさっそく、
　　性格改善に付き合ってもらおうかしら。
　　まずは、“口だけなら”というところから。
　　出番よテムズ。
　　アナタの力を見せてあげなさい。
　デオチ出たーーーーーー！
　というか、すでにデオチの体の上だったッス？
　初めからジブンに逃げ場はなかったッス？
　そうよ。だから言ったでしょう。
　山を舐めるな、と。
　いや、そういう意味じゃなかった気がするッス。
　　この映画、字幕が出てないッスね。
　　ジブン、ちゃんとセリフあるんスけどー。
　　　　知ってるわ。
　　　　でも耳障りだったから、わたし権限で編集さんに
　　　　貴方の台詞だけカットしてもらったの。
 グレイト。もう何もかもアリスさん中心なんスね。
 ジブンだけサイレント映画の気分ッス。
　　　　二体目ッスね。
　二体目ね。
　誤解されそうだから言っておくと、スナークの本体は液体よ。
　スナークの二つ名、月の油ッスね。
　フラットスナークの名前は誰が付けたんスか？
　アナタもよく知っている彼女だけど。
　わたし、彼女と仲良くなるまで、プロイに名前を
　つけていなかったから。
　　強い順とか、思い入れがある順に、
　　一番、二番、と呼んでいただけだったの。
　順番？　番号じゃなくて？
　名前をつけないぐうたら……
　いや、シンプルさはアリスさんらしいッスけど、なんで順番？
　だって、番号を付けても混乱するだけでしょう？
　どれが強いか、どれが好きかなんて、日によって変わるのだし。
だから気持ち次第で、その日ごとに順番は違ったわ。
一番はディドルが鉄板。
テムズはたいてい三番か四番だったわね。
　　ああ、思いだした。
　　彼女とプロイで遊んでいる時、
　　それで困ったコトになって。
「アリス、明日、新しいパパがやってくるの。
　だから六番のプロイを貸してちょうだい。
　ワタシ、おめかしして出迎えたいの！」
　そう言った彼女に、わたし、その日は気分的に
 「これは六番目」と決めていたプロイを貸したわ。
　 ……。
　もうだいたい分かったッスけど、いちおう訊いておくッス。
　それはなんのプロイだったっスか？
後に、彼女がゴブリンフロンと名付けるようになった香水よ。
その香水をかけると、一日、悪口とスラングしか言えなくなるの。
　　　　……………………。
　　その後、彼女はプロイに名前を付けるよう提案してきたわ。
　　なぜか涙で赤くなった目で。
『これはスイーツハーツ。これはスクリプス・ハンプティ。これはディドルディドル。これはフラットスナーク。いい。これからはこの名前で統一するのよ』
……名は体を表すと言うでしょう？
わたし、そんな変換間違えのような名前より、その日の気分で分けた方が楽でいいと思ったのだけど、
『アンタの気分なんて他人には分かんないし。その度にアタシの運命が狂っていくコトを、もうちょっと気にしてちょうだい』
『それに近い将来、こういう名前がトレンドになる時代がくるから。絶対。すぐに飽きられるだろうけど』
『なんで、どうせつけるならイカした方がグッドでバッド。せっかくアタシたちだけのオリジナリティなのよ、ポップに流行らせなくちゃ大損だわ！』
それ以来、わたしはプロイを名前で呼ぶようになった。いちいち名前を覚える手間はあったけれど、プロイを間違えるコトはなくなったわ。
　　まさにコロンブスのタマゴね。
　　なんていう発想の柔軟さ、斬新さかしら。
　　時々思うのだけど、あの娘は天才ね。
　そッスね。ジブンも思うんスけど、
　アリスさんって時々すごくヴァカァですよね。
　　……やられてしまったわね。
油なだけによく燃えるッスねー。
スナークはどんなプロイなんスか？
　　本編でだいたいのあらましは語っているわ。
　　細かなデータは、
うむ。
その貴重な油を、青子さんは燃やしてしまった、と。
これ、なんとか戻せないんスか？
残念ながら不可能よ。
この時代ではスナークを精製するコトはできない。
こうして貴重な文化遺産は、フィーリングだけで生きている野蛮人に壊されていくんスねー。
うはっ、文明を蹂躙するのっておもしれぇー！
しっかし、デオチに続いてスナークもこのザマとか！
ギャハハ、何がグレートスリーッスか！
甘え。グレートスリーは甘え。
しかしジブン、やるプロイッスから。産廃を有効利用するッスよ。おーい、外の店員さーん。この残った油で、とりあえずフライドポテトでも揚げてくれ？
あら、アナタにしては名案ねロビン。
それじゃあ、わたしはフライドチキンにしてもらお^うかしら。
………………。
外のメニュー、ホットドッグとポップコーンとポテ^トしかなかったッスよ。
ジブン、映画館はまず飲食店のメニューからチェックする派ッスから。だいたい映画館でフライドチキンとか、匂いが無頼ッス。他のお客さんに迷惑ッス。
　　　知っているわ。でも安心して。
　　　わたし、お腹はすいていないから。
　　　ただ油で揚げてもらうだけでいいの。
　ハハハ。食事として、頼むワケでは、ないと。
高温で全身まんべんなく、毛先から毛穴までゆであがるのは初めてなんじゃないかしら。
また一つ死因コレクションが増えたわね、ロビン。
この世でいちばん増やしたくないレパートリー、
あざーっスーーーー！　でも世界にはまだまだ未知の死因が隠れているッスよー！
　……映画はここまでのようね。
　同時上映のある劇場も、最近は減ってきたわね。
　　最後に三体目の紹介をしたかったけど、
　　それはまたの機会に。
　　長かった本編を楽しんでくれた皆さん。
　　すぐ終わるようで、なかなか終わらなかった
　　番外編に付き合ってくれた皆さん。
「魔法使いの夜」は、これで一旦の終了となります。
続きはまた、いつかどこかで。
旅する星がするりと落ちて、貴方の胸に輝く時に。
　 ―――それでは。
　 長らくのご視聴、ありがとうございました。
　人里<離|はな>れた辺境から都会に来てはや一年。
　ヒトとケモノとで一番の大きな違いは、『好き嫌い』という嗜好性なんじゃないだろうか、とカレは思った。
「ふーん、ここが新しいアジトかー。
　うん、いいんじゃない？　ちょっとみすぼらしいけど、まわりに人間がいないのはキレイでいいよね」
　白いコートの人影が、くるくると廊下で<躍|おど>る。
　その様はウインドウショッピングを楽しむ少女のようだ。
　事実、ソレは興味津々とばかりに朽ち果てた校舎の無惨を<愉|たの>しんでいる。
「そこ、あんまりはしゃがないの。なにしろ<築|ちく>六十年からの廃屋なんだから。
　調子に乗ってると、バキッと床を<踏|ふ>み抜いて―――」
　楽しいわよ、と言いかけた口が閉じる。
　響いている足音は一人分だけ。
　老朽化した廊下を<労|ねぎら>ってか、それとも身も心も浮かれているのか。
　コート姿のソレは先ほどから微塵も、自身の三十キロ程度の重さすら、廊下に加えてはいなかった。
　曰く、<仁獣|じんじゅう>は野原を歩いても草花を傷つけないと云う。
　あのコート姿の人影もその<類|たぐい>の生き物らしい。
　カレは環境側の生き物だ。
　高等、下等、どちらであろうと肉持つ獣には何の温情も持たないが、同胞には人並み……いや、狼並みの温情を持つらしい。
「ま、相性は良い、とプラスに考えましょう。
　町に出かけてくるけど、何かほしいものはある？　マンガとか、小説とか」
「んー、特にいりません。
あ、帰りにハンバーガー買ってきてくれたら嬉しいな！　あの、パン生地がどっしりしてて、ハンバーグがぎゅっとしたヤツがいい！」
「まだオモチャより食い気ときた。食事の調達方法も確保しないとダメみたいね。
　……失敗したかな？　ルームサービスのあるホテルの方が、<後々|あとあと>証拠は残らなさそう」
　やれやれとため息をつくのは、言うまでもなく蒼崎橙子である。
　眼鏡をかけているので、口調も仕草も彼女本来のものに固定されている。
　十二月初頭。
　彼女とカレが三咲市にやってきてから、まる一ヶ月が経過しようとしていた。
　今までは隣町から三咲町を攻略していた橙子だが、そろそろ本番という事で、<本営|ほんえい>をここ旧校舎に移転させたのである。
「？　なに、ホテルの方が良かったの？」
「そりゃあ楽だもの。グレードが良ければホテル暮らしは快適です」
「ふーん。でもトーコさん、こういう廃墟好きだよね」
「え、そうかな？」
「そうだよ。今回みたいなのは特にそう。
　趣味に走る時、まわりにヒトがいるのイヤがるじゃない。いろんな物に興味を持つクセに、興味を持たれるのはメンドウってゆーか」
　指摘されて、そっか、と納得する橙子だった。
　カレと契約したのは二年前だが、本格的に護衛として同伴させてからじき一年。
　蒼崎橙子という人間の根っこにある問題を、カレはきちんと把握しているらしい。
「人混みは嫌いじゃないんだけどねー。廃ビルでも廃工場でも、いっそあの遊園地でも良かったのよ？
　でも、こんな田舎町じゃ君を連れているだけで噂になるでしょ。結果的に、<山奥|ここ>に工房を構えるしかなかったの」
「えー。ちゃんとヒト形になってるじゃん、ボク。
　別に目立たないと思うけどなー」
「色合いの問題です。アジア系は無理にしても、せめて<黒髪|ブルネット>に化けてくれれば、いくらでも誤魔化せるんだけど」
　しかし、その要望は叶わない。
　ヒト形になる事自体、カレにとってはストレスなのだ。
　カレからしてみれば、せめて好みのカタチになる事がギリギリの妥協点なのである。
　今は町から旧校舎に移動する為、やむなくヒト形に変身しているが、寝床になる教室が決まればすぐに狼のカタチに戻ってしまう。
「なんだってヒト形でいるのを嫌がるのかしらね。別に難しいワケじゃないんでしょう、ソレ？　もともとアストラル体みたいなものなんだから、貴方」
　カレの体は状況に応じて変態する。
　物質界で安定する為の<触媒|にくたい>を必要としない、万能の生命だ。
　魔術的に言えば、魂が物質化した高次生命である。
「そりゃあ何の力もリスクもないけど、メンドウなものはメンドウだよ。
　人間だって無駄なコトはしたくないでしょ？
　ボク、ヒト形になるコトに有利性をまったく感じないしー」
　カレにとって「人間の姿」とは何の価値も見いだせないものらしい。
　なら外見を地味にしても良かろう、と橙子は指摘したものだが、意味がない変態だからこそ、せめて“気持ちの良い”状態を優先するのだ、とカレは言った。
　カレにとってあのカタチはヒト形において唯一『楽しい』イメージらしく、そこから外れる事を<頑|がん>として受け入れない。
　結果、地方都市には場違いな、外国の貴人そのもののルックスになる。
　着ているコートも、注文の多いカレを納得させる為、橙子が手ずから選んだ逸品だった。
「じゃ、お留守番お願いねベオ君。
　来ないとは思うけど、もし人が来たら捕まえておいて。
　その際、<脚|あし>の一本ぐらいなら傷つけてもＯＫだから」
　物騒な言いつけを残して、橙子は町へと出かけていく。
「はーい、まかされましたー！
　だいじょうぶ、人間とかそもそも口に合わないし！
　こっちのコトは気にせず、あのピリピリするお土産よろしくねー！」
　雇い主を見送って、ベオはトスン、と机に着地した。
　その姿はヒトから狼の姿に変化している。
「“あーあ、タイクツー。世界中をまわって、こんな田舎町が終着とかヒョウシ抜けもいいところー”」
　ベオが蒼崎橙子と出会ったのは二年前。
　人狼の里に現れた魔術師は、里の者たちと交渉の末、ベオの教育係を請け負った。
　無論、里はベオに対して何の拘束力も持ち合わせていない。最終的にベオをその気にさせたのは、里への義理ではなく、橙子への興味だった。
　橙子は洞窟で眠るソレの前に立ち、
「え、生きている意味が知りたい？
　なんだ。そんな事で取引が成立するとはね」
　涼しげに笑った後、その長い髪を切って拘束の<契約|くさり>にした。
「自由を知るには窮屈さを知っておかないとね。
　同じように、生きている意味を知りたければ、まずは死ねない<執着|こだわり>を見付けないと。
　―――そうだな、例えばの話。そいつを殺すまでは、とてもじゃないが死ねないほどの憎しみとか」
　蒼崎橙子の二十年分の蓄積。
　分身とも言える髪を、彼女はあっさりと手放した。
　それだけの価値が、今まで貯めてきたものをノータイムで切り捨てられるだけの価値が、ベオにあると確信して。
　またベオも同じように、この人間が稀少な価値を持つ生き物だと嗅ぎ取っていた。
　そんな異才に認められるのはベオとて悪い気はしなかったし、何より、窮屈さを知れと言いながらも、極めて自由な女性の振るまいに関心を覚えてしまったのだ。
　そうして、
　ベオは契約の縛りを甘んじて受け入れ、里の外―――
　外の世界に足を向けた。
　まずは一年、イギリスの工房で基本的な知識を学んだ。
『時計塔』と呼ばれる魔術協会の学舎での話である。
　その頃、蒼崎橙子には専用の使い魔がいた。
　立場的にはベオの先輩というヤツである。
　ベオは一年で先輩より優れている事を証明し、橙子と共に世界を巡る旅に出かけた。
　北欧の森を走るという<魔眼収集列車|レール・ツェッペリン>。
　北海にいまなお生き続ける<巨大古代種|ムールクラーケ>。
　三角形に開いた、異界に通じる<帰らず|バミューダ>の海。
　西欧諸国に潜む、<神代連盟|エルダータイトル>を名乗る魔術師のなれの果て。
　いずれも楽しむには十分な“異常”であり、
　カレは蒼崎橙子に付いてきた判断を正しく思った。
　だって、里で眠っていた時に比べれば、少しだけ退屈しない。
　甘い蜜には、より甘い毒を。
　薬に慣れたのなら、更なる劇薬を。
　この無邪気な生き物が次の獲物を楽しみにするようになったのは、当然の流れと言える。
　その娯楽、その期待の最高峰が、蒼崎橙子の最終目的。
　自由自在な彼女をして、在るだけで許せないモノ、と言わしめた獲物である。
　新しい脅威に向かう度、ベオは橙子に問いただしたものだ。
「“ねえ、これがトーコさんの殺したい相手？”」
　しかし、魔術師は口元を皮肉げにゆがめて首を横に振るばかり。
　こんな<易|やさ>しいものじゃあない、と希代の人形師は語る。
　それまで橙子とベオが倒してきた相手、
　交渉してきた相手は、カレに及ばないまでも、いずれ<人智|じんち>及ばぬ魔境たちだった。
　では、それらを向こうに回す敵とは如何ほどのモノか？
　そこまで言われては気になって仕方がない。
　やがて自分が雇われた目的が“魔法”と知り、
　それなら相手にとって不足はない、と珍しく闘志を燃やしたのだが―――
「“レーセイになって考えてみると、本物が偽物を相手にするとかオトナげないかも。
　魔法なんていっても、結局は人間の手によるものなんだし”」
　ソレの関心は、やはり自分に対してのみ。
　命を知らず、自由を知らず、楽しみといったら食事だけ。
　そんな自分に不満はないが、退屈である事だけはいかんともしがたい。
　それと。蒼崎橙子に同行するようになってからは、彼女に対してもよく分からない感情を持ち始めていた。
「“トーコさん、あれでほんと一途だから。
　何でもできるのはボクと同じなのに、何にでも一生懸命になれるのって、ちょっとヘンだよね”」
　やれやれ、と大げさに肩をすくめて<瞼|まぶた>を閉じる。
　それが<妬|ねた>みという感情である事を知らないまま、金色の狼は意識を落とした。
「四年ぶりに帰ってきてみれば、住み慣れた町の面影は何処へやら、かあ。
　駅前なんてもう別物だし、大手術にも程が……ああ、やっぱり<角|かど>の煙草屋さん、なくなってる。
　あーあ。自動販売機で煙草を買うのにも、そろそろ慣れなくちゃいけないのかも」
　なんてグチをこぼしながら、蒼崎橙子は四年ぶりの故郷を歩く。
　その姿は<緩|ゆる>みに緩みきっていた。
　使い魔も連れておらず、
　護身用の「鞄」もアジトに置きっぱなし。
　気持ちは完全に観光気分で、緊張のキの字もない。
「ここなんてあぜ道同然だったのに、今じゃ立派なストリートときた。
　因果なものね。帰ってきたっていうのに、あっちに戻った時と同じ気持ちになってきた」
　橙子にとって、帰郷はこれで二度目になる。
　四年前に蒼崎家から出奔し、こうして秘密裏に戻って来たのが<二度目|こんかい>。
　一度目の帰郷はもっと前。
　十四歳の時、彼女は英国のとある学院に留学していた経歴を持つ。
　橙子は二年間あちらで学生として過ごし、日本に帰国。
　高校は地元の学校を選び、礼園女学院で三年間過ごした後、再び英国に出奔した。
　それが四年前の出来事だ。
　その時、英国の田舎町に戻った時と同じ感想を、いま橙子は抱いている。
「寂しい？　んー、ちょっと違う。呆れてる……とも違うし、怖がっている、も近くて遠いような……」
　肩を丸めて考えこむ。
　背中にむずむずと湧きたつ、いまいち言語化できないざわめき。
　急激な変化を迎えた時代。あらゆるものが安価で、かつ安易に造り替えられていく風潮。
　橙子はしばし考えこんでから、そっか、と指を鳴らして足を踏み出した。
　難しく考える必要はない。
　これはただ、今がそういう時代であるだけの話。
　単に、古いものを新しいものに取り替える時期が、当然のようにやってきたのだ。
「うん。つまり、私の時代ってコトだ！」
“橙子さん、やっちゃってください”
　そんなノリノリの<自|じ><己|こ><啓発|けいはつ>に背中を押されて、蒼崎橙子は意気揚々と駅に向かって歩きだした。
　大通りをずんずんと<驀進|ばくしん>する様は、トップモデルか独裁者かという迫力である。
　しかし、
『手始めに、この大通りをメチャクチャにしてやるぜー！』
　と意気込んでのコトでは、無論、ない。
　橙子とて、これからはじまる大掃除、大工事の前にセンスのない町並み……
　何の工夫も見られない、十年後には時代遅れになっているであろう大通り……
　を<更地|さらち>にしたいところではあるが、今の彼女にはその前にやらねばならぬ事があるのである。
「甘い設定だ。
　こんな釘のしぼりで、客を<煙|けむ>にまけると思ったか」
　橙子がまず向かった先は結界の支点ではなく、繁華街のパチンコ店だった。
　駅前は様変わりしたといっても、下町はそう変わっていない。
　橙子は昔馴染みのパチンコ店に突入するや、五千円を銀玉に両替。そのまま二階フロアにあがり、今日一番の出玉設定をしている台を見抜き、ハンドルに手を掛けた。
「そろそろ打ち止めかな。ひーふーみー……千両箱が十二箱か。まあ、四年ぶりにしちゃあ上等だろう」
　台詞は冷めたものだが、口元ではちょろい、と上機嫌の<体|てい>である。
　パチンコホールは定番とも言える娯楽提供場だが、<盛|さか>んなのは日本だけで、外国ではあまり見られない。
　効率が悪い、時間がかかる、騙しあいの面白味がない、リスクとリターンがあっていない……等々の理由で、<本|・><場|・>のプレイヤーたちからは子供の遊びと敬遠されている。
　橙子の留学先でもそれは同じで、パチンコ店なぞ影も形も見あたらなかった。
　帰国した彼女が真っ先にパチンコ店に突貫したのは、五年ぶりの懐かしさから―――
　ではなく、単に、軍資金が底をつきかけた為である。
「しっかし、ヘリのチャーター代だけで足が出るとは。日本は平和すぎて裏稼業の相場が高すぎるんだ、クソッ。
　おかげで無一文だ。とりあえず、ベオの<食|く>い<扶|ぶ><持|ち>だけでも<稼|かせ>がにゃならん」
　旧校舎を工房に改造する為、コンテナ三台分の資材をヘリコプターで隣町にまで輸送させた。
　山奥である旧校舎にはトラックを走らせるだけの道がなく、結果、橙子の貯金はすっからかんになってしまったのだ。
「お、スリーセブン。コイツは本格的におしまいかな。
　まったく。こういう、どうでもいいゲームだけは星の巡りがいいときている」
　文句をいいつつ、口元はやはり上機嫌だ。
　片手はハンドル、片手は安い煙草、気ままに足を組んでパチンコ店を荒らすのも、まんざらでもない橙子だった。
「？」
　視界の<隅|すみ>で何かが固まっている気配を察して、メガネをかける。
　妙な物音に橙子が視線を向けると、そこには顔面蒼白の店員の姿があった。
　まだ高校生にしか見えない、童顔の店員である。
　何があったのか、店員は橙子を見るなり硬直し、その後、あたふたと走り去った。
　というか、逃げだしていった。
「……む。私、そんなに引く感じ？」
　橙子とて年頃の女性である。
　見つめられたり声をかけられたりするのは正直面倒だが、それにしても、一目散に逃げられる、というのはあんまりではなかろうか、と唇をとがらせる。
　あの高校生……今度見かけたら脅かしてやろう、と心のチェックリストに書き込みつつ、橙子はゲームを再開した。
　大量の景品を抱えてパチンコ店を後にする。
　せっかくの大勝ちなのだが、最後の出来事のおかげで素直に喜べない。
　橙子はなんだかなー、と頭を掻きつつ、店の裏手にある換金所に足を向け、
「おや、橙子さんじゃないですか」
　四年ぶりに聞く、思い出深い声に呼び止められた。
　ピン、と眠っていたベオの耳が立つ。
　時刻は日没前。
　嗅ぎ慣れた匂いが近づいてくるのを察して、カレは大きな<欠伸|あくび>と共に目を覚ました。
「んー、よっと」
　ベオは机から床に飛び降り、ヒト形に変化する。
　<仮初|かりそ>めの主従関係ではあるが、留守番役として、出迎えぐらいはきっちりとこなす気らしい。
「あれ？」
　廊下で顔を会わすなり、ベオは違和感に顔をしかめた。
　嗅ぎ慣れたはずの匂いに、なにか、余分な厚みが混じっている気がしたからだ。
「ただいまベオくん。
　はい、真面目にお留守番していたお土産」
　橙子は手にした紙袋をベオに手渡す。
　ハンバーガーのたっぷり詰まった紙袋を受け取って、カレは喜びながら、やっぱりおかしい、と首を傾げた。
「どうしたの、浮かない顔して。留守中、何かあった？」
「いや、思わず寝ちゃうぐらい何もなかったけど……トーコさんの方こそ何かあった？
　なんか元気ないし。妙に疲れてるし。なにより、ちゃんとボクの好きなお店のハンバーガー、買ってきてるし」
「え、そう？　別に、何もなかったけど？」
「………………」
　怪しい。怪しいコトこの上ない。
　ベオの不満点の一つとして、橙子の食事への<拘|こだわ>りの無さがあげられる。
　ハンバーガーなんてどこでも一緒だろう、とのたまう橙子は、どうでもいい店で買い物を済ませてしまうのだ。
　そんな橙子が、日本ではまだ店舗の少ないロッテリャーでハンバーガーを買ってきてくれるなぞ百回に一回あるかないか。加えて、
「い、いいじゃない、
　ちゃんと好きなお店のバーガーを買ってきたんだからっ」
「これは私なりの、ベオくんへの感謝の気持ち。
　今まで色々連れ回したけど、これからもよろしくね」
　この愛想笑いである。
　使い魔の人権なんて考えたコトもない蒼崎橙子がこんなコトを言いだしたら、三咲町に放たれた数十体の人形たちはロジックエラーの末、自爆して果てるだろう。
「<胡散|うさん>くさい、<芝居|しばい>くさい、<抹香|まっこう>くさい！
　優しいトーコさんなんてトーコさんじゃない！
　いっつも周りを恨んでいて、文句ばっかり言って、幸せそうなヒトたちをメチャクチャにしたいんだけど大義名分がないから我慢してる……そんな、理性のおかげでかろうじて性格破綻者を<免|まぬが>れてるトーコさんはどこいったのさ？」
「失礼しちゃうなあ。私だって、たまには優しくなる時ぐらいあるんだから。
　ほら、四年ぶりに故郷に帰ってきたのよ？　ベオくんだって里に帰ったら、ちょっとぐらいホッとするでしょ？
　それと同じ。私だって、ホームシックになる程度の可愛らしさはあるんです」
「すっごい嘘。月が涙を流すぐらい嘘！」
「ホントですぅ～！
　もぅ、ベオくんそれ返して！　罰として夕食抜き！」
　紙袋を取り返そうとする橙子を<躱|かわ>して、ベオは窓の外に飛び出した。
　そのまま器用に壁を蹴って、旧校舎の屋根まで退避する。
「なんだい。ほーんと、つまんない！
　言い訳するトーコさんとか、ボク、見たくない！」
　紙袋からハンバーガーを取り出し、ぱくりとかぶりつく。
　……しかし。
　芝居くさい、とは言ったが、橙子が普段より穏やかだったのは事実だった。
　なぜそうなのかは分からないが、先ほどの橙子には特別な……というか、今までベオには見せなかった……感情があったようだ。
「……なんだろ、あの匂い。
　妙にふわふわしてて、うっとうしくて―――」
　あれがどんな感情なのか、ベオには分からない。
　好きと嫌い、美味しいと不味いしか知らないカレには、まだそういう<機|き><微|び>が分からない。
「ま、いいけど。ボクには関係ないし。トーコさんも、明日になればいつものトーコさんだろうし」
　不満げにぼやきながら、パクパクとハンバーガーを消費していく。
　……正直なところ。
　分かりたいとは思わないが、未知があるコトに、ちょっとだけ不満なベオだった。
　それから何日か経過した。
　旧校舎の改造は人知れず進んでいく。
　あと一ヶ月近くここで待機、と言いつけられたベオは退屈で仕方がない。
　日々とじこもって肉を食べているだけでは、心も体も<鈍|にぶ>るというもの。
　一方、
「買い出しに出てくるから、後はよろしくねー」
「元気してた？　はい、お土産のローストビーフ！」
「いってきまーす。屋上の機材、片づけておいてね～」
「ただいまー。今日もお留守番、ご苦労さま
」
「よし、行ってくるでござる」
「おつかれー！　え、お酒くさい？　ばっか、酔ってなんかないですぅー。もーぜんぜん酔ってなんかないもーん」
　このように。
　自宅警備中のカレとは対照的に、魔術師は実に行動的、かつ上機嫌だった。
　着々と要塞化していく<臨時工房|アジト>の出来に、よほど満足しているらしい。
「ちがう。もー、ぜぇっっっったいちがう。
　そんなんでトーコさんの機嫌はよくなんないし。
　<旧校舎|こ　こ>に関しちゃグチグチ不満ばっかりこぼしてるし。
　何より、ござるとかバカっぽいコト言わないし」
「うん？　どうしたのベオくん。すっごく不細工な顔してるけど。そろそろ暴れたくて仕方がない？」
「そういうモンダイじゃありませーん。
　……まあそりゃ、早く本命とやらと戦ってみたいけど、もうちょっと先なんでしょ。ならガマンする。トーコさんの言葉は今のところハズレないから、おとなしく従います。
　けど―――」
「けど？」
「なんかヘン。いつも下準備の時はこれぐらいヒマだけど、緊張感がない。
　毎日食べて寝て食べて寝てじゃ<肥|ふと>るー。ぶくぶくに<肥|ふと>るよー。そんなのカッコヨクないよー」
「なに言ってるんだか。ベオくんにそんな心配は無用でしょう。<排泄|はいせつ>もしないクセに、まともな生き物ぶってるんじゃありません」
「うん。だから、おもにトーコさんが。ブクブクに」
「ベオくん、それホント！？
　数値は変わってない筈だけど、なんかこう、アストラル的に増えちゃったりしてる！？」
　これである。
　ベオの目の確かさを知っている魔術師は、体重計よりカレの鑑識眼を信じたらしい。
　いつもの橙子ならメガネを外し、
「唐突だが、特攻兵器の有用性を確認したくなった。
　ああいや、意見は聞いていない。さあベオ、この首輪をつけてみろ。思いっきりハイに飛べるぞ」
　ぐらいは本気で実行してくるだろうに、<肥|にぶ>っているにも程がある。
「……別に<増|ふ>えてないよ。
　昨日とちょっとの上下差はあるけど、そんなの人間なら当たり前だし。いちいち本気にするとか、見苦しいからやめてほしい」
「本当？
　こう、後でボテっとくるような気配とか、ない？」
「ないってば。昨日摂った栄養分はきれいに分配されてるし。いつも通りのトーコさんだよ」
　それは嘘だ。
　厳密に言えば、橙子はベオの知る“いつも通り”ではない。
　肉体面では寸分変わらぬ彼女でも、数日前から妙な違和感が付きまとっている。
　あの、妙に<浮|う>わ<浮|う>わした匂い。
　野生の獣にしか嗅ぎ取れない変化だが、それは日に日に増していっている。
　カレが不機嫌なのは、あの匂いが“どんな味”なのか、まったく見当がつかないからだった。
「それなら安心安心、と。
　私は出かけてくるから、お留守番よろしくね～！」
　ベオの不機嫌さに気付かず、橙子は緩みきった足取りで旧校舎を後にした。
　ここ数日、ずっとこれの繰り返しである。
「………………」
　窓硝子に映った自分の姿を見て、ベオはしばし思案した。
　これでは何の解決にもならない。
　雇い主の様子がおかしいのはタダさねばならないし、
　胸に湧いたこのモヤモヤも晴らさないと楽しくない。
　金色の生き物は仕方あるまい、と鹿爪らしく頷いて、
「よし。トーコさんを尾行しよう」
　今日一日だけ、自分の信条を<隅|すみ>に追いやるコトにした。
“今年の冬の寒さは、例年より厳しくなるらしい。”
“衣食住の備えは万全に。”
“僕らに衣は関係ないけど、残り二つは大切だよ。”
　そんな世間話を聞きながら、カレは三咲町を横断する。
　平日の午後一時過ぎ。
　会社員は昼休みを終えてオフィスビルへ、学生たちはまだ学校で授業中だ。
　人混みは主婦が中心で、大通りはどことなくまったりとした雰囲気だった。
　そんな穏やかな世界に、不穏な異分子がひとり。
　買い物中の奥さま方、売店の店員、外回りのサラリーマン等から様々な視線を浴びながら、蒼崎橙子はどこ吹く風で大通りを闊歩する。
　目立つ服装はもとより、彼女本人の“姿勢の強さ”が人目を惹くのだろう。
　俗に言う、モデル歩きというヤツである。
「“……人には目立つなって言うクセに、本人はアレだもんなあ。潜伏期間中、相手に見つかるのはボクだけのせいじゃないと思う……”」
　なんて、言いたいコトをぐっと堪えながらカレは雇い主の後方、十メートルの位置をキープする。
　橙子本人の名誉の為に注釈しておくと、彼女とて自分がどれほど目立つか理解している。
　今は人通りの少ない時間帯なのですっぴんだが、学生や社会人が多くなる時間帯では視線よけのルーンを刻んだ<装飾|アクセ>できらびやかさを四割ほど落としているのだ。
　蒼崎橙子は商店街でいくつか買い物を済ませた後、住宅地に向かった。
　彼女は何の変哲もない一般家屋を訪問した。
　ベルを押し、「蒼崎橙子です」と告げると、門は静かに開かれた。
　どうも、商店街の買い物はこの家への土産であるらしい。
　表札には<浅葱|あさぎ>とある。
　ふと、<潮|しお>の匂いがする、とカレは感じ取ったが、三咲町は山間の街だ。
　こんなところに潮の匂いが在るのはおかしい、何か別の匂いだろう、とカレは忘れるコトにした。
　橙子は三十分ほどで出てきた。
　彼女の中ではわりと重い案件だったのか、家から出るなり両腕を空に伸ばして深呼吸をする。
　肩の荷を下ろすような、そんな伸びだった。
「これで根回しは終了、っと。
　後は―――最後の念押しね。ああ、面倒くさい」
　やれやれと呟く橙子。
　が。口調とは裏腹に、口元からはやっぱり例の、浮わ浮わした匂いがするのであった。
　橙子が次に向かったのは、何の変哲もないアパートだった。
　傍目には偶然通りかかったように見えるが、カレの鼻は誤魔化せない。
　橙子は散歩するような素振りで時間を調整し、午後二時三十分、きっちりとこの時間に合わせてアパートにやってきたのだ。
　そうして、アパートの駐車場には、
「へ？」
　たったいま一階の部屋から出てきた、<周瀬|すせ><律架|りつか>の姿があった。
「はあい、お久しぶり。
　こんなところでバッタリ出会うなんて奇遇ね、律架」
「うそ、トコちゃん！？　貴女、帰ってきてたの！？」
「ええ。ちょっと前にね、こっそり、人目を忍ぶように、窓から侵入するサンタクロースさながらに。
　あ、言うまでもなく目的はこの町をぶっ潰すコト。
　私の過去共々キレイさっぱり清算するため、この度、準備万端でやってまいりました。
　なのでぇー。邪魔になる協会の人間とか教会の人間とか、気付かれる前にやっちゃうぞ☆」
「あらあら、それはご丁寧にどうも……って、
　トコちゃん、それわたしのことー！
　協会の人間って、いまわたししかいないんですけどー！」
「あら不思議。むしろラッキー？
　懐かしくて散歩していたら、まさか標的の一人に出遭うなんて。ひとつ手間が省けた感じ？」
「関係ないのー！　わたし、協会と関係ないからー！
　だってここ一年、真面目に仕事してないし！
　というか、仮にも兄弟子をつかまえて本気で殺すとか言わないでほしいですー！」
　アパートから現れた女性は、わたわたと涙目で手を振り回す。
　が、それは無用の心配だ。
　向かいの家の塀の穴から覗いているカレからしてみれば、橙子の殺気は偽物である。
　蒼崎橙子は、常からして他人をからかって愉しむ癖のある、たいへん困った女性だ。
　その困ったところが、あの相手に対しては二倍増しで表れているだけらしい。
「……はあ。それを言うなら姉弟子でしょ」
「えー。だってトコちゃん、妹って感じしないんだもん。間違っても姉弟子、なんて胸を張って言えませんっ」
「そうよね。技量的にも、とても先輩なんて言えるものじゃなかったし。律架の特技なんて、今じゃ深夜販売の商品以下だし。そろそろ職替え考えたら？　いいとこ紹介するよ。イタリアで見付けた、もう廃業寸前のサーカス一座とかどう？」
「そんな日給バイトはこりごりです！
　せめて週給のところを紹介して！」
「……うわあ。通販以下ってところは否定しないんだ」
「なぜ？　トコちゃんの指摘は正しいわ。
　だってわたし、何もできない役立たずですから。
　魔術協会いちのお荷物、ここに参上～♪」
　ぽやぽやした笑顔に毒気を抜かれたのか、橙子もつられて微笑む。
　傍目には<和|わ><気|き><藹々|あいあい>とした関係だ。
「あ、わたしへの疑いは解けたとみたわ。
　それなら寄ってく？　これから用事があったんだけど、別に後回しでいいし。久しぶりだもの、お互いつもる話とか楽しそうじゃない？」
「ほんと、相変わらずゆるゆるね律架は。
　たしかに気が変わったわ。その様子じゃ協会との関係なんて無いようなものだし、貴女は貴女の信条を守っているようだし。
　―――そう、本気で青子の味方なんだ」
「もっちろん！　アコちゃんはまだ半人前ですもの。
　付かず離れず、あくまで他人行儀に、アコちゃんが死ぬような目にあっても遠くから見守るわ」
「それは結構。青子もホント、いい性格をした理解者に恵まれたもんだ」
　橙子は一歩、周瀬律架から身を引いた。
　やや名残惜しげな顔が、話はここで終わりである事を示している。
「あれ、寄っていかないの？
　わたし、コーヒー淹れるの上手くなったよ？」
「ありがとう。けど遠慮しとく。こっちはまだ潜伏中だし、街攻略の準備もあるしね。
　ここで緊張感をなくすのは<上|う><手|ま>くないでしょ」
「あらまあ、真面目さん。
　でもそうよね、トコちゃんはそういう人でした。根を詰めすぎて、目的より手段そのものに熱中しちゃうタイプ。
　ほーんと、どんな準備かは分からないけど、トコちゃんに狙われる人たちはたいへんだ」
「ん？　別に普通でしょ？　基本、魔術戦やって、こっちが勝ったら刻印を貰うだけ。
　時代遅れの魔女じゃあるまいし、倒した相手に呪いとかかけないわよ、私？」
「だからそこです。
　相手の命より収集を優先してるじゃない。
　その人たち、目玉だけになっても生きている、なんてコトにならなければいいけど。
　貴女は気を<遣|つか>っているつもりだろうけど、相手にとっては拷問だからね、それ」
　なるほど、と橙子は頷いた。
　自分の収集癖は、傍目にはそう映るのかと。
　蒼崎橙子は戦闘に利益を求める。
　敵対した魔術師を倒した後、彼らが有益な素材を提供してくれるのなら命までは奪わない。
　むしろ、ギブアンドテイクとばかりに無理やり命を助けさえする。
　結果、ロンドンの彼女の工房には『術式提供者用・慰安施設』なるものが出来てしまった。
　彼女に敗れた、あるいは自分から協力者になった魔術師たちの棲む魔窟である。
　現在、多くの魔術特許を持ち、月の収入が１万ポンドを超える橙子だが、大半はその施設の維持に充てられている。
　棲みついた魔術師たちの要望―――追加施設、特別待遇を望む声は日に日に増しており、いいかげん会社を<興|おこ>すか、あるいは全員<釈|ク><放|ビ>にするかと、悩み多い橙子だった。
「でも、誓って<拷問室|そういうもの>じゃないわよ？
　拷問なんて手間暇かかりすぎるし。娯楽を与える方が管理コストは低いんだってば。
　<現代|いま>はいい脚本そろってるしね。適当な映画のプロットを拝借して、それを再現するだけで喜んでもらえるし。
　仮想であれ現実であれ、自分が主役になれる物語なんて最高じゃない」
「ふーん。つかぬ事をお伺いいたしますけど、上演ジャンルはどのようなバランスで？
　恋愛３、活劇３、サスペンス３、アニメ１？」
「は？　そりゃ、基本ホラーでしょ。エンタメのすべてが詰まってるんだし」
「……。わたし、トコちゃんのそういうところ、素で怖いわ。
　というか、女の子なんだからもっとロマンを求めてほしいの」
「む。今回<捕|つか>まえる候補にあがっている人間に言われると、さすがに考慮せざるをえない。
　んー、囚人を放り込む<仮|は><想|こ><現|に><実|わ>の、バランスに気を遣ってみればいいの？　ホラー８ぐらい？」
「恋愛９！　恋愛９でお願いします！　それがダメなら推理９で是非！」
　橙子に狙われた場合、絶対に負けると信じきった上での即答だった。
「了解、そういう事態になったら善処する」
「はーい。そういう事態って、どんな事態？」
「誰かの味方をするのはいいけど、私の敵に回った時、かな。あと今日の事を口外した瞬間、足下からパクッといくから気をつけて」
「へ？　足下って、影のこと？
　あ―――あれ。そもそもなんていうか、トコちゃん。
　わたし、一歩も動けないんだけどー！」
「ふふふ、ごめんなさい律架。実は一週間かけて、貴女の部屋に罠をしかけてたの。
　ドアの境界に影で作った使い魔を仕込ませた、みたいな？　しばらくは貴女の影に棲みついているから、私に不利な証言したらたいへんだぞ
」
「わたし、すでにたいへんだったのかー！
　悪魔！　人でなし！　天才悪魔！　トコちゃんはもう少し一般常識を学ぶべきです！　もう、どうりで夜な夜な泥棒さんがピッキングしてると思った！」
　影の使い魔には気付かなかったものの、深夜、細工をしている橙子の気配には気付いていたらしい。
　ただの泥棒と思ってスルーし続けるあたり、律架に一般常識を問われたくない橙子だった。
「その使い魔、年明けには溶けるから安心なさい。
　じゃあね律架。縁があったらまた会いましょう。その時は自慢のコーヒーをご馳走してね。
　ああ、あと深夜販売の商品だってバカにできたもんじゃないわ。あのシンプルさ、けっこう好きよ、私」
　旧知の友人にウインクをして、橙子はアパートを後にする。
“また会いましょう”
　その言葉に、橙子自身、空しいものを感じながら。
　今回の計画は、どうあっても彼女の肉体を無事には済まさない。成功するにしろ失敗するにしろ、蒼崎橙子はこの世から消失する。
　それでも再会の<空言|からごと>を残す程度には―――
　蒼崎橙子は、周瀬律架に思い入れがあったのだろう。
　そんな友人を、律架は金縛り状態で見送った。
　蒼崎橙子が帰ってきた。
　律架にとって、それは今回の事件の真相を知るに等しい。
　橙子より二歳ほど年上の周瀬律架は、十年前から橙子の祖^父―――五番目の魔法の路を発掘した魔術師―――の監視^役として派遣された魔術師だ。
　彼女は蒼崎橙子の先輩であり、また、蒼崎青子の先輩でもある。
　故に、姉妹の事情をそれなりに把握していた。
「うーん。そりゃあ、口止めの一つもしないとね。
　トコちゃんを見てまっさきに警戒するのはわたしと―――」
　あと一人。
　真の意味で蒼崎姉妹の兄弟子と言える人物。
　蒼崎橙子の教育係を務めた、ある麗人が残っている。
「ま、そっちはそっちで根回ししてるかな。
　トコちゃんならそのあたり完璧だろうけど―――」
「もうちょっとこう、敵には非情になった方がいいわよね。　トコちゃんは相手の人権を尊重しすぎっていうか、根本が甘いっていうか。
殺すと決めた相手に顔を見せるとか、どうかと思うの、わたし」
　蒼崎橙子は魔術師というより研究者で、基本、戦いに向いた人間ではない。
　残酷なクセに冷酷ではない。
　合理的な、むごたらしい仕打ちができるクセに、他人への思いやりなどを持ってしまっている。
　そのあたりの整合性のなさが彼女自身を苦しめなければいいけど、と、律架はひとり、我が事のように嘆息した。
　蒼崎橙子は住宅地を後にすると、街で一番大きな公園に足を向けた。
　冬の初めの、午後三時過ぎの並木道。
　秋であれば散歩をする人々で<彩|いろど>られる道だが、今は橙子の姿しかない。
　……いや、正確にはもう一人分。
　十メートル以上の距離をとって芝生を歩くベオは、ここにきて雇い主の変化を嗅ぎ取った。
「“トーコさん、こんな町中でメガネ、外してる？”」
　蒼崎橙子はメガネの有り無しで人格をスイッチする。
　どちらが素なのかはベオには不明だが、メガネを外した彼女は遊びのない、男性的な思考に変化する。
　俗に言う二重人格……ではなく、物事の優先度を組み替えただけのもので、おもに相手を叩きのめす時、彼女はメガネを外す。
　妥協、憂慮、同情。そういったものを脳の外に追いやった、非人間に変身するのである。
「“ってコトは、さっきから近づいてくる匂いはトーコさんの敵……なんだ、けど……”」
　木の<陰|かげ>に<潜|ひそ>みながら、ベオはむう、と眉を寄せた。
　橙子からは確かに敵意とか緊張とか、その手の匂いが<零|こぼ>れている。
　けれど同時に、あの妙な匂いが強くなっている事に、ベオは不満げに鼻をひくつかせるのだった。
「こんにちは。なんとなしに散歩していただけなのですが、また出逢えるとは奇遇ですね、橙子さん」
「ああ。たまたま続いた偶然だ。世間話をする仲でもなし、挨拶を交わす程度に済ませよう」
　橙子に声をかけたのは、ベオにとって未知の人間だった。
　男の名は<文柄|ふみづか><詠梨|えいり>。
　合田教会の司祭代理であり、ベオや橙子からすれば敵よりの人物である。
　が、事前情報を知らないカレにそれを察しろというのは酷な話だろう。
　なにしろ、司祭には敵意が一切ない。
　ベオから見て、彼はどこからどう見ても一般人であり、蒼崎橙子が遅れを取る可能性など皆無だからだ。
　―――後に、カレはその手の“毒を毒と思わせない”タイプの人間から手ひどい教訓を学ぶ事になるが、それはまた別の話である。
「そちらの状況はどうなんだ。神の家は働き者<揃|ぞろ>いだからな。利権をあさりに来る<欲深|よくぶか>は現れそうか？」
「いやあ。働き者、というのは全力で肯定しますけど、欲が深いとか、そんな人は少ないですよ、こちらは。
　彼らがやってくる時はたいていは教義の為ですから。
　欲望より<責務|せきむ>で動く人たちって怖くないですか？」
「無駄話はしないと言っただろう。
　結論を言え。おまえの腰巾着は鐘を鳴らしそうか？」
「やれやれ。人のことは言えませんよ。
　橙子さんだってワーカホリック寸前じゃないですか。
　もっとこう、余裕のあるコミュニケーションをとりませんか？　立場上、いつ最後の<逢瀬|おうせ>になるか分からないワケですし」
「ふざけろ。いつも何も、これが最後だよ詠梨」
　微笑む司祭の提案を、橙子は一言で斬って捨てた。
　まさにけんもほろろ状態である。
「だいたい次があるとしたら、その時は殺し合いだろ。
　お互い手の内は知っているしな。顔を会わせた瞬間、どちらかが死んでいる。会話なんぞしている暇があるか」
「それは橙子さんだけの思いこみですけどねぇ。
　どうしてこう、邪魔者は始末する、という方向でしか物事を考えられないんでしょうか、貴女たちは」
　やれやれと肩をすくめる司祭と、
　その<外套|マント>の下を注意深く見据える橙子。
　司祭が何度「穏便に済ませたい」と口にしても、プライドにかけて信じる気はないようだ。
「まったく。そういうところも成長して帰ってくるんですから。育つのは女性としての魅力だけに留めておいてほしいものです。
　ああ、そう睨まない。本題に入りますから」
「目下、教会への報告は私が一任されています。司祭への報告は『現在、管理者は異端者と交戦中。中立の条約に基づき、司祭代理権限で監督中。なお、異端者の所属は不明、現在、履歴を調査中』といったところです」
「この町に現れた魔術師は所属不明……という事になっているんだな？」
「ええ。シスター<唯架|ゆいか>は私とは別<所轄|しょかつ>の方ですが、彼女は異端者の工房はおろか、その姿さえ掴めていません。
　彼女が単独で敵の正体を暴くまで、教会から横槍が入る事はないんじゃないですかねぇ。
　今まで通り、土地を狙いにきた魔術師同士の小競り合いだと思っているんじゃないですか？」
「そうか。では取引成立だな。
　おまえが私の帰国の件を握り潰している間は、私も多少、回り道をする。蒼崎の親戚筋にも手は出さない」
「良かった。橙子さんは無差別な破壊工作はしませんが、とにかく最適な<道筋|みちすじ>を好みますから。
　勢い、どこぞの工場とかオフィスビルとか秘密基地にしそうでしょう？
　私がこちらに赴任している間、流血事件が続くと困るというか。私の評価が落ちるような事は、なんとも」
　人の事をなんだと思っているんだ、と抗議したくなる気持ちを抑えこむ。
　橙子とて無駄は嫌いだが、だからといって最適化の為に社会性を<無|む><下|げ>にするつもりはない。
　そもそも、犯罪行為は後処理が面倒になる。そちらの方が遥かに無駄というものだ。
「……まあいいさ。お互いの利益が一致したんだからな。
　では、後は事が済むまで<静観|せいかん>を決めこんでおけ」
「もうお帰りですか。名残惜しいですねぇ。
　結局一度も、今の貴女の素顔を見られなかった」
「私は逆だ。そのカマキリ<面|づら>もこれで<見納|みおさ>めかと思うとせいせいする」
「ああ、待ってください。お別れの前に、一つ質問を」
　司祭に顔を向けたまま立ち去ろうとする橙子を、司祭はごく自然に制止させた。
　橙子が足を半歩後ろにズラそうと考えた瞬間に、である。
「所感なのですが。
　橙子さん、今、たいへん息苦しくはありませんか？」
「まさか。私はかつてないほど充実しているよ。
　なぜそんな事を訊く、詠梨」
「いえ。だって楽しそうではありますが、幸せそうではありませんので。貴女自身気付いてはいないようでしたから、<知|ち><己|き>として心配になったのです」
「……幸せの定義か。思い出したよ。おまえの口癖だったな、それは。幸せのカタチは人それぞれだと。
　まったくその通りだ。私の善しとする幸福が、他人であるおまえに分かるものか。つまらん心配はするな」
「いや、そりゃあ細かいところまでは分かりませんけどねぇ。とくに女の人の幸福観なんて、それこそ<奇々怪々|ききかいかい>ですから。
　ですがほら、幸福のカタチは二つに大別できます。
　橙子さんの場合、それすら気付いていないようですから。たいへん見苦しいな、と思いまして」
「……ほう、ご忠告痛み入る。腐っても兄弟子という訳か。
　いいぞ、聞いてやるから言ってみろ」
　それが下らないものなら、ここで殺す。
　この一ヶ月―――いや、この二年間積み重ねてきた計画を白紙に戻す事になっても殺す、と。
　橙子の敵意は、ここにきて殺意に変貌した。
「当たり前のコトですよ。
　相対的なものと絶対的なもの。比べる相手が居るか居ないかが幸福の違いです。
　自分が穏やかであれば幸福なのか、それとも―――
　どんなに満ち足りていても、<他人|ひと>より劣っていては我慢できない人間なのか」
「幸福の定義なんて、詰まるところはその二つですよ。
　私が言うまでもありませんが―――
　多くの人間は、ただ、<他人|ひと>より少しだけ幸せでありたいのです」
　涼やかに<微笑|わら>う黒衣の聖者。
　ああ、と橙子は思いだした。
　この男は根本からして、<幸福|そういうもの>を信じていない悪魔だったと。
「ほら、そんな殺気は収めて。シスター唯架が飛んできます。
　橙子さんの幸福観は絶対的なもの。貴女は自分が確かであれば満ち足りるタイプの人だったんですけどね。
　他人が気になるなんて、そんな相対的な幸福観を持っているのは、」
　青子の方、と言いかけて、司祭は自分から身を引いた。
　心底から橙子を心配しての忠告だったが、逆の結果に終わったようだ。
　司祭としては本当に名残惜しいが、これ以上怒らせて嫌われるのはよろしくない。
「言葉がすぎました。お許しを<人形師|ハイマスター>。
　それでは私はこれで。貴女たちにとっていい結果になる事を祈っています」
「ふん、さっさと消えろ<穀|ごく>潰し。最後まで陰気くさい真似をしやがって。
　……だいたいその服装、どうなんだ。町中でマントなんて<羽|は><織|お>って、敬遠されないのか？」
「皆さん、もう慣れてくださいましたから。
　それに、ほら。この格好だと<得物|エモノ>を差していてもバレないでしょう？
　ま、橙子さんには見抜かれてしまいましたが。相手が貴女ですからね。恥ずかしながら、長物を三本ほど、こっそり」
　最後まで笑顔を絶やさず、司祭はもと来た道へ退散していった。
「……ふざけやがって。こっちは一本、それも短刀ぐらいにしか見抜けなかった。
　そもそも三本ってなんだ？　魔術師でもないクセに、どうやったら隠せるんだ？　あのバカ、手品師に<鞍替|くらが>えしたワケじゃあるまいな？」
　橙子はぼやきつつ、先ほどまで目の前にいた男の姿を思い返した。
　一枚上をいかれたのは心底<憎|にく>らしいが、同時にホッとしているのも事実である。
　あの短い会話の中、橙子がもし司祭の武装を正確に見抜いてしまっていたら、その瞬間こそ、あの司祭はゼロコンマで戦いの火ぶたを切っただろう。
　その時―――どちらが生き残るかは、今の蒼崎橙子ですら予測できない。
　文柄詠梨という男は、昔からそういう人間だった。
　戦う理由も、戦う相手も要らない。
　因縁も憎悪も要らない。
　ただ、「口火を切る」瞬間だけを待つ<自動機械|オートメーション>。
　人を斬る事について考察さえしない、鍛え上げられた“殺人検証”の化身である。
　彼女がそれを間近で見たのは一度きり。
　……まだ蒼崎橙子が魔法使いの“幸福な”弟子だった頃。
　あの男は、橙子が祖父の前で静かに涙した瞬間、何の前触れもなく、何の躊躇いもなく、自らの師を一刀のもと処断したのだ。
「なんで！？　どうして、貴方が<祖父|あのひと>を斬りつけたの！？」
「いえ。今なら斬れる、と思いましたので」
　あっさりとした返答に、幼い橙子がどれほど感じ入ったのか、当の本人は知るまい。
“相手が隙を見せたから、勝てると確信したから斬った”
　ではない。
“今の自分の気持ちなら斬れると思ったから、斬った”。
　ただそれだけ。
　祖父に弟子入りし、交遊を深め、唯一無二の友人関係を得た男は、胸に飛来した感情に寄って祖父を切断した。
　魔法使いに限りなく近かった魔術師の肉体を破壊したのは、誰あろう、あの司祭の神技である。
「あーあ、ほんと胡散くさい、面倒くさい！
　でも<目障|めざわ>りだからぜったい殺すし。魔法を<奪|うば>ってからの仕事がまた一つ増えちゃったじゃない、バカ詠梨」
　眼鏡をかけ直して、橙子は<踵|きびす>を返した。
　今日の目的はすべてクリアした。
　あとは使い魔の食料を調達する為、食費を稼いでアジトに帰るだけである。
「“ちょっ、なにあの乙女時空ーーーーーー！？”」
　と、ベオが叫んだかはさておいて。
　例の浮わ浮わした匂いはどこへやら。
　雇い主は完全にもとの蒼崎橙子に戻って、繁華街の方角に消えていった。
「“………………”」
　クンクンと鼻を鳴らす。
　あの匂いが気になってやってきたベオとしては、もはや橙子は尾行する対象になりえない。
　なぜ匂いは消えたのか。
　そもそも原因は何だったのか。
　カレはカレなりに考えこんだ末、
「“うん、さっきの男が怪しいよね！”」
　気を取り直して、先ほどの男の匂いを辿る事にした。
　行き着く先が雇い主にとって鬼門である事なぞ、無論、ベオには与り知らぬコトである。
　唐突だが、<合田|あいだ>教会は年中無休、かつ、来る者拒まずの姿勢を貫いている。
　迷うもの、<貧|ひん>するものの味方であり、最近は小金稼ぎに<結|ブ><婚式|ライダル>業にまで手を出した。
　三咲市の福祉事業とも密接な関係にあり、運営はそれなりに順調だ。
　唯一の問題は、この通り、
「……詠梨神父はまた外出ですか。
　律架もサボタージュ、奉仕の生徒さんたちも日に日に減っていく一方……結局、労働力は私ひとりだけなのですね」
　台所事情は安泰でも、慢性的な人手不足だけは解消できないのだった。
「だいたい、この街の人々は信心が足りなさすぎます。
　給金がなければ働けないなど、人生をなんだと思っているのでしょう。物欲だけで構成された一日を過ごしていては、<懐|ふところ>は豊かになっても心が貧しくなるだけでしょうに」
　ひとり小言を口にしながら、シスターはひょい、と片手で<脚立|きゃたつ>を持ち上げた。
　教会の窓掃除に使う本格的な脚立で、大の大人がふたりがかりでも手に余る重量なのだが、このシスターにはそのあたり気にならないようだ。
「人々の心の<荒廃|こうはい>も気になりますが、物価の上昇も捨て置けません。消費税なるものの導入も<囁|ささや>かれますし、詠梨神父にはもっと、一日で驚異的な成果をあげる結婚式の素晴らしさを知っていただかないと。
　あの人は<誰彼|だれかれ>何彼気分で世話をして、後の事とか考えませんから。裏庭に集まった野良猫たちはどうするんですか。ああ、私ですね、それも私が受け持つのですね。もうなんでもかんでも肉体労働は私なのですね」
　もはや完全な小言マシーンと化したシスターの名は、<周瀬|すせ><唯架|ゆいか>。
　普段の彼女からは考えられない光景だが、これにはちょっとした理由がある。
　彼女は盲目であるが故に、周囲の気配を察する<感覚|センス>が研ぎ澄まされている。
　生き物―――特に人間の気配には敏感で、驚くべき事に半径十メートル単位で人の在る無しを判断できる。
　いま、彼女が素の自分をさらけだしているのは、周囲に人がいないと感じ取っているからだ。
「ええっと、今日の余り物はっと……ああ、もらい物でジャムの詰め合わせがありましたね。
　……どうなのでしょう、主よ。猫って二日経った岩のように堅いパンでもペーストすればいけるクチなんでしょうか。玉葱だけは出すな、と律架が言っていた気がしますが」
　シスターは掃除器具の後片づけをしつつ、先ほどから裏庭でミャーミャーうるさい小動物たちの<夕餉|ゆうげ>の支度をする。
　と。
「おや？　新しい迷子ですか？」
　盲目のシスターは、ひょこっと教会に現れた、小型犬の気配を感じ取った。
「ごめんなさい、今日は猫限定の日なの。キミがまざってしまったら猫どもが驚くわ。
　餌ならここで恵んであげますから、中に入るのはまた今度にしてくださいね。それ以上入ったら向かいの家の屋根あたりまでご退場願いますよ」
　教会の門をくぐろうとする茶色の小型犬を、シスターは足で押しとどめる。
　人間でないものには扱いが少々乱暴な唯架だった。
「“なにこの<辛気|しんき>くさい生き物？”」
　一方、小型犬―――狼の信念はとりあえず隅に追いやった―――に変身したベオは、シスターを障害物としか見ていなかった。
　黒い男の匂いはこの先に続いている。
　人間なぞどうでもいいカレにとって、立ちふさがるシスターは電柱以下の造形物にすぎない。
　なので当然、シスターの言葉なぞ無視して門をすり抜けようとする。
「……え。な、なんでしょう、この色。
　この子、すごい色していますけど……もしかして高級な品種なのでしょうか……だとしたら……」
　どこぞのお金持ちのペットかもしれない。
　教会に来るという事は、礼拝に来る裕福層の飼い犬である可能性もある。
　これは無下にはできない、と蹴りだそうとした足を止める唯架だった。
「ごめんなさいね。詠梨神父が目当てなんでしょうけど、また出かけてしまったの。今日いちばんの餌をあげますから、大人しく帰ってくださいません？」
「“ああもう、邪魔、この辛気くさい人！
　よし、まわりに誰もいないし、首を噛み折ろ―――”」
　飛びかかろうとしたベオの前脚が、急停止する。　
　カパッ。
　シスターは手にした瓶の蓋をあけて、キラキラ光る液体状のものを小皿にそそいで、
小型犬の前に差しだした。
「“えっと―――”」
「ほら、お食べ」
　差し出された正体不明の液体。
　それはまたしても、カレにとってはじめて嗅ぐ匂いだった。
　好奇心にはひたすらに弱いベオである。
　たとえ毒が入っていようと、自然界の毒ならカレには通じない。
　ぺろりと一口舐める。
「“――――――なに”」
　すこし舐める。
「“――――――この”」
　さらに舐める。
「“――――――あじ！”」
　もっと舐める。
「おや。牛乳を飲むような舐めっぷり。
　犬ながら惚れ惚れします」
「“これ、もっとほしい！”」
　夕暮れの教会に、ワン、と元気な吠え声が響きわたる。
　この時点で、ベオにとって男の匂いなぞどうでもいい物になっていた。
「ふふ、甘いですか？　私も感動しました。
　犬どもにも甘味をたしなむ心があるのですね」
「“甘い？　これが甘いってコト？”」
　シスターの呟きに、ベオはハッと顔をあげた。
　今の単語はなんだか大切な気がする。
　そもそもこの食べ物が閃光のような衝撃だった。
　ベオにとって、食事は燃料補給のパターンの一つにすぎない。
　ハンバーガーのえり好みはあるが、あれはあくまで“噛みごこち”の良し悪しだった。どうせ栄養摂取をしなくちゃいけないのだから、仕方なく食べているにすぎない。
　が、これは違う。肉食動物の“命”を燃料にするカレにとって、この食べ物はまったく意味がない。
　けれど、もっと食べたい。
　必要はないけど、これはなんていうか、すごく気持ちのいいものだ。
　体ではなく、心の栄養になるような。
「“―――あれ、そもそもこの匂いって―――”」
　むむ、と振りまくっていた尻尾が止まる。
　小型犬に<扮|ふん>した黄金の狼は、自分の名前の由来である食べ物を前にして、解けない難問につきあたるのだった。
「ただいまー」
「はい、お帰りなさいベオくん。
　遅いお帰りにお姉さん心配しちゃった。こんな時間まで無断外出とか心配したゾ。教育係<兼|けん>飼い主として、バッボーイしなくちゃいけないからそこに正座」
　ベオがヒト形に変身して工房に戻ると、笑顔でこめかみをひくつかせた蒼崎橙子が待っていた。
「あ、そうか」
　失敗しちゃった、とベオは素直に反省する。
　シスターとの一件で、先回りして帰る事を失念していた。
「えー、正座はいやですー。
　そりゃあ無断で外に出てたけど、誰にも見つかってないし。別にボク、悪いことしてないし」
「誰にも見つかっていない？
　ってコトはベオくん、裏山で遊んでたの？」
「ううん、裏山じゃなくて町。気付かなかったでしょ、実はトーコさんを尾行していただけなのです！」
　予想外の返答に固まる橙子。
　が、さすがにカレの扱いには慣れたものなのか、そう、とため息で頭痛を押さえこんだ。
「……いいでしょう。見つからなければ<悪戯|いたずら>じゃない、と教えたのは私だしね。主人の尾行禁止、とは命令していなかったし。今回の尾行については不問に付します。
　でも、どうやって人目を避けたの？　その格好だったらさすがに気付くと思うんだけど、私」
「そこはキギョウヒミツです。教えたら今日みたいなトーコさん、もう見れなくなっちゃうし。楽しそうだったよね、あのヒトと」
「……！」
　らしくなく、素直に反応する橙子。
　そんな雇い主の動揺に、ベオも意表をつかれてしまった。
「それは違う。どんな勘違いをしたのか知らないけど、アレはただの交渉よ。教会の神父相手に、町を人質に見立てて不干渉を念押ししただけで、」
「いや、楽しそうに見えたのは女のヒトの方だけど。
　あの、全身ぐるぐる巻きに自分を縛ってた方」
「むっ」
　しばし無言で見つめ合う一人と一匹。
　野生のカレは、ふーん、と訳知り顔で納得して、
「………………。
　つまり、アレってトーコさんのつがい？」
「っ……！」
　蒼崎橙子をして吹き出させる、神をも恐れぬ疑問を投げかけた。
　人形師は無言で眼鏡を外して、まなじりを強く押さえた。
「なんでそんな言葉だけ知ってるんだオマエは。
　<耳年増|みみどしま>にも程があるぞ」
「こんなの、生き物としてフツーの言葉じゃない。
　……まあ、トーコさんがフツーの生き物だとは思っていなかったから、ボクとしても意外だけど。
　それで、どうなの？　あのパッとしないポテトみたいな<雄|おす>、なに？」
　何が気に食わないのか、ベオは唐突に不機嫌になった。
　ベオ自身、自分が<苛|いら>ついている事は理解できたが、なぜ苛ついているのかまでは理解できていない。
「何もなにも、オマエの言う通りしなびたフライドポテトだよ。少なくとも私にとってはね。気にする価値もないし、食べたくなるような魅力もない」
「ホント？　ただの敵？　トーコさんにとって特別なのは、ボクだけ？」
「ああ、今のところはね。
　……やけぼっくいに火がつくかとも思ったが、完全に<湿気|しけ>っていた。アレを前にしてどうこう思うのは、もう二度とないだろうさ」
「そっか！　なんでもないならもう忘れるコトにしまーす！　でも、ヤケボックイってなに？」
「思い出を蒸し返して、前後不覚におちいるコト。
　ま、その可能性だって少しはあったと思うよ。あんなんでも、私の初恋の相手のようだし」
「へ？」
　恋は未経験なれど、初恋の意味ぐらいは知っているベオだった。
「ハツコイって、トーコさんに！？」
「……つがいはアリで初恋はナシとか、どれだけ私を動物的に観ているんだ、オマエは。
　昔の話だよ。私が十代になったばかりで、<詠梨|アレ>が祖父の弟子だった頃の話だ。ヤツは魔術ではなく、精神修行の一環として祖父と付き合っていたが」
　淡々と語る橙子の横顔から、未練らしきものは見られない。
　なのにこう、普段より<言霊|ことだま>に温かみがある、とベオは眉を曇らせた。
「トーコさん、まだスキなわけ？」
「いや。自分でも呆れるぐらい何もなかった。
　ただ青春の幻影というのかな。そういう頃の象徴のような知人とは、話すだけで懐かしいものなんだよ。
　人間的にはまったく魅力を感じなくなったが、ヤツと話しているだけで、こう、昔の自分を思い返して笑いたくなる」
　<感慨|かんがい>深く語る橙子に、ベオはますます首を<傾|かし>げる。
　すごく嫌いなのにわりと好き、というのは理屈に合わない気がするからだ。
「そういうの、ボク分かんないなー」
「オマエには好き嫌いがないからな。<理屈|ロジック>だけじゃヒトの関係は解けないよ」
「そんなのありますー！
　食べ物だってえり好みするじゃんか、ボク！」
「オマエの基準は有益か無益かだけだろ。
　野生動物にとって味覚は、十分な栄養値があるかないかを測るセンサーでしかない。
　栄養値を度外視して食事をとるのは人間だけだ。
　……自分の体に合っているからその食材を好む、ではないんだよ。ヒトは "楽しい" か "楽しくない" かで食事をとる。好きなものが甘く見えるのはその為だ」
「甘いもの―――好きなものって、甘く見えるの？」
「物の喩えだが、苦くは見えないだろ。……まあ、ヒトによってはそれもありだが。
　そのあたりはアレだな、性癖の問題だ。
　たまごが先か、にわとりが先かの話さ。好きだから甘いのか、甘いから好きなのか、とね」
「でもボク、トーコさんは甘く見えないけど」
「そりゃそうだろ。そもそもオマエはまだ“生きて”いないからな。
　在るだけのモノと、生きているコトはまた別の話だ。
　皮肉な話だがね。その違いを知った時、オマエは無敵ではなくなるよ、ベオ」
「――――――」
「さ、夕食だ。今日も大勝したからな、<霜降|しもふ>りのいいところを買ってきたぞ」
　雇い主はいつもの調子で教室に入っていった。
　ベオは浮かない顔で廊下に佇む。
“オマエはまだ生きていない”
　その台詞はベオの心をざわめかせたが、なぜそう思うのか、今のカレには分からない。
　その答えの手がかりを得るのは、これから約三週間後。
　完全であるルゥ・ベオウルフが、
　まったく完全でない生き物に、
　あっさり黒星をつけられた後のコトになる。
　無人の校舎に場違いな<呼び鈴|コール>が響き渡る。
　建物を改築した主も、
　その主を撃退した魔法使いも退場して<久|ひさ>しい、一月某日。
　蒼崎橙子が気まぐれで取り付けていった電話機は、そこに誰かがいる事を確信しているように、飽きることなく鳴り続けていた。
「ああもう、うるさいなあ」
　そんな中、ごそり、と動く気配があった。
　校舎は無人には違いないが、人間ではないモノが一つ、いまだ<寝床|ねどこ>にしていたらしい。
「はい、こちらガランノドウ第二出張店ー。
　店主はシッポまいて逃げだしたアトですので、ご用のある方は発信音のアトにメッセージを――あ、トーコさん？
　うん、はいはい。どーぞ行ってらっしゃい、ボクのコトはお構いなく」
　教室に居たのは金髪の少年だ。
　ソレは呼び鈴が鳴る前からヒトの姿をしていた。
　かつて、ひとりきりでいる時は狼の姿で微睡みに落ちていたが、今は違う。
　ソレはそうである必要もないのに、ヒトのカタチを維持している。
　どのような心境の変化か、戦闘時以外はこちらの姿を“平常”に切り替えていた。
「じゃ、必要になったら呼んでよね。契約は切れたけど、ボクはまだトーコさんの使い魔だし。
　うん、そう、嫌味なんかじゃないって。狼はね、誇り高いんだよ。トーコさん以上の雇い主が見つかるまで、首輪はそっちに預けておきます」
　ふと、ソレは受話器の向こうの相手が、どこを旅しているのか気になった。
　彼女は敗北を認め、使い魔との契約を<断|た>った。
　魔法の相手をさせてやる、という約束を違えたからだという。
　けれどそれは使い魔の落ち度であって彼女の責任ではない。護衛役としては、ソレはまだ仕事を果たしていないのだ。
「で、トーコさんはいまどこ？」
　受話器からは聞き慣れない国の名前。
　彼女は呪いの解呪手段を開発する為、早々に日本を発ったのだ。
「なにが敗北を認めた、だよ。
　それって、まだ諦めてないってコトじゃん」
　まったくだ、と笑い声が返ってくる。
　受話器の向こうからは、なんとなく、熱帯の香りがした。
　それが蒼崎橙子お手製の電話機による神秘か、
　ソレ自身の超感覚によるものかは分からない。
「じゃ、さっさと帰ってきてね。ボクはこっちに残ってるから、美味しいお土産、よろしく」
　なぜ？　と受話器から声がする。
　彼女の使い魔を続けると決めたのなら、この土地に残る道理はないのだから。
「んー……実はボクも、よく分かんない、だけど」
　ソレは言葉を詰まらせながら、胸に手をペタペタと当てて、以前味わった痛みを<反芻|はんすう>して、
「えへへ。まあ、なんといいましょうか。
　ここにいれば甘いってどんなものか、分かるような気がするのです」
　無駄を知った狼は、どことなく楽しそうな声で、今後の目的を口にした。
　これもまた<初恋|はちみつ>に関する、極めて稀少な<事件|ケース>である。
　東館に入ると、すぐに蒼崎が待っていた。
「ごめん、待たせた？」
「ん、別に。私も今のところやる事ないし。
　とりあえず中に入って。顔見知りばっかりだけど、一応挨拶はしておかないとね」
　親しき仲にも礼儀あり、という事だろう。
　彼女らしい律儀な台詞と共に、ドアノブは回された。
　中に入るなり、わたしは飛び上がりそうになる自分の体を押さえつけるハメになった。
　ロビーに比べたら親しみのある居間の様子にホッとする暇もない。
　そこには、見知っているけど予想外の顔があったからだ。
　まず彼女、久遠寺有珠。
　顔を合わせたのは一度か二度だけなので緊張はするが、予想外ではない。
　次にベオ。
　商店街の座敷童、居ついた店はかならず繁盛するというお子さま。と言うか、ていのいいたかり魔。彼とは何度も話しているから、これも予想外ではない。
　最後に副会長。
　考えてみれば、蒼崎と静希の知人で、町の名士の息子なのだから、この誕生会にいない方がおかしい。
　……おかしい、のだけど。
「ちょっと。なんで<槻司|つきじ>がいるの？」
「あら、<鳶丸|とびまる>も来るって言ってなかったっけ。
　というか、いちいち言わないとダメだったかしら？」
「だ……ダメって事は、別にないけど」
「ならいいじゃない。生徒会じゃ毎日顔会わせているんだし、気にならないでしょ」
「が、学校の中と外は別よ。だいたいわたし、これ普段着なんだし」
　蒼崎は、それが何か問題でも？　といった顔。
　もちろん、問題も問題だ。
　隠していても仕方がないのでハッキリ言うと、わたし、久万梨金鹿は槻司鳶丸に片思い中なのである。
　それも歴史にして三年。
　告白までこぎつけるコトもできず、あれよあれよと三年間。我がコトながら、<唾|だ><棄|き>すべき軟弱っぷり。
　しかし、多少なりとも弁明すると、はじめからここまで臆病だったワケじゃない。
　一年生の頃は漠然と、そもそも槻司のコトは蒼崎の相方としか思っていなかったし。
　はっきりと自覚したのは二年生の時だ。
　蒼崎の友人という事で信頼されていたのか、槻司はわたしによく話しかけてきた。
　そうした後は、ひとり帰り道で訳もなく嬉しくなって、なぜだろう？　と首をかしげていたものだ。
　決定打は二年生の文化祭の後片づけの時。
　たまたまふたりで生徒会の演し物を片づけていた時、“あれ、もしかしてわたし、この人に一目惚れしていたのではないだろうか”と気が付いてしまった。
　恋は<猛毒|もうもく>と言うが、
　まったく、遅効性にも程がある。
　そこから先は、しかし、何の変化もない。
　わたしは野蛮な脳筋一族に反抗し、
　このまま家業を継がされる運命に反逆し、
　その為に中学からコツコツと律してきた自分を、少なからず誇りに思っていた。
　なので、そんな、降って湧いた思春期特有の幻想なんぞに膝を屈するのは、どうにも我慢できなかったのである。
　勇気がなかったとも言える。
　そうこうしている内に、時間はついに底を見せ始めた。
　わたしの気持ちはいっこうにふわふわしたまま。
　卒業を間近にした三年の秋になって、本気でわたしは、わたしをどうしたいのか分からなくなっていた。
　槻司の進学先は、意外な事に地元の大学らしい。生徒会役員としての権限をフルに使って調べたので間違いない。
　さすがに渠裸ではなかったけど、槻司が地元に進学するのなら、なんというか、未練がましいコトに可能性が出てきてしまう。
　わたしも、このまま地元の大学に進めば、まだ縁は切れないのだと。
　蒼崎曰く、
『鳶丸、クマのこと気に入ってると思うけど。
　だってあいつ、好きなヤツとしか世間話しないでしょ』
　この通り、脈はある、と信じたい。
　今年の夏の騒ぎの時だって、なんか、腕折ってまで助けてくれたし。
　槻司にカノジョがいるかどうかはわたしの知るところじゃないけど、いま告白すれば可能性はなくもない。
　しかし。しかしだ。
　それでは何の為に、物心ついた時から陰に日向に戦ってきたのか、悔しくなる。
　子供の頃からきっかり将来設計を持ってきたわたしは、恋だの夢だのにうつつをぬかしている同級生たちを軽蔑さえしていた。
　そのわたしがここにきて、そんな綿アメみたいな理由で六年間の努力を無駄にするとか、本気で信じられない。
　そんなのは、わたしが目指してきた久万梨金鹿ではないと思う。
「金鹿？　どしたの、考え事？」
「うん、ちょっと頭冷やしてた。おかげで落ち着いたから問題なし。
さて、久遠寺さんに挨拶しないとね」
　……などと言いつつ、少しだけ後悔する。
　蒼崎から“パーティーを開くからできるだけオシャレな格好で来い”と言われた時、鼻で笑った自分を鍋で<叩|はた>きたい気分。
「…………」
　まあ、もともとドレスなんて持ってないし、頑張ったところで何もできなかっただろう。
　わたしはピシャと頬を叩いて、努めて、いつもの自分であるよう気を引き締めた。
　館の主人である久遠寺さんに挨拶をして、隣室であるサンルームに移動する。
　集まっているゲストは誰もが顔見知りなので、改めて自己紹介をする必要はない。
　サンルームと居間は一続きなので、サンルームからでも居間の様子は窺えた。
　居間のソファーには久遠寺さんが座って、優雅にお茶を飲んでいる。
　その周囲で騒いでいるのは
芳助と、
芳助と、
意外なコトに山城先生だった。
「ほう。裏庭の方にちらりと見えたのはオークの木なのですか。日本で言えば<楢|なら>ですが……うーん、僕の記憶には該当しないなあ。
　何か特別な品種なんでしょうね。日本のものとイギリスのものは見た目からして違いますし、オークの品種はそれこそ四百以上ありますから」
「うお、相変わらず自分の言いたい事しか言わないよねこの人。有珠ちゃん、この先生は人の心にズカズカ踏みこんでくる蛮族だから、無視しちゃっていいぜ。
　それよりオレと冬休みの予定について話し合わない？
　有珠ちゃん、スキーとか苦手そうだナー。そこで、この頼れる木乃美芳助が手取り足取り教えたいナー」
「ふたりとも、退屈とはほど遠い人なのね。
　理解したわ。木乃美君と先生は、仕付けられたウッドペッカーのよう」
『ハハハ、あの木を<突|つつ>くか<喋|しゃべ>ってるだけの<阿呆鳥|あほうどり>と同格っスかこのシャバ僧ども！　アリスさんから鳥認定されない草の字に比べて、ちょっとだけ格上と見たっス。
　ま、死ぬか生きるかだけのジブンに比べたらどっちも小物っスけど！』
「……なに、あのまるっとした鳥」
　久遠寺さんの肩には青い駒鳥がしきりにまとわりついているが、彼女の肩にとまる度に払い落とされていた。
　チチチ、チチチと愛らしい声で鳴いているが、放し飼いにされているのだろうか？
　蒼崎の姿はない。台所かトイレだろう。
　わたしは話し相手もなく、ひとりぼんやりしていると、
「久万梨も招待されてたんだな。
　ずいぶんと遅かったが、またアルバイトか？」
「――――――」
　槻司はいつもの調子で話しかけてきた。
　スラリとした手足とか、ジュースの入ったグラスを持っているだけで絵になっている。
「アルバイトは休み。今回の三連休、ぜんぶ休み入れたから。お金も予定額たまったし」
「そうか、そりゃよかった。三咲脱出ロケットはもう秒読み段階ってコトだな。
となると、早朝のコンビニで顔を合わせるのもいよいよおしまいか。
　ん？　そういえば、俺が煙草を吸おうとしたら水ぶっかけてきたの、おまえさんだったっけか」
　懐かしい話だ。
　一年生の頃、コンビニの駐車場で堂々と煙草を吸っている生徒がいた。
　他校の生徒だったけど見てしまったものは仕方がない。駆け寄って注意して、かつホースで水を撒いたら、まったく関係のない男子生徒に水を被せてしまった。
　あわてて謝ろうとしたら、その男子生徒の手には今まさに吸われようとしていた煙草が一本。
　それがこの男、槻司鳶丸だったのである。
「いやあ。あの後、まさか生徒会室で再会するとは思わなかった。俺はアレかね、気に入った女どもにはまず水かケンカをふっかけられる運命なのかねぇ」
「たまたまでしょ。それより槻司、いつから来てたの？」
「俺たちは午前中からだよ。木乃美のヤロウが張りきっててな、仕方なくだ。
　誕生会は夕方六時からだから、まだ時間に余裕はある。
　疲れてるなら部屋で休んできたらどうだ？　ちょいと顔色悪いぜ」
「…………」
　この男の何が卑怯かって、粗雑で無遠慮のクセに、細かいところに気が利くことだと思う。
　わたしは人見知りが激しい。
　いくら顔見知りといっても、慣れない場所で多くの人間と話すのは体力を使う。
「そうね。ちょっと客室で一息いれてくる」
「おう、そうしろそうしろ。久万梨の部屋は、たしか」
「ねー、トビー。草十郎さん、どこいったか知らない？」
「草十郎なら買い出しじゃないのか？
　飲み物が足りない、とか言ってたしな」
「ほんと？　もう、行くならボクに声かけてくれれば良かったのに。あの人の、自分で出来るコトは全部ひとりでやっちゃうところ、ボクどうかと思うなー。
　まあ、そこが動物っぽくていいんだけど！」
　改めて解説すると、この金髪の子供はベオ。
　フルネームは知らない。名乗られたこともない。
　槻司や蒼崎、静希がベオと呼んでいるので、わたしもそれに<倣|なら>っているだけだ。
　この子は妙に静希に<懐|なつ>いていて、隙さえあれば、
『草十郎さん、今度のお休み、遊園地に行きたいです』
『草十郎さん、お腹へっちゃってません？　ぜひご一緒しましょう』
『草十郎さん、特に理由はありませんけど頭、なでてほしいです』
　などと、猫のように身をすり寄せている。
　静希はあれで子供に好かれる性格なのだろうか。草十郎サン草十郎サン、と実にやかましい。
　ともあれ、今は客室に移動しよう。
「久万梨、部屋は分かってんのか？」
「はじめに蒼崎に聞いた。三十分ぐらいで戻るから」
　何はともあれ、屋敷の主人や、先に来ているゲストたちに挨拶をしなくては。
　ここは寄り道せず居間に向かおう。
「こっちこっち。もうだいたい集まってるから」
　一階、東館の廊下はやや薄暗い。
　手前にあるドアから談笑が漏れてきている。
　その前に、客室の様子を見に行く事に決めた。
「芳助、やっぱり荷物返して。先に自分の部屋を見てくるから。蒼崎、その客室ってどこ？」
「クマの部屋は二階の東館の、手前から二つ目。
　鍵は開いてるわ。部屋の机の上に鍵があるから、出てくる時はそれで施錠して」
　了解、と頷いて移動する。
　階段から二階に上がる。
　わたしの部屋は手前から二つ目の部屋だ。
　部屋には誰もいない。
　わたしは無人である事を確かめて、荷物を置き、サイフをポケットにいれた。
　お<守|まも>り<兼|けん>お気に入りである<×口|バツくち>兎のパスケースを携帯するかは迷ったが、どうせ中には定期と学祭での記念写真しか入っていないので、テーブルに置いておく。
　馴染みのない建物で過ごすのだ。体はできるだけ身軽の方が疲れない。
「鍵は……ああ、これね」
　<真鍮|しんちゅう>の鍵。この洋館に相応しい、古めかしくも凝ったデザインだった。
　廊下に出ると、
　ちらりと、二階のホールに老人の姿が見えた。
　ゲストの一人だろう。挨拶をしておこうとホールに向かう。
「あれ？」
　……と。
　二階のホールに老人の姿はなく、一階に下りたものと思ってロビーに下りてみたが、そこにも老人の姿はなかった。
「西館の方に行ったとか？」
　少しだけ気になったが、主人に挨拶もしていない状態で館内を歩き回るのも失礼だ。
　わたしは笑い声が聞こえてくる、東館の居間へ足を向けた。
　意味のない行動をすると決めた。
　いや、ほんとに意図はない。思いつき以下の、１００パー気まぐれ、気の迷い。
「ちょっと落とし物したかも。外を捜してくるから、先に居間に行っていて」
「外に戻るの？　それなら私も行くわ」
「えー。なにいってんだよ会長、落とし物したのは金鹿のドジだろ、会長関係ねぇーじゃん。
　それより居間に来てくれよー。会長がいないと有珠ちゃんになに話していいか分かんないよー」
「え……でも、クマひとりには、」
「蒼崎くん、とりあえず居間まで案内してくれません？　このロビー、ちょっと冷えますので」
「いや、でもゲストをひとりっきりにするワケには」
「いいって、気にしないで。すぐに戻るから。
　芳助、荷物返して。やっぱり自分で持つ」
　蒼崎を振り切るかたちで外に向かう。
　外に出て洋館の周りの森を、目的もなく観察する。
　人気はなく、天気はますます曇っていく。
「？」
　しかし、ふと、視線を感じた。
　わたしは―――
～選択肢Ｃ～
　……追いかけよう。
　不穏なものを感じつつ、わたしは視線の主を追った。
　洋館の裏側に回りこむと、そこはちょっとした林だった。
　洋館を隠す森より、少しだけ手入れがされている。
　そこに、
　場違いな女性がひとり。
「おや。君も今日のゲスト？」
　わたしは無意識に後退していた。
　それぐらい、あの女性には凄みがあった。
　ぱち、ぱち。
　逃げ気味のわたしのカカトが落ち葉を踏む音。
　そんな小動物めいたわたしを、女性は楽しげに眺めている。
「いやあ、ゲストには何の期待もしていなかったんだが、いるじゃないか、私好みの目の保養が！
　いいね、青子も気が利くようになったもんだ。これなら退屈はしなさそうだよ」
　こちらを見る目が、ちょっと、いや、かなり怪しい。
　警察はどこだ。
「そう警戒するな。私も君と同じゲストだ、仲良くしよう。
　……しかし。<何|・><事|・><か|・><始|・><ま|・><る|・>前に周囲の地形を確認にくる人間が、私の他にいるとはね。
　うん、気に入った。気に入ったし可愛いので大サービスしてあげよう。
　私は普段、よく見えない。私は蒼崎の部屋にいる。そして私は犯人ではない」
「え……？」
「切り札になるから、あまり口外しないようにね」
　女性はおかしな台詞を残して、洋館の方に立ち去っていった。
　わたしは後を追う気にもなれず、洋館の正面玄関に戻る事にした。
　ロビーに戻ると、右手の東館―――居間の方から笑い声が聞こえてきた。
　蒼崎を待たせている。
　わたしは荷物を抱え直して、居間に足を向けた。
　……明らかに、不穏なものを感じる。
　幽霊屋敷の異名を思い出し、わたしは無視する事に決めた。屋敷の周りを探索する時は、誰かと一緒の時がいいだろう。
　ロビーに戻ると、右手の東館―――居間の方から笑い声が聞こえてきた。
　わたしは荷物を抱え直して、居間に足を向けた。
「これは酷い」
　洋館の三階。
　ホールの真上にあたる屋根裏部屋に入ると、そこはこの世のものとは思えぬ地獄だった。
　部屋の中心には土桔由里彦氏……
　と思われる遺体がある。
　手足は半分以上千切れ、焼かれ、顔もない。
　かろうじて原形を<留|とど>めているのは胴体部分だけ。
　部屋には焦げた臭いが充満し、壁は<煤|すす>だらけだった。
「……顔はもう分からないが、こりゃ土桔の爺さんのスーツだ。間違いない」
「オレ見ないからね！　絶対見ないから！」
「トッキィーったら、素敵な人ね。死に様までお祭りのよう」
「焼き肉が食べたい」
「ねえ、部屋に鍵はかけてあったの？」
「草十郎のへ……いえ、屋根裏部屋に鍵は付いていないわ。常時、誰でも入れる状態よ」
「シット。これ、死因は爆発による損傷と火傷ね。
　爆発もとは見あたらないけど……ユリヒコ、爆弾で遊ぶ性癖があったとか？　まあ、芸術家らしいけど」
「みんな冷静になりましょう。これは犯罪よ。犯罪の<匂|にお>いがするわ」
「どちらかというと、小麦粉ではないだろうか」
　芳助は怖がって二階で待機している。
　わたしたちは代わる代わる現場を視認していった。
「みんな、現場には手を触れないようにね。
　見るときは二人一組で、どちらかが偽装工作をしないか監視しながら調査して。
　アッちゃん、警察に連絡をいれてもいい？　ありがと、それじゃあロビーの電話、借りるわね」
　活き活きしはじめた律架さんの指示に従って、二人一組で行動する。
　芳助が逃げてしまったため、流れ的に、わたしは槻司と組むコトになった。
「―――しっかし、とんでもねえ死因だな。
　爆発って、犯人はなに考えてやがる」
　意外なのは、槻司がもう「何者かによる殺人事件」と断定している事だ。
「……これ、事故じゃないの？」
「土桔の爺さんが久遠寺邸で爆発物を取り扱う可能性はゼロだからな」
「ほら、この胴体、ちょっと見てみろ。腰のあたりに妙な焼け跡がある。これロープじゃねえかな。
　土桔の爺さんは、この部屋でロープで縛られて、軟禁されていたと見るのが妥当だろう」
「――――――」
　では、ロープで縛られて、誰にも気付かれないうちに爆弾で殺された……？
「でも、なんだって」
「ああ。なんだって、そんな回りくどいコトをしたかって話だ。
爆発物を使う利点は……そうだな、起爆までのタイムラグを利用した時間操作と、遠隔操作があげられる。どちらも<不在証明|アリバイ>作りには有利だな」
　……驚きだ。
　槻司は死体を前にしても怯んでいない。
　いたって冷静に、かつ真剣に、この状況を分析しようとしている。
　こういう時の槻司は、たいへん絵になる。
　というか、基本的にこの男は、本気になれば文句なしに格好いいのだ。
「だがまあ凶器は分かった。パンだ」
「はい？」
　その時、下からわたしたちを呼ぶ声があった。
「みんな、ちょっと来てー！　大変よー！
　電話、繋がってないわー！」
　槻司と顔を見合わせる。
「久万梨、行くぞ」
　頷いて屋根裏を後にする。
　二階で待機していた詠梨神父は、わたしたちが出ると扉を閉め、外付けの南京錠で部屋を施錠した。
　雨音が耳に痛い。
　屋根裏から下りてきたわたしたちは、受話器の前に集まっていた。
「電話線が切れている……んじゃなくて、電話線そのものが抜かれてるわ。これじゃあ警察に通報するのはおろか、外部への連絡も不可能よ」
「じゃあ、直接呼びに行ってきます」
「いえ、それは待ってください。いま単独行動をされるのはよろしくありません。ほら、外も」
　神父が天窓を指さす。
　……雨だれがうるさい筈だ。
　外の天気は、もはや嵐と呼んでいい荒れ方だった。
　徒歩でやって来たわたしたちだが、この天気で山を下りるのは少しばかり危険な気がする。
　それに……詠梨神父が“単独行動はよろしくない”と言った理由は、何も静希の安全を気遣っての事ではない。
　この状況でひとりきりで行動されるのは、残された者たちにとっても不利益なのだ。
　たとえば―――ひとりになった事を利用しての、様々な証拠隠滅、とか。
「とりあえず居間に集まりましょう。
　警察に連絡を入れるのは、話を整理してからでも遅くはありません」
　神父の意見にみんな賛成する。
　前言撤回。芳助だけは、“なにこれ、ドッキリ？”と現実を見ていなかった。
「………………」
　薄ら寒いものを感じて、なんとなく、玄関に視線をやった。
　……微かな違和感。
　外の雨は強くなる一方だ。
　わたしは、漠然と、
～選択肢Ｆ～
　満場一致で山城先生の捜索が開始された。
　手分けして館内を回っていると、二階の客室を担当していた律架さんがみんなを呼び集めた。
「ここ、山城先生の客室ね。鍵はかかっているの？」
「かかっていなかったわ。留守だと思って中を覗いてみたん、
だけど……っっ」
　律架さんはそこで言葉を止めた。
　最後のあたりはなんとなく笑いを<堪|こら>えているように見えたが、気のせいだと思いたい。
「とにかく中を見て。話はその後にしましょう」
　律架さんに<促|うなが>されて、わたしたちは部屋の中に足を踏み入れた。
　客室に入るとそこは
　一面の花景色。
　その中心に、山城先生は眠るように息絶えていた。
「ちょっ、ファラオ眠りって……！」
　蒼崎は必死に笑いを堪えている。
　かくいうわたしも、こみ上げたものを飲みこむので精一杯だった。
　不謹慎だけど、花に囲まれた状態で満足そうに永眠している山城先生のビジュアルは、厳かなお葬式というより、紅白歌合戦の大歌手を連想させたからだ。
「いやはや、いたって健全な方だと思っていたのですが。
　山城先生は普段、どんな人生を送りたいと思っていたのでしょうね？」
「なにこれ。ただの教師がアタシより派手な死に方とか、ふざけてるの？」
「皆さん、詮索はそこまでです。<故人|こじん>の人間性をどうこう言うのはデリカシーが欠けています。
　今後、新たな犠牲者が出た時、その死を笑うような事はないように。いいですね」
「あ、はい。すみません、確かに不謹慎でした。
　やはりこういう時は頼りになりますね、唯架くんは」
「大人として当然の注意です。学生を監督する立場なのですから、エイリ神父も軽はずみな行為は控えてください」
　ぴしゃりとした唯架さんのお叱りで、部屋の雰囲気は一気に冷えこんだ。
　わたしたちは部屋を調べた後、久遠寺さんのマスターキーで山城先生の客室を施錠して、居間に戻ることになった。
　居間は重苦しい空気に包まれている。
　この重苦しさは死者が増えた事による<悲愴感|ひそうかん>ではない。
　二人一組になった事で、ある種の空気が<蔓延|まんえん>しだしている事に、わたしは気付いていた。
　……よくない事に、わたしたちは他のチームを疑い始めてしまっている。
「客室に乱れた様子はなかった。山城を客室に誘い込んだのか、山城が客室にいる時にやってきたのか。
　どちらにせよ、親しい仲での不意打ちだったんだろう。
　山城はルールを知らなかったから、あっさり笑わされたんだろうが……」
　槻司は居間に集まった全員に向けて話しかけていた。
　こういう時、みんなの意見を求める立場である詠梨神父がさっきから押し黙っているため、仕方なく代役を買って出た、という顔だ。
「なに、鳶丸。アンタにしちゃ歯切れが悪いじゃない。
　今の憶測に間違いはないと思うけど？」
「いや、教会組や久遠寺はともかく、俺や蒼崎、久万梨は山城先生をよく知ってるだろ。
　あの昼行灯が、他人の冗談に心から笑う、っていうのはかなりレアな出来事じゃないか？」
　そうだ。
　山城先生はいつもニコニコ顔で穏やかだけど、究極の中立者というか、柳に風、のれんに腕押し、<馬耳東風|ばじとうふう>ぐらいにたいていの意見は受け流してしまう。
　山城先生が本気で笑うとしたら、それは不意打ちの、ドッキリテレビみたいな<脅|おど>かし方ではないだろうか。
「まあ、『どうやって笑わせたか』は後回しだ。
　どうも敵さん本気で攻めてきてるみたいだからな。仲良し時間は終わりにして、本題に入ろうぜ」
「そうですね。この中の誰がＡなのか。
　犯人捜しを始めましょう」
　聞きたくはない台詞だったけど、同時に誰もが口にしたくてしょうがなかった台詞。
　そう、これは避けては通れない。
　この中に土桔由里彦氏と山城先生を『意図的に』笑わせた人物Ａがいるのだ。
　しかも土桔氏に対しては爆薬まで用いて―――あれ？
「ごめん。今さらだけど、土桔さんの死因ってもしかして」
「うん、パンに殺されたんだろうね」
「トッキィーらしいわ。“この世に小麦粉がなければ、僕は前衛美術で世界をすくっていた”とか、よくこぼしていたもの」
　申し訳なさそうに額をかく槻司。
　やれ殺害時間の操作だの、身元の隠蔽だのと考察していた自分に呆れているっぽい。
　あれで繊細なところもあるのだ、コイツは。
「犯人捜しなんて、するまでもないと思いますが。
　これがプロイキッシャーによる犯行なら、第一容疑者は久遠寺有珠、第二容疑者は蒼崎青子、第三容疑者はメイ・リデル・アーシェロット。以上の三名にしぼられます。
　彼女たちをここで笑わせてしまえば解決です。脇腹を<抉|えぐ>るなり、足の裏を<削|そ>ぐなりすれば人間は笑います。物理的に」
「唯ちゃん、ちょっと落ち着いて。
　冷静に、冷静になりましょう、みんな。ケンカはよくないわ、犯人の思うつぼよ、きっと！
　もっとミステリ的に考えましょう。まずはアリバイ検証とか、ほら、物理的に穏やかな方向で！」
「律架に賛成です。唯架くんも、それは最後の手段としてとっておいてくださいね。槻司くんや久万梨さんが同席しているんですから」
「アリバイ検証はちょっと待ってもらえますか？
　その前に、スイーツハーツだっけか？　そいつの特徴を詳しく聞きたいんですけど。
　久遠寺、知ってる事を話してくれ。
　ルールがどうたら以前に、そいつがどういうカタチなのか、俺たちは知らねえんだ」
「そうね。肝心な事を説明していなかったわ。
　スイーツハーツは卵形のプディングよ。<王冠|おうかん>を逆さにして、ゆで卵を載せたようなカタチ」
「斬新ね。プリンに殺されるミステリとか、今まで聞いた事もなかったわ」
「バカなの？　バカしかいないの？
　それは発動する前のカタチよ。スイーツハーツは自分を食べた相手に、そっくりそのまま<擬態|ぎたい>するの」
「というか、スイーツハーツを食べちゃった時点で、食べた人間……これが使用者ね、使用者は卵の中に閉じこめられて、外にはスイーツハーツが擬態した“使用者”が現れる。
　活動をはじめたスイーツハーツは、人間のカタチをしているってコト」
「―――理屈も道理もあえて訊かないが、要は、本物と偽者が入れ替わるんだな？」
「前言は撤回してあげる。トビマルだけは猿以上ね。
　そう、スイーツハーツは使用者に化けるプロイなの。それも完全によ。なにしろ起動してしまったら、スイーツハーツすら自分が“犯人”だとは思っていないんだもの」
「完全に化けるってそういうコトでしょう？
　犯人と思わしきヤツをどんなに詰問しても、拷問しても、ソレがスイーツハーツだっていう客観的、かつ絶対的な証拠がないと正体は暴けない。
　“使用者”は証拠をつきつけられて、ようやく自分がスイーツハーツだって気が付くのよ」
「あああーん！　なにそのロジックパズル！
　たまんないですっ！　正直、もうたまんないです！」
「……一流のスパイは、まず自分はスパイではないと自己暗示をかけると言いますが……厄介ですね」
「いえ、それはおかしい。犯人は明確に笑わせにきているのでしょう？　それで自覚がないというのは、どうも」
「スイーツハーツと、スイーツハーツが代行している人間はオンオフで切り替わるの。
　普段は代行している人間そのものだけど、『ルール実行可能』な条件になると、その時だけスイーツハーツの人格に切り替わる。
　もちろん、『代行している人間』の時の人格には、スイーツハーツを起動した時の記憶は消失しているわ」
　……なんだってのよ、その条件。
　まるで姿なき殺戮者、殺意なき殺人鬼じゃない。
　その条件なら誰だって―――わたしですら―――含まれてしまう。
　現状、誰であれスイーツハーツの可能性があるってコトだもの……！
「みんな、落ち着いて。冷静に、冷静になりましょう。
　楽しいからって騒いだり、ケンカしたり、もう我慢できないわたしは家に帰るぞー、とか叫んで飛び出していったりしちゃダメよ？　絶対死ぬから」
「私としては、まず貴女に冷静になってほしいのですが」
「いやーん、ダメ、冷静になんてなれない！
　お願い、夢でも覚めないでっ！　盛り上げる為に、みんなあと半分ぐらい殺されて！　そして当然、最後に生き残るのはわた、
ぐほっ」
「そこまでのトンデモプロイとは思わなかったわ。
　これは真面目にアリバイ検証をするしかなさそうね」
「そうだな。誰がスイーツハーツかは判明しないが、誰なら二人を殺せたかは見えてくるかもしれねえ」
「それぞれこの一日の行動を証言しよう。もし自分の記憶と違ったところがあったら、容赦なく指摘してくれ。
　それじゃあ、まずは俺からだな」
　提案者である槻司が先陣をきっては、誰も異論は挟めない。
　ここで待ったをかければ、それこそ自分が怪しいというようなものだし。
「俺は午前十時に、ベオと木乃美、土桔の爺さんと久遠寺邸に到着した。
　俺たちは久遠寺に挨拶した後、それぞれ与えられた客室で休憩、十一時には居間に再集合し、昼食をとった。
　……そうだな、たしかそのあたりで土桔の爺さんはいなくなってたな」
「午後になって蒼崎、山城、久万梨が到着。
　夕方になってリデルが呼ばれもしないのに乱入。
　何度かトイレで席を立ったが、基本的には居間とサンルームで過ごしていた。
　俺が居間にいた間、常に姿があったのは久遠寺だけだ」
「私は午前中は街で買い物をして、そのまま昼過ぎに久万梨と合流。なぜか山城先生もいたわ。
　三人で洋館に到着したのが二時過ぎ。
　居間で鳶丸たちに挨拶して、あとは居間とサンルームをいったりきたり、だったかな。
　ご不浄で何度か席を立ったけど、一度もトッキィーとは顔を合わせていないわ」
「ボクもするの？　いいけど、みんなと変わらないよ？
　えーと、三連休だったので、昨日はトビーの家で寝泊まりしてあげてたよ。ホースケも一緒だったんで、うるさいコトこの上なかったです。
　で、朝になってから三人で一緒に公園までいって、爺さんと合流して、ロールス・ロイスでここの門に到着。
　十時にはアリスに挨拶して、あとはずっとゴロゴロしてましたー！」
　……わたしは、
～選択肢Ｉ～
　残されたわたしたちは、居間に移る事もできずロビーで立ち尽くしていた。
　居間はほぼ明かりが落ちている。
　このまま明かりを求めて客室に移動するのがまっとうな考えなんだろうけど、ここで孤立するのはきまりが悪い。
　十三人目のゲスト、蒼崎のお姉さんが本当にいるのかどうか。
　せめてそれを解明しないと、おちおち部屋に戻れないのだ。
「とりあえず、唯架さんの彫像は部屋の隅に移動させよう。
あれ、重いな。すごく重いぞ唯架さん。
鳶丸、手伝ってくれ」
「あいよ、俺うしろな。
……む、見た目通りいい曲線してやがんな唯架さん。
　シスター目当てで教会に通い詰める野郎が多いわけだ」
　静希と槻司はこんな状況でも仲がいい。
　というより、パニックに<陥|おちい>っていない。
　わたしはもう限界ギリギリで、いま後ろから<脅|おど>かされたら笑い死ぬ前にショック死しそうだ。
「クマ、お茶でも淹れてこようか？　顔色、真っ青よ」
「ありがと。けど要らない」
　トイレ、近くなったらイヤだし。この屋敷のトイレ、奥まったところにあるから怖いのだ。
「お、余裕じゃない。その調子なら朝まで持ちそうね。
　詠梨と唯架さんは残念な事になったけど、ある意味、ちょっと安心した。この面子なら気心知れてるし、疑いあう事もないしね。
　あとは橙子を見付ければ、」
「いえ、それには及ばないわ。ゲームはこれで終わり。
　今までよくやってくれたものね、アコちゃん？」
「律架さん？」
　声は階段から聞こえてきた。
　ベオを探しに行った律架さんが戻ってきたのだ。
「……なによ。今のどういう意味、律架」
「だから、芝居はもういいって事です。
　チェックメイトよアコちゃん。どうしてこんな凶行に及んだのかはぜんっぜん分からないけど、物的証拠が真実を示しているの。
　まだ断定はしないけど、十中八九、貴女がスイーツハーツ最有力候補よ」
「な、なに言いだすのよバカ律架。私がスイーツハーツだなんて、そんな訳ないじゃないっ。
　……えーと、ないわよね？　ない筈だと思うけど……」
「しらばっくれるのもそこまで。
　ベオくんを捜している時に、貴女の部屋を見させてもらったわ。動かぬ証拠がそこにあるのよ」
「うえ!?　ア、アンタ、どうやって私の部屋に入ったのよ!?鍵、かけてあったでしょ!?」
「わたしの数少ない特技、本格推理ピッキングです！」
「ないから！　本格でピッキングはご法度だから！
　そんなんで、人が必死に隠してた死体を見付けるとか、反則じゃない！」
　取り乱す蒼崎。
　そんな彼女を、わたしたちはじーっと無言で観察する。
「あ、いや、その……
てへ☆」
「草十郎、蒼崎の部屋は？」
「東館の二階の突き当たりだ」
　律架さんの先導で、わたしたちは蒼崎の部屋に向かった。
　蒼崎は苦虫をかみつぶしたような顔で付いてくる。
「ドアを開けるわ」
　律架さんがドアを開ける。
　暗い廊下から、暗い室内へ。
　わたしたちが蒼崎の部屋に入ると、そこには
　同性のわたしでさえ、一目で綺麗だと見惚れる美人が、
　片手にマイク、
　かたわらに一升瓶を抱えたまま、
　満足そうな顔で永眠していた。
　くわえて、
　部屋には一面、ヘンなポスターが貼られていた。
「きゅ、急性アルコール中毒……！」
「これが動かぬ証拠よ。アコちゃん、いくらトコちゃんが邪魔だからって、こんな、恥ずかしい姿のまま放置しておくなんて……！
　トコちゃん、“私はプログレ派だー”なんて言ってたけど、ホントは演歌好きだったのね……
しかも、マイマイクまで持っちゃって……」
「ああ、身内の恥すぎる……だから見せたくなかったのに！」
　身もだえする蒼崎。
　しかし。どんな理由であれ、彼女が犠牲者を<隠蔽|いんぺい>していたのは事実である。
「そっか……思い返してみれば、蒼崎は自分の部屋に誰も寄りつかないよう動いていたんだ。
　この人の死体が見つかったら、色々と不便だから」
「違う、違うってば！　私も被害者なんだって！
　昼過ぎに部屋に戻ってみたら、姉貴がいきなり死んでるんだもん！　そりゃ隠すでしょ、フツー！」
「……残念だが、蒼崎。おまえさんの弁明はもう遅い。
　それならどうして十三人目がいるかいないかを話しあっている時、姉貴の事を話さなかったんだ？」
「だだ、だって、あの時に切り出しても、どうして黙っていたんだって追及されるじゃない？　詠梨と唯架さんからしてみれば、私を<弾劾|だんがい>する絶好の機会だし。
　それなら黙っていて、私の手で犯人を捕まえようって……」
「そうかしら。“十三人目”がいるって状態にしておけば、アコちゃんが自由に暗躍できるからじゃないの？
　事実、トコちゃんを捜そうとしてベオくんも詠梨さんも唯ちゃんもリタイヤしちゃったんだし」
「だから、それは詠梨たちが自滅しただけで、」
「悪いな蒼崎。久遠寺の説明からすると、スイーツハーツとやらは“自分でも分からない”犯人だ。
　こいつの正体を暴くには、動機より状況証拠を優先しないといけない」
「現状、もっとも“今までの犠牲者たち”を殺害できる可能性があったのは、おまえだ」
「ええ。悲しいけど、これ推理なのよね……」
　槻司と律架さんが、蒼崎の両手を掴む。
　静希もさりげなく手伝っていた。
「ちょっ、どうするつもり！？
　まままさか、疑わしきは殺すってワケ！？」
「落ち着いて、<隔離|かくり>するだけよアコちゃん。
　犯人と思わしき者は警察が来るまで閉じこめて、凶行をストップさせる……ミステリの常道ね。
　えーと、外から鍵をかけられる監獄っぽい部屋はあるかしら、アッちゃん？」
「それなら地下室があるわ。雪山のペンションにありそうな、細い階段から直通の狭い部屋が。
　青子にはそこで一晩あかしてもらいましょう」
「スキー跡！
　そのペンションの名前、スキー跡とか言わない有珠！？」
「蒼崎。おまえさんがスイーツハーツでないにしろ、そこに閉じこもっていれば安全だろ。これは最後の保険でもあるんだ、観念して生け贄になってくれ」
「うっ……確かに、そういう理屈になるわね。
　民主主義的に、閉じこめられる隙を見せた私の負けってコトか……」
　そう。本当はこの方法を真っ先にしてしまえば良かったんだ。
　蒼崎がスイーツハーツなら、もうこれ以上、不意をついて笑わせられる犠牲者は出ない。
　蒼崎がスイーツハーツでないなら、彼女は最後まで生き残るのだから、それでこのゲームはクリアとなる。
　けど、誰だって「おまえが犯人だ」と決めつけられて閉じこめられるのはイヤなものだ。
　手を下す人間も気持ちが悪い。
　この貧乏クジを引くのは、誰から見ても“有罪”な人間でなくてはならなかった。
「でも、これだけは言っておくわ。
　相手はとんでもないキレ者よ。もしかしたら本当に姿のない十三人目はいるかもしれない。最後まで気を抜かないで」
　それが蒼崎の最後の言葉になった。
　わたしたちは彼女を地下室に閉じこめ、外から南京錠で鍵をかけ、ようやく安心を手に入れたのである。
　そして、わたしは―――
～選択肢Ｒ～
　律架さんには申し訳ないけど、このまま雨脚は強くなる一方だろうな、と思った。
　律架さんには申し訳ないけど、このまま雨は雹になるな、と思った。
　わたしは、このまま帰ってしまおうか、と思った。
「天気予報はずっとお日様マークだったのに。
　……んー、本降りになったら帰りはタイヘンかも。ほら、山の中程までしかあがってこないでしょ、タクシー」
　律架さんの言う通りだ。
　本格的に降り出したら、帰りは濡れるのを覚悟しないといけない。
　二年以上ここから学校に通っていた蒼崎のタフさに、今更ながら感心するような、呆れるような。
「あれ？　どうしたの金鹿ちゃん？
　みんな居間にいるんじゃないの？」
「いえ、部屋に忘れ物があるんです。
　みなさん、先に行っていてください」
　客室からボストンバッグを回収して、ロビーに戻る。
　居間からは律架さんたちの笑い声が聞こえてくる。
　わたしは賑わいに後ろ髪を引かれながらも、久遠寺邸を後にした。
　どうして帰る気になったのか、自分でもいまいち不明。
　洋館の雰囲気に気圧されたとか、
　やっぱり柄じゃないとか、
　槻司がいたコトとか、たぶん、いろいろ合わさって面倒くさくなったのだ。
　もうじき日も沈む。
　夜になる前に帰れば、何事もなく今日は終わるだろう。
　念願の大学受験を前にして、槻司と顔を合わせるのはいろいろブレそうで怖いし。
　これでいいんだ、と自分に言い聞かせて、わたしは白犬塚を下りていく。
　―――そんな時。
　わたしはふと、子供たちに伝わっていた伝説を、もう一つだけ思い出した。
　　　　　『<逢魔|おうま>が<時|とき>にひとりで山を下りると、
　　　　　　人食い鬼が待っている』
　久遠寺邸が建つ前からもっと昔、この山には鬼が隠れ住んでいて、ひとりきりで輪から外れようとする人間を襲って殺す鬼がいた。
　襲って食べる、というのではなく、殺す、というのが人間的で生々しい。
　村社会のしきたりから外れた人間を村ぐるみで闇に葬った、なんて解釈もできる。
　そんな、暗い妄想に<耽|ふけ>っていると、
「あれ？」
　道を間違えたのだろうか。
　わたしは久遠寺邸の裏側に出てしまった。
「おかしいな……ちゃんと下に向かってたわよね、わたし」
　不安をごまかすように独り言をもらす。
　……と。
　木の陰に、何か、人間ほどの影があった。
「誰……？」
　声をかける。
返事はない。
空は暗い。
風は吹かない。
　帰ろうと思った本当の理由が頭をよぎる。
　わたしは、そうだ。
　このまま洋館にいたら、何か、よくない事が起きそうだと感じたから―――
「あ―――」
　ありえない光景を直視した。
　お腹がひとりでにへこむような衝撃。
　反射的に口に手を当てたけれど、間に合わなかった。
　……地面に倒れる。
　全身の<血|ねつ>が、力が流れていく。
　助けを呼ぶ手も、むなしく空を切る。
　わたしは最後の力を振り絞って、目の前の人影を視界に収める。
『……ダメジャナイカ。始マル前カラ、終ワルナンテ』
　振り下ろされる鉈状のナニカ。
　鬼の<面|かお>をした誰かが、死にいくわたしにそう言った。
「さむっ。ここ、外より寒くない？」
「ですね。居間に移動しましょう」
「賛成だけど…
…ま、草十郎さんには草十郎さんの仕事があるんでしょうしね。待っててあげようと思ったけど、余計な気遣いかも」
「？　静希、外にいたんですか？」
「ええ。山道の方で草を刈っていたわ。すごい勢いで、ヘリポートでも造るかっていうぐらい」
「…………」
　相変わらず、謎の行動力である。
　静希の奇行を追及しても疲れるだけだ。
　わたしたちは暖を求めて居間に移動した。
　降り出した雨は、一向に止む気配を見せない。
　むしろ勢いは増すばかりで、日没前だというのに外は夜並みの暗さになっていた。
　パーティーはまだ始まらない。
　居間とサンルームを見渡すと、
　これだけの人数が談話にふけっていた。
　居間では芳助が持ちこんできたカードゲームが思いの外盛り上がっている。
　おもに、いがみ合う方向で。
　なんでも『<傀儡|かいらい>さんが<徹|トゥー>る』という、ドイツ製の、ファンタジー版ゼネコンシミュレーションゲームなのだそうだ。
　基本、いかに相手の足を引っ張るかというゲームなので、みな愛想笑いをしながら内心ではまったく笑えず、騙し討ちの機会を狙っている。
　一方、サンルームの大人組はワインなどを片手に、そんな学生たちの様子を眺めている。
「驚きましたね。誕生会が始まるまで、館内は自由に歩いていい決まりだとは。有珠さん、どんな心境の変化ですか？」
「……別に。入られたら困るところは、そもそも壁に変えたから。今日だけの変更だけど、それなら遭難者もでないでしょう」
「？　壁に変えたってなにをー？
　それに遭難者とか、有珠ちゃんったら大げさなんだから～。そりゃでけえ屋敷だけど、迷子になんかなりませんよ？」
「私たちの客室も用意してくれたのね。夜になったら帰る予定だけど、心遣いは助かっちゃうな～♪
　唯ちゃん、せっかくだし服、着替えてこない？
　お姉さんのチャイナドレスとか貸してあげるから。さすがにパーティー会場にシスターはどうかと思うし」
「結構です。魔女の家で礼装を脱ぐなど自殺行為。私は貴女のように、遊びに来ている訳ではありませんので」
「いや、遊びに来てるんですけどねぇ。私ですら手ぶらで来ているのに、シスター唯架ときたら……。
　どうしてこう、いつでも臨戦状態、よらば切る出刃包丁みたいな性格になったんだか」
「貴方たち二人が不真面目な分、私が引き締めなくてはいけないだけですっ」
　時刻は六時になった。
　外はもう完全に夜。
　山城先生や教会組がいるから、帰りの夜道は安全だろうけど、それでもこの雨脚には不安をあおられる。
「……そろそろ支度をするべきではないかしら。
　トッキィーはどこに？」
　何度目かのカードゲームを終えて、ふと、久遠寺さんが妙なコトを口にした。
「トッキィー？　トッキィーって、誰？」
「誰って、土桔の爺さんだろ。あれ……？
　もしかして金鹿、爺さんに挨拶してねえの？」
「知らない。まだこの家に人がいるの？　……いまさらだけど、全部で何人の予定なの、このパーティー」
「わたし、青子、静希君、槻司君、木乃美君、久万梨さん、トッキィー、その他、で合計十三人。
　さっきから一堂には揃わないみたいだけど」
「十三人か」
　ひと、ふた、みー、と数えてみる。
　今までの情報から数えてみると……
～選択肢Ｅ～
　その時、
「？」
　外から異様な風切り音が聞こえてきた。
　洋館の壁をたたき付けるような爆音。
　それに、誰もが意識を取られている中、
「このメルヘン女、アタシをのけ者とかザケてんの！？
　こんなボンクラどもはホイホイ呼んで、大本命かつ大人気、この超☆英国美少女であるリデル様を、なんで、アンタの誕生会に呼ばないのよっ！！！！」
　外の雨より何倍もやかましい、
　嵐の化身みたいな女がやって来た。
「リデル！？　おまえ、今日は<余所|よそ>でイベントだったじゃねえか。どうやってここに来やがった！？」
「ふん、決まってるじゃない。ヘリを飛ばして、よ。
　覚えておきなさいトビマル。アンタたちみたいな端役と違って、アタシに不可能なんてないの。ちょっと一声かければ、地球の裏側からだってミサイル飛ばせるんだから」
「いや、ミサイル飛ばされてもな」
　ピンク色で統一された女は、わたしや芳助には視線も投げず久遠寺さんへと歩み寄る。
　これみよがしにツカツカと響くブーツの音。挑発的な軍靴のようだ。
「ほら、忙しくて引く手<数多|あまた>、史上初の億超えウィッチ、自他共に認める協会ナンバーワンのアイドルが、わざわざ専用機<飛|と>ばしてまで来てやったわよ？
　悔しい？　悔しいでしょ？　夢にも思わなかったぐらいサプライズでしょ？　いいわ、遠慮なく喜びなさい」
　……すごい。
　あの無表情な久遠寺さんが心底うんざりしている場面に出くわすとか、たしかに夢にも思わなかった。
　ピンク女はげんなりする久遠寺さんを見下ろし、満足そうに頷いて、ようやく周囲を見渡した。
「バッド。なにこのトンチキな面子。せっかくの誕生会だってのに、人選どうなってるの？　親の仇まで呼んじゃって、アンタ、そこまで病んじゃった？
　ほら、そこの神父。とりあえず私たちにドゥゲザした<後|あと>、全裸になってチキン食べながら切腹してくれない？」
「はははは。貴女にだけは言われたくありませんねぇ。
　有珠さんに謝罪というのなら、まず貴女がするべきではないですか？　奪ったものは、きちんと本人に返さなければねぇ」
「アタシはいいのよ、ちゃんと後でお金払ったし！
　アリスだってキャッシュで受け取ったんだし、アレはもうアタシのモノっ！
　外野がいちいち口はさんでんじゃないわよ」
「なんと。有珠さんが、貴重なプロイを売却するとは」
「……はあ。お金で解決できる問題じゃないと何度も言ったのだけど。この子、資本主義の犬だから。どう言っても返してくれないの」
「またまた、照れ隠ししちゃって、この～♪
　アンタも取引上手よね、“お金では譲れない”とか言って巧みにレートをあげていくんだから」
「……なあ殿下。あのすげえ女、どっかで見覚えあんだけど。有珠ちゃんの知り合い？」
「気のせいだ、忘れとけ。ありゃあ関わったら破滅する系の女だ。百害あって一利もねえ」
「そ、そうですよね。オレもあそこまでキラキラしている人は、ちょっと……」
　槻司はああ言っているけど、わたしは知っている。
　彼女の名前はリデル。
　一時期、槻司の家にホームステイしていた女の子だ。
　槻司のお父さんとリデルのお父さん、企業間の付き合いでのコトらしい。
　……といっても槻司の屋敷は大きいので、一つ屋根の下、という話ではないだろうし、そう親しい仲ではない、と思いたい。
「……一応、訊いてあげるけど。
　リデル。貴女、何をしにきたの？」
「なにって、アンタの誕生会でしょ？
　トビマルの家に電話したら、“坊ちゃんなら久遠寺さんの家の誕生会にでかけた”とか言っちゃってさ。
　もうカーッと<脳髄|あたま>ハイになっちゃって、ライブキャンセルして飛んできたってワケ」
「……貴女、わたしの誕生日、覚えている？」
「あったりまえじゃない！　自分のは忘れてもアンタのだけは忘れな………
　あれ？　まだ秋よね、この国？」
「良かった、脳は<ま|・><だ|・>正常ねリデル。
　ほら。わたし、貴女の頭を叩きすぎたでしょう？
　それで気の毒な結果を招いてしまったのかと、少しだけ心配してしまったわ」
「ちょっとトビマル！　なにウソ言ってんのよ、今日はアリスの誕生日じゃないっての！」
「いや、でも招待状には確かに、久遠寺邸で誕生会をするから、ぜひ参加するように、とだな」
「そうそう。オレも会長から二千円と引き替えに招待状もらったよ？
　ところで、料金とられたのオレだけじゃないよね？」
「はははは。知らない方が幸せな話ってどこにでもあるんですねぇ。ああ、私も久遠寺邸で誕生会をする、と覚えてきましたが」
「でも、アッちゃんの誕生日じゃないのよね？」
「……なぜそんな勘違いを生んだのかしら。
　たしかに誕生会だけど、わたしじゃなくてトッキィーの誕生会よ。
彼、わたしに祝ってほしいというから、この屋敷を会場にしただけなのだけど」
　わたしは招待状を見直した。
“久遠寺邸で誕生会を開くから、ぜひ参加してほしい”
　なるほど。
　たしかに、誰の誕生日とは書かれていない。
「やっほー。盛り上がっちゃって、何の騒ぎ？
　……って、リデルリドル!?　アンタ、なんでここにいんのよ!?　ライブは!?　ねえ、いまＮＫホールでライブやってんじゃないの!?
　私、ビデオ録画してるんですけど!?」
「サボタージュ。ランチのカレーが<辛|から>かったから」
「そ、そんなバカな理由でコンサートをドタキャンするヤツがいるかーーーー！　音楽の神に謝れ！　ファンをなんだと思ってんのよアンタは!?」
「チッ、やっぱりコイツマジうざい。
　だいたいアタシ、音楽とかどうでもいいし。ファンなんてアタシに貢ぐだけの働きアリだし。ライブがハネた後はいつも空しくなってリスカするし。
　スポットライトは当たっても、ホントのアタシは誰も見てくれないし」
　ピンク女の空気が突如、一変する。
　ぶつぶつと呟く彼女の肩に、チチチ、と可愛らしく鳴く青い駒鳥が降り立った。
『ハハハ、さすがリデルさん、感情のオンオフ激しいっスね！　ホントのアタシを見てー、とか、メルヘン全開で恥ずかしくないッスか？　恥ずかしくないんスよね。スゲー、やっぱリデルさん、魔術師よりアイドル向けッス！』
「そうよ、悪い。どうせアタシは報われない、自分を主役と勘違いしている乞食みたいな最下層の生き物なのよ。道化なのよ。
わかってるからほっといてよロビン。後できっちり細切れにして、犬に食わせてあげるから」
　……なんか、鳥と話しているし。
　本格的に電波だったんだ、あのアイドル。
「なるほど、<土桔|ときつ>さんの誕生会でしたか。
　私たちもどうして呼ばれたのか半信半疑でしたが、それなら合点がいきます。
　シスター唯架なんて、これは罠だから完全武装で行くべきです、とか言いだす始末ですし」
「……コホン。
　しかし久遠寺さん、肝心の土桔<由里彦|ゆりひこ>氏は何処に？
　私たちも挨拶をしていないのですが」
「そういえば、そうね。
青子、トッキィーは？」
「え、居ないの？　夕食の手配、ぜんぶあの人が担当なのに。とびきりのシェフ団を手配するから、君たちはゆっくりしていなさいって自慢してたじゃない」
「そりゃおかしいな。そういう段取りなら、シェフ団とやらは四時には到着していないと間に合わねえぞ。
　誰か、土桔の爺さんを見なかったか？」
「お昼まではここにいたけど、それ以降は見てないよ」
「わたしは一度も見てないわ。
　何度か席を外したけど、その時も見かけなかったし」
「……昼過ぎから今まで、五時間近く、誰もトッキィーを見ていないの……？」
　返事はない。
　……全員、何か予感じみたものがあったのか、あのピンク女や芳助でさえ無駄口を叩かない。
『ん、なんスかこの空気？　カラオケ？　カラオケはじまるッスか？　ジブン、テディボーイブルースとか得意ッスよ？　フリッキーにも歌つけてくれないっスかね？』
　声を上げているのは、テーブルの上で不思議そうに首を傾げている駒鳥だけ。
「ああ、みんな揃ってた。夕飯の支度は終わった？」
　……と。
　そこへ、ひとり<安穏|あんのん>とした男がやってきた。
　場の雰囲気を察したんだろう。
　静希は例の、なに考えているか分からない笑顔で集まった人々を見渡して、一言。
「ところで。
　屋根裏で土桔さんが死んでいるんだけど、どうしようか？」
「な―――」
「「「「なんだってーーーーーーー！！！？」」」」
　これから陰惨な事件が始まるのだ、と思った。
　これからトンデモな事件が始まるな、と思った。
　こんな状況で不謹慎ではあるけれど、槻司と組み分けされる流れになって良かった、と思った。
「しっかし、とんでもない<事態|こと>になったわね」
　蒼崎の呟きに、わたしも無言で同意する。
「外の天気も荒れる一方だ。
　こりゃあ土砂崩れの一つも起きてもおかしくねえ。そうなりゃ陸の孤島だな、ここは」
「うそ、マジ！？　ラッキー、そうなればお泊まりじゃん！　なに、これフラグ？　怖がる有珠ちゃんを励ます係とか、オレ立候補しちゃっていいの！？」
「どうぞご自由に。
　ま、ひとり死んでるんだから、もうひとり増えてもいいんじゃない？」
　わたしたちは、蒼崎、槻司、芳助の四人で固まっている。
　仮に、この集まりを学校組と呼ぼう。
「エイリ神父、先ほどの死体ですが―――」
「分かっています、明らかに殺人事件です。
　ですが場所が場所ですからねぇ。おいそれと警察を呼ぶ訳にはいきません」
「……ふふ……ふふふふ…………きたわあ………辛気くさい趣味だってアコちゃんに罵られてはや六年……
夢にまで見た、殺人事件の現場がきたーーー！」
　教会組は三人で固まっている。
　鉄の結束力に見えて、若干、コンセンサスがとれていない模様。
「ちょっとソウジューロー、お茶もスコーンもでないの？
　せっかくスターが訪問してあげたのに、ろくな歓迎もなしいきなり殺人事件とか、アナタたち、礼儀ってもんがなってないんじゃない？」
「いや、しかし待ってほしい。
　人がひとり死んでいるのにお茶とお菓子を要求するのは、礼儀以前の問題ではないだろうか」
「あぁ？　なに、番犬のクセにご主人様に意見しようっての？　どうしてこう、ここぞという時に常識人ぶんのよアンタは！」
　静希の首輪を掴んで、ガクガクと揺さぶるピンク女。
「蒼崎……蒼崎が、二人……」
　頸動脈に食い込んでいるのか、静希の目はうつろである。
「ふふふ。そこのピンク。不味そうな人間だけど、それ以上草十郎さんに触れたら頭から丸かじるぞ☆」
「はあ？　やれるもんならやってみればあ？
　ふん、アンタの弱点なんて分かってんだから。また返り討ちにされて、ネズミ<大|だい>の大きさにしてほしいワケ？」
「へえ。アレがこっちの本気だと思っていたなんて、<目|め><利|き>きが悪いにもホドがある。
　しょせんは産業革命の陰でポッと発生した<煤|すす>の魔女の末裔ってコト？　ほーんと、格落ち品らしい、スカスカの脳味噌だよねー」
「よし死んで。犬同士仲良く二匹、これ以上ないっていうぐらい愉快に死んで。
もうひとり死んでるんだし、あと六人ぐらい追加されても構わないわよねぇ？」
　一方、ソファーに座った久遠寺さんを中心に、とにかく仲の悪いグループを洋館組と呼ぶ。
　ピンク女、ベオ、静希は何やら揉めているけど、
「…………」
　屋敷の主人である久遠寺さんは、さっきから思案顔で一言も発していなかった。
　また、あの青い駒鳥の姿も消えていた。
「はいはい、みんなそこまで！
　この素敵な展開…
…ゴホン、
異常な事態を前にして、ケンカしている場合じゃありませんっ！
　状況は火を見るより明らかです。土桔由里彦氏が死亡していた事と、屋敷の電話線が消失していた事。
　この二つの事件は偶然ではありません。
　これは連続した、ある人物によって引き起こされた事件と見るほうが論理的です。即ち―――」
「殺人事件……土桔氏を殺害した何者かは、警察に連絡させないために電話を使用不能にした、という事ですか？」
「そう！　その通りよ金鹿ちゃん！
　これはもう立派な殺人事件です！　そして犯人はこの中にいる！
　といいなー！」
「ええ！？　これ、そういうイベントだったの！？」
「そうよ木乃美くん、これはそういうイベントなの！
　油断していると後ろからバッサリなんだから！
　さあ、誰から<持論|じろん>を<披露|ひろう>しましょうか！」
　あれほど活き活きとした律架さんを見たのは初めてだ。
　恐怖の反動で精神が高揚しているのかもしれない。
「律架」
「ぐっふぅ……！？」
「申し訳ありません。うちの者が不穏な発言をいたしました。
　しかし、まったくの狂言でない事も理解してください。
　土桔氏を殺害した犯人がこの中にいる、というのは先走りすぎですが、状況の整理は必要でしょう」
　反論する理由はない。
　詠梨神父の仕切りで状況整理が始まった。
「まず屋根裏の状況から。
　あの部屋は鍵がなくて、誰でも入れる状況だった。
　この中で土桔の爺さんが屋根裏に向かうところを見た人、あるいは相談された人はいる？」
　<挙手|きょしゅ>はない。
　土桔氏はひとりで、誰にも内緒で屋根裏部屋に入ったか、あるいは犯人に連れこまれたのだ。
「土桔氏を最後に見たのは誰でしょう？
　私たち三人は夕方から入館しましたが、その時点で土桔氏の姿を見てはいません」
「オレたちは午前中から居たけど、朝は一緒だったぜ？
　有珠ちゃんの隣を奪い合ったから、これは間違いない。
　でも……そうだ、あの爺さん、時計を見て“時間だ”とか呟いて、居間から出ていったんだっけ」
　芳助はああ見えて、記憶力はいい。
　勉強以外の、おもにどうでもいい方面で。
　結局、芳助の目撃談が土桔氏を見た最後の証言になった。
「となると……土桔氏が消えたのは正午過ぎから、ですか。まいりましたね。これでは、全員に等しくアリバイがない」
　そう。不在から発見までの時間帯が長すぎるのだ。
　午後に来たわたしや蒼崎、山城先生でさえ、何度かトイレやら休憩やらで席を立っている。
　五分から十分程度なら、ひとりでいる時間が誰にでもあったという事だ。
　ずっと誰かといた―――ずっとこの場所にいたのは、久遠寺さんだけである。
「有珠、詠梨たちを迎えに行く時しか動いてないものね。鉄壁のアリバイだわ」
「細かく証言をすりあわせていけばより確かな不在時間がでてくるでしょうが、あまり効果はないでしょうね。誰もが犯人に該当しすぎる。
　ここはアリバイより動機、あるいは凶器について話しあいますか」
「動機の線でいけば、俺たちは全員白ですよ。
　むしろ外部による犯行とした方が通りがいい。土桔の爺さんはあれで大企業のトップですからね。親族による利権がらみで殺された、ってのが普通の考えでしょう。
　なんで、動機をあれこれ想像するのも無駄骨かと」
「うう……その台詞、わたし……わたしが言いたかった……のに……唯ちゃんのボディブロー……痛すぎ……」
「なるほど。では、貴方は凶器について……殺害方法について考察するべきだと言うのですね」
「そういう事になりますかね。凶器を特定させれば、誰なら殺害可能かって問題に移れるでしょ。
　幸い、凶器はハッキリしていますから。詠梨神父は気付いていますか？」
「ええ、それなりには。居間と屋根裏<間|かん>でなぜ聞こえなかったのか、という不思議は残りますが。
　皆さんは分かりますか？」
　詠梨神父はこの場にいる全員の顔を観察しながら、意地の悪い質問をした。
　土桔由里彦を殺害せしめた手段はなにか？
　わたしは―――
～選択肢Ｇ～
　目を覚ますと、そこは木の床の上だった。
「あれ……わたし、なんでこんな所に？」
　ゆっくりと体を起こす。
　場所は久遠寺邸のホール。
　柱時計は午前七時に差し掛かろうとしている。
　ロビーの端っこにはシスター服の女性が、わたしと同じように倒れている。いや、眠っている。
　洋館は静かで、けれど、耳を澄ますと様々な音が聞こえてきた。
　台所からは食器と食器の重なる音。
　廊下を行く足音や、<蝶番|ちょうつがい>の軋む音。
　それと、
「……？　おい、どうなってんだこりゃ。なんで俺ら久遠寺の家で寝てんだ？　起きろ木乃美、話きかせろ！」
　二階からは、聞き慣れたアイツの声。
「――――――」
　わたしはなぜか胸が楽になって、体を起こした。
　有り体に言えばホッとしていた。
　ふと視線を下にやると、そこには卵のカラのようなものと、一枚のメモがあった。
　メモにはピンクのクレヨンでたった一言。
　　　　　　『恋に生きたっていいんじゃない？』
「は」
　さすがスイーツ脳。死んでもゴメンだ。
　そもそも、そんな簡単に開き直れないから、アンタの魔の手に引っかかったんじゃない。
“だよねー！”
　妙に元気のいい、こちらを<励|はげ>ますような音。
　卵の表面に<罅|ひび>が入る。
　それはあっさりと砕けて、
　何もかも、記憶すら持ちさって退場した。
「あれ―――？　何かあった気がするん、だけど」
　目の前のおかしなメモを手にして、首をかしげる。
　あまりに脳天気かつ単細胞な走り書きに怒りを覚えたわたしは、メモをクシャッと握り潰して、ちょっと迷った後、ポケットにしまい込んだ。
「お？　久万梨も来てるじゃねえか。
　どうなってんだこりゃ、パーティーの開始、午前中に変更したのか？」
　階段の上からは、がやがやと人の気配。
　プラス、来ていると聞いていなかったヤツの顔。
　わたしは急いで顔をそむけて、ロビーにある鏡で自分をチェック。よし、おかしなところはとりあえず無い。
「どうなってるか聞きたいのはこっちの方よ。
　久遠寺さんの誕生会って、ほんとに今日なの？　招待状の日付、間違えてたんじゃ……
って、あれ？」
　この台詞、なんか言った覚えがあるような……？
　ま、ただの気のせいだろう。
　今日は<稀少|レア>と言えば<稀少|レア>な、久遠寺邸での誕生会だ。
　高校生活は残り少ない。
　気を抜けば終わってしまうだろう最後の季節を、わたしは後悔のないよう、自分らしくクリアしないと。
「うお、金鹿じゃん！？　おまえも呼ばれたワケ！？
　有珠ちゃんと面識あったのかよ！？」
「そりゃあるわよ、蒼崎と友達やってれば。
ってか少しは落ち着け芳助。アンタ、ガキの頃から成長ないんだから」
「おーおー。さすが幼なじみ、仲が良いコトで。
　その調子で木乃美を仕付けてやれよ久万梨。まわりと、何より本人の為になるぜ」
「嫌。億つまれたってお断り。労働と報酬が釣り合わないし。わたし、<無駄骨|むだぼね>折ってる時間ないし。
こいつ、叩いても叩いても元通りになる形状記憶合金だし」
「はは、違ぇねえ！　んじゃまあ、コイツはほっといて久遠寺に挨拶に行くか。蒼崎と久遠寺は居間かねぇ」
「ちょっ、その前にあそこ！　シスターが倒れてるぜ殿下！
　おおお、俺が抱き起こしちゃっていいかな！？」
「いいんじゃねえの？　最悪、テメエがのされるだけだし」
　平凡で、楽しげな話し声はホールへと下りていく。
　風に散った粒子は天窓を透り抜けて、太陽に焼かれるように消えていく。
　　“んー、まあそういうオチもいいっちゃいいか！”
　妙に清々しい、カノジョの素直な気持ちを代弁しながら。
　狂想曲はこれにて終了。
　彼女は「自分らしく」と微笑んだけれど、それもやっぱり人それぞれ。
　少ない時間を惜しむのも、
　残った時間に賭けるのも、人それぞれの選択だ。
　けだし、過ぎ去るものはみな美しく。
　終わりはいつか訪れるにしても、それは<暫|しばら>く先の話。
　この華やいだ一日も、一編、本棚に収まる程度の<物語|はなし>。
　―――青春時代は短く長く。
　少年少女の物語は、まだ見ぬ波乱に満ちている。
　であれば皆さま。
　いつかまた、次の機会にお会いしましょう―――
　わたしは、大雑把に言うとパンだ、と思った。
　わたしは、現実的に小型爆薬だ、と思った。
　わたしは、ほんっとーに突拍子もないが、犬か何かに食いちぎられたのでは、と思った。
　……なんで？
「え？　なにって一目瞭然でしょ、あんなの。
　手と足と顔にダイナマイトつけたんじゃないの？」
「ええ、当然の論理的帰結ね。
　だって手と足と顔がないんだもの」
「………………」
　徹底した現実主義な為か、蒼崎はときどき、素っ頓狂な結論に辿り着く。
「その可能性もなくはないが、今回は別だ。
　土桔の爺さんがどういう経緯であの部屋に居たかは不明だが、あの部屋で何が起きたかは分かる。<粉塵|ふんじん>爆発だ」
「はあ？　粉塵爆発って、大気中に可燃性の石炭が舞っていて、花火とかで引火したら爆発するっていう、アレ？」
「大雑把に言うとそうですね。石炭にかぎらず、そこが密室で、一定量の可燃性の粉塵であれば爆発は起きるんですよ。家庭用品でいうと小麦粉ですね。
　他には鍋の錆とアルミホイルでテルミットも作れますが、まあ、状況からして粉塵の方でしょう」
「でも、ならどうして胴体だけ残ってたの？
　そもそも粉塵爆発ってそんなに強いの？」
「そこはこれから探るところだが、爺さんのコート、あれ防弾ジャケットなのかもな。
　それと、死因は粉塵爆発とはかぎらない。殺した後に爆発を起こした、って線もある。爆発自体は小さいもので、手足と顔は、あらかじめ灼いてあったのかもだ」
「そうですね。それなら爆発の音が居間まで聞こえなかった説明にもなる。
　あの粉塵爆発の跡は、何らかのカモフラージュという説も捨て切れません」
「カモフラージュって……何を隠すっていうんですか？」
「ですから、“不自然さ”をです。
　たとえば、あの遺体が土桔氏ではなく、まったく関係のない人間の死体だったらどうです？
　その場合、顔があってはあの死体が土桔氏でない事は明白です。犯人はなんとしても顔を隠したい。しかし、だからといって顔を焼いては、その行為そのものが証拠になります」
「なので、焼かれていても不自然ではない状態を演出する為に、あえて不自然な粉塵爆発を使って、大本の不自然さを隠した、とか。
　大きな嘘の前には、小さな嘘が消えてしまうというヤツですよ」
「うう……それも言いたかった、言いたかったのにー」
　神父と槻司の考察に、思わず感心してしまうわたしたちだった。
　あの部屋で粉塵爆発が起きた可能性までは追及できたとしても、その先、なぜ爆発なんてものを起こしたのか、までわたしは行き着いていなかったのだ。
「なるほど、粉塵爆発にそんな意味が」
　うむ、ともっともらしく頷く芳助。
「で、ごめん。それってどういうコトなの？」
「とりあえず、凶器の所在を明らかにできるってコトだ。
　草十郎、台所に小麦粉はあるか？」
「いま調べてる。……ないな。
　買い置きがあったのに、袋ごとなくなってる」
「つまり―――どういうコトだってばよ？」
「誰かが台所から小麦粉を持ち出したってコトでしょ。
　それが示すところは―――」
　犯人は、この家の台所に精通している者……と考えていいのだろうか？
　それとも、そう思わせる為のミスリードか？
　……と。
　今まで何処に行っていたのか、青い駒鳥がパタパタと居間に舞い戻ってきた。
　駒鳥は久遠寺さんの肩に留まり、チチチ、と甲高い声をあげる。
「まあ」
　久遠寺さんはソファーから立ち上がると、ぐるりと一同を見渡した。
「真剣に討論をしているところ申し訳ないのだけど、皆さんにたいへんなお知らせがあります。
　その前に。静希君、少しいい……？」
　久遠寺さんは静希を手招きして小声で話しかける。
「ちょっと。そこ、近いんじゃないの？
　隠し事とか、感じ悪いんだけど」
「ごめんなさいリデル。でも、その前に静希君から貴女に、とっておきの小話があるそうよ。
　きっと素敵な話だろうから、聞いてみてあげて」
「ああ。こんなコトでいいなら、是非聞いてほしい。
　リデルの心を打つコト請け合いだって、有珠が。君には何度か助けられたし、喜んでもらえるなら俺も嬉しい」
「っ……い、いいじゃない、聞いてあげるから言いなさいよ」
「ジュッティム。ジュテェーム、モナムゥー」
「は……？」
「って、なにそれ、おっかしいの、似合わない！
　ソウジューロー、アリスに遊ばれてるってば、いまの台詞、どんな意味だかわかっ―――
ぐはっ！？」
「ちょっ、いきなり<吐血|とけつ>して倒れこんだーーーーー！？」
　倒れたピンク女に駆け寄る。
　脈拍、なし。呼吸、なし。
　瞳孔、生体反射、なし。
「完全に死んでいるわ」
　居間はちょっとした混乱状態になった。
　驚く者、
　周囲に注意を払う者、
　まったく事態を理解できていない者。
「やっぱり。困ったコトになったわね」
「どういうこと有珠、リデルのヤツ、なんで死んだの？」
「説明するのは簡単よ。
　トッキィーの殺害現場で気になる事があったから、さっきロビンに保管庫の様子を見に行かせたの。
　そうしたら一体分、プロイキッシャーが空席だって」
「プロイが……？　じゃあ爺さんとリデルを殺ったのはそのプロイだって言うの？」
「正確にはプロイのルールにひっかかった、というべきね。
　隠していても仕方のない事だから、はっきりと言うわ。
　これから朝まで、笑うのは絶対に禁止よ」
「なんで？」
「だって。この洋館、笑ったら死ぬ世界になったから」
「そんなあ、笑ったら死ぬとかマジ怖いじゃん！
　有珠ちゃんったら冗談うまいんだから、ははははは！」
「ほ、芳助ぇぇーーーーえ！？」
「……<本気|マジ>のようね」
「木乃美君のおかげでよりルールが見えてきたわ。
　自分から笑う分にはノーカウントで、愛想笑いも除外。
　でも人の言動や仕掛けで、心の底から笑ってしまったらアウトと判断されるのね」
「え……え？」
　ちょっと、本気で、意味が分からない。
　笑わされたら死ぬって、はい？
　久遠寺さん、ちょっと普通じゃないと思ったけど、本気で電波な人だった？　いや、でも実際、爆笑して死亡したのが目の前に二人もいて、じゃあなに、これって本当の話なの？
「プロイキッシャーが稼働している、というのですか。
　しかし、そんな魔力の流れがあるのならシスター唯架に気付かれない筈がありません」
「これは完全潜行型のプロイ。
それに、唯架さん」
「はい。久遠寺邸の中で魔力の<多|た><寡|か>を測るのは馬鹿げています。エイリ神父、私たちは一つの巨大な神秘の中にいるのです。魔力の流れなんて、この山に入った時点で測りようがありません」
「そうでしたね。……お恥ずかしい、私も混乱しているようです」
　いや、この状況で冷静である方がおかしい。
　詠梨神父には冷たいイメージしかなかったけど、あの人、わりと真人間なのかもしれない。
　でもプロイってなに？
　事は完全に、わたしを置いてけぼりにして進んでいる。
「……ひとついいか？　笑わされたら死ぬ、ってのはいいよ。アンタの事だ、それぐらいあるかもしれねえ。
　だが死に方が一致しないのはどういう事だ？
　爺さんもリデルも木乃美もそれぞれ違う死に方だ。ルールと言ったが、そこはランダムなのか？」
「死に方は、その人の人間性によるわ」
「人間性……トラウマとか本質とか、そういうのを表すの？」
「ええ。隠された<性癖|せいへき>も<暴露|ばくろ>されかねないわ」
「ああ、そういう事だったのね……ようやく合点がいった。いくらなんでもおかしいと思ったのよ。あの死に様はそういう<絡繰|カラクリ>だったのか……」
「……木乃美くん、札束まき散らして死ぬとか、どれだけゴージャスな人生を期待していたのかしら……」
「その札束もこれじゃあ救えねえがな」
「リデルは普通なんだな。
　彼女の事だから、俺はてっきり飛行機とかクルーザーに変形するかと思ったのに」
『そッスね、さすがリデルさん、見かけ倒し度がハンパないッス！　吐血して突然死とか、本気で地味すぎるっていうかぁ、木乃美のダンナ以下とか、これだから<三下|さんした>はデオチすぎて救えねぇーッス！』
「
だ、
誰がっ、
三下、
だっつーのっっっっ！」
「い、生き返ったぁ！？」
「
舐めんじゃ、
ないわよ！　
ぐっ、
心臓止まったぐらいで、
うぐぅ、
死んで、
死んで
たまるもん、
かっ！」
「うわあ……心停止を気合いで耐えた人類、初めて見ました……
あの程度の笑いじゃ、リデルさんは殺せそうにありませんねー」
「すごいな。今度、その<秘訣|ひけつ>を教えてほしい」
「ええ、完成されたゾンビのよう。わたしは信じていたわ、リデル」
「ア、アンタたち、褒める前に謝るのが、先じゃない！？
　だいたい、試すならそこの<人狼|ウェアウルフ>の方が適任でしょ！？
　殺してもほっとけば生き返るんだから！　なんでアタシを狙い撃ちなのよ！」
「え？　……だってわたしたち、ライバルなんでしょう？
　なら、殺し合いをするのは当然だと思うけど」
「え……あ、うん、そうよ、ライバルってそういうものよ。
　や、やるじゃない。隙あらば仕掛けてくるなんて、見直したわ」
「やっぱりあの女、殺しても死なない系だったか。……たまんねえな」
　そんなピンク女のホラーショウを、槻司は呆れつつもすんなり受け入れていた。
「……ちょっと槻司。アンタ、今のおかしいと思わないの？　人が死んだのよ？
　芳助とか紙吹雪になって死体もないのよ？　笑ったら死ぬとか、なんだっていうのよコレ？　もしかしてわたし、とっくに夢見ちゃってる？」
「落ち着け、信じたくねえが現実だよ。
　久遠寺の言う通り、この洋館はそういうルールの世界になって、リデルはそれに引っかかったが、自力でルールに抵抗したってワケだ。
　頭の痛いことだが、久遠寺とリデルはその手のオカルトがアリな奴らなんだよ」
「俺も具体的には知らねえけどな。というか、踏みこんだら巻きこまれる。ギリギリ外から眺めた結果、あの二人が本物だと判断した。今はそれで納得しとけ」
「納得できないっ、だって芳助死んじゃったのよ！？」
「久万梨さん。木乃美君の死を悲しむのはまだ早いわ。
　彼やトッキィーはアウト扱いで退場しただけ。現実ではまだ“行方不明”状態よ。
　誰かがこのゲームをクリアすればゲーム内容はすべて<無効|むこう>扱いになって、彼らも元通りになるわ」
「……死んでない？　ゲームをクリアすれば、元通りになる、ですって……？」
　言っている意味は分かるけど、あいにく、わたしは蒼崎同様、現実主義だ。
　そんなＳＦ小説みたいな台詞、簡単には鵜呑みにできない。
「クマ、落ち着いて。気持ちも信条も分かるけど、今は話を聞きましょう。
　……有珠、もっと詳しく話して。
　プロイの仕業なのは分かったけど、具体的にどういうルールになったの？　クリアってなに？」
「このプロイは確率変動型のプロイなの。
　使用者が定めた条件が満たされたら発動して、あとはまる一日稼働し続ける。これが『ゲーム』。
　ゲーム中は現実世界に新しい『ルール』が一つ追加される。今回は『笑わされたら死ぬ』でしょうね」
「また、ゲーム中は区域からの脱出は困難になる。この区域から脱出する方法は二つだけ。
　一つは誰がプロイの使用者なのか暴くこと。
　……でも軽率に犯人を指名するのは避けるべきね。
　もし間違えていたり、証拠が欠けていた場合、犯人を指名した人物も“<消滅|アウト>”になるから」
「もう一つはゲームが終わるまで、プロイ以外の参加者が一人でもいいから生き延びること。
　このどちらでも『クリア』になるわ。クリアさえしてしまえば、何人犠牲者がでようと帳消し。みんな生き返って、ゲーム中の記憶は失う」
「……どうなる事かと思いましたが、それなら問題はありませんね。このまま夜が明けるのを待てばいいのですから」
　シスターは安心したようだけど、わたしはそこまで楽観できない。
　状況がわたしの理解の範疇を超えている、というのもあるけど、どうしても不安がぬぐえない。
　わたしは―――
～選択肢Ｈ～
　わたしは、土桔由里彦氏の死がネックだ、と思った。
　わたしは、一晩笑わないのなんて簡単、と思った。
　……わたしは、一人足りない事をそろそろ指摘すべきだろうか、と思った。
「どうかしら。そうはいかないと思うわよ、唯ちゃん」
「？　律架、それはどういう―――」
「木乃美くんやリデルさんはともかく、土桔さんは無理やり誰かに笑わされた可能性があるんだから。
　それにアッちゃんはこう言ったわ。<使|・><用|・><者|・><が|・><定|・><め|・><た|・><条|・><件|・>だって。このプロイは事故で起動したんじゃなくて、誰かが意図的に起動させたって事でしょう？」
「では……」
「……犯人がいるってコト。
　そいつが誰かは分からないけど、こんなルールを作った以上、なんとしても私たちを笑わせようとするんじゃない？」
「いえ、そうでなくても犠牲者は出るかもしれない。
　……こんなコト言いたくないけど。疑心暗鬼から来客たちが自滅しあうのはミステリの定番でしょ、律架」
「そう、その通りなのです！　さっすがアコちゃん、分かってるぅ！
　このルールの底意地が悪いところは、殺害方法が犯人だけの特権ではない事よ。極論として、犯人を突き止めなくても生き残れる方法はある。
　要は、他人に笑わせられなければいいんだから―――」
「やられる前にやれ。
　自分以外の人間を、先に消してしまえば安全だ。
　……まとめるとこういう事ですか？」
「１．いま、洋館は笑うと死ぬ世界になっている。
　２．その状況を望んだ人物Ａがいる。
　３．俺たちは、その人物Ａが誰なのかを見抜くまで安心できない。なぜなら、その人物Ａは既に土桔老人を殺害しており、他の人間を殺さない保証はないからである。
　４．必然、俺たちは自分以外の人間を疑い、正体を暴くか、朝まで身を守るか、笑わせて消していくしかない、と」
「生き残れるのは、ただ一組」
「なに格好よくまとめてんのよアンタは！
　アリス、これ何番のプロイ？」
「十五番。<呪|まじな>いと確率変動、二心同体、願掛けによる魔力強化のプロイキッシャーよ」
「あちゃあ……やっぱりスイーツハーツだったか。
　最悪。あんなの使うヤツがいるなんて、どんだけ優柔不断なのよ日本人って」
「スイーツハーツ……？
　それがこのプロイの名前なの、有珠？」
「イエス。一定のルールを作って、その中で生き延びたパーティーの魔力を向上させる、戦闘前の運試しみたいなプロイよ。たいていはみんな全滅してスイーツハーツの一人勝ち、生存者はいないってデスゲームだけど。
　じゃ、アタシはアリスと組むから」
「は？　何よ、その組むって」
「これはパーティーサバイバルなの。ゲームは二心同体、二人一組で挑んだ方が勝率はあがるわ。
　だって、最終的には面倒な犯人当てより、力ずくの笑わせ合いになるのは明白でしょう？　誰だって最後に生き残るのは自分でありたいんだし」
「その点、アタシとアリスなら絶対よ。アリスは笑わないし、アタシは<実力行使|パーティージョーク>を担当できるし。
　ね、そうでしょうアリス？」
「そうね。
静希君、お願いできる？」
「そうだね。聞いたかぎり、有珠なら安全だ」
「優しさとかないの、アンタたちには！？」
「なるほど。自分が犯人ではないと思う、信じられる知人をパートナーにして協力しあうのですね。
　シスター唯架、よろしいですか？」
「そうですね。恐ろしい事ですが、この中でもっとも信用できるのはエイリ神父のようですから」
「えー、わたしはのけ者かー。
　アコちゃん、わたしと組むー？」
「リデル、組みましょう。
　今夜だけは過去のことは水に流して」
「流しましょう！　わたしの事も水に流しましょう！」
「……ふん。いいわよ、好きにして。
　いざとなれば、ふたりで洋館ごと木っ端微塵よ」
「自然な流れだな。んじゃあまあ、常識人らしく俺たちは俺たちで組むか、久万梨」
「っ」
　よ、予想外の展開になった……！
　さっきの屋根裏といい、事態は最悪だけど、状況はとんでもない方向に動いている。
「んー、草十郎さんと組めないんなら、ボクはひとりでいいや。
どうせ遊びだしさー」
「あーん、残念。それじゃあわたしは山城先生と……
　あれ？」
　全員が顔を合わせる。
　そう。そろそろ誰かが気付くと思っていたけど、ずいぶん前から山城先生の姿はなかったのだ。
「うーん。ほとんど屋敷にいたんだけど、パーティーの準備が忙しくてあまりみんなと話していないな。
誰かさんと誰かさんが手伝ってくれないから。
　それはともかくとして、基本的には居間にいたよ。
　買い出しとか庭の手入れもしたけど、あれは午後だったかな。
夕方になって部屋に戻ったら、土桔さんがたいへんなことに」
「わたしは……そうね。人手がなかったから、トッキィーが来る前に自分で西館の施錠をすませて居間に移動したわ。
　プロイの保管庫を含めて、西館には立ち入り禁止の部屋が多いから。
　それからはずっと居間でゲストの様子を見ていたけど、誰がいつ、どのくらい席を立っていたかまでは把握していないわ」
「わたしも蒼崎と同じだけど、一応証言はしとく。
　
　午後イチに蒼崎、山城先生と合流して、午後二時過ぎに久遠寺邸に到着。
　客室で一度休憩をとったのが三時半から四時。
　四時にロビーに神父さんたちがやってきたのを覚えています。
あ……あと、そうだ。仮眠中、誰かの笑い声が聞こえた気がするけど、気のせいかもしれないし、これは推理の材料にしないで。混乱させるだけだわ」
　わたしは、
～選択肢Ｊ～
「私は午後の業務を済ませ、青子からの招待状通り、平和的な出で立ちで洋館を目指しました。
　午後四時に洋館に到着し、サンルームでお茶をいただいているとリデルくんが乱入し、その後、土桔氏が殺害されている事が判明しました。
　こちらに来てからは土桔氏と出会っていません。
　また、山城先生の姿が消えたのは土桔氏の事件が発覚する前だったと思います」
「私もエイリ神父と同じです。
　この屋敷に到着してから事件が起きるまで、一度も居間から離れてはいません」
「わ、わたしは……あっちゃあ、何度か席を立っちゃったなあ。おトイレと、ちょっと洋館探索に。
　だ、だってアッちゃんが家にあげてくれるなんて珍しいじゃない？　<魔術品|レアもの>も見たいなー、と歩き回ってたけど、案の定、どこもロックは完璧でした。
　あ、でも二階には行ってないわよ。これは本当」
　わたしは、
～選択肢Ｋ～
「………………」
　細かな違和感はあれ、証言されたアリバイに大きな矛盾はなく、居間は沈黙に包まれた。
　土桔氏が殺害された時間は特定できない。
　誰も爆発音を聞いていないし、プロイキッシャーとやらのせいで死後硬直の問題も、かなり曖昧になっているらしい。
　死体の状態から犯行時間が特定できない以上、土桔氏と山城先生、二人がいつみんなの前からいなくなったか、で死亡時間を計るしかない。
　土桔氏の死亡推定時刻は午後一時以降～午後六時まで。
　山城先生は午後四時から八時まで。
　ただし、七時からは全員が集まっていたので、実際には四時から七時までの時間だろう。
　いずれの時間も、完全なアリバイがあるのは久遠寺さんと詠梨神父、シスター唯架だけ。
　山城先生に関してはわたしと槻司も完全にアリバイがある。二人とも居間にいたからだ。
　蒼崎と静希とベオは……どうだっただろう、把握していない。
「でも、怪しいのはプロイの事を知っているアオコとアリス、あとリツカだよね。だって僕ら、スイーツハーツなんて知らなかったんだし」
「そうだな。前もって知る機会があったかは別にして、まずはそこから検討しないとな。
　今日ここで知ったのか、はじめから知っていたのか。この違いは大きいぜ」
　そう。問題は、いつプロイとやらを起動させたか、だ。
　たとえばわたしや山城先生がスイーツハーツだとしたら、洋館にやってきてから、見も知らないスイーツハーツとやらを発見し、起動させなくてはならない。
　絶対にないとは言い切れないが、まず現実的ではない。
　この場合、このゲームは突発的な犯罪に分類される。
　たまたま、が重なって起きてしまった悲劇という事だ。
　逆に、前もって知っていて、いつでも使用できる状態だったのなら、これは計画的な犯罪だ。
　プロイをいつ見付けたかは推理しなくていい。
　人物Ａは既にプロイと入れ替わっていて、あとはゆっくり、全員が揃ったタイミングでルールを発動させればいいのだから。
　今のところ、可能性はこちらの方が大きいだろう。
「はじめからプロイを知っている、という前提で絞るなら、怪しいのは蒼崎だな。
　蒼崎なら両名を殺せる時間があった。
　律架さんの場合、土桔爺さんの殺害は難しい。
　久遠寺は……ずっと居間にいた唯一の人間だ、犯行にはおよべない」
「そうね。それは否定しないわ。その二人に関してなら、私はいくらでもやれるチャンスはあったでしょう」
「では、やはり」
「やはりって何よ、やはりって。
　あくまで可能性の話でしょ。それを言うなら、洋館にやってきて、すぐにプロイを発見して、勢い食べちゃって、それでスイーツハーツになっちゃった、って偶然もあるわけだし？
　怪しさでいえばみんな同じよ。水掛論だわ」
「……私とエイリ神父は潔白だと証明されましたが」
「アンタらがどんな経緯で洋館に来たかは不明よね？
　ロビーで話し声が聞こえたから有珠が出迎えたんでしょう？　それ以前、アンタらが何処にいたかなんて誰も証明できないじゃない」
「そうねえ。可能性でいうなら、詠梨さんと唯ちゃんとわたしが共謀してる、というのもアリだし」
「姉さん。貴女はどちらの味方ですか」
「わたしは論理の味方よ！　マニアの<矜持|きょうじ>に誓って、どちらにも肩入れはしないから！
　んー、まあ、それはそれとして、プロイを知っている、って条件ならもう一人、とびきり不自然な<娘|こ>もいるんだけど。それは誰かが指摘するでしょう」
　無言で火花を散らすシスターと蒼崎。
　あの二人は日頃から仲が悪いのだろう。
　この状況では、もはや完全に敵同士だ。
「青子。あまり唯架さんを挑発しない方がいいと思うけど。今回のルールでは、彼女は最強の切り札なんだから」
「は？　最悪の敵、の間違いじゃない？」
「切り札よ。だってあの人、この中で一番安全だもの。
　そうでしょう、唯架さん？」
「ええ。私には笑いが分かりませんから。
　冗談で笑う、なんて事はまずあり得ません。ですから、先に退場するのは青子さんの方でしょうね」
　久遠寺さんは場を<諫|いさ>めたつもりっぽいけど、空気はますます剣呑になっていった。
　そんな中、久遠寺さんの前に青い駒鳥が現れた。
　黒いテーブルに着地すると、駒鳥はチチチ、と
『ジブン、ハンニン分かったんスけど、言っていいッスか？』
　鳴いた。
『ブギャッ！？』
　久遠寺さんの手刀が、容赦なく青い鳥を粉砕した。
「……ともかく。
　いつまでも笑い話と思っていると、全滅するわよ」
「そうだね。唯架さんはともかく、笑い上戸な人はどこかに隠れていた方がいいんじゃない？」
　二人の意見はもっともだ。
　わたしは、
～選択肢Ｌ～
　わたしは、
　それぞれ客室で朝まで過ごすべきでは、と思った。
「話はここまでです。
　疑心暗鬼をこれ以上深める必要はないでしょう。犯人は分からずとも、解決する手段は明白なのですから」
　ぴしゃり、と唯架さんが場を制する。
　その迫力に誰も異論は……いや、律架さんだけはいじいじと拗ねているが、それ以外は誰も口を挟まない。
「皆さんはそれぞれ客室で夜を過ごしてください。
　きちんと鍵をかけて、朝まで誰も入れないように。
　私とエイリ神父、律架の三人はここで寝ずの番をしますので、何か異常があるようでしたら駆けつけます」
「……まあ妥当なところね。
　教会組も犯人候補だけど、唯架さんだけはプロイである可能性はないんだし」
「それはなぜ？」
「魔女嫌いの唯架さんは、プロイキッシャーの口車には乗らないでしょ。
　さ、そうと分かったら解散解散。各自、必要な物を手にしたら客室に戻って、朝まで籠城すること。
　あと、トイレは物理的に我慢して」
「…………」
　わたしが切り出すまでもなく、<籠城|ろうじょう>案が可決された。
　そりゃあ、これが一番安全かつ簡単な方針だろうけど。
「……俺の部屋は使えないな。
　鳶丸、そっちの客室に行っていいか？」
「ああ、木乃美がいなくなったからな、ちょうどいい」
　槻司は静希からクッキーやら水の入ったピッチャーやらを受け取って、やれやれとロビーに向かう。
「ちょっと待って、槻司はそれでいいの！？」
「よくはねえが多数決なら仕方がねえ。問題を解決せずに封殺しちまうのは、民主主義の欠点だな。
　しかしまあ、これも鉄板の選択だ。何かあったら大声で助けを呼んでくれや。俺も二階だから、すぐに駆けつけられる」
「あーあ、こんな事ならライブキャンセルするんじゃなかったわ。
アリス、早く部屋に案内しなさいよ。もちろんゲストルームじゃなくて、アンタの部屋よ。
　ここじゃロイヤルクラスなんて望むべくもないでしょ？　だから特別に、家主の部屋で妥協してあげるわ」
「私は自分の部屋にいるから。朝まで誰も近づいちゃダメよ」
「ボクはここで寝てるよー。何かあったら起こしてね」
　……みんな、思い思いの場所に移動していく。
　わたしは釈然としないまま、自分用にあてがわれた客室に移動した。
「………………」
　鍵をかけてベッドに横になる。
　万が一の事態に対応できるよう、寝間着には着替えていない。
「笑ったら死ぬ、とかワケが分からないけど……」
　ここにいるわたしたち全員を殺そうとする何者かがいるのは確かだ。
　わたしは横になって考える。
　槻司や詠梨神父は論理的すぎて、ある疑問を見逃していると思う。
　わたしが思うのは犯人の顔や正体じゃない。
　そいつは、どうしてこんな事をする気になったのか。
　わたしたち全員を殺して何の得があるんだろう、とうろんな頭で考え続けて―――
　その前に、
　あのピンク女のアリバイも検証するべきだと思った。
「へ？　アタシにもやれっていうの？
　アタシは関係ないじゃない。だってアタシが来た時、もう爺さんもセンセイとやらもいなくなってたんでしょ？　常識的に考えて、完全にシロよ。
　だいたい、アタシにはスイーツハーツなんて使う理由がないし。なに不自由のないアイドルだし、願い事なんてたいていはお金で解決できるし。どうせ嵐を呼ぶなら、自分の手で起こして、まわりを犠牲にしてもスッパリ成就させまくるし」
「バカいってんじゃねえ、テメエだって怪しいだろ。
　プロイとやらを知っていて、蒼崎と久遠寺に恨みがあって、おまけに慢性的なヒスときた。
　そもそも、なんで呼ばれもしていないのにやって来た。わざわざヘリ飛ばしてまでよ？」
「つーかアレだ。テメエ、ヘリでやってきた時、まったく雨に濡れていなかったよな？
　ありゃどういうコトだ。
　それまで屋敷に隠れていて、ヘリを呼びつけたタイミングで登場すれば、さも“たったいま着きましたー！”って状況になるよなあ？」
「なっ、なによそれ！？
　アタシ、ちゃんとヘリで来たってば！　雨に濡れないのはゴブリンで弾いたからだし！　なんでアタシが、アンタらを皆殺しにしようなんて思うのよ！？」
「いや。思ってたじゃないか、実際」
「ええ。したわね、実際」
「あれはあれ、これはこれでしょう！？
　ああもう、マジ頭きた。アタシ帰る。帰って第二次ブリティッシュ作戦の準備する。もちろん、標的はここだからね」
「できるの？　脱出は困難だって、有珠が」
「ええ。スイーツハーツの確率変動で、道は土砂崩れになっている可能性が高いわ。
　電話線もなくなってるから、外部と連絡もとれないし」
「はん、地上がダメなら空があるわ。
　いいわよ、ヘリでしょ、お望み通り呼んでやるわよ。
　アタシのゴブリンネストを舐めるんじゃないっての！」
　ピンク女は威勢良く<啖呵|たんか>をきって、廊下に出て行った。
『ハロー。パパ？　アタシだけど、いますぐミサキ町の白犬塚までヘリ、飛ばして。そう、あのミサキ町。
はぁ！？　まだ諦めてないのか、ですって？　ヴァァァァァカ、頭ん中カボチャになってんじゃないの！？　勝つまでやるのがアタシだし！　第一、まだぜんっぜん負けてないし！　あんなの引き分けにすぎないわよ！
　ほら、座標は分かるでしょ。さっさと飛ばして。十分以内よ、十分以内』
『は？　支社にあるヘリじゃ無理？　嵐がひどくて近づけない？　ッタコ、んなコト分かってるわよ！
　それでも、このアタシが、今すぐ、ミサイルみたいにカッ飛ばせって言ってんの……！
　飛ばしたくても機体がない？　このハイトンチキ、アンタそれでも商人？　頭使いなさいよね。近くに軍用基地あるでしょ。そこに試作の最新鋭機があるって話よ。強襲用の。それ、一機チャーターして』
『あーもう、ムリムリうるさいわねそれしか言えないの？
　はぁ？　会社の立て直しで<実弾|キャッシュ>がない？　機体プラス、スタッフごと買い取らなきゃならん？　上等じゃない、その程度アタシがいくらでも稼いであげるってーの！　アラブの坊ちゃん宅だろうがチャイナの金満家の所だろうが、プライベートライブ<二三|にさん><発|ぱつ>ぶちかましてあげるわよ！　それでおつりがくるでしょ？』
『うざっ、泣いて喜ぶとか本気で止めて。お金のためよお金のため、音楽業なんてどうでもいいんだから！
　わかったら十分以内！　最新鋭機の、スーパーカッコイイの！　クソアパッチなんか寄越したら親子の縁切るから、覚悟しておくコトね！』
　……なんか、ものすごい罵詈雑言が響いてきている。
　ピンク女は英語でひとりごとを呟いているっぽいんだけど、あまりにも早口＆<俗語|スラング>の連続で、もう何を言っているんだか聞き取れない。
　……そもそもわたし、ヒアリング得意じゃないし。
「……あの馬鹿、本気で軍用ヘリ呼びつけやがった……」
「お待たせ。あと十分もしたら救いの天使が来るわ。
　スイーツハーツのルールはこの山限定だから、外に出てしまえば何もかもチャラ。アタシは一足先に家に帰って、豪華なディナーとしゃれこませてもらうから」
「ああ、けど安心なさい？
　アタシだって鬼じゃないし、どうしてもって言うなら乗っけていってあげてもいいわよ？　こんな犯人当てゲームにこりごりな人は、いますぐアタシ側に来るコトね」
「待てそこ。どうしてすぐ強い方に付こうとするのか」
「いや、しかし。自ら救いの天使だと」
「やめとけ草十郎。そいつが救いの天使だってんなら、蒼崎なんざ癒しの女神クラスになっちまう。根本的に喩えを間違えてるぞ、アレ」
「……むう。久万梨はどうする？
　鳶丸たちはこう言っているけど」
「わたしも辞退。帰るならひとりで帰ってもらえばいい」
　本当は助けが来るならすぐに乗りたいところだが、あのピンク女の手を借りるのは<御免蒙|ごめんこうむ>る。
「ふん、この状況でも仲良しごっことか、ドリーマー極まったわね。
　いいわよ、好きにすれば？　明日の朝刊の見出しが“山の上の洋館、宿泊客全員行方不明か？”なんてモンにならないよう、せいぜい気をつけなさい」
「はん。逃げだす女がよく言ったものね。
　そもそもこの天候で助けなんて来るハズないし。外の天気、嵐というより地獄でしょ。夢見がちなのはそっちの頭の方だと思う」
「っ……！」
　……と。
　十分を待たずして外からは強風とは別の、異質な風切り音が聞こえてきた。
「あはっ、予定よりすっごく早い！
　さっすがパパ、なんだかんだ言ってコネクションも行動力もあるんだからー♪」
　吹きすさぶ嵐の中、一つ目の魔鳥が接近してくる。
　目と思われたのは、何キロメートル先さえ照らす強力なサーチライトだ。
　鋼鉄のヘリコプターは、風速八十キロもの風をものともせず、
「あ、落ちた」
「あ―――あ、あ、あ」
「いやあ、この天候でフライトとか、常識的に考えて無茶でしょう。有珠さんでもそこまで世間知らずではありませんよ」
「ええ。必ず落ちると思ったわ。リデルの作戦がうまくいった事なんて、今まで一度もないのだし」
「あるわよ、アンタさえ関わらなければいつだってアタシはパーフェクトだっつーの！
　それに、今のはただのテストよ。
　本命は後からやって―――
ちょっと待って、タイム」
　ポケットにポケベルでも入っているのか、ピンク女はまた廊下に出て行ってしまった。
『はあ、責任問題になったァ！？　いま特殊部隊が本社ビルの屋上から侵入して来てるですってーー！？』
　なんか、廊下から悲鳴が聞こえてくる。
『落ち着いて、下手な抵抗はしちゃダメよ、すぐ無線で相手のトップと交渉して。え、損害賠償？　プロジェクトごと買い取らないと殺すって？　つーかもう拘束されてる？　ああもう、カイは何やってんのよ！？　で、いくら？　ごはっ、なにその金額、ケタ二つ違くない！？　払えない払えない、そんなのすぐに払えない！
　ちょっと待って、えーと……う、うん、なんとかなるかも』
『今年のツアー延長と、アタシの持ち株と、タヒチの島を売却すれば、なんとかなりそう。いいわ、契約成立、買い取っちゃって！　軍事産業とか畑違いだけど、とりあえずパパの安全が最優先！』
「…………」
　ちょっと気になる。
　わたしは、
～選択肢Ｍ～
　わたしは、ちらっと廊下の様子を見てみたい、と思った。
　そこには、
「……失った……すべて失ったわ……」
　この世の終わりを見たような、語るも無惨な幽鬼の顔があったりした。
　武士の情けで見なかったフリで、急いでドアを閉める。
　しばらくの間。
　一分ほど経った後、
「まあ、ヘリの事はきっぱり忘れるとして。
　もっと前向きな話をしましょう」
　彼女は何事もなかったように現れた。
　敵ながら、そのプライドの高さは認めざるを得ない。
「リデル、オマ……」
「トビマル。前向きな話をしましょう」
「……分かった。とりあえず、オマエさんが潔白だってのだけは分かった。というか、これでスイーツハーツがオマエだったら、酷すぎて目も当てられねえ」
「そんなの当たり前でしょ。さっきからアタシは関係ないって言ってるじゃない。
　だいたいね、このアタシ、希代の天才マイスター、新世代魔女であるリデル様が、こーんなバカっぽくて古くさいプロイに引っかかるワケないじゃない」
「いや、ひっかかっただろ、あのヘリ」
「ヘリはヘリ、アタシはアタシよ！
　さっきだって笑ったけど耐えきったでしょ。
　いっとくけど、アタシは絶対笑わないからね。ここでゆっくり、アンタらが古くさいプロイなんかにやられて消えていくのを眺めてやるから！」
　憎まれ口を叩いてはいるが、ピンク女も観念したのだろう。
　ふん、と鼻を鳴らしてソファーに腰を下ろす。
　わたしたち同様、この夜に付き合う腹を決めたようだ。
「ごめんなさい。少し席を外すわ。すぐに戻ってくるから、話を続けていて」
　久遠寺さんは……あ、トイレか。
「しかし、<図|はか>らずも脱出は不可能である事が証明されてしまいましたね。
　誰がスイーツハーツなのか特定するか、朝まで全滅しないように注意を払うか。私は後者を選びたいところですが」
「賛成。薮をつついて蛇を出したら、それこそ全滅の可能性もでてくるし。
　久万梨は？」
「わたしはどっちでもいいけど……槻司はどうなの？」
「俺か？　俺は犯人特定に一票だな。
　こんな状況を作り出した間抜けには、きっちり文句いわねえとな」
「私はどちらでも。リデルさんではありませんが、どちらに転んでも安全ですので」
「わたしは槻司くんに賛成っ。
　推理、推理しましょう、みんな！」
「俺は……そうですね。外の天気も荒れる一方だし、みんな部屋に立てこもった方がいいとは思う。鍵をかけて寝てしまえば他人に笑わせられようがないし」
「えー、つまんないでーす！
　草十郎さん、ここはもうちょっと様子見ようよー。アオコの死に方とか、すごく興味ない？」
「ベオ、そういうのは冗談でも―――
む？」
「！」
　突然、部屋が真っ暗になった。
「落ち着いて。電気が切れたようです。皆さん、<無闇|むやみ>に動いてはいけませんよ。<闇|やみ>だけに」
「………………」
　危ない危ない。あまりの寒さに、一周まわって吹きだしかけてしまった。
「なに考えてんのよ詠梨！　全滅するかと思ったじゃない！」
　いやそれはない、
　とツッコミを入れたいわたしだった。
「いやあ、今なら切れる、と心が騒いでしまいまして」
「うん、タイミングはバッチリだった。つまんないダジャレも、切り出し方次第で人を殺せるんだな」
「顔が見えないのがまた効くよな」
「まったくよ。このアタシですらちょっとブルっときたわ。もしかしてアイツが犯人なんじゃないの？」
　暗闇の中で会話は続く。
　……修学旅行の怪談話というか、暗闇の中でのやりとりは妙に興奮するというか。
　なんとなく、誰もが“今ならひとりぐらい笑わせてもいいんじゃないかな？”なんて浮ついた空気になってきた。
「あ、蝋燭みつけた。誰かライター持ってない？
　もしくはマッチ」
「ちょっと待ッチ」
「え、今のも神父さん？」
「酷い。酷すぎる」
「脳が退化しているとしか思えません」
「いや、この原始の状態じゃあ<知性|エスプリ>利かせてもインパクトねぇぞ。シンプルイズベストだ」
「あ。みんな静かに、電気つきそうだぞ」
　久遠寺邸には自家発電装置でもあるのだろうか。
　誰が復旧させたかはともかく、居間はあっさりと人工の明かりを取り戻した。
「あら、古くさい屋敷のクセに設備はしっかりしてるのね。このまま暗闇で朝まで過ごすのかと心配しちゃったわ」
　いつの間にか隣にいたピンク女が顔をあげる。
　わたしもつられて顔を上げて、
「ぎゃははははははははは
ぎごばぁ！？」
　ピンク女は胸にドンドンドンと衝撃を受けて、くるくると踊りながら激倒した。
「リデル！？　ちょっと、何があったの！？」
　蒼崎がリデルに駆け寄る。
　わたしは間一髪の差で助かった。
　ピンク女……リデルが先に笑っていなかったら、間違いなくわたしが笑っていただろう。
「リデル、しっかりしなさいリデル！
　死ぬ前に教えて、何を見たの！？　犯人？　犯人ね！？」
「ふ、ふふ……そんな、つまんないヤツ、より……もっとおぞましくて、ぷにぷにした、悪魔、が―――
ばたり」
「リデルーーーーーーー！」
　リデルを抱きかかえながら号泣する蒼崎。
　似たもの同士、感じ入るものがあったらしい。
　そんな中、何事もなかったかのように戻ってくる久遠寺さん。
「何かあったのかしら」
「分からん。わけもなく爆笑して自滅した。
　今度はさすがに復活は無理っぽい」
　とにかくこのままでは可哀想だ、と槻司はリデルにテーブルクロスをかけて部屋の隅に寝かせる。
　わたしはそそそっ、と久遠寺さんに近づいて、耳打ちなど一つ。
「久遠寺さん、今の、なに？」
「着替える服を間違えたの。みんなには黙っていてね、久万梨さん」
「……いいけど。犯人じゃないのよね、貴女？」
「ええ。今のはただの趣味だから安心して。
　昔から、あの娘を見ていると何故かいじめたくなってしまって」
　困ったものだわ、と嘆息する久遠寺さん。
　わたしは改めて、リデルにちょっとだけ同情したのだった。
　犠牲者は四人になった。
　ここにきて全体の雰囲気は“部屋に閉じこもって朝を待つ”方向に傾きつつある。
　わたしは、
～選択肢Ｎ～
　……風の音で目が覚めた。
　明かりは消えている。
　寝る前に消灯した記憶はない。
何事かと、起きて電灯のスイッチをいれてみたが、反応はない。
「……………………」
　時間を確かめたいけど、この暗さでは確かめられない。
　何にも気づかなかったフリをして寝直そうと努力したが、高ぶった神経は寝直す事も、じっとしている事も許してはくれなかった。
「……蒼崎の部屋が、一番近いよね……」
　わたしは物音をたてないよう、静かにドアまで移動して、鍵を開けて、そっと廊下をのぞき見た。
　―――廊下に人の気配はない。
　―――ただ、風の音と、雨の音だけが。
　―――わたしは何かに誘われるように、廊下の突き当たりの蒼崎の部屋に向かった。
　蒼崎の部屋のドアノブに手を置く。
　鍵はかかっていなかった。
　部屋の中には、
　見知らぬ女性の、死体がひとつ。
「――――――」
　悲鳴を上げたのか、押し殺せたのか、自分でも分からない。
　今夜は雨の音が強すぎる。
　きぃ、きぃ。
　ああ、この音は雨音じゃなくて、<蝶番|ちょうつがい>の音。
　ドアが揺れている音だ、と視線を向ける。
　その音は、蒼崎の部屋のすぐ隣りの部屋からだった。
　そこが蒼崎の書斎であることは、静希から聞いていた。
　扉には、
　真っ赤な、ペンキみたいな、液体が、べったりと。
　書斎の中には
　蒼崎青子の
　無残な
　が。
「―――！」
　廊下を走る。もう物音なんて気にしていられない。そもそもこの嵐だ、走る気配なんてどうでもいい。
　わたしは客室という客室を開けていく。
　三つ目で、この三年間、意識し続けた男子生徒の死体を発見した。
「はっ、はっ、はっ―――！」
　階段を転がるように下りる。
　実際、転んでしまって体中を打ち付けながらロビーに転がりでた。
　人の気配はない。
　来訪者があったのか、玄関は開きっぱなしだ。
　直感的に、教会の人たちも既に　　でいるのだと理解した。
　やけに耳に残る、靴の音。
　嵐の音が、意識から除外される。
　わたしの世界から、あらゆる音が途絶えていく。
　目の前には、
「ああ―――」
　恐怖も怒りも、なんにもない。
　わたしは静かな心持ちで、嵐の夜の殺人鬼を見た。
　闇の中で光る二つの目。
　そいつの手にある凶器が光を放つ。
　―――この世のものとは思えない、いびつにゆがんだ鬼の<面|かお>。
　それが、わたしの見た、この夜最後の映像だった―――
　わたしは、その意見に賛成すべきだ、と思った。
「ここで腹の探り合いをしていても空しいだけね。いいかげん決を採りましょう。
　自分の部屋に閉じこもって朝を待つ、に賛成な人」
　賛成、と手を挙げる。
　手を挙げたのはわたし、蒼崎、唯架さん、静希……と、
それにつられてベオの五人。
　反対は律架さん、詠梨神父、槻司、久遠寺さんの四人。
　ベオの差でわたしたちの勝ちである。
「決まりね。それじゃ各自、部屋にこもって、しっかり鍵かけて、朝まで外にでないこと。
　必要な物があったら台所から持っていって。
　あと、トイレは精神的に耐えきって」
　みんな長時間の推理に疲れていたのだろう。
　とくに何を言うでもなく、あてがわれた部屋に向かっていった。
「………………」
　鍵をかけてベッドに横になる。
　万が一の事態に対応できるよう、寝間着には着替えていない。
　もうじき日付が変わる。
　零時を過ぎれば連休の一日目が終わる。
　せっかくの三連休がこんなカタチで始まるなんて、夢にも思わなかった。
「……まず……すごく眠い、わたし……」
　横になったとたん、目蓋が重くなっていく。
　もっと考えるべき事があるのに、わたしは急速に、浅い眠りに落ちていった。
　わたしは、部屋に閉じこもるのは危険だ、と思った。
　その根拠として―――
～選択肢Ｏ～
「はー、疲れたぁ」
　ぼすん、とベッドに腰を下ろす。
　槻司と話すのも気を遣うが、久遠寺さんとはまた違った意味で緊張する。
　あの<娘|こ>に見つめられると妙な罪悪感に襲われるのだ。
　痛くもない腹を探られているというか、自分がしでかしてきた多くの失敗を責め立てられているような。
　彼女本人にその気はまったくないらしいから、これはわたしの心の問題だろう。
　誰だって叩けばホコリは出る、というヤツである。
「蒼崎も静希も、よくあの娘と暮らせるもんだわ」
　そこは素直に尊敬する。
　蒼崎は鉄の精神力、かつ、後ろめたいものがないからだろう。
　静希の場合は逆で、久遠寺さんの視線の怖さにまったく気付いていないと見た。
「それはともかく」
　ばふん、とベッドに仰向けに寝ころぶ。
　窓ごしの空は曇天。
　天気予報によると、この三連休はぜんぶ晴れらしいけど、山の天気はそのかぎりではないらしい。
　久遠寺邸に集まった人間で、きちんと挨拶をしたのは今のところ六人。
　蒼崎、
久遠寺さん、
静希、
槻司、
<芳|バ><助|カ>、
山城先生、
ベオ。
　他にもゲストがいるような事を久遠寺さんは言っていた。
　この洋館では玄関で靴は脱がないので、靴の数で人数を特定する事はできない。
　館内に何人の人間がいるのか、いまいち定まらないのはそのせいだ。
　目蓋を閉じて、少しだけ眠る事にした。
　小刻みなアルバイト生活の<賜|たまもの>か、わたしは十五分単位での仮眠を得意としている。
　……。
　………………。
　………………………………。
　薄いまどろみの中、どこかで、悲鳴のような笑い声が聞こえた気がした。
　居間に置いておいた荷物を肩に担いで、二階の客室を目指す。
　蒼崎の話では二階の東館、手前から二つ目がわたしに宛がわれた部屋だそうだ。
「あら」
　廊下に出ると、蒼崎と出くわした。
　彼女は廊下の奥から、ホールに向かっていたところらしい。
「蒼崎も休憩？　あの突き当たりってアンタの部屋なの？」
「え、そ、そうだけど、別に部屋には寄ってないわよ？
　私はちょっとした探し物の途中だから、気にしないで。
　あ、客室の鍵は開いてるから。部屋の机の上に鍵があるから、出る時はそれで施錠してね」
　蒼崎は一階に下りていった。
　部屋には誰もいない。
　わたしは無人である事を確かめて、荷物を置き、サイフをポケットにいれた。
　お<守|まも>り<兼|けん>お気に入りである<×口|バツくち>兎のパスケースを携帯するかは迷ったが、どうせ中には定期と学祭での記念写真しか入っていないので、テーブルに置いておく。
　馴染みのない建物で過ごすのだ。体はできるだけ身軽の方が疲れない。
「鍵は……ああ、これね」
　<真鍮|しんちゅう>の鍵。この洋館に相応しい、古めかしくも凝ったデザインだった。
　今こそ、あの問題を追及しようと思った。
「それじゃあ各自、自分の部屋に―――」
「ちょっと待って。その前に確かめたい事がある。
　みんな、今日のゲストは何人か、分かってる？」
「何人かって、久遠寺いれて十三人だろ。
　それがどうかしたか？」
「それはリデルを入れての話？」
「―――なに？」
　槻司の目が見開かれる。
　リデルと顔見知りである槻司からすれば、リデルは参加していても違和感のないメンバーだ。
　けれど彼女とは疎遠なわたしからすれば、リデルの登場は不自然であり、予定外だった。
　彼女はあくまで乱入者であり、正式な招待客ではないからだ。
「そうか。リデルは招かれていない。ゲストとは数えないから、最終的な人数は十二人になる」
「どういう事か説明してくれる、久遠寺さん？」
「……そうね。わたしもうっかりしていたわ。招待状はわたしと青子、静希君で分けて出したの。
　最終的に九枚消費したとしか、わたしは聞いていなかったから。わたしとトッキィーはホストで、青子と静希君は知っていたから、合わせて十三人だって。
　ちなみに、わたしは
律架さんと
ベオに招待状を送ったわ」
「私は
詠梨と
唯架さん、
木乃美と
鳶丸」
「自分は
久万梨と、
最後に余ったのを
先生と、
とても名前を口に
できない人に一枚」
「なるほど、数は合っているわね。
　ところで草十郎、<叱|しか>られる前に白状した方がいいわよ？
　もうなんとなく分かったけど、一体誰に、招待状を、送りやがったの？」
「……いや、だって。仲間はずれは良くないじゃないか」
「橙子ね。橙子を呼びつけたのはアンタだったのね！」
　蒼崎は静希の襟元を掴んで、頭をガクガクと揺らす。
「二人……リデルが、二人……」
「橙子さんに招待状を送った……しかし、彼女は今、三咲町には立ち入れない筈ですが」
「ん？　呪いならトーコさん、とっくにクリアしたって言ってたよ？　ハッソウのテンカンだ、とか言って。なんでも、肉体にかかった呪いがとけないなら、その肉体を使わなければいい、とかなんとか」
「どんな理屈よそれ。
　……相変わらずネジとんでるわね、姉貴」
「……ともかく、橙子さんに招待状が送られてしまった以上、彼女がここに来ている可能性があるのね」
「そう。そこで思い出してほしいのが、電話線がなくなってた時の玄関。
　あの時、玄関の床には水滴がついていた。
　わたしたちは雨が降り出してから一度も外に出ていない。
　だから事件の直前にやってきたリデルの足跡かと思ってたけど、彼女、まったく雨に濡れていなかった。
　つまり、」
「あの雨の跡はリデルさん以外の、何者かが洋館に入ってきたという証拠……という事ね？
　あの時、玄関には土桔さんと山城先生以外のみんながいたから―――」
「姿のない参加者。
　十三人目のゲストがいる、という事ですね」
　状況はここにきて一変した。
　蒼崎にお姉さんがいる、というのは初耳だけど、ここは追及している場合じゃない。
　みんなの緊迫した空気からすると、そのお姉さんとやらはここにいる全員に敵意を持っているらしい。
「蒼崎橙子ですか。彼女なら、たしかにプロイに精通し、久遠寺の屋敷の見取りも把握しています。
　なにより私たち―――とくに青子さんに強力な殺意がある。今まで見えてこなかった動機の面でも、最有力候補ですね」
「ですね。橙子さんが犯人だとしたら、部屋に閉じこもるのは得策ではありません。何をやっても力ずくで侵入してくるでしょう」
「うん、トコちゃんならやるわ。だってホラー大好きだもの！　……うーん。ここにきて展開がホラーになるのは残念だけど、まずは安全を確保しないとね」
「皆さん、手分けして洋館内を調査しましょう。橙子さんがいるのかいないのか、そこをハッキリさせなくては」
「え？　あ、うん、そうよね。
　……じゃ、じゃあ私は、自分の部屋周辺を調べるわ」
「わたしは西館と、念のため地下室に。
　久万梨さんたちは危険だから、ここで待っていて」
　そんな訳で、ドタバタと慌ただしく居間を後にしていく人々。
　わたしと槻司、静希、律架さんを残して、みんな館内の探索に出払ってしまった。
　……時間だけが過ぎていく。
　緊張と疲れからか、目蓋がやや重い。
　時計の針が零時を示す。
「紅茶でも淹れてくるか。草十郎、お茶はどこで？」
「それならサンルームのテーブルに、まだ温かいポットがあるよ」
「よし。取ってくる」
　気分転換のつもりなんだろう。
　槻司は自発的にサンルームに向かった。
「お？」
　また電気が落ちた。
「まいったな、これじゃ何も見え―――」
　まばゆい閃光。
　サンルームの窓ガラス越しに、
　外の落雷の様子、が―――
「きゃーーーーー！」
「槻司くん、下がって！　早く！」
「な、なんだ今の、誰かいたぞ！？」
「三人とも、こっち！　ホールに移動しましょう！」
　律架さんに手を引かれて、暗闇の居間を後にする。
　落雷による目の錯覚―――にしては、人影は明白すぎた。
　この強風の中、屋敷の外に誰かがいる。
　それはどう考えても、正体不明の“十三人目”の実在を示していた。
　逃げるようにホールに駆け込んだ。
　壁の電灯は別電源らしく、完全に闇に没していない。
「クマ？　どうしたのよ、血相変えちゃって」
「そ、外、外に誰かいた！」
「ちょっと見てくる。草十郎、鳶丸、<金鹿|こじか>をお願い」
　蒼崎は居間に通じる<廊下|やみ>へと小走りで消えていった。
　騒ぎを聞きつけたのか、二階からは詠梨神父、シスター唯架、一階の西館からは久遠寺さんがやってきた。
「屋敷の電源がまた落ちたようですが、何かあったのですか？」
「それが、サンルームの外に人影っぽいものが見えて、つい逃げてきちゃった。いまはアコちゃんが様子を見に行ってるわ」
　状況を説明していると、すぐに蒼崎が戻ってきた。
「とりあえず異状なし。サンルームの窓も割れてないし、誰かが中に入ってきた様子はないわ」
「こちらも異状はありませんでした。館内に橙子さんはいないようです。そうなると……」
「先ほどの、外に人影を見た、という件ですね。館内に異常がないのなら、あとは屋敷の周りだけです」
「分かりました、外を調べに行きましょう。
　まずはサンルームのあたりですね。危険ですから、調べに行くのは私とシスター唯架……それと青子、頼めますか？」
「……エイリ神父。この風では、私はあまりお役に立てないかと。耳が利きません」
「そうでしたね。
　しかし、私はともかく青子をひとりにするのは……」
「気にしないで、私はひとりで身を守れるから。
　詠梨の方こそ大丈夫？　今日、武装してないんでしょ？」
「それでしたら……草十郎君、お願いできますか？
　彼なら互いの呼吸を心得ていますので」
　詠梨神父の申し出に、静希は深刻な顔で頷いた。
　わたしは―――
～選択肢Ｐ～
　わたしは、蒼崎をひとりにするのは危険だ、と思った。
「待って蒼崎。わたしも行く」
「！？　な、なに言ってんのよクマ、外は危ないんだってば。いいからクマは鳶丸とロビーで待機していてよ」
「危ないのはアンタも同じでしょ。友人として、ひとりで出歩かせることはできないわ」
　こう言えば蒼崎は断れない。
　わたしが同行を申し出たのは、彼女の身を案じて……もあるけど、もうひとつ、見過ごせない理由があるからだ。
　残ったメンバーの中で不審な点が多いのは、トップクラスで蒼崎だ。
　彼女をひとりで行動させるのは、いろいろと良くない。
　彼女が真犯人……スイーツハーツとやらならわたしたちの命が危ないし、そうでないなら、後々彼女が疑われてしまう。
　外は見るからに危険だし、
　槻司と番をしている未来にも未練はあるけど、
　ここで自分可愛さで黙っていられるほど、蒼崎との高校生活は軽くはなかったのだ。
「……オッケー、了解。
　でも、ぜったいに私のそばから離れないでね。
　それでいいでしょ、詠梨？」
「ええ、実のところ、私も青子にひとり付けたかったのです。久万梨さんなら適任でしょう」
　詠梨神父も同じ考えらしい。
　……彼、冷酷なイメージがあったけど、ホントは人一倍蒼崎を心配しているんじゃないだろうか？
「鳶丸、唯架さんと有珠をよろしくね。二十分捜して何も見つからなかったら戻ってくるから。
　詠梨、外にでたら右手側からぐるっと一周してきて。私は左手側から見ていくから」
「賢明です。行きますよ、草十郎君」
「草十郎」
「心配はこっちじゃなく久万梨に。
　久万梨、枝が飛んでくるかもしれないから頭を低くしておくんだぞ。蒼崎はこういう時にかぎって不思議な効果を発揮するから、そうなったらフォローしてやってくれ」
「どういう意味よそれ」
　静希の忠告にうなずいて、わたしは蒼崎と一緒に外に出た。
「っ……！」
　外の嵐は予想以上だった。
　風が強くてまともに目を開けていられない。
「<金鹿|こじか>、手！」
　前を行く蒼崎が左手を出してくる。
　わたしはしっかり握り返す。蒼崎の手は、ゾッとするほど冷たかった。
　屋敷の側面に回ったあたりで、蒼崎の足が止まった。
「クマー！　今、なにか光らなかった！？」
「なにがーーー！？」
　とてもじゃないが目を開けていられない。
　蒼崎はちょっとだけ思案した後、
「このまま屋敷の壁づたいに玄関まで戻ってて！
　さっきの光、間違いなくアイツだ……！」
「え!?　ダ、ダメだってば蒼崎、ひとりになんな―――！」
　わたしの制止の声も届かない。
　蒼崎は屋敷とは反対の、深い森へと走っていってしまった。
「壁づたいに戻れって……そもそも屋敷まで戻れないわよ、バカーーー！」
　ヤケになって叫ぶ。
　と、わたしの声が聞こえたのか、
「え、なにーーー！？　なにか言ったクマーーーー！？」
　森からは蒼崎の声が返ってきた。
「だーかーらー、わたしひとりじゃまっすぐ屋敷まで戻れ、」
「後ろ、すぐ後ろが屋敷だってば！
　ちゃんと振り返れば―――ぶっ、あははははははは！」
　へ？
「し、しまったーーーー！
　そんなネタで釣られた、クマーーーー！？」
　と。蒼崎と思わしき体が、タン、と踊るように横に飛んだ。まるで横から猟銃に撃たれたような挙動。
　蒼崎はそのまま地面に倒れ、ぴくりとも動かない。
　わたし、は
　蒼崎がわたしを―――いや、わたしがいる方向を見て爆笑した事を、正しく理解した。
　背後には。
　雨音に紛れて、忍び寄ってくる足音が。
「―――！」
　振り返ることも、迷う余裕もなかった。
　わたしは全力で走り出す。
　背後に忍び寄った人影から逃げるために。
　背後にあった屋敷から正反対の、暗い暗い嵐の森に。
「はっ、はっ、はっ、はっ―――！」
　息をあげて走る。
　体育の授業でも見せたことのない全力疾走。
　なんだ、わたしも結構走れるじゃん。
　やっぱり人間、死ぬ気になれば最低でも人並みの運動神経は発揮できるんだ、とにやついたりする。
　その脳天気に現実逃避のツケが、
「え？」
　突然の浮遊感。
　わたしの足は、地面ではなく、何もない中空を蹴っていた。
「あ―――れ」
　背中から落ちたらしい。
　呼吸をすると背中が痛む。
　やばい、と思って背中に指をあてると、ぬるり、と液体らしきものの感触があった。
　……しげしげと眺める。
　言いたくないけど、<苺|いちご>みたいに<真|ま>っ<赤|か>っ<赤|か>。
　舐めてみると、やっぱりかすかな鉄の味。
　出血量は一リットル超えで、いまもまだ増量中。
「……信じ、らんない……」
　どうしようもない事実に、喉をあえがせる。
“何者か”が近寄ってくる。
　けどわたしにはもうどうでもいい事だ。
　このまま意識を失って永遠に目覚めないか、
　正体不明の殺人鬼に捕まるか。
　どちらにせよ、もう、
　わたしの夜は、ここで、おしまいという事らしい―――
　ここは館内で、三人の帰りを待つべきだと思った。
「それじゃ行ってくる。二十分捜して何も見つからなかったら戻りましょう」
「賢明です。行きますよ、草十郎君」
　普段は詠梨神父の近くに寄らない静希だけど、今夜はさすがに特別みたいだ。
　ぴったりと横に張り付いて、背中を守るように走っていった。
　……待つだけの時間が過ぎていく。
　屋敷の電気はまだ回復しない。
「もう今夜中の復旧はないみたい。
　客室の配線は別系統だから、まだ電源が生きていればいいけど」
　久遠寺邸の客室は後から造られたものらしい。
　古くからある箇所……居間や廊下、西館は完全に闇に没したようだ。
「待て。ベオはどこにいった？」
「！　そういえば何処にもいないけど……」
「わたしが捜してくる。みんなはここにいて。いい、決して唯架ちゃんから離れちゃダメよ」
「姉さん」
「大丈夫よ、信頼して。これでも闇夜には慣れてるわ」
　律架さんは屋敷の二階へと消えていった。
　わたしは、
～選択肢Ｑ～
　不謹慎だけど、ホラー映画ならまっさきに死ぬパターンだ、と思った。
　……そういえば。
　あの人も蒼崎同様、土桔氏と山城先生、その両名を殺害できる“不在時間”を持つ人だった、と思った。
　二十分が経過して、まず蒼崎が戻ってきた。
　蒼崎は雨ガッパを脱いで、バスタオルで体を拭いている。
「いや、ひどい嵐だわ、こりゃ。
　もう風っていうより壁？　周りの木が飛んでいってないのが不思議なくらい。……まあ、プロイの仕業なんだから、それぐらいアリなんだろうけど」
　蒼崎は洋館を出て、左手方向からぐるりと洋館を回ってきたらしい。
　サンルームの前には何もなかったそうだ。
「それより詠梨と草十郎は？」
「……途中ですれ違わなかったのですか？」
「ぜんぜん。外に出る時、森の方が気になる、とか言ってたけど……
まさかあの二人、この嵐の中で森に入ったんじゃ……」
　不安げに顔を合わせる蒼崎とシスター唯架。
　そこへ、
「…………」
　沈んだ顔で、ずぶ濡れの静希が戻ってきた。
　詠梨神父の姿はない。
「……すまない。
　目を離した<隙|すき>に、詠梨神父がすごく面白いコトに」
　悲愴な顔つきなのに、台詞だけはあいかわらず空気を読まない静希だった。
「静希さん。まさか、エイリ神父が……？」
「……そのまさかみたいね。あの詠梨までやられるなんて……何者なのよ、一体……」
　ロビーは沈黙に包まれた。
　一緒にいながら神父を見失い、みすみす“犯人”の餌食にさせてしまった後悔で、静希は唇を噛みしめている。
「？　草十郎、その手に持ってるの、なんだ？」
　よく見れば、静希は手に二十センチほどの、もふもふしたものを持っていた。
「いや、館の東側……サンルームの前に落ちてたんだけど」
　そう言って静希が差し出したものは、金色の犬のぬいぐるみだった。額にはおかしな紋様が刻まれている。
「五人目の犠牲者ね」
「って、それベオ！？
　じゃあ、あいつがサンルームの前にいた人影！？」
「お……言われてみれば、たしかにベオだったな。
　あれ？　もしかしてアイツ、俺たちに助けを求めていたのか？」
　……そうなると、どうなる？
　ベオはサンルームの外で犯人を見て、
　何らかの手段で笑わされて、咄嗟に部屋の中にいるわたしたちに助けを求めた……？
　そんなベオから離れよう、と言いだしたのは律架さんだ。
　彼女は闇夜に慣れている、と言っていた。
　ならあの時、律架さんには人影が笑いを堪えようとしているベオだと分かっていたのではないか……？
「……ベオは何か見付けたのかもね。ひそかに一番頼りにしてたのに、痛手だわ。
　それで草十郎、詠梨はどのあたりでやられたの？」
「西側の森だ。
何か動くものがあるって森に入っていって、すぐに笑い声が聞こえてきた。
　その後、落雷のような悲鳴と、滝のような血が降ってきて……見上げてみたら……」
　ごくり、と全員が息を呑む。
　あの神父さんの死に様は、よほど悲惨なものだろうと覚悟して。
「見上げたら？」
「うん。木と木の間に、蜘蛛の巣みたいにロープが張り巡らされていて。
　その中心で、クネクネしたポーズで死んでた。
　なんか裸になって、
薔薇くわえて」
「あははははははははははは！」
「へ？」
　背後から響いた爆笑に、つい振り返る。
「―――あ」
　あっという間の出来事だった。
　静希からの報告を聞いた唯架さんは、一瞬で彫像になっていた。
「唯架さん、石化して死んだーーー！？」
「悲劇ね。なまじ耳で世界を捉える人だから、静希君の言葉をリアルにイメージできてしまったのよ」
「……俺は普段、この人と神父がどんだけ険悪なのか気になって仕方がないが、ともかくこれで七人だ。一気に減ったな」
　そう。不幸な事故だったけど、犯人にとっては一番厄介な人が、これで消えてしまった。
　時刻はじき午前一時になろうとしていた。
　私は、これで安心して眠れる、と思った。
　ひとりきりで部屋に戻る。
　犯人候補の蒼崎が幽閉されても油断は禁物。
　きっちりドアに鍵をかけて、
ベッドに横になる。
　後は朝を待つだけだ。
　色々あったけど、これでようやく安心して眠れる。
「…………ふう」
　神様、お願いします。
　目を覚ましたら、ちゃんと何もかも元通りになっていますように―――
「…………」
　小鳥の鳴き声で目を覚ました。
「朝……朝に、なってる……」
　時刻は五時半。
　外はうっすらと日が差し始めている。
　目覚めがいいのがわたしの数少ない取り柄なのに、疲れがたまっていたんだろう。
　ぼんやりとした頭のまま、姿見で洋服のシワを確認する。
　外は昨夜の嵐が嘘のように静かだ。
　物音も、人の気配も、話し声もしない朝。
　わたしは漠然と、ある予感を抱いたまま廊下に出た。
　静かだ。
　とても清潔な空気感。
　槻司の客室も清潔。
　詠梨神父用の客室も清潔。
　律架さんの客室も清潔。
「誰か、生きている人、いますかー？」
　西館に呼びかけても返事はない。
　ああ、やっぱり、予感の通り。
　いま、この屋敷は三咲町で一番、静かで綺麗で、終わっている。
　蒼崎を閉じこめた地下室に向かう。
　狭い階段を下りて、扉につきあたる。
　南京錠は外側から外されていた。
　狭い地下室には、うつぶせで倒れた死体が一つ。
　彩度の高い、どこか日本人離れした長髪は、間違いなく蒼崎のものだ。
　完全に呼吸は止まっている。
　蒼崎は犯人ではなかった。
　彼女が何時殺されたのかは定かではない。
　けれど、鍵をあけ、蒼崎を笑わせた犯人は、なに食わぬ顔で地上に戻り、そして―――
　わたしの逃げ場を塞いで、目の前に現れようとしていた。
　ソレはわたしが地下室に入るまで、どこかに隠れていたのだろう。
　地下室の階段は一本道だ。
　わたしが下りた後、後ろから下りればわたしを袋小路に追い詰められる。
「……まあ、もうどうでもいっか」
　この状況は、もう手詰まりだ。
　ゲームは真犯人の勝ち。
　わたしは何を間違えていたのかをぼんやりと考えながら、破滅の足音に耳をかたむけた―――
　わたしは、本当にそうだろうか、と思った。
「これでやっと眠れるわ。
　それじゃあみんな、おやすみなさい」
　律架さんは西館の二階に消えていった。
「……わたしも休ませてもらうわ。
　静希君は詠梨神父にあてがっていた部屋を使って。夜があけるまで、静希君の部屋は使えないから」
「あ、そうだった。ありがとう有珠」
　久遠寺さんと静希もそれぞれの部屋に戻っていった。
「…………」
「…………」
　あとはわたしたちだけだ。
　わたしは意を決して槻司の顔を見上げて、
「久万梨。話、ちょっとだけいいか？」
「槻司、少しだけ話さない？」
　お互い同じ気持ちであったコトに、ちょっとだけ笑いあったりするのだった。
　しかし、改めて考えると、とんでもないコトになった。
　時刻は草木も眠る丑三つ時。
　締め切った雨戸の外は、この世の終わりのような嵐。
　笑ったら死ぬ、なんておかしな世界で、わたしは、三年間それとなく意識していた男子と個室にいるのである。
「お茶を淹れられるな、ここ。久万梨は紅茶でいいか？」
「コーヒー。すごく苦いの。砂糖いれないで」
「そりゃ剛気だ。甘みは必要ねえってか」
　槻司の悪態は、嫌味のようでいて、そうでない。
「話って、人物Ａのコト？」
「おう。まだ解決とは言えないからな。久万梨だって蒼崎が１００パーセント<星|ほし>だと思ってねえだろ？」
　コーヒーカップを受け取って、口をつけながら頷く。
　ま、そりゃそうよね。
　こういう話よね、わたしたち。
「蒼崎が該当するのは確かだけど。それを言うなら律架さんも静希もだしね。
　信頼できるのは久遠寺さんと、事件が起きてからずっと一緒にいたわたしたちぐらいじゃない？」
「ん？　久遠寺は信用できねえだろ。
　アイツ、基本的にプロイとやらの味方じゃねえか」
「そうなの？　たしかにずっと中立っぽい態度だったけど、根拠は？」
「犯人捜しをする気がないっていうのと……そうだな、
勘で申し訳ないんだが、人物Ａとやらに肩入れしている気がする」
「そりゃそうでしょ、プロイって久遠寺さんの持ち物なんだし、もう人物Ａはプロイが化けてるんだし。だから中立だったんじゃない？」
「いや、そっちじゃない。いま動いているプロイにじゃなくて、使ったヤツに対してだよ。
　だってアイツ、怒ってなかっただろ。自分の持ち物が勝手に使われたっていうのに」
「あ」
　なるほど、と納得した。
　じゃあ、久遠寺さんは犯人を知っていたのだろうか？
「知らないとは思うぜ。だが、あえて口にしていない事はあるだろうな。
　たとえばスイーツハーツとやらの詳しい特徴だ。リデルの口ぶりからすると、使う人間にはある種の特徴がありそうだった」
「スイーツハーツは誰にでも使えるもんじゃねえと思う。
　ほら、妖刀とか名刀とかで、持ち物が持ち主を選ぶって言うじゃねえか。あんな感じでな」
　……持ち物が使用者を選ぶ……？
　では、その条件とやらが久遠寺さん的には応援―――いや、共感できるものだったとか？
「しっかし。今さらだけどな、久万梨、俺とコンビで良かったのか？」
　突然の、とんでもない質問。
　わたしは努めてクールに返答した。
「それはいい。わたし、槻司のこと信頼してるし」
「いやあ、この場合まずいだろ、それ。
今夜にかぎっちゃ信頼している奴ほど危ねえじゃねえか」
「……そうね。疑ってかかるぐらいがちょうどいい」
「そういうコト。この事件で一番信用しちゃあならねえのは自分だ。だから常に、客観的に監視している相棒がいないと無実が証明できない。
　リデルのヤツが二人一組で行動しようって言いだしたのは、そのあたりも含めてだろうよ。二心同体、スイーツハーツとは良く言ったもんだ」
　リデルの話はともかくとして。
「じゃあ槻司は、誰が一番怪しいと思ってる？」
「全員平等だぜ。怪しいってんなら、俺はまだ土桔の爺さんの死体が本物かどうかさえ保留してるしな。
　蒼崎が自分の部屋を隠していた事も、ありゃ真犯人にうまく<嵌|は>められたんじゃないかって思ってる。一番の強敵を、真っ先に封じにきた結果かもしれん」
「蒼崎が嵌められた？」
「ああ。事実上、あの行動力の固まりみたいな女が、自分の部屋を隠す事で手一杯だっただろ。
　それに妙なコト言ってたじゃねえか。蒼崎の姉貴がいつああなったか、
久万梨はどう思う？」
　……わたしは、
～選択肢Ｓ～
　ぼんやりと、脳裏によぎった雑感にひたる。
「久万梨くーん？　何しているんですか、行きますよー」
「あ、はい、すぐ行きます」
　わたしは荷物をまとめ直して、いつの間にか先行していたふたりを追いかけた。
　蒼崎は山城先生と口論しながら林道を歩いていく。
　遅れないよう彼女の後を追う。
　ふと空を仰ぐと、あれだけ晴れていた空模様は崩れ始めていた。
「あれ。今日の天気予報、どうだったっけ」
　今にも泣き出しそうな空。
　この分では、下手をすると帰りは雨になるんじゃないだろうな、とわたしは思った。
　林道を抜けると視界が開けた。
　くり抜かれた空の下、時代錯誤な建物がある。
「おや、これはまた立派な洋館だ。幽霊屋敷なんて誰が言いだしたんだろうね。<誹謗|ひぼう><中傷|ちゅうしょう>もいいところだ」
「そうでもないですよ。火のないところに煙は立たないって言葉、ここにかぎっては本当ですから。お化けが出たぐらいで騒がないでくださいね、山城センセ」
「ははは。蒼崎くんがそんな冗談を口にするなんて、僕らとしてはそっちの方が怖いな」
　蒼崎の忠告を、山城先生はどこまで真剣に受けとめているのだろう。
　しかし。三年程度の付き合いとはいえ、彼女が<あ|・><の|・><顔|・>で冗談を言った記憶はない。
「蒼崎。今の話、本当？」
「お化けが出るかは別にして、不思議な事なら起こらない事もないわ。
大丈夫、おかしなものを見てもスルーすれば害はないから」
「――――――」
　山城先生の意見に賛成する。
　幽霊を見ても無視すればＯＫ、という蒼崎の性格がいちばん怖い。
　久遠寺邸のロビーは冷えきっていた。
　山中なので街より気温が低い……といっても、限度というものがある。
　ここではもう、冬が到来しているような寒さだった。
「中も驚きですねぇ。外見から典型的なチューダー式かと思いましたが、ロビーの造りはロマネスク建築に近い。
　隣の通路とロビーとでも大きく年代が違いますね。まるでここだけ違う建物から持ってきた……おや？」
「うえー？　不思議ぃー、山城がいるよー？」
　聞き飽きたバカっぽい声に振り向くと、ロビーにはバカがいた。
「お、<金鹿|こじか>も一緒じゃーん。
　そっか、会長ったら朝からいないと思ったら、ふたりを迎えに行ってたんだな！」
「ちょっと。なんで<芳助|ほうすけ>がいんのよ」
「草十郎が声をかけたんでしょ。アイツ、今日はみんなを喜ばせる、とかはりきってたから。
　ま、適切なチョイスじゃないけど、最悪ってワケでもないんじゃない？　<木|き><乃|の><美|み>君、とにかく騒がしいし」
「おお、まっかせとけ！　ご期待に添うよう、今日は大量に新ネタ仕込んできたからね！　怪談もモノマネ芸も、そう簡単には品切れにはならねーぜ！」
「騒がしいだけならガチョウでも代用は利くでしょうに。
　静希の考えって、ほんっと分かんない。
　芳助、バカっとしてないで荷物、持ってよ」
「そこはボケだよね！　ボケって言うんだよね、フツー！」
　芳助の軽口を無視して、着替えの入ったボストンバッグを床に置く。
「中身、見ないでよね」
「頼まれたって見ないっショ。金鹿の色気のない着替えとかもうノーサンクス／ノーフューチャー／ノータックス。
　……や、にしても重いな。体に似合わず重装備じゃねえか、オイ」
　芳助はわたしの荷物を担いで、ロビーの東側の通路に向かおうとする。
　重いのは当然だ。万が一の時に備えて、中華鍋と中華包丁、米と金豚チャーシューが入っているんだから。
「あっちが居間よ。基本、パーティー会場はこっちだから。
　それと、有珠の気遣いで客室も用意されているから、疲れたらそっちに移動して。着替えとかは客室で済ませちゃってね」
　そうか。
　それじゃあ、わたしは―――
～選択肢Ｂ～
「あら」
　廊下に出ると、蒼崎と出くわした。
　彼女は廊下の奥から、ホールに向かっていたところらしい。
「蒼崎も休憩？　あの突き当たりってアンタの部屋なの？」
「え、そ、そうだけど、別に部屋には寄ってないわよ？
　私はちょっとした探し物の途中だから、気にしないで」
　蒼崎は一階に下りていった。
　鍵を開けて部屋に入る。
　部屋には誰もおらず、荷物が荒らされた痕跡はない。
　わたしは、蒼崎橙子は一番はじめの犠牲者だ、と思った。
「ああ、そう考えないと蒼崎の行動はおかしい。
　蒼崎は午前中は街で買い物をしていた。蒼崎姉はあいつが部屋を留守にしている間……久万梨たちを連れて一息ついて、部屋に戻るまでの間に殺されたと見るべきだろう」
「１５時半頃、わたし、二階廊下で蒼崎とすれ違ったけど……
あの時、東館の奥、蒼崎の部屋は演歌地獄になってた訳ね」
　わたしは、蒼崎橙子が死亡したのは１６時から１８時の間なのかもしれない、と思った。
　わたしは、蒼崎橙子が死亡したのは１８時から２０時の間なのかもしれない、と思った。
　わたしは、蒼崎橙子が死亡したのは２０時から２２時の間なのかもしれない、と思った。
　わたしは、蒼崎橙子が死亡したのは２２時から０時の間なのかもしれない、と思った。
「ま、断定できない以上、<憶測|おくそく>は憶測でしかねえけどな。
　それよりだ、久万梨。ネックは<何時|いつ>殺したか、じゃなく、どうやって殺したか、だと思わねえか？」
「山城にしろ詠梨神父にしろ、あの鉄仮面たちを笑わせられるのはよっぽどのセンスだ。
　殺害可能時間は平等にあっても、そのセンスだけは限られる。この点で言えば、まあ、草十郎やらベオやら木乃美やらは除外される」
　槻司はさも興味深そうに、今まで検討されてこなかった問題点を挙げた。
　たしかにそれは盲点だった。
　笑いが滑るだけの芳助、まだジョークを理解していないベオには難易度が高すぎる。
　静希に至っては『冗談のセンスがない』とみんなにダメだしされるほどのボケ体質だし。
　問題点を語りあっているうちに、時間は午前三時になろうとしていた。
「ふあ……」
　気が緩んだ訳ではないけど、さすがに眠気が襲ってくる。
　こんな一日を経験したら、誰だってそろそろエネルギー切れだ。
「夜更かししすぎたな。そろそろ眠り時だが、どうする？　念には念だ、オレもそこのソファーで眠るってのもアリだが」
　蒼崎に化けたスイーツハーツ、あるいは他の人物Ａに化けたスイーツハーツの侵入を警戒しての意見だろう。
　わた、わたしは、
～選択肢Ｔ～
　鍵をかければ安全だし、それは色々まずい、と思った。
「いい。ここまできたらあと少しだし。
　だいたい、全員を疑えって言ったの、槻司じゃん」
「そうだったな。俺も容疑者の一人だった。
　さすが久万梨、余計な心配だったぜ」
　それじゃあな、と槻司はドアに向かう。
　わたしは何か言おうとして、
「か、関係ないけど。
　ひどい一日だったのに、槻司はなんか、満足そうね」
　なんだそれ。
　我がコトながら、とことん可愛げのない女。
「何人も死んで、自分も殺されかけた一日、か。確かにひでぇ一日だった」
　でも槻司は真面目に考えてくれて、
「けどまあ、なんだかんだと楽しかったからな。
　久万梨もそうじゃなかったのか？」
　わたしの不安を笑い飛ばすように、お気楽な言葉を返した。
「意外。槻司はこういうの、鼻で笑うかと思った」
「そりゃ見込み違いだったな。こういうバカ騒ぎ好きなんだよ、俺。ふざけた人生を送りたいんでな」
「なにそれ。げーん、めーつ」
　本気で言いつつ、わたしはコイツを好きだと気付いた原因、はじめのとっかかりを思い出した。
　槻司は本当に、すごい人なのだ。
　なのにその能力を無駄にしている。
　彼にはどうしてか名誉欲というか、上昇志向がないのだ。
　まさに人的資源の無駄遣い。
　わたしはそういうのが我慢できない性格で、とにかくコイツを、相応しい場に蹴り出したくて、いつのまにか日々観察していたんだっけ。
「……こっちも今さらだけど。
　槻司、わりと人付き合い悪いじゃない。なのにどうして、わたしとは普通に話すの？」
「ん？
　そりゃあおまえさん、親にも教師にも頼らず、六年間ひとりで戦ってきたヤツには敬意を<表|ひょう>すだろ？」
「――――――」
「じゃあな。朝になったらロビーで会おうぜ」
　そうして、部屋はとたんに静かになった。
　わたしはなんでか、胸がいっぱいになりながら、
“なんだかんだと―――”
“久万梨もそうじゃなかったのか？”
　さっきの槻司の言葉を思い返す。
　……うん、そっか。
　わたしも、やっぱり楽しかったんだ。
「…………」
　小鳥の鳴き声で目を覚ました。
「朝……朝に、なってる……」
　時刻は五時半。
　外はうっすらと日が差し始めている。
　目覚めがいいのがわたしの数少ない取り柄なのに、疲れがたまっていたんだろう。
　ぼんやりとした頭のまま、姿見で洋服のシワを確認する。
　まだ全身に血が巡っていない。
　お茶を淹れるのも億劫で、わたしはノソノソとテーブルに置いたお財布とパスケースを手に取る。
　パスケースには定期と、記念写真が入っている。
　今年の学園祭で、蒼崎が失態をかましたレアな一枚だ。
　ジュースと間違えてシャンパンを飲んだのか、
　誰かがモンブランの隠し味であるアルコール量を間違えたのか。
　とにかく、目を離した隙に蒼崎はとんでもない上機嫌になっていて、“私もあの服きるー！”と暴れてしまった。
　この一枚はその名場面を使い捨てカメラで撮ったものだ。
　あまりにも面白いので、こうしてパスケースに収めている。
　気分が沈みがちになった時、この愛らしく、普段の蒼崎を知っている人間からするとあり得ない写真を見ると励まされるのである。
　おもに笑い方面で。
「―――あれ？」
　なにか、いま。
　ものすごく、いまになって言わないでほしい、レベルの事を提示しなかった、わたし？
「そうだ―――みんなは？」
　わたしはボストンバッグをあさり、万が一の時に役に立つものはないか、と物色する。
　<炒飯|チャーハン>を作ろうと持ってきた荷物が役に立った。
　愛用の中華鍋と中華包丁、どちらにするか迷ったけど、ここは鍋を選んだ。
　廊下に出る。
　客室よりふたまわり冷たい空気。
　洋館は静まり返っていた。
　何の音も、何の気配もない。
　昨夜の嵐が嘘のようだ。
　槻司の客室には誰もいなかった。
　詠梨神父用の客室に静希の姿はなかった。
　律架さんの客室には誰もいなかった。
「久遠寺さーん」
　西館に呼びかけても返事はない。
　誰も　いない。
　蒼崎を閉じこめた地下室に向かう。
　狭い階段を下りて、扉につきあたる。
　南京錠は外側から外されていた。
「―――蒼崎？」
　わたしはある種の覚悟をして、扉を開ける。
　狭い地下室には、うつぶせで倒れた死体がひとつ。
　彩度の高い、どこか日本人離れした長髪は、間違いなく蒼崎のものだ。
　呼吸は完全に止まっている。
　彼女は倒れたまま、左手で床に文字を残していた。
　血文字のダイイング・メッセージ。
　床には、怨念のこもった文字で、
『やっぱりっていうな』
「やっぱり……」
　蒼崎は犯人ではなかったのだ。
　彼女が<何|い><時|つ>殺されたのかは定かではない。
　けれど、鍵をあけ、蒼崎を笑わせた犯人は、なに食わぬ顔で地上に戻り、そして―――
「はっ、はっ、は……！」
　千々に乱れる呼吸と思考を、必死に押さえつける。
　全員死んだ。
　全員死んだ。
　おそらく、犯人とわたし以外は全員死んだ。
　夜は明けたのに？
　いや、まだ太陽は昇りきっていない。
　朝を迎えるのが条件なら、まだゲームは終わっていない。
　なら逃げるか、犯人を特定しなければ。
　このままだと『クリア』にならない。
　蒼崎たちは死んだまま、もう二度と戻らない。
　わたしは、
～選択肢Ｕ～
　そ、そういうコトなら、仕方がない、と思った。
「そ、そうよね、万が一の時、便利だし。
　わたしはほら、兄貴が売るほどいるから、男子と一緒の部屋とか、たぶんなれてる、し」
「そりゃ頼もしい。んじゃ、ソファーを借りるぜ。
　いいかげん、俺も気を張り続けて疲れた。久万梨がいるなら、ちっとは安心して眠れる」
　じゃあな、と片手をあげて、槻司はあっさりと眠ってしまった。
　毛布にくるまって、ソファーにごろん、である。
「なにそれ」
　あまりの簡素さに、わたしもすっかり落ち着いてしまった。
　……まあ、この状況でドキドキするのもどうかと思うし。わたしだって疲れているし。
　寝間着はないし、そもそも着替える気もないし。
　わたしは洋服のまま、せめてポケットにしまっていたパスケースやら財布やらをテーブルにおいて身軽になって、ベッドに潜りこむ。
　槻司じゃないけど、目をつむったとたん、意識は闇に落ちていった。
　……深い深い眠り。
　どこか、すぐ近くで、誰かの笑い声を聞いた気がした。
　小鳥の鳴き声で目を覚ました。
「朝……朝に、なってる……」
　時刻は五時半。
　外はうっすらと日が差し始めている。
　目覚めがいいのがわたしの数少ない取り柄なのに、疲れがたまっていたんだろう。
　ぼんやりとした頭で部屋を見渡して、
「そうだ、槻司―――！」
　わたしは槻司と一緒の部屋にいるコトを思い出して、
「え？」
　そこにいる筈の人物が、いないコトにやっと気づいた。
　ソファーには誰もいない。
　あるのは槻司が着ていた洋服だけだ。
　洋服だけが、まるで標本のようにソファーに置かれている。
　小さくなって消えてしまったとか、氷のように溶けてしまったとか、とにかく、そんな感じ。
　跡形もなく消える、というのが、アイツの望む“死に方”みたい。
「……………槻司？」
　洋服に触れてみる。
　毛布とソファーに触れてみる。
　熱はとっくに冷め切っている。
　手があったと思われる位置には、わたしのパスケースが落ちている。
　わたしは漠然と、理解した。
　槻司は眠ってなんかいなかった。
　眠ったフリをして、わたしを安心させて、寝ずの番をしていてくれたのだ。
　これは密室殺人だ。
　でも凶器はハッキリしているし、わたしもようやく、誰が犯人なのか理解できた。
　わたしはパスケースを拾い上げて、空虚な気持ちで部屋を後にする。
　……ごめんね、槻司。
　あんなもの見ちゃったら、そりゃあ、蒼崎好きのアンタは大笑いしちゃうよね。
　静かだ。
　とても清潔な空気感。
　わたしの気持ちも、もう、笑ってしまうぐらい真っ白だ。
　槻司の客室も清潔。
　詠梨神父用の客室も清潔。
　律架さんの客室も清潔。
「誰か、生きている人、いますかー？」
　西館に呼びかけても返事はない。
　ああ、やっぱり、予感の通り。
　いま、この屋敷は三咲町で一番、静かで綺麗で、終わっている。
　蒼崎を閉じこめた地下室に向かう。
　狭い階段を下りて、扉につきあたる。
　南京錠は外側から外されていた。
　狭い地下室には、うつぶせで倒れた死体が一つ。
　彩度の高い、どこか日本人離れした長髪は、間違いなく蒼崎のものだ。
　完全に呼吸は止まっている。
　蒼崎は犯人ではなかった。
　彼女が何時殺されたのかは定かではない。
　けれど、鍵をあけ、蒼崎を笑わせた犯人は、なに食わぬ顔で地上に戻り、そして―――
　わたしの逃げ場を塞いで、目の前に現れようとしていた。
　ソレはわたしが地下室に入るまで、どこかに隠れていたのだろう。
　地下室の階段は一本道だ。
　わたしが下りた後、後ろから下りればわたしを袋小路に追い詰められる。
「……まあ、もうどうでもいっか」
　この状況は、もう手詰まりだ。
　ゲームは真犯人の勝ち。
　わたしは何を間違えていたのかをぼんやりと考えながら、破滅の足音に耳をかたむけた―――
　午前十二時、中央公園。
　わたしはコンビニで焼き増しを済ませ、手荷物になる使い捨てカメラをゴミ箱に投げ捨てた。
　空はご覧の通り、天高く<馬肥|うまこ>ゆる秋。
　あの物騒な夏が過ぎ去った<晴天|サニーデイ>。
　わたしこと<久|く><万|ま><梨|り><金鹿|こじか>は、せっかくの連休をおかしなイベントで消費しようとしていた。
「お待たせー！
　あれ、クマったら大荷物。なんでそんな大きなボストンバッグなんて持ってきたの？」
　あれからちょっと時間が過ぎて、午後一時。
　待ち合わせ場所に<蒼崎|あおざき><青子|あおこ>がやってきた。
　彼女はわたし、久万梨金鹿の同期生であり友人であり、生徒会の戦友でもある。
　蒼崎との付き合いは高校に入ってからだけど、不思議とそんな気はしない。十年来の付き合いのようだ。
　見ての通り、<明朗快活|めいろうかいかつ><即日払|そくじつばら>い。
　飲みもので喩えるなら清涼飲料、でも炭酸系。押してもダメなら押し倒せ系の女、とわたしは思っている。
「今日の<久遠寺|くおんじ>邸パーティーはこっちで色々用意してあるから、手ぶらでいいって招待状に書いてなかった？」
「なにそれ、聞いてない。
　……まったく、間違いだらけね。誕生日を祝うから連休はじめに来てほしい、各自料理持参、としか書かれていなかったわ」
「そうなの？　ごめんごめん、<有珠|ありす>ったらこういうの、まだ慣れていないから。朝イチで“やっぱり迎えに来て”って電話してきたのはそういうワケだったのね。
　まあ、それはそれとして。久万梨さん、
後ろのなんとも場違いに地味な方って、もしかしてお連れの方？」
「あれ、いやだなあ。このスーツ、昨日下ろしたばっかりなんだけど、おめかしして見えないかい？」
「コピーペーパーと見間違うほどいつも通りです、<山城|やましろ>先生。
　それで、今日はなんでしょう？
　教え子を尾行するとか、あと数年したら立派な犯罪になりますから自重してほしいんですけど」
　蒼崎は学校の外でも容赦がない。
　特に山城先生への当たりは遠慮がなさすぎて、もう兄妹なんじゃないかって思うぐらい。
「お、ストーキングってヤツだね。
そういうのは蒼崎くんの方が得意だと思うんだが。ああいや、あくまで個人的な感想だから聞き流して。
　ほら、怖い顔しないでこれを見て見て。
　今朝、僕のところにも招待状が送られていてね。見れば生徒会の役員が参加とある。生徒会顧問として、君たちの監督をしないといけないだろう？」
「―――――」
　山城先生の差しだした招待状は、わたしに送られたものと同じものだ。
　聞いていなかったのか、蒼崎は心底から驚いている。
　そこに演技の香りはしない。
「くっ、その字は<草十郎|そうじゅうろう>か……あいつがヘンに律儀な事、気をつけておくべきだった……」
「ははは、素晴らしい気遣いじゃないか！
　僕はね、蒼崎くん。<静希|しずき>くんはいつかたぶん、おそらく機会さえあれば<や|・><る|・>生徒だと思っていたんだ。
　それが、こんな楽しそうなイベントに
“蒼崎が何するか不安なのでカントクしに来てください”
　なんて書かれた招待状を送ってくるなんて、成長の度合い<著|いちじる>しい。驚くべき危機管理能力だ」
　観念したのか、蒼崎は力なくため息をついた。
　招待されている以上、山城先生を追い返す訳にもいかないのだろう。
　どんなに邪険にしていても、道理が通っているのなら無視はできない彼女である。
「仕方ない、コブつきだけど案内するわ。
　ふたりとも、久遠寺邸は初めて？」
「初めてです。地元の住人なら、白犬塚にはあまり近寄りませんからねぇ。今年の夏だって、ほら」
「わたしはそうでもないけど。
　そもそもこの山、このあたりの子供にしたらちょっとした聖地なんだし」
　聖地というのは言い過ぎだが、他に適切な表現がない。
　昔からこの丘には怪談がついてまわる。
　神隠しの化け犬坂。
　霧の深い日に踏み入ったら別人になって帰ってくるとか、逆に不思議な力を授かるとか。
　そんなうわさ話のせいか、たまに勇気ある小学生たちが肝試しとして山に挑んでいるのだ。
　森に入り、お化け屋敷のポストに触れてきた小学生は、以後、卒業まで一目置かれるコトになる。
　これを聖地と言わずなんと言おう。
「なるほど。蒼崎くんは二年半、この道を通学路に使っていたんだね。そりゃあ足も鍛えられるってもんだ」
　物珍しいのか、山城先生は楽しそうに眼下の街並みを眺めている。
　わたしも同じ気持ちになりたいところではあるが、立場上、そこまでお気楽な気持ちにはなれない。
　なぜなら、
「蒼崎くん、受験勉強ははかどってる？
　ま、君はきっちり自己管理できる子だから心配するまでもないんだけどね」
「言われなくてもきっちりやってます。
　山城先生のお手は煩わせません」
「ならいいけど。蒼崎くん、推薦けっちゃうんだもんなあ。そんなに地元の大学はいやかい？」
「いや、という訳ではありません。選択肢を狭めたくなかっただけです。私は結構ですから、助言なら久万梨さんにしてあげてください」
「いや、久万梨くんは鉄板でしょ？　もう<渠裸|ミゾラ>の推薦とっているんですから。ご両親も久万梨くん自身も、渠裸への進学を決めているワケですし」
「あ」
　口を滑らせた蒼崎に、わたしは無言で“このままスルーしろ”と合図を送る。
　さて、ここでわたしの経歴と、今日これからの事情を説明しよう。
　わたし、久万梨金鹿は高校三年生。
　来年の二月までは夢も希望もない受験生である。
　……と言いつつ、それは都心の大学を志望した子たちの話であって、わたしには関係ない。
　わたしは地元の大学に推薦をとっており、今の学力なら労せずして進学できるからだ。
　もともとわたしの両親はガッチガチの就職派で、地元の大学への進学すら否定的だった。
『おまえはうちの家業を手伝うんだから、大学に行く必要はない』
　頭が固くて、体が大きくて、山奥の熊みたいな<父親|オヤジ>の弁である。
　そんな時代錯誤で野蛮な父を、兄たちがこぞって説得してくれた。
『マッドダディ、金鹿にはまだ学生生活が必要だ。とくに体操競技とか。あん馬をやらずして何が青春か』
『ははは、だからおまえは長男なのだ。つり輪こそ至宝。あん馬とか軟弱すぎて話にならん』
『バッカじゃねえのダブル兄貴、カッチョイイのは鉄棒でしょやっぱ。縦回転のグルーブ感とか脳内麻薬ドッパドパ。ありゃハマッたら社会復帰とか難しいから』
『そして自慢したい。うちの妹、三咲で一番可愛いって自慢したい。クソいけすかねえスケート部の奴らとか、間違いなく俺たちに土下座するよね。妹さんをスケート部にくださいって！』
　正直、うんざりする兄貴どもである。
　あと、彼らが口にした体操競技はぜんぶ男性限定だから。
『な
ん
と
い
う
む
く
つ
け
き
兄
妹
愛。
おまえたちのような脳筋をこれ以上増やしたくないが、金鹿ならそんな悪夢は起きまい。
しゃあねえ、ミゾラ大なら俺も許す！　地元の大学だし、うちの常連さんも増えるだろうしな！
　ガハハハハ』
　兄四匹と父親一匹、がっしりとスクラムを組んでの結論だった。
　あれがわたしの家族だと思うと死にたくなるが、そんなのは小学校から慣れっこなのでぐっと耐えた。
　わたしは父の言いつけに従い、進学先を渠裸体育大に決めた。推薦はあっさり取れた。
　それで父は安心したが、わたしの逆襲はここからである。
　わたしは“あくまで滑り止めだから”と都心の大学を第二候補として書き留めた。
『先生への建前上、進路希望には三つまで志望校を書く必要があったの。カタチの上だけだから、受験代の用意はしなくていい』
　わたしの言葉に、父は完全に騙された。
　もちろん本命はその第二候補。
　そのために父に内緒でアルバイトをし続けた。
　入試代金と、合格した後の生活費を三年計画で貯めたのだ。授業料は大学側に借り受けることが前提だが、この計画なら有無を言わさず進学する事ができる。
　父は頑固で力ずくな性格だが、人の努力を無視できるほど悪人でもない。
　わたしが結果をだして、その後の資金すら貯めていたと知れば、しぶしぶ都心への上京を認めるだろう。
　ま、認めなくても上京するけど。
　ここまで計画は順調だ。
　わたしを止められるものは、入学試験当日に風邪を引いてしまうか、あるいは―――
　そう、あるいは―――その、
「そういえば、蒼崎くんは彼氏とかいないのかい？」
　絶句する蒼崎。
　このよく晴れた日、久遠寺邸でのパーティーというレアイベントに浮かれていたのだろう。
　山城先生は三咲高校最大の禁句を口にした。
　不思議なこと―――もとい、不思議でもなんでもないけど、蒼崎に彼氏はいない。
　黙っていれば誰もが認める美少女な蒼崎だけど、
基本状態が不機嫌なため、浮ついた話は一切ないのだ。
「山城先生、徹夜明けですか？」
「いや、だってほら、気になるでしょ。もうすぐ生徒会の役割から解放される訳ですしねぇ。蒼崎くんほどの子が青春を謳歌しないのは、教師として僕も心苦し、」
「お心遣いありがとうございます、山城センセ。
　でしたら今から付き合いましょうか、私たち？
　とりあえず、恋人同士らしくそこの暗がりに連れこんでいいですか？
　ええ、これからするコトとか、あまり人目につくとまずいので」
　にっこりと笑う蒼崎。
　間違いなく人殺しの目つきだった。
「―――ごめん、たしかに正気じゃなかった。だからその、明日にも僕から職を奪いそうな企みはやめてくれ。
　そ、そもそも受験生に恋はご法度だったしね！
　いや、健全でおおいに結構！」
　はははは、と軽やかに笑う山城先生。
「まったくです。くれぐれも口には気をつけてくださいね山城先生。これから行くところで、そんな浮ついた頭のヤツとかいませんから。ね、クマ」
「……そうね。
　パーティーといっても、あくまで誕生会って話だし」
　返答して、自分のハンパさに滅入ってしまう。
　わたしは蒼崎ほど男前でもないし、格好よくもない。
　だって今さら、わたしは自分の計画に迷ってしまっている。臆病になっている、と言っていい。
　ほんと、自分でも情けないと思うんだけど。
　わたしにはどうも、進学問題と同じ比重を持った男子生徒が、いるようなのだった。
「けど、よく久遠寺さんが承諾したわね。蒼崎の話じゃ、彼女の父親でさえ滅多に入れないんでしょう？」
「うん、それには私も驚いてる。人間、変われば変わるもんだってね。
“静希君のお友達なら、あがってもらって構わないけど”
　なんて台詞、有珠からでると思わなかったわ」
　白犬塚の山中にある門は、来訪者を拒むようにそびえ立っている。
　蒼崎は解錠の素振りもなく鉄扉を開ける。
　門は境界になっているのか、内と外では山林の様子が違って見えた。
　わたしは―――
～選択肢Ａ～
　わたしは、このまま朝まで逃げきるべきだ、と思った。
「あれ？」
　今、妙な食い違いがあったような。
　わたしの選択と、わたしの口が、微妙にニュアンスが違うことを言ったような。
「ううん、それどころじゃない！　早く逃げないと！」
　太陽が昇りきるまで逃げれば、このゲームはおしまいだ。
　わたしという生存者がいるかぎり、スイーツハーツの勝ちにはならない。
　嵐も止んだし、このまま町まで下りてしまえば何もかも元通りなんだ……！
「―――うそ」
　わたしは下に向かって駆け続けたのに、たどり着いたのは洋館の裏。
　ああ―――
　地面が歪んでいる。
　感覚が狂っている。
　世界は崩れている。
　わたしはきっと、何かを、間違えてしまっている。
　不意に、耳元で
　　　　　「み
な
ご
ろ
し、
お
め
で
と
う」
　一度も聞いたコトのない、世にも恐ろしい、
　近しい他人の声を聞いた―――
　わたしは、犯人を推理するべきだ、と思った。
「落ち着け。もう条件は揃ってる、はず」
　呼吸を整えながら、これまでの事を整理する。
　この<事件|ケース>では、動機も殺害方法も、犯人特定への切り札にはなり得なかった。
　確かなものは一つだけ。
　槻司は何度も言っていた。
“誰が殺したか”ではない。
“誰なら殺せるのか”を考えろ、と。
　第一の殺人。土桔氏の軟禁爆破殺人。
　これが不可能だったと断言できるのはわたし、
久遠寺さん、
槻司、
芳助、
詠梨神父、
唯架さん。
　第二の殺人。山城先生の豪華送別式殺人。
　不可能だったのは―――これは特定できない。
　かろうじて久遠寺さんぐらいだ。
　山城先生がいつ殺されたのかは不明だし、土桔氏の事件の後、みんなで手分けして家捜ししてしまったからだ。
　たった十分程度の時間で、犯行はほぼ不可能だけど、絶対にできなかった、とは断定できない。
　第三の殺人、芳助＆リデル。
　これはどうでもいい。
　第四の殺人、ベオ。
　不可能だったのは……蒼崎姉を捜しに行かなかったわたしと
槻司、
静希、
律架さん。
　第五の殺人は詠梨神父の空中耽美系首つり殺人。
　不可能だったのはロビーに残ったわたしと
槻司、
律架さん、
久遠寺さん。
　第六の殺人、唯架さん石化殺人。
　これもどうでもいい。
　第七の殺人、蒼崎姉・みちのくアルコール中毒殺人。
　時系列的には第一の事件では、と疑いがあるので、不可能だったのは―――
かろうじて、久遠寺さんぐらい。
　わたしが体験した殺人は以上だ。
　これは単純な消去法の問題。
　誰がみんなを笑わせて回った、姿なき殺人者なのか。
　わたしが指名する犯人は―――
～選択肢Ｖ～
　―――静希だ。
　あいつが一番、条件を満たしている。
　この洋館に精通していること。
　誕生会のホスト側だったので動き回っていても違和感はなかったこと。
　そして、何より―――
　あいつと久遠寺さんのアリバイ証言に、致命的な食い違いがあった事。
　朝は屋敷にいたと静希は言っていた。
　けれど久遠寺さんはこう言っていた。
“人手がなかったから、自分が施錠してまわる事になった”と。
　もともと、屋敷を施錠してまわる役目が彼女のものなら、あんな言い回しはしない筈だ。
　久遠寺さんは静希、あるいは蒼崎に施錠を頼む気だった。
　蒼崎は午前中は街にいた、と証言した。
　それは部屋を留守にして、結果的にお姉さんの侵入を許した事で証明できる。
　けれど静希は、洋館にいた、と嘘の供述をしたのだ。
「決め手がそれだけっていうのが、なんとも弱いけど……」
　他にもう一つか二つはある気がするけど、今は頭が働かない。
　早く、朝になる前に静希を見付けて、見付け―――
　後ろに。誰かが。立っている。気配が。
「アンタが
犯人ね静希ーーーー！」
「ごはっ！？」
　だっしゃあーーーーーー！
　振り向きざまに、<襲|おそ>われるより先に、手にした中華鍋をフルスイングするわたし。
　決まった。
　決まりすぎた。
　静希……一瞬だけ見えたけど、やっぱり静希だった……は倒れこみ、
床にはおかしなアイテムが転がった。
　アレは―――パーティーアイテムとしてそれなりに定番の、変装グッズ鼻メガネだ。
「そ、そんなんで笑わせるとか、アリ！？」
　あんなんで笑うのは箱入り娘の久遠寺さんと、なんだかんだと静希を買っている蒼崎ぐらいだろう。
　ともあれ、わたしは走りだした。
　犯人が分かった以上、このゲームはクリアされた。
　けど殴られ、見抜かれ、逆上した静希がいつ反撃してくるか分からない。
　わたしは急いでロビーから脱出する。
　外に出て森に入ればわたしの勝ち。
　逃げ回っているうちに朝になっているだろう……！
「え―――？」
　外は、まだ、暗い。
　どういうコト？
　どういうコト？
　どういうコトなんだ―――！？
「貴女―――よくも、やって、くれた、わね―――」
「へ？」
　ロビーからは恨みがましい女の声。
　女の声！？
　誰だアレ、静希なのに、静希じゃない……！？
「はっ、はっ、はっ、は―――！」
　走る。走る。走る。
　混乱しながら走る。
　転んで、立ち上がろうとして、それよりまず、考える方が先だと自分を叱咤した。
　わたしは間違えていた。
　まだゲームは続いている。
　このままだとスイーツハーツ完全勝利。
　犯人は静希だった。それは間違いない。
　だってそう口にした、わたしがまだ生きている。
　ルールを思い出せ。
　犯人を告訴しても、間違えていたら死ぬ。
　わたしは生きている以上、静希犯人説は正しい筈だ。
　間違えていないのなら―――きっと、<何|・><か|・><が|・><足|・><り|・><な|・><い|・><ん|・><だ|・>！
「さっきの犯人当て―――
　あれがヒントなのは間違いない……！　考えるんだ、順序だてて、そもそも何が原因なのか……！」
　足音が近づいてくる。
　朝が近づいている。
　これが正真正銘、最後のチャンス。
　わたしは、
～選択肢Ｗ～
「だめ、根拠が薄い……
　これで指摘したら、わたしがアウトだ……」
　犯人を特定できない。
　もう洋館にはわたしと真犯人しかいない。
　当てずっぽうで指名して、わたしが消えてしまったらすべてが終わってしまうのだ。
　そんなコトになるのなら、このまま逃げ切ってゲームクリアを目指した方がよっぽど現実、的だ―――？
「―――あなた、は―――」
　わたしの背後に忍び寄っていた影。
　そいつは朝の挨拶をするように「やあ」と手を挙げて、
「ワ
レ
ワ
レ
ハ　
宇
宙
人　
ダ」
「ぶっ……！」
　あまりにも原始的、かつ直接的な手段で、わたしの感性を揺らしやがった。
「静希……！　あ、あんたが犯人だったの……！？」
「ソウダ。
ワレワレハ　
ヤッタゼ　
ヤッタゼ」
「いや、その演技はいいから」
　手足のしびれを気合いで押さえ込んで、間抜けメガネにツッコミを入れる。
　確かにアレは凄い。
　ここに至ってＷＨＷへの疑問より、あのしゃべり方をやめさせる方を優先させるぐらいなんだから。
「――――
ワレワレハ　
火星人　
ダ」
「そういう話でもなくて。
いいからまじめに話せバカ。
　わたし、笑っちゃったからもうすぐ死ぬのよ。せめて最期に、どうしてこうなったのかをブチまけて」
「すまないが、それは説明できない。
　俺が話せるのは俺の事情だけだからだ」
「？」
　それはどういう意味だったのか。
　静希が話せるのは静希の理由だけ。
　それは、つまり―――静希の他に―――
「久万梨。君に分かるだろうか。
　一年間、ひたすら“冗談のセンスがない”と言われ続けた男の気持ちが。
　パーティーを盛り上げようと勇気を振り絞るたびに、お呼びじゃない、と突っ返される男の気持ちが」
「よし分かった、ブン殴る」
　もう真剣に考えたくもないが、コイツの動機は“冗談センスの証明”だった。
　あの鼻メガネの段階で証明は失敗しているが、とにかく、この男はそんな理由で真犯人に手を貸していたのだっ！
「でも、それで笑うのは蒼崎と久遠寺さんぐらいよ。
　そんな一発芸で笑う文明人が、他にいるハズがない」
「いや、でも、久万梨は」
「ほんっとにブン殴るわよ」
「ごめんなさい、なんでもないです」
「……あれでしょ。
　槻司たちを笑わせたのは、蒼崎の写真でしょ？」
「そうだ。あれこそ切り札だ。
　同時に、それは俺への報酬でもある」
　あの写真。蒼崎の痴態を撮ったアレなら、蒼崎を知っている男連中は笑ってしまう。
　とくに山城先生と槻司、詠梨神父にとってはガード不能の攻撃だったに違いない。
「つまり、犯人は―――」
　口にしようとした喉が、ざらりと崩れ去る。
　すべてはスイーツハーツの思惑通り。
　犯人である静希は最後まで残り、犯人当ては失敗し、わたしはここで真っ白になる。
　―――あともう一歩。
　あともう少しで元凶にたどり着いたのに。
　夕方からこっち、もっとまじめに、
　正しい推理を重ねていれば―――
　―――二つ。
　そうだ、二つなんだ、とわたしは思った。
　一つだと、ひとりだと考えるから無理が生じる。
　でも二つならどうだろう？
　まず殺人の種類。
　明確に、“犯人”によって笑わされた場合と、
　死体を見て笑ってしまった場合とに分かれる。
　芳助、リデル、唯架さんが“自爆”組だ。
　けどもうひとり、自爆組に含まれそうなヤツがいる。
　―――ベオだ。
　ベオはサンルームの外で笑ってしまい、死亡した。
　けどサンルームにはアイツが笑う要因なんて一つもない。
　周囲の森に何か仕掛けられていた、とも考えづらい。
　あの嵐の中、外にトラップをしかけるのは不確実だからだ。
　となると、やはり罠は室内に仕掛けられていた。
　サンルームにはない。
　じゃあサンルームの<上|・>、二階の部屋はどうだろう？
　サンルームの上は蒼崎の部屋。
　ベオは何者かに「外から蒼崎の部屋を調べてほしい」と頼まれたのではないか？
　そうして、ベオは外からあの部屋を見てしまった。
　蒼崎橙子がヘベレケになっている姿を。
　ベオは蒼崎姉を知っている素振りだった。
見知った人間のあんな姿を見たら、つい笑ってしまう公算が高い。
　トラップとしては優秀だ。
　なにしろベオが笑わなくても、「調べて欲しい」と言った人物に疑いはかからない。
　蒼崎に不審の目が向けられるターンが早まるだけなのだから。
「……殺害方法は二種類あったんだ。
　犯人による直接的な方法と、その後の、犠牲者を利用した二次災害。
　それと同じように―――」
　このゲームには、<共|・><犯|・><者|・><が|・><い|・><る|・>。
　リデルの台詞。
　槻司の疑問。
　二人一組、二心同体。
　願掛けのプロイキッシャー、スイーツハーツ。
　ああ、なんて露骨な名前だろう。
　スイーツが<本体|プリン>なら、ハーツは何を示している？
「人間だ。敵は複数形だった―――！」
　だとしたら、スイーツハーツは二人いる。
　このゲームにおいて、実行犯と人物Ａは別人なんだ……！
　プロイを使用した人物Ａ。
　そして、それに協力している実行犯。
　静希はその協力者、実行犯にすぎない。
　当たっていたけど正解じゃない。
　わたしが消えなかったのはそういう理屈に違いない。
「待て―――待って、待って待って待って……！
　それならもう答えは明白、後は、ほら、あの問題を検証すればいいだけだ……！」
　わたしは、
～選択肢Ｘ～
「よし」
　きっかり十五分で目を覚まして、姿見で全身をチェック。
　荷物からブラシを取り出して、軽く髪をとかして客室を出た。
　部屋に鍵をかけていると、一階の方から何やら聞き慣れない声が聞こえてきた。
　新しいゲストだろうか？
　廊下では聞こえて、部屋の中では聞こえなかった……部屋の防音はしっかりしている、という事だ。
「いやあ、降ってきましたねぇ。
　連休中は晴れるという話でしたが、二日目からこれとは我々もついていない」
「どうでしょう。ここに集まった人間に問題があるともとれますが。……まあ、エイリ神父に問題がないかと言えば、それはそれで首を縦に振れないのですけど」
「しっ、そういう事は思うだけで口にしちゃダメよ<唯|ゆい>ちゃん。
あ、お洗濯、ちゃんと片づけてきた？　お布団とかだしっぱなしじゃないかしら？」
「それはご心配なく。今日の面子を聞いた時点で、しっかり取り込ませていただきました。不吉な予感しかしませんでしたので」
「…………」
　新しくやってきたゲストは、教会の神父たちだった。
　声を聞きつけたのか、東館から久遠寺さんが出迎えに現れた。
「面目ない、せっかくお招きいただいたのに遅くなりました。お変わりはありませんか、有珠さん」
「貴方を呼んだ覚えはないけど、来てしまったのなら仕方がないわね。どうぞあちらに。
　<律架|りつか>さんの席しか用意していなかったけれど、急いで椅子を用意するわ」
「別段お構いなく。律架はともかく、私とエイリ神父は早々に立ち去りますから。
それと、椅子も間に合っています。いざとなれば律架が椅子になると」
「唯ちゃんひどい！
　何がひどいって、本気で人間椅子にさせられる現実とか、実力行使できる唯ちゃんとわたしのパワーバランスがひどい！
　……お姉さんに対して当たりきつすぎると思うわ、わたし」
　いろいろ面倒なので、彼らを教会組と呼称する。
　<詠梨|えいり>神父とシスター<唯架|ゆいか>は久遠寺さんの先導で居間に向かっていった。
　詠梨神父は見ての通り、楽しげだ。
　あの神父はいつも笑顔でリラックスしているので、本心ではこのイベントをどう<捉|とら>えているかは分からない。
　シスター唯架は、これまた見ての通り、不満そうだ。
　あのシスターはいつも辛気くさい顔付きなので、内心はどう思っているのか、これまた定かではない。
　そして、
「あ、金鹿ちゃんだー。チャオー♪」
　このお気楽な人も、心の底ではどんな獣を隠しているものやら。
　ま、猫の仔一匹隠れてはいないと思うけど。
「こんにちは、律架さん。
　律架さんたちも誘われたんですか、パーティー」
「ええ、ぜひ来てくださいって、アッちゃんから。
　詠梨さんと唯ちゃんにはアコちゃんから手紙があったみたい。
　……ん？　もしかして招待状の差出人って、それぞれ違うのかしら」
「そうみたいですね。わたしは静希からだったし」
　律架さんはシスター唯架の姉で、厳密に言えば教会の人ではない。
　商店街では二日に一度顔を会わす、いたって平凡な三咲町の住人である。
「それより律架さん。雨、降ってきたんですか？」
「ええ、パラパラとね。すぐに止んでくれればいいけど」
　律架さんは不安げな視線を外に送る。
　わたしは、
～選択肢Ｄ～
　―――ダメだ、考えがまとまらない！
　このまま犯人を指摘する事はできない。
　今は知能より体力勝負、とにかく逃げ切らないと！
　太陽が昇りきるまで逃げれば、このゲームはおしまいだ。
　わたしという生存者がいるかぎり、スイーツハーツの勝ちにはならない。
　嵐も止んだし、このまま町まで下りてしまえば何もかも元通りなんだ……！
「―――うそ」
　わたしは下に向かって駆け続けたのに、たどり着いたのは洋館の裏。
　ああ―――
　地面が歪んでいる。
　感覚が狂っている。
　世界は崩れている。
　わたしはきっと、何かを、間違えてしまっている。
　不意に、耳元で
　　　　　「み
な
ご
ろ
し、
お
め
で
と
う」
　一度も聞いたコトのない、世にも恐ろしい、
　近しい他人の声を聞いた―――
　そいつがすべての元凶。
　プロイとやらを起動させられたのは誰だ、とわたしは思った。
　そうだ。
　つまり、人物Ａは、
～選択肢Ｙ～
　その、もっとも分かりやすい根拠は？
～選択肢Ｚ～
「―――わたしだ」
　そう。
　この、自分の思った通りに事が運ぶ状況こそが、わたしがスイーツハーツである、何よりの証拠だった。
　スイーツハーツであるわたしは、都合の悪い事は思い出せない。
　なので客観的に考えよう。
　パーティーの日、プロイキッシャーを起動させたのは誰なのか。
　答えは『誰もいない』だ。
　プロイが保管されていた部屋は、久遠寺さん本人が施錠している。
　ドアが壁になっている部屋に侵入できる者はいない。
　トリックの可能性が提示されていないのなら、そこに“なんとかして壁を開けた”なんて可能性は除外される。
　それが推理の鉄則だ。
　故に、プロイを奪えるとしたら、それは<今|・><日|・><以|・><前|・>。
　単純に考えて、久遠寺さんが施錠する前日に入るしかないのである。
　パーティーの当日である三連休の二日目ではなく、
　間違えて一日目にやってきてしまった人物にのみ、そのチャンスがあったのだ。
　では、どうしてその人物は間違えてやってきてしまったのか？
　これも明白だ。招待状の内容が、そもそも間違えていた。
“連休のはじめに、誕生会を開きます”
　そんな間抜けなミスをした男と、
　その男に招待状を送られたのは三人。
　うちひとり、蒼崎橙子はあらかたの事情を看破していたかもしれない。けど、彼女が想像もしていなかったネタで笑わされ、リタイヤした。
　もうひとりは山城先生。
　山城先生はこう言っていた。
『今朝、招待状が届いた』と。
　みんなの招待状はもっと前に届いていた。
　なので、山城先生の招待状は郵便ではなく、昨日直接ポストに入れられた可能性が高い。
　―――仮に、その時点で静希が“人物Ａ”の協力者になっていたのなら、招待状の内容は彼らにとって都合のいいものに改竄されていただろう。
　一日目で共犯者になった静希は、二日目の朝、その日に山城先生を呼ぶ招待状を送った。彼が“間違えて人物Ａを一日目に呼んでしまった”事実を誤魔化す為に。
　山城先生は殺される為に呼び出されたのではなく、人物Ａのアリバイを偽証するために呼ばれたのだ。
　そして最後のひとり、わたしは―――
　このパーティーを、連休の一日目だと思いこんでいた。
　以上の事から、プロイを起動させる可能性があるのは、登場人物の中ではこのわたし、久万梨金鹿と静希草十郎のみ。
　日付を間違えてやってきた久万梨金鹿を、静希草十郎がどのように持てなしたかは想像するしかない。
　けど、自分の責任で無駄足を踏ませた同級生に、お菓子と紅茶を振る舞うのは、そう突飛な話ではないと思う。
　問題は、そのお菓子を静希草十郎がどこから持ち出したのか、という事だ。
「あーあ。気付いちゃったかあ。
　もう少しであたしの勝ちだったのに。あの子も予想以上にうまくやっていたんだけどなー」
　そして。
　洋館からは、わたしを追いかけてきた、さっきまで静希だったわたしが現れた。
「アンタが、スイーツハーツ？」
　膝をついた姿勢から立ち上がって、もうひとりのわたしと対峙する。
　そいつはええ、とあっさり負けを認めた。
「そう言う貴女もスイーツハーツだけどね。
　あたしはカレに化けていた方で、貴女はカノジョに化けていた方。
　でも貴女は久万梨金鹿と完全に同じだから、スイーツハーツとしての記憶を持ってるのはあたしだけだけど」
「あっそ。じゃあ消えて。これでゲームクリアでしょ。もうじき完全に日が昇るわ」
「いいの？　クリアしちゃって？
　このままなら貴女の勝ちなのに。勝者の報酬は惜しくないの？」
「……なにそれ。聞いてない。どういうこと？」
「久万梨金鹿があたしを食べる時、なにを願って、なにを迷っていたかって話。
　終わりたくない。もっと今が、この半熟卵みたいな、曖昧な生活が続けばいいと思ったでしょう？」
「なんで高校生活は三年だけなのか。
　どうして自分はあんな無駄な時間を過ごしたのか。
　なんで素直になれなかったのか。
　そういうの、
ぜーんぶひっくるめて叶えてあげるのがあたし、願掛け卵、思春期限定・女の子限定のプロイキッシャー・スイーツハーツなの。どう、納得いった？」
「納得なんていくワケないでしょ。能書きはいいし、何があったかなんて知りたくもないから。
　もうお喋りはたくさん。ノータイムでリセットよ。
　アンタは、ここで」
「え、ちょっ、だってあたしの使用条件は、片思―――」
　っていうか、そもそも、
「消えて。犯人は静希。使用者はわたし、久万梨金鹿よ」
「えぇ、そんなぁー！？　女の子にあるまじきーー！？」
　槻司が死んでるのに、願掛けも何もないっての。
それは何か、不吉な兆しなのでは、と思った。
鍵はいつも開けっ放しなのか、と思った。
これならひとりでも入れるな、と思った。
このまま居間に移動した方がいいと思った。
その前に客室の様子を見た方がいいと思った。
意味のない行動をしてみるのもいいと思った。
何か不穏。洋館に戻るべきだと思った。
気になる。確かめてみるべきだと思った。
このまま雨脚は強くなるな、と思った。
このまま雨は雹になるな、と思った。
このまま帰ってしまおうか、と思った。
数はあっているな、と思った。
数を間違えているな、と思った。
……そういえば、まだ静希を見ていないな、と思った。
これから陰惨な事件が始まるのだ、と思った。
これからトンデモな事件が始まるのだ、と思った。
槻司と組めて良かった、と思った。
大雑把に言うとパンだ、と思った。
現実的に小型爆薬だ、と思った。
犬か何かに食いちぎられたのでは、と思った。
土桔由里彦氏の死がネックだ、と思った。
たしかに一晩笑わないのなんて簡単、と思った。
……そろそろひとり足りない事を指摘すべきだろうか、と思った。
槻司の話はおかしい、と思った。
蒼崎の話はおかしい、と思った。
ベオの話はむかつく、と思った。
槻司と蒼崎の話はおかしい、と思った。
槻司とベオの話はおかしい、と思った。
蒼崎とベオの話はおかしい、と思った。
静希の話はおかしい、と思った。
久遠寺さんの話はおかしい、と思った。
わたしの話は合っているだろうか、と不安に思った。
静希と久遠寺さんの話はおかしい、と思った。
静希とわたしの話はおかしい、と思った。
久遠寺さんとわたしの話はおかしい、と思った。
詠梨神父の話はおかしい、と思った。
シスターの話はおかしい、と思った。
律架さんの話はおかしい、と思った。
それぞれ客室で朝まで過ごすべきでは、と思った。
その前に、リデルのアリバイ検証もするべきだ、と思った。
ちらっと廊下を盗み見たい、と思った。
そっとしておこう、と思った。
その意見に賛成するべきだ、と思った。
それは危険だ、と思った。
十三人目の存在がいるからだ、と思った。
電話線がなくなっていた時の、あの違和感について追求するべきだからだ、と思った。
……蒼崎をひとりにするのは危険だ、と思った。
……ここで三人の帰りを待つべきだ、と思った。
すごい死亡フラグだ、と思った。
そういえばあの人も……、と思った。
あとは安心して眠れる、と思った。
……本当にそうだろうか？　と思った。
１４時～１６時の間？　と思った。
１６時～１８時の間？　と思った。
１８時～２０時の間？　と思った。
２０時～２２時の間？　と思った。
２２時～０時の間？　と思った。
か、鍵をかければ安全だし、そんなことされたら逆に眠れない！　と思った。
そ、そういうコトなら、仕方がない、と思った。
朝まで逃げるべきだ、と思った。
犯人を推理すべきだ、と思った。
蒼崎 青子
久遠寺 有珠
静希 草十郎
蒼崎 橙子
槻司 鳶丸
次へ
木乃美 芳助
久万梨 金鹿
ルゥ・ベオウルフ
文柄 詠梨
周瀬 律架
次へ
周瀬 唯架
山城 和樹
土桔 由里彦
メイ・リデル・アーシェロット
戻る
久遠寺さんは本当に潔癖か？と思った。
土桔氏はどうして誕生会を？と思った。
殺人は二種類に分けられる？と思った。
律架さんのピッキング……！と思った。
名は体を表す、と思った。
魔力とやらを持っているのは誰だ、と思った。
プロイとやらを起動できたのは誰だ、と思った。
常にみんなに見られていたのは誰だ、と思った。
蒼崎 青子
久遠寺 有珠
静希 草十郎
蒼崎 橙子
槻司 鳶丸
次へ
木乃美 芳助
久万梨 金鹿
ルゥ・ベオウルフ
文柄 詠梨
周瀬 律架
次へ
周瀬 唯架
山城 和樹
土桔 由里彦
メイ・リデル・アーシェロット
戻る
はじめから間違えていたからだ、と思った。
最後まで生き残ったからだ、と思った。
そもそもこの、思った通りになる選択肢こそが証拠だと、わたしはようやく確信した。